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RIP

R.I.P. 遠藤ミチロウ

R.I.P. 遠藤ミチロウ

野田努、松村正人野田努、松村正人 May 10,2019 UP

 遠藤ミチロウと最後にことばをかわしたとき、彼はパンクだった。場所は新宿ロフトだった。2015年11月17日、大里俊晴の七回忌にあたる年、タコ、すなわちSHINDACO、いうなれば死んだ子としてよみがえったガセネタでベースを弾くよう、山崎春美に命じられたとき、参加した多士済々というか魑魅魍魎というか(最上級の褒めことばです)、そのような面々のなかにミチロウさんの顔もあった。解剖台の上でミシンとこうもり傘が衝突するような春美さんの思いつきにはしばしばメンくらわされるが、しかしこのときほど春美さんのシュルレアリスティックな発想に感謝したこともなかった。なんとなれば、編集や書きものの仕事をとおして存じあげていても、まさか一緒に音を出すとは思ってもみない方々と演奏したからで、そのいちいちをここに記すのはながくなるのでさしひかえるが、なかでもミチロウさんのバックでベースを弾いたのは忘れられない記憶である。
 正直にいえば、はじまるまでは懐疑的なところがなかったとはいえない。音楽において、バンドなりミュージシャンなりが伝説的であればあるほど、彼らの音楽は言説の皮膜に覆われ、情報化社会ではなおさら、聴き手は音を聴くよりもその表層をなぞり、意味の読みとりにかまけつづける、そのようなあり方に奉仕する以上のことが、ミュージシャンでもない私にできるとは思わなかったのである。とはいえ春美さんの勅命を断るほどの胆力は私にはない。いきおい末席をけがすほどの演奏でお茶を濁すことになるのではないか──不安をいだきつつ立ったロフトの舞台はブラインドで客席と仕切られていて、所定の位置についたメンバーは客席からはみえない。ブラインドごしにフロアにながれるBMGとお客さんのざわめきがとどく。フロントの立ち位置に山崎春美と遠藤ミチロウがついた。演奏がはじまる、その一瞬前、舞台の上のすべてのものが、楽器や機材にいたるまで、リズムを合わせるように息をのむ、そのときミチロウさんがくるりとふりかえり、にっこりと微笑まれたのである。
 幕があがると同時に、ミチロウさんが手にしたサイレンが唸る。ザ・スターリンのドラマーでもあった乾純さんが重々しいエイトビートを刻みはじめ、成田宗弘さんのギターがノイズの塊を発する。私はE弦を八分で弾く、「メシ喰わせろ」のちの「ワルシャワの幻想」である。数秒前まで、穏やかにステージにたたずんでいた小柄なミチロウさんの姿はすでになかった。客席にペットボトルの水をふりまき、拳をふりあげ「乾杯!」と叫ぶ彼はありし日のパンクの姿をひきうけ、再構成し、現在に体現する、私はざんねんながら表情はみえなかったが、その背中はさっきまでの私のわだかまりをふきとばすものがあった。すなわちパンクとはなんだったのかという過去形の設問への実践による回答の拒否である。同時にそれは歴史の格納庫に回収したがる伝説への愚直なあがきでもあったのではないか。
 遠藤ミチロウとはじめて言葉をかわしたとき、彼はフォークだった。場所は山形市内だった。いまから四半世紀前、当時私は仙台に住む学生だったが、隣県で開催した三上寛と友川かずき(現カズキ)に遠藤ミチロウをくわえたジョイントライヴにはせさんじたのである。企画自体は商店街のお祭りの催しのような感じで、なぜこのようなどぎつい顔ぶれのライヴが商店街の一角(ほんとうに商店街の一角だったんでんすよ)で開催したかはいまもってナゾだが、子どもが走りまわり、老人がとおまきにするなかで、たしか三上寛さんがトップバッターで友川さんミチロウさんと歌い継ぐ光景はなかなかにシュールだった。当時ミチロウさんはザのつかないスターリンからソロ活動に移り、ギター一本かかえて単身全国をまわりはじたころで、たしか責任転嫁というパンクバンドのヴォーカルでミチロウさんと交流のあったバイト先の店長の車に同乗させもらって山形に向かったのだった。ミチロウさんは福島の出身だが、山形大を出ており、その縁もあって、青森の三上寛、秋田の友川かずきとジョイントすることになったのであろう。私は三上、友川の両名については、明大前のモダーンミュージックのレーベル「PSF」の諸作で音楽性は認識していたが、『50』(1995年)の前だったので、弾き語りのミチロウの予備知識はほとんどなかった。ところがそのライヴでもっとも印象にのこったのは遠藤ミチロウだったのである。東北の磁場と地続きの感のある三上、友川両氏とは対照的に、遠藤ミチロウは東北という圏域あるいは故郷や家の観念にあらがいつつ、GSやドアーズに憧れた音楽体験の原点をかたちづくった場に身を置くことの両価性に喜悦するように歌っていた。その印象の由来はギター一本で長尺になった「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」のせいだったかもしれないが、フォークという形式以前に、ことばの詩性や虚構性よりも自身の裡の原風景に正対しながら、そこから離反しようとする彼の音楽の力線は日本という中央建社会を炙りだすものであり、私たちはそれらの歌をときにパンクと呼び、名もなき声を代弁するものとしてあるときはフォークロアとみなしてきたのではなかったか。
 遠藤ミチロウがこの世を去ったあくる日の晩、私は渋谷o-nestにいた。時代はまだ平成だった。豊田道倫のレコ発ライヴで、その日は私がはじめて遠藤ミチロウの歌を生で聴いた日に共演していた三上寛がゲストで出演していた。もはや歌とも話芸ともつかない語りのなかで三上寛は寺山修司の言を引いて、日本は戦後「家」を喪い「家庭」になったと述べていた。遠藤ミチロウの透徹した直観が問題にしてきのも、おそらくはそのような社会の変化であるとともに、その土台にある、ウワモノをいくらつくりかえても拭えない土の発する匂いのようなものだったのだろう、と私は令和の世になった最初の日に伝え聞いた遠藤ミチロウの訃報に思った。遠藤ミチロウのなかではパンクもロックもフォークも同根であり、サウンドは時代のドキュメントだった。90年代以降、ことに近年はそれまでの自身の活動を総括する悠揚とした趣もあった。つまるところそれらはジャンルの装飾を排したただの音楽にすぎない。とはいえ素っ裸の肉体が頭から輝くような音楽がほかにあっただろうか。

※文中いちぶ敬称略としました。

松村正人

野田努、松村正人

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