「pan sonic」と一致するもの

アリス・コルトレーン - カーネギーホール・コンサート

 365日かけて元の位置に戻るこの地球という美しい岩の上では、作品を聴き、理解し、前日とは違った見方ができる日が365ある。私たちは、地球上の多くのひとがアリスやジョン・コルトレーンのステージを見たことがないであろう時代を迎えようとしている。コルトレーンは2人とも、やがてモーツァルトのように男女の神話のような空間に住むことになるだろう。幸いなことに、私たちには写真があるし、アーカイヴ映像も少しはある。今後新しい世代がこのコンサート、ファイアー・ミュージックとスピリチュアル・ジャズの両方を、そしてアリスとジョン・コルトレーンの一期一会のみごとな融合を解釈し、再評価することになるだろう。

 本作『アリス・コルトレーン~カーネギー・ホール・コンサート』は、ノスタルジアの魅力が二重に構成されている。アルバム・タイトルには「アリス コルトレーン」の名前だけが反映されており、初心者にとっては、そこで聴ける音楽への期待を膨らませることになる。 ただし、実際の録音は追悼と祝福だ。アリスとジョン、2人のアーティストは2024年現在では故人だが、これが録音された1971年当時においては、ジョン・コルトレーンはその4年前に他界しており、依然としてジャズ界のヒーローだった。私たちはまずここで、アリスがジョンのライフワークのなかに創造性と愛を見出していることを知る。そしてまた、アリスが自分の種を植え、宇宙の木々に囲まれているのを聴くことができる。このコンサートは、ある伝説的な人物の出発が、別の人物の上昇の夜明けを始めるという、彼らの芸術的パートナーシップの図式なのだ。

 本作では、スピリチュアルな瞑想やヴァイブに満ちたリラクゼーション集中法からフリー・ジャズ世代の衝撃的なカオスの叫びまで、レコーディングのバランスはシーソーのように変化している。この音の組み合わせが当時どう捉えられ、いまどう捉えられるかは興味深く逆説的だ。往年のジョンの『アセンション』(1965)の爆音をまだ渇望している聴衆にとっては、アルバムの後半はカタルシスだったろう。しかし、それはアリスが必ずしも望んでいた姿ではない。本作において彼女は、 『ジャーニー・イン・サッチダーナンダ(Journey in Satchidananda)』(1971)に収録された表題曲と “シヴァ・ロカ(Shiva-Loka)” で自分自身とその正体を示している。1968年から1973年にかけて、アリスは4人の子供を持つポスト・ジョンの世界での大きなプレッシャーにもかかわらず、信じられないほど多作で、作品のなかで東洋(インド)のスピリチュアリティを探求することに熱心だった。同世代の他のアーティストとは異なり、アリスはそれから何十年も経った2007年に他界するまで、彼女のスピリチュアルな旅から離れることはなかった。ゆえに1971年以降のアリス・コルトレーンの音楽が具現化していった芸術的ヴィジョンの息吹を考えると、このレコーディングには必ずしもアリスの世界すべてが録音されているわけではない。

 しかし、本作を歴史のない音楽として、ジャズの長大な理念のなかに漂う音として受け止めるなら、味わうべきものは多い。アリスがハープという楽器を選んだことは、彼女がジョン以降をどのように歩みたいかを表現する上で重要な意味を持っている。ハープにはジャズの歴史がない。つまり、典型的なヴィルトゥオーゾ(名演奏家)的ジャズの装飾を忌避する、記憶のないサウンド・クリエーターとして機能できる。ジョンもそういうアーティストだった。ハープによってアリスはムード、質感、感情、純粋な表現、メロディ、瞑想、そしてもっとも輝かしいに悟りに集中する。歴史の重みを軽やかに避け、アーティストたちは新しいものの先駆者として自由に表現する。

 アルバムの後半の、獰猛な “アフリカ(Africa)” と “レオ(Leo)” に近づく前に、アリスが選んだ “ジャーニー・イン・サッチダーナンダ” と “シヴァ・ロカ” は、夜の闇と昼の明るさの完璧なコントラストであり、東洋のスピリチュアリティと自由な表現のユニークな融合を示している。アメリカがまだベトナム戦争という失敗に膝まで浸かっていた頃、アリスのゆらぎのあるハープ・フライトのクレッシェンドは、その世代で誰もが苦しんでいた不安に対する治癒として機能したのだろう。

 そして、ノスタルジアへの頌歌として、アリスは楽器をピアノに替え、ジョンがそばにいた時のポジションを再現した。“アフリカ” と “レオ” におけるエネルギーの放出は、グループがどれだけ爆発を起こせるかの耐久テストとなった。ジョンは不在だったが、代わりにファラオ・サンダースアーチー・シェップ、セシル・マクビーなど、ジョンがもっとも信頼したコラボレーターたちが参加している。感動的な音のカデンツは、幸運にも彼らに導かれた聴衆に畏敬の念を抱かせた。音楽はインスピレーションを与え、自己発見へと駆り立てる力を秘めている。そのエネルギーは決して衰えることはない。最後の音が鳴りやむのを心いっぱいの拍手で祝福する聴衆に温められている。

 

Alice Coltrane - The Carnegie Hall Concert

written by Kinnara : Desi La

  On this beautiful rock called Earth, that takes 365 days to return to its original position, there are 365 different days to listen and understand a work or see it differently than the day before. We are coming at a point in time where no one on Earth will have seen Alice or John Coltrane on stage. Both Coltranes will soon inhabit a space like Mozart as a myth as much as a man and woman. Luckily we have pictures. And a few bits of archival footage. Each following generation will from now on interpret and reevaluate this concert, both fire music and spiritual jazz, and the unique once in a lifetime union of Alice and John Coltrane.
The allure of nostalgia is two fold in this release, Alice Coltrane - The Carnegie Hall Concert. The title reflects only Alice Coltrane’s name and to the uninitiated, that would be their expectation of the music contained. The actual recording though is a reflection and/or a celebration. Both artists, Alice and John are now deceased as of 2024 but at the time of recording in ’71, John Coltrane was a not so distantly deceased hero of the jazz world having passed away almost 4 years previously. We see Alice view the love of her life’s work within herself and creative work. In the same concert we hear Alice plant her own seeds and surround herself with cosmic trees. This concert is a diagram of their artistic partnership with one legend’s departure initiating the dawn of another’s ascent.
The balance in this recording is a seesaw from spiritual meditation and vibe-filled relaxation concentration techniques to the shock chaos screaming of the free jazz generation. How this sound combination was viewed at the time and could be viewed now is intriguing and paradoxical. For the audience still craving the sonic blasts of yesteryear ASCENSION, the latter half of the recording was catharsis. But that isn’t who Alice necessarily wanted to be. She showed herself and what she is with “Journey in Satchidananda” and “Shiva-Loka.” Between 1968 and 1973, Alice, despite the immense pressures of a post-John world with 4 children, was incredibly prolific and intent on exploring eastern (Indian) spirituality within her work. Unlike other artists of that generation, Alice never left that spiritual journey until she passed away many years later in 2007. Given the breath of artistic vision that Alice Coltrane`s music would come to embody after 1971, the recording in a way robs us of completely experiencing Alice’s world.
If we take the album as just music without history, as just sounds floating in the lengthy ethos of jazz, there is much to savor. Alice’s choice of instrument in the harp is instrumental in expressing how she wished to navigate post-John. The harp has no real history with jazz. So it operates as a memoryless sound creator avoiding the trappings of typical virtuosic jazz. The type that John was clearly known for. The harp allowed Alice to focus on mood, on texture, on feelings, on pure expression, on melody, on meditation and most gloriously enlightenment. Without the weight of history, artists can embrace freedom maneuvering as vanguards of the new.

  Alice’s choice of “Journey in Satchidananda” and “Shiva-Loka” before approaching the ferocious “Africa” and “Leo” were perfect contrasts of the darkness of night and brightness of day displaying her unique blend of Eastern spirituality and freeform expression. As the US
was still knee deep in the failure that was the Vietnam War, Alice’s fluctuation crescendos of harp flight acted as band aids to the anxiousness everyone suffered from in that generation.
Then in an ode to nostalgia, Alice switched to piano refilling the position she held with John by her side. Here the burst of energy with both tracks “Africa” and “Leo” became endurance tests for the number of explosions the group could launch. John was absent but supplanted by some of his most trusted collaborators like Pharoah Sanders, Archie Shepp, and Cecil McBee among others. Cadences of sonic emotion left a sense of awe for those in the audience lucky enough to be initiated by them. The music is inspiring and holds the power to nudge towards self-discovery. The energy never wanes, cherished by an audience that blesses with heart filled applause as the last sounds die off.

interview with Kode9 - ele-king

以前はロンドンがベース・ミュージックのセンターだったけど、いまは違っていて、いろいろなところからそれが出てきている。ロンドンはあくまでネットワークのひとつという存在になってきているかな。

 最新型の尖ったエレクトロニック・ミュージック、とりわけダンス~ベース寄りのそれを知りたいとき、UKには今日でもチェックすべきインディペンデント・レーベルが無数にある。そのなかでも長きにわたって活動をつづけ、日本における知名度も高いレーベルに〈Hyperdub〉がある。90年代末、当初オンライン・マガジンとしてはじまった〈Hyperdub〉がレーベルとして動き出したのは2004年。今年でちょうど20周年を迎える。
 主宰者コード9自身のレコードを発表すべく始動した同レーベルは、すぐさまベリアルというレイヴ・カルチャー=すでに終わってしまったものの幽霊とも呼ぶべき音楽を送り出すことになるわけだけれど、ほかにもアイコニカゾンビーダークスターといったおおむね「ダブステップ/ポスト・ダブステップ」なるタームでくくりうる音楽──あるいは90年代から活躍していたケヴィン・マーティンによるさまざまなプロジェクト──のリリースをとおして、10年代頭ころまでにひとつのレーベル・カラーを築きあげていた。
 大きな転機となったのはシカゴのフットワーク・プロデューサー、DJラシャドのアルバム『Double Cup』(2013)だったという。ただ他方ではそれと前後し、直截的にダンス・ミュージックというわけではないディーン・ブラント&インガ・コープランドローレル・ヘイローのような実験的なエレクトロニック・ミュージックの名作を送り出したりもしている。注目すべきアーティストの列が途絶えたことはなく、ジェシー・ランザファティマ・アル・カディリリー・ギャンブルクライン、日本との関連でいえばチップチューンのクオルタ330、独自視点で編まれたゲーム音楽のコンピ、近年の食品まつりなども忘れがたい。なかでもここ数年のレーベルの勢いをもっともよく体現しているのはロレイン・ジェイムズに、そしてアヤだろう。それら一級のカタログはもちろん、アンダーグラウンドな音楽にたいするコード9の鋭い嗅覚によって裏打ちされてきたものだ(かつて南アフリカのゴムを世界じゅうに広めたのも彼である)。
 そんな感じでスタイルの幅を広げていった〈Hyperdub〉の姿勢にはしかし、どこか一本太い芯が通っているようにも感じられる。やはりレーベルの根底にダンス・ミュージックが横たわっているからなのだろう、どれほどエクスペリメンタルな作品をリリースしようとも〈Hyperdub〉のディスコグラフィがハイブロウに振り切れることはない。尖りながら大衆に開かれてもいるその絶妙なバランスは、フットワークやジャングル、アフロ・ダンス・サウンドが入り乱れる先月の O-EAST でのコード9のプレイにもよくあらわれていたように思う。とりわけ印象に残っているのは高速化されたDJロランドの “Knights of the Jaguar” だ。いや、あれはほんとにかっこよかった。まるでゲットー・ハウスかフットワークのごとく生まれ変わったそれはヘスク(Hesk)なるDJによるエディットだという。すごいのはコード9なのかロランドなのかヘスクなのかわからない──ダンス・カルチャーにおける反スター主義の好例といえよう。
 さらにいえば、そうしたサウンド上の冒険だけに終始しているわけではないところもまた〈Hyperdub〉の魅力だ。以下でも語られているとおり、アヤのようなコンセプチュアルな要素を含む音楽のリリースを考える際には、友人である思想家、故マーク・フィッシャーもきっと気に入ったにちがいないと想像を働かせてみるそうだし、サブレーベルの〈Flatlines〉ではオーディオ・エッセイにとりくんでもいる。ダンス・ミュージックとともに、ものを考えること──まさにそれを追求してきたのが〈Hyperdub〉であり、だからこそ彼らはいまなお最重要レーベルのひとつでありつづけることができているのではないか。
 そんな〈Hyperdub〉のボスは現在、ダンス・ミュージックの状況をどのように見ているのだろう。

DJラシャド。あのレコードは人びとに大きな影響を与えたし、DJとしての自分を大きく変えてくれたものでもあった。以降10年間の、自分のDJの方向性を定めてくれたものだった。

日本はひさびさですよね。何年ぶりですか。

Kode9:2019年の12月以来。そのときは〈Hyperdub〉の15周年で、場所は渋谷WWW だったかな。あと(その翌週に)渋谷ストリームホールでやった《MUTEK》も。

この5年間でどんどん大きなビルが立ったり、渋谷の街並みはだいぶ変わりました。ひさしぶりに訪れてみてどんな印象を受けましたか?

Kode9:ビルは増えたよね。でも Contact のようなクラブはクローズしてしまったね。代官山 UNIT はどちらかといえばライヴ・ハウスのような感覚が強まった印象だし。東京のクラブ・シーンは少し変わってしまったのかな。

ロンドンも頻繁に再開発されているんでしょうか。

Kode9:ロンドンのクラブ・シーンは悪くないよ。パンデミック後に若いDJやアーティストがたくさん出てこられるようになって活発だ。すばらしいとまではいえないけれど、ロンドンのクラブ・シーンではつねになにかが起きているような感覚がある。ただ、自分も歳をとってきたから、仕事以外ではあまり出かけなくなってしまったんだけど(笑)。

あなたは最新のベース・ミュージックにすごく敏感な方だと思うのですが、いまのロンドンで新たな音楽のムーヴメントのようなものは起こっていますか?

Kode9:UKガラージやジャングルのリヴァイヴァルは起こっているね。あと、新しい流れでいうとアフロ・ハウスやアマピアノ、ゴムのようなアフリカのダンス・ミュージックから影響を受けたものが出てきているように思う。UKにとってそれが新しいものかどうかはわからないけれど、少なくとも10年前、15年前よりは色濃くなっていて、それは大きな違いかな。以前はロンドンがベース・ミュージックのセンターだったけど、いまは違っていて、いろいろなところからそれが出てきている。ロンドンはあくまでネットワークのひとつという存在になってきているかな。
 それとUKドリルが盛んになっている印象が強くて、それはシカゴ・ドリルのUKヴァージョンではあるんだけど、そういうUKスタイルの音楽が世界的に影響を与えているような気がする。ビートだったり、ベースラインだったり、ラップのスタイルだったり。ほかの都市のローカルな音楽にUKからの影響が見られるものが出てきたと思う。自分にとってもその影響は大きくて、ここ2、3年の動きは2000年代初頭のグライムやダブステップのMCを思い出させるね。自分がDJでかける音楽もいまあげたすべてのものから影響を受けているんだけど、とくにジューク/フットワークだったり、ジャングル、アマピアノとかを自分のまわりのDJグループもジャンルレスにミックスしていて、そうしたものの影響は大きいんじゃないかなと思う。

O-EASTでのDJセットを体験して、まさにいまおっしゃっていたようなサウンドが印象に残りました。スクリーンに映し出されたヴィジュアルも記憶に残っているのですが、視覚上のテーマもあったのでしょうか?

Kode9:じつは、来日するまでライヴ・プレイをやってほしいと思われていることを知らなかったんだよね(笑)。だからぜんぜんプランがなくて、どうやってオーディオ・ヴィジュアルのショウをやろうかギリギリまで考えたんだ。2日間くらいで。あの演出はヴィジュアル・アーティストの JACKSON kaki と自分との即興に近くて、彼がぼくのDJセットの世界観に合わせたゲーム・アヴァターのようなヴィジュアルをつくってくれたんだ。

序盤にDJロランドの “Knight of the Jaguar” のテンポを上げて、ゲットー・ハウスのようにかけていたのが強烈でした。

Kode9:あれはDJヘスク(Hesk)のフットワーク・エディットだね。テクノ・ファンなら絶対にわかるトラックだと思ったから、イントロをループで伸ばして盛り上げようかな、と。よく気づいたね(笑)。

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いまイギリスでは、音楽雑誌をあまり信用できなくなっていることが問題になっている。メディアの貧困化でジャーナリストたちも稼ぐことができないから、ライティングの質も低下しているんだ。

今年で〈Hyperdub〉は設立20周年を迎えます。当初はウェブ・マガジンとして発足して、のちにレーベルになっていったわけですが、2004年当時の意気込みと、現在の状況との違いについてお聞かせください。

Kode9:すごく変わったと思う。もともとの目的は自分の音楽をリリースすることだったんだけど、いまは時間がなくてできていないんだ。自分のリリースがないことがまず大きな違いだよね。レーベルをスタートしたあとは自分だけじゃなくベリアルザ・バグだったり、ダブステップやグライム、UKファンキーなどの作品をリリースするようになって、2009年ごろまではUKが主だったけど、日本のアーティストとも契約するようになってだんだん国際的になっていった。2011年ごろからはダンス・ミュージック以外のローレル・ヘイローだったり(近年の)ロレイン・ジェイムズだったり、ジェシー・ランザのようなポップスにIDM、エクスペリメンタルなアーティストのリリースも増えたし、2012年からはシカゴのフットワークも扱うようになって、ダンス・ミュージックだけでもなく、イギリスだけでもなく、どんどん拡がっていったのが大きな変化かな。

いちばん大きな転機となったリリースはなんでしたか? できればベリアル以外で。

Kode9:DJラシャド。あのレコードは人びとに大きな影響を与えたし、DJとしての自分を大きく変えてくれたものでもあった。以降10年間の、自分のDJの方向性を定めてくれたものだったし、そこからフットワークやジュークに影響を受けた音楽をプレイしはじめたから、あのリリースがいちばん大きかったかな。そう自分では思ってるよ。

最近のリリースだと、やはりロレイン・ジェイムズの存在がもっとも大きいのではないかと考えています。彼女の最大の魅力はどこにあると思いますか?

Kode9:彼女の音楽はすごくパーソナルで、親密なものだと思う。内向的なところがいいね。彼女の外向的ではない点はある意味ベリアルとも似ているけれど、やっぱり違っている。ベリアルは姿を見せないけど、彼女はシャイでありながら前に出ていて。そこに人を惹きつける魅力があるのかな。ぼくはシャイなアーティストが好きなんだ。内面を表現しながら成功している人たち。シャイっていうのは音楽の内容にかんして、っていう意味で、彼女は音楽業界のなかでも真摯に、名声なんか関係なく真剣に音楽をつくりつづけている。そこがすばらしいんだ。彼女はシャイでありながらSNSの使い方もうまくて、SNS上でファンとのつながりをもっている点もおもしろいね。みんなをパーソナルな世界に招いて立ち入らせてくれるところはファンも感謝していると思うし、そこですばらしいつながりが築きあげられているんじゃないかな。

去年出たアルバムでもうひとつ大きかったのはジェシー・ランザかなと思うのですが、彼女は〈Hyperdub〉のなかではポップな路線を担っているアーティストですよね。そこで、あなた個人のポップ・ミュージックの趣味が気になりました。どういうポップ・ミュージックが好きですか?

Kode9:ポップ・ミュージックからは学ぶことが多いんだ。すごく皮肉なことに、ポップスのほうがエクスペリメンタル・ミュージックよりもつくるのが難しいしね。だから、ぼくはKポップやアメリカのR&B、ヒップホップも聴くんだけど、自分にとってポップ・ミュージックは学校みたいなもので、聴くとほんとうに感銘を受けるし、楽しむためというより学ぶために聴いているね。ぼくは音楽教育をいっさい受けてないし楽器も弾けないから、ぜんぶ耳で聴いて楽しむんだけど、ああいったベーシックなハーモニーやキャッチーさを聴いただけで「ワオ!」と感心してしまう。自分にとってそれはすごく新しいものなんだ。

ele-kingは〈Hyperdub〉のアーティストだと aya にすごく関心があるのですが、次のアルバムは進んでいますか?

Kode9:願わくは、今年じゅうにリリースしたいと思ってるよ。aya は天才だ。コンセプト的にも音楽的にもすばらしいと思うし、パフォーマンスのレヴェルも違う。歌も歌えてラップもできて、ロック・スター的な雰囲気がありつつパンク的なところもあって、アティテュードにあふれているよね。シャイなところとは正反対な感じが彼女の魅力だと思う。

〈Hyperdub〉はアルバムより尺の短いEPをたくさんリリースしていて、その姿勢からは信念が感じられます。90年代はダンス・ミュージックが12インチをリリースの中心にすることで、アルバム主義を解体しました。〈Hyperdub〉のリリースもその延長線上にあるのではないかとele-kingの編集長は考えているのですが、シングル/EP単位でリリースすることの意義について教えてください。

Kode9:すごく難しいところだけど、まず、レコードのセールスが厳しくなったからデジタルEPをリリースするようになったんだ。ヴァイナルはパンデミック以降つくるのが大変で時間もかかるようになってしまったんだけど、これからはもっとアルバムをしっかり出していきたいと思っているよ。アルバムというのはアーティストの世界観を表現できるフォーマットだけど、EPはそれよりも早くつくれるから、アーティストのそのときのムードや音楽シーンの動向を捉えてリリースできるところが長所だよね。アルバムは制作に時間がかかるからこそ、ステイトメントのようなものを示すのに向いていると思う。逆にEPのスピード感は、レーベルの勢いや現在を捉えてみんなに見せていけるものだね。

マーク・フィッシャーの影響は強く〈Hyperdub〉にも〈Flatlines〉にも残っている。ベリアルや aya のような好きなアーティストたちをリリースするときも、「彼も同じように100%好きだろうな」というイメージのもとで考えるんだ。

次の質問も編集長から預かってきたものです。90年代に東京で暮らしていたとき、UKのアンダーグラウンドなダンス・ミュージックを知る方法は12インチのシングルを聴くことでした。それらは安価に入手できました。今日ではネットが擡頭し、情報が氾濫してすごくフラットな状況になっています。当時は12インチのヴァイナルが日本とイギリスのアンダーグラウンドにパスのようなものを形成していたのですが、いまはそれが途絶えてしまっているように思えます。どうすれば生き生きとした良質なUKダンス・ミュージックにアクセスできるのでしょうか? その方法があれば教えていただきたいです。

Kode9:まず、いまはそれをやること自体が難しくなってしまったよね。シンプルなものからなにかを得ようとするのは時代的に不可能に近い。すごく複雑化していて、いくらでもリリースの仕方やつくり方がある。バンドキャンプを利用したセルフリリースもあるし、ある種のフィルターやクオリティ・コントロールなしに音楽がどんどん出まわる時代になったわけだよね。インターネットが擡頭してから変わってしまったんだ。昔ならジャングルやドラムンベース、ダブステップだったり、それぞれひとつのシーンがあったけど、いまはシーンというものが中心にドンとあるというよりも、焦点がぼやけて、小さなシーンがほんとうにたくさん存在していると思うんだ。ベッドルームとインターネットが直結しているから、あいだになにも入らない。総数が膨大になったがゆえについていくのが大変になったし、つくり手もみんな(シーンや音楽が)ありすぎて大変なんだ。だから、ほんとうに信頼できるレーベルやウェブ、雑誌を自分なりに決めて、そこに絞るしかないのかなと思う。
 いまイギリスでは、音楽雑誌をあまり信用できなくなっていることが問題になっている。メディアの貧困化でジャーナリストたちも稼ぐことができないから、ライティングの質も低下しているんだ。20年前はライターたちがちゃんとフィルタリングして良質な情報を発信していたけれど、いまの音楽業界自体やプレスなども含めて、とにかく情報があふれているから厳しい状況だね。だから、ジャーナリスト側はニュースレターを書くようになった。雑誌に寄稿するのではなく。いまは転換期だと思う。ポッドキャストや配信の場もできているし、書く側も情報を与える側も、これからは自分たち自身で情報を発信できる場をつくっていくことになるかもしれない。信用できる情報は、自分たちで絞っていかなければいけないんだ。

わたしたちはマーク・フィッシャーの著作を3冊出版しているんですが、彼はあなたについても書いていますよね。あなたはマーク・フィッシャーの文章のどんなところが好きですか?

Kode9:マークとは一緒にPh.D.(博士号)をとった仲で、1996年から2000年にかけて一緒に勉強してきたんだ。ちょうど2、3日前が命日だったな……。彼の影響はものすごく大きくて、たとえば彼は、現代資本主義のように、嫌いなものがはっきりしていた。それへの批判を力強いことばで表現するのが特徴的だった。それは好きな音楽についてもそうで、社会的・政治的に音楽がどう広がっているのかも的確に表現していた。
 〈Hyperdub〉のサブレーベルにオーディオ・エッセイやソニック・フィクションをリリースする〈Flatlines〉というのがあるんだけど、そこから2019年にジャスティン・バートンとマークのコラボレイション作品『On Vanishing Land』をリリースしている。その作品は、マークが映画や本について書いた『奇妙なものとぞっとするもの(The Weird and the Eerie)』(原著2016)のアイディアをもとに、(音で)実践したものなんだ。レーベルの〈Flatlines〉の名前もマークが90年代に書いた論文のタイトル「Gothic Flatlines」から来ている。それくらい彼の影響は強く〈Hyperdub〉にも〈Flatlines〉にも残っている。ベリアルや aya のような好きなアーティストたちをリリースするときも、「彼も同じように100%好きだろうな」というイメージのもとで考えるんだ。たとえば、aya はノース・イングランドの出身なんだけど、マークはロンドンの外にある音楽シーンに関心を抱いていたし、彼がつくりあげてきた世界観にフィットするようなアーティストをピックアップすることはいまも意識している。ちなみにオーディオ・エッセイというのは、哲学やフィクション、ラジオ・ドキュメンタリー、ラジオ・ドラマ、エクスペリメンタル・ミュージックのミックスだね。
 それと、アーバノミック(Urbanomic)という出版社のエディターであるロビン・マッカイと『ソニック・ファクション(Sonic Faction)』というオーディオ・エッセイについての本を編集したんだけれど、それを数か月後には出す予定だ(https://www.urbanomic.com/book/sonic-faction/)。「ファクション」というのはフィクション(fiction)とファクト(fact)を組み合わせたもの。だから、理論を書いてはそれを音にして、また理論に戻って、また音の作品に落としこんで……というサイクルを繰り返しているね。

〈Hyperdub〉の2024年はどんな一年になりそうですか? 直近で控えているリリースも含め教えてください。

Kode9:「サヴァイヴァル」だね。20周年を迎えるというのは信じられない(笑)。アルバムをたくさんリリースしたいと考えている。20周年記念のショウケースの予定もたくさんあって、バルセロナのプリマヴェーラ・フェスティヴァルやロンドンのファブリック、オーストラリアのエレヴェイト・フェスティヴァル、フランスのニュイ・ソノール。祝福する場はたくさんあるんだけど、いま小さなレーベルを運営することはすごく複雑で大変なことなんだ。さっき話したようにストリーミングも増えたし、音楽業界自体やジャーナリズムも変わってきているし、それがすべてレーベル運営に影響する。だから、小さいレーベルとしてはサヴァイヴァルになっていくんじゃないかな。生き残りが大変なんだ。ひとりならまだしも、スタッフを3、4名抱えているしね。3月にはシカゴのヘヴィ(Heavee)がDJラシャドの『Double Cup』のようなムードを持ったアルバムをリリースするよ。ロレイン(・ジェイムズ)の前の前のアルバム(『Reflection』)や aya のアルバムにヴォーカルで客演していたアイスボーイ・ヴァイオレットというマンチェスターのラッパー[※UKでは2~3年前から注目されている、アンダーグラウンドで評価の高いMC]のアルバムもリリースする予定。もしできるなら、aya とナザール(Nazar)、DJハラム(Haram)、ティム・リーパー(Tim Reaper)……ぜんぶ出せたらいいな。少なくともヘヴィとアイスボーイ・ヴァイオレットは確実に出すことが決まっているね。

