「巡礼」と一致するもの

ピクシーズ、この6枚。 - ele-king

■ピクシーズ、まさかの新譜『インディ・シンディ』をクロス・レヴュー

Pixies - Indie Cindy
Review

Pixies - Indie Cindy
Pixies Music / ホステス

結成から29年、再結成から10年。「オルタナ」あるいは「グランジ」といった音楽的潮流の下、90年代以降のインディ・ロックに多大なる影響を及ぼしたバンド、ピクシーズの新譜がリリースされた。「本当に新譜が出るとは……!」という往年のファンから、「オルタナ」がオルタナティヴではなくなってしまった時代に聴きはじめた若いリスナーまで、もちろんその反応は一様ではない。しかし、どの聴き方にも真実がある。合評スタイルで多角的にアプローチしてみよう。 黒田隆憲、久保正樹、天野龍太郎による渾身のクロス・レヴュー!

■ピクシーズ、名盤Pick Up

文章:天野龍太郎、加藤直宏、久保正樹、黒田隆憲

『カム・オン・ピルグリム』
Come On Pilgrim
4AD / 1987年

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 映画『キャリー』でもっとも怖く印象に残るのは、クライマックスのキャリーの暴走ではなく、キリスト教原理主義のあの母親だ。アメリカの病理というべきか、歪んだ正義に息苦しさ、いや狂気を感じた子どもたちによる逆襲。ピクシーズというバンドもそうしたアメリカのダークサイドに唾を吐きかけたバンドのひとつだ。ジャケットを見てほしい。女装をした男の背中に、獣のような体毛が生えている。キリスト教右派たちからすれば、すぐさまに火をつけて、燃やしたくなるだろういかがわしいヴィジュアルだ。歌詞においても高く評価されるフランシス・ブラックがキリスト教社会や学歴社会に対してアンチを投げかけてきたことはよく知られているところだが、バンドの結成から間もない1887年に名門〈4AD〉との契約を勝ち取り、デビュー・アルバムに先駆けてのリリースとなったこのEP『カモン・ピルグリム(ピルグリムとは巡礼者のこと)』のジャケットは、ピクシーズというバンドの存在を見事に説明しているように感じられる。そして本作に収められたサウンドはこのジャケット以上に、聴く者に何か切実なものを訴えかけてくる。
 ピクシーズ史上もっとも美しいメロディを持つ曲のひとつ“カリブー”、パール・ジャムの“スピン・ザ・ブラック・サークル”を思わせる“イスラ・デ・エンカンタ”(彼らはこの曲ヒントにしたのかもしれない)、“エド・イズ・デッド”、乾いたスパニッシュ系のギター・リフに痺れる“ニムロッズ・サン”、ラップのようなフランシスのヴォーカルが特徴的な“アイヴ・ビーン・タイヤード”など、結成から1、2年のバンドとは思えないほど、アイディアに溢れ、完成度の高い楽曲が並んでいる。ピクシーズを聴くなら、本作も必ず押さえておくべき。(加藤直宏)

『サーファー・ローザ』
Surfer Rosa
4AD / 1988年

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 いま聴いてもゾクゾクする。ブラック・フランシスのささくれだった金切り声、頭を掻きむしっているかのように鳴らされるギターのノイズ、混沌のサウンドの中にふいのカウンターパンチのように散りばめられたポップなメロディやコーラス……、若き4人の匂い立つような初期衝動がスティーヴ・アルビニのプロデュースによって、生々しく記録されている。1988年に〈4AD〉からリリースされたこのファースト・アルバムは、グランジはもとより、その後のギター・ロックに大きな影響を与えたオルタナティヴ・ロックの金字塔として知られている。カート・コバーンが『ネヴァーマインド』を制作する際に本作から多くのヒントを得たというのは有名な話だし、2002年にチャンネル4で放送されたドキュメンタリー『Gouge』ではデヴィッド・ボウイ、ボノ、トム・ヨーク、ブラー、PJハーヴェイ、トラヴィスといった面々がピクシーズへの想いを語っていたが、本国を超えてそのサウンドは多くのミュージシャンたちに影響を与えている。アルビニのプロデュースも手伝ってか、本作ではとりわけ彼らのアルバムの中でもパンキッシュで攻撃的なサウンドが展開されている。どの曲も短くソリッドで、しかし強烈なフックを持っている。ピクシーズでもっとも有名な曲のひとつであり、後にブリーダーズを結成するキム・ディールが歌う“ギガンティック”(アップルの最新CMでも使われていているのはこの曲)、映画『ファイトクラブ』のエンディングで流れる“ホエア・イズ・マイ・マインド?”など名曲揃い。サイモン・ラーバレスティア(Simon Larbalestier)による退廃的なジャケットの写真も素晴らしい。(加藤直宏)

『ドリトル』
Doolittle
Rough Trade / 1989年

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スティーヴ・アルビニを迎えた前作『サーファー・ローザ』でUKインディー・チャートのトップに躍り出た彼らは、通算2枚めとなる本作でさらなる飛躍を遂げる。ルイス・ブニュエルの短編映画『アンダルシアの犬』からインスパイアされたという冒頭曲 “ディベイサー(Debaser)”は、まるでグランジ〜オルタナの「幕開け」を告げるかのようなインパクト。キム・ディールのベースライン/コード進行は、その後のインディ・ギター・バンドにとって、一種の「ひな形」になったといっても過言ではないだろう。不気味なうめき声と制御不能な咆哮を、1曲の中で目まぐるしく使い分ける“テイム”や“アイ・ブリード”など、ブラック・フランシスのヴォーカル・スタイルはもはや唯我独尊の域に達し、我関せずとばかりにレスポンスするキムのクールな声とのコントラストも、楽曲を立体的に際立たせている。変態的で、どこかオリエンタルな響きを持つジョーイ・サンチャゴのギターももちろん絶好調だ。ガールズポップのようなポップ・ソング“ヒア・カムズ・ユア・マン”や、屈指の名曲“モンキー・ゴーン・トゥ・ヘヴン”も収録された本作を、彼らの「最高傑作」と呼ぶファンは多い。(黒田隆憲)

『ボサノヴァ』
Bossanova
4AD / 1990年

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1990年リリースの通算3作め。『ドリトル』の延長上にある作品だが、楽曲はよりシンプルに、ストレンジながらもクリアな音作りも優れたバランス感覚で鳴っている。冒頭、オルタナティヴ版ベンチャーズのようなサーフ・ロック調のインストゥルメンタル“セシリア・アン”が意表を突く。全編にわたってブラックが叫び散らす「ロック・ミュージック」の行き詰まった焦燥は、ピクシーズとブラックの真骨頂ともいえる美しい瞬間を捉えている。黄金のリフを奏でる“ヴェロリア”、ロックンロールに駆け抜ける“アリソン”、ポエトリー・リーディングとギターのファンキーなカッティングからじつに美しいメロディへと流れこむ“ディグ・フォー・ファイア”には色褪せない輝きが。スペーシーなジャケットにも表れているとおり、宇宙やUFOが登場するリリックも興味深い。メインストリーム寄りのアルバムとして批判する向きもあるが、僕にとっては重要なアルバム。(天野龍太郎)

『トゥロンプ・ル・モンド』
Trompe Le Monde
4AD / 1991年

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前作『ボサノヴァ』でアレンジ/サウンド・プロダクションの幅を一気に広げ、全英でヒットを記録した彼らが、リハーサル・スタジオから漏れ聴こえるヘヴィ・メタル(オジー・オズボーンやラット)に触発され、ヘヴィメタ要素を大々的にフィーチャーした通算4枚め(ちなみに邦題は『世界を騙せ』)。16ビートのギター・バッキングやライト・ハンドの早弾きなどヘヴィメタ奏法で聴き手の血をたぎらせつつも、いきなりワルツをぶち込んで意表を突くアルバム表題曲をはじめ、随所で顔を見せる天の邪鬼っぷりは健在。キャプテン・ビーフハートやスネイクフィンガーとの共演経験を持つキーボード奏者、エリック・ドリュー・フェルドマンを迎え、これまで以上にシンセ・サウンドを取り入れたのも印象的だ。畳み掛けるような前半のテンションはとにかく異様で、アルバム全体のメタリックな感触にリリース当時は少々戸惑ったものだが、人を食ったようなジザメリのカヴァー“ヘッド・オン”をはじめ、いま聴くと親しみやすい曲もけっこう多い。何より、ナンバーガールやART-SCHOOLなど90年代以降に登場した日本のギター・バンドに多大なる影響を与えたアルバム、という意味でも重要な一枚だ。(黒田隆憲)


サーフ・ポップがねじれをこじらし、波乗りしていたらうっかり宇宙の哲学にまでたどり着いてしまった問題作『ボサノヴァ』の後にリリースされた5枚め。当時、最新ファッションとまで化していたグランジ・ブームのど真ん中で、もろに直球な“プラネット・オブ・サウンド”、幻想的にひた走る“ちびのエイフェル”あたりにシーンとのリンクを聴くことができるものの(というかシーンが追いついたのだが)、UKの〈4AD〉(←当時はデカダンな意匠をまとっていた)からのリリースというところにほかのUS産とはちがうワイアードな恍惚を感じたものだ。ミクスチャー風なグルーヴを採り入れた“スペース” “サバカルチャー”など、これまでにない骨太感も聴こえるが、やっぱり、インパクトのあるギターリフ、そして、妙ちきなくせに鮮やかなメロディをなぞるてろてろしたヴォーカルからの脂肪分たっぷりの絶叫に骨抜きにされてしまう。“モーター・ウェイ・トゥ・ロズウェル”の美しさもさることながら、シーンをともに築いた盟友ジーザス&メリー・チェイン“ヘッド・オン”のカヴァーを、悪意も皮肉もなくストレートに披露する懐の広さにもじんときたものだ。(久保正樹)


「世界を騙せ」と題された本作は、彼らの4枚めのフル・アルバムであり、今回の『インディ・シンディ』がリリースされるまでは、彼らのラスト・アルバムとして記憶されていた。本作を最後にして、1993年にバンドは解散。フランシス・ブラックはソロでの活動をスタートさせ、ベースのキム・ディールはすでに人気のあったブリーダーズでの活動に本格シフトしていくようになる。しかしながら、だからといって本作が輝きを失うわけではない。これほどの作品が作れるというのに、これで解散してしまうのはあまりにもったいないと思った人も多かったことだろう。それぐらい本作にはいい曲がたくさんある。“アレック・エッフェル”“プラネット・オブ・サウンド”“レター・トゥ・メンフィス”といった名曲に加え、ジーザス&メリーチェインの“ヘッド・オン”のカヴァーも収録。サード・アルバム『ボサノヴァ』でのサーフ・ロック的な路線から一転、本作では『サーファー・ローザ』時代に戻ったような、パンキッシュでささくれだったギター・サウンドが展開されている。フロントマンのブラック・フランシスはバンドを結成する際に「ハスカー・ドゥとピーター・ポール&マリー(1960年代にUSで大成功を収めたフォーク・バンド)が好きなメンバーを求む」と募集をかけたそうだが、ピクシーズというバンドは本当にそんな感じのサウンドだ。歪んだギターの轟音の中に、とてつもなくポップなメロディが潜んでいる。『トゥロンプ・ル・モンド』もそんなピクシーズの魅力を存分に味わえるアルバムだ。(加藤直宏)

『ピクシーズ・アット・ザ・BBC』
Pixies at the BBC
4AD / 1998年

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当時からライヴの良し悪しがその日の状態によって大違いなバンドとして定評(?)のあるピクシーズ。妙々たる奇跡のようなパフォーマンスの傍に──いつがっかりさせられてもおかしくない──垢抜けない要素がべっとり貼りついているところが、彼らを信頼できる所以であったりする。88年から91年までのBBCライヴを収めた本作は、テンション高く、キレも抜群で、アルバム以上にムキ出しズルむけとなったピクシーズのセンスとユーモアを存分に味わうことができる。フランシスの乾いたギターと、サンティアゴの艶っぽいギターの絡みもいつになくスリリングで、キムのコーラスもぱっと華やか。『サーファー・ローザ』以外の各作品から、ライヴ映えよろしい楽曲が選りすぐられていて、ピクシーズ初心者にも心の底からオススメできる内容だ。そして、玄人のあなたにはこちら。締めを飾るピーター・アイヴァースのカヴァー“イン・ヘヴン”(デヴィッド・リンチ監督『イレイザーヘッド』のなかで、おたふく娘が歌い上げる悪夢の幻想バラード)のフランシスの咆哮にまみれ、世にも美しい後味の悪さに浸ることをオススメする。(久保正樹)

ジャパニーズ・ハウス・ライジング - ele-king

大衆音楽の世界において、外国人にとって日本といえば、YMOやテクノの印象が強い。しかし、この10年で、日本の90年代ハウスが再評価されているということをあなたは知っているか。在日フランス人DJがジャパニーズ・ハウスの魅力をいま語る!

 僕はもともとはヒップホップを聴いていたので、白人ゲイが好むハウスやテクノとは絶対一緒されたくなかった。若い頃は自分のアイデンティティを作る時期なので、余計にオープンマインドじゃないんですよね。
 もっともそれは少年時代の話で、もうちょっと年とったときには、ハウスやテクノは僕が持っていたイメージと全然違うことを知るようになる。とくにヒップホップとハウスのルーツが実はそれほど離れてないってことを知ったときは衝撃だったな。じょじょに興味を持って、そして自分のなかのハウスやテクノのイメージが変わっても、日本にハウス・シーンがあることをまったく知らなかった。僕にとってハウス=アメリカ(80%)とヨーロッパ(20%)だった。それ以外の場所にハウスやテクノは存在していなかったんです。

 ジャパニーズ・ハウスの存在を知ったのは、2005年~2006年、初めて日本に来たときだった。渋谷のディスクユニオンに通って、ジャパニーズ・ハウスのレコードを偶然手にした。でも……それは正確な言い方ではないね。正確に言えば、僕が初めてジャパニーズ・ハウスと出会ったのは子供の頃だったんだと思います。当時はまったく意識はしていませんでしたが、日本のビデオ・ゲームが大好きで、ゲームでよく遊んでいた僕は、自然にゲーム音楽を聴いていたんですね。それがいま思えば、ジャパニーズ・ハウスの原型だったように思う。SEGAの「Sonic 2」, 「Bare Knuckles 2」などのBGM音楽はまさにジャパニーズ・プロト・ハウスです。
 みなさん、是非「Sonic 2」の“Sky Chase Zone”という曲を聴いてみてください! ChordsがシカゴのLarry Heardを彷彿させる、気持ちいい曲なんです。そして「Bare Knuckles 2」の“The park”, “The Bar”,“The opening streets”といった曲も。ゲームのBGMなので音のクオリティはよくないんですが、言いたいことが伝わると思います。つまり、僕はその頃から、ジャパニーズ・ハウスのVibeに染められていたのです。

 ディスクユニオンに戻りましょう。僕は、ちょうどその頃、90年代NYハウスにハマっていたんです。とくにBLAZEが好きだったな。ある日ディスクユニオンで見つけた小泉今日子の「Koizumix Production Vol. 1 - N.Y. Remix Of Bambinater」という12インチ・レコードに、“BLAZE remix”と書いてあったんです。早速、試聴した。それがジャパニーズ・ハウスとの最初の出会いです。
 BLAZEだからジャパニーズ・ハウスじゃないじゃん! って思う人も当然いるだろうけど、僕にとってヴォーカルが日本語だったので、それだけでも充分面白くて、ジャパニーズ・ハウスだったんです。日本語のヴォーカルがハウスにMixされている、これだけでとても衝撃的だったんです! 格好いい! って思ったんですね。ヨーロッパでプレイしたら、絶対にクラバーやDJたちは「なにこれ? なにこれ??!!」ってなると思ったんですね。もう、聴いた瞬間、とてもわくわくしました。
 そして、このレコードの“Sexy Heaven (King Street Sound Club Mix)”という曲で、初めてジャパニーズ・ハウスのことを意識した。
 同じ頃、Masters at Workの曲を必死探していたおかげで、MONDO GROSSOのことも知った。“Souffles H (King St.Club Mix)”という曲に出会ったことも嬉しかったな。まあ、MAWのプロダクションだから日本Vibeがあんまりないんだけど、一応バンドが日本人なので(笑)。BIRDがヴォーカルをやっている“Life (Main)”というMONDO GROSSOの曲もよかった。
 こうして僕は、じょじょにジャパニーズ・ハウスのこと知っていった。しかし、実を言うと、不満も感じていたんです。これ全部アメリカ人のプロデュースだったり、アメリカのレーベルの出版だったりしていたからです。
 でも、正直、見つけたばかりの頃は、そんなことよりも「日本でも国内のシーンがあったんだ!」という驚きと興奮が強く、「アメリカとのコラボいろいろあったんですね!」という感じでした。シーンとしてのジャパニーズ・ハウスのことはまだ意識していなかったです。本格的にジャパニーズ・ハウスを意識するのは、2008年、日本に戻ったときでした。

