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sound cosmology - 耳の冒険

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第3回 FULXUS

松村正人 May 12,2010 UP

終わりなき日常のフルクサス〈三〉
1984ヨーゼフ・ボイス〈二〉

 マルチプルとは、既製品をそのまま使ったり、簡単に手を加えたりした普及版の美術品で、一点ものより安価で売られる。ボイスは生前800点ほどのマルチプル作品を制作しており、今回の展示の大半もマルチプル作品だった。私は前回、草月会館でのナム・ジュン・パイクとのアクション「コヨーテ・」をとりあげたが、これは展示の最終部にあたる第9室のものであったのでそこに来るまで多くのマルチプル作品の間を縫ってきた。材料は、木材、フェルト、既存もしくはオリジナルの印刷物、ネガフィルム、映像フィルム、ラッカー盤やヴァイナル、ビンとかカンとか多岐にわたり、いずれの作品もボイスの手を経るか監修を受け、エディションが付されているものがほとんどである。ややばらつきはあるものの約30×21×6センチの直方体の前面をとりはらった木箱に鉛筆で書きこみをした「直観」、オープンリールの録音テープを厚手のフェルトに埋めこんだ「ヤー、ヤー、ヤー、ヤー、ヤー、ネー、ネー、ネー、ネー、ネー」、ボイスがじっさいに使った橇を作品化した「そり」を普及版化したマルチプルの「そり」、よくしられた「フェルト・スーツ」や、レモンの酸性成分によってうまれる電流で電球に光を灯す指示のある「カプリ・バッテリー」 ―はボイスが日本を去った85年の作品なのだけど― など、事物とその組み合わせで一見して不可解だがそのウラに素朴な思考の跡があるマルチプル作品は、ボイスの哲学を他者に喚起させる非限定的な「任意の触媒」だが、彼の哲学は彼の履歴が背景にあるせいで神話的ですらある。

第二次大戦中、ドイツの空軍兵だったボイスはクリミア半島上空でソ連軍に撃墜され、重傷を負ったが遊牧民のタタール人に助けられた。脂肪を塗られフェルトでくるまれたおかげで一命をとりとめたことから彼はフェルトと脂肪を長くモチーフにしてきたが、それらの素材はマルチプルになることで、アーティスト、政治活動家、教育者、思想家=ボイスの本文をおぎなう脚注として、この美術史上の巨人の神話性を強化するようにふるまいはじめるが、しかし私はボイスの神話性とはほんとうはシカメ面で考えこむものでもない。
「1921年、クレーフェ、絆創膏を貼った傷跡展。1922年、クレーフェ、近郊モルカライの牛乳展。1923年、コップ一杯の口ヒゲ展(内容はコーヒーと卵)。1924年、クレーフェ、異教徒の子たちの公開展~」とつづく彼の有名なジャーマン・ジョークみたいな自筆年譜(ボイスは1921年、クレーフェに生まれた)を真に受けるべきというか、ボイスの神話が体温をもち、偉人伝の枠をはみだして、演劇的にツクリモノめいてくることに私は無上の喜びさえ感じる。フルクサス的といっていいそのユーモアには思考を外側へ浸透させるものがあり、その目でみてまわると驚くのだ。初期の素描を再編したリトグラフの筆の運びの見事さ、シルクスクリーンや写真作品のデザインの素朴な力強さ、既製品をマルチプル化した資本主義批評であり、デュシャン的でもウォーホル的でもある一連の「経済の価値」シリーズのマルチプルでさえ、そこにはやはり厳密な審美眼を感じた(もっともデュシャンのシュールなエスプリともウォーホルのポップさともちがうボイスのマルチプルは、三者を順番にデュシャン=レコメン→ボイス=クラウト・ロック→ウォーホル=パンクと並べるとしっくり......こないかもしれない、時代背景もまるでちがうし。また普及版であるマルチプルは原曲とリミックス、原曲とエディットの位置にあるとすると、マッシュ・アップではない。ザ・KLF的な非合法性はない。音楽と決別して活動を休止したKLFは作品をまるっきり発表しなくなり死んだデュシャンを思わせる(死後に遺作が発見されたが、KLFもそうなるのだろうか)。