※なお、今回の取材でベリアルの新作が〈XL〉から出たことについて尋ねなかったのは、取材日(1月15日)がその情報が流れるよりも前だったからです。

L’Rain - ele-king

 ブルックリン育ちのミュージシャン兼キュレーターのロレインことタジャ・チークは、3作のアルバムを通じて、彼女が「approaching songness(歌らしさへの接近)」と呼ぶ領域間で稼働してきた。その音楽は、記憶と連想のパリンプセスト[昔が偲ばれる重ね書きされた羊皮紙の写本]で、人生のさまざまな局面で作曲された歌詞とメロディーの断片が、胸を打つものから滑稽なものまで、幅広いフィールド・レコーディングと交互に織り込まれている。それはつねに変化し、さまざまな角度からその姿を現す。ニュー・アルバム『I Killed Your Dog』の “Our Funeral” の冒頭の数行で、チークはオートチューンで声を歪ませて屈折させ、息継ぎの度に変容させていく。焦らそうとしているわけではなく、一節の中に複数のヴァージョンの彼女自身を投影させるスペースを作り出そうとしているのだ。高い評価を得た2021年のアルバム『Fatigue』のオープニング・トラックは、「変わるために、あなたは何をした?」との問いかけではじまっている。ロレインは確かな進化を遂げながら、その一方でチークは、これまでの作品において、一貫性のある声を保っているのだ。ループするギター、狂った拍子記号、糖蜜のようににじみ出る、心を乱すようなドラムスなど、2017年の自身の名を冠したデビュー盤でみられた音響的な特徴は、『I Killed Your Dog』でも健在だ。同時にロレインは、これまでよりも人とのコラボレーションを前面に打ち出している。今回は、彼女とキャリアの初期から組んできたプロデューサーのアンドリュー・ラピンと、マルチ・インストゥルメンタリストのベン・チャポトー=カッツの両者が、彼女自身と共にプロデューサーとしてクレジットされているのだ。チークが過去の形式を打ち破ることを示すもっとも明白なシグナルは、気味が悪くて注意を引く今作のアルバム・タイトルに表れている。『I Killed Your Dog』の発売が発表された際のピッチフォークのインタヴューでは、これは彼女の「基本的にビッチな」アルバムであり、リスナーの期待を裏切り、意図的に不意打ちを食らわせるものだと語っている。また他のインタヴューでは、最近、厳しい真実を仕舞っておくための器としてユーモアを利用するピエロに嵌っていることに言及している。これは、感傷的なギターとピッチを変えたヴォーカルによる “I Hate My Best Friends(私は自分の親友たちが大嫌い)” という1分の長さの曲にも表れている。(念のため、実際には彼女は犬好きである。)
 メディアは、ロレインの音楽がいかにカテゴライズされにくいかということを頻繁に取り上げている。だが、チークが黒人女性であり、予期せぬ場で存在感を発揮していることから、これがどの程度当たっているのかはわからない。その点では、彼女には他のジャンル・フルイド(流動性の高い)なスローソン・マローン1(『Fatigue』にも貢献した)、イヴ・トゥモア、ガイカやディーン・ブラントなどの黒人アーティストたちとの共通点がある。「You didn’t think this would come out of me(私からこれが出てくるとは思わなかったでしょ)」と、彼女は “5to 8 Hours a Day (WWwaG)” で、パンダ・ベアを思わせるような、幾重にも重ねられたハーモニーで歌っている(「この歌詞の一行は間違いなく、業界へ向けた直接的な声明だ」と彼女はClash Musicでのインタヴューで認めている)。
 『I Hate Your Dog』 では、チークがこれまででもっともあからさまにロックに影響された音楽がフィーチャーされているが、彼女のこのジャンルとの関係性は複雑なものだ。最初に聴いたときに、私がテーム・インパラを思い浮かべた “Pet Rock” について、アルバムのプレス・リリースにはこう書かれている──2000年代初期のザ・ストロークスのサウンドと、若い頃のロレインが聴いたことのなかったLCDサウンドシステム──これには、一本とられた。
 彼女の初期のアルバムと同じくシーケンス(反復進行)は完璧で、各トラックを個別に聴くことで、その技巧を堪能することができる。これは、トラックリストに散りばめられたスキットやミニチュアに顕著で、アルバムのシームレスな流れに押し流されてしまいがちだ。33秒間という長さの “Monsoon of Regret” は、微かな焦らしが入ったような、混沌とした曲であり、“Sometimes” は、アラン・ローマックスがミシシッピ州立刑務所にループ・ペダルをこっそり忍び込ませたかのような曲だ。
 “Knead Be” がアルバム『Fatigue』の言葉のないヴォーカルとローファイなキーボードによる1分間のインタールードで、ヴィンテージなボーズ・オブ・カナダのようにワープし、不規則に揺れる “Need Be” をベースにしている曲だと気付くには、注意深く聴き込む必要がある。この曲でチークは、そのトラックに沈んでいたメロディーの一節を、小さい頃の自分に、物事がうまくいくことを悟らせる肯定的な賛歌へと拡大した。ただ、その言葉(「小さなタジャ、前に進め。あなたは大丈夫だから」)はミックスの奥深くに潜んでいるため、歌詞カードを見ないと、何と歌っているのか判別するのが難しい。
 初期の “Blame Me” のような曲では、チークはひとつのフレーズのまわりを、まるでメロディーの断片が頭の中に引っかかってリピートされているかのようにグルグルと旋回する。『I Killed Your Dog』では、何度かデイヴィッド・ボウイの “Be My Wife” のようなやり方で、一度歌詞を最後まで通したかと思うと、またそれを繰り返して歌う。あらためて聴き返すと、彼女が足を骨折した後に書いたバラード調の “Clumsy(ぎこちない・不器用)” ほどではないが、歌詞は、その歌詞に出てくる問いかけ自体に回答しているかのように聴こえる。“Clumsy” では曲の最後に、冒頭で投げかけた問いへと戻る。「想像もつかないような形で裏切られたとき、(自分が足をついている)地面をどのように信頼しろというの?」
 彼女はまだ、答を探り続けているのかもしれない。
 終曲の “New Years’ UnResolution” は、チークがアルバムを「アンチ・ブレークアップ(別れに反対する)」レコードと表現したことを端的に表している。この曲でも、歌詞がループとなって繰り返されるが、今回はその繰り返しの中で、歌詞が大きく変えられているのだ。彼女はその言葉には、別れた直後と、かなりたってから、後知恵を働かせて書いたものがあると説明している。バレアリックなDJセットで、宇多田ヒカルの “Somewhere Near Marseilles -マルセイユ辺り-” と並べても違和感のない、ダブ風のキラキラと揺れる光のようなグルーヴに乗せて、チークは、陰と陽のような、互いを補いあう2つのヴァースを生み出している。

ひとりでいるのがどんな感じか忘れてしまった
雨を吐いて 雪を吐き出す。
日々は、ただ古くなっていく
何も持たないということがどんなものか知っている?
どんなものかは知らないけれど
あなたは今夜ここに来る?
私から電話するべきか あるいは無視するべき? 私は……する
恋をするということがどんな感じか忘れてしまった
太陽を飲み込んで 雪を吐き出す
日々は、古くはならない。
何かを持っているということがどんなことか知っている?
ふたりともそれを知っている。
ただ真っ直ぐに私の目を見て
あなたから私に電話するべきか あるいは私を無視するべき? あなたは……する

 彼女はいまや、人生を両側から眺めることができたのだ。


L’Rain - I Killed Your Dog

written by James Hadfield

Across three albums, L’Rain – the alias of Brooklyn-raised musician and curator Taja Cheek – has operated in an interzone that she calls “approaching songness.” Her music is a palimpsest of memories and associations, interleaving fragments of lyrics and melodies composed at different points in her life, with field recordings that range from poignant to hilarious. It’s constantly shifting, revealing itself from different angles. During the opening lines of “Our Funeral,” from new album “I Killed Your Dog,” Cheek contorts and refracts her voice with AutoTune, morphing with each breath she takes. It isn’t that she’s playing hard to get, more that she’s making space for multiple versions of herself within a single stanza.

“What have you done to change?” asked the opening track of her widely acclaimed 2021 album “Fatigue.” L’Rain has certainly evolved, but Cheek has maintained a consistent voice throughout her work to date. Many of the sonic signatures from her self-titled 2017 debut – looping guitar figures, off-kilter time signatures, phased drums that ooze like treacle – are still very much present on “I Killed Your Dog.” At the same time, L’Rain has become a more collaborative undertaking: She’s quick to credit the contributions of producer Andrew Lappin – who’s been with her since the start – and multi-instrumentalist Ben Chapoteau-Katz, both of whom share producer credits with her this time around.

The most obvious signal that Cheek is breaking with past form on her latest release is in the album’s lurid, attention-grabbing title. As she told Pitchfork in an interview when “I Killed Your Dog” was first announced, this is her “basic bitch” album, pushing back against expectations and deliberately wrong-footing her listeners. She’s spoken in interviews about a recent fascination with clowns, who use humour as a vessel for hard truths. In this case, that includes a minute-long song of gooey guitar and pitch-shifted vocals entitled “I Hate My Best Friends.” (For the record, she loves dogs.)

Media coverage frequently notes how resistant L’Rain’s music is to categorising, though it’s hard to say how much this is because Cheek is a Black woman operating in spaces where her presence wasn’t expected. In that respect, she has something in common with other genre-fluid Black artists such as Slauson Malone 1 (who contributed to “Fatigue”), Yves Tumor, GAIKA and Dean Blunt. “You didn’t think this would come out of me,” she sings on “5 to 8 Hours a Day (WWwaG),” in stacked harmonies reminiscent of Panda Bear. (“That line is definitely a direct address to the industry,” she confirmed, in an interview with Clash Music.)

“I Hate Your Dog” features some of Cheek’s most overtly rock-influenced music to date, although her relationship with the genre is complicated. According to the press notes for the album, “Pet Rock” – which made me think of Tame Impala the first time I heard it – references “that early 00’s sound of The Strokes and LCD Soundsystem that L’Rain never listened to in her youth.” Touché.

Like her earlier albums, the sequencing is immaculate, and it’s worth listening to each track in isolation to appreciate the craft. That’s especially true of the skits and miniatures scattered throughout the track list, which can get swept away in the album’s seamless flow. The 33-second “Monsoon of Regret” is a tantalising wisp of inchoate song, reminiscent of Satomimagae; “Sometimes” is like if Alan Lomax had snuck a loop pedal into Mississippi State Penitentiary.

It takes close listening to realise that “Knead Be” is based on “Need Be” from “Fatigue,” a one-minute interlude of wordless vocals and lo-fi keyboards that warped and fluttered like vintage Boards of Canada. Here, Cheek takes the wisp of melody submerged within that track and expands it into a hymn of affirmation, in which she lets her younger self know that things are going to work out – though her words of encouragement (“Go ’head lil Taja you’re okay”) lurk so deep in the mix, you’d need to look at the lyric sheet to know exactly what she’s singing.

On earlier songs such as “Blame Me,” Cheek would circle around a single phrase, like having a fragment of a melody stuck in your head on repeat. Several times during “I Killed Your Dog,” she runs through all of a song’s lyrics once and then repeats them, in the manner of David Bowie’s “Be My Wife.” Heard again, the words sound like a comment on themselves – no more so than on the ballad-like “Clumsy” (written after she broke her foot), when she returns at the end of the song to the question posed at its start: “How do you trust the ground when it betrays you in ways you didn’t think imaginable?” It’s like she’s still grasping for an answer.

Closing track “New Year’s UnResolution” – which best encapsulates Cheek’s description of the album as an “anti-break-up” record – also loops back on itself, except this time the lyrics are significantly altered in the repetition. She’s explained that the words were written at different points in time, both in the immediate aftermath of a break-up and much later, with the earned wisdom of hindsight. Over a shimmering, dub-inflected groove that wouldn’t sound out of place alongside Hikaru Utada’s “Somewhere Near Marseilles” in a Balearic DJ set, Cheek delivers two verses that complement each other like yin and yang:

I’ve forgotten what it’s like to be alone
Vomit rain spit out snow.
Days, they just get old.
Do you know what it’s like to have nothing?
I don’t know what it’s like.
Will you be here tonight?
Should I call you or should I ignore you? I will...
I’ve forgotten what it’s like to be in love
Swallow sun spit out snow
Days, they don’t get old.
Do you know what it’s like to have something?
We both know what it’s like.
Just look me in the eye.
Should you call me or should you ignore me? You will...

She’s looked at life from both sides now.

PJ Harvey - ele-king

PJハーヴェイのいくつもの声

 2001年、PJハーヴェイはロックの女神としての絶頂期を迎えていた。前年にリリースされた『Stories from the City, Stories from the Sea』は、これまででもっとも洗練された、理解を得やすいアルバムとなり、1998年の緊張感をはらんだ『Is This Desire?』でつきまとわれた暗い噂を一掃するような自信に満ちた一撃となった。その年の9月にマンチェスター・アポロでのハーヴェイのライヴを観たのは、彼女がマーキュリー賞を受賞してから数週間後のことで、私がこれまでに観た最高のロック・ギグのひとつとなった。ラジオ向きの、煌びやかな加工がされていない “This Is Love” や “Big Exit” のような曲は、より記念碑的に響き、まるで彼女がブルース・ロックの原始的な真髄にまで踏み込み、マッチョ的な要素や、陳腐なエリック・クラプトンのような、このジャンルにありがちなものすべてが刈り取られたかのようだった。

 だが、そのショウは、ほとんどウィスパーといえるほどの小声で始まった。ハーヴェイは単独でステージに上がり、ヤマハの QY20 でのハーモニウム風の伴奏に合わせ、子どものような、物悲しいメロディを歌った。私はその曲を判別できなかったが、サビのコーラスに差しかかると、客席でクスクス笑いが起こった。バブルガム・ポップのグループ、ミドル・オブ・ザ・ロードの1970年のヒット曲 “チピ・チピ天国” の有名なリフレイン「Where’s your mama gone? (あなたのママはどこへ行ったの?)」をとりあげたからだ。ポリー・ジーンにはユーモアのセンスが欠如しているなんて、誰にも言わせない。

 昨年リリースされたコンピレーション『B-Sides, Demos & Rarities』を聴くまで、このことはすっかり忘れていた。“Nina in Ecstasy 2” は、『Is This Desire?』のセッションで録音され、結果的には「The Wind」のB面としてリリースされたものだ。当時は珍品のように見做されていたに違いないが、この曲はハーヴェイの、その後のキャリアの方向性を示す初期におけるヒントだったのではないかと思い当たった。この曲で使われた、浮遊感のある、ほとんど肉体から切り離されたような儚い高音域の声は、2007年の『White Chalk』や、2011年の『Let England Shake』などのアルバムで再び使われた種類の声だ。さらに、今年の『I Inside the Old Year Dying』でも聴くことができる。この作品をハーヴェイのフォーク・アルバムと呼びたい衝動にかられるものの、それは、私がこれまでにまったく聴いたことのないフォーク・ミュージックなのだった。

 熟練したアーティストが、自分の強みを離れたところで新たな挑戦をするのには、いつだって心惹かれる。彼女のレコード・レーベルにとってみれば、『Stories from the City, ~』の路線を継承し、クリッシー・ハインド2.0へと変化を遂げてほしかったことだろう。だが、彼女は2004年に、セルフ・プロデュースしたラフな感じを楽しむようなアルバム『Uh Huh Her』 を発表した。アートワークは、セルフィ(自撮り写真)と自分用のメモをコラージュしたもので、そのひとつには、「普通すぎる? PJHすぎる?」との文字があり、彼女の創作過程を垣間見ることができる。「曲で悩んだら、いちばん好きなものを捨てる」という一文は、ブライアン・イーノとペーター・シュミットの「オブリーク・ストラテジーズ」のカードからの引用ではないかとググってしまったほどだ。

 ハーヴェイにとって「いちばん好きなもの」とは、彼女自身の声、あるいは少なくとも彼女の初期のアルバムで定義づけられた生々しい、声高な叫びを意味するのではないか。それは、驚くべき楽器だ。1992年のデビュー作『Dry』のオープニング・トラック “Oh My Lover” を聴いてみてほしい。歌詞はかなり曖昧なトーンで書かれているのに、彼女の歌声には驚くべき自信とパワーが漲っている。このアルバムと、それに続く1993年のスティーヴ・アルビニによる録音の『Rid of Me』にとって効果的だったことのひとつは、荒涼としたパンク・ブルースのおかげで、ヴォーカルに多くのスペースが割り当てられたことだった。ハーヴェイの喉の方が、当時のグランジ系が好んで使用したディストーションの壁よりも、より強力だったのだ。1995年の豊穣なゴシック調の『To Bring You My Love』では、彼女は自分の声をさらに先へと押し出し、BBCスタジオでの “The Dancer” のパフォーマンスでは、ディアマンダ・ガラスとチャネリングしているかのように聴こえたし、そう見えた。実際に彼女は自身の声の形を変える実験も始めていた。最近のNPRとのインタヴューでは、プロデューサーのフラッドに、閉所恐怖症的な “Working for the Man” の録音の際、毛布をかぶされ、マイクを喉に貼りつけて歌わされたことを回想している。

 10枚のソロ・アルバムと、長年のコラボレイターであるジョン・パリッシュとのデュオ・アルバム2枚というハーヴェイのディスコグラフィを貫く共通項は、おそらく、頑なに繰り返しを拒んできたことだろう。多くのアーティストが同じことを主張しがちだが、ハーヴェイは暴力的なほどの意志の強さでこれを貫き、デイヴィッド・ボウイと匹敵するほど、自分をコンフォート・ゾーン外に意図的に追いやってきた。『White Chalk』では、ギターを、ほとんど弾くことのできないピアノに替え、元来の声域外で歌った(彼女は当時のKCRWラジオのインタヴューで「多分、自分が得意なことをやりたくなかっただけ」と語っている)。歌詞においても、それまでの自分には、手に負えないだろうと思うようなテーマに努力して取り組んでいる。『Let England Shake』は主にオートハープを使って作曲されたが、第一次世界大戦の歴史を考慮に入れて、自らをある種の戦争桂冠詩人に変身させた。2016年の『The Hope Six Demolition Project』 では、写真家のシェイマス・マーフィーと世界中を旅した経験から、現代政治と外交政策の意味を探ろうと試みた。

 『I Inside the Old Year Dying』は、もうひとつの、ドラマティックな変化を示している。この作品は、2022年に出版された、彼女の生まれ故郷のドーセット地方の方言で書かれた長編の詩集『Orlam』が進化したもので、歌詞カードには、曲を彩る難解な言い回しの意味の説明の脚注が付いている。「wilder-mist(窓にかかった蒸気)」、「hiessen(不吉な予感)」、「femboy(フェムボーイ=少女のような少年)」、「bedraggled angels(濡れた羊)」などだ。それらの言葉の馴染みのなさは、音楽にも反映され、音楽の元の素材から連想できるようなフォークの作風は意識的に避けられている。ハーヴェイはこのアルバムを、パリッシュとフラッドというもっとも信頼するふたりのコラボレイターに加え、フィールド・レコーディングをリアルタイムで操作した若手のプロデューサー、アダム・バートレット(別名セシルとして知られる)と共に制作した。フラッドは、より伝統的な楽器編成を古風なシンセサイザーで補い、「sonic disturbance(音波の攪乱)」としてもクレジットされている。これは、温かいが、尋常ではない響きのアルバムであり、ハーヴェイの成熟した作品を定義するようになった、どこにも分類することのできないクオリティを保っている。この音楽は、時間や場所を超えて存在するようなものではあるが、彼女にしか創り得なかったものなのである。

The many voices of PJ Harvey

written by James Hadfield

In 2001, PJ Harvey was at the peak of her rock goddess phase. “Stories from the City, Stories from the Sea,” released the previous year, had presented her slickest, most accessible album to date – a confident blast to dispel all the dark rumours that had accompanied 1998’s fraught “Is This Desire?”. The show I saw her play at the Manchester Apollo that September, just weeks after winning the Mercury Music Prize, was one of the best rock gigs I’ve ever seen. Without their radio-friendly production gloss, songs like “This Is Love” and “Big Exit” sounded even more monumental, as if she was tapping into some primal essence of blues rock, shorn of all the macho, Eric Clapton cliches you’d normally associate with the genre.

Yet the show had started almost at a whisper. Harvey took the stage alone and sang a plaintive, childlike melody, over a harmonium-style accompaniment played on a Yamaha QY20. I didn’t recognise the song, but when she reached the chorus, a chuckle rose from the audience: she’d lifted the “Where’s your mama gone?” refrain from “Chirpy Chirpy Cheep Cheep ,” a 1970 chart hit by bubblegum pop act Middle of the Road. Let nobody say that Polly Jean doesn’t have a sense of humour.

I’d forgotten about this until I heard the song again on the “B-Sides, Demos & Rarities” compilation, released last year. “Nina in Ecstasy 2” was recorded during the sessions for “Is This Desire?” and ended up getting released as a B-side to “The Wind.” It must have seemed like a curio at the time, but in retrospect it strikes me as an early hint of where Harvey would head later in her career. The voice she used on that song – floating, almost disembodied, delivered in a fragile higher register – is one that she would return to on albums such as 2007’s “White Chalk” and 2011’s “Let England Shake.” You can hear it again on this year’s “I Inside the Old Year Dying,” which I’m tempted to call PJ Harvey’s folk album, except that it doesn’t sound like any folk music I’ve heard before.

It’s always striking to hear an accomplished artist play against their strengths. Harvey’s record label probably would have loved her to continue on the trajectory of “Stories from the City…,” morphing into Chrissie Hynde 2.0. Instead, she delivered 2004’s rough, self-produced “Uh Huh Her,” an album that seemed to revel in its imperfections. The artwork, a collage of selfies and notes-to-self, offered glimpses into her creative process. “Too normal? Too PJH?” reads one of the notes. “If struggling with a song, drop out the thing you like the most,” reads another – a quote that I had to Google to check it wasn’t actually from Brian Eno and Peter Schmidt’s Oblique Strategies cards.

For Harvey, “the thing you like the most” can mean her own voice – or at least the raw, full-throated holler that defined her earlier albums. It’s a formidable instrument: just listen to “Oh My Lover,” the opening track on her 1992 debut, “Dry.” There’s a startling confidence and power in her delivery, even as the lyrics strike a more ambiguous tone. Part of what made that album and its 1993 follow-up, the Steve Albini-recorded “Rid of Me,” so effective was that their stark punk-blues left so much space for the vocals. Harvey’s larynx was more powerful than the walls of distortion favoured by her grunge contemporaries. On 1995’s lushly gothic “To Bring You My Love,” she pushed her voice even further: in a BBC studio performance of “The Dancer,” she sounds – and looks – like she’s channelling Diamanda Galas. But she had also begun to experiment with altering the shape of her voice. In a recent interview with NPR, she recalled that producer Flood recorded the claustrophobic “Working for the Man” by getting her to sing under a blanket with a microphone taped to her throat.

If there’s a common thread running through Harvey’s discography – 10 solo albums, as well as two released as a duo with longtime collaborator John Parish – it’s a stubborn refusal to repeat herself. Plenty of artists claim to do this, but Harvey has shown a bloody-mindedness to rival David Bowie, deliberately forcing herself out of her comfort zone. For “White Chalk,” she switched from guitar to piano – an instrument she could barely play – and sang outside her natural vocal range. (“I just didn’t want to do what I know I’m good at, I guess,” she told an interviewer on KCRW radio at the time.) Lyrically, too, she has made a deliberate effort to engage with themes that had seemed out of her grasp. “Let England Shake” – written mostly on autoharp – found her transformed into a kind of war laureate, reckoning with the history of World War I. 2016’s “The Hope Six Demolition Project” attempted to make sense of modern politics and foreign policy, based on her experiences travelling around the world with photographer Seamus Murphy.

“I Inside the Old Year Dying” marks another dramatic shift. It evolved from “Orlam,” a book-length poem that Harvey published in 2022, written in the dialect of her native county, Dorset. The lyric sheet comes with footnotes explaining the meanings of the arcane terms that pepper the songs: “wilder-mist” (steam on a window), “hiessen” (a prediction of evil), “femboy” (a girly guy), “bedraggled angels” (wet sheep). The unfamiliarity of the language is mirrored by the music, which consciously avoids the folk idioms which the material would seem to encourage. Harvey created the album with Parish and Flood, two of her most trusted collaborators, along with the younger producer Adam Bartlett (otherwise known as Cecil), who supplied field recordings that were manipulated in real-time. Flood complemented the more traditional instrumentation with archaic synthesisers, and is also credited for “sonic disturbance.” It’s a warm but also uncanny-sounding album, with an unplaceable quality that has come to define Harvey’s mature work. It’s music that seems to exist out of time, out of place, but could only have been created by her.

 私はノエル・ギャラガーには我慢がならない。

 私はかれこれもう30年近く彼のことを嫌ってきたが、自分でもそのことが少し引っかかっている。長い間、尋常ではないほどの成功を収め、愛されるソングライターとして活躍し続けているということは、彼は実際、仕事ができるのだろう。かなり個人的なことになってしまうが、これほど長期にわたって、自分がひとりのミュージシャンを嫌ってきた理由を自分でも知りたいのだ。

 1990年代半ばのティーンエイジャーだった私にとって、その理由は極めて単純だった。ブラーとオアシスのどちらかを選ばなければならないような状況で、私はブラー派だった。それでも、『NME』のジャーナリストたち──当時、いまの自分より若かったであろうライターたち──の安っぽい挑発で形成された見解に、大人、しかも中年になってまで引きずられるべきではないだろう。私も少しは成長しているはずだし、大人になるべきだよね?

 当時、私が最初に言ったであろうことは、彼の歌詞がひどいということだ。振り返ると、ノエルの歌詞は、デイヴィッド・バーマンやモーマスが書くような種類のよい詞ではなかったし、そもそもそれを意図していたわけでもなかった。彼らはパンク・ロックな、私のようなミドル・クラスのスノッブや評論家はファック・ユーという立ち位置で、「彼女は医者とヤッた/ヘリコプターの上で」のような狂乱状態とナンセンスな言葉が飛び交う、韻を踏む歌詞で注目を集め、面白がられた。その核心は、おそらく曲の魂が歌詞ではなく音楽に込められていたということで、それが理解できないのは心で聴いていないということなのかもしれない。

 そんなわけで、私が不快感を覚えたのが「心」の部分だったのではないかと思うようになったのである。つまり、ノエルの曲の感情的な部分が安っぽく安易に感じられ、バンドに投影され自信に満ちた威張った態度が、十代を複雑な迷いや疑念のなかで過ごした人間には響かなかったのではないだろうか。

 これは、現在のノエルの音楽に対しては不公平な批評だ。そもそもあの威勢の良さは、リアムと彼の嘲るようなロック・スターのヴォーカルに起因するものだった。ノエルは、ロック・スターとしての存在感がはるかに薄く、声も細くて脆弱な楽器だ。興味深いのは、ノエルとかつてのライヴァル、デーモン・アルバーンの音楽的な野心が大きく乖離するなかでも、彼らのポップ・ソング作りには、むしろ類似性が見られたことだった。二人の、シンガーソングライターたちの小さめで疲れ気味の声が、中年期の哀愁の色彩を帯びるのは容易なことだったから。ノエルの「Dead to the World」を聴くと、デーモンの声で“And if you say so / I’ll bend over backwards / But if love ain’t enough / To make it alright / Leave me dead to the world” (もし君が言うなら / 精一杯努力するよ / でも愛が足りないなら / 上手くやってくれ / 僕にはかまわないで) が歌われるのが、容易く想像できる。

 さらに、ノエル・ギャラガーはハイ・フライング・バーズの新作『Council Skies (カウンシル・スカイズ)』 では以前に比べて謙虚で、少なくとも思慮深い人物であるように感じられる。レコードを通してある種の喪失感に貫かれており、“Trying to Find a World that’s Been and Gone” では、「続ける意志」を持つことについてのお馴染みのリフレインが、たとえそれが無益な戦いであっても意味があるというメランコリックな文脈で描かれている。タイトル・トラックでは、1990年代の野心的な威勢の良さが、ぼんやりとした脆い希望へと変化している。それはおそらく、大富豪となったノエルがハンプシャーの私有地にいても、未だに思い出すだろう公営住宅地の空の下での、存続する誓いにほかならない。

 しかし、必ずしもその内省的な感覚が、歌詞としてより優れているとはかぎらない。初期のオアシスのパンクな勢いなしには、陳腐なものが残るだけだ。アルバムのタイトル・トラックは、“Catch a falling star” (流れ星をみつけて) という名言で始まり、すぐに“drink to better days” (より良い日々に乾杯) できるかもしれないという深淵なる展望が続く。だが、曲はそれでは終わらず、次々と天才的な珠玉の詞が火のように放たれる。“Waiting on a train that never comes”(来ないはずの電車で待つ)、“Taking the long way home”(遠回りをして帰る)、“You can win or lose it all” (勝つこともあれば、すべてを失うこともある)。ノエルの詞に対する想像力のあまりの陳腐さに、私が積み上げてきた彼のソングライティングに対する慈愛にも似た気持ちが、すべて消え去り、苛立ちだけが募り始める。“Tonight! Tonight!” (今夜! 今夜こそ!)、“Gonna let that dream take flight” (あの夢を羽ばたかせるんだ)というライムで、退屈なタイトルがつけられたクロージング・アンセムの“We’re Gonna Get There in the End”にたどり着く頃には、もう自害したくなっている。ノエルの愚かさ(インタヴューでのノエルは、私の反対意見をもってしても、鋭く、観察力があるようにみえる)ではなく、彼がリスナーを愚かだと見くびっているところに侮辱を感じるのだ。

 私は自分のなかに募るイライラを抑制し、少しばかり視点を変えてみる必要がある。

 ノエル・ギャラガーについてよく言われるのは、彼が料理でいうと「肉とポテト」のようなありふれた音楽を作るということだ。これは話者によっては、批評とも賞賛ともとれるが、いずれにしても本質を突いているように感じられる。メロディが次にどうなるのか、5秒前には予測できてしまうのが魅力で、一度歌詞が音楽の中に据えられると、摩擦なく滑っていき、漠然とした感情がそこにあることにも気付かずに通り過ぎてしまいそうだ。これは、細心の注意を払って訓練され、何世代にもわたり変わることのなかった基本的な材料を使って作られた、音による慰めの料理なのだ。 “Love is a Rich Man” を力強く支える同音反復するギター・フックは、ザ・ジーザス&メリー・チェイン(2017)の “The Two of Us ” と同一ではないのか? あるいはザ・ライトニング・シーズ(1994)の “Change” か? ザ・モダン・ラヴァーズ(1972)の “Roadrunner” なのか? それは、それらすべての未回収の記憶であり、蓄積されたロックの歴史のほかの100万ピースが半分だけ記憶された歓喜の生暖かい瞬間にチャネリングされるようなものだ。

 別の言い方をすれば、そこに驚きはない。これは、いつまでも自分らしく、変わる必要はないと教えてくれる音楽なのだ。この音楽は、自分の想像を超えてくるものを聴きたくない人のためのものだ。そして、ここで告白すると、私のある部分は、ノエル・ギャラガーのことが好きなのだ。オアシスとノエル・ギャラガーズ・フライング・バーズ両方のライヴもフェスで観ているし、私の意志とは裏腹に、飲み込まれて夢中になってしまった。九州で友だちとのドライブ中に、彼のカーステレオから “Be Here Now ” が流れてきた時も、20年ぶりに聴いて、それまでそのアルバムのことを考えたことすらなかったのに、すべての曲と歌詞を諳んじていたのを思い出した。結局のところ、決まり文句のように陳腐な表現は、その輪郭が脳裏に刻みこまれるほどに使い古されたフレーズに過ぎない。自分の一部になってしまっているのだ。

 そういう意味で、ノエル・ギャラガーに対する私自身の抵抗は、音楽的な癒しや保守性に惹かれる自分の一部分への抵抗ということになる。何故に? この私のなかの相反する、マゾヒスティックな側面はいったい何なのだろう。なぜ、ただハッピーではいられず、聴く音楽に緊張感を求めずにはいられないのだろう?