 当時渋谷にはYELLOW POPという中古レコード店がありました。僕がよく通っていたお店のひとつです。最初はハウス・セクションしか見ていなかったのですが、たまに時間つぶしでJ-POPセクションも見ていました。そこで見つけたのがPizzicato Fiveの『Pizzicato Free Soul 2001』です。
 Pizzicato Fiveのことは当時すでに知っていたけれど、僕は渋谷系のバンドとしてしか認識してませんでした。ただし、その盤は「Remixes」という言葉をアピールしています。で、クレジットを見たら、富家哲さん、Tei Towaさんなどの名前があります。リリース日付を見たら93年。90年代ハウスの大ファンである僕にとって必須な1枚です。
 そして、A2の“Catchy (Voltage Unlimited Catchy)”でものすごい刺激をうけたんですね。鳥肌が立ったんです。曲がやばいから鳥肌が立ったのではない。「日本でも僕が大好きな90年代ディープ・ハウスを作っていたプロデューサーがいた! アメリカみたいに、当時の人気POPバンドのハウス・リミックスを作っていた! そんなシーンが存在していたんだ! だったら絶対Digしてやる!」と思ったからです。探してもいなかった宝物が見つかったという感じです。当然、その“Catchy”という曲がすごい曲だからっていうのもありました。ディープなガレージ・ハウスにPizzicato Fiveのリード・ヴォーカルの甘い声が最高の組み合わせでしたからね。

 こうして僕はジャパニーズ・ハウス・シーンから離れられなくなっていました。日本に来る前にはジャパニーズ・ハウスなんてまったく知らなかったくせに、もうそれ以来、ジャパニーズ・ハウスの80年代~90年代のプロダクションを探すに必死になっています!
 そして、僕のなかで、日本でのハウス・シーンのイメージがアバウトに出来上がっていきました。大きく分けるとふたつのグループ頭のなかにあります。
 ひとつ、100%国内プロダクション(日本人のハウス・プロデューサーが単独で曲を作ったり、国内の人気ポップ・アーティストのリミックスなど)。
 もうひとつ、海外DJが日本のポップ・アーティストをリミックスした曲(主にアメリカのNYCのハウス・プロデューサー。MAW, Kerri Chandler, Blaze, Pal Joey, Mood II Swingなどなど)。
 不思議なことに海外ポップ・アーティストをリミックスしたジャパニーズ・ハウス・プロデューサーほとんどいない(富家さんはDef Mixに入っていたから、例外です)。このふたつの大きいグループを合わせて、日本のハウス・シーンが成立していました。後者はもちろんですが、前者も音的にアメリカに影響を受けていました。91~93年の福富幸宏さん、寺田創一さんなどのプロダクションを聴くとわかりやすい。

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 僕は日本の音楽のさまざまなジャンルが好きです。そして、どんなジャンルにおいても、アメリカからの影響を感じます。90年代のジャパニーズ・ハウスも例外ではないですね。70年代、80年代、90年代でDJ活動をはじめた日本人の多くがアメリカに滞在しています。長い旅をしたことがあります。たとえば福富さん、寺田さん、Tei Towaさんたちはその道を歩いて、日本に戻ったときに、アメリカのディープ・ハウスに影響された音を生み出している。有名な〈KING STREET〉を作ったのも日本人石岡ヒサさんです。
 ちなみに何故〈KING STREET〉という名前を選んだか、知っていますよね? 伝説のクラブ〈PARADISE GARAGE〉の住所が「KING STREET 84」だったからです。クラブ・ミュージックのはじまり、伝説のスタートポイントです。Larry Levanがレジデントだったクラブです。
 40代~50代の日本人のクラブ関係者/DJと話していて気がつくのは、Larryを神様みたいな存在として思っていることです。さて、この先は僕の個人的な仮説です。多くの日本人が70年代~90年代初頭にLarryにあこがれて、聖地巡礼に出るようにアメリカに行った。その現象がおそらく日本のクラブ・シーンに大きいな影響を与え、シーンの展開を可能にさせたのではないかと。
 90年代初頭、日本リリース限定(場合によって日本限定ではなかったが)のアメリカ人DJによるJ-POPアーティストのハウス・リミックス版がたくさんあります。しかし、それらが日本限定のリリースだったので、長いあいだ世界はそれらレコードの存在を知らなかった。そのひとつの例が、先述した「Koizumix Production Vol.1」収録のBLAZEミックスですね。


 他にも、僕が見つけた曲にはこんなものがある。山咲千里の「SENRIMIX」に入っているKERRI CHANDLERのミックスとか、露崎春女の「Feel you」のMood II Swingリミックスとか、SNK ゲーム「The King Of Fighters」のLIL LOUISによるハウス・リミックス……。リストにきりがないですね。実はいま現在、こうしたレコードは欧米でも知られるようになっているんですね。みんな必死に探していて、「SENRIMIX」や「KOIZUMIX」みたいなレコードは、海外ではかなり高値で取引されていますよ!

 これも先述しましたが、音的にはアメリカに大きく影響されています。当時のNYガレージ・ハウス・サウンドからの影響はとくに大きかったと思います。福富さんの“It’s about time”という曲を試聴しましょう。福富さんは自分のVibeも注いでいるから、結果としてはクオリティの高い新鮮な出来になっています。ただの真似ものではないんですね。
 少しマイナーな例ですが、関西のプロデューサー、TAKECHA(Takeshi Fukushima)が90年代にたくさんのディープ・ハウスな曲を作っています。そのなかに“Respect To Pal Joey”という曲がある。インスピレーションの元をはっきりさせているわけです。
 TAKECHAのレコードはとてもレアで、僕も3枚しかもっていないんだけど、曲を聴くと、たしかに Pal Joeyからの影響を感じます。しかも、しっかり自分のVIBEを仕込んでいる。TAKECHAっぽい音になっているんです。
 最後にもうひとつ例をあげましょう。東京出身のTORU.Sというプロデューサーです。90年代のTORU.SのプロダクションはNYよりのディープ・ハウス・サウンドです。TAKECHAのようにインスピレーションの元もはっきりしています。97年の「Final story the night」というEPに“Message 1 Thank You Joe”という曲があります。当然、Joe Clausselへのメッセージです。
 Toru Sの当時プロダクションを聴くと影響がはっきりわかるけれど、とくにその曲はJoe Clausselが作ったかのように聴こえます。本人Danny Tenagliaも好きなようで、そのEPの裏面には「Danny Tenaglia...Thanks thanks thanks...I wanna say this hundreds times. Oh Danny! I’m here for you」などと書いてある。ラヴレターみたいですね。TORU Sさんの場合はアメリカにも住んでいるから、また特別なパターンかもしれない。アメリカで作っているので、ほかの国内プロデューサーとはまた環境が違っているんですが。

 他に似たような例がいくつかあるけれど、全部載せられないので、今回はここまで。とにかく、ジャパニーズ・ハウス・シーンが世界ではまだまだよく知られていないのに(実は国内も含めて)、世界中で大人気だったアメリカのシーンと強くつながっていること。アーティストのコラボレーションもそうだし、プロダクションへの影響もそう。アメリカと日本の200年前からの歴史をみると、つねに不思議な関係にあることがわかる。力を使って喧嘩したこともたくさんありました。1854年、アメリカの海軍軍人ペリーは江艦隊を率いて鎖国していた日本にやって来た。その出来事は文化的に大きな影響となった。そして、第二次世界大戦で日本がアメリカに負けた後、アメリカ文化の影響はさらに広がった。アメリカに対して強い抵抗があったはずなのに、ポピュラー・カルチャーに関して日本はアメリカに憧れ、影響されることを拒まず、影響を主張している。それはハウス限定の話ではない。他のジャンルでも同じ現象が確認できる。いずれにしても、アメリカと日本の文化関係は外国人の視点からみると、とても面白いのです。

 歴史の話はそこまでにしましょう。ジャパニーズ・ハウスにおけるアメリカからの影響は誰も否定できない。Vibe的に、NYCディープ・ハウス・サウンドにとても近いものがある。しかし日本Vibeも混入されている。
 え、その日本Vibe、ジャパニーズVibeというのはなんですか? と訊かれても答えづらいんですけど、たとえばChordsは日本の雰囲気を表現していると思います。バブルやポスト・バブルの日本の雰囲気が音に出ているように思います。ハウスではないのですが、Jazzやヒップホップをプロデュースしている宇山寛人さんの“Summer81”や“Oneday(Prayer For Love And Peace)”といった曲を聴きましょう。日本の伝統な心が含まれているように感じます。独特の雰囲気があります。これは外国人である僕にとって、日本の心の一部がそのトラックに練りこまれているように感じるのです。

 それこそが私にとってとても魅力的に思えたところです。そここそがジャパニーズ・ディープ・ハウス・シーンの面白いところなのです。アメリカの音を真似てはいるけれど、真似るだけではない、ちゃんと自分のVibeも練り込まれている。やっぱ違うんです。ジャパニーズ・ハウスになっているんです。
 もうひとつ面白いところを挙げます。どういう理由からか、そうした多くのプロダクションが日本の外に出なかったという事実です。ジャパニーズ・ハウスは、長いあいだ国内にとどまっていたんです。
 ヨーロッパでもアメリカの音からインスパイアされて、曲を作っている人は当然少なくないですよね。Laurent Garnier、Grant Nelson、Bob Sinclar……、イタリのUMMとか。ただしヨーロッパの場合、そのアーティストが世界中に普及していった。
 日本のプロダクションの出来がよくない? いや、全然そんなことはないです。実は、逆にレベルが高かったんです! しかし、誰も注意を払わなかっただけ、というのが僕の結論なのであります。
 さらに僕がびっくりしたのは、ジャパニーズ・ハウスに注意していなかったのは外国だけではなくて、国内のクラブ音楽が好きな人たちからも無視されていたというか、気づかれていなかったということ。みんな当時の人気アメリカDJに夢中で、自分の国でもクオリティの高いディープ・ハウスがあるということに気づいていなかったのかもしれませんね。
 本当に、本当にみなさんにもっと自分の国のハウス・シーンの素晴らしさを知って欲しい! 誇りを持って欲しい! 僕がこの原稿を書いた理由はそれだけです。


FORGOTTEN JAPANESE HOUSE TOP 10

1 Flipper’s Guitar - Big Bad Bingo (Big bad Disco)
1990 (Yukihiro Fukutomi)
激レアプロモ版に乗っている14分のマスターピース

2 Pizzicato Five - Catchy (Voltage Unlimited Catchy)
1993 (Tei Towa)
ディープやダークの最強の組み合わせ。

3 Soichi Terada & Shinichiro Yokota - Shake yours
1991
なぜか聞くと懐かしくなる、ディープな1曲

4 Manabu Nagayama & Soichi Terada - Low Tension
1991
強いベースがあるのに、非常にディープ。寺田さんの音を定義する1曲。

5 Yukihiro Fukutomi - It's about time
1994
完璧なクラブ向けジャパニーズ・ハウス。ディープなキーズで旅をさせてくれる。

6 Wono & GWM - Breezin' part 1
1996 (Satoru Wono & Takecha)
ゲームBGMっぽいとても陽気、すっごく気持ちのいいハウス曲です!

7 Kyoko Koizumi - Process (Dub’s Dub)
1991 (Dub Master X)
シカゴ・ハウスっぽいとてもBouncyな小泉さんのハウスリミックス。

8 Pizzicato Five - 東京は夜の七時 The night is still young; One year after
1994 (Yukihiro Fukutomi)
原曲とても好きだったが、この福富さんによるミックスは最高です。最後の3分間はディープな旅に出る。

9 Toshihiko Mori - I got Fun
1991
Jazzadelicの半分であった森さんによる最強のNYディープ・ハウスっぽい曲。もうちょっとランキングあげればよかったこれ……

10 Katsumi Hidano - Thank you Larry
1993
Larry Levanへの感謝の言葉ですが、音的にLarryっぽくなくてNU GROOVEに近いNYディープ・ハウス系の気持ちいい曲。

我がためにある音楽は聴いた瞬間にわかるというもの
ブライオン・ガイシン

The 4000 year old Rock and Roll Band
ティモシー・リアリー/ウィリアム・バロウズ

 ブライオン・ガイシン、ウィリアム・バロウズ、ポール・ボウルズ、ブライアン・ジョーンズ、ティモシー・リアリー、オーネット・コールマン......世界のつわものを魅了してきたこの古代の響きを受け止められるだけの精神力が自分にあるのだろうか......? でも、たとえ精神的に戻れなくなってもいい、私にはその覚悟はできているんだ! 
 2012年6月、期待と不安に飲み込まれながら、私も先達と同じく、ジャジューカの魅力にとりつかれ村に吸い寄せられるように行ったひとりとなった。私の音楽観や人生観を一瞬にして変えてしまった3日間。村を後にしてからジャジューカを思い出さなかった日は1日もなかった。あれから丸一年、今年6月、私はまたジャジューカに戻ってきた。今回は友人たちとともに──。

 北アフリカ、モロッコ王国の北部、リフ山脈南に位置するアル・スリフ山にある小さな村ジャジューカ。この村で、アル・スリフ族のスーフィー音楽家たち‘The Master Musicians of Joujouka(ザ・マスター・ミュージシャンズ・オブ・ジャジューカ)’(アラビア名:マレミーン・ジャジューカ)によって、息子たち、甥たち、村の子供たちへと千年以上も時代を超えて守られ受け継がれてきた音楽がある。
 それは、村から1キロくらい離れた、背の低い緑が茂る緩やかな山の斜面に鎮座する大きな岩の横腹にポッカリと口をあけた洞窟、このブゥジュルード洞窟の伝説が起源になっている。


緑の山の斜面にいきなり大きな岩がある。

  昔々──、ヤギを放牧していた村人のアターが、みんな恐れて近づかなかったこの洞窟でうたた寝をしていると、どこからともなく美しい音色が聞こえてくる。ふと目が覚めると半人半獣(人間とヤギ)のブゥジュルードが自分の目の前に立っていた。そして、ブゥジュルードが村の女性のひとりを花嫁にする代わりに、他の村人に教えてはならないと約束させ、アターに笛を渡し音楽を教える。しかし、アターは約束を破り音楽を村人に伝授してしまう。村から音楽が聞こえ、怒り狂ったブゥジュルードは村に行く。慌てた村人たちは、頭がクレイジーな村の女性アイーシャを花嫁として差出し、激しい音楽で彼らを踊らせた。踊り疲れたブゥジュルードは満足して洞窟に帰り、それから毎年一度村に来て踊るようになった。それ以来、やせていた村の土地は肥え、村には健康な子供がたくさん生まれた。


ブゥジュルード洞窟の岩。『Joujouka Black Eyes』のカヴァーで使われている。

  しかし、ある日突然ブゥジュルードが洞窟から姿を消した。そして、アイーシャも村からいなくなった。心配したアターはヤギの群れを連れてブゥジュルード探しの長い旅に出る。自分のヤギを順番に食べながら旅するが見つからない。ついに最後の4匹になった時、アターはそのヤギを殺しその皮をまとい変装して村に戻る。村人は彼をブゥジュルードが帰ってきたと思い込み、少年たちにアイーシャの恰好をさせ一緒に踊らせる。それ以来、アターはこの洞窟で生涯ブゥジュルードとして生きる。彼に死が近づいてきた時、村のある若い男に自分の変装の秘密を打ち明ける。そして、彼はその少年にジャジューカが繁栄するようにブゥジュルードとして踊ることを約束させた。


洞窟の中からリフの山々を望む。

  この音楽は1週間続くイスラームの祝祭エイド・エル・カビールで子孫繁栄と豊穣のため伝統的に毎年演奏されてきた。
 ギリシャ神話の牧羊神パーンに似通っているといわれるブゥジュルードのその音楽を私が初めて耳にしたのは今から2年数か月前、2011年春のことだった。1970年代後半から電子音に魅了され、それからずっと電子音楽だけを追い続け、94年に渡英し、気がつけば私はクラブ・カルチャーの真ん中にいた。自分の音楽史にロックを通過した跡がほとんどない私は、当然ローリング・ストーンズの元リーダー/ギタリストであるブライアン・ジョーンズのアルバム『Brian Jones Presents The Pipes of Pan at Joujouka』の存在など知るはずもなかった。
 ジャジューカに魅了されたブライアンが、68年に村で現地録音したテープをロンドンに持ち帰り、フェージングやクロス・フェード・エディティングによって完成させたこの作品は、69年、彼が不慮の事故死を遂げたことによって、残念ながらリリースがペンディングになっていた。しかし、彼の死から2年後の71年、ローリング・ストーンズ自身のレーベル第一弾として発売される。このアルバムの登場はジャジューカを世界的に知らしめ、その後世界中から人びとを村に引き寄せることになる。


ブライアン・ジョーンズのアルバム。カヴァーの絵はハムリ。レコードジャケットを広げると、並んだジャジューカのミュージシャンたちの真ん中に金髪のブライアンが描かれている。

  2009年末にモロッコへ旅し現地で音楽に触れたことがきっかけで、30年以上聴き続けた電子音楽を捨てるようにアラブ諸国の音楽にどっぷりと浸かっていった私に、友人はこのアルバムを教えてくれた。チャルメラに似た高い音を出すダブル・リードの木管楽器‘ライタ(ガイタ/Ghaitaともいう)のヒリヒリとした直線的な音と両面にヤギ革を張った木製のタイコ‘ティベル’がつくる原始的なリズムはとてもパワフルで、いきなり私の心を、いや、脳を直撃した。
 何度も何度もループさせて聴きかえす。出会いから約2ヶ月間、毎晩このアルバムをかけ続けた。窓から差し込む朝日の中でふと気がつくと、いつも私は居間のスピーカー前で倒れていた。私を2ヶ月間もベッドで寝かせてくれなかったジャジューカ! 周囲の心配をよそに、私はこの不思議な力を持った音に心をつかまれ、ジャジューカの世界にのめり込んでいったのだ。

