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interview with Michael Rother

interview with Michael Rother

いまを生きるクラウトロック

──ミヒャエル・ローター、インタヴュー

取材・文:松山晋也    通訳:高橋勇人   Sep 13,2016 UP

私たちは、白紙を前にしてその場でいきなり描き出す画家のようなものだった。

60年代から70年代半ばにかけて、他の国と同じように西ドイツはとても政治的な時代でした。ドイツのロック・シーンにも政治に積極的にコミットしていた人々が多くいましたが、あなた自身の立場はどうでしたか?

MR:当時のミュージシャンたちに比べたら、私は若手だった。特に60年代後半なんか、どこに顔を出してもみんな年上だった。でも、その時点で私は明確な政治的意見を持っており、具体的にはヴィリー・ブラント(註:ドイツ社会民主党党首で、69~74年には西独首相)を支持していた。過去にナチス・ドイツはポーランドに侵攻したりしたわけだが、そういった歴史を乗り越えて、彼は東側の国々との和解を主張していた。ヴィリー・ブラントの前は保守政権だったが、彼らはワシントンしか見ておらず、西側の一部になろうとしていて、当然、東側は敵と見なされていた。そんな政治状況の中、ブラントは東側との協調をはかり、それが1970年の“ワルシャワでの跪き”(註:ワルシャワのユダヤ人ゲットー跡地でブラントが跪いて献花し、ナチス・ドイツ時代のユダヤ人虐殺を公式に謝罪した)につながったわけだ。
私は学校を卒業した67年、当時義務だった兵役を拒否したんだが、その際、精神的な理由で銃を握れないことを証明するために、かなり厳しいテストを受けさせられた。それは、私の発言に矛盾がないかを検査する試験官を前にして、文章を書いていくというものだった。その時、試験官と激しい口論をしたのを憶えているよ。「君の意見にはまったく説得力がないが、もう行ってよろしい」と最後に試験官は言い放った。それで兵役を逃れる代わりに、精神病院で働くことになったんだ。あの体験は、私の人生でとても重要な意味を
持っている。
また、冷戦からの影響も避けては通れない。あの当時は、戦争の悪夢をよく見たものだ。ベルリンは、文字通り分断されていたし、80年代にソ連のゴルバチョフがグラスノスチやペレストロイカを唱えるまで、本当に何が起こるかわからない状況だったから。私はハルモニア時代(70年代半ば)にドイツの片田舎のフォーストに引っ越したんだが、とても綺麗な風景が広がっていたにもかかわらず、上空では戦闘機が飛び交っていた。彼らはレーダーに映るのを避けるために、家の屋根すれすれのところを低空飛行していて、その騒音は想像を絶するものだった。ほぼ毎日だよ。それを耳にした子供たちは泣き叫び、動物たちは暴れまわり……。街には戦車が列をなしていたし。いつでも臨戦態勢なんだ。そんな時代が終わった時、本当に嬉しかった。とにかくいつも、保守政党やその政策とは対極的
なところに私の考えは位置していたんだ。

その精神病院での雑務時代に、カンやアモン・デュールが登場してきました。当時、彼らの音楽をどのように感じていましたか?

MR:当時、私のガールフレンドはカンを知っていたんだが、私は知らなかった(笑)。その後、クラフトワーク時代にカンとは何回か一緒にコンサートをやったけどね。ヤキ・リーベツァイトは素晴らしいドラマーだと思う。彼のリズムの流れが本当に大好きなんだ。他には……(笑)いずれにせよ、バンドそのものもポジティヴに捉えていたよ。ただ当時は斜に構えがちで、自分たちはカンとは違うと思っていたけどね。

クラフトワークのラルフ・ヒュッター、フローリアン・シュナイダーに初めて会った時の印象はどうでしたか?

MR:クラフトワークについても、それまでは全く知らなかったんだ。知り合いのギタリストが、クラフトワークで演奏してくれと彼らに頼まれ、私も一緒に付いて行くことになった。「どんなバンドか知らないし、変な曲だなぁ。おまけに名前は“発電所”か(笑)。まぁ、行ってみよう」くらいの軽い気持ちだった。それがきっかけで、ラルフ・ヒュッターとジャムをしながら曲を作るようになったんだ。それまで私は、あまり他のミュージシャンには共感を覚えなかったんだが、彼らは違った。自分は一人じゃないんだな、と思えた。クラウス・ディンガーはフローリアン・シュナイダーの音楽を聴いていて理解があったので、バンドに誘われたという流れだった。

ノイ!時代、そのクラウス・ディンガーとあなたの間には常に衝突があったとファンの間では言われてきました。ですが、最近日本版も出た『フューチャー・デイズ』の中で、あなたは、クラウスとは音楽的ヴィジョンが完全に一致していて、いつも同じ方向を向いていたと語っています。その共通していたものを言葉で説明することはできますか?