 基本的に、芸術作品のなかのささやかな緊張感は刺激的だ。ザ・ビートルズの “ストロベリー・フィールズ・フォーエバー” の冒頭がよい例で、ヴォーカルのメロディは本能が期待する通りのG音できれいに解決する一方、基調となるコード構成の、突然のFマイナーの不協和音に足元をすくわれる。リスナーの期待と、実際に展開されるアレンジの間の緊張感が、聴き手を楽曲の不確かな現実の中へと迷いこませ、馴染みのないものとの遭遇がスリルをもたらすのだ。

 オアシスが大ブレイクを果たしていた頃、ロック界隈で起こっていたもっとも刺激的なことは、ほぼ間違いなくローファイ・ミュージックという不協和音のような領域でのことだった。オアシスのデビュー・アルバム『Definitely Maybe(『オアシス』)』が初のチャート入りを果たした1994年の同じ夏、アメリカの偉大なロック・バンド、ガイディッド・バイ・ヴォイシズがブレイクのきかっけとなったアルバム『Be Thousand』をリリースしていた。彼らもまた、オアシスと同様にブリティッシュ・インヴェイジョンにより確立された、ロック・フォーメーション(編成)の予測可能性をおおいに楽しんでいたが、GBVのリーダー、ロバート・ポラードは、自身が“クリーミー”(柔らかく、滑らかな)と“ファックド・アップ”(混乱した、めちゃくちゃな)と呼んでいるものの間にある緊張感について主張した。彼が“クリーミー”すぎると見做したメロディは、リリースに耐えうるように、なんらかの方法でばらばらにして、曲を短くしたり、やみくもにマッシュアップしたりして、不協和音的なサウンドエフェクト、あるいは音のアーティファクト(工芸品)を、DIYなレコーディング・プロセスから生みだし、馴染みのある流れを遮るように投入するのだった。

 アメリカ人音楽評論家で、プロの気難し屋の老人、ロバート・クリストガウは、『Bee Thousand』を「変質者のためのポップス──上品ぶった、あるいは疎外された、自分がまだ生きていることを思い出すのに、痛みなしには快楽を得ることができないポストモダンな知識人気取りの者たち」と評した。そのシニカルな論調はともかく、クリストガウのGBVの魅力についてのアプローチは功を奏している──そう、快楽は確かに少し倒錯的で、これは音による「ツンデレ」なフェティッシュともいえる。そしてその親しみやすいものと倒錯したものとの間の緊張感が、リスナーの音楽への求愛のダンスに不確かさというスリルを注入してくれるのだ。

 ノエル・ギャラガーがかつて、退屈で保守的だと切り捨てたフィル・コリンズのようなアーティストの仕事にさえ、緊張感はある。ノエルに “In The Air Tonight ” のような曲は書けやしない。ヴォーカルは緩く自由に流れ、音楽の輪郭は耳に心地よく響くが、常にリフレインへと戻ってくる。曲に命を吹き込むドラムブレイクは、繰り返しいじられるが、長いこと抑制されてもいる。ソフト・ロックへの偏見を捨て去れば、フィル・コリンズのサウンドに合わせて、ネオンきらめく映画のなかのセックス・シーンを想像して、深い官能で相互にクライマックスに達することができるだろう。ノエル・ギャラガーの音楽で同じシーンを想像してみても……いや、やはりやめておこうか。私はたったいま、 “Champagne Supernova” を聴いて同じことを想像してみたが、非常に不快な7分半を過ごしてしまった。上手くはいかないのだ。

 ノエルの歌は、ある種の集団的なユーフォリア(強い高揚感)を呼び起こすことに成功しているが、それがほとんど彼の音楽のホームともいえるところだ。彼の歌詞とアレンジの摩擦の少なさは、社交的な集まりの歯車の潤滑油には最適で、リスナーにそのグループの陽気なヴァイブスに身をゆだねること以外は特に何も要求しない。おそらく、アシッド・ハウス全盛期のノエルの青春時代と共通項があるが、その違いはジャンルを超えたところにある。アシッド・ハウスには、「あなたと私が楽しむこと」を望んでいない体制側(スペイスメン3の言葉による)と、我々と彼らとの闘争という独自の形の緊張感が存在した──それはより広い意味でいうと、過去(トーリー党=英国保守党)と未来(大量のドラッグを使用して使われていない倉庫でエレクトロニック・ミュージックを聴くこと)との間の闘争だった。ノエルは明らかにそういった時代と精神に多少の共感を示しつつ、たまにエレクトロニック・アクトにもちょっかいを出しながら、彼自身の音楽は、常に未来よりも過去に、反乱者よりもエスタブリッシュメント(体制派)に興味を示してきたのだ。そして、時折公の場で繰り出す政治や他のミュージシャン、あるいは自分の弟に関するピリッと香ばしい発言には──哲学的、性的、抒情的、あるいは“ポストモダンな知識人ぶった”アート・マゾヒズムであれ、直感的なある種の緊張感は、ノエル・ギャラガーの音楽には存在しないのだ。

 もちろん、このことに問題はない。彼は音楽とは戦いたくない人のために曲を作っているのだし、それを上手にやってのけるのだから。

 この記事を書き始めた時、自分とはテイストの違いがあるにせよ、過去にノエルに対して公平性に欠ける態度をとっていたことを反省し、ソングライターとしての彼の疑いようのない資質を成熟した大人として受け入れ、融和的な雰囲気の結末に辿り着くのではないかと思っていた。しかし、それは彼と彼の音楽にとってもフェアなことではないと思う。平凡さはさておき、彼の真の資質のひとつは、感情をストレートに表現するところだからだ。

 だから、本当のことをいうと、私はいまでもノエル・ギャラガーの音楽が嫌いだ。私のなかの一部分が、彼の音楽を好いているから嫌いなのだ。彼は、私のなかにある快感センサーを刺激する方法を知っている。不協和音のスリルを忘れ、彼の音楽に没入する自分を許してしまい──本気で耳を傾けることを思い出した後に、6分間死んでいたことに気付かされるのだから。


The problem with Noel Gallagher (and why he’s good)written by Ian F. Martin

I can’t stand Noel Gallagher.

I’ve disliked him for nearly thirty years, and this bothers me a little. To have been an extraordinarily successful and well loved songwriter for so long, he must in fact be good at his job. More personally, for me to have hated a musician like that for so long, I want to know why.

As a teenager in the mid-90s, the reason was pretty simple: you had to choose between Blur and Oasis, and I chose Blur. Still, I probably shouldn’t carry into adulthood and middle age musical opinions that were moulded by the cheap provocations of NME journalists — writers who were probably younger at the time than I am now. I should be more mature than that, right?

At the time, the first thing I would probably have said was that his lyrics were bad. Looking back, they certainly weren’t good lyrics of the sort a David Berman or a Momus might write, but they were never meant to be: they were a punk rock fuck-you to middle-class snobs and critics like me, and the way lines like “She done it with a doctor / On a helicopter” jump deliriously and nonsensically from rhyme to rhyme is attention-grabbing and funny. The core of it, perhaps, is a sense that the soul of the song is carried by the music, not the lyrics, and if you can’t get that, you’re not listening with your heart.

So I start wondering if maybe that “heart” is what I found off-putting — that the emotions in Noel’s songs felt cheesy and facile, that the confident, swaggering attitude that the band projected didn’t speak to someone who spent their teens lost in complexity and doubt.

This is an unfair critique to bring to Noel’s current music. For a start, so much of that swagger was down to Liam and his sneering rock star vocals. Noel has far less of a rock star presence and his voice is a thinner, more vulnerable instrument. It’s interesting that even as Noel and former rival Damon Albarn’s musical ambitions have widely diverged, their pop songwriting has also revealed more points of similarity: two singer-songwriters with small, weary voices that easily carry the melancholy tint of middle age. Listen to Noel’s song “Dead to the World” and it’s easy to imagine Damon’s voice singing the lines “And if you say so / I’ll bend over backwards / But if love ain't enough / To make it alright / Leave me dead to the world”.

There’s a sense, too, that Noel Gallagher is a more humble, or at least thoughtful figure than he used to be on his new High Flying Birds album “Council Skies”. A sense of loss runs through the record, with the song “Trying to Find a World that’s Been and Gone” placing a familiar refrain about having “the will to carry on” in the melancholy context of a struggle that’s worth it even though it might be futile. In the title track, meanwhile, the aspirational swagger of the 1990s seems to have faded into a duller and more fragile hope that persists in the promise of the council estate skies that Noel can still presumably remember from his millionaire Hampshire estate.

That greater sense of reflection doesn’t necessarily mean the lyrics are any better, though. Without the punk swagger of early Oasis, all that’s left is cliché. The album’s title track opens with the words of wisdom “Catch a falling star”, swiftly followed by the profound observation that we might “drink to better days”. The song isn’t done though, firing nuggets of poetic genius one after the other: “Waiting on a train that never comes”; “Taking the long way home”; “You can win or lose it all”. The sheer banality of Noel’s lyrical imagination banishes every charitable thought I’ve been building up about his songwriting, and my irritation begins to rise. By the time he rhymes “Tonight! Tonight!” with “Gonna let that dream take flight” on the insipidly titled closing anthem “We’re Gonna Get There in the End”, I want to kill myself. I feel insulted not by how stupid Noel is (he comes across as sharp and observant in interviews, even when I disagree with him) but how stupid he thinks his listeners are.

I need to dial back my annoyance and get a bit of perspective.

An common remark about Noel Gallagher is that he makes “meat and potatoes” music. It’s a comment that’s either criticism or praise depending on the speaker, but it feels true either way. The appeal is that you always know what his melodies are going to do five seconds before they do it, and once placed inside that music, the lyrics glide by frictionlessly: vague sentiments that you barely recognise are even there. This is sonic comfort food made with practiced care from basic ingredients that have remained unchanged for generations — is the chiming guitar hook that anchors “Love is a Rich Man” the same as “The Two of Us” by The Jesus and Mary Chain (2017)? Is it “Change” by The Lightning Seeds (1994)? Is it “Roadrunner” by The Modern Lovers (1972)? It’s the accrued memories of them all, and of a million other pieces of rock history channeled into a warm moment of half-remembered exultation.

To put it another way, there are no surprises: this is music that tells you it’s OK to be yourself forever and never change. It’s music for people who don’t want to hear anything that challenges their expectations. And a confession: a little piece of me does like Noel Gallagher. I’ve seen both Oasis and Noel Gallagher’s Flying Birds live at festivals and both times got swept up in it despite myself. I remember driving with a friend through Kyushu as “Be Here Now” came on his car stereo, and I knew all the songs, all the words, more than 20 years after the last time I heard or even thought about the album. After all, what is a cliché but a phrase so well worn that it’s contours are carved into your brain? It’s part of you.

So my resistance to Noel Gallagher is really a resistance to that part of myself that’s drawn to musical comfort and conservatism. But why? What is this contrary, masochistic side of me that can’t just be happy and needs some tension with the music I listen to?

Fundamentally, a bit of tension in a piece of art is exciting. The opening of The Beatles’ “Strawberry Fields Forever” is a great example, with the vocal melody resolving cleanly on the G note where instinct tells you to expect it, while the underlying chord structure pulls the rug out from beneath you with a dissonant F minor. The tension between the listener’s expectation and what the arrangement actually does sends you tumbling into the song’s uncertain reality and there’s a thrill in this contact with the unfamiliar.

Around the time Oasis were breaking big, arguably the most exciting thing happening in rock music was in the dissonant sphere of lo-fi music. In the same summer of 1994 that Oasis’ debut “Definitely Maybe” first hit the charts, America’s greatest rock band Guided By Voices were releasing their breakthrough album “Bee Thousand”. While they, like Oasis, revelled in the predictability of the same established British Invasion rock formations, GBV leader Robert Pollard also insisted on a tension between what he called “creamy” and “fucked-up”. For him, a melody deemed too “creamy” would need to be mutilated in some way to make it acceptable for release: songs cut short or mashed together in haphazard ways, discordant sound effects or sonic artefacts emerging from the DIY recording process thrown in to interrupt the flow of the familiar.

American music critic and professional grumpy old git Robert Christgau described “Bee Thousand” as “pop for perverts — pomo smarty-pants too prudish and/or alienated to take their pleasure without a touch of pain to remind them that they're still alive”. The cynical tone aside, Christgau nails the appeal of GBV’s approach: yes, the pleasure is a little perverse — the sonic equivalent of the “tsundere” fetish — but that tension between the familiar and the oblique injects the thrill of uncertainty into the courtship dance the listener does with the music.

Even with an artist like Phil Collins, who Noel Gallagher has in the past dismissed as boring and conservative, there can be tension at work. Noel could never write a song like “In The Air Tonight”. The vocals flow loose and free, caressing the contours of the music but always locking back in for the refrain; the drum break that kicks the song into life is teased repeatedly but held back for so long. Get over your soft rock prejudices and you can imagine a deeply sensual, neon-bathed movie sex scene that reaches a mutually satisfying climax to the sound of Phil Collins. Imagine the same scene set to the music of Noel Gallagher… or maybe don’t. I just spent an uncomfortable seven and a half minutes listening to “Champagne Supernova” while trying to picture it, and it just doesn’t work.

What Noel’s song does succeed in evoking, though, is a sort of collective euphoria, and that’s where his music is most at home. The frictionlessness of his lyrics and arrangements work best lubricating the gears of social gatherings without demanding anything much from the listener other than that they submit themselves to the buoyant vibe of the group. It shares something, perhaps, with Noel’s youth during the height of acid house, but the differences go further than genre. Acid house had its own tension in the form if an us-and-them struggle with an establishment that didn’t (in the words of Spacemen 3) “want you and me to enjoy ourselves” — which is to say more broadly between the past (the Tory party) and the future (taking massive amounts of drugs in a disused warehouse while listening to electronic music). While Noel clearly has some sympathy with that era and ethos, and has flirted with electronic acts on occasion, his own music has always been more interested in the past than the future, more establishment than insurgent. And for all his occasionally spicy public remarks on politics, other musicians or his brother, a visceral sense of tension — whether philosophical, sexual, lyrical or “pomo smarty-pants” art-masochism — has no place in Noel Gallagher’s music.

This is fine, of course: he makes songs for people who don’t want to fight with their music, and he is very good at it.

I thought, when I started to write this, that I might end there, on a conciliatory note, with the realisation that I’d been unfair on Noel in the past and with a mature acceptance of his undoubted qualities as a songwriter, despite my differences in taste. But I don’t think that would be fair to him or his music either: for all his banalities, one of his genuine qualities is that he is a straight shooter emotionally.

So in truth, I still hate Noel Gallagher’s music. I hate it because a part of me likes it. Because he knows how to work that little part of me and stimulate those pleasure sensors. Because I let myself forget the thrill of the dissonant and sink into it — until I remember to really listen, and then I realise I’ve been dead for six minutes.

*§*†

 まだ春が近づく気配も感じられない静かな夜のことだった。外出先から帰宅したばかりの私はどういうわけか無性に初期の暴力温泉芸者(中原昌也)のアルバムが聴きたくなり、CDラックの奥のほうに突っ込まれていた『Otis』(Endorphine Factory, 1993)をその手前に無造作に積まれた本の山を崩しつつ、苦労して引っ張り出してきた。YouTubeにアップロードされた音源を適当に見繕って聴いてもよかったのだが、CDでないといけない気がしたのでブラウザは開かなかった。ヴァイナルほどではないにせよCDで音楽を聴く行為には昨今では明らかに儀式的な性格が付きまとっている。とはいえある種の聴取のモードに入るためにその過剰さが好都合に働くこともあるのだ。プラスチックケースを開け、ディスクを取り出してスリットに挿入し、読み込まれたのを確認してから再生ボタンを押す。最初のトラックは中原本人と思しき青年が、友人たちとともに訪れたカラオケボックスで『ミラーマン』の主題歌を気持ちよく歌う様子をほぼそのまま垂れ流したあの有名な楽曲(?)である。このトラックによってアルバム全体を貫くトーン、表面に現れるスタイルとは別の、根底をなすメタスタイルとでもいったものが決定される。リズムマシンが打ち出す正確なリズムはつねにどこか場違いな軽みを帯び、掻き鳴らされるギターの弦はたいてい緩みきって調子外れな音を出しており風刺性さえ感じさせない。歌とも叫びとも語りともつかない声が時折介入するかと思えば、突如として不穏な沈黙が挟まる。異様にオプティミスティックな映画の一場面がサンプリングされた次の瞬間には、ジャパノイズの十八番たる爆発的なハーシュノイズが耳を覆う。絶対的に文脈を欠いたデスヴォイスがいつ果てるともなく続き、そして糸が切れたように唐突に終わる……楽曲ごとにスタイルはまったく異なるにせよ、その背後にある中心的モチーフあるいは戦略素は一貫している。テレビで繰り返し流れるCMソングや子ども時代に見ていた(見せられていた)特撮番組の主題歌といった、嫌でも耳に入ってきてしまう音、イヤーワームとして頭に染み込んでしまった音をいわば「吐き戻す」場所としてのカラオケボックスがそれだ。むろん第一義的にはそこは、日本のポピュラー音楽が文化産業(アドルノ)として消費者側の需要を刺激しつつ、映画やテレビといった視聴覚メディアの物語生産のフォーマットと連動して、聴覚的‐情動的な支配‐被支配関係の再生産を行っている当の場所であるのだが……音は、社会から切り離された抽象的な空間で生成されているわけでは決してなく、社会そのものの良くも悪くも具体的な、生々しい運動から放たれるノイズとして存在している(中原も友人たちと連れ立って、いわば社会的行動の文脈においてカラオケボックスを訪れている)。暴力温泉芸者はカラオケ的な音がもつそうしたノイズ的、ないしはアブジェクション(クリステヴァ)的な本性に気がついているようだ。暴力温泉芸者の名に含まれる「温泉」は──もちろんそこにもしばしばカラオケマシーンが置かれている──性的かつ生物学的な再生産(生殖)のために家庭とは別に社会的に設えられた空間の名にほかならない(他のノイズ・ミュージシャンたちと同様に初期の暴力温泉芸者は古いポルノ映画からの引用を頻繁に行っている)。他方、暴力温泉芸者の出す音がときにどれほど凶暴に(文字どおり「暴力」的に)なろうと、単純なレベル・ミュージックには決してならない(なれない)のは、レベル・ミュージックさえ商業的に利用し、消費と生産の際限のない循環に包摂することができる後期資本主義の(ポストモダンの、と言ってもよい)メカニズムについての意識をもたないことが彼のように知的に鋭敏な人間にとっては不可能なことだからだろう。暴力温泉芸者は言ってしまえば教養がありすぎて、どこまでいっても体制との折り合いをつける「芸者」としての仮面を外すことができないのだ。それは良くも悪くも、である。しかしその不可能性の前で恐れることなく棒立ちし続けるすっとぼけたアイロニーの内在的強度こそが、暴力温泉芸者のノイズを他面では、MerzbowやIncapacitantsの超越的あるいは超俗的なニュアンスをもったノイズから差異化している。別にこれは私一人の独創的な見解というわけでもなく、彼の音楽が好きな人たちのあいだでは多かれ少なかれ共有されている見方だと言っていいだろう。再生産の場所の曖昧な汚濁を引き受けた暴力性は、犬の鳴き声(おそらく小型犬だ)とカンフー映画の打撃の効果音と取り留めなくその周波数を変えるサイン波との組み合わせのなかで、アイロニカルに物象化される。ポルノへの参照に加えて中原の音楽には、初期のコーネリアス(小山田圭吾)と同様に、お笑い(コメディ)へのベクトルが含まれている(そしてもちろんコメディの感覚‐運動図式は「いじめ」のそれから切り離せないものである限りで、ポルノと同様のアブジェクション的な次元を備えてもいる)。道化師の媚態はそれ自体が鋭利な恐怖の源泉となりうる。

 私は満足してCDプレイヤーの停止ボタンを押す。

 その夜私が暴力温泉芸者のアルバムを聴きたくなったのは偶然ではなく、実はあるノイズ・ミュージックのライヴを聴いてきた帰りだったからなのだが(私たちの心のなかで生じる表象の移り変わりは事程左様に、一見私たちの自由意志に従っているようでありながら、突き詰めていくとこうした機械論的因果性のもたらす必然性に例外なく従っているものなのである──心的な領域にまで届く運命論(fatalism)、この地点でこそ、私たちが自身を自由であると感じるのは私たちがたんにその意志を規定している原因を知らないからなのだと主張する必然主義の哲学者スピノザと、夢や失錯行為はたんなる偶然的なものなどではなく無意識的な隠れた動機をもつものなのだと強調する合理主義の精神分析家フロイトとがにこやかに握手を交わす)、そのライヴによって突きつけられた謎を解くための鍵をおそらく私は、初期の暴力温泉芸者のアルバムを聴くことによって無意識のうちに探っていたのだろう。その謎とはひとことで言えば、結局のところ、ノイズとは何なのだろうか、というものである。というのもすでに述べたとおり、中原のアルバムに登場する音は猥雑なまでの多様さを示しており、単一の本質的な特徴によって括ることなど(カラオケ的という茫漠とした特徴を除けば)到底できないように思われるし、しかもそれらの音は各々単独に取り出してみれば決してノイズとは呼ばれえないような、私たちが日常的に耳にするようなありふれた音だからだ。いや、平凡さを通り越してその音が与える印象は、ほとんど頓馬の域にまで達していると言ったほうがいいのかもしれないが。

 誰もはっきりとは言わないが誰もが薄々感じているであろうことを、ここであえて言ってしまうと、ほとんどのノイズ・ミュージックは全体の印象としては同じように聞こえるものだ。もちろん部分ごとに比較すれば差異は当然のように聴きとれる。だが全体としてのノイズは、アルバム単位であれトラック単位であれ(そもそもトラックごとに楽曲として区切られること、始まりと中間と終わりをもつこと自体を、ノイズ・ミュージックは忌避する傾向にあるのだが)個体性よりも識別不可能性を明らかに志向している。聴き分けるということへの、知覚の解像度への抵抗がそこにはある。だからこそ(ちなみに自由即興のジャンルにも似たような傾向が見られるが)その識別不可能性があたかも存在しないかのように、それらの「作品」の個別的特徴を知覚的に明らかのものとして語ってみせることが批評的なパフォーマンスとして成立するのだろう。しかし実際のところ……使用する機材の違い、スタイルの違いはあれど、ノイズ・ミュージックは、ノイズであろうとする限り、ある意味で多かれ少なかれみな〈同一の音〉を鳴らしている、と言うことができるのではないだろうか。すべてのノイズ・ミュージックは、多かれ少なかれ類的につながっているのだと。そしてそのような識別不可能性を真正面から認めるときにこそ、〈いまここ〉ならぬ〈そのときそこ〉で鳴っていたノイズの特異性を聴きとることができるのではないだろうか。この特異性は、声に出されることのないひとつあるいは複数の問いの雲のようなものとして、耳の中で高速で回転し続ける。声を獲得し定式化されるときには、すでにそれは陳腐な響きを帯びてしまっていることだろう。その〈問い以前のもの〉が耳の中で回転しているうちに、言語化されてしまう前に、テープにその〈問い以前のもの〉と同等な何かを自分なりのやり方で吹き込んでおくこと。それをしていれば、私も今頃ノイズ・ミュージシャンになることができていたのかもしれない。だがもう遅い。その問いは言語化されて、カラオケで歌われるあれやこれやの歌と同様の、あのありふれた、ちょっとした汚らしさを伴って再生産されてしまっている。「結局のところ、ノイズとは何なのだろうか」という少しばかり気どった歌の文句として……。

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§†**

「ノイズとは何か」という問いが「音とは何か」や「音楽とは何か」といった問いと同様に、その見た目の初歩性に反してかなり厄介なものであることは、現代の実験音楽とその周辺の言説にある程度以上慣れ親しんできた人々のあいだでは、おそらくほとんど常識と言っていいほどによく知られた事柄である。「〜とは何か」という本質主義的な問いの立て方が、すでにこの問いを袋小路へと向かうよう運命づけているのだと述べるだけでは十分ではない。困難は、音や音楽が問いの対象としてポジティヴなものであるのに対し、ノイズはネガティヴな対象であるということに存している。とはいえ、ネガティヴであるとは抽象的であるということを意味するのではない。ノイズは私たちが日常的に繰り返し耳にしているものでもあるし、間違いなく経験的な具体性を帯びた対象であると言うことができるのだから。

 「ノイズとは何か」というこの具体的すぎるがゆえに手に負えない問いに対して、いまあえて答えることを試みるならば、採れる道筋はおそらくひとつしかない。すなわち、最も素朴な答えから出発して、その失敗を確認しつつ、徐々に素朴でない答え方へと移行していくというやり方である。かくしてひとは次のように呟くことになる。ノイズとは少なくとも、音楽的ではない音のことだ。音楽的な音とは、音楽理論で音高(ピッチ)と呼ばれ、音響物理学では周波数(可聴域内の)と呼ばれる要素をもった音のこと、言い換えれば、リズムとして知覚されるよりも短い時間スケールにおいてある種の安定した反復構造を示すような音のことである。したがってノイズとは、そのような内的な反復構造ないしは周期性をもたない音のことである、と。反例を挙げるのはそれほど難しくない。スピーカーの配線を間違えた際に鳴るハムノイズは明らかに音高/周波数をもつが、それでもノイズと呼ばれている。また、身のまわりの(やや古い)電子機器から発されるビープ音や、オーディオ機器のテストの際に使用されるサインスイープ音も、純粋な音高/周波数を備えているにもかかわらず、むしろノイズとして聴かれることのほうが多いだろう。ゆえに、ある音がノイズであるか否かは、その音の内的構造としての周波数や倍音構造に即して決定されるのではなく(西洋音楽において非整数倍音をもつ金属的な音色がノイズないしそれに準ずるものとして扱われることが多かったという歴史的事実をひとまず脇に措くなら)、むしろその音にとっての外的な構造、すなわちその音がそこにおいて聴かれているコンテクストに即して決定されるのだと言われなければならない。
 だが、そのように言ってみたところで何も解決されはしないということに私たちはただちに気づかされる。実際にさまざまな音がノイズとして聴かれるのが〈いかなる〉コンテクストにおいてなのかを突き止めない限り、「ノイズとは何か」という問いは相変わらずひとつの謎として残り続けることになる。

 視点をずらしてみよう。一般にある音がノイズとして聴かれるのはその音が非音楽的なコンテクストにおいて聴かれる場合、またその場合に限られると述べるとき、私たちはノイズをいわゆる環境音と実効的に同一視していることが多いように思われる。たしかに、都市において聴かれる各種の心理的にストレスフルな環境音は、イタリア未来派のルイジ・ルッソロの「ノイズの芸術」のアイデアが典型的に物語るように、歴史的に見てノイズの具体例として真っ先に挙げられる類いのものではあった。しかしその一方で、田園的な風景のなかで聴かれる川のせせらぎや鳥の鳴き声といった環境音は、一九世紀のロマン派以来(古代ギリシアのピタゴラス派の「宇宙の音楽」以来ではないにせよ)「自然の音楽」という詩的メタファーによって枠づけられ、ノイズとは正反対の評価を受けとることも少なくなかったことが思い起こされる。付言しておけばR・マリー・シェーファーのサウンドスケープの思想における「保護」されるべき環境音とそうでない音とを分かつ差異も、こうした自然/人工という古くからある二項対立を参照して設定されている。事情がそのようなものである以上、歴史的に見てすべての環境音がつねにノイズの領域に属してきたと言うことはできないだろう。また、ノイズと呼ばれる音のなかに都市の環境音だけでなく、先に触れたような人工的に(意図的に)生成された電子音、とりわけカラードノイズと呼ばれるような音が含まれていることを考えるなら、すべてのノイズが(非意図的に生成された音という意味での)環境音の領域に包摂されるわけではないということも認めざるをえない。要するにノイズと呼ばれる音の領域は、環境音のそれとも電子音のそれとも正確に重なりあうことはないのである。