 この小さな村の局所的な音楽が世界に知られる最初のキッカケは、ジャジューカ出身の母を持つモロッコ人画家モハメッド・ハムリが、カナダ人アーティストのブライオン・ガイシンを村に連れて行った1950年代初頭まで遡る。
 ガイシンが村へ行く前に、実は彼はボウルズと一緒にこの地域のとある町の祭りで、偶然この音楽に出会っている。その時彼はこの音楽を一生聴き続けたいと思ったという。しかし、それがハムリの村の音楽だったとは、実際に村で耳にするまでは知らなかった。
  ジャジューカにすっかり魅了されていたガイシンは54年ハムリと一緒に「1001 Nights Restaurant」をタンジェ(タンジール)に開き、村のミュージシャンたちを15人交代で呼び寄せ店で2週間ずつ演奏させ、次々と西洋のオーディエンスに紹介していった。そうすることによって、同時にハムリは、戦後とても貧しかった村のミュージシャンたちの生活をサポートした。
 タンジェに住みハムリやガイシンと交流があったアメリカ人作家のウィリアム・バロウズが村を訪れることは自然な流れだった。カットアップの手法で書かれた彼の小説『The Soft Machine』(61年)の中でジャジューカの音楽を思わせる‘Pan God of Panic piping’という言葉を使い、ガイシンの作品『The Dreamachine』が登場するバロウズのショートフィルム『Towers Open Fire』(64年)ではサウンドトラックにジャジューカを起用している。
 こうして、ガイシンやバロウズを通して、ジャジューカはビート・ジェネレーションと共振し、深く関わっていった。
 そして、ガイシンとハムリが先述のブライアン・ジョーンズを村に連れて行く。60年代を通じて、ティモシー・リアリー、ミック・ジャガー他、73年には、フリージャズの巨匠のひとり、オーネット・コールマンが村に滞在し、マスターズ(ザ・マスター・ミュージシャンズ・オブ・ジャジューカ)とセッション。この曲「Midnight Sunrise」は76年に発売されたアルバム『Dancing in Your Head』に収録されている。
 また、80年代には、ついにザ・マスター・ミュージシャンズ・オブ・ジャジューカは3ヶ月間の長いヨーロッパ・ツアーに出た。
 このようなユニークなバックグラウンドを持つ彼らは、国内よりむしろ海外でより知られた存在になっていく。

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 ガイシン、バロウズ、ブライアンたちと同じようにジャジューカの生演奏を現地で体験できるというフェスティヴァルが、ザ・マスター・ミュージシャンズ・オブ・ジャジューカと20年来彼らのマネージャー/プロデューサーを務めるフランス在住のアイルランド人、フランク・リンによってはじめられた。
 ジャジューカの音楽に“Brahim Jones Joujouka Very Stoned”という曲もあるほど彼らに敬愛されているブライアン・ジョーンズの村訪問40周年を記念して、村で行われた「The Master Musicians of Joujouka Brian Jones 40th Anniversary Festival 2008」は、ブライアンの元ガールフレンド、アニータ・パレンバーグも参加し大成功を収めた。それ以来、世界限定50人の3日間フェスティヴァル「The Master Musicians of Joujouka Festival」として、毎年6月に村で開催されている。
 このフェスティヴァルによって、年1回、村のミュージシャンたちは確実な収入をひと週末で保障され、これはハーベスト(収穫)のようになった。そのお金は、食糧や村の学校に教科書を購入したり、村を何ヶ月か維持するために使われる。このフェスティヴァルには毎年、大学教授、作家、音楽ライター、ミュージシャン、アーティスト、フォトグラファー、学生などなど、ジャジューカ音楽へ様々な入り口から辿りついたファンたちが世界各国から集まっている。
 実は、現在はもうひとつ、バシール・アッタール率いるThe Master Musicians of Jajouka(ジャジューカのスペルがJaで始まり、その後にLed by Bachir Attarなどと彼の名が続く)が対立して存在するのだが、このフェスティヴァルは実際にずっと村に住んでいるThe Master Musicians of Joujouka(ジャジューカのスペルがJoではじまる)のもので、彼らはスーフィー音楽家たちとして村にしっかりと根づき、人びとに尊敬され、今日も子供たちにジャジューカの音楽を教え続けている。このマスターズを率いるのは、村のコミュニティの中で選ばれたリーダー、アハメッド・エル・アターで、彼はミュージシャンたちのリーダーであり、部族のリーダーでもあるのだ。
 私が2012年から足を運んでいるこのフェスティヴァルの参加者たちは、タンジェから電車で約1時間半行ったところにあるクサール・エル・ケビールという駅に集合する。そこで用意されたタクシーに分乗し約20分、伝説のジャジューカ村へ着く。実はジャジューカはいくつかの村が集まるこの地域の名前でもあり、伝説の音楽が残るこの村そのものの名前でもある。そのジャジューカ村はそんなに山奥に位置するのでもなく、主要道路から斜めに入る山道を車で3分ほど上っていったところにある。村に行こうと試みて辿りつけなかったファンが日本に少なからずいるのは、単に村を示す標識のないこの山道を見つけられなかったからかもしれない。
 しかし、比較的大きな町のそばに位置しながら、電気と携帯のアンテナが同時に設置されてまだ10年くらい。舗装されて2年も経っていない山道は村の途中で突然途切れ、あとはウチワサボテンが茂る足場の悪いオレンジがかった砂利道がずっと続く。村にはモスク、小学校があり、そして、村に点在する井戸が村人の水源になっている。それを運ぶのはロバの仕事で、ポリタンクに入った水を背負ったロバがのんびりと歩いていく。


ジャジューカ村。向かって左にある角柱の塔はモスク。

  こののどかな村は、15世紀末に村に辿り着き生涯をここで過ごしたスーフィー(イスラーム神秘主義)の聖者・シィディ・アハメッド・シェイクのサンクチュアリーがあり、人びとの巡礼の地でもある。この聖者はここの音楽には治癒の力があると感じ、平穏、心の病気の治療、平和と調和を促進する精神的な目的として彼らに曲を書き、音楽を治癒のツールとして使った。村のミュージシャンたちは彼からバラカ(恩寵)、精神的なパワーをもらい、スーフィーである彼らが演奏することによってバラカはライタ自身の中に入り、したがってライタはバラカを持っているとされ、楽器で患者に軽く触れることで治癒することもできるという。この治癒の音楽はフェスティバルでは演奏されないのだが、約500年前から今日も続く聖者が起源の音楽が存在し、ジャジューカ全体にはバラカがかかっているとされるのだ。
 巡礼の地ではあるが、ここはいわゆるガイドブックに載る様な外国人向けの観光地ではない。小さなキオスクが2軒と地元の人たちが集う(彼らはカフェと呼んでいる)場所があるだけで、当然ホテルのような宿泊施設などない。フェスティヴァルの間、参加者たちはそれぞれマスターズの家にホームステイする。つまり、マスターズのコミュニティに入り彼らと一緒に音楽漬けの濃厚な3日間を過ごすのだ。
 今年の参加者は約40名。その2割は私を含めリピーターだ。日本人は全部で5名、その他、ガイシンの「ドリームマシーン」をジャジューカの生演奏で体験しようと、大きな「ドリームマシーン」のレプリカを担いで来たカナダの若者もいた。結局壊れていて使い物にならず、「The most Dreamachine experienceだったのにー!」という彼の悲痛な叫びとともに実験は失敗に終わった。
 村にはマスターたちがいつも集まる場所が村の広場から少し先に行ったところにある。ここがフェスの会場で、半分テントで覆われ片側が開いた半野外のその場所には赤い絨毯が敷いてあり、前方にはリフ山脈の美しい緑の山並みが目線と同じ位置に見える。普段も彼らはここに集いおしゃべりをしたり演奏したりして過ごす。マスターたちに憧れる子供たちはこのような環境の中で、マスターたちから音楽を教わる。


昼間のセッション。音楽に合わせて踊る村の少年たち。


バイオリンが入る昼間のセッション。

 フェスティヴァルではもちろんアンプもスピーカーも通っていないマスターズの生の音を昼夜聴き続ける。タイムテーブルもなく、マスターズの周りで参加者たちはゆったりとしたジャジューカ時間を過ごす。昼間に演奏される音楽はジベルという山の生活や民族的なテーマを歌った伝統的な民謡が主で、宗教的なものや恋心を歌ったラヴソングもあり、バイオリン、ダラブッカ(ゴブレット形太鼓)、ティベル、ベンディール(枠太鼓)、リラ(笛)などで演奏される。その他、ブゥジュルードの音楽のリラ・バージョンや「Brahim Jones Joujouka Very Stoned」のようにゲストが来た時に作られた比較的新しい曲も存在する。
 マスターズの数人が楽器を手にして音を出しはじめると、他のマスターたちも楽器を持って集まってくる。私は2回目だからもちろんわかるが、村のおじさんたちも私服のマスターズに交じっているので、楽器を持つまで誰がマスターかはっきりわからない。他の村人と全く変わらないこの男たちがひとたび楽器を持つとたちまちあの伝説のマスター・ミュージシャンズ・オブ・ジャジューカに変身する。今でも音楽だけで生活する彼らにとって音楽は生活の一部であり、演奏することがとても自然なのだ。


リラが中心の昼間のセッションで踊るマスター。

 そんな感じでゆるくはじまる1曲30分近くの音楽は、10分を過ぎたころからじょじょに盛り上がりグルーヴが出てくる。これでもか! とあおるようにじょじょにリズムも早くなり、ダラブッカを打つ手が腫れるのではないかと聴いている方が心配になるほどリズムも激しく音も大きくなって、「アイワ! アイワ!」(そうだ、そうだ! いいぞ!)の掛け声が飛ぶ。そんな掛け合いのコミュニケーションの中でグルーヴが生まれるのだと感じる。マスターズや村のおじさんたちに手を引かれ一緒に踊ったりしている中、ある者は散歩に行ったり、ある者はおしゃべりしたり――。こうして、地元の甘いミントティーでまったりしながらとても自由で贅沢な1日がゆっくりと過ぎていくのだ。


会場のテントからリフ山脈を眺める。

 マスターズの妻たちが会場の裏手にある家で作る新鮮な地元野菜をふんだんに使った家庭的なモロッコ料理、タジン、クスクス、サラダ、スープなどどれも優しい味でとても美味しい。モロッコは6回目だが、やはり私にとってジャジューカでの食事が一番美味しい。朝食は各自宿泊先の家庭でいただき、昼食と夕食は会場でみんな一緒に食べる。しかし、妻たちは一切表に出てこない。女の子供たちまでも入ってこないのだ。そんなジャジューカの女性たちにも実は彼女たちの音楽があるのだが、フェスティヴァルでは聞くチャンスはない。


北アフリカの伝統料理のひとつ、クスクス。


地元野菜のサラダ。

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 この時期の昼間は日差しが強く暑いジャジューカも夜になると涼しくなる。辺りもすっかり暗くなりテントに裸電球がいくつか灯る中、遅い夕食をとる。食事が終わり少ししてから夜0時頃、ブゥジュルード音楽の演奏のため準備がはじめられる。この音楽は、既述した木管楽器ライタとタイコのティベルのみというシンプルな楽器編成で演奏され歌はない。
 昼間は私服でいるマスターズは全員、この演奏のために一変して黄色のターバンを頭に巻き、カラフルなボンボンが付いた茶色の分厚い生地の正装ジュラバに着替え、向かって右側にティベル奏者が4人、その横から左側に7人のライタ奏者が、横一列に並んだオレンジ色のパイプ椅子に座る。
 演奏がはじまる前は期待でいつも緊張する。自分の目の前にあのザ・マスター・ミュージシャンズ・オブ・ジャジューカが勢ぞろいしているのだ! と、夢のような現実をもう一度自分に言い聞かせる。これからブゥジュルード伝説の音楽が目の前ではじまるのだ!   
 横一列に揃ったマスターズは数分間みなそれぞれライタで少し音を出した後、みんなの準備が整ったタイミングを見計らって、リードのライタ奏者がちょっとしたメロディでスタートの合図を出す。そのとたん、他の6本のライタと大小4台のティベルが続き、いきなり演奏がはじまる。そして、待ったなしの音のローラーコースターに乗った私たちはディープな世界へと連れていかれるのだ。
 ジャジューカをCDやレコードで聴くと、残念ながら何本ものライタ音は一本の大きな束になって平たくなってしまう。当たり前のことだが、ボリュームを上げればその束は大きくなりうるさくなる。しかし、生の演奏を目を閉じて聴くと、各ライタの直線的な音は一本一本きちんと分かれていて、それらがそれぞれ一直線状に額から飛び込んでそのまま脳をまっすぐ突き抜ける。今どこのライタの直線が脳を突き抜けたかがわかり、それはとても立体的で、耳で聴いているというより、他の感覚を使って音を捉えているとしか思えない。ライタ音は信じられないくらいにパワフルな音を出す。ところが、もの凄い大きさの音にもかかわらず、とても澄んでいて美しくまったくうるさくないのだ。
 循環呼吸で演奏するライタ奏者たちは向かって左にドローン、真ん中にメロディ、右にリードと三つのセクションに分かれ、ヒリヒリとした直線的なライタの高音が上をすべるように走る。その下を二台の小さいティベルが高速で回転するようなリズムを刻み、二台の大きいティベルが地に響く低音の力強いリズムでしっかりとテンポをキープしていく。そして、今度はティベルの真正面で目を閉じてみると、それぞれのタイコが生み出す複雑かつ立体的で跳ねるようなリズムがライタ音の前にググッと出る。ライタの前に立つかティベルの前に立つかで、また聞こえ方が変わる。


ライタを演奏するマスターズ。

 中央に座っているリードのライタ奏者が他のライタ奏者を目で伺いながら、次の曲に入る合図らしきメロディを出す。曲を移行させるのはティベルではなくリードのライタなのだ。リードのライタ奏者の合図に従い、他のライタ奏者たちが続く。それと同時にティベル奏者たちがリズムを変え、一瞬にして曲が変わる。曲は次の曲へとシームレスに変わり、一回のセッションに5〜6曲演奏される音のジャーニーはすべるようにノンストップで続いていく。
「現地で実際に体験しないとこの音楽の本当の凄さはわからないよなぁ......ガイシンやブライアンがハマったのがわかる......」なんて遠い思考の中でぼんやりと思うのだが、次々と押し寄せるライタの線の嵐にすぐにかき消されてしまう。そのうち、ライタのパワフルな音とティベルの原始的なリズムはさらにパワーを増し、私の思考を完全に破壊していく。私は目を閉じたまま意識の向こう側へ、意識を超えた感覚だけの世界へ深く入っていく。弾むようなティベルのリズムと待ったなしに次から次へとすべるように走り抜けるライタが織りなすグルーヴの中で、私の脳と身体は自由自在に音の世界を泳いでいく。


ライタを演奏するドローン・セクションのマスターズ。

 音のローラーコースターがどんどん奥に進んでいき、観客がうねるようなグルーヴにのみ込まれ興奮も最高潮に達しはじめたころ、急に電気が消え、テント前の芝の真ん中で火が燃え上がる。火は見る見るうちに真っ暗な空に向かって大きくなっていく。子供たちや村人たちも集まっている中、建物の横で隠れるようにみている村の女性たちの姿が炎で照らし出される。みんなが大きく燃え盛る焚火に釘づけになっていると、突然、黒いヤギの毛皮をまとい麦わら帽子をかぶった伝説のブゥジュルードがオリーブの枝を両手に持ち現れる。暗闇に立ちのぼる原始的な火をバックに、ブゥジュルードは狂乱したように踊る。オレンジ色の荒々しい炎に激しく揺れるブゥジュルードの黒いシルエットが重なる。


焚き火の前で踊るブゥジュルード。

 アイーシャに変装した3人の少年たちも現れ、腰を振りながら乱舞する。私たちも押し寄せるグルーヴの中に身をゆだね、踊る、踊る、踊る。音に操られるように全身が激しく動いていく。自分がどこの誰かなんて関係ない、今がいつなのかもどうでもいい。この音を全身に浴びて裸になった自由な精神があることだけで十分なのだ。


マスターズとブゥジュルード。

  最後の一音がバンッと大きく鳴り、音旅の終わりを告げる。パワフルな音の刺激とうねるグルーヴの大きな波にのみ込まれて、私は完全に圧倒されていた。大きな拍手が沸き起こる中で、私は「アズィーム ジッダン!」(とても素晴らしい!)と叫び、村人も何か叫びながらマスターズを称える。やがて拍手が止むと、辺りはいつもののどかな村の夜の顔に戻る。ぼわ~んとなった私の耳に人びとの話し声と虫の音がぼんやり聞こえてくる。夜露で湿った絨毯や自分の服の重たい感触に気づく。そして、腕時計をのぞいてみる。
 夜0時くらいにはじまった演奏が終わったのは夜中2時半過ぎだった。私たちは約2時間半の間、ノンストップでぶっ飛ばされ続けたのだった。息つく暇もないくらいに「もの凄かった!」としか言えないくらいもの凄かった......! としか言えない......。そして、マスターズの信じがたいタフさにもただただ感服するのだ。その凄すぎた世界からしばし出られずまだ余韻を引き摺って座っていると、あっという間に私服に着替えた私たちの宿泊先のマスター、ティベル奏者のムスタファが、テント前の芝から私たちを目で呼ぶ。そして、ついさっきまで2時間半休みなくティベルを叩き続けていた彼と一緒に真っ暗なオフロードを、彼の家までトボトボと15分くらい歩いて帰る。そして、寝るのは毎晩夜中の3時過ぎ。この生活が3日続く。

