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RIP

追悼:原節子

追悼:原節子

紀子さんと私

坂本麻里子 Dec 07,2015 UP

 原節子の訃報が筆者の暮らすイギリスにも伝わってきた。ああ……と切ない思いに駆られたので、訃報に関するネットのコメント欄をチェックしたりイギリス人にこの話をしてみたところ「まだ生きてたんですか!」の驚きが多く、知人については原節子と言うよりも「OZU」を持ち出しておぼろげに「ああ、あの女優……?」、そして「……何歳だったの?」と続く反応だった。

 それもそうだろう。1963年の女優業引退後は公の場やパブリシティ/取材を退け続け、ガルボ以上に私生活は謎に包まれていた女優さんだ。原節子を初めて見たのも、そういえば出演映画ではなかった。小学生の頃、「麗しの名女優写真集」みたいなグラビア本の新聞広告で、ディートリッヒ、バーグマン、ヘップバーン号等に混じって原節子号があるのを見かけたのがきっかけ。筆者が『東京物語』で実際に彼女が動きしゃべるところを観るのは、その10数年後の話である。

 それによっぽどのシネフィルを除き、著名監督ならまだしも外国俳優の名前まで細かく覚えている人は少ない。筆者の知る、比較的日本に興味があって日本産映画も多少は観ているイギリス人の中でも、名前だけで即通じるのは「三船」と「たけし」くらいだ。黒澤映画のダイナミズムやスケール、北野武の日本的なヴァイオレンス描写の方が、海外では遥かに共感しやすいカリスマとエキゾチックなインパクトを生むのだろう。

 ダイナミズム、スケール、ヴァイオレンス、カリスマ、エキゾチズム。こうした単語群ほど、小津安二郎と原節子のもっとも実り多きコラボレーションとされる「紀子三部作」──トポロジーや家族構成・人物設定にこそ若干違いがあるものの出演俳優や登場人物の名前にだぶりが多いこの3作品は、同じ家族の物語を少しずつテーマを変え変奏したフィルム・サイクルと言っていい──こと『晩春』(1949年)、『麦秋』(51年)、『東京物語』(53年)と隔たりのある言葉もないかもしれない

 カメラはほとんど動かないし、場面の多くは様式化された屋内撮影。暴力にいたるたかぶった感情や衝突に欠けた中流家庭のストーリーであり、現代劇なだけにサムライも十二単も出る幕は無い。親たちこそ和服に純日本家屋なノリだが、対照的に戦後世代は洋装で闊歩し、丸の内のビル街はニューヨークのように屹立し、ショートケーキを食べる贅沢もある。一方で畳の間に籐椅子があったり寝るのはやっぱりお布団だったりするのだが、谷崎潤一郎『陰影礼賛』の仄かに照らす日本ではなく、電灯がくっきり捉えた和洋折衷の日本が広がっている。

 スマートに整えられたプチ・ブル〜小市民(この3作における稼ぎ頭/家長的な男性はいずれも学者・教授・町医者といったホワイトカラー系)の世界を「都会的」「洗練された」と評する声も分かるし、原節子に対する印象を親に訊ねたところ、返ってきたのは「モダン」の言い換えと言える「バタくさい女優さん」だった。目鼻が大きくはっきりした彼女の顔立ちはなるほど華やかかつオープンで、スレンダーな体躯にも関わらず外国女優のようなヴォリューム感が漂い、低めな声に静かなヴァイタリティとある種の厳かさが宿る。『東京物語』で言えば杉村春子の柿にスイカのタネをくっつけたような和な顔とも、あごが未発達な少女顔の香川京子とも異なる、「大人の女性」。色んな意味で日本離れ、いや俗世離れした美人である。

 貧相さとは無縁なそんな彼女の気品とは、たとえば『安城家の舞踏会』、『白痴』といった作品──それぞれチェーホフ、ドストエフスキーが下敷きになっている──で演じた、零落しながらも気高さを内に秘めた女性の役回りに結びつくことにもなったのだろう(後者は長たらしい上に舞台劇と自然派とドイツ表現主義とがごっちゃになったようなアンバランスなメロドラマながら、小津作品でのそれとはまったく違う原節子のエキセントリックですらあるファム・ファタル演技が見もの。主役4人の中でももっとも磁力が強い)。だが小津のこの3作は、ロシア文学を通して社会の変化や無情さ、階級差といった大きなテーマを描き出すのではなく、ごくフラットな世界に閉じている。