 加えて、ノイズの概念は近年では音響的なものの領域を超え出ていく傾向さえ示している。「ノイズという語を、ほとんどの場合引用符付きで、音とは関係のないさまざまな文脈においてしばしば情報と対立するものとして用いることはいまや当たり前のことになった」と、セシル・マラスピーナはその著書『ノイズの認識論』の冒頭で述べている。たとえば金融の分野で語られるノイズとは、「証券取引所でのランダムな変動に関連した不確実性」にほかならない。「ノイズは、経験的探求のほとんどすべての領域で、データの変動性の統計的分析に元から備わる概念となった」。現代的統計学における精度(precision)の概念が誤差すなわちノイズがそこに収まる幅によって定義されていることからもわかるように、ノイズは現代の知、科学的認識の手続きにとって付帯的なものではなく、むしろ構成的なものである。「ノイズという語の特別な意味はそれゆえ、統計的平均との関連での不確実性、確率、誤りといった考え方が被った方法論的な変容とそれらがまとった新たな科学的身分とをともに含意している。このような豊かさを背景として、サイバネティクスと情報理論においてその後になされたノイズの定義は、物理的エントロピーの概念と、より一般には不確実性、統計的な変動および誤差の概念を遡及的に取り込むこととなった」(Cecile Malaspina, An Epistemology of Noise, London: Bloomsbury, 2018, p. 1-2)。
 ならばそこからのアナロジーで音としてのノイズを、シグナルすなわち聴取者に何らかの情報を与える正常な音に対立する、いかなる情報も与えない異常な音だと定義すればよいのだろうか。少なくとも理念的な極限としてなら、そのような不可能な音の存在を仮定することも許されるだろう。だが言うまでもなくそのような定義からは、音響的な複製や生成の技術的過程で生じる純粋なトラブルとしての、再認不可能で複製不可能な(すなわち反復不可能な)音のようなもののみを〈ノイズなるもの〉のモデルとして特権化するような身振りが避けがたく生じてくる。それはノイズの概念を再び、可能的な聴覚経験の全体を吊り支える、それ自体は聴覚的に経験不可能であるような単一の点に、あるいはそうした全体に対する超越論的ないしは潜在的な裏地のようなものに変えてしまうことにつながるだろう。そのような「否定神学」的なノイズの概念を振りかざすことが、数学的極限としてのホワイトノイズに〈ノイズなるもの〉の超越的で実定的な理念を見てとる通俗化されたデジタル・ミニマリズムの素朴な態度と比べて、理論的にも実践的にも特段優れているわけでないことは言うまでもない。クリストフ・コックスが諸芸術における共感覚を唯物論的角度から論じる文脈で、ドゥルーズの共通感覚批判を引き合いに出しつつ、「感覚されうるものの存在ではなく感覚されるところのものを把捉する「諸能力の経験的使用」〔すなわち常識=共通感覚〕」に対立する、各能力の限界にまで行き着くことで「感覚されうるものの存在」を明るみに出すような「諸能力の超越論的行使」を称揚する際に陥っているのは、まさにこの種の危険であるように思われる(cf. Christoph Cox, Sonic Flux: Sound, Art and Metaphysics, Chicago, IL: University of Chicago Press, 2018, p. 212)。
 結局、ノイズを聴くことのうちで賭けられているのは、その可能的な経験(つまり可能的なノイズの聴取)といったものではなく、むしろ実在的な経験、事実性としての経験、つまり実際に聴かれた音のうちでその音が自己同一性を失い、何か別のものへと変形していくのを(それがどれほど短い時間に生じることであれ)聴く、聴いて〈しまう〉ということであるのだと思われる。だがそのような事実的に聴いて〈しまう〉ことの核には、不可能な音の可能性をそれでも信じきるといった神秘主義の行為とは何か別のものが存在しているのでなければならない。

 神秘主義なきノイズとの出会いにたどり着くためにまずなすべきことは、ノイズを何らかのタイプの音として実体化したうえでこれを聖別するような、あらゆる身振りを退けることであると考えられる。かつてエドガー・ヴァレーズは「主観的には、ノイズとはひとが好まないあらゆる音のことである」と述べた。このような心理的観点からの定義の企ては、たしかに「ノイズとは何か」という問いを「ノイズを聴くとはどういうことか」という別の問いに適切に置き換えるという点では有益なものである。しかしこれは、ヴァレーズ自身「主観的には」という留保を付すことで仄めかしているように、ある音がそこにおいてノイズとして聴かれるコンテクストについて情動的観点からの限定を加えるものでしかない。聴覚文化研究者のマリー・トンプソンが強調するように、ノイズというカテゴリーには明らかに「望まれない音」以上の何かが含まれている。「ノイズなくしては音楽も、メディア作用も、音そのものさえ存在しないのだ」(Marie Thompson, Beyond Unwanted Sound: Noise, Affect and Aesthetic Moralism, London: Bloomsbury, 2017, p. 3)。そしてその「〜以上の何か」とはおそらく、ポール・へガティが宇宙背景放射を念頭に置きつつ次のように語る際に仄めかしているような、ノイズにおける除去不可能な何かのことである。「ビッグバンは音をもっている──それは決して取り除くことのできない最終的なスタティックノイズだ──それゆえ宇宙それ自体は(少なくともこの宇宙は)ノイズとして、残余として、予期されざる副産物として想像されうるのであり、そして最後の音はまた最初の音であることになるだろう」(『ノイズ/ミュージック』若尾裕・嶋田久美訳、みすず書房、二〇一四年、八頁、訳文変更)。仮に宇宙そのものに音量のようなものがあるとして、それを無際限に増幅していくなら、どの局の放送も受信していないラジオの音量を上げていったときのように、ついには何らかのスタティックノイズが出現するはずである。その音は初めからすべての局の放送の背後で鳴っていたのだが、そのことが気づかれるのはそれらの放送すべてが終わった後のことでしかない(したがってそこでは所与としての可能的な音響の超越論的枠組みがアプリオリに聴かれているわけではない)。ノイズの除去不可能性は究極的には、ノイズがもつこのような時間的に捻れた存在論的身分に関わっている。へガティが思い描く「最後の」聴取が、彼が肩入れする哲学者ジョルジュ・バタイユにおける宇宙的な夜、絶対的な無差異への脱自的没入というヴィジョンに引きずられた誇張的な提案である点には注意すべきだが、ノイズを宇宙論的に理解しようとするその姿勢自体は、沈黙をノイズの同義語として用いたジョン・ケージの思想を彷彿とさせるものでもあり興味深い。

 周知のようにケージは、ヴァレーズの定義とはわずかに異なり、「沈黙とは私たちが意図していない音のすべてである」と述べている。「絶対的な沈黙といったものは存在しない。したがって沈黙に大きな音が含まれるのはもっともなことであり、二〇世紀にはますますそうなっている。ジェット機の音やサイレンの音、等々だ」(Douglas Kahn, Noise, Water, Meat: A History of Voice and Aurality in the Arts, Cambridge, MA: MIT Press, 1999, p. 163より引用)。意図していない音とはすなわち、偶然的な音、正確に言えば「望まれない音」であるのかどうかさえいまだ不確定であるような音のことである。だとすればケージによる沈黙としてのノイズの定義は、ヴァレーズの定義が引いた主観性という境界線を一歩だけ、しかし決定的な仕方で、踏み越えていることになる。というのも、意図されない音として背景ではつねに何かが鳴っており、そしてこの鳴り響く何かは、私たちにとって(主観的に)偶然的であるだけでなく、究極的にはそれ自身において(客観的に)さえ偶然的な、あるがままの事物の断片にほかならないからだ。ノイズをネガティヴな情動との関係によって特徴づけるのではなく、情動そのものへの無関係、情動へのインディフェレンツ(無関心=無差異)によって特徴づけること。私たちはここで「偶然的なものだけが必然的である」という哲学者カンタン・メイヤスーの思弁的なテーゼを思い出すこともできる。偶然的な音としてのノイズは、一見、聴取する私たちの意識に相関的に存在しているにすぎないもののように思われるかもしれないが、実際にはそうではない。私たちの聴取の志向的働き(意図)が存在していなかったときでさえ何らかの音が沈黙として存在していたのであり、それが音として鳴っていたことに事後的に気づくことを通じて、私たちはこの沈黙をノイズとして遡及的に聴取することになるのである。偶然性のヴェールによって守られたものとしてのノイズは、私たちの意識や思考に対して非相関的に振る舞うことができるほとんど唯一の知覚的な存在者だ。裏を返せば、沈黙としてのノイズというケージの考えを偶然性という契機を無視して理解すると、ダグラス・カーンが鋭く指摘するように、音楽家の主観的な意図(発言)を「音そのもの」から除去することには成功しても、聴くことができる=音であるという等式に従って、汎聴覚性(panaurality)というかたちで主観的な属性を客観的な音の世界の全体に再び投影することになってしまうのである(cf. Kahn, op. cit., p. 197-8)。ゆえに偶然性という契機は「存在としての存在」ならぬ〈ノイズとしてのノイズ〉から切り離せない。そしてそのような偶然的ノイズは、日常的なコンテクストでも十分に出会うことが可能な、規定された個体的な音である限りで(その個体性がどれほど不可思議な構造をもつにせよ)、超越論的ないし潜在的なノイズからは区別され、事実論的ノイズと呼ぶことができるものだろう。
(例。暴力温泉芸者の初期の作品に聴かれるようなサンプリングとサウンド・コラージュは、そこで鳴っている音そのものは日常的によく耳にするような、消費社会が生み出した一種の音響的な屑であり、再認可能で反復可能な音であるにもかかわらず、ノイズとして十分に聴かれうるものとなっている。そうした事態はそれらの日常的な音がどこかで聞いたことのある音、勝手に耳に入ってくるような音であって、それが鳴った瞬間に一定の注意とともに聴かれるような音ではないからこそ可能になっているのだと考えられる。またそれは別の観点から言えば、どこかで聞いたことのある、おそらくは繰り返し聞いたことのあるような音こそ、かえってそれを聞いた時間と場所を厳密に特定するのが難しいということでもある。暴力温泉芸者においてはさらに、サンプリングを元の音源から直接行わずに、ダビングもしくはローファイな環境で録りなおして音質をわずかに悪化させたものから行うことで、時間と場所についてより特定可能性の低い音像が作り出されている。一般にある音が自身の生成された状況についての情報を与えなくなればなるほど、その音はノイズに近づくと言える。これはたんに音源の現前性から切り離された音という意味での「アクースマティック」(ピエール・シェフェール/ミシェル・シオン)な音になっていくこととは異なる。というのも、ノイズへの漸近においては原因としての音源の特定可能性というより、結果=効果としての音自体の同定可能性が壊れていくことになるからだ(つまり、その音が何から出た音なのかがわからなくなるのではなく、その音が何であるのかということ自体がわからなくなる)。日常的な音は事後的にしか(一定の注意で)聴かれないことにより、聴覚的記憶のシステムにある時間的な捻れを発生させる。私たちが事実論的ノイズと呼ぶのはこの捻れの個体的に規定された諸事例にほかならない。イニゴ・ウィルキンズがマラスピーナと同様に確率論と情報理論の文脈を踏まえて「不可逆的ノイズ」と呼ぶものも、私たちが事実論的ノイズと呼ぶものと同様に、システムのなかでの情報の回復不可能な消失とその結果生じる時間的非対称性に強く依拠しているように思われる(Inigo Wilkins, Irreversible Noise: The Rationalisation of Randomness and the Fetishisation of Indeterminacy, PhD thesis, Goldsmiths, University of London, 2015, p. 37-8)。)

 ノイズに関するそのような強い偶然性、すなわち事実論性の仮定のもとでは、おそらく「私が聴いているのは何の音なのか」という問いを超えて、「私が聴いているのはそもそも音と呼ばれうる類いの事物なのだろうか」という問いを引き起こすような聴覚的‐音響的な出来事こそが、純粋なノイズとの出会いのメルクマールと見なされることになるだろう。このような出来事の概念は、環境世界のうちに折り畳まれた潜在的な〈生〉の線の反‐実現的な解放というドゥルーズ的な理解におけるそれよりも、日常的状況のうちには所属しえない実在的〈不死〉の輪郭の識別不可能な到来というアラン・バディウがその諸著作で描き出すようなそれにより近いと言える。バディウにおいて「出来事」とは、ある局所的な「状況」のうちでカテゴリー化され認識可能なものとなっている諸々の「存在」を超え出るものであって、ちょうど科学革命(パラダイム・シフト)を通じて立ち現れる諸概念間の共約不可能性がそうであるように、その「出来事」への忠実さを維持しようとする「主体」の助けを借りつつ、既存のカテゴリーを解体して新たな記述的手段を開発することで「状況」の再編成と拡張された認識可能性の出現とを準備するものである。それゆえ音にまつわるカテゴリーそのものの改訂可能性こそが、ノイズの純粋な現前化の核をなす。事実論的なノイズは、最初の聴取においては日常的な、再認可能で複製可能な音でありながら、最後の聴取においてはそうした普通の音がそこにおいてみずからの位置を割り当てられた現象性の枠組み全体が崩壊する可能性を指し示すことさえできるような、ある種の終末論的負荷を帯びた、独特な象徴的強度とアレゴリー的ギミックとを備えた音でなければならないだろう。サンプリングされ、反復可能となったデザインとしてのグリッチを私たちはもはやノイズとして聴くことはしないが、それでもサンプリングの使用法、さらには反復の手法そのものの内側で、ノイズ的としか呼びようがない予見不可能な出来事(それは必ずしも機械的なエラーではない)を「望まれない」仕方で到来させることの可能性は依然として残されていると言うことができる。手垢のついたものと見なされている音響的イディオムのうちに物質的に蓄えられたノイズ的なポテンシャルを解放し、そこに耳の注意が向かうよう促すことは、ジャンルとしてのノイズ・ミュージックと直接の関わりをもたずまたそれに隣接するジャンルで活動しているわけでもない多くのミュージシャンが、音楽史を展開させてきたかの単純さと複雑さとの弁証法に従って、各自の関心に応じて音楽の新たな次元を探求する際に本能的に行っていることですらある──ジャック・アタリの著作を引き合いに出すまでもなく、すべての音楽は(ノイズを好まない人々にとっては気の毒な話であるが)ある程度までノイズ・ミュージックであるのだ。かくしてノイズの本質性なき本質は、音のほとんど全領域にいわばノイズ的な仕方で、ある揺らぎとともに拡散される。音(のようなもの)としてのノイズがもたらす感覚的認知のプロセスの根本的な不安定化は、さまざまな分野を横断して現れる概念(のようなもの)としてのノイズの不安定な同一性と共振している(後者がマラスピーナの言う「認識論的ノイズ」だ)。「ノイズとは何か」という問いに答えるあらゆる企ては、それゆえ最後には必然的に挫折する。にもかかわらずこの問いを追求するなかで、またその追求のなかでのみ、ひとはノイズとしてのノイズを聴くことができる。だからこそ私たちは、ノイズとは非音楽的な音のことであるという素朴な直観から出発するにもかかわらず、音楽の内側でこそノイズを探求するという一見矛盾したものに映る、エラーを吐き出すことを約束されたプログラムをあえて走らせるような選択をしばしば行うことになるのである。──ノイズ・ミュージックというジャンル、この絶対的に無謀な企ての必然性はそこから導かれる。つねに新たなるうるささ、ラウドネスを音楽として発明しようとすることへの、放埓さと忠実さのあいだで揺れ動きながらも、決して譲歩されることのない、あの準‐普遍的な欲望。

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*§†*

 さて、こうした話をいまさら蒸し返すことに何の意味があるのかと訝る向きもあるだろう。『OHM: The Early Gurus of Electronic Music』(Ellipsis Arts, 2000)や『An Anthology of Noise & Electronic Music #1』(Sub Rosa, 2001)といった優れたアンソロジーが発売された前後の時期には、サーストン・ムーアやポール・D・ミラー(DJスプーキー)といった教養ある人々の顰みに倣って、ノイズをめぐる現代的思考の起源をルッソロやヴァレーズやケージといった歴史上のアヴァンギャルドにまで遡って位置づけることには、たしかにある種の妥当性が認められていたかもしれない。しかし現在、そのような単線的歴史化の身振りを、音のクラスそして/あるいは音楽のジャンルとしてのノイズについて語るための、それがあたかも必須条件であるかのように行ってみせることは、この二〇年間に蓄積されてきたノイズに関する非目的論的歴史観にもとづく知見の数々に背くことであるし、ノイズをめぐる思考のうちにそれとは本質的に反りが合わない、真正性や音楽的な質に関する判断を暗にもち込むことにもなりかねないだろう、と。そうした非難を予期しつつ、それでもあえてここまで私たちが、ノイズの概念の歴史性を最近の聴覚文化研究や音響研究の成果への瞥見も交えて、駆け足気味にではあるが論じてきたのは、音楽のジャンルとしてのノイズがもつ概念的に(おそらくは政治的にも)不確かな地位が、音のクラスとしてのノイズ自体がもつ同様に不確かな地位と共鳴関係にあることを示したかったからであり、またノイズ・ミュージックの生産者と受容者のあいだで繰り広げられる言語ゲーム(もちろん文字どおりの言語を介して行われるわけではないが)の二〇二〇年代初頭現在における主要な(もちろん暗黙の)論点がもはや、聴取と相関する限りで存在するものとしての音の領域を美学的に拡大することのみに関わっているわけではない、ということを示したかったからでもある。拙劣かつ不完全な仕方であっても、ノイズをめぐる思考と聴取の歴史をいったんこのように俯瞰的に捉えなおしておくことは、ノイズ・ミュージックに関する神秘主義やファナティシズムに安易に身を委ねることから、あるいは薄っぺらな擬似‐民主主義的ダイバーシティの理念の美学的な代弁者としてノイズ・ミュージックを引き合いに出すことから、私たちをある程度まで守ってくれるという意味でも、決して無駄なことではないように思われたのだ。

 新たなラウドネスを音楽の可能性のひとつとして絶えず発明し続ける試みとしてノイズ・ミュージックを特徴づけることには別のメリットもある。すなわち、ラウドネスという性質そのものに含まれる社会的敵対性や生産関係(分業システム)に関わる規範性の次元への注目である。二〇二〇年代のノイズ・ミュージックにとって、ノイズとはたんに極端さと過剰さによって作動する政治的抵抗の意識の激烈な発露であるだけでなく、ある音をラウドなノイズとして聴くように促すコンテクストの解体と再構築のループを通じて、このコンテクストを貫いて走っている社会‐経済的な諸力のベクトルを観察するための実験的な機会を与えるものとなっている。社会的に実在的な空間のうちで構築されたラウドネスは「望まれなさ」というたんなる音響心理学的な属性に還元されることを拒むような、ある頑なな再帰性をもつ。いかなるノイズも聴き方次第で音楽になりうるという多幸感に満ちたポスト・ケージ主義的なテーゼの裏には、いかなる音も文脈次第でノイズになりうるという憂鬱きわまりない新自由主義的なテーゼが潜んでいる。近年のノイズキャンセリング機能つきのイヤホンやヘッドホンの人気ぶりと、それと表面的には矛盾する電車やカフェにおけるスピーカーをオンにしたスマートフォンでの周囲の目を憚らない動画視聴の流行とは、汎聴覚性を軸として展開されるポスト・ケージ主義の美学の敗北をしるしづけるものでは決してなく、むしろその完全な勝利から導かれた、ひとつのアイロニカルな帰結としての新自由主義的な美学、〈空間なき聴取〉とでも呼ばれるべき新たなミクロ統治性の様態が出現しつつあることを告げ知らせるものとして理解されなければならないのだ。ノイズと自由即興のフィールドで活動しながら、近年ではスコア(譜面)を用いた観客参加型の集団的即興を試みているマッティンは、そうした見方を現時点で最も深く発展させているミュージシャンの一人だと言えるだろう。「社会的不協和は私たちにケージのイデオロギー的無響室が現実には存在しないことを認めるよう求める──ホワイトキューブの中立性が現実に存在しないように。あなたはすでにこの実在性の一部であり、これらの不協和はすでにあなたのうちを貫いて走っている。そのため問いは以下のようになる。主体としてのあなたとは──あなたがひとつのものであるとして──いったい何か、そしてあなたは他者たちといかにして関係するのか。肝心なのは、あなた自身を分離するための人工的な実在性を──あたかもあなたがすでに趣味の自律性を行使することのできる主体であったかのように──生成することではなく〔……〕、実在性の他の諸側面との直接的な接続を生成することであり、経済と文化とあなた自身が主体として生産される仕方とのあいだに元から備わっている諸接続を探求することなのだ」(Mattin, Social Dissonance, Falmouth: Urbanomic, 2022, p. 30)。しかしこのパースペクティヴにおいて私たちは、私たちがそれぞれ〈個人〉として〈自由〉な主体であるという思い込み自体が、資本主義社会における抑圧的再生産と疎外(alienation)の構成的な歯車になっているという、厳しくもダークな洞察に直面することになる。「私たちがそれであるところのものと、私たちはそれであると私たち自身が考えているところのものとは同じものではない、つまり私たちは合理性を通じて完全な自己理解への直接的アクセスをもつことはない。言い換えれば、私たちがもっている自律性・自由・主体性についての概念は、特定の仕方で限界づけられ歪められているのだ。しかしこれらの概念は資本主義的生産様式のイデオロギー的エンジンである。経験的かつ現象学的な個人〔個体〕としての主体という理解は、それゆえこの主体を生み出した構造的な諸条件を遠ざけて覆い隠す」(Ibid., p. 103)。ノイズによる抵抗は、抵抗の主体そのものをどのようにして構築しなおすかという問いを回避しえない限りで、再帰的な構造をもった諸戦略の練り上げに取り組まざるをえない。ひとつの音がノイズとして聴かれるという出来事を規定する諸力の戯れは、心的で生命的な領域よりもはるかに社会-経済的な領域のほうに、そしてまた、もはや心理的ではない神経科学的な領域のほうに属している。

 ノイズ・ミュージックはそれゆえ、ノイズを聴くことの実在的(たんに可能的なのではない)経験の条件を問うために、「ノイズとは何か」という問いがその内在的な論理に従って生成する、あらゆる超越論的主観性を絶滅させる偶然性の感性論的なオルガノン、事実論的なものをめぐる時間的に捻れた思弁のための実験装置であると同時に、社会‐政治的な抵抗と闘争とが音響的/聴覚的領域において継続される際に必然的にそこを横切ることになるような、ある種の倫理的な負荷を帯びた、多層化された再帰性をもつ実践的空間でもあるのだ。ノイズ・ミュージックが、それぞれその最も高い強度に達した思弁と実践とのこのような複合体でありうるのは、それがジャンルに対するある種の自己転覆的な、擬死的な関係を保つ限りでのことである。哲学者のレイ・ブラシエがその論考「ジャンルは時代遅れである」において述べるには、「「ノイズ」は電子音響の探求と自由即興と前衛的実験とサウンドアートのあいだに広がる無人の土地を指し示すだけでなく、ポストパンクとフリー・ジャズのあいだ、ミュジック・コンクレートとフォークのあいだ、確率論的作曲とアール・ブリュットのあいだといった、諸ジャンルのあいだでの干渉が生じるアノマリー的な地帯をも指し示している」(Ray Brassier, “Genre is Obsolete” in Noise and Capitalism, Mattin Artiach and A. Iles (eds.), Donostia, San Sebastian: Arteleku Audiolab, 2009, p. 62)。はたしてノイズ・ミュージックにおいて音楽はジャンルとしてのみずからの死を擬態することで生き延びているのだろうか、それとも生きているとも死んでいるとも言うことのできない状態においてウィルス的に現存しているのだろうか。いまや私たちは、私たちが実在的経験として、事実として聴くことができた、ノイズ・ミュージックの演奏のひとつの具体的な事例を記述しなければならないだろう。ひとつのライヴ(デッド)レポートとして。

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§*†*

  ケース・スタディ。理性的に切り刻まれた実験動物の死骸。ただしそこで解体されるのは音響のほうではない。私たちのほうだ。ノイズ・ミュージックにおいて実験に供されるのは音ではなく、耳である。そうだ、しかし耳だけではない。音響が襲いかかることのできる身体のすべての部分。それらがテストされる。実際にはテストという名の拷問が行われるにすぎないのだが。倫理的負荷? そんなことを言った覚えはない。音は裏切る。音響にとっては倫理的だが人間にとっては非倫理的な線が次々と引かれてゆく。どこかで誰かの悲鳴が上がる。あるいはどこでもないどこかで誰でもない誰かの悲鳴ですらない声が上がる。否、それは声ですらない。より悪いことには、音ですらないかもしれない。最近は大規模言語モデルでさえ幻聴を聴く。私たちは餌に誘われ罠に落ちた、地下室に閉じ込められた哀れなドブネズミの群れである。ラウドネスの展開とともに音は熱と見分けがつかなくなる。子どもじみた拷問、茹で上がったドブネズミ(世界のほとんどはそのような出来事で構成されている)。私たちの耳はドブネズミになる(ネズミどもを根絶やしにしろ! とファシストが叫ぶのが聞こえる──だが次の瞬間にはファシストどももネズミの群れに変わっている)。卵の割れる音。卵生のドブネズミが私たちの耳の中に入ってきて、私たちの耳は〈最新流行〉の疫病の媒介者になる。耳は限りなく不潔になる。耳を切除し、また縫い付ける(ファン・ゴッホもそうすればよかったのに)。耳の中で骨が進化したり、退化したりする。搾取され追い詰められた耳は共食いし、近親交配を繰り返す。鼓膜と耳朶の違いさえもはや判然としない。私たちの種族はとっくの昔に死に絶えており、現在では私たちの耳だけが生存している(その逆も然り)。ある晩、ドブネズミの子孫たちが偉大な祖先に捧げるオードを歌う、あの金切り声が聞こえてきた。実はそれが革命の合図だったのだが、あまりにも不愉快で、誰もその歌を聴き続ける気にはならなかったため、この宇宙で一度しか到来しないはずのその好機は無為に消費され、永遠に消え失せてしまったのだった。めでたしめでたし(続きを読むにはイジチュールとヨゼフィーネの合いの子を作らなければならない、ChatGPTで)。排水溝を流れる、切り刻まれあるいは茹で上げられて死んだ実験動物の耳は海を目指す。この耳は怨恨を募らせ、呪怨の言葉を吐き散らしながら、海に住むすべての生物を根絶やしにすることをその貧しい想像力のうちで夢見ることになる。海に電極を刺し、沸騰させてみよう。復讐の精神に取り憑かれたこの耳は度し難く残忍な、それでいて子どもっぽいギャングのように振る舞う。クラゲの仲間が撒き散らす精液と卵のなかを漂いながら、この切り刻まれた実験動物の死骸の目立たない部分たる耳は(文はここで途切れている)……結局、きみたちが聞きたがっているのは子守歌なのだ。だから……そして、昔々あるところに。あるところではなくどこでもないどこかに。汚らしい耳をもった耳が住んでいた(私たちの種族はとっくの昔に死に絶えていた)。耳は耳から生えている(耳がキノコの仲間であることは、現代の実験音楽とその周辺の言説にある程度慣れ親しんできた人々のあいだでは、おそらくほとんど常識と言っていいほどによく知られている事柄である)。胞子嚢の割れる音。ある晩(それはまだ春が近づく気配も感じられない静かな夜のことだった)、耳は祖先の秘密を探るべく地下室に降りる。そこに罠が仕掛けられているとも知らずに。地下室に閉じ込められた耳はそこが地獄であると信じ込むが、実際には地獄ですらない。どこでもないどこかで誰でもない誰かが上げた悲鳴が実は悲鳴ですらなく、声ですらなく、音ですらなかったように。アルトーなら屁ですらなく、と付け加えたところだろう。病に侵され衰弱しきった、おそらく数日以内に死ぬことになる何らかの動物の何らかの臓器が立てる、腐った、湿ったあるいは乾いた、屁ですらない音。名づける価値すらない音。その音の名はその音自身である(名づける価値のないxxxという音にはxxxという名を与えるしかない)。泥、埃、カビの仲間、どうせそんなところだ。名付ける価値すらないか、「名づける価値すらない」という名が与えられるか、どうせそんなところだ。ベケット的離接。存在論的罵詈雑言(SchimpfluchとかRunzelstirn & Gurgelstockといった名称から連想されるのはそのようなものである)。ノイズであることを忘れたノイズ。そんなものさえ私たちの耳は受け入れてしまっている。そして吐き戻し(ニーチェのように?)、伝染させる(ニック・ランドが解釈したバタイユのように?)。音響ウィルス。狂人の妄想? 否、狂人だけが世界をあるがままに聴いているのだ(Kenji Shiratoriの詩集を開き、溜息をつきながらまるで何の感銘も受けず、何の「悟り」も得なかったかのようにその本を閉じる動作を死ぬまで繰り返すことを、この世界における最も崇高な振る舞いのひとつとして私たちは思い描くことができる)。忌まわしい掠れ声は最小の音圧で最大のラウドネスを獲得する。切り刻まれ茹で上げられた聴覚的身体が吐き出した、取り留めのない文字と記号の列。音楽批評? とんだお笑い種だ。これより前に書かれたものもこれから後に書かれるものも、断じて音楽批評などではなく、ノイズによって切り刻まれ茹で上げられた実験動物の身体が上げる悲鳴でも声でも音でもないあのノイズの、文字と記号の列への胡乱な転写にすぎない。聴覚的吐瀉物から立ち上る音響的病原体。生物と非生物の境界線上で震えている何か、「生死」(デリダ)。
マイクに涎が滴る。痰が喉を通り越して耳に絡む。もうすぐ死ぬことになっている実験動物の耳が(口が、と書こうとしても書けない)音も立てずに歯軋りする。獣どもの墓地には時折音の幽霊が現れる。その振動をピックアップで拾い、増幅し、歪め、録音する。テープは歯軋りし、吃る。あるテープの口から別のテープの耳へ、血が混じった痰を磁気的に塗りつける。電気椅子的、口唇-肛門的、音響降霊術の儀式。ヤク中の耳は擬死的に生存する。