 繁栄や豊穣のための祭りや儀式で演奏されてきたこの音楽は、ブゥジュルードを踊らせる、つまり生粋のダンス・ミュージックであり、ダンス・ミュージックの源泉、そして、本物のトランス・ミュージックなのだと感じる。この音楽は耳で「聴く」のではなく、全身で「体験」する音楽なのだ。
 ふだん私は淋しいような切ないようなメロディを持つ曲を聴くとネガティヴな思い出とくっ付いて悲しい気持ちになることがある。私はメロディに自分の感情をコントロールされるのがあまり好きではない。記憶という時間軸に縛られているようで鬱陶しく、感情にわざとらしく訴えかけてくるようなおせっかいなメロディの音楽に心地良さをあまり感じない。
 しかし、ブゥジュルードの音楽は、感情に訴えかけてくるようなメロディを持っていない。この音楽は、「感情」の向こう側の時間軸を外れた「今」だけが連続する精神にダイレクトに届くような気がするのだ。だからこそ、この音楽は私の精神を自由にさせ、精神が自由になるからとても気持ちいいのかもしれない。そして、時間軸に縛られていないからこそ、この音楽は千年以上経った今でも常に新しく、どこの時代で切り取っても、ジャジューカの音楽は永遠に「今」の音楽なのだ。

 現在この村で音楽を守り続けているのは、ブライアンが村に来た時まだ11歳だったリーダーのアハメッド・エル・アター率いる最大で19人、普段は10〜12人のミュージシャンたちである。その他にもミュージシャンになるだろうと思われる10代半ばの少年が何人かいて、また、20代の少年たちも地域にいるが、マスターズの基準に達するにはまだまだ時間がかかるようだ。
 大きなセレモニーでは大きなグループで演奏し、比較的小さなセレモニーでは4~5人が2~3のグループに分かれ交代で演奏することも可能で、地元の生活のすべての宗教的な機会、大きな地域では、割礼、結婚式などのセレモニー、地元の公式なセレモニー、そして、ロイヤル・セレモニーで演奏する。
 昔ジャジューカのマスターたちはある王朝のスルターン(君主)に音楽を気に入られ、長い間に渡り援助を受けながら専属の音楽家として、セレモニーや軍の一部として戦場へ行き演奏していたこともあった。しかし1912年、モロッコがヨーロッパ列強の保護領になりスルターンからの援助が打ち切られた。
 過去には65人いたこともあったというザ・マスター・ミュージシャン・オブ・ジャジューカは、村がスペイン領だったときに兵士としてスペインへ内戦及び第二次世界大戦に連れて行かれた者たち、モロッコの近代化に伴い村を出て行った者たちなど......その他、時代のいろいろな困難を乗り越えて生き残ってきた。
 世界が目まぐるしく変化していく中で、伝統を継続させることはとても難しい。ここモロッコのジャジューカも例外ではない。
 マスターになるのは職人のようなシステムで、マスターたちについて訓練して訓練して、その後ティベル奏者なら半ドラマーになって、ライタ奏者なら半ライタ奏者になって、パンを取りに行ったり店に飲み物を買いに行ったりと、日々のマスターズのタスクをこなしながら一人前になっていく。そして、まず何よりも第一に音楽のために全てを犠牲にできるほどジャジューカの音楽を十分に愛していなければならない。しかし、全員が最終的にマスターになれるわけではない。マスターズの一員になるには、彼らに受け入れられ永遠に行動をともにし、仲間として仲良くやらなければならない。この音楽は集合体として連結しながら演奏されることからもわかるように、彼らは仲間同士の信頼と強い絆が必要なのだ。
 マスターになるのは決して強制ではない。だからこそ、子供たちや若者たちがジャジューカの音楽に魅力を感じ、この音楽の素晴らしさを理解し、そして、「マスターになりたい」と自発的に思うことが大切だ。そのために、マスターズは子供たちや若者たちが尊敬し憧れる存在であること、また音楽家として音楽で生活ができることを示し、伝統を継続させる大切さを自らみせることが必要なのだ。そうでなければ、若者たちは村を出てタンジェの工場に働きに行ってしまうだろう。しかし、フェスティヴァルでリズムに乗って激しく楽しそうに踊る子供たちをみると、この子たちの身体の中には確実にジャジューカの音楽の血が流れていることがわかる。どうかこの子供たちが大きくなったらマスターズになってジャジューカの伝統を担って欲しい、そして、どうかこの素晴らしい音楽が絶えることなくいつまでも続いて欲しいと切実に願う。

 2011年には、ザ・マスター・ミュージシャンズ・オブ・ジャジューカはイギリスの野外音楽フェスティヴァル「グラストンベリー・フェスティヴァル」に出演。メインステージであるピラミッド・ステージにてオープニングを飾った。演奏していることが日常で自然な彼らはステージ以外の場所でも何度も演奏していた。それを聴きつけたクスリでぶっ飛んだ連中がマスターズの周りに集まってくる。そして、エレクトロニックのダンス・ミュージックで踊るように、この古代からのダンス・ミュージックで踊るのだった。

 今年6月初旬には、イギリスのDJ・エロル・アルカンも出演したイタリア・ローマのVilla Mediciで開催された「Villa Aperta 2013 IV edition」に招かれ、ダンス・ミュージックのオーディエンスからも喝采を浴びた。

 そして、今年2月6日DOMMUNEで配信された「21世紀中東音楽TV2 ジャジューカNOW!!」でサラーム海上氏と一緒に、今まで日本では詳しく明かされていなかったジャジューカについて語り、トークの最後に2012年のフェスティヴァルで録音してきたブゥジュルードの音源をスタジオの電気を消し暗闇から放送。視聴者は延べ2万5千人を超えた。

 現在のザ・マスター・ミュージシャンズ・オブ・ジャジューカはジャジューカの伝統的な音楽スタイルを忠実に守りながらも、ダンス・ミュージックという入り口から新しいオーディエンスを魅了し始めているようだ。ビート・ジェネレーションやブライアンとの出会いがそうだったように、ジャジューカにとってまた新しい何かがはじまろうとしているのかもしれない。

 精神の音楽を演奏し続ける素朴なマスターズに心打たれ、その純粋な音に自分の魂をすっかり裸にされた。私の音楽観や人生観までも変えてしまったジャジューカに、私は来年もまた行く。

赤塚りえ子

ザ・マスター・ミュージシャンズ・オブ・ジャジューカ公式サイト
https://www.joujouka.org/

ザ・マスター・ミュージシャンズ・オブ・ジャジューカ・フェスティバル 2014
日程:2014年6月20日~22日
フェスティヴァルの申し込みはこちらから
https://www.joujouka.org/the-festival/more-about-the-festival-and-booking/

ディスコグラフィー
『Joujouka Black Eyes』(1995年/Sub Rosa)

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『Boujeloud』(2006年/Sub Rosa)

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第7回:忘却の手ざわり - ele-king

 先日、ニューヨークの恩田晃さんから新作の案内をもらった。といっても、恩田さんは音(楽)を探しながら、つくりながら世界中をめぐっているので家を空けることも多いが、そのときはニューヨークにいたようだった。メールといっしょに、ごていねいに試聴音源もいただいたのだが、メールを送られたのが昨年の暮れだから、2ヶ月以上も経ってからのご紹介になってしまい、もうしわけない。文面には「数週間前に Important Records から久々のソロ・アルバムをリリースしました」とあったから、作品自体はさらにその前に出ていたことになる。


Aki Onda / South Of The Border

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 恩田晃(ここからは本題に入るので敬称を略します)の新作は『South Of The Border』と題し、副題に「Cassette Memories Vol.3」とある。これは恩田晃のライフワークともいえるポータブル・プレイヤーによるフィールド・レコーディング音源を元にした連作の3作目であり、最初のアルバムはDJオリーヴとカジワラ・トシオが2000年代なかばまで運営していた〈Phonomena Audio Arts & Multiples〉から、2003年に『Ancient & Modern』と題して、そして同年には、早くも、日本の即興音楽、それも既存の即興の流れにおさまりきらない即興音楽を数多く発表してきた〈Improvised Music From Japan〉から第2弾『Bon Voyage!』を出している。『Ancient & Modern』のジャケットに「(詳しくは憶えていないが)私はたぶん、5~6年前からポータブル・カセット・プレイヤーを音の日記のように、あるいはインスピレーションの源として使いはじめた」とあるから、はじめたのは90年代末ということになる。彼が使うのは基本的に民生品のカセット・プレイヤー、俗に「テレコ」と呼ばれるもので、ちょうど今年の1月をもって、ソニーもその生産から完全に撤退したというから、電器屋でもあまりみかけなくなったシロモノである。恩田晃はそれを携え、訪れたあらゆる場所の情景を音に切り取る。日記代わりだが、多くの場合、ふきこんだカセットに日時や場所の情報は記さない(と彼は以前私にそういった)。無造作に段ボールに投げ込んだカセットを、いざ何かする段になって、あたりをつけて取り出す。意図的に(?)場所と時間から切り離れた吹きこまれた音はそのとき、恩田晃の記憶の所有となることで記憶と素材の中間にとどまり、そこに何かしらの操作を加えることは具体と抽象との両方に接する領域をつくることになるが、これは誰もやっていないことではない。フィールド・レコーディングはもちろん、ミュージック・コンクレートといったクラシカル(赤字に傍点)な分野にいくつもの先例と名作がある。がしかし、既存の手法を援用していても、そことの関係にわずかに差異をつくれば方法論は確実に斬新になる。いや、方法論以前に位相が違うといってもいいのだ。フィールド・レコーディングは空間の、環境の記録である。ミュージック・コンクレートは具体音をもちいた音楽であり、個別の抽象としての音が問題になる。副題に掲げた通り、恩田晃はそこに「メモリー」を対置する。私はこのメモリーは多義的で、主体の記憶であるとともに、その反対概念として場所性としてのトポスであり、外部メモリーとしての、ほとんど擬人化されたモノとしてのテレコの記憶としての記録である、と思う。だから恩田の「Cassette Memories」はソロだけれども重奏的であり、かつ、複雑さはあえて目指していないかにみえるけれども、きわめて重層的である。というのは恣意的な解釈ではない。ロウファイであつかいづらいいくつかのカセット・レコーダーだけが頼りの手法上の制約。その逆説だけであれば2000年代の即興~実験音楽の問題の圏域であり、あえて(赤字に傍点)カセットを使うインディ・ミュージックのトレンドとも似ているが、恩田の音楽は多様な問題をはらむとしても、つねにある種の質感を忘れない。

 ここで急に余談になるが、さっき読んでいた都築響一の『ヒップホップの詩人たち ROADSIDE POETS』(新潮社)のTwiGyの章で、都築氏は1992年、日本のヒップホップ界隈のスチャダラパーやEAST END×YURIの「DA. YO. NE」の大ヒット前夜の話と前置きして以下のように書いていたので紹介したい。
「ここで個人的な体験を言わせてもらうと、その当時、雑誌の取材でアメリカに頻繁に通っていた僕(都築氏のこと/引用者注)は、一歩間違えば漫才に行きかねない、そんな風潮にどうしてもなじむことができず、日本語ラップを積極的に聴こうとはまったくしていない。そんななかでほとんど1枚だけ、聴いた瞬間にその音の重さとクールさにビクッとしたアルバムがあった。竹村延和(スクラッチ)、恩田晃(プログラミング)、そしてMCにボアダムスの山塚EYEを擁した京都のバンド「Audio Sports」である」
 都築氏が続けて書いている通り、オーディオ・スポーツの1992年のファースト『Era Of Glittering Gas』はいま聴くことのできるTwiGyの最初の音源である。恩田さん(ここではなぜか敬称付き)は苦笑するかもしれないが、メンバーの異様な豪華さ以前に、国内の流れと無縁に、音楽(トラック)の成熟度を深めつつあったヒップホップをこの時点で早くも相対化している。私もいまだに棚から引っ張り出して聴くこともあります(これこそほんとうの余談である)。それはともかく、同書にはTwiGyによる「これはバンドをやっていた恩田君から、ラッパーを入れたいって電話があって。それでEYEちゃんに『TwiGy君はリリックどうやって書くの?』って聞かれて、『いや、自分で考えて書きますけど』って言ったら、『僕はバロウズとかから引用すんねん』って言われて。えー、そういうことっていいの?と思ったのを覚えています(笑)」という興味深い発言もあるが、ここを深追いするとどんどん長くなりそうなので別項に譲って、私は何がいいたいのかというと、スタイルを確立する途上の「日本(語)のラップ/ヒップホップ」における「ハードコアかそうでないか」を、オーディオ・スポーツはもう一段階相対化する狙いをもっていた。担っていたのは恩田晃だった。彼らがおもしろかったのは、それなのに実験的になりすぎないことだった。TwiGyのいうEYEのやり方がそうであるように、あるいは、ボアダムスが代表する90年代の日本(と、あえていうが)がそうであったように、フォーマットをデフォルメする外部因子よりも、オーディオ・スポーツはあくまでジャジーでアブストラクトなヒップホップにこだわりつづけた。というより、恩田はそこから「重さとクールさ」ハウトゥや記譜法ではいかんともしがたい質感を導き出すことに力を傾けていた。いや、むしろ情感こそ形式に依存しているから恩田はそうしていたのだし、ジャジー・ヒップホップがやがてラヴァーズ・ロックと同じような雰囲気ものの音楽に先細っていった90年代後半を期に、バンドが解体したのはやむを得なかった。
 そのころにはオーディオ・スポーツは恩田晃だけになっていたからグループである必要もなかった。最初のソロ、98年の『Beautiful Contradiction』(All Access)では、たとえばブリクサ・バーゲルトとの共作“In Windungen”などにはヒップホップの影響ははっきり残っているが、即興を内在させ作曲を解体するベクトルのなかで、サンプリングの手法そのもののもヒップホップのそれというよりも記憶装置に、あまたある楽器のひとつに、最終的にはケージ的な意味でいう「サイレンス」を含むものに遡行していく。しかしこれは後退ではない。

