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イディオムとイディオット(語法と愚者)

イディオムとイディオット(語法と愚者)

──ある即興演奏のコンサートについての11のパラグラフ

文:ジャン=リュック・ギオネ、マッティン、レイ・ブラシエ、村山政二朗   訳:村山政二朗 Jun 12,2020 UP

3 コンサート中

コンサート直前、サウンドチェック中に判明したのは、我々の相互反応の仕方についてある決定をすべきだいうことだった。というのは、メンバー相互の結びつきが余りにも明白すぎたからである。そこで、我々は行為とそのリアクションに制約をかけるような構造を考え出した。コンサートの長さは45分、これを15分ずつの三つのセクションに分け、各自、その一つか二つを選んで演奏できることにした(全てのセクションでの演奏は不可)。ただし、どのセクションでも演奏しなくても良いという可能性は残した。こうして、コンサート中、もし無音状態が生じるなら、それは15分から45分(皆がどのセクションでも演奏しない場合)までの長さになる可能性ができた。実際、結果的にはなんらかの理由で我々はこのルールを侵害したにせよ、この構造により充分非慣習的な相互反応の仕方が生まれた。

このコンサートを思い返してみるに、我々の主な目的の一つはその雰囲気をできるだけ濃密にすることだった。ニオールでは、各人がこの密度の追求を実現すべく奮闘した。個別にそうしたにもかかわらず、我々は集団的にヴォルテージを上げることになんとか成功した。これは紋切り型の相互コミュニケーション形態に訴えていてはうまくいかなかっただろう。たとえば、メンバーの一人は、普段は使わないチープなエレクトロニクス装置と声だけで演奏するという選択をしたが、コンサート全体の時間の三分の二を一人で演奏したことは非常に強い体験だったという。もう一人の音楽家もこの密度を一種の賭けとして体験するが、それは、いつ演奏すべきかだけでなく演奏するか否かについての賭けでもあった。ところで、全く演奏しない可能性は極めて強い誘惑であった。なぜなら、それはこのリスクの高いコンテキストで演奏するという決定に必然的に伴う、人に笑われることを回避する安易な方法となるからであった。結局、コンサートの密度は、いわば下に何があるのか知らず非常な高みから跳び下りる挑戦のような形を取ったのである。

4 臨床的な暴力

コンサート中に何を成し遂げたいかを議論し始めたとき、我々は、冷たい、あるいは臨床的な暴力の達成について語り合った。こうして、もし人が問い質すならば、馬鹿げていることは明白な(不名誉とは言わぬまでも)目標を設定した。すなわち、人々を叫ばせることである。
実際、少なくとも聴衆の一人はコンサート中、自発的に叫んだ。これは、雰囲気の密度が高まり過ぎ、身体に過酷な影響を及ぼす時に起こることかもしれない。なぜ、こんなことを達成したかったのか? 多かれ少なかれ美学的に心地よい抽象的な音作り、そして個人的な音楽趣味の再認につきものの好き嫌い、この二つを乗り越えたかったからだ。

もちろん、我々は音楽がある種の内在的な情動の次元を持っているとは信じないし、感情的なロマン主義に対するモダニストの批評を喜んで取り入れる。しかし、この批評はそれだけでは不充分だ。それは余りにも頻繁に一種の審美的形式主義を奨励してきたのである。我々は、麻痺させるようなダブルバインド状態を切り裂きたいのだった。つまり、修辞的表現主義による感情的インパクトか、用心深く撤退する形式主義による反省的明晰さ、この二つの間のダブルバインドである。我々が達成したかったのは理論的、根本的に要求が厳しいものだった。重要なことは、ある種の心理的、認知的動揺を招くような音楽表現のゆがんだモードを見つけることである。この音楽表現は他方、演奏家のであれ、聴衆のであれ、情動的な紋切り型と安易すぎる感情的満足感を破棄するものである。

音楽において暴力とみなされることは、余りにも頻繁に一連のショックを与える行為(不協和音、騒々しさ、演劇的威嚇と呪詛、等)から成り立っている。我々は別のことをやってみたかった。それは我々自身と聴衆を曖昧で、平静を失わせる試練にかけることである。
すなわち、即興演奏および音楽技術の技巧の誇示を控えることにより、我々演奏者と聴衆をすぐに見分けがつく快適なゾーンから押し出すこと。たしかにそれは「暴力」ではあるが、特別に考え抜かれたものだ。また明らかに、それは身体的である必要はない(しかし、身体的ではありえないとか、そうあるべきでないということではない)。しばしば、この暴力は心理的であり、願望、感情移入、注意、期待に関わる。また、この暴力は単純に満足することの拒否から生まれる一方、自己反省のレベルが建設的なフィードバックに高まるまで、当事者各人の動機を問いかけるのである。