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**§†

  ele-king編集部の小林拓音さんから誘われて、2/11(土)の夜、私はアーロン・ディロウェイの来日ツアーを見に東中野へと足を運んだ。会場となった落合soupは大通りから少し脇道に入ったところにある、平凡な住宅街のなかの銭湯とコインランドリーが入ったやや古めの雑居ビルの地下にひっそりと店を構える比較的小規模のクラブだ。カッティングエッジな電子音響を中心に普段からさまざまなスタイルの前衛的・実験的なミュージシャンのライヴが行われており、東京のディープな音楽ファンのあいだではよく知られたおなじみの箱である。2013年の来日時にもディロウェイは同じ落合soupで、今回のライヴにも出演しているburried machineが主催したイベント「狼電」のメインゲストとして演奏を行っていた(なおそのときのディロウェイの演奏の録音はburried machineの主催する〈Rockatansky Records〉のBandcampページ上で販売されている)。この10年前のライヴを私は残念ながら見逃していたため、今回の来日ツアーがその時と比べてどうであったかを言うことはできないが、少なくとも観客の数は前回を明らかに上回っていたようである。実際、私がイベントの始まる5分前に到着したときにはフロアはすでにほとんど身動きがとれない満員の状態となっており、最前列近くでアクトが手元の機材を操作する様子を眺めるといったことは早々に諦めなければならなかった。前日にDommuneで放送された特番の効果が大きかったかもしれないし、イベントの出演者にあのIncapacitantsが名を連ねていた影響もあるのかもしれないが、そうした細々とした要因分析をまったく無意味に感じさせるような剥き出しの、裸のノイズへの期待とでも呼びたくなるような雰囲気がたしかに観客のあいだには漲っていた。唾液飛沫の拡散を防ぐマスクをつけながら日常生活を送らねばならなかった約三年間のフラストレーションが人々をそこへと向かうよう無意識に動機づけたのだろうか。とはいえむろん近隣住民とPAの音質双方への配慮から気密性が高く設計され、ドアが閉まると耳に圧力を感じるほどであるsoupの店内ではほとんどの観客はマスクを装着していたのだが……トランプ支持者たちの反マスク(そして反ワクチン)キャンペーンが日本にもQアノン的経路で浸透していたという事情があり、この三年間でその衛生雑貨品を然るべき場面において着用しているのか否かはすっかり政治的シグナリングの問題になってしまっていた。Soupのように先端的な音楽が中心的に演奏されるクラブ/ライヴハウスでは特にそうした政治的なコノテーションへの鋭敏さがその場所を共有するすべての人に求められる傾向がある。とはいえ仮にマスクを着けていたとしても、これから耳を覆うことになるだろう超‐暴力的な轟音へのマゾヒスティックな期待感が、他者の涎の霧を肺に吸い込んで例のウィルスに感染するかもしれないという不安感をほぼ完全に相殺していたことは、その場の雰囲気からして明らかだった。しかし念のため補足しておくが、実際のライヴはそうした期待の地平をさらに当然のように上回るものとなったのであり、裸性の概念によって表象されるような芸術的アナーキズムの手垢のついたイメージには間違いなく収まらないものだった(さようなら、アガンベン!)。オーセンティックなシャツに身を包んだ礼儀正しいホワイトカラー労働者のような当日のディロウェイの装い自体がすでに、そうしたステレオタイプ的な理解の誤りであることをさりげなく指摘するものであったのだろう。

 USノイズと呼ばれるシーンがどのようなものか、実を言えばライヴの存在を知らされた時点での私はあまりよく知らず、ウルフ・アイズは聴いたことがあったがアーロン・ディロウェイのアルバムは一枚も聴いたことがないというお粗末な状態であった。そんな私が当初このライヴに興味を抱いたのは出演者の並びにRudolf Eb.erが含まれていたからだったのだが、ノイズ・ミュージックというジャンルのなかでもさらにひときわ異端的な立ち位置を占めておりそれゆえマイナーでもあるEb.erの音楽について私が多少なりとも知りえていたのは、哲学者のレイ・ブラシエがある論考のなかで彼を主題的に取り上げていたことによるところが大きい。Eb.erの経歴については80年代半ばにスイスでみずから結成したSchimpfluch-Gruppeやソロ名義であるRunzelstirn & Gurgelstøckでの活動がウィーン・アクショニズムの系譜に連なるものとしてしばしば紹介されるが、アクショニズムという概念が指し示しているのはこの場合、彼の表現においては聴覚的なものだけでなく視覚的なものが重要な役割を果たすということである。加えて彼のパフォーマンスには、血や糞便や吐瀉物といったおぞましいもの(アブジェクト)を連想させる要素が、オカルト的儀式性の身振りとともにつねに含まれている──したがって潜在的には触覚的、嗅覚的、そして味覚的なイメージまでもがその〈音〉のなかには、共感覚的などというハーモニックな統一性からはほど遠い不穏で秘教的な凝集力によって畳み込まれていると言うこともできる。しかしアクショニズムという語がもつ一般的なイメージに寄せたこうした紹介の仕方は、Eb.erの活動の重要な側面について誤解を与えかねないものかもしれない。ブラシエも「過剰な慣れ親しみがウィーン・アクショニズムの図像学を凡庸なものに変えてしまった──血、ゴア、性的侵犯もいまやエンターテイメントの安っぽい必需品となっている〔……〕しかしEb.erの、狂気じみたものにカートゥーン的なものを思慮深いやり方で添加し、心的な苦悩を子どもじみたスラップスティックへと不安にさせるような仕方で移調する手つきからは、ステレオタイプ化に対する疑念とともに、故意と強制、倒錯と病理のあいだの消去不可能な共犯性についてのある明晰な意識もまた垣間見られるのである」と述べて、Eb.erの表現がいわゆるショックバリューのクリシェ的固定化から慎重に距離をとったものであることを強調する(Brassier, op. cit., p. 68)。実際、Schimpfluch-GruppeやRunzelstirn & Gurgelstøckのパフォーマンスにおいて血の要素(ヘルマン・ニッチュなどに典型的な)が直接的に取り上げられることはほとんどない。むしろEb.erの表現が基礎とする暗示的にアブジェクション的な要素、いつの間にか聴いて〈しまって〉いるノイズ的な音響的要素とは人がものを食べる音、噛んだり飲み込んだりする息継ぎをしたりするその一連の音であろう。このことはEbe.erがJoke LanzとともにSchimpfluchとして行ったパフォーマンスの記録である『Akustische Aktion - Zürich 1991』(Pan, 2009)のようなアルバムを聴くことでいっそうはっきりとする。

 ディロウェイについてはウルフ・アイズの『Burned Mind』(Sub Pop, 2004)は聴いたことがあったのでそこからの類推で音をイメージしていたが、今回のライヴの予習のつもりで聴いた『Modern Jester』(Hanson Records, 2012)『The Gag File』(Dais Records, 2017)によって完全に認識を改めさせられた。というか率直に言って、これほど繊細かつ大胆な、細部まで計算された不穏さの交響楽とでも言うべき作品を生み出すミュージシャン(あえてノイズ・ミュージシャンという限定はしないでおく)について自身がいままでほとんど何も知らずにいたという事実に恥じ入るとともに驚きを隠せない。世界は広く、まだまだ私が知らないすばらしい音楽が私の音楽的趣味のレーダーの射程外に眠っているということなのかもしれないが、すでに言及したUSノイズのシーンなるものの動静が日本の実験音楽周りのコミュニティには伝わってきづらい何らかの構造的理由があるのかもしれないとさえ思えてくる(後述するが、今回のライヴで共演することになったディロウェイとEb.erをつなぐ重要な線としてトム・スミス(To Live and Shave in L. A.)というノイズ・ミュージシャンがいることに、私はブラシエのテクストを読んでいたために偶然気づくことができたのだが、この人物について日本語でまともに取り上げた活字上の記録がほとんど見当たらないことからも、USノイズのシーンの相対的な不可視性に関する私の想定はあながち的外れなものでないことが予感されるのである)。

 いずれにせよノイズのプロパーなファンのあいだですでに十分な名声を確立しているディロウェイの作風に関して私がいまあらためて余計な説明を行う必要はないだろうが(気になる人はまずは上述の二枚のアルバムをサブスクやBandcampで聴いてみればいい)、ライヴ前の予習的聴取の段階で感じていた彼とウルフ・アイズとの差異と思われる点についてのみ触れておきたい。すなわち、彼のトレードマークとなっている演奏/作曲のための機材であるところのオープンリール・テープに避けがたく付いてまわる、埃や変形などの物理的要因によって生じるさまざまなノイズによって豊かな重ね塗りが施されたあの沈黙の効果的な利用についてである。ここで「効果的」という言葉を、まさに私は映画における各種の編集技法が特定の心理的「効果」を目指して、ギミックとして使用されるような場面を念頭に置いて言っている。ウルフ・アイズがもつヘヴィなバンド・サウンドへの指向は、「効果=結果」よりもむしろ「原因」の次元にノイズ・ミュージック的リアリティを見出そうとするものであるように思われる。またシカゴ音響派をはじめとするポストロック一般がもつどちらかといえば緩い、ポストヒストリカルな日常性の強調を狙っての映画音楽的語彙の使用とは異なるものとして、ディロウェイの「効果的」に非日常性を生成する音響言語は、ホラーを含むエクスプロイテーション映画の伝統に根差していることが指摘されうるだろう。ディロウェイの沈黙においてはケージのそれとは異なり、明確に心理的な緊張感や不安感の醸成が目指されている(たとえば、テープに記録された椅子が軋むような音はルームリバーブがほとんど除去されることによって、詩的なイメージを掻き立てる聴覚的-音響的断片といったものではない、たんにそこで起きた物理的出来事をそっけなく報告するだけの監視カメラ的非情性を付与されているように感じられる)。そしてそれでいて、テープループが生み出す呼吸を思わせる比較的ゆっくりとしたテンポで反復される断片的な音たちは、密度が高まるにつれて一定のビートを刻み始める傾向があり、このような沸騰状態にもたらされた沈黙の躍動感によって(『Modern Jester』の楽曲 “Body Chaos” が範例的だろう)多くの実験音楽が陥りがちな退屈な聴取の神秘化を回避することにもディロウェイの音楽は成功しているのである。

 ライヴ当日の様子に話を戻そう。演奏はまず主催者Burried Machine、次いで大阪在住のRudolf Eb.er、ジャパノイズの大御所Incapacitants、最後にディロウェイという順序で、それぞれ約40分の標準的な長さで行われた。Burried Machineこと千田晋によるパフォーマンスは、プロジェクターから投影された、どことなく爆撃機の攻撃を受けて炎に包まれた都市を連想させる赤い抽象的なイメージを背景として(と思って最初見ていたのだが、実際にはステージ上の様子をカメラで撮影したものを再びフィードバック的に投影したものであった)、テーブルの上に整然と並べられたテープマシンとミキサーを憑かれたように激しく操作しながら、ヒスノイズをふんだんに含んだエクストリームなノイズを容赦なく放出し続けるというものだった。音圧の大きさによって、その後に続くアクトらへと観客の耳を準備させるとともに、反復的ビートによって生じるそこはかとなくダンサブルな展開を注意深く避けることによって、良い意味での禁欲主義的な集中の雰囲気をフロアにもたらしているようにも感じられた。テープだけでなく、コンタクトマイクの使用や着席したうえで頭を抱えるようにして身悶える仕草など、交友関係にあるディロウェイからの影響が随所に窺える迫力あるパフォーマンスであったが、それだけに反復を避けつねに予想外の仕方で変化し続けることを追い求めているかのように感じられるフィードバック・ノイズを基調とするサウンドは、ジャクソン・ポロックなどの絵画について言われるような「オーヴァーオール」な性格を見せ、むしろハナタラシやPain Jerkなどジャパノイズの伝統とのつながりを強く感じさせるものでもあった。この点についてはその後Incapacitantsの演奏を聴いていた際に、Eb.erやディロウェイとのノイズ(・ミュージック)に対する美学的スタンスの違いにおそらくは起因するものとして、個人的な印象の範囲を出ないものではあるもののあらためて確認されることになる。

 二人目に演奏したRudolf Eb.erは、おそらく彼の音楽を聴いたことのないすべての人に驚きを与えたに違いない。後ろだけポニーテールでまとめたスキンヘッドというそのヘアスタイル、長いあご髭を蓄えた整った顔立ちのなかに突如出現するブラックホールのような、あるいはダルマのように見開かれたその眼という風貌、にもかかわらず落ち着いた物静かな佇まい……といった視覚的諸要素もさることながら、すでに触れたように、彼の音楽のショックバリューないし演劇的な力は、彼が使用し分節化する音響素材そのもののうちに含まれている。たとえばその日のライヴではEbe.erはヴァイオリンを使用し、機材から流れる録音された悲鳴や水音のような散発的ポップノイズへのオブリガートのように、スルポンティチェロで、古い木製の扉を開くときの軋みをそのまま引き伸ばしたかのような単音を弾き続けるシークエンスを幾度か挿入していた。こうしたヴァイオリンの用法は、演奏の半ばに唐突に現れたエレクトリック・オルガンの音色による大胆なまでに軽い(個人的に私はこのような大胆な軽さこそがEb.erの音楽の最大の魅力だと考えている)短二度の不協和音やトーンクラスターの保続と組み合わさって、70年代のオカルト映画のような空気感をパフォーマンス全体に付与するとともに、観客を「精神物理的なテストとトレーニング」へと催眠的に誘うことに貢献していた。観客に向けてマラカスのような棒状の楽器(?)がひたすら振り続けられる別のシークエンスでは、悪魔崇拝と神道の諸要素を掛け合わせた何か得体の知れない超心理学的な降霊術のパロディのようなものに参加させられているかのような感覚が絶えず生じてさえいた。Eb.erのこのようなパフォーマンス、たんに外見上の奇抜さを追求するだけのものと誤解されかねず、またかつてはアクショニズム的な挑発の身振りも含まれていただけになおさらそうであった(ショットガンの空砲を撃ったりすることもあったようだ)それについて、ブラシエはそれが「「シリアスな」エクスペリメンタル系ミュージシャンたちからの非難」を集めるものであったことを認めつつ、「〔しかし〕そこで嘲笑されているのは、それ自身における純粋な目的として音楽的経験を──特に、作曲されたものであれ即興されたものであれ、「実験音楽」を聴くことの経験を──聖別するような人々の安易な神秘主義なのである」と指摘する(Brassier, op. cit., p. 66)。私もブラシエと同意見であり、Eb.erの音楽は当然のことながら単純な精神病理学的な形成物ではなく、そのシミュレーションをある程度まで知的に意図して作られたものとして、「テストやトレーニング」の身体的苦痛を伴わない実験音楽の空虚な美学的経験崇拝を告発するものとして聴かれるべきものであると考えている。そうであると同時に、制度化された芸術の擬似的な〈外部〉としての狂気や犯罪にそのまま安易に突き進むことをしないEb.erの(真の意味での)美学的‐批判的な厳しさこそが称賛されなければならない。うがいをしたり痰を吐き出したりするようなアンフォルメルな音をマイクで拾いつつ、制度的に守られた美的経験の規準に対して文字どおりまた比喩的に唾を吐きかけながら、にもかかわらずEb.erの音楽は各シークエンスの長さや順序、音響素材の音量面でのバランスといった形式的な練り上げに対してきわめて明確な意識を保ち続けている。この点は見逃されるべきではないだろう。私にはEbe.erの音楽の「芸術的」な洗練度の高さは、ある音響素材を中心に展開されるシークエンスから別のシークエンス(たとえばヴァイオリンの、たとえばマラカスの)へと移行するあいだに挟まれる、沈黙や比較的小さな音量でのノイズが鳴っている時間における、彼のあの不気味なほとんどアウラ的と言ってよいあの落ち着きのうちにこそ凝縮されているのだと感じられた。

 Eb.erのライヴが終わると、短い休憩と転換を挟んで三組目のIncapacitantsが始まった。フロアの客層が入れ替わり、彼らのライヴを聴くことを最大の目的としてこの日のライヴに足を運んだと思しき人々によって最前列付近は占拠されたため、私は演者の手元を観察しようと未練がましく頭を左右に動かすことはやめ、スピーカーから発せられる音の運動のみに意識を集中させることにした。後日SNS上に投稿された動画を見て、Incapacitantsの二人がテーブル上に並べた無数のエフェクターやオシレーターの類いを操作しているのを確認し、その日何が起きていたのかを朧げながら遡行的に理解したぐらいだ。パフォーマンスは圧巻であり、フロア内で立っている位置によっておそらくどの周波数帯域が最も強く聞こえるかは異なっていただろうと推察されるが、私が聴いた限りではIncapacitantsのライヴの後半に発せられた低音から高音へ、またその逆へと急激に上昇下降する雷鳴のようなサウンドがその日の全演奏のなかで最大の音圧値を叩き出していたように思う。ホワイトノイズ寄りの音像からLFOの効いたパルス寄りのそれまで、音色の多彩さと展開の引き出しの多さはさすがベテランといったところで、ある種のフリー・ジャズ(たとえば山下洋輔トリオの最も脂の乗っていた時期)を聴くような聴覚‐造形的な満足感があったのだが、しかしながら観客の盛り上がり方が率直に言ってフーリガン的というか、サッカーW杯(あるいは最近で言えばむしろWBC)日本代表の試合中継中のスポーツバーのような雰囲気に傾いていると感じられる瞬間が多々あり、それに関しては疑問符がつかないでもなかった。たしかに観客が音楽に興奮してどのような振る舞いをしようとも、言葉でもって扇動したということがない限りミュージシャンにはいかなる責任も帰せられないだろうし、美的‐芸術的な責任に関してはなおさら無関係だということにもなるだろう。しかしIncapacitants(周知のとおりこの言葉の元々の意味は軍隊が暴動鎮圧のため民衆に対して用いる無力化剤、催涙ガスである──もちろん権力の記号や攻撃性の露悪的な強調はノイズのジャンルにおける常套句であって、素朴な態度で解釈されるべきものではないが)のフロントマンに相当する美川俊治が、最前列付近に陣取った熱心なファンと思われる男性と、拳を握りしめた腕を力強く胸の前で掲げながら叫びあうモッシュ的なコミュニケーションをとっている様子をフロア後方から幾度か目にするうちに私は、ハーシュノイズと呼ばれるかパワーエレクトロニクスと呼ばれるかに関わりなく、ジャパノイズと呼ばれるジャンルに依然として付きまとう「(戦後)日本的なもの」の政治的に曖昧な属性について、すなわち、家父長制的でナショナリズム的なファナティシズムへと容易に反転しかねないその危ういポテンシャルについて考え込みたくなる気分が生じてくるのを抑えられなかったのである。もちろん事態はおそらく見かけほど単純ではなく、アイロニーとユーモアを経て何重にも捻れているだろうし、粗暴で無教養あるいは悪趣味で下品といった印象をたとえもたれることになったとしても、怒りをはじめとする情動的な身振りの生産的で覚醒的なエネルギーを通じて「実験音楽」の大半が被ることになる制度的な囲い込みによる文化的不活性化を回避しようとする戦術こそが、ノイズがその祖先であるインダストリアル・ロックやパンクなどから受け継いだ重要な(超)美学的遺産であるからには、審美家風の取り澄ました態度を取りたがる批評家にとってもIncapacitantsが視覚的にも聴覚的にもまとっている「オーヴァーオールな」男性性(masculinity)のイメジャリーを、それがたんにそのようなものであるからという理由だけで退けることは許されないのだ。しかしある文化における〈あえての論理〉がその疲弊や腐敗とともにその〈あえての〉という修飾詞を脱落させてしまうことは決して珍しくない(そのことはノイズと類縁的な関係にあり同様にショックバリューを戦略的に利用するジャンルとなっているブラックメタルにおいてネオナチ的な表現傾向への滑落がしばしば起きていることからも見てとれるだろう)。外付けのいつ剥落してもおかしくない〈あえての論理〉に頼るのではなく、内在的な抵抗を固執させる〈ひねくれの論理〉を構築しておかなければならない。その観点から言うならば、その日のIncapacitantsの演奏が生み出した「オーヴァーオールな」音響的乱流は、アナーキーでありつつも有機的な全体-部分関係のヴィジョンを示すものであったことが個人的には注意を引いた。無数のオシレーターやエフェクターから発せられる電気信号‐ノイズ‐肉が構造的な複雑さを増しながら互いに癒着したり断裂したり痙攣したりを繰り返すそのさまは、男性性よりもむしろ筋肉性(muscularity)のイメジャリーのほうを向くものとして解釈することもできたのである。ノイズ的な音群の運動をそのような筋肉組織の矛盾に満ちた運動との類比において理解することは、構築と破壊が同時的に絡みあいながら進行していくような〈ひねくれ〉の内在的メカニズムを私たちそれぞれの聴取の習慣に埋め込む際の手引きともなりうる。苦痛と快楽の抗争のゲームをいかにして美学的に致命的であるのみならず政治的にも危険な帰結をもたらしかねないものとしてのクリシェ的な固定化から守るかは、誕生からもうすぐ半世紀が経とうとしているジャパノイズというジャンルのクリエイターたちにとってのみならず、このジャンルを愛するリスナーである私たちにとっても喫緊の問いとなりつつあるのだ。

  最後のアクトはディロウェイである。幕間も含めて私が会場に到着してからすでに3時間ほどの時間が経過していたが、あっという間であった。それだけその日のイベントが充実した内容のものだったということだが、しかしその後にディロウェイが提示したノイズによって、私たちの耳はさらに異質な次元へと運び去られ、多重化された〈疎外〉のエピファニーに直面させられることになる。パフォーマンスの内容は少なくともその冒頭部分に関しては、直前のIncapacitantsのダイナミックさと鮮やかな対照をなす、スタティックの極致とも言うべきものであった。実際、テープマシンとミキサーが並べられた長机の前に電信技師のように着座して演奏を開始したディロウェイは、最初の10分ほどは鉄パイプをコンクリートの床の上で転がしたり引きずったりするような音と(足元に置かれたピックアップの取り付けられた金属板を踏むことで出した音だったのかもしれない)、低い囁き声のサンプル、そして何の音か判別のつかない低音ドローンを組み合わせつつテープループで反復させ、背後から徐々に不穏な何かが迫ってくるかのようなサウンドを作り上げていた。しかし気質=気候の断絶とでも呼べそうな変化が、中盤において生じることになる。テープディレイを駆使して音が幾重にも塗り重ねられ、モジュレーションの輻輳によってサウンドの不透明度が増していくとともに、耳を突き刺すような高音がLRに極端にパンを振られた分散配置において音響心理的な臨界点に達し(個人的にそこにはルイジ・ノーノの《力と光の波のように》におけるのと類似したクライマックスの作り方を感じとったのだが)、その後は一挙に、シンプルに爆音と呼ぶのがふさわしい壮絶なラウドネスともに、終演まで止まることなく音響的な〈引き裂きの刑〉が敢行されることとなったのである。ディロウェイのこの演奏について言われるべきことは、まずそこでの彼の身体的パフォーマンスの驚くべき集中力だろう。何かに取り憑かれたかのように頭を揺らしながら、要所ごとに首や肩を痙攣的に傾げつつ機材のつまみを操作したり、椅子の位置をずらしたりしながら、口の中に含んだコンタクトマイクを転がし、喘ぎ、苦悩に苛まれるように頭を腕で抱えるその姿は、表面的観察からはそのようなものと判断されるシャーマニックな身振りなのでは全然なく、むしろ音楽そのものの展開のなかに徹底して没入しようとするがゆえに生じる身振りにほかならないものなのだと考えられる。つまり、少なくとも彼のライヴ中のパフォーマンスに関して言えば「憑依的」という形容詞は、その言葉に含まれる超自然的な含意のために的外れなものとならざるをえないのだ。ディロウェイの動きの奇妙さは、プロのピアニストやヴァイオリニストが椅子の高さから肘の高さにいたるまで神経質に調節を図りながら、すべての動作が次に行われるすべての動作に滑らかに接続されることを願いつつ、呼吸のリズムに合わせて行うあの優雅でありつつもどこか滑稽である大げさな身振りがもつ奇妙さと厳密に同じ種類のものなのだと言われねばならない。実際、ディロウェイが行っているようなテープディレイを軸としたライヴ・エレクトロニクスの音楽において、音量やタイミングのちょっとしたずれで演奏の質はまったく変わってしまうのであり、ディロウェイがこの音楽の繊細な特質と向き合うために、あらゆる一回性に対して鋭敏になるような演奏スタイルへと到達したのだとすればそれは至極納得のいく話であろう──テープ特有の音の揺れやサチュレーションやヒスノイズなど、物質的したがって自然的な一回性へと極限まで接近しようとした結果が、ディロウェイのライヴにおける精神的なそれゆえ超自然的なものの介入を疑いなく感じさせるあの身体的なパフォーマンスの数々なのである。ライヴの途中、必ずしもすべてを計算して制御できているわけではないものと推察される複数のテープマシンのアレンジメントの内部で、音楽的なカオスが強度的な閾を超えて自走し始めた瞬間、ディロウェイは椅子から立ち上がりsoupの床の上を這いまわり始めた。多くの観客はこれをディロウェイの憑依的‐演劇的な興奮があるレヴェルを超えたことで生じた(超常?)現象だと見なしただろう。だが私見を述べることを許してもらうならば、あれだけ精緻な音楽を作り上げ、なおかつその繊細な複雑さを維持するために支払われた諸々の代価のためにこそある種「狂ってしまった」男が、進行中の音楽の生成を注意深く監督する役割をみずから放棄してスペクタクル的なアテンションの獲得に勤しんだりすることなど考えられない以上、ディロウェイにとってコンソールを離れたあの瞬間は、非有機的生命としての音楽が(すなわち複数のテープマシンからなるシステムが)自走し始め、ディロウェイという生身の(したがって死にゆく)身体をもはや不必要となった外付け部品として、無慈悲に廃棄ないしは排泄する瞬間にほかならなかったと解されるべきなのだ。そしてそのような痛ましい排出の瞬間の後であったからこそ(ベケットの『事の次第』の「ピム以後」のような状況である)、ディロウェイの表情はライヴの後半ではあれほどの悲哀で歪んでいたのであり、疎外され非音楽化された自身の身体を残された最後の音楽的器官であるコンタクトマイクを介して切り刻むようにして音響的に再生成しながら、もはや自身を必要としなくなった(いわば「ネグレクト」した)音楽への呪詛の言葉を吐き散らしつつ、そのうえでこの呪詛の言葉をある超人的な音楽へと変換するかのような身振りにすべてを賭けることによって、音楽的自然の要求に厳格に従ったどこまでも物理的なマリオネッテンシュピールのうちでおのれの身体の存在を一回的に消尽させることを選ぶに至ったのである。