 先にも書いたように、物語の中心になる家庭はいずれも裕福ではないものの並みのちょい上レベルで、登場人物たちはまっとうに働き生きている。出征したまま帰らぬ人となった次男という形で戦争が悲しい影を落とすのを除けば、円満な家族。『麦秋』と『東京物語』で職業婦人を演じている原節子は、その中で自立した新たな女性のイメージ=進歩の象徴/憧れを体現している、と言えるだろう。だが、そんな原節子=紀子を旧社会型の足枷が引っ張ることでストーリーは進んでいく。『晩春』と『麦秋』での紀子は婚期を逃したまま親と暮らしている娘という役どころで(『麦秋』ではご丁寧に「紀子ちゃん、28歳かね」とだめ押しされる場面がある)、親はもちろん親戚や周囲もやきもきしている。英語のイディオムに「Elephant in the room(部屋の中の象)」というのがあるけれど、これは大きく明白なぶん、厄介なので逆に誰もが口を閉ざしておざなりにしがちな問題=腫れ物という意味で、嫁がない紀子さんはいわば一家の「象」ということになる。

 『晩春』は笠置衆演じる父との父子家庭のひとり娘なので、「私がお嫁に行ったらお父さんはどうなる?」の遠慮が未婚の遠因になっている。『麦秋』の紀子がなぜ行き遅れているかは曖昧だが、東京で秘書としてきびきび働く彼女は独身の気軽さ×親元で暮らす安心感を共にエンジョイしていて、暢気。とはいえ「女盛りの別嬪さんが勿体なくも独身」という状況はミステリアスに映るのか、『晩春』での父:周吉と娘:紀子の関係にエレクトラ・コンプレックスを指摘する人間もいれば(父に再婚話が持ち上がり、紀子は「不潔だ」と不快感を示す場面もある)、『麦秋』紀子が戦死した兄の友人(妻を亡くした子持ち男性)と結婚するという展開に、ブラコンを持ち出す者もいるだろう。

 そうしたフロイト/ユング型の分析もどこかしら当たっているのだろうとは思う。が、うーん、単純に女の視点から言わせてもらえば、紀子の在り方に自分はコンプレックスを感じない。むしろ共感する。自分がたまたま実際の紀子(=父親とふたり暮らし、あるいは両親と同居している同世代の女性)を知っているからかもしれないし、『麦秋』に登場する既婚族VS未婚族女性の笑えるやりとりの場面を観ていて、友人の多くが未婚族側に当てはまるなぁ、と感じたのもある。彼女たちは結婚や制度を避けているわけではないし、良い相手に出会わないんだから仕方ないわよね〜という調子で、いずれも「適齢期を逃した」型の悲壮感に欠けている。60年前以上に作られた映画のキャラクターなのに、「紀子さん」は今の自分の周りに結構いっぱいいるのだ(逆に、近い世代の男性で「離婚した子持ち」が多いのは面白い。これはイギリス人の話なので安易に日本人と較べることはできないかもしれないが&円満な夫婦やカップルもたくさん知ってますけども)。

 今の日本の状況が実際どうかは知らないが、晩婚傾向は続いているのだろう。自分が若い頃ですら「25歳までに人並みに結婚を」という雰囲気がジョン・カーペンターの霧のように迫ってくるのは無視しにくかったし(結局、無視したけど)、1950年代なら、未婚女性に対するプレッシャーはもっと大きかったはず。ゆえに紀子は縁談をもちかけられ、説得され、最終的には嫁ぐことになるのだが、家族や周囲をすったもんださせた割に、肝心の見合い相手の顔はおろか見合いの場面すら画面に登場しないんだから笑ってしまう。小津映画ではオープニングから話が始まっていたり、細かな事情説明抜きで何かが起きた「その後」や「余波」に場面が変化しているというのは多いが、クライマックスとも言える交際〜男女の駆け引きの具体的な描写なしで紀子は結婚を決意し、『晩春』では文金高島田姿で涙の別れになり、『麦秋』では家族で記念写真を撮影し、その次には夫の赴任先の秋田に引っ越した後……という流れになる。