MR:それはとても直感的なものだ。私たちは音楽について議論することも計画を立てることもなかった。やりたいことがあったら、すぐに試していた。結果的に、お互いのやり方が好きだったし、周りにもそれが認められるようになった。そして完成したのがノイ!のファースト・アルバムだ。たとえるならば、私たちは、白紙を前にしてその場でいきなり描き出す画家のようなものだった。現代のミュージシャンたちはテクノロジーの発達もあり、簡単に準備ができまるけど、私たちは準備なんてしたことがなかった。事前に決めることといえば、「今からEメジャー・スケールの長い道を走るぞ」くらいだった(笑)。それで経過を見ながら色を足していくわけさ。作業を進めながら、今何が起こっているのか、これからどうすればいいのかがわかってくる。つまり、常に作業中の状態だった。だからこそ、コニー・プランクがノイ!のチームに加わったのは大きかった。彼には、作品に適した瞬間を捕まえる能力が備わっていたし、説明せずとも私たちがやろうとしていることを感じて理解してくれたからね。彼はどんな実験にも前向きで、私たちと同じくらいクレイジーで、クラスターやクラフトワークとの仕事も喜んでやっていた。彼がいなかったら、ノイ!の作品はありえなかったと思う。

今振り返ってみて、とりわけ際立っていたクラウス・ディンガーの才能は何だったと思いますか?

MR:私は、彼のパワフルなドラミングには強く感化された。クラウスはヤキ・リーベツァイトのように神がかった技術の持ち主ではなかったけど、彼の力強さには誰もが圧倒されていたよ。彼はマシーンのような存在で、ひとたび彼が音楽の中に投入されると、他のすべてが動き出すんだ。けれど、クラウスの先導力と決断力は、後に問題になることもあった。彼はけっして自分の見解や意図を説明しようとはしなかったからね。「なんで俺のやっていることをそのまま理解しようとしないんだ?」という具合だ。それに、私はクラウスの間違いを指摘することもできなかった。クラウスが亡くなった今、私は、彼の気難しさや意地悪なところではなく、その創造性に改めて注目するようになった。性格的には、私と彼は対極だ。クラウスは要求が強いし、あまり人を信用しなかった。そういったものが先天性なのか、両親との関係によるものなのかはわからないが、最終的には彼自身の才能の開花や私とのコンビネイションにも繋がっていった。かくして彼は、多くの人々にインスピレイションを与えるミュージシャンになったわけだ。


photo: 松山晋也

お互い影響されないことは不可能だよね。私たち3人はハルモニアの音楽を発展させることを大いに楽しんでいた。

あなたは73年の後半からクラスターの二人と一緒に本格的に演奏し始め、それはやがてハルモニアになったわけですが、彼らに初めて出会ったのはいつですか?

MR:あれは、私がクラフトワークと演奏していた71年だったね。二人がコニー・プランクと作業をしている時に知り合ったんだ。彼らの音楽を初めて聴いた時、私は希望を感じた。彼らと一緒だったら、(当時準備していた)ノイ!の曲をライヴでも演奏できるかもしれないなと思ったんだ。私とクラウスはデュオだったので、スタジオ・ワークの再現がうまくできず、サポート・メンバーを探していたんだ。それで私はギターを持って彼らの元へ行った。結果、ハルモニアは素晴らしいものになった(笑)。

あなたにとって彼らのサウンド、表現は、どういう点が特に魅力的だったんですか?

MR:まず耳を奪われたのは、『Cluster II』(72年)に入っている「Im Suden」という曲のメロディだった。(ハンス=ヨアヒム・)レデリウスによる、ギターの弦4本が奏でるリピート・フレーズの音程が素晴らしかったんだよ(笑)。それで彼らとはうまく作業ができると確信した。当時はまだギターでブルーズを弾くのが大多数であり、そういう類の音階を耳にする度に私は曲への関心を失っていた。今だってそうさ。1音でもそういうフレーズが鳴れば、「わかった、もうけっこうです」となってしまう(笑)。

レデリウスとディーター・メビウスも、かなり個性の異なるコンビですが、当時のあなたが受けた二人のキャラクターの印象はどのようなものでしたか?