 前述の通り、この時期から恩田はカセット・レコーダーを積極的に使いはじめた。『Beautiful Contradiction』での恩田の担当楽器は「サンプラー/プログラミング/カセット・レコーダー」とクレジットされている。それが2001年の『Precious Moments』(Softlmusic)では「テープ(カセット・レコーダー)」が先頭にきた。重箱の隅をつつくような話でもうしわけないが、私はこの間に恩田に確信がめばえたと思う(ちょうどこの時期にニューヨークに移住したのもそのことと無縁ではない)。2年後の『Don't Say Anything』(EWE)から間を置かず、翌年には『Ancient & Modern』、つまり私たちがいま語っている〈Cassette Memories〉の第1弾を発表している。この2作にはつながりがある。表題曲のほかは“Cosmos”“Mellow”“Dance”“Naked”“Ballad”といった曲名からして『Don't Say Anything』は言葉による意味づけを拒む抽象への意思をもっているが、それ以上に、聴き直してみると、恩田のソロ曲はすでにあきらかに〈Cassette Memories〉なのである。つまり恩田晃は本作で、スティーヴン・バーンスタインやデヴィッド・フュジンスキーなどの客演を迎え、ミュージシャンを組織するプロデューサーであるだけでなく、(音楽上の)コスモポリタンであるとともにテレコをもったノマドであることも選択肢に加えている。
 いや、この場合は、ノマドではなくベドウィンといったほうがしっくりくる。恩田晃は『South Of The Border』で砂漠に赴いているから。サボテンが点在するメキシコの砂だらけの大地に。死の世界としてのそこに。
「すべてのフィールド・レコーディングはメキシコで録音されています。わたしは幼少の頃から彼の国と何かしら縁がありました。物心ついてから始めて見た写真や8ミリの映像は父がメキシコ・オリンピックに運動選手として出場した際に撮られたものでした。おそらく4歳か5歳ぐらいでしたが、日本とはまったく違う別の世界がこの世には存在するのだと意識した記憶があります」
 恩田晃はそうメールに書き添えている。『South Of The Border』とはいうまでもなくアメリカの国境の南であるメキシコである。シナトラ、ジーン・オートリーなど、古くから無数に歌われてきた曲名でもあり、ここではない場所、異境の暗喩である「南」である。
 恩田晃が最初にメキシコを訪れたのは2005年だった。彼はそこで、昔観た『エル・トポ』、70年代を代表するカルト・ムーヴィの古典であり、アレハンドロ・ホドロフスキーのあの映画でメキシコに抱いたイメージを追認した。『エル・トポ』をご覧になっていない方は、DVDも出ているはずなので、お手にとっていただきたいが、この前の紙『ele-king』の年末座談会で、シャックルトンのアルバムを指して、野田努が「めちゃくちゃバッドだよ。『エル・トポ』だから」というような映画ではある。
 ちなみに、昨年末に出たホドロフスキーの『リアリティのダンス』(青木健史訳/文遊社)によれば、ロシア系ユダヤ人移民の三代目としてチリに生まれたホドロフスキーの幼年期は穏やかなものではなかった。挫折したマルクス主義者の父はことのほか息子に厳しく、母親にもらったゴム底の短靴をあげてやった靴磨きの少年が海辺の岩場から滑り落ちて死んだ。隣の家には象皮病の母の元で全身カサブタに覆われた息子が苦しんでいて、アルコールと熱湯で二ヶ月かけてカサブタをはがしてあげた等々、そこではマルケスなんかよりずっと人間臭いマジック・リアリズムがくりひろげられる。それらがホドロフスキーのシュールレアリスムの導線となり、南米のユダヤ人の原風景からめばえた詩は演劇へ、さらに行為芸術へ姿をかえ、ヨーロッパを経由しメキシコの砂漠で映像に実を結ぶことになる。そして恩田晃は現代と古代、生と死、聖と俗、富と貧しさ、知性と迷信が共存、というより、噴出する『エル・トポ』の乱調の美に「自由」を見いだしたという。
 私たちは『South Of The Border』への入り口となる“A Day Of Pilgrimage”で鳴り物を打ち鳴らす巡礼者たちの群に鉢合わせる。マーチングバンドみたいに陽気だが、酔っぱらっているかのようにリズムは粘っている。テレコの音質のせいか、雑音まじりの音は霞がかったように遠い。音質にこだわったハイスペックのフィールド・レコーディングのように恩田晃は音を再現していはいない。だから私たちはその場に居合わせたような気持ちにならないし彼の道ゆきを追体験できず、夢のなかのように、もうひとつの現実が抽象化された目と耳の前でくりひろげられるのにつきあわざるを得ない、と思う間もなく、群衆はちりぢりなり、曲が“Dust”になったころには、人気はまるでなく、砂嵐のような音が周期的に明滅するところに別の音源を音が重なってくる。“Dust”のテーマが音響なら、穀物を挽くような音の規則性が基調の“Bruise And Bite”の主題はリズムである。といえる側面はあるにはあるが、『South Of The Border』の曲はこのような言葉の貧しさにつきあうような主題をもっているわけではない。一曲のなかでも焦点はどんどんかわる。“A Day Of Pilgrimage” の巡礼者のスネア・ドラムの音が、“Bruise And Bite”の臼を挽く音が “The Sun Clings To The Earth And There Is No Darkness”に回帰し、“Bruise And Bite”にあらわれた『エル・トポ』で主人公のガンマンに扮したホドロフスキーが吹く笛の音を思わせる、単純な、しかし忘れがたい呪術的なメロディをアルバム最後の“I Tell A Story Of Bodies That Change”でもくりかえす。マテリアルはむしろ、ごく限られていて、恩田晃はそれを拡張し再編することで、いくつかの場面を描きながら、音にギリギリ意味を与え、生まれるそばからそれを脱臼させていく。その方法論はミュージック・コンクレートのそれであり、ダンスミュージックの系譜へ現代音楽の接続点でもある(『テクノ・ディフィニティヴ』前半をご参照ください)、というか、恩田晃はヒップホップへ外から接近し、その原理へ探る課程で、音素にまで細分化していったサンプリング・ミュージックの傾向に逆行しながら、コラージュないしはモンタージュの大らかさ、いいかえれば、大雑把さに可能性を見いだしたのではないか。もちろんそれは万能ではない。万能ではないが自由ではある。カセットに吹きこんだ音はたしかに自分が録ったものだが、あらためて聴き直してみたり、一部をとりだしてみたりすると印象がまるっきり違う。『South Of The Border』は、いや、〈Cassette Memories〉はそのときの発見を元になっている。読者諸兄よ、思いだしていただきたい。恩田晃は2005年にはじめてメキシコを訪れた。このアルバムの音源がすべてそのときのものかどうか私は知らないが、いつのものであっても、それが記憶の領域にあれば発見の対象となる。つまるところ、忘却がなければ発見はない。忘却とは記憶の深さであり、記憶の不在の発見であるから、日付や場所を特定してしまっては発見する自由をかえって殺ぐ。恩田晃はかつて「カセットは日記代わりだった」といったが日記そのものではない。ようはアリバイではない。それよりも、何気なくきった日付の打たれていない旅先のスナップに近くはないか(恩田晃はもともと写真家でもある)。たいしたものは写っていないが空気をとらえている。私は写真が好きだから、写真集なぞもよく目にするのですが、写真は撮影者の技量とか手法とかによらず、写す場所の空気がつねに写っている。海外の写真と国内の写真はまちがえようがない。これは海外に行ったとき、風景以前に空気がちがいに驚くのと同じだ。過去の写真が記憶をくすぐるのは写っている対象のせいばかりではない。重要なのは記録ではなく風化であり、欠落した部分を休符のようにあつかいながら、忘却と現在の耳とが語らい、音楽ができていく。にもかかわらず/だかこそ、それが官能的な質感をもつのが恩田晃の音楽家としての資質である。

 ここからは付記になります。ついでといってはなんだが、恩田晃の近況もお知らせしたい。彼は去年の9月、鈴木昭男、吉増剛造と大友良英のデュオを招聘し北米をツアーしてまわったという。そのときのルポが『現代詩手帖』の2013年1月号に載っているので興味のある方は手にとってみてください(ele-kingの読者にはシブすぎるかもしれぬが)。鈴木昭男は「アナラポス」というリヴァービー(というかリヴァーブそのもの)な創作楽器をはじめ、「日向ぼっこの空間」(1988年)などのサイトスペシフィックな作品でも知られる丹後の湖のほとりに住むサウンド・アーティスト。詩人・吉増剛増が詩と朗読とともに、それらと内奥で結びついた多重露光写真や映像をもちいたパフォーマンスを行うのはよく知られている、かもしれないし、大友良英については多言を要しまい。この三者を結びつけることで、恩田晃が何を見せ聴かせ感じさせたかったのか、ここまでおつきあいいただいた読者にはおわかりのことと思う。

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つまり識は「テクノ」にへと 文:三田 格

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 「踊れるサムラ・ママス・マンナ」。それがバトルズの正体だろう。SMMは70年代にスウェーデンで結成されたプログレッシヴ・ロックの4人組で、例によって解散→再結成を経てゼロ年代からはドラムスにルインズの吉田達也が参加している。悲しいかなバトルズは超絶技巧だけでなく、ユーモアのセンスまでSMMを模倣していて、オリジナルといえる部分はレイヴ・カルチャーからのフィードバックと音質ぐらいしか見当たらない。疑う方はとりあえずユーチューブをどうぞ→
https://www.youtube.com/watch?v=yqSmqh-LdIkhttps://www.youtube.com/watch?v=ZYf7qO9_MV8https://www.youtube.com/watch?v=jkWL1lOi1Hg、etc...

 ......といったことを割り引いても、昨年の『グロス・ドロップ』はとても楽しいアルバムだった。バーズやP-ファンクにレイヴ・カルチャーを掛け合わせたらプライマル・スクリームで弾けまくったように、SMMにレイヴ・カルチャーを掛け合わせてみたら、思ったよりも高いポテンシャルが引き出された。そういうことではないだろうか。おそらくはまだロックにもそうした金鉱は眠っているはずである。テクノやハウスだって、どう考えてもそれ自体では頭打ちである。何かを吸収する必要には迫られている。アシッド・ハウス前夜にもどれだけのレア・グルーヴが掘り返されたことか。そう、アレッサンドロ・アレッサンドローニやブルーノ・メンニーなんて、もはや誰も覚えちゃいねえ(つーか、チン↑ポムなんてザ・KLFのことも知らなかったし......)。ためしに誰かブルース・スプリングスティーンにレイヴ・カルチャーを掛け合わせてみたらどうだろう......なんて。

 本題はそのリミックス・アルバム。人選がまずはあまりにも渋い。しかも、様々なジャンルから12人が寄ってたかってリミックスしまくっているにもかかわらず、おそろしいほど全体に統一感がある。シャバズ・パレス(元ディゲブル・プラネッツ)の次にコード9だし、Qのクラスターからギャング・ギャング・ダンスなどという展開もある。しかも、そこから続くのがハドスン・モーホークとは。全員がバトルズに屈したのでなければ、セルフ・プロデュースの能力が異常に高いとしか思えない。

 オープニングからいきなりブラジルのガイ・ボラットーが情緒過多のミニマル・テクノ。マカロニ・ウエスターンに聴こえてしまうギターがその原因だろう。ミニマルの文脈を引き継いだシューゲイザー・テクノのザ・フィールドは、一転してヒプノティックなテック-ハウス仕上げ。続いてドラマ性に揺り戻すようにしてヒップホップを2連発。このところ壊疽=ギャングルネとしての活動が目立っていたアルケミスツはソロで90年代末に流行ったダンス・ノイズ・テラー風かと思えば、昨年、一気にダブ・ホップのホープに躍り出たシャバズ・パラスは彼の作風に染め上げただけで最もいい仕事をしたといえる。ダブステップからUKガラージに乗り換えつつあるコード9はそれをまたコミカルに軌道修正し、2年前に"エル・マー"のヒットを飛ばしたサイレント・サーヴァントやラスター・ノートンからカンディング・レイはそれぞれのスタイルでダブ・テクノに変換と、いささかテクノの比重が高すぎる気も。これは自分たちにできないことをオファーしているのか、それとも自分たちが次にやりたいことを先行させているのか。いずれにしろ、その結果はユーモアの低下とリズムの単調さを招き、チルアウト傾向ないしはリスニング志向を強めることになった(クラスターの起用はまさにその象徴?)。

 後半で最大の聴きどころは、珍しく同業のパット・マホーニーを起用した"マイ・マシーン"で、シンプルなリズム・ボックスに絡むゲイリー・ニューマンのヴォーカルは最盛期の気持ち悪さを思わさせるインパクト。ジャーマン・トランスにありがちなリズム・パターンなのに、ロック・ミュージックとして聴かせてしまう手腕はかなりのもので、思わず、ほかにはどんなリミックスを手掛けているのだろうと調べてみたら、まったくデータが見つからなかった(これが初仕事?)。エンディングはヤマタカ・アイで、トライバルとモンドの乱れ打ちはこの人ならでは。ダイナミズムよりもリスニング性を優先したことで最後に置くしかなかったのかもしれないけれど、それはちょっと消極的な判断で、僕ならギャング・ギャング・ダンスとハドスン・モーホークのあいだに置いただろう(バトルズの意識が「テクノ」に向かっている証拠ではないか)。

文:三田 格

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そして『グロス・ドロップ』の完全なる分解 文:松村正人

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 アンダーグラウンドのスーパーバンドから『ミラード』で転身したバトルズはタイヨンダイ・ブラクストンは抜けたが、『グロス・ドロップ』で前作をさらに発展させ、そこでは初期のハードコアを構築し直した鋭利な、しかし同時に鈍器のようだったマス・ロックの風情は退き、かわりにポップな人なつこい音が顔を出した。強面だった数年間からは考えられない柔和な表情をしていたが、いまのパブリック・イメージはむしろこっちである。それまでのいくらかすすけたモノトーンはツヤめいた内蔵の色に塗りこめられた。ジャケットがそれを暗示する。有機的であり抽象的であり生理的でもある。私は以前にレヴューを書いてから聴いていなかった『グロス・ドロップ』を、『ドロス・グロップ』を書くために、しばらくぶりに苦労してひっぱりだして聴いたが、おもしろかった。たしかここに書いたレヴューは最初おもしろくないと思ったと書いたと思ったが、聴き直したらやはりおもしろくないことはなかった。私は『ドロス・グロップ』を先に聴いて、原曲をたしかめるために聴いたからかちがいがおもしろさを後押ししたが、オリジナルとリミックスの幸福な相乗効果がうまれたのは、前者が音で語ることに腐心したアルバムであったことに多くを負っている。そこには内面は投影されていない。語るのはあくまで音楽であり、バトルズの連中ではない。それに任せる。タイヨンダイというアイコニックな人材を欠いた逆境がある種のスプリングボードとなり、バンドを、音楽の生成を何よりも彼ら自身がたのしんでいる(たのしまざるを得ない)、陽性の作品性へ追いこんだのだと穿つこともできなくはないが、この結果はいってみれば、往時のダンスカルチャーの匿名性を思わせるものであり、その意味で、リミックスという行為との親和性はいうまでもなかった。
 
 アルバムは先行した4枚の12インチを若い順に並べた。テクノ~ヒップホップ~(ポスト)ダブステップ~ミニマル~ワールド~ディスコパンクなど、ゼロ年代以降のダンスミュージックを巡礼する構成で、総花的なつくりでもあるが、散漫な印象を与えないのは、カテゴリーの遍歴そのものが音楽を前のめりにさせるからだろう。サンパウロのギ・ボラットとストックホルムのザ・フィールド、〈コンパクト〉勢のループは『ミラード』までのバトルズの交響的な――つまり縦軸の――ループを横倒しにしたように、渦を巻き滞留するようでありながら、前方へジワジワと音楽を煽り、ヒップホップ/ブレイクビーツ~2ステップ/UKファンキーのブロックへバトンタッチすることでアルバムのタイムラインは最初の山と谷(もちろん逆でもいい)を経過する。山はすくなくともあとふたつはあるようである。3つかな?と思うひともいるであろう。それはどっちでもいいが、この高低差は現行のダンスカルチャーの地形図であり、すくなくともリミキサーたちは所属するジャンルに奉仕する職人的な仕事に徹することで、楽曲を解体するだけでなく、原曲とリミックスとの間の、あるいはトラックごとの偏差が彼らの特質をあぶりだしもする。なんであれ解釈が生じる場合、ズレがうまれる。その隙間を広げるか埋めるかが、音を仲立ちにした対話では焦眉の問題になるが、原曲はどうあがいても完全な姿で回帰しない。このあたりまえのところにうまみがある。
 私は先に職人的な仕事と書いたが、解釈はいずれも大胆である。とくにクラスター、ブライアン・デグロウ(ギャング・ギャング・ダンス)、ハドソン・モホークのブロックは原作を再定義したというか、たとえばデグロウのリミックスは原曲のリフの音色が喚起するリズムのつっかかりをビートに置き直し『グロス・ドロップ』でいちばんポップでカラフルだった"Ice Cream"をデジタル・クンビア的な疑似アーシーな場所にひきつけることで、スラップスティックかつフェイク・トロピカリアとでも呼ぶべき原作のムードを二重に畳みこんでいく。ハドソン・モホークの着眼点もたぶん同じで、クラスターの作家性とはちがう――しかしそれはこのアルバムのアクセントでもある――が、デグロウ=モホークの視点はバトルズのそれとも同期し、元ネタの笑いをトレースし、さらに展開する、難儀な作業を的確にやっている。もっともそのユーモアはモテンィ・パイソンがミンストレル・ショーを実演するような、ねじれた、くすぶった笑いではなく、現代的な抑制が利いたものなのだが、であるからこそ、LCDサウンドシステムのドラマー、パット・マホーニーのディスコ・パンク調の"My Machine"という最後の山だか谷だかのあとのヤマンタカ・アイの、原作にひきつづきシンガリをつとめた"Sundome"で『グロス・ドロップ』は完全に分解したように思える。そして私は聴き終えたあと、ヘア・スタイリスティックスが聴きたくなった。

文:松村正人

 これはマジ、すごい!!!
 かつてその音楽は怨歌と形容され、70年代の日本のアンダーグラウンドの脅威のひとつだった歌手、いまや欧州では裸のラリーズなみに評価の高い、JAP ROCKの巨匠、三上博と土生剛と二羽高次とのコラボレーションである!!

 『新世界』1周年記念スペシャルLIVEにて、弾き語りの巨人(ジャイアント)と呼ぶに相応しいリビングレジェンドが、西麻布「新世界」に遂に初登場!
現代詩が持つ調和無きジオメタリックを、シュールリアリズムとも称される東北の土着性で溶解し三上流の演歌=怨歌にまで昇華した巨人、三上寛。90年代を境に、演奏はエレキ・ギターとなり、歌はエモーション溢れる寛流のブルーズ/浄瑠璃に。詩はモノリスのような言葉へと変換。世紀をまたぎ、現在、その評価は国内に止まらず、欧州、中米、アジアにまで拡大飛び火中である。

 巨人に挑むは、リトル・テンポのバンマス、土生"TICO"剛(ときたけし)とブレスマーク=二羽高次(ふたばこうじ)から成る異色デュオ「たけしこうじ」。各々のルーティーンバンドの音楽性とは一線を画す、ディープな歌世界を探求。"巡礼"と称す神出鬼没な辺境ライブ活動で、波止場、田んぼ、盛り場、はたまた鎮守の森にまで!