 紀子のこの一見唐突な決断を、海外の評は「彼女は親に対する義理から結婚に踏み切る」とし、保守的な古い因習に屈した若い世代という図で説明をつけたりしている。なるほど、ロマンスの欠如は彼らには不可解なのだろう。しかし『晩春』紀子は父の「俺のことは心配しなくていいから」の言葉に励まされて新たな世界へ踏み出す決心をするし、『麦秋』紀子は近過ぎて気づかなかった旧友の魅力に目覚め、あっさり結婚を承諾する。それは、自分の目にはちょっと曲がっていて水をせき止めていた樋が、添え木や軽い修繕でまっすぐになり、再びちゃんと水を流すようになったヘルシーな光景……と映る。ジャンプしさえばなんとかなる。おそらくどちらの紀子も、良妻賢母としてちゃんと幸せになるのだ。

 そんなイメージが浮かぶのは、原節子が醸し出す賢さや安定感ゆえではないかと思う。『麦秋』の中で、旧友と結婚し秋田に転居することになった紀子に対し、独身の友人は「あなたはお金持ちと結婚して優雅なマダムになると思っていたんだけど?」という旨の(残念まじりな)意外さを口走る。これは映画を観ている側も同じで、美人スターが白いセーター姿で飼い犬と別荘でくつろいでいる図の方が、彼女が田んぼに立つ姿より遥かに想像しやすい。だが紀子/原節子の穏やかに達観した微笑は、幸せは与えられるものではなく自ら探し出し作り出すもの、と知る者の智慧を感じさせる。言い換えれば、紀子は誰と結婚しても充足できる=パートナーで規定される必要のない、揺るがない「個」を持つ女性ということ。その精神的なゆとりゆえに婚期に対する焦りが薄いのも分かるし、見合い相手の男性が透明人間なままでも違和感はない。『麦秋』と『東京物語』の間に発表された笑劇作品『お茶漬けの味』は、愛のない見合い結婚に不満を隠さない高飛車な妻がふとしたきっかけで地味な夫の空気のような存在感に頼っていた自らに気づき、「夫婦ってお茶漬けの味なのね★」とちゃっかり理解し心を改める……という内容だが、紀子というキャラはお茶漬けの味の良さと大事さを悟っている。大丈夫な人、なのだ。

 この達観あるいは大丈夫な自足ぶりが、しかし突き詰まって孤独にスライドしているのが『東京物語』の紀子だ。ここでの紀子は主役の平山家の娘ではなく、戦死した次男の未亡人、すなわち義理の娘という設定。はるばる上京してきた夫の両親との再会を喜び、実の子たちに邪険にされる老夫婦を自らの親のようにいたわる、天使のような女性である。子供たちの薄情さを際立たせるための対照的な役どころというのもあるとはいえ、他人に優しくするのが苦手な日本人とは思えない非現実的なキャラも、そもそも浮世離れした原節子が演じると疑念なしにすんなり受け入れられるんだから面白い。

 とはいえやっぱり紀子で、「息子のことは忘れて、気兼ねせずお嫁に行って」と、ここでも笠置衆と東山千栄子に気を揉まれている。まだ若いんだし将来を考えてください、その方が我々も心苦しい思いをせずに済むのじゃ、と諭される。こうした情深いやり取りを経て物語は悲しい結末に向かっていくのだが、果たして紀子は老夫婦の願いどおり再婚/再生に踏み出すのか? と考えてみるに、自分にその図は浮かばない。彼女のラスト・シーンは汽車の中=旅立ちであり、時計という小道具の示唆する「時の刻みの再開」も含めてポジティヴな終わりと言える。だのに原節子が最後に浮かべる表情はモナ・リザのそれのように微妙で、野球選手のように遠くに向いている。