MR:メビウスは前に出てくることはなく、後ろから状況を見極めるタイプだ。彼はまた、奇妙な音を追求していて、驚かせることのスペシャリストだった。レデリウスはもっとオープンで、一緒にメロディを書けるミュージシャンを探していた。レデリウスがキーボー
ドなどでメロディを反復させて、私がギターを重ね、メビウスが変な音を加える、といった形が多かったかな。
ただ、彼らのキャラクターを一言で説明するのは、とても危険だね。メビウスに関して言えば、彼と私はとても似ていると思う。亡くなる数週間前、彼は私の住むフォーストにやってきたこともあった。当時、私はハルモニアのボックス・セットの作業を進めており、メンバーの意向を確かめるためにメビウスの奥さんとレデリウスにアイディアをいろいろ送っていた。メビウスは(病気のため)ガリガリだったが、心は元気で、ユーモアも健在だった。だから彼の人柄を一言で言い表すなら、「ユーモア」を選ぶ。もちろん、私たちには違いもたくさんある。私は働くけど、彼は働きたかったことなんて一度もないはずだ(笑)。98年に、20年ぶりにメビウスからライヴに誘われた。スタジオに入り、最初の5分で機材をチェックし終えると、「じゃあ料理を始めるぞ」と彼は言った。つまり、彼は音楽で働くなんてことをしたがらなかったということだ。メビウスの才能は自発的な即興に特化していた。これははっきりしていることだが、私たちの音楽の作り方は兄弟関係のようなものだったんだ。

クラスターの二人とあなたが、互いに与えあった影響はどんなものだと思いますか?

MR:お互い影響されないことは不可能だよね。私たち3人はハルモニアの音楽を発展させることを大いに楽しんでいた。調子が良い時は、コンサートやスタジオで自発的に様々なアイディアが生まれた。あの一瞬一瞬は、3人揃って初めて生まれるものだった。ノイ!のようにスタジオのテクノロジーに依拠したものではない。3人の具体的な相互影響について語るのは、単純化してしまうかもしれないので避けたいが……ただ、私がリズムを彼らに与え、彼らはもっと抽象的な音楽へのアプロウチ方法を私に示してくれたとは言えるだろうね。

あなたは幼少期に数年間パキスタンで暮らしていましたよね。その体験は、あなたの音楽性にも深く影響しているように僕は感じているんですが、どうですか?

MR:その結びつきを明確にすることは難しいが……当時聴いた音楽はとても印象的だったね。単調だが魔術的で、どこで始まってどこで終わるのかがわからないエンドレスな音楽だった。路上で演奏していたバンドのことを今でもよく憶えている。けっしてヘビ使いの笛のようなものではなく(笑)、とても反復の多い音楽だったから、ノイ!の「Hallogallo」のような曲と直接的ではないけど、つながりがなくはないだろうね。私は今でもインドやパキスタンの音楽は好きだ。

あなたは猫も好きですよね。『Katzenmusik』(79年)というソロ・アルバムもあるし。猫のどういうところが好きですか?

MR:猫はミステリアスでインディペンデント、そして美しい。あと、猫は自分が友達になると決めた相手としか友達にならない。無理やり友達にならせることは不可能なんだよね。飼い主を尊敬してくれる犬とはまったく違う。そういう点に惹かれるんだ。

自分の音楽と猫に共通点があると思いますか?

MR:見当もつかないな(笑)。ただ、さっき君が言った『Katzenmusik』、あれはもちろん猫への愛から生まれた作品だ。少なくとも、猫はたくさんのインスピレイションを私に与えてくれる存在ではある。隣にいるとリラックスもできるしね。

取材・文:松山晋也(2016年9月13日)

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松山晋也/Shinya Matsuyama 松山晋也/Shinya Matsuyama
1958年鹿児島市生まれ。音楽評論家。著書『ピエール・バルーとサラヴァの時代』、『めかくしプレイ:Blind Jukebox』、編・共著『カン大全~永遠の未来派』、『プログレのパースペクティヴ』。その他、音楽関係のガイドブックやムック類多数。

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