 さて、ディロウェイのライヴは以上のとおり圧倒的な強度の熱狂をもって、期待の地平を期待どおりにはるかに超え出つつ、展開され展開し尽くされそして燃え尽きる類いのものであったのだが、そこでの軸として熟慮して選択されたものと思われる咽び泣くように咆哮しながら歌う声による、あの燃え尽きの(より正確に言えば〈燃え尽きる男〉の、いかなる被害者性をも含まずむしろ倒錯的な英雄性の隠喩としての価値をもつ)イディオムには、グラム・ロックのラディカルな再解釈が潜んでいたように思われる。そして、ディロウェイにおけるこのような歌う声の身体性それ自体をオーヴァードライヴさせるという戦術にはひとつの隠れた影響源を指摘することができるのだ。それはディロウェイと今回のライヴの共演者であるEb.erとをつなぐ線でもあるTo Live and Shave in L.A.(TLASILA)のリーダー、トム・スミスの美学である。実を言えば先ほどから何度か引用してきたブラシエの論文において、Eb.erのRunzelstirn & Gurgelstøckとともにトム・スミスのTLASILAは、ジャンルを否定するジャンルとしてのノイズに特有のパラッドクス的性格について正面から取り組む姿勢を見せている稀有なミュージシャンとして紹介されていた。「ノイズのポストパンク的ルーツがもつ覚醒的な怒りを受け入れつつも、そのストックされた手法のカタログに対する癒着に対しては拒否の姿勢を示すスミスとEb.erは、概念的な厳格さと反美学主義的な不機嫌さとを結びつける一方で、手垢のついた疎外の表現に対してと同じくらいサブアカデミックなクリシェに対しても激しく拒絶するような作品を生産してきた。二人はそれぞれに錯乱的明晰さをリビドー的撹乱のうちに巻き込む──「知性とリビドーが同時につまみ捻られる」──そして分析と放埓とが相互浸透できるようにするのである」(Brassier, op. cit., p.63)。このような評価のもとに語られるトム・スミスとはいかなる人物であり、またTo Live and Shave in L.A.とはいかなるグループなのか? ブラシエはTLASILAが掲げる「ジャンルは時代遅れである(genre is obsolete)」というモットーに注目し、これを彼自身の論考のタイトルにもしているが、スミスにとっては(またEb.erにとっても)ノイズを抽象的なジャンルの否定と見なすことはそれを結果的にジャンル的なものに変えてしまうことである点が強調される。ジャンルの収束的な法に抗うには具体的な発散の戦略を練らなければならないというわけだ。ブラシエによれば、スミスが第一に採用するのは「一度に聞かれるにはあまりに少ないというより、むしろあまりに多くのものがつねにある」という「過剰さ」の戦略である。しかしこれはあくまで第一段階にすぎない。彼はそのような戦略が「オーヴァーオールな」ノイズにおけるエントロピー的没形式性という見慣れた結果に行き着いてしまうことを考慮に入れて、「歌」という形式を中心にしてネゲントロピー的な情報圧縮を図る第二の戦略を取り入れるのである(cf. Brassier, op. cit., p. 64)。この二重の戦略によってスミスおよびTLASILAの音楽は(音響的データの洪水によって)解釈不可能でありながら、(ポップ・ソングという形式の適用によって)解釈要求をつねに突きつけるというパラドックス的機械と化すことになるのだ。TLASILAの上記のような特徴を私たちはアルバム『The Wigmaker in 18th Century Williamsburg』(Menlo Park, 2002)を聴くことによって、その最も強烈かつ完成された状態においてたしかに確認することができる。ブライアン・フェリーやスコット・ウォーカー、またデイヴィッド・シルヴィアンなどのヴォーカリストに見られるグラム・ロック的な〈燃え尽きる男〉のイメージを、半ば遊戯的半ば強迫的に利用したその歌唱法は、口の中に入れたコンタクトマイクを通じて自身の放棄された身体の存在論的特異性を内側から音響的に切り崩していくディロウェイのあのスタイルと明らかに通底している。そして、読者にもすでに予想のついていることと思うが、ディロウェイはこれまでに幾度かトム・スミスと共演しておりスプリット・カセットの制作なども行っているほか、若い頃の自身に衝撃を与えた音源としてTLASILAのアルバム『30-Minuten Männercreme』(Love Is Sharing Pharmaceuticals, 1994)を挙げたりもしており(ちなみにこのアルバムをディロウェイは自身が運営するレーベル〈Hanson Records〉から再発してもいる)、さらに昨年1月に惜しくも亡くなったスミスのために短いシングル「Blue Studies (For Tom Smith)」(Hanson Records, 2022)を捧げてもいるのである。以上の事実と他のインタヴューなどから判断する限り、ディロウェイはもちろんのことウルフ・アイズのメンバーであるネイト・ヤングやアンドリュー・W・Kといった彼と同世代に当たるミュージシャンたちにとって、スミスのTLASILAがさまざまな点で進むべき道の示唆を与えるメンター的な存在であったことはほぼ疑いを容れない。実際スミスはTLASILAをフロリダ州マイアミで90年代初頭に設立しているが、それ以前にはプッシー・ガロアのメンバーに加わったりPeach of Immortalityというバンドを組んでいた時期もあり、ノーウェイヴからUSノイズのシーンへの移行が生じつつある時期に、ジョン・ゾーンを中心とするいわゆるKnitting Factory系ないしニューヨーク・シーンの文脈とも、またデヴィッド・グラブスからジム・オルークまでを含むシカゴ系の文脈ともやや離れたところで人的ネットワークを構築していたことが想像される。このように見ていくと、ネイト・ヤングのもうひとつのグループNautical Almanacがミシガン州アナーバーで結成されアーロン・ディロウェイの現在の活動拠点がオハイオ州オバーリンであることからも察せられるように、スミスもそこに含まれるところのUSノイズ・シーンの実体とは、NYでのLAでもないアメリカ内陸部の巨大な「郊外」のなかで眠っていた何か、ホラー的でポルノ的でコメディ(お笑い)的な、日常的でありながらおぞましいアディクション的潜勢力をもった〈何か〉──それはディロウェイとレーベル上のつながりをもつ初期のエメラルズや、あるいはカセット・カルチャーという文脈を介して地理的にはNYに属すはずのOPNジェームス・フェラーロにまで流れ込んできた〈何か〉であるだろう──との関わりのなかで捉えられるべきものなのではないかという印象がにわかに強くなってくる。

 ホラーやポルノやコメディへのアディクション──それは人間の〈文化的なもの〉の蓄えが底を尽きたときに現れる精神の身も蓋もない物質性のレイヤーであり、「動物的」と表現することさえ(動物はそこまで愚かではない以上)適切ではないようなものであるが、これはEb.erのRunzelstirn & Gurgelstøckにも見出された特徴であることは、もはやあらためて確認するまでもないだろう。それは日本の文脈では90年代サブカルにおける悪趣味(バッドテイスト)系として語られていたものだと言われるかもしれないが、「ノイズ」というジャンル否定的なジャンルのパラドックス的衝動の問題との関連を視野に入れるなら、その傾向はたんなる「(戦後)日本的なもの」の問題にもたんなるポストモダニズムの無責任さの問題にも回収されえない、何よりもまずポスト冷戦的世界におけるグローバルな文化批判的な論理に関わるような遠大な射程をもつ問題であることが明らかとなり始めるのである。悪趣味(バッドテイスト)系、ないしはノイズとアディクション的諸要素の関係をめぐるこの問題は、一見すると日本やアメリカの個別のローカルな文化的コンテクストに属するように見えて、厳密にはそれを超え出るジェネリックな性格を有している。そうした状況を踏まえてのことか、トム・スミスはゼロ年代半ばにはアメリカを離れて単身ドイツに移住し、Eb.erとSchimpfluch で共演していたデイヴ・フィリップスとともにOhneというグループを結成している。Ohneのライヴ・パフォーマンスにおける咳払いやゲップの音といった、あの日常的なものの圏域に属しながら美的な聴取の秩序からは(実験音楽のそれにおいてさえ!)慎重に排除されている音群への、彼らの鋭いアプローチと戦略的な利用に耳を澄ましてみよう。スミスの情報論的な共不可能性の極大化の戦略は、そのようなかたちでEb.erの社会的精神病理の限りない再帰化の戦略と響きあっているのである。そしてディロウェイもまた、ジョン・ケージの《ローツァルト・ミックス》のリアリゼーションの仕事などにおいて純粋な「実験音楽」の歴史に目配せしつつも、『Modern Jester』や『The Gag File』のアルバム・タイトルやジャケット・イメージに見られるように、不気味な道化師が周囲に振りまくコメディ的でホラー的な不安定化するアンビエンスから、自身の音楽的想像力のリソースを少なからず引き出しているのだ。ノイズはアディクションの衰弱させるようなベクトルを自身のうちで折り畳み、多重化することで〈文化〉への別の角度からの再侵入を狙う。対抗アディクションとしてのノイズ──スミスそして(録音物ではなくライヴにおける)ディロウェイが身にまとう〈燃え尽きる男〉のイメージは、男性性を取り巻く諸々のアディクションをそれ自身のポテンシャルに従って燃え盛らせ、いわば〈男性への生成変化〉をオーヴァードライヴさせることによって、ついには男性性そのものが、人間性の諸形象とともに無化されるように感じられる地点にまで行き着くのである。男になりすぎて女になってしまった声が放つ、あの擬死的なエロス。それはラディカルな文化政治的な含意を伴う、男性性の唯物論的脱構築のひとつの優れた実例と見なすこともできるものだ。

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§**†

  かくしてライヴは終わり、私は小林さんとともにSoupを出て帰路についた。数日前に購入した聴覚保護用のイヤープラグのおかげで、耳鳴りはそれほどでもなかった。ライヴ後の耳鳴りこそノイズの(あるいはある種のエレクトロニカやテクノのイベントの)醍醐味だと言う人もいるが、私はそうは思わない。イヤープラグのおかげで尋常ならざるラウドネスに達していたディロウェイのライヴ後半部でも冷静に音の運動を追跡することができたのだし、帰り際に道路工事の音を聴きながらそれがまるでインダストリアル系の音楽(それも相当に音質が良い!)のように聴こえてくるなどという感覚を楽しむこともできたのである。たしかにそのような〈聴くこと〉の〈楽しさ〉をたんに強調してノイズ(・ミュージック)の無化的批判のエネルギーを等閑視するならば、カーンがケージについて述べたような汎聴覚性の罠に舞い戻ることになりかねないだろう。にもかかわらず他面では、繰り返しになるが、ノイズのライヴの興奮をファナティックな集団自傷行為のそれと融合させてしまうことに対して私たちは、そこに対抗‐アディクション的な反転可能性が依然として賭けられているのだとしても十分に慎重でなければならないのである。それはノイズの倫理、一般的な倫理ではなくノイズという特異的な場所に固有の倫理と関わる。

 キャンセル・カルチャーという言葉が叫ばれ、ノイズキャンセリング・イヤホンが人気を博している現在において、勇気をもって言表されなければならないのは、この世界のうちでただひとつだけ決してキャンセルされるべきでないものが存在するとすればそれはノイズである、ということだ。聴取が向かうべき空間は、そこが真の意味での〈正義〉の空間であるならば、ノイズを決して排除しない。ノイズの社会的キャンセルが正当化され、実行可能な計画までもが組まれるようになるとき、真のファシズムが開始されるだろう。それは政治的非難の常套句としての、言葉の綾としてのファシズムではなく、歴史的にかつて猛威を振るっていたそれと同じ本性をもつ、言葉の本来の意味におけるファシズムである。しかしそのような迫害のシナリオが現実化される前に、ノイズ自身がこのような真のファシズムに陥ってしまう可能性を孕んでいる。この危険について私は、ジャパノイズだけでなくノイズ一般の政治的属性の危うい曖昧性としてすでに触れておいた。

 哲学者のジャック・デリダは、まさにファシズムとの浅からぬ関係をもつニーチェの生物学主義的思想の脱構築をその企図の一部として含む七〇年代半ばの講義において、教育制度を通じたある種の記憶や思考の枠組みの再生産および選択の問題を論じながら、同時代的に進行しつつあったDNAの発見に端を発する遺伝生物学の発展とそこでの「プログラム」概念の位置づけをめぐる問題も横目で睨みつつ、ニーチェにおける「耳の問い」、「耳の形象」、「耳の迷宮」への注意を促している(ジャック・デリダ『生死』小川歩人ほか訳、白水社、二〇二二年、六〇頁)。フランス語において理解することと聞くことの両方の意味をもつ動詞entendreを戦略的に戯れさせながら、ここでデリダが示唆しようとしているのは、哲学的思考もまたそこに根を下ろしているような言語的意味作用の隠喩的で類比的な層について、何らかの目的論的で実体的なシニフィエをその起源として前提せずに、むしろさまざまな「プログラム」の制度的-遺伝的な錯綜と相互汚染から生産される効果=結果として、思考一般にとってのこの層の不可避性をそれ自体隠喩的かつ類比的に語ることが、そこにおいてはふさわしい振る舞いと見なされることになるようなある場面のことである。「ニーチェは、概念的思考、その理解と拡張の規則は隠喩によって進むことを示しているのであり、彼はそのことを言表のように述べるのではなく、言表行為において述べるのです」(前掲書、八六頁)。純粋なものと推定された概念的思考のうちに混入する隠喩的ベクトルのある種の除去不可能性については、デリダが「白い神話」をはじめとする諸論文において指摘してきたものであり、それほど新鮮な論点ではないかもしれない。しかし私たちはそこで隠喩の生産とその理解/聴取とに関する一連の思考の働きが、耳というそれ自体特異的な隠喩的価値を帯びた感覚器官と結びつけられていることに注目するとき、またそれが進化論と遺伝生物学を含む現代生物学のさまざまな知見を考慮に入れることが当然期待されるような文脈において、「隠喩の自然選択」(同上)といったアイデアと並べられて──同じく七〇年代にリチャード・ドーキンスによって提案された「ミーム」の理論とも不思議な共鳴を見せるような仕方で──論じられていることに気づくとき、この使い古され摩滅しつつあるテーマないしトポスに新たな使用価値が宿りつつあることを認めざるをえない。おそらく耳はひとつの戦略素、「自身が話すのを聴く声」という自己現前性に支えられた現象学的意識のモデルに走った半透明の亀裂、思考のアプリオリな構造ないし経済の自然史的(したがってもはや分析的ではない総合的な)秩序への切れ込みがそこから入れられ、次いでこの秩序全体のトポロジカルな変形がそこから開始されることになるような、あの決定的な隠喩的対象のうちのひとつであるのだ。このハイパー自然史的な平面の上では、思考の経験的なレヴェルと超越論的なレヴェルとはたんに二重襞として扱われるだけではもはや済まないものとして、いくつかの特異点(固有名ないし隠喩)において識別不可能な仕方でショートサーキットされることになる。耳は意識であり、意識は脳であり、脳は制度であり、制度はミームであり、ミームは遺伝子であり、遺伝子は言語であり、言語は隠喩であり、隠喩は概念であり、概念はミームであり、ミームは隠喩であり、隠喩はノイズであり、ノイズはノイズであり、ノイズはノイズではないものであり、ノイズではないものはアディクションであり、アディクションは唾や痰であり、唾や痰はウィルスであり、ウィルスは埃や変形であり、埃や変形はテープであり、テープは息であり、息は音であり、音は耳であり、耳はノイズであり、ノイズは思考であり……かかる隠喩的回路のオーヴァードライヴにおいて〈生きること〉と〈思考すること〉と言語との関係は、もはや「生「と」死」や「生「とは」死「である」」といった定立的で対立的もしくは同一化的な論理に従って捉えられることはできなくなるがゆえに、またむしろそのような論理自体がこのオーヴァードライヴの生産する効果=結果であることを指し示すために、デリダはそれを接続詞も繋辞も取り払った「生死」(la vie la mort; life death)として名指すことになるだろう(cf. 前掲書、二四頁)。そしてその回路のうちには還元不可能な偶然性が働いていることが予期される。だからこそ私たちは「ノイズとは何か」という問いのリフレインを通じてノイズの経験の実在的諸条件について記述しようとする際に、ノイズの本質のノイズ的(偶然的)揺らぎによるジャンル的自己異化を考慮に入れて、これを生気論的エネルギーのたんなる賛歌によってではなく、耳の「生死」の次元において、すなわち個体的事例としてのノイズ・ミュージックの「ライヴ(デッド)レポート」の次元において記述することを望んだのだった。

 周知のとおり音楽について語るうえで、そして書くうえで避けることができないのは、隠喩の暴走であり、自走である。このことはノイズ(・ミュージック)に関してはいっそう激しく当てはまるかもしれない。というのもノイズとは、それをまさに聴いているときにはそれを音として同一化することが困難であるような、時系列的な捻れを孕んだ出来事の名であるからだ。ノイズにおいて聴覚的なものと音響的なものとは天空と大地のごとく分離される。音を聴くことと音が鳴ることの自然な統一性、二項のあいだの相関性に時間的な亀裂が走り、「いま私が聴いたのははたしてひとつの音だったのか」という問いあるいは〈問い以前のもの〉を残すとき、私たちはノイズの経験をもつのだと言える。このような経験、混じり気のない唯物論的な経験に対して私たちがなしうるのは、隠喩を駆使しながら、そして隠喩が焼き切れるまでそれを使いながら──おそらくそこにデリダがかろうじて留保していた「脱構築の脱構築不可能性」が他の意味において脱構築されてしまう時間、ブラシエ的な意味での「絶滅」の時間が見出されることになる──、より正確な記述のためのカテゴリーを探すことでしかないだろう。「音であるにはあまりにもうるさすぎる」(ラウドネス)、「聴かれるにはあまりにもおぞましすぎる」(アブジェクション)といった過剰さを特徴とするノイズの経験は、私たちの耳という入力端子への超過電流の流れ込みとして隠喩化されうるかもしれない。その場合、私たちの耳-回路という隠喩的図式のなかにオーヴァードライヴが生じていることになる。言葉はもはや入力された値をそのまま出力することはなくなり、すべての意味‐音色は強度的‐内包的に歪む。次に試みられるのは、隠喩的図式をオーヴァードライヴさせて得たこの思考を、再び隠喩的回路に流し込むことで、フィードバック・ループを生じさせることだろう。ノイズの経験を記述するために用いられる隠喩的カテゴリー(たとえば「耳」「痰」)を幾度となくダビングし、それ自身の内部での準-音響的経験(いわば〈隠喩の耳鳴り〉)の記述にまで適用するとき、ついには聴覚的経験を言説的に表現するものとしてのテクストそのものが物質的な次元でハウリングし、ループし始めるだろう。どんなライヴを聴いたのか、そこで誰が演奏していたのかということさえ、もはや私は忘れ始めている。ただそこで私の耳を襲った音たちが、無数の軋るような隠喩的図式、ミームとアディクションの唸りを上げるような運動に変換されて、私の脳内を駆けめぐっているだけだ。ひとつの言説として出力するにはそれらの信号をもう少し増幅してやる必要があるだろう。録音、再生、再録音。そのようにして「いま私が聴いたのははたしてひとつの音だったのか」という〈問い以前のもの〉が、「結局のところ、ノイズとは何なのだろうか」というひとつのほどよく素朴で、素面な、流通可能で売買可能な形式の問い‐商品へと成形されていく。だがその商品化された問いの下では、依然として〈問い以前のもの〉が地下道を走りまわるネズミの群れのごとき、小さく聴きとりづらい、それ自体で複数のものである唸り声を上げている。物質的時間が劣化の名のもとに種々のノイズを刻み込む以上、テープループによる反復は悪無限の牢獄ではない。隠喩は永遠に隠喩であるわけではない。「欲望機械は隠喩ではない」(ドゥルーズ&ガタリ)。

 ノイズの隠喩をノイズの隠喩で焼くと、隠喩の燃焼でノイズそれ自身が生じる。ノイズについてのノイズはひとつのイディオムを、歌を生む。テープが(ヴァイナルが、CDが……)徐々に磨耗しながら、同じ歌の文句を問いとしてループさせる。歌が歌い尽くされるまで、問いが問い尽くされるまで。

 そして、昔々あるところに。まだ春が近づく気配も感じられない静かな夜のことだった。外出先から帰宅したばかりの私はどういうわけか無性に初期の暴力温泉芸者(中原昌也)のアルバムが聴きたくなり(文はここで途切れている)……。

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追伸:この記事は当初ライヴ・レポートとして執筆されていたものの、徐々にノイズについての原理的な考察としての性格を強め、それに伴い字数も大幅に増えたために、コラムとして掲載されることになった。しかし記事内で述べられているように、ノイズについての十全な理論的考察は個体的で実在的な音響体験の記述から切り離せないため、当初のライヴ・レポートの内容と枠組みはそのまま残されている。したがってこの記事は拡大されてはいるものの純粋なケース・スタディ(事例研究)として読むことも可能であれば、圧縮されてはいるものの完全な一般理論として読むことも可能なものとなっている。どちらの解読格子を採用するかは読者の好みに委ねられる。

Yo La Tengo - ele-king

 COVID-19というパンデミックがもたらした衝撃は、三波にわたり音楽を襲ったようだ。

 第一波は、フィオナ・アップルの『Fetch the Bolt Cutters』のようなアルバムで、パンデミック以前に作曲・録音されたものだが、閉塞感や孤立というテーマ、また、自宅で制作されたような雰囲気が、ロックダウン中のリスナーの痛ましい人生と、思いもかけぬ類似性を喚起した。

 第二波は、2020年の隔離された不穏な雰囲気の中で録音された作品群のリリース・ラッシュである。ニック・ケイヴとウォーレン・エリスの『Carnage』のように、緊張感ただよう分断の感覚を音楽に反映させたケースもあった。ガイデッド・バイ・ヴォイシズの『Styles We Paid For』では、離れ離れになってしまったロック・ミュージシャンたちが、電子メールで連絡を取り合いながら、デジタルに媒介された現代において失われつつある繋がりについて考察している。また、パンデミックによるパニック状態を麻痺させようと、アンビエントな音の世界に浸ることで、絶叫したくなるような静けさの中に安心感を生み出そうとしたアーティストたちもいた。ヨ・ラ・テンゴが短期間でレコーディングした、即興インストゥルメンタル・アルバム『We Have Amnesia Sometimes』の引き延ばされたようなテクスチャーとドローンは、一見するとこの後者の反応に当てはまるように思われる。

 しかしながら、この作品は、パンデミックが音楽にもたらした第三の波、つまり、リセットと再生という方向性を示しているのかもしれない。そこで登場するのが、このバンドの最新アルバム『This Stupid World』である。

 ヨ・ラ・テンゴについて、「過激な行動」や「激しい変化」という観点から語るのは、誤解を招く印象を与えるかもしれない。このバンドは、1993年の『Painful』で自身のサウンドを確立して以来、30年間にわたってその領域を拡張してきたわけだが、彼らがいままでに作ってきたどんな楽曲を聴いても、すぐに「これはヨ・ラ・テンゴだ」とわかるバンドである。それは、彼らの音楽がすべて同じに聴こえるという意味ではなく、彼らがいま占めている領域が、紛れもなく彼らのものであるように感じられるということだ。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドが、わずか5枚のアルバムで切り開いた道は、いまやヨ・ラ・テンゴが20枚近いアルバムで包括的に探求し、拡張しており、たとえ彼らがその道の先駆者でなかったとしても、ヨ・ラ・テンゴこそがこれらの道を知り尽くした、影響力ある道案内だと言っても過言ではないだろう。

 簡単に言うと、ヨ・ラ・テンゴは自分たちがどのようなバンドであるかを理解しているのだ。彼らが長年にわたって起こしてきた変化というのは、総じて、甘美なものと生々しいものの間の果てしない葛藤に対して、様々な取り組みをしてきたことによる質感の移り変わりであると言える。彼らは、身近にあるツールを使って、角砂糖から血液を抽出するための様々な方法を模索してきたのだ。そして、ここ10年間は『Fade』や『There’s a Riot Going On』のようなアルバムにおいて、その過程のソフトな一面の中に、彼らが抱えている様々な不安を包み込んでいる傾向があった。

『We Have Amnesia Sometimes』は、ある意味、そのような優しい世界への旅路の集大成のように感じられた。だが一方で、この作品は、メンバーだけが練習室にこもり、中央に置かれた1本のマイクに向かって演奏したものが録音されたという、非常に生々しいアルバムでもあった。その撫でるような感触は確かに心地良いものだったが、このアルバムはメロディーを削ぎ落とし、彼らがノイズと戯れ、ポップな曲構造から完全に遊離したもので、ジョン・マッケンタイアがプロデュースを手がけた『Fade』にあった滑らかなストリングスのアレンジメントからは完全にかけ離れていたものだった。それはリセットだったのだ。

 では、『This Stupid World』はどのような作品なのだろうか。バンドは今作のプロダクションにDIY的なアプローチを全面的に取り入れており、7分間のオープニング曲 “Sinatra Drive Breakdown” から、かすれたような、粘り強い前進力がこのアルバムに備わっている。規制が緩和され、パンデミックより先のことが考えられるようになったとき、音楽シーンにいる多くの人が感じたものがあったが、それは、周囲の快適さが、抑圧されていた衝動に取って変わり、その衝動が爆発する出口を求めているという感覚だった。この曲はその感覚を捉えている。新鮮な気持ちで世界へと飛び出し、全てを再開するという感覚。再び人と会い、再び何かをしたいと思い、再び一緒に音を出す。もう2年も無駄にしてしまったのだから、いまこそが、それをやるときなのだ。

 同時に、ヨ・ラ・テンゴが確実にヨ・ラ・テンゴであり続けていることは、決して軽視すべきことではない。A面の最初の数秒から、ヨ・ラ・テンゴであることはすぐに認識でき、彼ら自身もそのことに対して完全な確信を持っている。『This Stupid World』は、彼らの過去30年におけるキャリアのどの時点でリリースされてもおかしくないアルバムであり、誰にとっても驚きではなかっただろう。このアルバムの48分間は、3面のレコード盤という、通常なら忌まわしいフォーマットで構成されているのだが、ヨ・ラ・テンゴらしい遊び心と妙な満足感がある。A面は、ゾクッとするようなディストーションと力強い威嚇が暗闇から唸り声を上げ、2曲目の “Fallout” はバンドがこれまで書いた曲の中で最も快活で生々しいポップ・ソングであり、A面を締めくくる “Tonight’s Episode” は、絶え間なく鳴り続けるフィードバック音の中、シンプルなグルーヴが柔らかに跳ねている。B面では、ジョージア・ハブリーがヴォーカルを取って代わり、“Aselestine” では最も甘美なスポットライトが彼女に当たり、ヨ・ラ・テンゴの抑えの効いたサウンドへの基調が打ち出されていく。そして、最終的には、メロディーと、むさ苦しいノイズ・ロック、テクスチャーのあるドローンといった、彼らのコアとなるスタイルへと回帰する。B面の最後は、永遠にループする仕様(ロックド・グルーブ)になっており、これはちょっとしたイタズラ心か、あるいはアルバム最後の2曲を聴くために、最後のレコードを取り出す時間をリスナーに与えるためのものだろう。

 最後の面では、ヨ・ラ・テンゴのノイズ・ロック的な側面がさらに深く掘り下げられており、何層にも重なったフィードバックとディストーションの中にリスナーを没入させていく。“Fallout” が、はるか彼方の海底からつぶやくように再び現れると、音楽は音程を外すように溶け出し、シンセ・ドローンの疲れながらも希望感ある流れに取って代わり、その雰囲気からデヴィッド・リンチを彷彿とさせるようなドリーム・ポップが浮き彫りになる。この2曲は、このアルバムを見事に締めくくるトラックであり、ここ数年ロウが追求してきた、激しい音の暴力と心が震えるような美しさの衝撃的な共存というものに、ヨ・ラ・テンゴがいままでになく近づいていることを示す2曲ではないだろうか。だが彼らはそれをヨ・ラ・テンゴらしく、最初から最後までやり遂げている。彼らは自分たちが何者であるか知っているが、『This Stupid World』では、その認識がより一層強く感じられるのだ。


by Ian F. Martin

The shock to the system delivered by the COVID-19 pandemic seems to have hit music in three waves.

The first was with albums like Fiona Apple’s “Fetch the Bolt Cutters”, written and recorded before the pandemic but where the theme of being trapped and the secluded, homemade atmosphere evoked unexpected parallels with the bruised lives of locked-in listeners.

The second was the initial rush of releases that were recorded in the atmosphere of isolation and unease of 2020. In some cases, like Nick Cave and Warren Ellis’ “Carnage”, this meant channeling that tense sense of fragmentation into the music. In Guided By Voices’ “Styles We Paid For” it meant dispersed rockers working by email to reflect on the loss of connection in digitally mediated lives. Others sought to anaesthetise the panic, using ambient sonic furniture to craft a sense of security out of the screaming silence. It’s this latter response to the situation that the drawn-out textures and drones of Yo La Tengo’s speedily recorded, improvised instrumental album “We Have Amnesia Sometimes” seemed on the face of it to fall into.

However, it perhaps also points the direction towards a third wave of influence brought to music by the pandemic: one of reset and even rejuvenation. It’s here that the band’s latest album, “This Stupid World” comes in.

Talking about Yo La Tengo in terms of radical moves and sharp shifts often seems like a misleading way to discuss them. This is a band where, at least since the expansion of their sound mapped out in 1993’s “Painful”, you can hear almost anything they’ve done over those thirty years and instantly know it’s them. This is not to say that their music all sounds the same so much as that the territory they occupy now feels so indisputably theirs. Paths blazed by The Velvet Underground over a mere five albums have now been explored and expanded by Yo La Tengo so comprehensively over nearly twenty albums that even if they weren’t the first, they’re these roads’ most immediately recognisable travellers and most influential stewards.

To put it simply, Yo La Tengo know what sort of band they are. The ways they have changed over the years have generally occurred in the shifting textures of their varying approaches to the endless struggle between the sweet and the raw — in finding different ways, with the tools at hand, to get blood from a sugarcube — and over the past decade or so, albums like “Fade" and “There’s a Riot Going On” have tended to wrap up whatever anxieties they have in the softer side of that process.

In some ways, “We Have Amnesia Sometimes” felt like a consummation of that journey into gentle fields. It was also a very raw album, though, recorded by the band alone in their practice room, playing into a single centrally placed microphone. There was certainly something soothing about its caress, but it was an album that stripped away melody and let them play with noise, liberated entirely from pop song structures — as far as the band has ever been from the smooth string arrangements of the John McEntire-produced “Fade”. It was a reset.

So what does that make “This Stupid World”? Well, the band have fully embraced a DIY approach to production, which from seven-minute opener “Sinatra Drive Breakdown” gives the album a scratchy, insistent forward momentum. It captures that feeling many of us in the music scene felt as restrictions relaxed and we start thinking beyond the pandemic, the comfort of the ambient giving way to a repressed urgency seeking an outlet from which to explode. The feeling of lurching out into a world where we are starting again, fresh: meeting people again, wanting to do something again, making a noise together again. We’d wasted two years already and now was a time to just do it.

At the same time, it’s important not to understate the extent to which Yo La Tengo are always definitively Yo La Tengo. From those first few seconds of Side A, the band are immediately recognisable and completely assured in themselves — “This Stupid World” is an album they could have released at any point in the past thirty years and surprised no one. Even in how the album’s 48 minutes are sequenced over the usually cursed format of three sides of vinyl manages to be both playful and strangely satisfying in a distinctly Yo La Tengo way. Side A growls out of the darkness in squalls of thrilling distortion and reassuring menace, second track “Fallout” as fizzy and raw a pop song as the band have ever written, and side closer “Tonight’s Episode” hopping softly around its simple groove beneath a constant hum of feedback. Side B flips the story with Georgia Hubley taking vocals for one of her sweetest spotlight moments in “Aselestine”, setting the tone for a tour through the band’s more sonically restrained side, eventually returning to their core conversation between melody, skronky noise-rock and textured drones. It ends on a lock-groove — perhaps born from a sense of mischief or perhaps to give the listener time to whip out the last disc for the final two songs.

