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interview with Traxman

interview with Traxman

ゲットー・ハウスの精神

──来日直前のトラックスマン、インタヴュー

野田 努    通訳: Kent Alexander(Pan Pacific Playa)    Aug 04,2014 UP

Traxman
Da Mind Of Traxman Vol.2

Planet Mu/Melting Bot

FootworkJukeGhetto

Amazon iTunes

 本当に暑い。夏の真っ直中だ。少しでも身体が動けば汗が噴き出る。え? フットワークだと? 
 人生に「たら」「れば」はないが、自分がいま20歳ぐらいだったら「シカゴのフットワーク以外に何を聴けばいい!?」ぐらいのことを言っていただろう。そして、DJラシャドが逝去したとき、本気でシーンの行く末を案じたに違いない。DJラシャドは、衝動的とも言えるこの音楽に多様な作品性を与えた重要なひとりだった。
 DJラシャドの他界の前には、シカゴ・ハウスのパイオニア、フランキー・ナックルズの悲報もあった。シカゴはふたりの大物を失った。
 で、しばらくするとトラックスマンの『Da Mind Of Traxman Vol.2』がリリースされた。
 以下のインタヴューで本人が言っているように、前作『Vol.1』と同じ時期に作られたものだそうだが、マイク・パラディナスの選曲だった『Vol.1』に対して、今作『Vol.2』は自身が手がけている。ヨーロッパからの眼差しをもってパッケージしたのが前作で、シカゴ好みが全面に出ているのが今作だと言えよう。どうりで……
 豪快な作品である。笑えるほどの大胆なサンプリング使いとユニークで力強いビートは、この音楽の勢いが衰えていないことの証左でもある。圧倒的なまでにファンキーだ。
 しかも……この猛暑のなか、トラックスマンは来日する。くれぐれも充分に水分を取ってから、ギグに向かおうじゃないか。

“ゲットー”は心理状態や人格だ。住んでいる場所や経済状況ではない。ゲットー・エリアに住んでいた奴がゲットーな街を出て行っても、そいつはゲットーなままだ。ネガティヴな意味で使われがちだけど、俺はポジティヴな意味で使う。ハングリーさとかそういうメンタリティを表しているからな。

海法:〈Juke Fest〉はどうでしたか? 今回は〈Booty Tune〉のD.J.AprilとD.J.Fulltono、あとダンサーのWeezy (SHINKARON) もいました。日本人がシカゴの現地のシーンへ訪問することをどう受け止めていますか?

トラックスマン:〈Juke Fest〉は最高だったよ。日本でジューク/フットワーク・シーンを広めてるDJやダンサーがジュークのメッカ、シカゴに来てくれた事は物凄く意義があったと感じている。シーンの現状を見せることが出来たし、彼らをシーンのパイオニアであるJammin' GeraldやDJ Deeon、X-Rayとか若手のSpinnやK.Locke、ダンサー集団のThe Eraに紹介することも出来たし、双方にとって素晴らしい機会になった。〈Dance Mania〉の本社にも連れて行ったよ。

DJラシャドの死についてまずはコメントをください。彼を失ったことはジューク/フットワークのシーンにおいて、どのような意味を持っているのだと思いますか?

トラックスマン:ラシャドの死についてコメントするのは本当に難しいな……。シカゴにはラシャドをDJとしてだけでなく、個人的に親しくしていた人もたくさんいたから彼の死はとても衝撃的だった。実際に会って話をして、彼を『DJ Rashad』ではなくひとりの人間として接すると、本当に素晴らしい人間だということがすぐにわかるし、そういう人たちにとってのショックは計り知れない。彼を失ったことは非常に残念だけど、彼がこの世を去った後もシカゴのプロデューサーやダンサーはかならずこのシーンをさらに世界中に広めようと心に誓っている。

少し前にフランキー・ナックルズが亡くなり、DJラシャドまで亡くなるというのは、シカゴ・ハウスの歴史を知るあなたにとって重い出来事だったと思います。

トラックスマン:そのふたりが亡くなったのは1か月も離れていないんだ。ラシャドとは17〜8年の付き合いだったので、本当の親友を失ったと感じているよ。フランキーの死に関しては、シカゴ全体がショックを受けたニュースだった。ハウス・シーンを最初期から見ている古い世代がもっともショックを受けていると思う。もちろんそれはシカゴに限ったことではなくて、世界中のハウス・ミュージック好きにショックを与えた出来事さ。いい出来事も、悪い出来事も、受け入れなくてはならない。

いまはジューク/フットワークのシーンは日本にも広がっているときだったので、彼の死はとても残念でした。とくにDJラシャドは音楽的な才能に恵まれた人だったし、あなたとはもう古い付き合いだったと思います。ぜひ、彼と出会った頃の話を聞かせてください。