三上 寛 (みかみ かん) プロフィール

 1950(昭和25)年青森県小泊村(現中泊町)出身。警察学校中退後、上京し、音楽活動を始める。71年、(21歳の時) レコードデビュー、アルバム『三上寛の世界』をリリース。同年の中津川フォーク・ジャンボリーで伝説的なライヴ・パフォーマンスを行い一躍脚光を浴びる。翌年、藤圭子のヒット曲『夢は夜ひらく』を三上寛流の演歌=怨歌に昇華。74年、山下洋輔トリオのメンバーやカットアップの手法なども取り入れた『BANG!』をリリース、78年には、"70'S三上寛スタイル"の完成をみた『負ける時もあるだろう』をリリース。それまでの活動に対して、本人は「これまでにオレの作詞方法は、現代詩から学んだ技術の延長上にあった。そこで言葉はデザイン化され、オレの『声質』がそれを細かく選択していく、とういう風に作られていったように思う。」と著書で語っている。

 79年には、処女詩集『お父さんが見た海』を発表。又、俳優としても活躍。寺山修司監督の『田園に死す』(1974年)を皮切りに、『新仁義なき戦い組長の首』(1975年/監督:深作欣二)、『戦場のメリークリスマス』(1983年/監督:大島渚)、『トパーズ』(1992年/監督:村上龍)、日活ロマンポルノ作品など20本近い映画やTVドラマに出演、映画音楽も手懸ける。ちなみに映画出演で親交を深めたピラニア軍団のアルバムもプロデュースしている。80年代は、2枚のアルバムをリリースするが、新曲のリリースは無く、82年を最後に8年もの間、レコーディング活動から遠ざかる事になる。この時期は、TVのレポーター、司会、コメンティーターとして繁栄に出演、役者として活動、エッセイの連載などで、新たなる才能が知れ渡るようになる。

 90年代に入り<PSF Records>から怒濤のリリース・ラッシュが開始される。自己のアルバムを毎年1枚ずつのペースでリリース。吉沢元治/灰野敬とのコラボレーション、石塚俊明/灰野敬二とのバンド「バサラ」でのリリースなど、80年代から一転して90年代は歌手・三上寛の改たな幕開けとなった。これまでの演奏、曲作り、歌い方とは違うスタイル~演奏はエレキ・ギターとなり、歌はエモーション溢れる寛流ブルーズに。詩はモノリスのような言葉が立ちはだかった。2000年には、音楽活動30周年記念の13枚組『三上寛ボックス』を発表、自伝の書籍『三上寛怨歌に生きる』も刊行する。

 2000年代も、その活動ペースは更なる加速が加わる。自己のアルバムの定期的なリリース。古沢良治郎/明田川之/林栄一/國中勝男/小山彰太/ JOJO広重/山本精一/辛恵英/佐藤通弘/沢田としき、とのコラボレーション。浦邊雅祥/石塚俊明とのバンド「三社」、そして「バサラ」のリリース。又2004年にはフランスのレーベルからもアルバムがリリースされ、海外でのライブ活動も繁栄化して行く~ 〇2004年/フランスツアー【パリ、ブレスト、ナント、リヨン、ジュネーブ、マルセイユ、メッツ】、〇2005年/イギリス【グラスゴー】、〇2006年/イギリス【ニューキャッスル】、〇2007年/ヨーロッパツアー【ブルックセル、リヨン、ジュネーブ、メッツ、ブレスト、パリ、マルセイユ】、〇2008年/ベルリン/ポーランド、/ イギリス【ロンドン】、/ヨーロッパツアー【パリ、リール、ナント、リヨン、ジュネーブ、オランダ、ベルギー、イギリス】、〇2009年/フランス【ニーム】、/イギリス【ロンドン】、〇2010年/キム・ドウス招聘~韓国【ソウル、テグ】、〇2011年/メキシコ、等。昨年、還暦を迎えるも、その音楽は止まる事を知らず、近年は寛流の浄瑠璃<語りもの音楽>といった方が判りやすい唯一無比なスタイルへと辿り着ている。別格な、声、言葉、ギターを三位一体に、前人未踏の荒野に足を踏み込んでいる、今の三上寛のブッ飛び方、半端ないっス!!

☆「新世界」HPにて、三上寛の最新インタヴューがUPされています、
滅茶苦茶面白いので、是非御覧下さい!
https://shinsekai9.jp/yorimichi/2011/10/03/mikami-interview/

たけしこうじ プロフィール

 波止場、田んぼ、盛り場、はたまた鎮守の森にまで!?
現在地、推定不能の巡礼活動。究極の唄ものを探求する、Little Tempoのバンマス土生"TICO"剛(ときたけし)とBREATH MARK=二羽高次(ふたばこうじ)の異色デュオ「たけしこうじ」。日本発、最高峰のレゲエ・インスト・バンド"LITTLE TEMPO"のバンマス、土生"TICO"剛と、ワン&オンリーな声と歌唱を持つシンガーソングライター"BREATH MARK"=二羽高次の夢のコラボレーション!
ルーティーンバンドのコンテンポラリー性とは一線を画す、そのディープな歌世界を引っさげ全国絶賛ドサまわり巡礼中!
愛に溢れる繊細な音色のスティール・パン!魂を鷲掴みにされる、圧倒的な唄声!フォークより無骨で、島唄のような懐かしさがタイムレスな感覚を誘う。日本人の心(ゲノム)を思い出させる、魂の唄の数々 (感動、泣けマス)
https://www.littletempo.com/
https://myspace.com/breathmarkofficial

●イベントタイトル:
『新世界』1周年記念スペシャルLIVE!
最高峰の"弾き語り・歌もの"クラッシュ!!

●出演
三上寛:Vocal & Guitar
VS
たけしこうじ
 土生"TICO"剛(リトルテンポ):Steel pan
 二羽高次(BREATH MARK):Vocal & Guitar

●公演日:
11月2日(水・祝日前)
開場:19:00 / 開演:20:00 / ☆限定100人

●会場:
西麻布「新世界」

●料金:
前売予約:¥2,800 (ドリンク別)
当日券: ¥3,300 (ドリンク別)

●インフォ・チケット予約・お問い合わせ先
西麻布「新世界 」 
https://shinsekai9.jp/
https://shinsekai9.jp/2011/11/02/mikami1/
TEL: 03-5772-6767 (15:00~19:00)
東京都港区西麻布1-8-4 三保谷硝子 B1F

interview with The Raincoats - ele-king

 緊張していた。アリ・アップやマーク・スチュワートのときはビールがあったから良かったのだ。取材時間も1時間以上押していた。待つことは苦ではないが、こういう場合は時間の使い方に困惑する。カメラマンの小原泰広くんがサッカー好きで助かった。われわれは六本木のスターバックスでおよそ1時間に渡って今回のワールドカップについて論評し合った。

 「僕はいま46歳ですけど......」、正直に打ち明けることにした。「1979年、15歳のときに地元の輸入盤店でザ・レインコーツのデビュー・アルバムを知って、そして買いました。それは僕にとってもっとも重要な1枚となりました」

 音楽ごときに人生を変えられるなんて......と昔誰かがあざけりのなかで書いていた。ところが僕の場合は、音楽ごときに人生を変えられたと認めざる得ない。もし自分が中学生のときパンクを知らずに、そして高校生になってザ・スリッツやザ・ポップ・グループやPiLや......エトセトラエトセトラ......あの時代のポスト・パンクを知らずに過ごしていたら、まったく違った人生を送っていただろう。
 そしてあの時代のすべての音楽が説いてくれた"現在"に夢中になることの大切さと"未来"に向かうことの重要性をいまでも忘れないように心がけている。よって......ザ・レインコーツのライヴの2日前のS.L.A.C.K.、Rockasen、C.I.A.ZOO、その前日の七尾旅人、iLL、トーク・ノーマルといった"現在性"の並びで30年前に死ぬほど好きだったバンドのライヴを観るというは、残酷な郷愁と純真な愛情が入り混じった、なんとも複雑な思いに支配されることでもあった。僕は......聖地を目指す巡礼者のように、余計なものを入れずにその日を迎えるべきだったのだ。そうすればもっとたくさんの違った言葉が溢れ出たかもしれない。

 が......、そんな不埒な思いを巡らせながらも、なんだかんだとこうしてぬけぬけと彼女たちに会いに来てしまった。煮え切らない46歳のオヤジとして。
 アナ・ダ・シルヴァとジーナ・バーチのふたりは、その日8時間も取材をこなしているというのに、ステージと同じように、おそろしく元気だった。


向かって右にジーナ・バーチ、左にアナ・ダ・シルヴァ。ソロ・アルバム、楽しみっす。
(photo by Yasuhiro Ohara)

奇妙な発音の外国人やアウトサイダーが多かったのよ。なぜなら私は当時スクウォッターだったから。パンクのコミュニティのなかで暮らしていたの。空き家に住んでいた。都市のアウトサイダーたちの溜まり場よね。

ライヴで"歌っていて楽しい曲"と"演奏していて楽しい曲"をそれぞれ教えてください。

アナ:歌っていて楽しいのは"シャウティング・アウト・ラウド"ね。演奏して楽しいのは......ないかも、失敗ばかりするから(笑)。

ジーナ:私は"シャウティング・アウト・ラウド"が演奏するのが楽しいわよ。まるで空中を滑るようなベースラインが好きだし、演奏しているあいだに異なった雰囲気が出てくるんだけど、それをフォローしていくのが楽しい。

アナ:私は演奏して楽しかったのは"ノー・ワンズ・リトル・ガール"かな。私はギターを引っ掻いたりしてノイズを出すのが好きだから。

ジーナ:歌うのが楽しいのは"ノー・サイド・トゥ・フォール・イン"よね。コーラス・パートがあるでしょ、あのみんなで「わー!」って声を出すのがいいのよ。ひとりで歌うなら"ノー・ルッキング"。ファースト・アルバムの最後に入っている曲よ。

今日はたくさんの取材を受けて、さんざん昔の話をしたと思うのですが。

アナ&ジーナ:ハハハハ。

1979年。ザ・レインコーツのデビュー・アルバムがリリースされた年、あなたがたはまず何を思い出しますか? 

アナ:1979年の4月にシングルが出て、で、たしか11月よね、アルバムが出たのは。「わお!」って感じだった。あるとき〈ラフ・トレード〉に務めていたシャーリー(後のマネージャー)が言ってきたの。「あなたたちのシングルを出すわよ」って。そのとき「あー、私たちはバンドで、シングルを出すんだ」と実感した。そしてツアーに出て、〈ラフ・トレード〉からアルバムを出した。それは素晴らしい感動だったわ。

ジーナ:私はノッティンガムからロンドンにやって来たばかりだった。で、パルモリヴがスペインから来た子だったでしょ。彼女の英語の発音がおかしくてね、たとえばフライングVの「V」を発音できずに、「B」と発音するのよ。当時私は音楽のこと何も知らなかったから、その楽器の名前をフライングBだと思っていたのよ。シングルが出たとき、初回プレスがクリア・ヴァイナルだったから、私たちが「ヴァイナルが出たわね」とか言ってると、パルモリヴがそれを「ヴァニール」って発音するのよ(笑)。「ヴァニラじゃないのよ」って(笑)。

アナ:ハハハハ。

ジーナ:そう(笑)。私はイングランドに住んでいるはずなのに、私のまわりにはそんな人ばっかだったの。奇妙な発音の外国人やアウトサイダーが多かったのよ。なぜなら私は当時スクウォッターだったから。パンクのコミュニティのなかで暮らしていたの。空き家に住んでいた。都市のアウトサイダーたちの溜まり場よね。

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決してエリート主義にはならなかったわ。でも、とてもインテリジェンスがあったし、そうね、ジョン・ライドンには会ったことがあるんだけど、他人に気配りができて、率直にモノが言えて、すごく誠実な人だと思ったわ。

ザ・レインコーツのまわりにはディス・ヒートやレッド・クレイヨラのようなバンドがいましたが、あなたがたからみて当時のバンドやアーティストで他に重要だと思えるのは誰でしょうか?

アナ:まず思い出すのは、ペル・ウブよね。それからディス・ヒートもすごかった。ライヴが素晴らしかったのよ。普通のバンドはドラムのカウントからはじまるでしょ。ディス・ヒートはそんなことなしに、いきなり「ガーン」とはじまるのよね。

ジーナ:ヤング・マーブル・ジャイアンツは偉大だったし......。

あの当時はPiLの『メタル・ボックス』やザ・スリッツの『カット』やザ・ポップ・グループの『Y』や......。

ジーナ:ザ・ポップ・グループ! そう、それものすごく重要! 私がいま言おうとしたのよ。私はザ・ポップ・グループの最後のライヴを観ているのよ。もうそのライヴでバンドからマーク・スチュワートが抜けるっていうことがわかっていて、私はマーク・スチュワートのところまで駆けていったわ。「どうかお願い、ポップ・グループを辞めないで。ポップ・グループはやめてはいけないバンドなのよ!」って叫んだわ(笑)。

ハハハハ。ちょうど1979年、最初に話したように、僕は地方都市に住んでいる15歳でした。近所の輸入盤店に、ザ・スリッツ、ザ・ポップ・グループらとともにザ・レインコーツのファーストのジャケットが壁に並びました。当時は、円がまだ安かったのでイギリス盤はとても高くて、2800円しました。それでも1年かけて、僕はその3枚を揃えました。1979年には他にも素晴らしい音楽がたくさん発表されました。他によく覚えているのはPiLの『メタル・ボックス』でした。イギリスだけではなく、日本からもいくつもの興味深いバンドが登場しました。で......。

アナ:あなたのその話、私知ってるわよ。あなた私のMy spaceにメール送ったでしょ?

僕じゃないです(笑)。

アナ:いまのあなたの話と同じ話だったのよね。

なんか......パンクという火山があって、その火山が爆発したら、いっきに空からたくさんの素晴らしい音楽が落ちてきた、そんな感じでした。

アナ:私もまったくそう感じたわ。セックス・ピストルズやザ・クラッシュの最大の功績はそこよね。「自分たちでやれ」と言ったことよ。バズコックスのようなバンドだってセックス・ピストルズを観てはじまった。あらゆるバンドがそうだった。私はアメリカのバンドも好きだったわ。パティ・スミス、テレヴィジョン、リチャード・ヘル&ザ・ヴォイドイズ、トーキング・ヘッズ......彼らは音楽的に興味深かった。彼らはイギリスのバンドに影響を与えた。当時のポスト・パンクが素晴らしかったのは、それぞれが違うことをやっていたことよね。セックス・ピストルズやザ・クラッシュの物真似みたいなバンドもいっぱいいたけど、私たちのまわりにいたバンドはそれぞれ違うことをやっていたわ。

ジーナ:私はアナよりも年下だったから、私はイギリスのパンクの第一波に影響を受けたわ。アメリカのバンドを知ったのはもっと後になってから。

アナ:そうね。私があるパーティに行ったとき、ものすごい特徴のある声が聞こえてきたの。それがパティ・スミスの『ホーシズ』だった。しばらくして彼女がロンドンの〈ラウンドハウス〉というライヴハウスに来ることを知った。そこに私は行ったのよ。まだセックス・ピストルズが出てくる前の話よ。

パティ・スミスは、やはりその後の女性バンドのはじまりだったんですね。

アナ:彼女が「自分たちで何かやりなさい」という勇気づけ方をしたわけじゃないけどね。ただ、その音楽がすごく良かったのよ。

ジーナ:パティ・スミスがロンドンに来たとき会場でアリ・アップとパルモリヴが出会って、で、ある意味でそれでザ・スリッツが生まれたとも言える。で、ザ・スリッツからザ・レインコーツが生まれたとも言えるわけだし、繋がっているのよ。

アナ:そういえば、パティ・スミスとロバート・メイプルソープとの関係を中心に書かれた彼女の本が出版されて読んだんだけど。

ジーナ:ああ、あれね!

アナ:そうそう、あれはとても美しい話だったわよ。

パティ・スミスのレコード・スリーヴは、まあ、いわゆる"ロックのレコード"じゃないですか。でも、ザ・レインコーツや『カット』や『Y』のジャケットがレコード店に並んでいるのを見たとき、すごい違和感があったんですね。ロックのレコードとは思えない、いままで感じたことのないものすごいインパクトを感じたんですね。初めて見たザ・レインコーツのプレス用の写真もよく憶えていて、みんなで普段着のままモップを持っている写真がありましたよね。あれもまったくロックのクリシェを裏切るような写真だったと思いました。アンチ・ロック的なものを感じたんです。

アナ:そこまで深い理由はないんだけど、自然にそう考えたのよ。たしかに普通はジャケットにバンドの写真を載せるものだったんでしょうけど、そのアイデアは最初からなかったわね。しかし、あなたも若いのによくそこまで気がついたわね。

ジーナ:まるで私のママみたいだわ(笑)!

はははは。

アナ:セックス・ピストルズやジョイ・ディヴィジョンにはそれぞれデザイナー(ジェイミー・リードとピーター・サヴィル)がいたけど、私たちにはいなかったわ。デザインのアイデアもすべて自分たちで考えたのよ

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インディペンデント・レーベルにもネガティヴな面があるからね。〈ラフ・トレード〉や〈ファクトリー〉は考えもお金もすごくしっかりしていたけど、いい加減なレーベルも多かったのよ。

パンクというのはすごく極端なエネルギーだったじゃないですか。だからパンクに関する議論のようなものもあったと思うんですよ。パンクに対する"議論"みたいなものと、音楽はまだ前進することができるという野心があれだけの多様性を生んだのかなと考えたのですが、どうでしょうか?

アナ:議論?

たとえば......僕はザ・クラッシュが大好きですけど、やっぱマッチョなところがあったと思うし、あるいはマガジンの有名な曲で、えー、なんでしたっけ? "ショット・バイ・ボス・サイド"?