The final side digs even deeper into Yo La Tengo’s noise-rock side, immersing the listener in layers of feedback and distortion, “Fallout” reappearing in a distant, submarine murmur before the music slips out of tune and dissolves, giving way to tired but hopeful washes of synth drone, crafting Lynchian dreampop out of the the ambience. These two tracks make for an intriguing exit to the album, and together form perhaps the closest the band have yet come to the devastating coexistence of harsh sonic violence and heart-stopping beauty explored over the last few years by Low. They way they do it is Yo La Tengo all the way, though: they know who they are, but on “This Stupid World” they’re just more so.

Rob Mazurek - ele-king

 シカゴ・ジャズ・シーンにおけるキーマン、かつてガスター・デル・ソルやトータスの作品に参加しポスト・ロックの文脈でもその名が知られる作曲家/トランペット奏者のロブ・マズレク(現在はテキサスのマーファ在住の模様)が、ニュー・アルバムを送り出す。古くからの仲間と言えるジェフ・パーカーを筆頭に、クレイグ・テイボーンやデイモン・ロックスといったメンバーが終結。ブラジル在住時の経験がインスピレーションになっているそうだ。昨年亡くなったジャズ・トランぺット奏者、ジェイミー・ブランチに捧げられた作品とのこと。発売は4月5日、チェックしておきましょう。

Rob Mazurek - Exploding Star Orchestra
『Lightning Dreamers』

2023.04.05(水)CD Release

シカゴ・アンダーグラウンド、アイソトープ217°、サンパウロ・アンダーグラウンドで知られる作曲家/トランペット奏者のロブ・マズレクによる、エクスプローディング・スター・オーケストラ名義の最新作。ジェフ・パーカーを筆頭に豪華メンバーが集結してグルーヴ感溢れる演奏を聴かせる中、故ジェイミー・ブランチも参加し、彼女に捧げたアルバムとして完成された。ボーナストラックを追加し、日本限定盤ハイレゾMQA対応仕様のCDでリリース!!

ジェフ・パーカーとの共作 “Future Shaman” でスタートするロブ・マズレクの新作は、流れるようなグルーヴ、宇宙空間を漂うようなメロディラインと音響によって彩られている。それは、彼が3年間住んでいたブラジル、マナウスで、リオ・ネグロ(黒川)とリオ・ソリモンエス(白川)の合流地点にインスパイアされた感覚の表明でもある。アマゾンの支流を船で日々移動することは、過去、現在、未来の精神を呼び起こしたのだという。画家でもあるマズレクの視覚と聴覚へのアプローチも、エクスプローディング・スター・オーケストラというプロジェクトの目的も、水の流れ、時の流れから彼が掴んだ一種の再生の表現だ。故ジェイミー・ブランチも参加し、彼女に捧げられているアルバムに相応しいテーマである。(原 雅明 ringsプロデューサー)

ミュージシャン:
All music composed by Rob Mazurek (OLHO, ASCAP).
Words by Damon Locks.
Recorded at Sonic Ranch, Tornillo, TX, September 23rd & 24th, 2021.

Rob Mazurek (director, composer, trumpets, voice, launeddas, electronic treatments)
Jeff Parker (guitar)
Craig Taborn (wurlitzer, moog matriarch)
Angelica Sanchez (wurlitzer, piano, moog sub 37)
Damon Locks (voice, electronics, samplers, text)
Gerald Cleaver (drums)
Mauricio Takara (electronic percussion, percussion)
Nicole Mitchell (flute, voice)

Engineered by Dave Vettraino.
Additional Recording by Jeff Parker, Mauricio Takara, Nicole Mitchell,
and Rob Mazurek.
Produced and Mixed by Dave Vettraino & Rob Mazurek.
Mastered by David Allen

Album art by Rob Mazurek Radical Chimeric #1 #2 (mesh, screen, mylar, canvas, video projection) 2022.
Insert Photo by Britt Mazurek.
Design by Craig Hansen.
Thank You Britt Mazurek.
This album is dedicated to jaimie branch.


[リリース情報]
Artist:Rob Mazurek - Exploding Star Orchestra(ロブマズレク・エクスプローデイング・スター・オーケストラ)
Title:Lightning Dreamers(ライトニング・ドリーマーズ)
価格:2,600円+税
レーベル:rings / International Anthem
品番:RINC99
ライナーノーツ解説:細田成嗣
フォーマット:CD(MQA仕様)

*MQA-CDとは?
通常のプレーヤーで再生できるCDでありながら、MQAフォーマット対応機器で再生することにより、元となっているマスター・クオリティの音源により近い音をお楽しみいただけるCDです。

[トラックリスト]
01. Future Shaman
02. Dream Sleeper
03. Shape Shifter
04. Black River
05. White River
+Japan Bonus Track 収録

https://diskunion.net/jazz/ct/detail/1008618139
https://www.ringstokyo.com/items/Rob-Mazurek---Exploding-Star-Orchestra

 ‟ガールズ・バンド ” という概念は、元来不条理なものだ。
 勿論、ガールズ・グループに対してボーイズ・バンドという言葉も存在する。これは最近では、おおむね作りこまれたポップな商品であることを意味する。この業界のある側面は、しばしば搾取的であり、このようなアーティストたちはあきらかにメンバーの性的な魅力を利用して売り出されていることも、すべての加担者が基本的に理解していることだ。しかし、ロックの分野では “ガールズ・バンド ” という言葉は通常、外部から押し付けられたものであり、女性の芸術形式を男性の規定値から分離し、女性たちの作品が何を伝えようとしているかに関わらず、性別というレンズを通した型にはめてしまうのだ。私が東京で時々一緒に仕事をしている、女性がリードする素晴らしいポスト・パンク・バンド、P-iPLEは、Twitterのプロフィールに素っ気ない調子で「私たちはガールズ・バンドではない」と記している。
 もうひとつ、明らかにガールズ・バンドではない男性ばかりから成るアイルランドのノイズ・パンクスであるガール・バンドは、最近バンド名をギラ・バンドに改名した。10年前に元のバンド名を採用したのは、まさにその不条理さにこそあり、多くの人にとっては今でもどちらかというと無害な皮肉ぐらいに捉えられるのは、名前に込められたジョークがあきらかにバンド自身のことを指しているからだ。それでも彼らには絶え間ない反発が寄せられ、何年も前に馬鹿々々しいジョークとしてつけたバンド名を使い続ける利点よりも、最終的にはこの言葉が人を不快にする、あるいはノン・インクルーシヴ(非包括的)であると受け取られるリスクの方が高いと判断したようだ。

 社会の生々しい部分を指摘する人たちへの無責任な対応は、何も新しいことではなく、激しい対立や整合性のない指摘は、リスナーに音響的な不快感を与えようとする音楽と密接に結びついている。スティーヴ・アルビニが1980年代にビッグ・ブラックやレイプマン時代に放った過激な挑発の数々は、ガール・バンドという間抜けなバンド名のユーモアと比較するのは必ずしも有効とは言えないが、アルビニが当時について語ったことから、このような問題やそれを指摘する人への対応の背景にある暗示などの興味深い洞察を得ることができる。
 それは、大雑把でリベラルであるアーティスティックなバブルのなかで生活をしていると、自分が属する社会集団の規範が、必ずしも外の世界と共有されていないことを忘れがちになることに起因する。アルビニは「自分自身、そして多くの仲間たちは思い違いをしていた。人びとの平等とインクルーシヴネス(包括性)の獲得への戦いはすでに勝利で終わり、やがては社会においてもそれが発現し、私たちが対立や衝撃、嘲りや皮肉で何かを害することはないと思っていた」と総括している。

 4人組の男が “ガールズ・バンド ” というような馬鹿げた発想で遊ぶのは、性差別に打ち勝った勝利のダンスをしているように見えるかもしれない。だが、音楽の世界で活動する女性たちがあらゆる障害に直面し続けることを考えると、このジョークはもはや同じようには通用しないし、ミュージック・シーンでハラスメントや差別を経験した女性たちは、それらの問題を顔面に突き付けられたように感じるかもしれないのだ。
 バンド名の変更は、ほんの数文字を変える小さなもので、バンド自身は軽視していたもの確かだ(彼らは私がここで問題提起しているよりもずっと小さなこととして扱った)。だが私にとって興味深いのは、彼らの芸術がオーディエンスにますます敬意を持って受け入れられている様であり、それこそがギラ・バンドのニュー・アルバム『Most Normal』の素晴らしさの鍵となるかもしれないということだ。

 ノイズ・ロックは元来、不条理な音楽だ。
 それは、聴く者に居心地の悪さを与えようとする音楽だ。メロディやハーモニー、そして従来の心地よさや満足感をもたらす全てのツールを意図的に除去するかわりに、ディストーション、騒音や断片的なリズムを武器としている。それはまた、ある種の子供じみた音楽でもあり、物を壊してかき混ぜ、そこに出現するカオスや混乱、悪臭などに喜びを見出す。
 だがそれは同時に遊び心があり、好奇心をそそる音楽でもある。思いがけない音のテクスチュアに、厳格なロックの伝統の外側にあるものを感じ、再発見する喜びに没頭できるのだ。この分野で活動するバンドが3枚目のアルバムを作る際、冒険心を失わずに成長するにはどうすればいいのだろうか?
 ひとつの方法は、鳴り響く金属的な不協和音や、吹き出す紙やすりのようなディストーション、そして対立するリズムの一つひとつがどのように着地するのかに注意を払うことだ。どの混乱した音が痺れるようなものに変化するのか、どこで喜びと痛みの間に走る緊張感を保つのか、そしていつそのバランスを、酔ったようなよろめきで一方向に傾かせるのかに敏感になることだ。

 『Most Normal』は、1トンの爆発物のような着地を見せるが、バンドの過去2作のアルバムと比較して、その分野に対しての高まり続けるインテリジェンスや自覚に導かれている。オープニング・トラックの ‟The Gum“ の金切り声のようなディストーションを強調するように反復するディスコ・パルスは、バンドがエレメントのバランスを取ることに確信を深めているのが分かり、2曲目の ‟Eight Fivers” を際立たせる轟音の爆発は、拳を突き上げるような高ぶりからEDMのビート・ドロップに着地する。アルバムを通して、ギラ・バンドはサウンドをこれまでにないほどの挑戦的な極限へと押しやり、ほとんどメロディを落ち着かせることはないながらも、それぞれのエレメントの、オーディエンスへの作用を敏感に感じ取り、恍惚とした残酷さでリスナーの感覚を操っている。
 微かな旋律の気配が漏れ出る最後から2曲目の ‟Pratfall” では、Lowの前2作のアルバムの特徴であった素早く走るようなディストーションに引き裂かれ、ふるいにかけられる。他でも同様に、アルバムがタイトでまばらなビートと吐くようなノイズの発作の間を飛び火する様は、リスナーを、その忍耐力の限界までプッシュすることを存分に意識した内部のリズムによって作られている。

 ギラ・バンドが改名についての説明をする際に、あまり深く考えずに決めたことで、「この選択を正当化したり、説明したりすることは不可能だとわかった」と言及している。この、説明できないということこそが、彼らが名前を変えたことが正しかった理由であり、『Most Normal』の音楽が、不快感を享受しながらより鮮明な音楽的な理由でもって、それを証明している。それは未だに馬鹿げた、生意気なパンク的な面白さだが、薄っぺらに着想されたものでも気まぐれなものでもない。いまやすべての要素が、なぜそこにあるのかを正確に把握しているようだ。


Gilla Band – Most Normal
Rough Trade /ビート

 

Gilla Band, girl bands, and musical discomfortby Ian F. Martin

The idea of a “girl band” is essentially an absurd one.

Of course the term boy band exists too, as the alliterative counterpart to the girl group: nowadays meaning a more or less manufactured pop product. Exploitative as this side of the industry often is, it’s basically understood by all participants that these acts are being sold explicitly on the gendered appeal of the members. In the rock arena, though, the term “girl band” is typically imposed from the outside, segregating women’s art from the implicitly male default, framing their work through the lens of their gender regardless of what they intend to communicate. One band I sometimes work with in Tokyo, the wonderful female-led post-punk band P-iPLE, put it bluntly on their Twitter bio: “We are not girls band.”

Another band who are definitely not a girl band are all-male Irish noise-punks Girl Band, who recently renamed themselves Gilla Band. The absurdity of the term was at the heart of their adoption of it as their band name ten years ago, and to a lot of people it probably still seems like a more or less harmless bit of irony, where the joke is clearly on the band themselves. Still, they received a steady stream of pushback over it and eventually seem to have decided that the potential for it to be read as mocking or non-inclusive outweighed the benefits of sticking with a name they clearly came up with as a silly joke years ago.

This sort of playing fast and loose with signifiers that poke at raw spots in society is nothing new, with harsh juxtapositions and mismatched signifiers going hand in hand with music that seeks to sonically provoke discomfort in the listener. The extremeness of the provocations Steve Albini unleashed via Big Black and Rapeman in the 1980s mean they’re not necessarily a very useful comparison with the goofy humour of a band name like Girl Band, but Albini’s subsequent discussion of that time does offer some interesting insights into the thinking behind and implications of playing with these issues and signifiers.

Partly, it comes down to how life in a broadly liberal artistic bubble makes it easy to forget that the norms of your social group aren’t always shared by the world outside. Albini summarises, “For myself and many of my peers, we miscalculated. We thought the major battles over equality and inclusiveness had been won, and society would eventually express that, so we were not harming anything with contrarianism, shock, sarcasm or irony.”

So four guys playing with a patently absurd idea like the notion of a “girl band” might feel like a victory dance over defeated sexism. However, once you consider that women in music continue to face all manner of obstacles, the joke doesn’t work in the same way, and to women who have faced harassment or discrimination in the music scene, it could feel like having those troubles thrown in their face.

It’s true that the name switch was a small change, of just a couple of letters, and one the band themselves downplayed (they made it far less of a deal than I’m making of it here). What interests me, though, is that it shows a growing respect fot how their art lands with its audience, and this maybe offers a key to what’s so fantastic about the new Gilla Band album “Most Normal”.

Noise-rock is essentially absurd music.

It’s music that wants to make you uncomfortable, It deliberately strips songs of their melody, harmony and all the conventional tools to trigger comfort and satisfaction, instead reaching for distortion, discord and fractured rhythms as its weapons. It can be a childish sort of music too, that breaks things and stirs the shit just to delight in the chaos, mess and bad smells that emerge.

But it’s also playful and curious music. It delights in the unexpected, in the texture of sound, it’s steeped in a sense of rediscovery outside the rigours of rock tradition. For a band in this general arena making their third album, how do you mature without losing that sense of adventure?

One key way is to pay attention to how every piece of clanging dissonance, blown-out sandpaper distortion and rhythmical confrontation lands — to be conscious of which fucked-up sounds resolve into something electrifying, when to hold the tension between pleasure and pain and when to let the balance lurch drunkenly one way or the other.

“Most Normal” lands like a tonne of explosives, but it’s guided with a growing intelligence or awareness of its terrain compared to the band’s previous two albums. The repetitive disco pulse that underscores the screeching distortion of opening track “The Gum” offers an immediate sense of the band’s growing assurance in how they balance their elements, while the bursts of thundering noise that punctuate second track “Eight Fivers” land with the fist-pumping heart-surge of an EDM beat drop. Throughout the album, Gilla Band push sounds to ever more challenging extremes, hardly ever reaching for the comfort of melody, but somehow applying each element with a keen sense of how it’s working on the audience, puppeteering the listener’s senses with ecstatic cruelty.

Where the hint of a tune does filter through, on penultimate track “Pratfall”, it’s ripped apart and filtered through the sort of skittering distortion that characterised Low’s last couple of albums. Elsewhere, the way the album ricochets between tight, sparse beats and convulsions of vomiting noise happens according to an internal rhythm that’s aware of the limits of the listener’s patience just enough to push them.

When explaining their change of name, Gilla Band noted that they had chosen it without much thought and increasingly “found it impossible to justify or explain this choice.” This inability to explain is the most important reason why they were right to change it, and the music on “Most Normal” in its own way proves the point, revelling in discomfort but with an increasingly clear musical reason. It’s still silly, snotty punk fun, but it’s not flimsily conceived or whimsical: every element now seems to know exactly why it’s there.

interview with Dry Cleaning - ele-king

 『Stumpwork』というのはおかしな言葉だ。口にしてみてもおかしいし、その意味を紐解くのに分解してみると、さらに厄介になる。「Stump(=切り株)」とは、壊れたものや不完全なもの、つまり枯れた木の跡や、切断された枝があった場所を指す。そして、そこに労働力(= work)を加えるのは奇妙な感じがする。

 「Stumpwork」とは、糸や、さまざまな素材を重ねて、型押し模様を作り、立体的な奥行きを出す刺繍の一種で、もしかしたら、そこにドライ・クリーニングの濃密で複雑なテクスチャーの音楽とのつながりを見い出すことができるかもしれない。しかし、まず第一に、この言葉が感覚的に奇妙でおかしな言葉であることを忘れないでいよう。

 フローレンス・ショウは、いま、英語という言語を扱う作詞家のなかでもっとも興味深い人物の一人であり、面白くて示唆に富む表現に関しての傑出した直感の持ち主である。アルバム・タイトルでもそうだが、彼女は言葉の持つ本質的な響きというテクスチャーに一種の喜びを感じているようだ。“Kwenchy Kups”という曲では、歌詞の「otters(発音:オターズ)」という単語で、「t」を強調し、後に続く母音を引きずっているのが、音楽らしいとも言えるし、ひそかにコミカルとも言える。また、「dog sledge(*1)」、「shrunking(*2)」、「let's eat pancake(*3)」といった言葉や表現には、「あれ?」と思うくらいのズレがあるが、言語的な常識からすると、訳がわからないほど逸脱しているわけではなく、ちょっとした間違いや、型にとらわれない表現の違和感を常に楽しんでいることがうかがえる。このような遊び心あふれるテクスチャーは、「Leaping gazelles and a canister of butane (跳びはねるガゼルの群れと、ブタンガスのカセットボンベ)」のような、幻想的なものと俗なものを並列させる彼女の感性にも常に息づいている。ドライ・クリーニングの歌詞は、物語をつなぎとめる組織体が剥ぎ取られ、細部と色彩だけが残された話のように展開する。何十もの声のコラージュが、エモーショナルで印象主義的な絵画へと発展していくのだ。

*1: 正しくはdog sled(=犬ぞり)。「Sledge」はイギリス英語で「そり」なので、dogと合体してしまっているが、dog sledが正確には正しい。
*2: 正しくはshrinking(=収縮)。過去形はshrank、過去分詞はshrunk、現在進行形はshrinkingでshrunkingという言葉は存在しない。動詞の活用ミス。
*3: 正しくはLet’s eat a pancakeもしくはLet’s eat (some) pancakes。文法ミス。冠詞が入っていないだけだが、カタコト風な英語に聞こえる。

 音楽性において『Stumpwork』は、彼らの2021年のデビュー作『New Long Leg』(これも素晴らしい)よりも広範で豊かなパレットを露わにしている。ドライ・クリーニングのサウンドは、しばしばポスト・パンクという伸縮性のある言葉で特徴付けられ、トム・ダウズの表情豊かなギターワークからは、ワイヤーの尖った音や、フェルトやザ・ドゥルッティ・コラムの類音反復音を彷彿とさせるような要素を聴くことができるが、彼は今回それをさらに押し進めて、不気味で酔っ払ったようなディストーションやアンビエントの濁りへと歪ませている。ベーシストのルイス・メイナード、ドラマーのニック・バクストンは、パンクやインディの枠組みを超えたアイデアやダイナミクスを取り入れた、精妙かつ想像力豊かなリズムセクションを形成している。オープニング・トラックの“Anna Calls From The Arctic”では、まるでシティ・ポップのような心地よいシンセが出迎えてくれるし、アルバム全体を通して、予想外かつ斜め上のアレンジが我々を優しくリードしてくれる。このアルバムは、聴く人の注意を強烈に引きつけるようなものではなく、煌めくカラーパレットに溶け込んでいく方が近いと言えるだろう。

 だがこの作品は抽象的なものではない。現実は、タペストリーに縫い込まれたイメージの断片に常に存在するし、自然な会話の表現の癖を捉えるショウの耳にも、そして彼女の蛇行するナレーションとごく自然に会話を交わすようなバンドの音楽性とアレンジにも存在している。ある意味、このアルバムはより楽観的な感じがあって、人と人がつながる幸せな瞬間や、日常生活のささやかな喜びに焦点を当てているのだが、やはり、フローレンスの歌い方は相も変わらず、不満げで、擦れた感じがある。イギリスの混乱した政治状況は、曲のタイトル“Conservative Hell”に顕著に表れているのだが、私は、とりわけ混乱した状況の最中にトムとルイスと落ち合うことになった。イギリス女王は数週間前に埋葬されたばかりで、リズ・トラス首相の非現実的な残酷さが、ボリス・ジョンソンのぼろぼろな残酷さに取って代わったばかりで、リシ・スナックの空っぽで生気のない残酷さにはまだ至っていないという状況だった。

 3年ぶりにイギリスを訪れた私は、いきなりこんな質問で切り出した。

最近のイギリスでの暮らしはどのような感じですか?

トム:ニュースを見ていると、まるで悪夢だよ。しかも、すべてはいままでと同じような感じで進んでいる。新しい首相が誕生したことで、ひとつ言えることは、いまがまさにどん底だってことで、保守党政権の終焉を意味してるということ。12年間も緊縮財政を続けたのに、何の成長もなかったから、上層部の議員でさえ、もはや野党になる必要があるなんて言っているんだ。まあ、良い点としては、次の選挙で保守党が落選することだろう。デメリットは、保守党落選まで、俺たちは、彼らが掲げる馬鹿げた政策に付き合わなければならないってことだね。

ルイス:うちの妹みたいに政治に全く興味のない人でも、「ショックー! マジでクソ高い!」って言ってるんだ。 請求書や食料の買い出しなど、いまは本当にキツイ状況になってる。

トム:まさにその通りだね。もし次の選挙で負けたいなら、国民の住宅ローンをメチャクチャにしてやればいい!


by Ben Rayner(左から取材に答えてくれたギターのトム、中央にベースのルイス、そしてヴォーカルのフローレンスにドラムのニック)

ニュースを見ていると、まるで悪夢だよ。しかも、すべてはいままでと同じような感じで進んでいる。新しい首相が誕生したことで、ひとつ言えることは、いまがまさにどん底だってことで、保守党政権の終焉を意味してるということ。12年間も緊縮財政を続けたのに、何の成長もなかったから、上層部の議員でさえ、もはや野党になる必要があるなんて言っているんだ。

私の家族も同じようなことを言っていますよ。さて、この話題をどうやって新しいアルバムにつなげようかな......(一同笑)。先ほど、普段通りの生活をしながらも、現在の状況が断片的に滲み出てきているとおっしゃっていましたね。もしイギリスの政治情勢がアルバムに影響を与えているとしたら、それは日常生活のなかに感じられる、そういったささやかな断片なのだと思います。例えば、ある曲でフローレンスは「Everything’s expensive…(何から何まで物価は高いし...)」と言っていますよね。

トム: 「Nothing works(何をやっても駄目)」そうなんだよ。俺たちがフローの歌詞についてコメントするのはなかなか難しいんだけど、彼女は、ひとつのテーマについて曲を書くということは絶対にしない人なんだ。彼女の曲を聴いていると、脳の働き方がイメージできる。俺は以前、自転車に乗っていて車に轢かれたことがあるんだが、気絶する直前、不思議なことがいろいろと頭に浮かんできたんだ。でも、さっき俺が言った「いままでと同じような感じで進んでいる」というのは、「いままでと同じような感じで進んでいるけど、すごく抑圧的な空気が影に潜んでいる」という意味なんだ。それでも仕事に行かないといけないし、請求書も払わないといけないし、日常のことはすべてやらないといけない。ただ、政治情勢がね……俺たちは12年間この状況にいたわけで、少しでも好奇心や観察力がある人なら、その影響を受けていると思うよ。

ルイス:俺たちはいつもひとつの場所に集まって、一緒に作曲をする。フローは、自分の書いた歌詞を紙に束ねて持って来るから、それを組み合わせたり、繋げたり、丸で囲んだり、位置を変えたりしている。そうやって、様々なアイデアが集まるコラージュのようなものを作っているんだ。

(ドライ・クリーニングの音楽を)聴いていると、何かの断片が自分を通り越していくような感じがするんです。

トム:でも、ランダムってわけじゃない。彼女は、歌詞を一行書くと、次は、逆の内容を書くという性分みたいなものがあると思う。響き的にも、テクスチャー的にも、コンセプト的にも、まったく違うものを書くんだよ。例えば、絵を描くときに、すべての要素がうまく調和するようにバランスをとっているような感じかもしれない。

ルイス:俺たちが自分たちのパートを演奏することで彼女の歌詞に反応するという、会話みたいなことをたくさんやっているんだ。

(アルバムには)日常生活の断片のような一面もあるので、自分たちでアルバムを聴いていて「あ、この会話覚えてる……」と思ったりすることはあるんですか?

トム:ああ、たしかに俺たちの言ったこととか、自分がいた場で友だちが言ったこととかが、歌詞に入ってるよ。

ルイス:俺たちの演奏と同じように、彼女も即興で歌詞を書くことが多いし、あらかじめ考えたアイディアも持っている。バンドで演奏しているときは、その場の音がかなりうるさいから、ヴォーカルだけ別録りして、フローが言ったことを自分で聴き返せるようにしたんだ。今回のアルバムでは、ファーストよりも、レコーディングのプロセスで歌詞を変えていたことが多かったみたいだけど、それほど大きな違いはなかったと思う。

トム:それは、スタジオでの即興をたくさんやったからということもある。でも、だいたいの場合、フローは俺たちが曲を作り始めるタイミングと同じ時に作詞をはじめるんだ。曲を書きはじめる時はみんなで集まって、ルイスが言っていたように、フローがやっている何かが、俺たちのやっていること、つまりサウンドに影響することがよくあるんだよ。“Gary Ashby”を作曲しているときは、フローが、行方不明になった亀について歌っていると知った時点で、こちらの演奏方法が変わった。フローが言っていることをうまく強調する方法を探したり、フローの歌詞をもっと魅力的にできるように、もっとメランコリックにできるように工夫する。以前なら使わなかったマイナーコードなどを使うかもしれない。音楽を全部作った後に、彼女が別の場所で歌詞を書くということはめったにないよ。もっとオーガニックな形でやってるんだ。

ルイス:俺たちは、他のメンバーへの反応と同じような方法で、フローにも反応する。俺がドラムに反応するのと同じように、彼女のヴォーカルにも反応するし、その逆もしかり。(フローの声は)同じ空間にある、別の楽器なんだ。

初期のEPや、特に前作と比べて、(作曲の)アプローチはどのように変化したのでしょうか?

トム:作曲のやり方はいまでも変わらないよ。基本的にみんなでジャムして作曲するんだ。

ルイス:携帯電話でデモを録ることが多いね。みんなでジャムしていて、「これはいい感じだな」と思ったら、誰かが携帯電話を使って録音しはじめる。そして、翌週にその音源で作業することもあれば、半年間放置されていて、誰かが「そういえば、半年前のジャムはなかなか良かったよな」って思い出すこともある。ほとんどの曲はそんな始まり方だよ。今回はスタジオにいる時間が長く取れたから、意図的に、曲が完成されていない状態でスタジオに入ったんだ。

トム:そう、アプローチの違いは、基本的に時間がもっと使えたということ。前回は2週間しかなくて、なるべく早く仕上げないといけなかった。

ルイス:それに、ファースト・アルバムのときは、事前にツアーをやっていたから、レコーディングする前にライヴで演奏していた曲もあったんだ。今回は、ツアーができなかったから、アルバムをレコーディングし終わって、いまはアルバムの曲を練習しているところなんだ。

なるほど。曲を作曲している段階で、観客の存在がなかったということが、この作品のプロセスにどのような影響を与えたのか気になっていました。

トム: 実際に曲をライヴで演奏して試してみないとわからないから、何とも言えないね。その状況を受け入れるしかなかったよ。ライヴで曲を演奏することができなかったから、自分たちがいいと思うようなアルバムを作ることにしたのさ。

ルイス:(自分たちの曲を)聴くってことが大事だと思う。スタジオでは、また違った感じで音が録音されるから。スタジオで実験できるのはとてもいいことだし、俺たちの曲作りのプロセスには聴き返すという部分が多く含まれている、ジャムを聴き返すとかね。もし俺たちがレコーディングして、それを聴き直して編集するという作業をしていなかったら、ほとんどの曲は、演奏していて一番楽しいものがベースになるだろうけど、実際はほとんどそうならない。聴き返すということをちゃんとしているから。ライヴで演奏できなかったけれど、結局、同じようなことが起こったと思う。つまり、何が演奏して楽しいかよりも、何が良い音として聴こえるか、ということに重きが置かれることになるんだ。

トム:それと、1枚目のアルバムで学んだのは、あるひとつの方法でレコーディングしたからといって、必ずしもそれがライヴで再現される必要はないということ。だから、今回のアルバムをいまになって、またおさらいしているんだ。アルバムには絶対に入れるべき要素もあるけれど、また作り直していいものもある。『New Long Leg』のツアーでは、“Her Hippo”と“More Big Birds”に、新しいパートを加えたり、尺を長くしたりしていたから、この2曲は(アルバムヴァージョンより)少し違う曲になったんだ。

ルイス:偶然にそうなるときもあるよね。ツアーを通して、曲が自然に進化していくこともある。

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俺たちはいつもひとつの場所に集まって、一緒に作曲をする。フローは、自分の書いた歌詞を紙に束ねて持って来るから、それを組み合わせたり、繋げたり、丸で囲んだり、位置を変えたりしている。そうやって、様々なアイデアが集まるコラージュのようなものを作っているんだ。

今回のアルバムを聴いていてしばしば感じたことなのですが、曲が自然な形で完結し、これで終わりかなと思ったらまた戻ってきて、それが時にはそれまでとは全く違う感じになっているということがありました。それも、スタジオで色々と作業する時間が増えたからなのでしょうか?