トラックスマン:日本にジューク/フットワーク・シーンがここまで広まったのは本当に素晴らしいことだ。今度の来日も出来る事なら1ヶ月くらい滞在したいよ。
 ラシャドに出会ったのは、1997年か98年のことだな、あるパーティでRP Booに紹介されて初めて会った。その後しばらく会わない時期があったけれど、仲が悪かったわけでは決してなくて、DJでお互いの曲をプレイしていたりもした。2004年に再開して、そこからは完全に意気投合して、シカゴのウェストサイドで「K-Town 2 Da 100'z」というミックステープを俺とラシャド、スピンの3人でリリースしたりもした。その頃ラシャドとスピンはDJ Clentの〈Beat Down〉クルーに所属していたんだけど、それを抜けて俺を含めた3人で〈Ghettoteknitianz〉クルーを始動させた。そこから新しい時代が幕を開けたと言っても過言ではない。もちろん当時は俺らのやってる音楽がここまで大きなものになるなんて誰も予想すらしていなかったけどね。

あなたは子供の頃からディスコ、初期ハウス、ガラージ・ハウスを知っているし、そしてロン・ハーディのDJも知っています。そして、シカゴ・ハウスがミニマルでクレイジーな方向、ビート主体で、テンポも速いゲットー・ハウスへと展開していった過程も知っていますよね。先ほども言いましたが、シカゴの歴史を知っているひとりですが、まずはあなたにハウスを定義してもらいましょう。ハウスとは……何でしょう?

トラックスマン:ロン・ハーディをもの凄くリスペクトしているし、フランキー・ナックルズも尊敬してる。だが、彼らがシカゴのクラブでプレイしていた1983〜85年くらいの時期は、まだ俺は10歳くらいの子供で、クラブに行くことすら出来なかった。音楽の情報源はもっぱらラジオだった。ロンやフランキーのプレイを見ることが出来るようになったのはもう少し歳をとってからだ。
 これは本当に世に知られてないことだけど、俺らの世代のDJはみんなWBMXというラジオ局を聴いて、ハウス・ミュージックの洗礼を受けたのさ。俺は当時WBMXでDJをしていたKenny Jammin Jason、Scott Smokin Silz、そしてFarley Jackmaster Funkのプレイを聞いてハウスを学んだんだ。彼らのことは本当に死ぬほど愛しているし感謝しているよ。彼らラジオDJの存在がなければ、いまのシカゴにここまで多くのDJやプロデューサーがいる状況は生まれていなかっただろう。
 俺より上のロンやフランキーの時代にクラブに行ってた世代は、クラブで流れる曲に注目しただけで、DJのスキルやミックスのテクニックに注目はしていなかった。だがラジオDJは違った。例えば1曲かけるだけでも最初にインストゥルメンタルをかけて、じょじょにヴォーカル入りのヴァージョンにミックスして、そのあとダブミックスのブレイク部分をかけるなどして、ミキシングで展開を作った。俺らはそのスタイルにとても影響を受けている。
 ハウス・ミュージックの歴史に関しては、ラジオDJが後の世代にいかに大きな影響を与えたかなどの重要な情報は、シカゴの街から外に出ることは無かった。ハウス・ミュージックは70年代後半に生まれたと言う人もいるけど、現在も受け継がれているハウス・ミュージックのスタイルが誕生した本当のスタートは、1985年だ。その年にChip Eがリリースしたレコードに"House"(85年発表の「Itz House」)、そして"Jack"(同じく85年の「Time to Jack」)という言葉が初めて使われた。ちなみにChip Eは、十数年前に日本に引っ越して、いまも住んでいるよ。シカゴに戻りたくなくなったのかもね(笑)。
 俺にとってハウスは、キックとスネア、サンプルで構成されたとてもシンプルなもの。それのスタート、そして現在のハウスのスタイルの元となったものの誕生が1985年、とても重要な年だ。俺はハウス・ミュージックについての正しい知識と知識を広めるのが宿命だと思っている。そのためにCorky Strongという名義でも活動している。昔のことを知らないで、良い方向で未来に向かって行くことは難しいからね。
 シカゴは昔から、それこそアル・カポネの時代からとても閉鎖的で、隔離されていて、それでいて自分たちのテリトリーを重要視する街なんだ。ゲットー・ハウスもジュークもフットワークもシカゴではまったくリスペクトされていないのが実際のところで、地元で力のある多くのベテランDJやラジオ、テレビはまったくピックアップしない。インターネット上で盛り上がってるだけだ。これは本当に根深く大きな問題だ。自分たちの街で、自分たちに当てられるべきスポットライトが当たった試しがない。インターネットは比較的最近の媒体で、いまだに多くの人びとはラジオやテレビで新しい音楽と出会っている。なのにそれらのメディアが取り上げてくれないと広がりようがない。俺たちの作った音楽がいつの間にか海を渡って、日本やその他の国で愛されていることを知ったのもつい最近のことだ。いつも海外での評価の方が地元の評価より高いのさ、例えばジミ・ヘンドリクスがアメリカを出てヨーロッパで評価されるまでは、アメリカでまったくと言っていいほど評価されていなかった。それと似た感じだな。このあいだ日本のフットワーカーのWeezyがシカゴに来たとき、ゲットーのレストランでフットワークを披露したんだけど、地元の人間は本当に驚いた。フットワークのダンス・カルチャーが世界に広がってるなんて想像もしていないかったからね。

取材: 野田努 / 海法 進平(2014年8月04日)

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