ジーナ:そう、ショット・バイ・ボス・サイド"ね。

「両側から撃たれる」っていうあれは、「右翼」にもつかないし、「左翼」にもつかない、どちらにもつかないんだという、政治的だったパンクへの批評精神の表れじゃないですか。あるいはセックス・ピストルズやザ・クラッシュはメジャーでやったけど、ポスト・パンクはインディペンデント・レーベルだったじゃないですか。そこにも批評性があったと思うし......。

アナ:そうね。リスクを背負ってもやりたいことがやれる、クリエイティヴなインディペンデント・レーベルを選んだわ。メジャーはわかりやすいものを好むのよ。だから、自然と多様性はインディペンデント・レーベルのほうにあったわね。

ジーナ:でもね......ヒューマン・リーグみたいにメジャーで成功したバンドもいたし、ギャング・オブ・フォーはものすごく左翼的なバンドだったけど、メジャーと契約したわよ(笑)。いいのよ、それは彼らの論理で、ケダモノたちのなかから変えてやれってことだから。でも、私たちはインディペンデント・レーベルが性にあったのよね。

アナ:それにインディペンデント・レーベルにもネガティヴな面があるからね。〈ラフ・トレード〉や〈ファクトリー〉は考えもお金もすごくしっかりしていたけど、いい加減なレーベルも多かったのよ。

ちょっと僕の質問の仕方が悪かったんで、話がずれてしまったんですが、言い方を変えると、何故この時代のバンドは情熱と勇気がありながら同時に頭も良かったんでしょうか? ということなんです。ジョン・ライドンやマーク・E・スミスのような人たちは独学で、大量の読書を通じてメディアやアカデミシャンを小馬鹿にするほどの知識を得ていたし。

アナ:ええ、ジョン・ライドンは本当に偉大な人だと思う。

ええ、とにかくあれだけ情熱的で、頭も良くて、で、しかもわかる人だけにわかればいいというエリート主義にならなかったじゃないですか。

アナ:そうね、決してエリート主義にはならなかったわ。でも、とてもインテリジェンスがあったし、そうね、ジョン・ラインドンには会ったことがあるんだけど、他人に気配りができて、率直にモノが言えて、すごく誠実な人だと思ったわ。

ジーナ:そうね、マーク・E・スミスでよく憶えているのは、彼はちゃんとした学校教育を受けていないのよ。でね、ザ・フォールをはじめたときに、普通だったら16歳から19歳のあいだに修了しなければならないAレヴェルの英語を、マーク・E・スミスは成人してから独学で修得したの。ザ・フォールであのアナーキーなキャラクターをやりながらよ! 私はそれがすごくファンタスティックだと思ったのよね。独学というのは素晴らしいことよ。

アナ:そこへいくと〈ラフ・トレード〉のジェフ・トラヴィスはケンブリッジ大学出ているからね。

スクリッティ・ポリッティの歌詞なんか何を言ってるのかさっぱりわからかったですからね。グリーンが現代思想を読み耽って書いていたっていう。

アナ:あー、あれはわかるわけないわ(笑)。

ジーナ:安心して、私たちもわからないから(笑)。

アナ:てか、読んでないから(笑)。

ハハハハ。

アナ:(グリーンのナルシスティックなゼスチャーを真似しながら)おぇー。

ジーナ:いわば大学院の博士課程路線よね。それをポップ・カルチャーにミックスしようとしたのよ。

まあ、スクリッティ・ポリッティの話はともかく、ポスト・パンクにはどうして情熱と頭の良さの両方があったんでしょうね?

アナ:私たちは情熱だけよねー。まあ、知性はぜんたいの30%ぐらいかな(笑)。

ジーナ:アナはインテリよ(笑)。サイモン・レイノルズの『ポストパンク・ジェネレーション』を読んだけど、いろんなアーティストを過去の偉大な作家たちと比較したりしていて、そこはまあいいんだけど、何故か女性バンドの話になると「彼女たちもそうだった」ぐらいの扱いになっているのよね(笑)。ちょっと注意が足りないんじゃないかな。

ハハハハ。質問を変えましょう。僕はいまだにザ・レインコーツみたいなバンドを見たことがありません。それってザ・レインコーツがこの30年消費されずにいたことだと思うんですよね。

アナ:ありがとう。そう言ってもらえるのは嬉しいわ。「ザ・レインコーツに影響されました」というバンドがたまにいて、音を聴かされるとただケオティックなだけだったりするの。カオスはザ・レインコーツのいち部でしかないのよ。まあ、ザ・レインコーツの真似されても嬉しくないしね。

ジーナ:だけど私は、MAGOは私は気に入ったわ。繊細さと大胆さがあって、オリジナルだと思った。彼女たちから「影響受けた」って言われるのはわかるような気がする。

アナ:そうね。重要なのは「自分たち独自のもの」を探すことよ。それがザ・レインコーツってことでもあるから。

ただ、いまの時代、1979年のように音楽を新しく更新させることはより困難になっていると思いませんか? 音楽のパワーが落ちていると感じたことはありますか?

アナ:昔と比べるのはあんま好きじゃないけど......いまでも新しいものは出てきていると思うわ。ただし、インターネットの影響は大きいわよね。選択肢があまりにも多すぎて、選ぶ気がおきない。それでパワーが落ちたというのはあると思うけどね。

僕個人はむしろ"現在"のほうに興味があるのですが、なんだか多くの人は"過去"を向いているように思えるフシが多々あるのです。

アナ:そうねー。

ジーナ:わかるわかる。友だちの娘に「あなた何が好き?」って訊いて「レッド・ツェペリン」だもんね(笑)。

ビートルズとかね?

アナ:ビートルズは偉大よ(笑)!

ジーナ:でも、あなたのように"現在"に夢中な人だっているわよ。

アナ:そうね、あなたが会ってないだけよ!

ハハハハ。いないこともないんですけどね......。ちなみに新しい世代の音楽では何が好きですか?

アナ:やはりどうしても、15歳の音楽体験は特別なものなのよ。ボブ・ディランやヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ローリング・ストーンズを初めて聴いたときの衝撃というのは消えないもので、年齢を重ねていってもそれと同じような衝撃を受けることはないと思うの。

アナはでも、チックス・オン・スピードのレーベルからソロ・アルバムを作っているじゃないですか? テクノは聴かない?

アナ:ひとつのアーティスト、ひとつのスタイルばかりを強烈に聴くことはもうないのよ。

そうですか。わかりました。ありがとうございました。近い将来にリリースされるというおふたりのソロ作品を楽しみに待っています。

アナ:それでは15歳の少年にサインしよう(笑)。

ぜひ!

 ......それから記念撮影までしてしまった......。
 
 これは『EYESCREAM』の連載でも書いたことだが、ザ・レインコーツのデビュー・アルバムのアートワークは、いま思えば可愛らしいとも思えるかもしれないけれど、当時あれは『カット』や『Y』と並んで、レコード店のなかで強烈な異臭をはなっていたのである。パティ・スミスの『イースター』が古くさく感じてしまったし、手短に言えば彼女たちのアンチ・ロックのセンスは音楽の世界に明白な亀裂を与えた。音のほうも......とてもじゃないが、キュートだなんて思えなかった。破壊的で、混沌と調和が入り交じって、それでいて素晴らしい生命力を感じたものだった。

 と同時に、写真で見る、いたって普段着の彼女たちは、ショービジネスの世界で女性がありのままの普通でいることが、どれだけ異様に見えるかを証明し、逆にショービジネスの世界の倒錯性を暴いてみせたのだった。レディ・ガガのような人が哀れなのは、本人はアートのもつもりでもあれは結局のところ、型にはまったショービジネスそのものでしかないからだ。ちなみにアートとは......ジョン・ライドンやマーク・E・スミスのような連中がとくに馬鹿に言葉である。

 ザ・レインコーツは〈ラフ・トレード〉らしいバンドだった。ジェフ・トラヴィスが経営した〈ラフ・トレード〉は、"男の世界"だったレコード屋のカウンターのなかに女性を送り込み、ザ・スリッツ、デルタ5、エッセンシャル・ロジックなど女性アーティストを積極的に後押しした。

 そして「50:50」契約も実現した。これは経費を除いた利益をレーベルとアーティスト側で半々に分配するというやり方だ。音楽業界の印税率を考えると、おそろしく破格の契約であるばかりか、弁護士の出る幕をなくし、わかりやすい平等思想を具現化したものだった。そうしたフェミニズムとコミュニティ意識のなかで、ディス・ヒートやレッド・クレイヨラとともにザ・レインコーツはいた。彼女たちのセカンド・アルバム『オディシェイプ』ではチャールズ・ヘイワード(ディス・ヒート)が叩き、ロバート・ワイアットとリチャード・ドゥダンスキー(PiL)も参加した。『オディシェイプ』はデビュー・アルバムとはまた違った方向性を持っている作品で、これもまたこの時代のクラシックの1枚である。

Flashback 2009 - ele-king

 手許にある音楽雑誌をパラパラめくる。音楽評論家やライターたちがこんなふうにつぶやく。――音楽が生成し浸透する現場に足を運ばなければ、なにもわからない/いろいろなパーティやライヴに足を運べ/PCでYouTubeとかマイスペースだけ見てわかった気になってしまうのはとても危険だ――や、てことはみごとにぼくは危険なんだな。

 10年くらい前まではたぶんぼくもその音楽評論家と同じような意見を持っていたのかもしれません。アグレッシヴに聴いていた時代があったのです。でも、ここ数年は特に新しい音楽シーン(というものがあれば)とはあまり縁のない世界に席を追いていたおかげで、すっかり世情に疎いアラフィフになってしまったのはまぎれもない事実なのです。だって『スヌーザー』見ても『ロッキング・オン』読んでも『クロスビート』眺めても、さっぱりわからない名前やジャンルばかりになっているじゃないか。

 俺は「グライム」ってわかりません。「ダブステップ」もよく知りません。つか、「エレクトロニカ」って何?ってこないだ奥さんに聞かれたんですけどよくわからないって答えておきました。だって説明できないのです。たとえばそのジャンルで代表的なアーティストは誰?って聞かれても閃かないのですよ。つか、俺って今なにを聴いてるんだろうと自問してしまうくらい、実はなにも考えずに音楽を聴いていたことに最近気づきました。

 でも、ここ1、2年はそれでも数年前に比べたらいいほうだと思うのです。少しは意識的に聴くようになってきたし、誰それが「これがいい」と親切に教えてくれたもののうち、多少は自分でそれを探して聴くということをするようになってきました。

 ......うーん、自分でも情けないね。こんなことを書いてる自分が情けない。だけど事実だからしかたがありません。そんな自分が選んだアルバム20枚(シングルははっきり言いますけど2009年は10枚買ってません......ですのでセレクションは当然割愛せざるをえませんでした)ですが、そういうわけでなにか指標があって選んだものではなく、結局2009年に聴いてフィットした20枚のセレクションなのです。だから、この文のお題目である「2009年を振り返って」と言われても、たぶん編集部が要求しているであろう内容はまったく書けない。だからこんな、自己憐憫みたいな文章をだらだらと綴っている次第なのです。

 よって、ここに選んだアルバム20枚というのは、なんの脈絡もない、単なる自分のコレクションのなかから今年気に入って聴いていたもの(=iPodに入っている率が高かったもの)を選んだだけなのです。まあしかし、それでもele-kingの読者で、ぼくの昔のことを知っている人なら(名前は違いましたけどね)、あのころからあまり趣向が変わっていないことを感じてもらえるかもしれません。結果として、サイケデリックで暗いんだけど、その中に一筋の光が見えるようなアルバムばかりがやはり自分の中で残ってきてるなあと感じています。

 ちなみにベスト20はほとんど順不同。ただしヨ・ラ・テンゴ(特に後半3曲のアンビエント・シンフォニー!)は圧巻でダントツ。その次が渋谷慶一郎といろのみのアルバムで、どちらも生ピアノの音を生かした沁みる内容で、相当な時間をともに過ごしました。感謝します。

■Top 20 Albums of 2009 by Shiro Kunieda

Yo La Tengo / Popular Songs(Matador / Hostess)
Keiichiro Shibuya / for maria(Atak)
いろのみ / ubusuna(涼音堂茶舗)
Kaito / Trust(Kompact)
Moritz von Oswald Trio / Vertical Ascent(Honest Jon/ P-Vine)
Andrew Weatherall / A Pox On The Pioneers(Rotters Golf Club / Beat)
David Sylvian/ Manafon( Samadhisound / P-Vine)
The Field / Yesterday and Today(Kompact)
Atlas Sound/ Logos(Kranky / Hostess)
Gong / 2032(Wakyo)
Jebski & Yogurt / Jebski &Yogurt(Rose)
ASA-CHANG & 巡礼 / 影の無いヒト(Comonds)
The Orb / Baghdad Batteries(Third Ear)
Simian Mobile Disco/Temporary Preasure(Wichita / Hostess)
Prefab Sprout / Let's Change The World With Music(Kitchenware)
Animal Collective / Merriweather Post Pavilion(Domino / Hostess)
Devendra Banhart / What Will We Be(Warner Bros.)
Mum / Sing Along to Songs...(Morr Music / Hostess)
Jackie-O-Motherfucker / Ballad of the Revolution(Fire)
Tim Hecker / An Imaginary Country(Kranky)
Tyondai Braxton / Central Market(Warp / Beat)

#1:ベルグハインの土曜日 - ele-king

ベルリンのダンス・ミュージックの歴史、狂気、快楽、自由、そして懐の広さ......その全てが凝縮されていると言っても過言ではないクラブ、それがベルグハイン/パノラマ・バーだ。世界最高、現代のパラダイス・ガラージと称され、世界中のDJやクラバーたちが憧れる場所。これが存在していることが、ベルリンがどれほど特別な街なのかをよく物語っていると思う。

 以下は今年ドイツで出版された本、『Lost and Sound: Berlin, techno and the Easyjetset』からベルグハインに関する記述の一部を抜粋したものである。この本の英語翻訳版をベルリンのレコード・レーベル、Innervisionsが発売*するにあたり、Resident Advisorに掲載されたものを和訳した。行ったことのある人はうんうんと頷ける、行ったことのない人にはかなり妄想を掻き立てられる的確な描写なのでここにご紹介したい。

*英語版は限定のハードカバー(予定販売価格:22ユーロ)が12月15日にInnervisionsウェブショップといくつかのセレクトショップで、ペーパーバック(予定販売価格:14ユーロ)が2010年2月に全世界に向けて発売予定。

  正確には、土曜日とはいつのことを指しているのだろうか? ほぼすべてのクラブは深夜にオープンするのだから、常に土曜の夜のクラビングはすでに日曜日になっている。クラブに出かけるまでの時間は、どうにかして潰さなければならない ―― バーに行くなり、街をブラつくなり、家で待つなりして。1時前にクラブに到着してしまおうものなら、空っぽのダンスフロアに迎えられるだろうし、DJもこの時間に踊る人などいないことを良く知っているので、たとえ誰かがいたとしても踊らなそうな曲をプレイしている。そう、まだお客さんは中ではなく、外にいるからだ。外の行列に。

 これはどこのクラブでも変わらないことだが、〈ベルグハイン〉では特に顕著だ。行列は砂の地面にヘビのように長く伸びている。後方は建設現場用のフェンスで区切られ、前方のドア付近ではS字に組まれた鋼鉄の柵に囲い込まれていて、まるで違う国に入国しようとする人々の列のように見える。ある意味、彼らは違う国に入ろうとしているとも言える。一般的には、ドアの外で待たされる時間が長ければ長いほど、そのクラブの特別さが増すと信じられている。この考えは恐らく1970年代に、20世紀で最も有名なディスコテックだったニューヨークの〈スタジオ54〉に入るために並ばされていた人たちから継承されてきたものだろう。ここでもドアマンの恐怖政治によってセレブリティー、カネ、美、若さの見事なミクスチャーが形成されていたわけで、その影響は今も残っている。中に入れと手招きされるか ―― もしくはされなかった場合は、外に突っ立って見ることしかできない。そんな光景が一晩中繰り広げられることもある。誰に強要されたわけでもないのに待ち続けるのは、富と名声とセンスがナイトライフを支配する街で、人気が人気を呼ぶクラブに少しでも足を踏み入れたいという欲求があったからだ。

 しかし、ベルリンはそういった類いの街ではない。

 それどころか、こうした考えで90年代にクラブをオープンさせたプロモーターたちは皆大失敗に終わった。ベルリンでは、アート・シーンを除いて、カネとセンスは別ものだからだ。90年代以降、このシーンはかつて親密な関係にあったテクノ/ハウス・クラブから完全に離れてしまい、ただエキジビションのオープニングにだけはDJを欠かしてはならないという考えだけが残った。今日アーティストやギャラリー・オーナー、アート・コレクターに批評家たちは、ベルリン=ミッテ地区のレストランやバーで内輪に集まることを好んでいるようだ。またこの地区には、〈スタジオ54〉のドア・ポリシーを僅かに思わせる唯一のクラブもある。ウンター・デン・リンデンの〈クッキーズ〉だ。

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 〈ベルグハイン〉外の有名な行列に並んでいると、そんなあれこれが頭を巡るが、この行列が他の行列と決定的に違うのは全員が体験するという点だ。ゲストリストも存在するが、決して長くはないしそれ以上の重みはない。リストに載っていても待たなければならず、支払いが免除されるというだけである。行列を飛び越すことができるのは、その夜出演するDJとその取り巻き、そして極一部の〈ベルグハイン〉関係者だけだ。行列の進み具合にはほとんど影響がない。1時間の間に3~4組が通り過ぎる程度で、それ以上はない。彼らを眺めながら待つのだ。1時だろうが、朝の6時だろうが、待たされることに変わりはない。ときには行列半ばのところにドアマンが立っていることがあることがあるが、彼の役目は誰もが同様に見定められる〈ベルグハイン〉のドアにおいて、なぜか自分だけは例外だと思い込んでいるワナビーたちを追い返すことなのである。

「今夜は追い返されるんじゃないか?」

 このポリシーの徹底ぶりは、かすかにジャコバン派(フランス革命期の政党)の恐怖政治を連想させるものがある。女王だろうが農民だろうが、誰にでもその恐怖が降り掛かるからだ。つまり、ここのドアは何よりも第一に民主主義的なのである。それでいて第二に、何年間通っていようとも、行く度に自分に「今夜は追い返されるんじゃないか?」と問いかけ続けなければならない独断的な面もある。

