ele-king Powerd by DOMMUNE

MOST READ

  1. interview with Larry Heard 社会にはつねに問題がある、だから私は音楽に美を吹き込む | ラリー・ハード、来日直前インタヴュー
  2. The Jesus And Mary Chain - Glasgow Eyes | ジーザス・アンド・メリー・チェイン
  3. 橋元優歩
  4. Beyoncé - Cowboy Carter | ビヨンセ
  5. interview with Keiji Haino 灰野敬二 インタヴュー抜粋シリーズ 第2回
  6. CAN ——お次はバンドの後期、1977年のライヴをパッケージ!
  7. interview with Martin Terefe (London Brew) 『ビッチェズ・ブリュー』50周年を祝福するセッション | シャバカ・ハッチングス、ヌバイア・ガルシアら12名による白熱の再解釈
  8. Free Soul ──コンピ・シリーズ30周年を記念し30種類のTシャツが発売
  9. interview with Keiji Haino 灰野敬二 インタヴュー抜粋シリーズ 第1回  | 「エレクトリック・ピュアランドと水谷孝」そして「ダムハウス」について
  10. Columns ♯5:いまブルース・スプリングスティーンを聴く
  11. claire rousay ──近年のアンビエントにおける注目株のひとり、クレア・ラウジーの新作は〈スリル・ジョッキー〉から
  12. 壊れかけのテープレコーダーズ - 楽園から遠く離れて | HALF-BROKEN TAPERECORDS
  13. まだ名前のない、日本のポスト・クラウド・ラップの現在地 -
  14. Larry Heard ——シカゴ・ディープ・ハウスの伝説、ラリー・ハード13年ぶりに来日
  15. Jlin - Akoma | ジェイリン
  16. tofubeats ──ハウスに振り切ったEP「NOBODY」がリリース
  17. 『成功したオタク』 -
  18. interview with agraph その“グラフ”は、ミニマル・ミュージックをひらいていく  | アグラフ、牛尾憲輔、電気グルーヴ
  19. Bingo Fury - Bats Feet For A Widow | ビンゴ・フューリー
  20. ソルトバーン -

Home >  Features >  Interview > interview with Terry Farley - ロンドン少年“サマー・オブ・ラヴ”専科

Interview

interview with Terry Farley

interview with Terry Farley

ロンドン少年“サマー・オブ・ラヴ”専科

――テリー・ファーレイが半生を語る

取材:与田太郎   通訳:Kimura Moscow Kyoko    Jun 29,2011 UP

まわり中のソウル・ボーイがセックス・ピストルズの出現とともにあっという間にパンクになった、それからみんな自分の音楽を作りはじめたよ。うまいとかへたとかをまったく気にしないでね。みんなレコードを作りはじめた、スティーヴィー・ワンダーのようにうまくなくてもいいんだ。

1968年のスキンヘッズってどんなものだったんですか?

テリー:彼らがたぶんオリジナルのスキンヘッズなんだと思うけど、黒人のコミュニティとも仲がよくて、スカやソウルを聴いて、黒人と同じようなもの、アメリカ風の服やイギリスのワークウエアを着てる若者だね。80年代のスキンヘッズのような右翼的な政治性はまったくなかったんだ。髪型もほんとのスキンでなくベリーショートって感じでね。それが1971年までのロンドンの若者だね。
 それ以前、62年ぐらいからは、モッズ・ファッション、ロンドン中のすべてのキッズがモッズだった。67年、ビートルズが『サージェント・ペッパーズ~』を出したあたりからは、サイケデリックなファッションが流行りだしたけど、当時のスキンズはそのサイケデリックに行きたくないエクストリーム・モッズだったね。だからみんなソウルやスカを聴いていた。でも面白いことに1972年以降そのスキンヘッズも髪を少しのばしてフレアパンツをはくんだ。そのヘアースタイルをスウェードヘッドっていうんだけど。デヴィッド・ボウイの『ジギースターダスト』の頃の髪型わかる? あれ。もちろんロキシー・ミュージックとかも聴いていたけど、ロンドンではノーザンソウルの流れがやってくるんだ。

その後、あなたがティーンネイジャーの頃はどうでしたか?