 『東京物語』の紀子は会社勤めをしながら、亡き夫と暮らしたアパートで今も暮らしている。炊事場やトイレも共同とつましく、老夫婦をもてなすのに什器を隣人から借りる場面からも、友人づき合いが少ない静かな生活ぶりが窺える。だが彼女自身が「気楽でいい」と語るように、少なくとも紀子はこの小さな部屋の「主」であり、老夫婦の大人になった子供たちの抱える気詰まりや遠慮──長男の子供は祖父母の滞在で勉強部屋を明け渡すのに不服を唱えるし、転がり込んだ親の処遇に困る次女は夫に対する引け目が我慢できない様子――はない。「操を守る未亡人」という古風な佇まいながら、紀子の方がよっぽどしがらみから解放されている。

 その気楽さに流され、なんとか日々を乗り切っていくうち、気がつけば夫の死から8年も経っていた……というのはリアリティがある。かつ、紀子は実は夫を忘れている日も多くなっていて、と同時に何かが起きるのを待っている女心や孤独に慣れることへの獏とした不安も正直に打ち明ける。仕事に生きるキャリアウーマンとして意地を張ったり強がっているわけではく、案外と生活が性に合ってしまったのだろう。そんな風に猶予している自らを「ずるいんです」と彼女が自責するのは、結婚・出産といった一般的な「女性の幸福」双六の存在は承知しつつも、ひとりでいる自由に気づいた後ろめたさがあるからではないか?と思う。

 親子の情が薄い兄や姉を身勝手だと非難する年若い末娘:京子に対し、紀子は子供が親から離れて行くのは当たり前だから仕方ない、となだめる。今は子である京子にも親の番が回ってきて、同じような経験をするだろう=人生はサイクルという含みがあるわけだが、紀子自身はそのサイクルから外れている。これらの映画で娘の嫁入りは「かたづける」とも表現されるが、箪笥か何かのようにかたづいていない。冗談まじりに「歳はとらないことにしている」と話すこの人は、さりげなくオルタナなのだ。

 そんな風に順番がなく、かすがいを持たない生き方は浮草のようで寂しくもある。時にメランコリックな表情も浮かぶし、老夫婦に注ぐ気遣いにしても、夫と彼女を繋ぐ最後のよすがである彼らにすがりたい気持ちが彼女に残っているのを感じさせる。だが、その夫がロング・ショットの遺影としてしか登場しないように(またも透明人間!)、あるいは平山家も分散していくように、人間はいつかひとりになっていく。そうなる前に家族の種子を飛ばし絆を残していく人もいれば、逆に孤独に向かって準備を進める人もいる、ということ。前者を実りのある立派な人、後者を世捨て人だの変わりものと看做す社会傾向は強いが、「人生はいやなことばかり」とあっさり微笑み生きている紀子に、自分は気品こそ感じるが欠如感は抱かない。

 原節子を形容する有名なフレーズに「永遠の処女」というのがある。昔は「気持ち悪いなあ、こんなの、当人は迷惑だろう」としか思えなかった。生きる伝説/孤高の理想なんぞになってしまったら、逆にその人間は孤独が募るだろうから。ただ、キス・シーンや水着姿を断り続け、スター・システムから逸脱し沈黙のまま95歳で世を去った原節子と、三部作を通して幸福の鋳型をやんわりと、しかし自らの意志で少しずつ退けていった紀子とは重なる。そう思えば、彼女が生涯独身だった点も少なからず影響しているであろう「永遠の処女」なる奇妙なイメージも、個の生き方を守り通した=精神の強さという意味合いで考えれば、あながち間違ってはいないのかもしれない。

 『東京物語』の後も原節子は小津安二郎の映画に出演しており、「その後の紀子」とでも言うべき妻や母親役を演じている。『青い山脈』他、代表作は他にもある。だが、納得できないことはやらない、流されない女優だった原節子がそのストイックな芯をスクリーンに焼き付けたと言える紀子というキャラクターに、自分は映画の「夢」に留まらないリアルな人間の手応えを感じる。それは、とても珍しいことだ

坂本麻里子

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