 この疑問は〈ベルグハイン〉の行列の全員によぎるものだ。そわそわしないようにお互い注意し合っているカップルも、ベルリンのクラブ・ファッションを地元の雑誌で研究してきたかのようなイタリア人グループも。彼らは大振りのサングラスにこれでもかとアシンメトリーにしたヘアカットという、ニュー・レイヴ・ルックできめてきている。女の子たちはパープルのレギンスに毒々しいグリーンのトップス、男の子たちは脱アイロニック・スローガンがプリントされたTシャツを着ている。ある女性は追い返されるかもしれないという恐怖心からか、故郷のヴッパータール(ドイツ西部の町)のことを延々と喋っている。彼女が行列で知り合った2人のオランダ人男性は、何とか彼女との会話からフェードアウトしようと、たまに「んー」、「あー」と相づちをうつ。別の2人組の男は追い返された人たちを笑いものにしながらも、あまり声が大きいと今度は自分たちが同じ目に遭うと牽制し合っている。
 
〈ベルグハイン〉は建物自体が大聖堂を思わせる造りになっているだけでなく、実際にテクノの教会そのものだ。どこまでが意図的に仕組まれているのかは定かではないが、行列に並ぶところから儀式は始まっていて、ドアに近づくに連れてお腹の中に蝶が舞うような感覚を味わうことになる。前に並んでいる人たちが追い返されるのを見つめながら、入店条件を割り出そうと必死になる。大抵の場合はシンプルである。若い男性のグループは苦労することが多い。それが観光客で、ストレートで、さらに酒に酔っていようものならなおさら難しい。しかし、これはかなり大ざっぱな分析でしかない。入れなかった若者が「ファック・ユー、ドイツめ! このスカムどもが! 俺はウィーンから来たんだぞ!」と怒鳴るのを聞いて、みんな小さな声で笑う。

 パーティする相手は誰でもいいという訳にはいかない。だから、追い返された人たちに同情する者はいない。それと同時に、その独占権を得るためには、自分も追い返されるリスクを追わなければならないのだ。

 冷酷なドアマンとの関係性には期待と不安が入り交じる ―― 〈ベルグハイン〉までの道のりには、矛盾する様々な感情が駆け巡る。そう、それでいいのだ。クラブの中に最初の一歩を踏み入れた瞬間の解放感を味わうために、その緊張感があるのだから。入店の儀式は、次にレジ横のエントランス・エリアで行われる、念入りなドラッグ検査へと続く。清めの儀式だ。そしてお布施を納め、クロークルームへの通過が許される。その広々としたスペースにはいくつかのソファがあり、ポーランドの芸術家ピョートル・ナザンによる「The Rituals of Disappearance」(消滅の儀式)と名付けられた巨大な壁画がそびえている。

 照明がまた儀式の雰囲気をしっかり演出している。真っ暗な屋外から、薄暗いエントランス・エリアを通り、明るいクロークルームに入る。そして最後の敷居をまたぐと、低音が轟くホールはまた真っ暗なのである。ホールを横切って大きな鋼鉄の階段を登っていき、ダンスフロアを前に立って雷のような音を浴びると、何のために何時間もかけてここに来たのかわかっていても、毎回同様の鋭い衝撃を味わう。そして数秒、ストロボに目が順応しようとするまでの間、半減した視覚にしばし彷徨う。少し顔を殴られた時の感じに似ている ―― まだ素面状態の自分よりも、2時間ほど長くここにいたと思われる汗ばんだ身体をかき分けて自分の行く手を進まなければならないだけでなく、音楽の波動による身体的な攻撃も受けるからだ。

 まずは一杯飲もう。

 〈ベルグハイン〉と〈パノラマ・バー〉には、合計6つのバーが全三階に渡って設けられている。ひとつは〈ベルグハイン〉のダンスフロアの右側、ゴシック教会の側廊のようなイメージの空間にある。かつての建築家たちが窓や細い柱の視覚効果を上手く使って天国との繋がりを強調したように、ここでもスポットライトの巧みな配置によって天井が実際以上に高く感じられる。もうひとつのバーはダンスフロアの左側、"ダークルーム"付近に隠れている。近くにある階段を上ると、〈ベルグハイン〉よりも少し小さくて明るめの〈パノラマ・バー〉がある。上の階はハウスでストレート、下の階はハードでゲイ、となっているのだ。

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「上の階はハウスでストレート、下の階はハードでゲイ、となっているのだ。」

 〈ベルグハイン〉には遅めか、場合によってはとても遅い時間に行く。ベルリンっ子は観光客のピーク時間を避けて、家で寝ながら朝8時まで待つこともある。そして長時間滞在する。そんな長い間自分が何をやっていたのか、思い出せないことがほとんどである。それはその間に摂ったかもしれない気分を変えるお薬やおやつの影響だけでなく、〈ベルグハイン〉特有の時空間に入り込んでしまったからだ。他のクラブの場合は、中に入ってしばらく滞在したら、また他の場所に移動する。だが、ここではみんな残る。外の世界は消滅してしまう。〈ベルグハイン〉に入ると、地図上から消えてしまうのだ。ここは、その意思がある人だけが来る場所。何百人という完全に出来上がったパーティ・ピープルが盛り上がっている中で自分だけが素面だと、置いて行かれたような気分になることもあるだろう。これほど巨大な ―― 多い日は延べ3000人以上が入場する規模のクラブでは、なおさらだ。その一方で、それぞれに完璧に調和のとれた各スペースでは、まるで自分の家のような ―― というと言い過ぎだが、「魚の水を得たるが如し」とでも表現すべき居心地の良さがある。何しろ、みんな自分の家とは違うからこそここに集っているのだから。

 写真撮影は〈ベルグハイン〉内では許されず、携帯のカメラでさえも禁止されている。理由を尋ねたところ、多くのお客さんは自分のセクシャル・ファンタジーを実体験しているところを撮られたくないからだ、とドアマンは言っていた。それもあるだろうが、それ以上に写真は中と外界とを繋ぎ、外の世界を思い出させてしまうからだろう。〈ベルグハイン〉ほど外界を切り離すことに成功したクラブはない。外では太陽が空高く昇っていようとも ―― 常に店内は早朝の薄暗さに覆われているようなのだ。

 もちろん、ここでは暗い隅っこでなければできないことをしている人たちもいる。ここに来たことがある人ならみんな、バーでセックスをしている人を見たことがあるか、話には聞いているはずだ。もしくはソファーで。あるいはダンスフロアの横で。より露骨なセックス・パーティは隣接する別の店、〈ラボラトリー〉で(広義のゲイに含まれるあらゆる性的趣向に合ったテーマのイベントが夜な夜な行われている。「Yellow Facts」に「Fausthouse」、「Beard」に「Slime」、バイカー専用のパーティ「Spritztour」まで)開かれているが、〈ベルグハイン〉内にも"ダークルーム"がふたつ存在する。そしてその中では、あらゆる抑制から解放され、あんなことやこんなことが繰り広げられているという話がいろいろある。

 しかし、これら〈ベルグハイン〉の逸話のほとんどは、こんな変な人がいたとか、こんなにぶっ飛んだ人がいたといった体験談ばかりだ。誰かが別の誰かと一緒にトイレの個室に入り、その後極端に気分が良くなって、あるいは悪くなって出て来たとか。だいたいのエピソードは2~3日は笑いのタネになるようなものだが、ちょっと笑えないものもある。

 いずれにせよ、こうした物語は勝手に広まっていく。〈オストグート〉(同じオーナーが経営していた〈ベルグハイン〉の前身となったクラブ)や〈ベルグハイン〉に何年も通っているような常連は、逸話が次々と生み出されては、このクラブの伝説を塗り替えていることを実感しているはずだ。大勢がその週末の出来事を振り返っては話題にし、誰かがこんな体験をした、自分はどんな光景を見た、あんな話を聞いていたが実際にはこうだった、といった会話があちこちでされている。物語の数々が繰り返し話題となり、強調され、膨れ上がり、検証され、説明されていく。そして、みんなお互いにこんなことばかり続けていてはダメだよねと言い合いながらも、密かに次に行く機会を待ちわびるのだ。

 これらはクラビングにまつわる当たり前の物語で、他のクラブでも起こることばかりだ ―― ただし、ここ以外の場所では現実世界に戻るのが日曜の夕方5時ということは滅多にない。他と異なるのは、これらの物語が常に〈ベルグハイン〉そのものの話題性を築き上げているところである。〈ベルグハイン〉のダンスフロアでパートナーに拳を突っ込んでいた男は、二の腕にセンチメートルの目盛りを入れ墨していたとか。友人ががトイレで出会った見知らぬ女は、彼を見るなり「今すぐファックして、早く」と言ってきたが、気が進まなかったので断ったらパンチをくらわしてきて何日も目の周りのアザが残ったとか。あるいは、ある男がトイレで小便をしていると、隣に立っていた男がいきなり丸めた手のひらでそれを受け止め、飲み干したかと思うとまた消えて行ったとか......「せめて一言断ってからにして欲しいよね!」といった具合に。

 〈ベルグハイン〉の伝説はそうやって築き上げられ、維持されている。さらに、そうした話題はベルリンの電話ネットワークを遥かに超えた規模に広がっている。体験談がニュースグループで議論され、中国からの発言がストックホルムやミラノにまで伝わる。メルボルンの人たちの耳にも届いていたりする。『New Zealand Herald』紙がベルリンにはダンスフロアでセックスするのが当たり前だというクラブがあるらしいと書き立てたかと思えば、それを読んだ何人かのニュージーランド人がベルリン行きの航空券を予約するのだ。

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"調子のいい夜の〈ベルグハイン〉と〈パノラマ・バー〉のダンスフロアは、世界で一番だ"

 伝説を築くという意味においては、それらの出来事が本当に起こったことなのか否かはさほど重要ではない。そんな逸話が存在し、語り継がれているというだけで十分なのだ。

 そして〈ベルグハイン〉は〈バー25〉ともまた違う。シュプレー川のほとり、カラスが飛び交える数百メートル程度しか離れていない距離にあり、ここも奔放なパーティ伝説が先行している場所ではあるが、〈バー25〉はさらにエクストリームでグロテスクだ。ある逸話では、女の子が芝生に寝転び、自分の携帯をヴァイブレーター代わりに使って「ヴァギナ会話中! ヴァギナ会話中!」と叫んでいたとか。それと比較すると、〈ベルグハイン〉の営みはまだ文明的に思える。確かに〈パノラマ・バー〉の横にある金属製の棚スペースのところでセックスする人たちは存在する。でも、基本的にここに来ている人たちは自分の行動をわきまえているのだ。もしくは、ちゃんと一言「ごめんね、しばらくどうでもいいことを喋りたいんだけど、いいかな?」と断りを入れる礼儀を持ち合わせている。

 そう言ってもらえれば、我慢するのもそれほど苦にならない。

 中を歩き回ってみて、あちらやこちらで何が起こっているか把握しつつ、一杯飲み、トイレに行って〈パノラマ・バー〉背後の小便器越しに、窓の外の荒れ地に奇妙に伸びた行列を眺める。知り合いや、全くの他人や、多種多様な人々に会う。バーで順番を待っていると、20代前半のフランス人青年が、モンペリエでテクノDJをやっている自分にとってベルリンに来ることは、イスラム教徒がメッカに巡礼するようなものだと説明してくる。階段では半裸でスキンヘッドの大男が、笑顔でこんなクラブは他にない、「ロシアでさえも」と話しかけてくる。ダンスフロアの隅っこでは、数週間前に途絶えていたダブ・レゲエについての議論がまた始まっている。

 そして、踊る。

 調子のいい夜の〈ベルグハイン〉と〈パノラマ・バー〉のダンスフロアは、世界で一番だ。ハウスとテクノ20年の歴史の集大成を作り上げているかのように。客の音楽的理解も素晴らしいが、盛り上がってくればそんなこととは無関係に思いっきり楽しむという姿勢もあるところがいい。その客層のユニークさは、ゲイとストレート、若者と年配者、男性と女性、ベルリンっ子と観光客といった多文化が混在しているというだけではなく、独特のダイナミズムをもたらす能力にある。ベルリンのテクノのベテランたちに埋め尽くされたダンスフロアでは、みんなパーティを知り尽くしている。だから、DJが8ビートのブレイクを挿んだ後にベースをぶち込んでも、期待通りの熱狂が得られないこともある。このようなトリックは聴き慣れているからだ。これが、初めて〈ベルグハイン〉に来て思いっきりはしゃいでいる若きゲイのイタリア人相手だったとしたら、トリックの善し悪しなどはどうでもいい ―― 毎回必ず盛り上がってくれるはずだ。でも、そうした客のバランスが素晴らしいのである。何年もかけて形成された、どのDJに何を期待すべきか知り尽くしたダンスフロアに勝るものはないが、場合によっては通常のパターンを打ち破る柔軟さも備えているのだ。

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「ドアマンに別れの会釈をしてしまうのは、
何か彼らに恩義があるような気持ちになるからだ」

 そして、目の前に霧がかかったようなおぼろげな意識の中、エレクトロニック・ダンス・ミュージックにおける行動学があることを確信することになる。それはダンスフロアにおける人々の関わり方に表れているのがわかる。ここでは行動をわきまえ、自分のスペースを確保し、他者の邪魔にならないよう気をつける。これらは自らの経験で学んでいくことで、誰かが教えてくれることではない。

 心得ておかないと、かなり強烈な憎悪を向けられる瞬間がある。例えば、ドアからバーへの最短距離がダンスフロアを横切るルートであると思っている集団に押しのけられたとき。もしくは、踊りながらどうしてもタバコも吸わなければならないと思い込んでいる隣の男に、腕に根性焼きされたとき(残念ながら、今では喫煙室以外の場所では喫煙することができなくなってしまったが)。あるいは、人を押しよけてまでそのスポットで踊りたいという欲求をコントロールする経験を持たない2人組の男が目の前で踊りはじめ、しかもしばらくして別の場所に移ったかと思えばまた戻ってきて、押しよけてきたとき。

 このような状況下に置かれたとき、クラブにもある種のグッドガバナンスの必要性を感じる。優れたダンスフロアでは、そこにいる全員が、どんな状態であれ自分が何をやっているか把握している。好きなだけ酔っぱらい、ぶっ飛んでいても、周囲に対するリスペクトは失わない。スペースが足りなくても、みんなが必要以上にスペースを取り過ぎないことを暗黙の了解としている。

 ここで踊っていると、そんなことを意識するのである。

 〈ベルグハイン〉と〈パノラマ・バー〉では、他のクラブとは異なる次元の高揚感がある。パーティの山場は、日曜の午後まで上がり続ける。これは、パラレル社会のような世界がクラブ内に作り上げられていることと関係している。ここでは、外の世界を完璧にシャットアウトすることに成功している。それどころか、パーティを盛り上げる刺激として、それをエフェクトとして活用しているのだ。〈パノラマ・バー〉の照明係が窓のブラインドを数秒感開け、太陽の光でフロアを照らすと、ダンスフロアが高揚感の波に飲み込まれるのを身体で感じることができる。人々が喝采し、両手を振り上げると ―― あまり急激に太陽の光をあて過ぎると世界が消滅してしまうんじゃないかという気になる。ヴァンパイアのように、客が全員灰になってしまうんじゃないかと。

 でもいつかは、終わりがやってくる。何しろ、〈ベルグハイン〉はクラブであって、アフター・パーティの会場ではないのだから。クロークに行って、タグを手渡す ―― これも細かい気遣いがよく表れている部分だ。他の店のような番号の書かれたチケットではなく、紐の付いた金属製のタグになっているので、首から下げたりどこかにくくり付けておくことができるのだ。だから店を出るときがどんな状態であれ、必ずコートを返してもらうことができる。ここではそういったところまで考え抜かれているのである。そこまで落ち着いた精神状態の人ばかりではない状況下では、とても重要なことだ。

 そして、ドアから光の下によろめき出る。ドアマンに別れの会釈をして ―― 彼らと知りだからというわけではないのだが、何か彼らに恩義があるような気分になってしまうからだ。その一晩の終わりを締めくくるような動作が欲しくなるのだ。周りを見渡し、新鮮な空気を肌に感じ、自分がどれほど汗をかいていたのか実感する。耳の奥のかすかな残響が小鳥のさえずりや、その辺りでビールを飲みながらお喋りしている人々の声や、建物から僅かに漏れてくるサウンドシステムの音が聴こえている。

 やっと家に帰る時間だ。それとも、〈バー25〉に寄って行こうか。

トビアス・ラップ
著者について

この記事は、トビアス・ラップの素晴らしい著書、『Lost and Sound: Berlin, techno and the Easyjetset』からの抜粋である。複数の短い章から成る本著書では、ラップはベルリンのクラビングの歴史を掘り下げ、客観・主観両方の観点から詳細に取り上げている。それも、彼のジャーナリストとしての経験に裏付けられたもの。この本の執筆中、現在38歳の彼は左傾の日刊紙『taz』の音楽エディターだった。英語版の紹介文の表現を借りれば、彼は「年老いたロッカーやアンダーグラウンド・トレンドを興味本位で追いかけるブルジョワとは一線を画す」視点で原稿を書ける人物だと評価されている。本著の成功と『taz』紙での仕事ぶりが認められ、現在ラップはより大きな舞台、ドイツで最も高い売上を誇るニュース雑誌『Der Spiegel』で、ポップ・ミュージック・エディターとして活躍している。

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