テリー:僕は16歳で高校を中退して、ガスの配管の仕事をはじめた。その仕事をはじめて1~2年したあたりで、すっかりアメリカのソウルにはまってしまって、完全なソウル・ボーイだったよ。毎日踊りに行くようになって、だんだん仕事にもいかなくなってね、結局もっと休めるバイトに切り替えて、あまりかしこい方法ではないけど(笑)。
 1975年、まわりの同年代はほんとにアメリカのソウルに夢中で、まさにパンクの1年前だよ。髪の毛をブロンドや赤に染めて、短くしてアメリカ製のファッションをしてた。その頃から僕も自分で音楽をやりたいと思いはじめた、ディジー・ガレスピーやラロ・シフリンなんかの当時よく聴いていたアメリカのジャズ・ミュージシャンに憧れてね。でも彼らは本物のミュージシャンだった。とてもあんな風には音楽を作ることはできなかったよ。僕らにはまだコンピュータもなかったしね。
 そして1976年、突然パンクがはじまるんだ。まわり中のソウル・ボーイがセックス・ピストルズの出現とともにあっという間にパンクになった、それからみんな自分の音楽を作りはじめたよ。うまいとかへたとかをまったく気にしないでね。みんなレコードを作りはじめた、スティーヴィー・ワンダーのようにうまくなくてもいいんだ。

とはいえあなたはパンクには行かなかったですよね、なぜですか?

テリー:ちょうど70年代の後半にロンドンでもナショナルフロントが大きな勢力をもちはじめてね、パンクスやスキンズはときにそういう行動するやつも多かったからね、それとマッチョなスタイルが好きじゃないんだ。僕はやっぱりソウルが流れるクラブが好きだったし、そこには黒人のキッズやたくさんのジャマイカ移民の友だちもいた。僕は彼らととても仲がよかったから、パンクに行くことはなかった。僕らがいたコミュニティもいろんな人種がいることでとても面白い状況だったよ。

じゃあ、ザ・クラッシュがレゲエを取り入れたり、ザ・スペシャルズに黒人メンバーがいることなんかはどう思ってました?

テリー:スペシャルズやクラッシュを聴くには、僕はもう年をとりすぎていたよ。もう20歳を超えていたからね。あれはティーンネイジャーのための音楽だったからね。ほんとに熱心に聴いていたのは12~13歳のキッズだよ。僕はその頃レゲエが大好きだったから、〈2トーン〉は聴かなかった、1979年のロンドンはラヴァーズロックが大流行したから、デニス・ブラウンやグレゴリー・アイザックなんかだね。ラヴァーズ・ロックってソウルのカヴァーが多いだろ、それもよかった。
 それに僕たちはもっとピュアなソウル・ボーイだったから、お金は洋服につかっていた。ちょうどデザイナーズ・ブランドが出て来たころだしね。キングスロードにザパータっていうマロノ・ブラニックの初めてのデザイナーシューズの店やブラウンズっていうゴルチエやヨージヤマモト、ギャルソンの服を初めてロンドンに置いた店なんかがお気に入りでね。ザパータでは当時マロノ・ブラニックがお店にいて、僕らが行くと「ファンタスティック! 若い人がきてくれるなんてうれしい」って言ってくれたよ、もちろん値段は高かったけど。ブラウンズはいまでもあるはずだよ。そいうお店が大きな影響力を持っていたね。

当時のあなたのいたロンドンのカルチャーを描いた、例えば『さらば青春の光』みたいな映画や本はなにかありますか?