このように、我々の興味を引く暴力は自発的なものではない。それは、規律があり、計算され、強い決意で動機づけられたものだ。この意味で「政治的暴力〔violence politique〕」と呼ばれているものに類似性を持つ。この暴力は実践における主観的取り組みの核から生じ、その目的達成時には単なる生理を越えた何かに触れる。それは紋切り型の再現や既成の表現のカテゴリーの外に出る。いや、そう言うだけでは充分ではない! いったい誰がそれを実行するのか? それは多分、馴染みの快適なゾーンを切り開き、全く思いがけない角度から自己を表現しようとする愚者だろう。
我々のうちの愚者は、我々のうちの非‐愚者に追い詰められたと感じる。あたかもゴムバンドが彼を自分の周りに縛り付けているかのように。このゴムバンドとは、人が深く関与する状況において、あらゆる保守的特性が自己に及ぼす圧力のことである。このバンドはある時点で若干きつくなり過ぎ、いつ切れてもおかしくない恐れがあるが、愚者にはこの圧力の性質と自己に及ぼす影響について考える時間がたっぷりある。その中心には、受け入れられている規範、すなわち、作業をするコンテキストに固有な現状を再現しうるあらゆることがらがある。自由即興演奏のコンテキストにおいてこれらの規範が含むのは、ノウハウ、超絶技巧、美学、好み、そして、演奏者の相互反応や聴衆への反応が演奏家にとって持つ意味についての先入観、さらに、コンサートの状況を条件づけ再現する習慣、音楽がどうみなされているか、などである。

これらの問題を長いあいだ考え、ついに袂を別つべきものが極めて明らかになったとき、あるいは、もはや待つことができなくなったとき、人は石を飛ばすパチンコになるのである。もちろん、これに伴い得るのは、即興演奏のコンサートに内在するとみなされる価値の基盤の破壊である。計算できないリスクが現れた。そして、この記述が絶望的に思われるかもしれぬ一方で、そのような暴力に伴う絶望は全くない。
先に問題とした圧力は現状のそれであるにせよ、この暴力がいったん発生すると、圧力は現状に無関心になる。なぜなら、この暴力は想像できる最も単純なやり方でそれにとって代わるからだ、あたかも何も例外的なことは起きていないかのように。人々は暗闇の中におり、ようやく闇に慣れてきたところで誰かがこの闇を問いかけるようなものだ。彼はこうして人々に恐怖を引き起こし、強いられる闇を暴力として感じさせるだろう。これが臨床的な暴力の意味である。臨床的暴力の精度とは狙撃者のそれであるか、あるいは正常さの見せかけ、あるいは自然と考えられていることを切開する外科医のそれである。これを暴力行為として経験する者がいるかもしれないが、愚者にとってそれは単に必要なことに過ぎない。外科用メスが、問われず、語られもせぬ、コンサートの状況を保持させる即興演奏のルールの基盤を切開するのだ。しかし、外科医と違い、愚者ははっきりした目標も、同定可能な切除すべき嚢胞(のうほう)もない。重要なことはその切断にある。そこから、皆自らの結論を引き出すことができる。愚者は構造のない、あるいは分類できない視点から現実を眺める。愚者の介入には拠り所がなく、アナーキー〔an-archic〕である。全体的な意見の一致も全体的理解もない。この意味において我々も愚者である。

5 11の何も言わない方法

1. 「何も言うことがない」から「何か言うことをみつける」へ。この動きに任せ、自分自身の位置を変えることにより。

2. コンサートについての問題をめぐり、音楽と哲学が出会った、なぜかは知らず。いずれにせよ我々は何かを変えたかった。

3. コンサートとは何であるかについて、我々は意見を交換し効果的な実践を見つけようとした。主に、コンサートで出来れば見たくないことを定義することにより。

4. こうして因習的なコンサートの枠組みがずらされた(それは視野を拡げ、聴くということを更新するための様々な可能性を生むだろう)。しかしながら、我々は何をして良いのかわからなかった。

5. 我々は一種のコンサート、非‐コンサートを行なった。さて、Aと非‐Aとの関係は何か?

6. 心理的葛藤と熟考の間のテンションにより採択されたひとつひとつの決定が我々のエネルギーの源だった。そして、このプロジェクトは我々の音楽家あるいは哲学者というアイデンティティーを突き崩した。音楽家であるか否かは別として、人は誰でも音楽に存在を与える、それに命を吹き込む時には音楽的であるのでは? 同じことを哲学にも言おう。さあ、同時に音楽的、哲学的、等々であれ、(コラボレーション〔collaboration〕という語のなかには労働〔labor〕という語が見つかるが、通常、コラボレーションする当事者たちはそれぞれのアイデンティティーを転覆させたり、他のアイデンティティー、未知のXへスライドする試みには積極的でない。あるいは、安易なスライドは見つけるに事欠かない)。

7. 哲学と音楽を括弧に入れ、自己の職業を自分自身から引き離すことで、至極単純に、我々は感じ、行為し、反応し、考える人間だと自らを確認する。そう、もはや我々自身を感じない経験(我々はあまりに疲れ過ぎ、時に自分の職業に閉じ込められてさえいないだろうか?)。

8. 堰き止めようとするならば爆発の恐れある、計り知れぬエネルギーで満たされた、我々の内なる深い沈黙……この名づけ得ぬゾーンこそがわれわれの言語活動の経験のもとにあるのだろう。おそらく、そこに我々はいた。

9. かくして、聴衆はこの経験を共有するように誘われた。中には我々が醸しだした緊張感の衝撃にまともに呑まれている者もいるように思われた。いわゆるコンサートへの期待もどこかに置きさったまま。

10. ひとたび、非‐コンサートが終わると、我々は作業を再開した。この語りがたい経験を言葉にしようとした。このテキストがその試みである。

11. 毎回、紋切り型に陥らずに行なおうとすること。それは日々の活動を更新し、刺激し、活性化する。それがもはやそうではないところまで。

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