トム:それにはいくつかの要因があると思う。まず、“Every Day Carry”を作ったときは、初めてスタジオで三つのパートを作って、そのなかでも即興演奏を加えたりした。“Conservative Hell”のときは、曲の最後の部分は、曲の最初の部分を完成させてから、何かが足りないと感じていたところに、ジョン(・パリッシュ、プロデューサー)が、何か作り上げようという気にさせてくれたから、出来たものなんだ。

ルイス:ファースト・アルバムでは、ジョンは曲を短くするのがとても上手だったけど、“Every Day Carry”では曲を伸ばそうという意図があった。ジョンにとっても、そのプロセスが実は楽しかったみたいだ。セカンド・アルバムのときも、ジョンはまた曲を短くするんだろうと覚悟していたんだけど、彼はもっと曲を伸ばそうとしていた。長くするのを楽しんでいたみたいだった。「曲は長い方がいいんだ!」とか言って。ジョンが曲を長くしてくれたことに、俺たちは驚きだったよ。

プロデューサーのジョン・パリッシュのことですね?

ルイス:そう。

ジョン・パリッシュは、私の地元ブリストル近辺の出身なんです。彼は、私が大好きなアルバム、ブリリアント・コーナーズの『Joy Ride』をプロデュースしたんですよ……(一同笑)。彼が他にも、さらに有名なアルバムを手がけているのは知っていますけど、私はとにかくブリリアント・コーナーズが大好きなんですよね。

トム:それがジョンのいいところだよね。自慢話をするような人ではないし、あまり有名人の名前を出したりしないんだけど、一緒に夕食をとっているときに、何か言ったりする。ジョンがトレイシー・チャップマンのレコードを手がけたって言うから、俺は「何だって!?」と思ったよ。彼にはそういうエピソードがあるんだけど、それは自然に彼から引き出さないといけないんだ。

ジョンとの制作は2回目ということで、親しみもあり、リラックスした雰囲気で仕事ができたのでしょうか?

トム:そうだね、それにはいくつかの理由があると思う。まず、自分たちの状態が安定していたということ。『New Long Leg』が好評だったことも自信につながったし、あの時点では、もっと大規模な公演にも出ていたから、とにかく気持ちが楽だったんだ。最初のアルバムでは、テイクを重ねながら、「これは絶対に素晴らしいものにしないといけないから、俺は全力を尽くさねば!」なんて思っていたんだけど、実際には、そんなこと思わなくていいんだと後で気づいた。アルバムを制作するということはとても複雑なことで、本当に数多くの段階があるから、ミキシングとマスタリングが終わる頃には、自分がそもそも何をしようとしていたのかさえ、すっかり忘れているんだ。だから、今回のアルバムでは、ある意味、ありのままを受け入れた。良いテイクを撮ろうとはするけれど、ジョンが満足すれば、次の作業に移るということをしていた。

ルイス:それにファースト・アルバムでは、ジョンと会った直後にレコーディングしたんだ。彼に会って、ほんの数時間で“Unsmart Lady”を録音して、次の曲に移って、また次の曲に移ってという感じ。バンドとして演奏する時間があまりなかったんだ。

トム:そうそう、それに前回は、彼が「それは嫌だから、変えて」とか言うもんだから、耐性のない俺たちにはショックだったよな(笑)。

ルイス:そうそう、で、トムは「え、今からですか?」ってなってたよね。前回は、日曜日に休みが1日だけあって、土曜日にジョンに「それは嫌だから、明日の休みの日の間に変えてくれ。では、月曜日に!」って言われたんだ。

トム:でも、前回のセッションが終わるころには、俺たちはすっかり溶け込んでいた。ジョンの仕事の仕方が気に入ったし、彼のコメントを個人的に受け止めなくていいってことが分かった。それに俺たちの自信もついたし、バンドとして少したくましくなったから、彼のコメントにもうまく対処できるようになった。だから、2枚目のアルバムでは、もしジョンが何かを違う風にやってみろと言ったら、俺たちは素直に違うやり方を模索した。

ルイス:それに、今回は音源に何か変更を加えるためにスタジオ入りしたという感じもある。最初のアルバムでは、多くの曲を既にライヴで演奏していたから、みんな自分のパートやアイデアに固執してしまっていて、それを変えるのは難しかった。でも今回は、もっとオープンな気持ちで臨んだんだ。

今回のアルバムは、ファースト・アルバムに比べて音の質感がかなり広がった感じがあります。それは自然にそうなったのでしょうか、それとも何か意識的に音を広げる要素があったのでしょうか?

トム:俺たちの音楽の好みが広いから、そうなることは自然だと思うんだよね。もし、もっと時間があれば、俺はアンビエント系のプロジェクトをやりたいと思うし、ルイスと一緒にメタル・バンドをやりたいとか、いつも思うんだよ。ニックはきっと何らかのダンス・ミュージックをやるだろうな。

ルイス:ドライ・クリーニングは、そうしたすべてのアイデアをさまざまな方向にうまく展開させた、素敵なコラボレーションなんだ。

トム:ルイスが1枚目のアルバムから今回のアルバムへの移行を説明したように、1枚目のアルバムでは、様々な方向に進むための余白がほとんど残っていなかった。2枚目のアルバムでは、そこから少し先に進めたという感じ。そして、もし次のアルバムを作る機会があれば、できれば3枚目のアルバムでは、さらにそれを発展させたいと考えているんだ。いろいろな道を模索していきたいと思っている。だから、もう少しアンビエントな方向に行きそうなときでも、「いや、こういう音楽は作りたくない」とはならずに、その流れに乗ることができるんだ。俺たちは、すでにそういう音楽が好きだからね。

ルイス:それに、スタジオで何ができるかということもいろいろと学んでいる。最初のEPはデモみたいなもので、2、3時間でレコーディングした。スタジオで演奏する時間があまりないから、リハーサルルームでいい感じに聴こえたものを、自分のパートとして書き留めていくような感じだった。2枚目のアルバムでは、スタジオ用に曲を書いていたという意識が強かった。曲を書いていて、トムが「この上に12弦ギターを乗せるべきだ!」などと言い出したりね。キーボードのパートがあったとしたら、ニックが静かに演奏しながら「アルバムではもっと大音量にするけど、こうやって弾くとすごくいい音になるんだよ」と言ったりね。そういう実験がもっとできるようになったんだ。

そのアンビエントな感じがもっとも顕著に表れているのが“Liberty Log”ではないかと思いますが、スポークン・ワードが大部分を占める曲のために作曲することというのは、従来のポップ・ソングのヴァース、コーラス、バースという構成に比べて、別のやり方で音楽を構成していくことになるのではないかと思うのですが。

ルイス:メンバーの誰かが「じゃあ、そろそろコーラスを演奏してみるか?」と言うんだけど、他のメンバーが「どれがコーラスなの?」って聞き返すことが何度もあったよ。

トム:そうそう、「どれがコーラス?」って。

ルイス:それで、どこがでコーラスなのか、みんなで決めるんだよ。

トム:それは実は良い傾向だと思うんだ。俺たちは皆、それぞれ別の考え方をしているけど、そんななかでも音楽は成立しているんだってこと。これは俺も同感なんだが、ルイスは過去のインタヴューで、俺たちのアイデンティティの強さのひとつは、すべての中心にフローがいることだと言っていて、彼女の声が俺たちをしっかりと固定して支えてくれることだと言っていた。たしかにミュージシャンとして、いろいろなものを取り入れる余地が与えられているように感じられるね。“Hot Penny Day”を書きはじめたとき、俺が最初にメイン・リフを書いたんだが、それは、『山羊の頭のスープ』時代のローリング・ストーンズみたいなサウンドに聴こえたんだけど...。

ルイス:誰かが、それをぶち壊したんだよ!

トム:それをルイスに聴かせて、一緒に演奏し始めたら、スリープみたいなストーナー・ロックみたいなものに変わり始めて、よりグルーヴィーになったんだ。

ルイス:そこにフローが加わると、一気にドライ・クリーニングのサウンドになるんだ。彼女の声や表現が、俺たちの音楽に幅を与えてくれていると思う。

トム:ミュージシャンとして、このメンバーと5年間一緒に仕事をしてきて、みんなそれぞれ、音のモチーフがあると思うんだ。ルイスだとわかる音があり、ニックだとわかる音があり、彼らにも俺だとわかる音がある。でもフローは間違いなくドライ・クリーニングという世界で、すべてを錨のように固定して、支えている存在なんだ。

by Ben Rayner

俺たちは皆、それぞれ別の考え方をしているけど、そんななかでも音楽は成立しているんだってこと。これは俺も同感なんだが、ルイスは過去のインタヴューで、俺たちのアイデンティティの強さのひとつは、すべての中心にフローがいることだと言っていて、彼女の声が俺たちをしっかりと固定して支えてくれることだと言っていた。

あなたがたが過去に活動していたバンド、サンパレイユとラ・シャークの作品を聴いていたのですが、例えばサンパレイユは一見パンク・バンドですが、わかりやすいパンク・バンドではないし、ラ・シャークは少しインディ・ポップ・バンドっぽいですが、これまたわかりやすいバンドではないように感じます。常に予期せぬ角度から攻めている気がするんです。

トム:俺たちが過去にいたバンドをチェックしてくれたのはすごく嬉しいよ! ドライ・クリーニングを理解するには、俺たちが過去にやってきたことがルーツになっていると思うからね。あなたが言う通り、俺たちは音楽の趣味が広い。俺が最初に経験した音楽はパンクやハードコアのバンドだったけど、スタイル的にかなり限界があると思っていたんだ。速い音楽のカタルシスも好きなんだけど、REMのメロディも好きなんだよ。ラ・シャーク(の演奏)は何度か見たことがあるけど、彼らは、明らかに歪んだ感じのポップ・バンドだったけど、後期の作品はインストゥルメンタルなファンカデリックのようなサウンドだったんだ。そんなわけだから、自分たちのいままでの影響をすべてひとつのバンドに集約するには時間が足りないんだよ。

ルイス:俺は運転中に、ふたつのバンドを組み合わせたらどうなるかっていう妄想をいろいろするんだけど、トムやニックやフローに会ったときに、そのアイデアを話すんだ。すると、彼らは「それ、やってみようよ!」と言ってくれる。で、やってみると、やっぱりドライ・クリーニングになるんだよね。ニュー・アルバムからフローのヴォーカルを抜いたら、いろんなジャンルに落とし込めそうな素材がたくさんあると思う。

フローレンスはすべての中心にいて、バンドのアイデンティティを束ねているとのことですが、同時に、彼女は少し離れているようなところもありますよね。新作では、ミックスの仕方だと思うのですが、以前よりもさらに、バンドがどこかひとつの場所で演奏しているように聴こえるのに、彼女のヴォーカルが入ってくると、まるで彼女が耳元で歌っているように聴こえるんです。まるで、自分がステージ上のバンドを観ているときに女性が耳元で囁いているような。

ルイス:それを聞いて、フローがバンドに入った経緯を思い出したよ。たしか、トムがバンド(の音楽)を演奏していたときに、フローがそれにかぶせるようにしゃべったのがはじまりだったね。

トム:俺たちは一緒にヴィジュアル・アートを学んでいて、当時は二人とも漫画の制作をしていて、その話をするために会ったんだ。彼女が「最近は他に何してるの?」と聞いてきたから、「ルイスとニックとジャムしはじめたよ」と答えた。そのときにちょうどデモがいくつかあったから、彼女に聴いてもらった。彼女はイヤホンを取り外して、「ふーん、面白いわね」と言って、喋りを再開したんだけど、まだイヤホンから音が出ていて、音楽が聴こえてきて、彼女の声がそれにかぶさっていた。ジョンが俺たちのバンドのことで一番興味があるのは、どうやってフローの声をミックスするかと言うことだと思うんだ。このアルバムでは、彼女の息づかいがかなり感じられるようになっている。フローはとても繊細なパフォーマーだから、彼女がするちょっとした仕草、例えば舌の動きとか、そういったごく小さな音も、ジョンは確実に取り込もうとする。このことについて、ジョンがインタヴューで語っているのを読んだことがあるけど、彼女がやっていることすべてを聴かなければならないと言っていた。それが第一で、それをベースにしてミックスを構築して、バンドの音を加えているんだ。

ルイス:レコーディングの時はいつも彼女も同席して、同時に彼女のトラックも撮る。スタジオには、隔離された部屋がいくつもあるから、俺のアンプは1つの部離すためにかなりの工夫がされているから、バンドの音の影響をあまり受けないようになっているんだ。トムが言ったように、ジョンはその点にかなり重点を置いている。

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The texture of broken things

by Ian F. Martin

Stumpwork is a funny word. It feels funny in your mouth, and it only gets more awkward once you start breaking it down to untangle its meaning. A stump is a broken or incomplete thing — the remains of a dead tree or the place where an amputated limb used to attach — and it seems like a strange thing to dedicate one’s labour toward.

It refers to a form of embroidery where threads or other materials are layered to create an embossed, textured pattern, giving a feeling of three dimensional depth to the image, and perhaps in this we can reach out and contrive a connection with the increasingly rich and intricately textured music of Dry Cleaning. But we shouldn’t forget that it’s first and foremost a viscerally strange and funny word.

Florence Shaw is one of the most interesting lyricists in the English language right now, and she has a remarkable instinct for interesting and evocative phrasing. Just as with the title itself, she seems to take a sort of joy in the inherent sonic texture of a word — the way she hangs on the hard t and trailing vowels of the word “otters” in the song Kwenchy Kups is both musical and quietly comical. There’s a constant delight in the awkwardness of small errors and unconventional phrasings that reveals itself in words and expressions like “dog sledge”, “shrunking” and “let’s eat pancake” that deviate disconcertingly but never incomprehensibly from linguistic norms. This playful texture is also ever-present in her instinct for juxtaposing the magical and the mundane that results in lines like, “Leaping gazelles and a canister of butane”. Dry Cleaning’s lyrics play out like a story where the connecting tissue of narrative has been stripped out, leaving only the details and colour — a collage of dozens of voices that adds up to an impressionistic emotional tableau.

Musically, Stumpwork reveals a broader, richer palette than the band’s (also excellent) 2021 debut full-length New Long Leg. The band’s sound has often been characterised with the elastic term post-punk, and you can hear elements that recall the choppy angles of Wire or the chiming sounds of Felt and Durutti Column in Tom Dowse’s expressive guitar work, but he takes it further this time, twisting it into queasy, drunken distortions or ambient haze. Bassist Lewis Maynard and drummer Nick Buxton make for a subtle and imaginative rhythm section that brings in ideas and dynamics from beyond punk and indie tradition. Smooth washes of almost city pop synth welcome you into opening track Anna Calls From The Arctic, and unexpected and oblique arrangements pull you gently one way and another throughout the album. It’s not an album possessed of an urgent need to grab your attention so much as a shimmering palette of colours to melt into.

It’s not an as disaffected and worn as ever. Britain’s confused political situation filters through, most explicitly in the song title Conservative Hell, and I catch up with Tom and Lewis in the middle of a particularly chaotic moment. The Queen has just been buried a couple of weeks prior, and the delusional cruelty of prime minister Liz Truss has recently replaced the ramshackle cruelty of Boris Johnson, but not quite yet given way to the vacant, lifeless cruelty of Rishi Sunak.

It’s been three years since I last had a chance to visit the UK, so I open with a big question.

IAN: So what’s it like living in Britain these days?

TOM: If you look at the news, it’s a living nightmare. Beyond that, though, things just carry on kind of as they were before, really. One thing that I think has happened now with the new prime minister is that this is the nadir: this is the endgame of Conservative politics. We’ve had twelve years of austerity and no growth, and even high ranking MPs are sort of admitting that they need to be an opposition party now. So one good thing about that is that the Conservatives are going to get voted out in the next election. The downside is that until that happens, we have to live with the stupid policies they have.

LEWIS:Even someone like my sister, who totally ignores it, even she’s like, “It’s shocking; it’s really fucking expensive!” — the bills, the food shopping, it’s getting really tough now.

T:That’s a really good point. If you want to lose the next election, fuck with people’s mortgages!

I:I’m hearing similar things from my family too, yeah. So seeing if I can segue this into the new album… (everyone laughs) What you were saying earlier about life going on as normal but with little pieces of the situation coming through, it feels like if the political situation in the UK informs the album, it’s in these little fragments filtering through normal life, like at one point Florence just remarks, “Everything’s expensive…”

T:“Nothing works.” Yeah, it’s quite difficult for us to comment on Flo’s lyrics, but she’s definitely the kind of person who wouldn’t make a song about one subject. Her songs remind me of the way your brain works. I remember being hit by a car on my bike once, and on the edge of the void there’s all sorts of strange things that come to your mind. But I should clarify what I said earlier about how everyone’s just getting on with things: everyone’s just getting on with things but under a very oppressive shadow. You still have to go to work, you still have to pay your bills, you still have to do all the normal things, it’s just that the political climate — we’ve been under this for twelve years, and if you’re an even slightly curious or observant person, it’s going to affect you.

L:We write together in the room at the same time, and she’ll have a stack of papers which will have lyrics that she’s written and will sort of combine and join together, and there’s lots of circling that and dragging it to that, making almost a collage where lots of different ideas come together.

I:When I’m listening, it feels like fragments of something flowing past me.

T:It’s not random though. When she writes a line, she has the sort of temperament to write the opposite line next — something completely different tonally, texturally, conceptually. It’s almost like when you’re making a painting or something, you’re trying to balance all the elements so it works nicely.

L:There’s a lot of reacting to us in the room playing our parts and us reacting to her, like a conversation.

I:There’s such an aspect of fragments of daily life to it and I wonder if there’s ever a sense where you’ll be listening to it and think, “Oh, I remember that conversation…”

T:Oh, there’s definitely things that we’ve said or things that friends have said when I was there and they’re in the lyrics.

L:And like ourselves, she improvises a lot when writing her lyrics as well as having some pre-formed ideas. We’ve had to get better at finding ways to record because the room’s quite loud when we’re playing, so a lot of times we’ll separately record the vocals so she can hear back what she said. I think on this record the lyrics changed more when it came to recording than on the first record, but not a huge amount.

T:That was partly because we improvised quite a lot of stuff in the studio. But generally, Flo will start at the same time we start writing the song. We’re all there at the start of it, and like Lewis says, a lot of the time there’s something Flo is doing that informs how we’re doing our thing as well — tonally, if that makes sense. When we were writing Gary Ashby, when I found out she was singing a song about a tortoise that’s gone missing, it changes the way you play; you find ways of punctuating what she’s saying, making it more charming or melancholy, you might use a minor chord or something that you wouldn’t have done before. It’s rare that we’ll write a whole song and then she’ll go away and write all the lyrics — that never happens, and it’s a more organic thing.

L:We’ll react to her in the same way we react to each other. I’ll react to the drums in the same way I react to the drums and the guitar, and vice versa. It’s another instrument in the room.

I:How has the approach changed, since the early EPs and the last album in particular?

T:We still write in the same way. We write by basically just jamming together.

L:There’s a lot of phone demos. We’ll be having a jam, think “This sounds OK” and someone just clicks on their phone and starts recording, and then sometimes we’ll work on it the next week or sometimes it’ll get lost for six months and someone will be like, “Hey, that jam from six months ago was quite good.” That’s how almost everything starts. This time, because we had more time in the studio, we intentionally went in with ideas less finished.

T:Yeah, the change in approach was basically that we got more time. Before we had two weeks to get it down as quickly as possible.

L:Also, with the first record, we were doing some tours beforehand, so we were playing some of that record live before we recorded it. This time we didn’t get a chance to do that: we recorded it and now we’re in the process of learning it.

I:Right, and I was wondering how not having the constant physical presence of the audience while you were developing the songs affected the process on this one.

T: It’s hard to say really, because without actually road testing the song, you never know. We just embraced it really: we couldn’t play live, so we just write the album the way we wanted to.

L:It comes down to listening, because things get captured differently in the studio as well. It’s quite nice to be able to try something in the studio and a lot of our writing process comes down to listening — like listening back to jams. It’s a nice way of doing it, because if we weren’t recording and listening back and editing from there, a lot of our songs would be based on what was the most fun to play, but that rarely happens because it’s all about listening. And I think that happens as well with not being able to play it live: it’s less about what’s fun to play and more about what sounds good.

T:I think also we learned from the first record that just because you’ve recorded a song one way, that’s not necessarily how it has to be live again, so that’s why we’re sort of relearning the album now. There’s things on the album that definitely need to be on there, but there’s also things that we can just make up again.Touring New Long Leg, there’s Her Hippo and More Big Birds where they just changed and became slightly different songs — added a new part to them, made them longer.

L:Sometimes by accident as well. Sometimes they kind of naturally evolve through a tour.

I:One thing that happens a few times on the new album is that a song will work its way to a natural sounding conclusion, I’ll think it’s ended, but then it will come back and sometimes as something quite different from what it was before. Was that something that came out of having more time to play around in the studio?

T:I think there’s several factors there. First, when we did Every Day Carry, that was the first time we did that in the studio, literally making three parts and kind of improvising some of them. When we did Conservative Hell, that whole last section of that song really came from the first part of the song down and feeling like there was something missing, and John (Parish, producer) was very good at motivating us to just go and make something up.

L:On the first album, John was quite good at making songs snappy, but with Every Day Carry we sort of extended it — and I think he quite enjoyed that process. When it came to the second album, we were kind of prepared for him to make things shorter again, but he seemed to extend stuff more. i think he kind of enjoys it, like, “It’s good when it’s longer!” He surprised us quite a lot by extending songs.

I:That’s John Parish, your producer, right?

L:Yeah.

I:He’s from around my hometown in Bristol. He produced one of my favourite albums, Joy Ride by The Brilliant Corners… (everyone laughs) I know he’s done way more famous albums than that, but they’re one of my favourite bands!

T:That’s one of the great things about John: he’s not the kind of person to brag about things or he doesn’t namedrop much, but when you’re having dinner, he’ll say something — he told me he did a Tracy Chapman record, and I was like, “What!?” He’ll have these stories, but you have to get it out of him naturally.

I:Was it more relaxing working with him this second time, with the familiarity?

T:I think in several ways. Firstly, we were more comfortable, just in ourselves; we’d been doing it longer and had more confidence. The fact New Long Leg did well gave us confidence, we’d played bigger shows by that point, and we were just feeling comfortable. I remember doing takes on the first record and feeling, “This has to be amazing, I have to give this everything!” and then you realise you don’t. Making an album is so complicated, there’s so many layers to it that by the time it’s mixed and mastered, you’ve completely forgotten what it was you were trying to do. So definitely on this one we sort of accepted things the way they were; you try to get a good take, if John’s happy, you move on to the next thing.

L:With the first one as well, we recorded it so quickly with John. We met him and within a few hours, we’d tracked Unsmart Lady, then we moved on to the next one and moved on to the next one. We didn’t have time to play so much.

T:Yeah. And it was a bit of a shock to the system last time when he would say things like, “I don’t like that. Change it.” (laughs)

L:And you’d be like, “Uh… now?” We had one day off last time, on the Sunday, and on Saturday, he was like, “I don’t like that. Change that tomorrow on your day off. See you Monday!”

T:But by the time we got to the end of that session, we were really onboard with it. We liked the way he worked and you just don’t take it personally. Because you’re more confident, a bit more robust, you can deal with it a bit better — you expect it and you welcome it. So with the second record, if he says to go and do something differently, that’s what you’re looking for.

L:And we’d go into the studio looking for things to change. With the first record, we’d been playing a lot of those songs live, so maybe people were a bit more fixed on their parts and their ideas, so that’s harder to change. This one was a bit more open to change.

I:The sonic texture of this album feels a lot broader than the first one. Did that come naturally, or was there some sort of conscious element to expanding the sound?

T:I think it’s natural in the sense that our listening tastes are so broad. I often feel that if I had more time, I’d do some kind of ambient project, or me and Lewis could do a metal band together. For sure Nick would do some kind of dance music, wouldn’t he?

L:And Dry Cleaning’s a nice collaboration of all those ideas pulling nicely in different directions.

T:The way Lewis described the transition from the first record to this one, it’s like the first record left little markers down for different directions to go in and on the second record we take them all a little bit further. And then hopefully on the third one if we get the opportunity to do another one, we’ll take it even further. It’s all about exploring different avenues. So when things seem to go a little more ambient, we’re already into that kind of music and we’ll go with it as opposed to being sort of, “Oh, I don’t want to make that kind of music.”

L:We’re learning more about what we can do in the studio as well. The first EP was really like a demo, recorded in a couple of hours. You don’t get much time to play in the studio, so you sort of write your parts for what sounds good in the rehearsal room. Writing the second record, we were writing for the studio more. We’d be writing a song and Tom would go, “There should be a twelve string on top of this!” There’d be a keyboard part here, or Nick would be playing really quietly and saying “On the record it’s going to be really big but it just sounds good the way I’m hitting it like this.” You get to experiment more like that.

I:I suppose it’s on Liberty Log where that almost ambient feeling is most pronounced, and I was wondering if writing for what’s mostly spoken word lends itself to a different way of structuring music compared to the traditional pop song structure of verse-chorus-verse-chorus.

L:There were a lot of times where one of us would say, “Should we do the chorus now?” and then we’d be like, “Which one’s the chorus?”

T:Yeah, “What’s the chorus?”

L:And we’d all have to agree on what’s the chorus.

T:Which I think was a good sign, actually. It shows how we’re all thinking in different ways but music is getting done. I think I agree: Lewis has said before in other interviews that one of the strengths of our identity is you have Flo in the middle of everything, and her voice anchors you, and certainly as a musician it feels that you’re given a lot of room to chuck things in. When we first started writing Hot Penny Day, initially when I wrote the main riff it sounded like Goats Head Soup-era The Rolling Stones to me…

L:And then someone fucked it up!

T:And then when I showed it to Lewis and we started playing it together, it started turning into something more like Sleep or stoner rock — made it more groovy.

L:And then Flo gets involved and it instantly sounds like Dry Cleaning. I think her voice and her delivery gives us a lot of scope.

T:I mean, as musicians, having worked with these guys for five years, I think we all have our own sonic motifs — I can tell it’s Lewis, I can tell it’s Nick, they can tell it’s me — but Flo definitely anchors things in Dry Cleaning world.

I:I was angles.

T:I’m really glad you checked our previous bands! I think if you want to understand Dry Cleaning, it has roots in what we’ve done in the past. Like you say, because we’ve got broad music taste, my first experiences in music were in punk and hardcore bands but I did find them stylistically quite limiting. I like the catharsis of fast music, but I also like the melody of REM. I remember seeing La Shark a few times and it was clearly a sort of skewed pop band but their later stuff sounded like instrumental Funkadelic, so it’s almost like there isn’t enough time to put all your influences into one band.

L:I’ll be driving and have little fantasies about combining two bands, and then I’ll meet up with Tom or Nick or Flo and I’ll say that, and they’ll be like, “We should do that!” And once again, it’s still Dry Cleaning. If you took Flo’s vocals off the new album, there’s so many different genres you could put stuff into.

I:You say Florence is in the centre of it all, holding the identity of the band together, but at the same time, she’s also a little bit separate from it in some ways. On the new album, even more than before, the way it’s mixed you hear the band playing, who sound like they’re in a room somewhere, but then her vocals come in and it’s like she’s right up against your ear. Like you’re watching a band on the stage and there’s just this woman whispering in your ear!

L:That reminds me of Flo’s story about her joining the band started with you playing the band and her talking over the top of it.

T:We’d studied visual art together — we were both making comics at the time, and we met up to talk about that. She asked, “What else have you been up to?” and I said, “I’ve started jamming with Lewis and Nick.” I had some demos and she listened to it. Then she took her earphones out, said, “Oh, that’s interesting,” and started talking, and I could hear the music still with her voice over the sound out of the earphones in the background. I think John’s key interest in our band is how he mixes Flo. On this record to a much greater extent you can hear bits of her breath. Flo is a very nuanced performer: just the little things she does, like the click of her tongue or something — very small sonic things that he’s very keen to make sure are in there. I’ve seen him talking about this in an interview, about how you have to hear everything she’s doing: that’s the first thing, and then around that, he builds the mix and brings the band in.

L:She’s always in the room when we’re recording, and she’s tracking at the same time. We’re lucky enough to have isolated rooms, so my amps can be in one room, Tom’s amps can be in another room, Nick could be behind some glass, Flo’s in the room with us, and she keeps a lot of those vocals. There’s a lot of effort put into isolating her vocals so there’s not too much bleed from the band. I agree with what Tom said, John puts a lot of focus on that.

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