テリー:そのものを描いたわけではないけれど、僕らの世代にもっとも大きな影響を与えたのは『アメリカン・グラフィティー』だよ、でも音楽じゃなくてファッションだけどね。音楽はどうでもよくて(笑)、映画が上映されるとキッズはみんなボーリングシャツにリーバイスになってしまった。それにアメリカのヴィンテージ・カー。この映画のおかげでアメリカの古着がマーケットに溢れたのを覚えているよ。そう、毎週土曜日なるとキングロード・クルーズといって、自慢の50年代や60年代のヴィンテージ・カーに乗ってテッズがパレードするんだ。数千人の見物客がいてね、まだ15歳ぐらいだった僕もよく見に行ったよ。いまでもバタシーパークを中心にやってるんじゃないかな。それだけフィフティーズ・ファッションは人気があった、音楽は別だけどね。
 スキンヘッズやソウルボーイについて言えばリチャード・アレンの『Skinhead』*(2) だね、すべての12~13歳ぐらいの子供はスキンヘッズだったよ! この物語は『Suedehead』、『Smoothies』と続いていくんだけどすごく影響力があった。まさに60年代~70年代のロンドンのストリートの話で、主人公はチェルシーのファンなんだよ! おもしろいことに60年代のロンドンの下町は話言葉もちょっと違っていて、アクセントや言葉の意味なんかも独特だったんだ、いわゆるコックニーだね。これはマーケットでよそものを騙すというか、そこでしか通用しない隠語で会話するんだけど、ちょっとでも多くのお金をまきあげる方法なんだよね。例えば階段のことを「アップル・アンド・ペアーズ」っていうけど、眼の前にいるよそ者にわからないように会話する方法なんだ。それがコミュニティをつなぐ重要な役割をしてたよ。これは多分ヒッップホップのコミュニティーとかでもそうだろう? ロンドンではコックニーとジャマイカンが混じったブラックニーという言葉があるよ。もう年をとった僕にもまったくわからない、いまのキッズの言葉もね(笑)。
 その言葉でラップするアーティストもいるよ、レディー・ソヴァリンっていうんだけど。彼女はキッズのクィーンだよ。トラックはダブステップやUKファンキーなんだ。現代のソウル・ボーイはUKファンキーやダブステップを聴いてるね、いまのシリアスなゲイ・シーンもそう、黒人の若いゲイが集まるパーティがアンダーグランドで盛り上がっているけど、そこでもUKファンキーやダブステップだよ、ファッションはまったくギャングスタ・ラッパーみたいだけど、話すととてもフェミニンなんだ、そんなことがはじまってるよ。

80年代になるとクラブにはまりますよね、どんなクラブに行きました?

テリー:コヴェント・ガーデンに〈シャガラマ〉というゲイ・クラブがあって、毎週土曜日にはかならずそこに行ってた。ベニーってDJが最高だった。コヴェント・ガーデンもまだ観光地じゃなくて、ほんとにマーケット(青果市場)だった。その奥のほうの倉庫が小さなクラブになっていて、年を取ったゲイが集まるクラブだった。いまのゲイ・クラブみたいに裸の男がいるようなクラブじゃなくて、とてもジェントルな雰囲気だった。そこに僕らのような20歳前後の若者がヴィヴィアンの服を着て、くるくる踊ってるんだよ。そこに集まるゲイはスーツを着て、たぶんビジネスマンなんだろうな、静かに僕らを見ながら酒を飲んでるんだ。ときどきおごってこれたりしながら、でもその安全な感じがよかったんだ。いまのゲイ・クラブとはほど遠いけどね。なぜならロンドンの他のクラブは酔っぱらいのケンカも多いし、まだ町にはたくさんのテッズがいた、彼らは、僕らがピンクのズボンとかはいてるとからんでくるし、黒人に対してもそうだった。そのクラブはそういうやつらに会わないし、もちろん音楽もアメリカのファンクやソウルだったしね。


1983年、若き日のテリー・ファーレイ。

脚注
(2)リチャードアレン『Skinheads』
スキンヘッズのライフスタイルやファッションの移り変わりを、暴力とセックスを交えて赤裸々に描いたティーン向けの冒険小説。
http://www.users.globalnet.co.uk/~jimthing/allen.htm

取材:与田太郎(2011年6月29日)

12345

TWEET

yasusii「まわり中のソウル・ボーイがセックス・ピストルズの出現とともにあっという間にパンクになった、それからみんな自分の音楽を作りはじめたよ。うまいとかへたとかをまったく気にしないでね。スティーヴィー・ワンダーのようにうまくなくてもいいんだ」 http://t.co/DiS608yYZq@yasusii 11.30 11:45

kool4plus1interview with Terry Farley - ロンドン少年“サマー・オブ・ラヴ”専科 | ele-king https://t.co/JkLqtCAYVA @___ele_king___さんから@kool4plus1 11.29 04:52

littlebird_songinterview with Terry Farley ロンドン少年“サマー・オブ・ラヴ”専科 | ele-king https://t.co/y2ilkZrEjy@littlebird_song 11.26 23:30

INTERVIEWS