 とはいえ、妻は「いまの潮流にはデュシャンのアイデアのためのアイデアや、ウォーホルのような色彩のあるポップさより、ボイスの落ち着いた、渋さがふさわしいでしょうね」といい、私はそれに同意した。

 私たちはいっしょに水戸芸術館にはいっていた。私はマルチプルひとつひとつを丹念にながめていたが、妻は興味のある作品を中心に見てまわった。娘は第2室にあった加工前のフェルト原料の7本のロールを作品化した「プライト・エレメント」をさわったのを注意されやる気がなくなり、義父母は「あーうーん」とう唸りながら足早に先に歩いていった。彼らは早々にちりぢりになった。彼らのうち誰がただしい鑑賞者だったのだろう。

 会場でもらったパンフレットにはこうある。
「ボイスは本当の資本とは貨幣ではなく、人間の創造性だと語り、わたしたちが生きる世界や社会を、人間の創造性によって未来へと造形する「社会彫刻」の概念を提唱しています。そして、その「社会彫刻」に関与するための潜在能力が備わっている存在として、「人間はみな芸術家である」と語りました。こうして、ボイスは社会に積極的に関与する新しい芸術/家のモデルを提示したのです。」

 これがボイスの代表的な言葉である「すべての人間は芸術家である」であり、「社会彫刻」である。

 ここで流通/交換可能な貨幣のアナロジーになっている創造性とは特定の行為でなく、また、生活の創造性という恣意的なものでもない。「私は芸術家ではあるが、それはたいしたことではない。どんな芸術的な行為も社会の光の中に出なければ輝かない」とボイスがこの展覧会の映像資料のひとつで語ったように、創造性が芸術の社会化であると仮定するなら、社会彫刻では、たがいに触発され啓蒙し合い、積極的にそこに関与する任意の人たちの共同体が作り手となり、芸術家は中心から退く。共同体ではボイスのアクションのひとつの手法でもある「対話」が重視され、対話を通して社会彫刻は構築物としての志向性がきめられる。私はここに、ボイスのマルクス主義(もっといえばプラトン主義で古典的な弁証法)への愛憎と、理想主義者としての倫理と、またすこしの危うさを感じもする。第二次対戦の残響とみえなくもない。その危うさとは、68年5月の革命(とバタイユと)をふまえ、共同体をもちえない者の共同体を友愛(フラタリティ)さえもちだし論じたブランショの『明かしえぬ共同体』に指摘された全体主義への親和性の要件をボイスの思想が一見して満たすということだ。

 私はそのことを考えると黙りそうになるが、ここまで読んでこられた辛抱強い読者よ、思い出してほしい。戦争で死にかけてタタール人に助けられた彼は、西洋と非西洋の境界線で生と死の境目をただよった男でもあった。私は誤解を承知でいえば、ボイスの獣性と理性が混じり合った彼の作品に惹かれてきたと、今回の回顧展をまわって気づいたのだった。アイデアのスケッチにすぎない(?)マルチプルの野趣はディオニュソスというほどむこうみずではないけれども、飼い慣らされない荒々しさで水戸芸術館に転がっている。私は順路をめぐりながら、彼のトレードマークである茶色の十字架や、「野兎の血」と題した作品のビニール製の封筒のなかで、4・のウサギの血がまるでこのあと食卓でだされるクジラの肉にはりつきニコゴリを連想させる凝血になっているのをみながら、「キリスト教的というよりこれは、キリスト教前史というか、ヘルマン・ニッチュとかのウィーン・アクショニストのジオラマみたいだよなー」とつぶやいている。

 そして私は、思わず作品にさわってしまった娘の手に残ったフェルトのザラついた感触と同じ位置に作品をみる行為を置くこと、現在の時制のなかで彼の作品を回想しつづけることで、美術史にすでに固有の場所を占め、象徴的にさえなってしまったヨーゼフ・ボイスという巨大な構築物をガウディのあの教会のように未完の現在につなぎとめることができるのだと思った。

 これこそ、ボイスの行為/芸術(芸術/行為も可)のアルケミーである。

 

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