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RIP

R.I.P. Phil Asher

R.I.P. Phil Asher

追悼 フィル・アッシャー

小川充 Jan 27,2021 UP

 ロンドンの職人的なDJのひとり、フィル・アッシャーが去る1月21日に亡くなった。享年50歳という早すぎる死は心臓発作によるものだったが、近年はロンドンの喧騒から離れてパートナーと一緒に海辺の町のブライトンに移り住んでいて、そこで亡くなったそうだ。
 彼の死が発表されてからSNSにはカーク・ディジョージオ、ファビオ、アレクサンダー・ナット、マーク・ファリナ、ケリー・チャンドラーなどDJ仲間や音楽界から追悼のメッセージが寄せられた。アレクサンダー・ナットのツイートにあるフィルのポートレイトは、とあるレコード・ショップで腕組みしながらにこやかに笑っているものだ。イギリス人の父とスペイン人の母の間にロンドンで生まれたフィルは、もともと〈クアフ〉や〈ヴァイナル・ソルーション〉といったレコード・ショップの店員をしながらDJをやっていて、そこから一流プロデューサーの道を究めていった。そんな彼らしい写真だ(そもそも父親がレコード屋の店員だったから、親子2代に渡っての天職なのかもしれない)。彼がディーゴをはじめウェスト・ロンドンの面々と交流を深めていったのもレコード屋の店頭だし、その頃はカーク・ディジョージオやパトリック・フォージなどのDJ/プロデューサーもみなレコード屋で働いていた。私自身もかつてレコード屋で働いてDJをしていて、当時はフィルのレコードもよく扱っていたので、そんなところからフィルは他人とは思えなかったものだ(ちなみにその写真のレコ屋にはJディラからジェイムズ・ブラウン、タニア・マリアなどのレコードが飾ってあって、ダンス・ミュージック専門店だと思うのだが、なかなかいいチョイスである)。DJにとってレコード屋で働く利点は、より早くたくさんの音楽に接することができること。新譜メインの店なら最新の音を聴くことができるし、中古店なら世界中の珍しい音に出会うことができる。そうやってフィルは自分の耳を鍛えていったのだろう。

 フィルの名前が広く知られるようになったのは1990年代後半に勃興したウェスト・ロンドンのブロークンビーツ・ムーヴメントによってだが、それより少し前から彼はハウスDJ/プロデューサーとして自身の音楽性やプロダクションを確立していった。最初は自動車修理工をしていたが、音楽への情熱が捨てきれずにレコード・ショップ店員へ転職し、セカンド・サマー・オブ・ラブやレア・グルーヴ・ムーヴメントを通過した1980年代後半。ただ、その頃流行ったアシッド・ハウスやレイヴ方面に行くことはなく、周りに黒人の友だちが多かったこともあって、ハウスの源流であるガラージ・クラシックとか、ファンクにジャズ・ファンク、そうしたネタを使ったヒップホップにも傾倒していった。DJではハウスやテクノをプレイして、初期のシカゴ・ハウスやアンダーグラウンドなNYハウス、ニュージャージー・ハウス、それからちょうどロンドンでも広がってきたばかりのデトロイト・テクノが主なレパートリーだった。

 1990年代初頭にはコンピの編纂や音楽制作も開始して、いろいろ試行錯誤するなかでエンジニア/プロデューサーのルーク・マッカーシーと出会ってレストレス・ソウルというプロダクションを立ち上げる。このプロダクションはジャジーでソウルフル、そして四つ打ちにとらわれない幅広いリズム・アプローチを持つハイブリッドなディープ・ハウスを得意とし、当時で言えばUSのマスターズ・アット・ワークやブレイズ、ジョー・クラウゼルなどに対抗するものだった。
 それからアーロン・ロス、モダージ、マイク・パトゥーなどいろいろな仲間が加わる集団となっていったレストレス・ソウルだが、1990年代半ばのフィルはここを土台にベーシック・ソウル、エレクトリック・ソウル、バック・トゥ・アースなど様々な名義を使って作品をリリースするようになる。同時にいろいろなアーティストと組んでコラボをおこなうようになるが、その多くがウェスト・ロンドンを根城とする人たちで、またパトリック・フォージとやっていたパーティーの「インスピレーション・インフォメーション」がノッティング・ヒル・ゲイトのクラブだったりと、いつしかウェスト・ロンドンの中心人物となっていった。

 ブロークンビーツはこうした交流や情報交換の中から生まれたもので、フィルの土台にあるハウスやテクノ、ファンクやジャズ・ファンクなどとほかの人が持つ別の音楽的要素をブレンドし、そこから新たなビートを作り出すことからはじまっている。そのオリジネイターの一角がヒップホップやR&Bをバックボーンに持つIGカルチャーで、もう一角がフィルだったのである。
 1990年代後半から2000年代にかけ、ウェスト・ロンドンではもうひとつのプロデューサー集団のバグズ・イン・ジ・アティックがあり、ドラムンベースの世界からブロークンビーツ・シーンへ入ってきた4ヒーローのディーゴとマーク・マックはじめドムやGフォース、アシッド・ジャズ時代にヤング・ディサイプルズやガリアーノに関わってきたディーマス、レストレス・ソウルにも加わったモダージ、スイスから来たアレックス・アティアス、ニュージーランド出身のマーク・ド・クライヴ・ローなどが集まっていて、こうしたコアな輪のすぐ傍にもカーク・ディジョージオ、イアン・オブライエン、ジンプスター、トム・ミドルトン、マーク・プリチャードなど多士済々な面々が交友関係を広げていた。
 さらにウェスト・ロンドンにとどまらずに、フィラデルフィアのキング・ブリット、デトロイトのリクルース、ドイツのジャザノヴァ、フランスのDJジルベールといった具合に、世界中のアーティストがお互いに影響を受けたり、与えあっていた。2000年にはディーゴ、ディーマス、Gフォース、IGカルチャーと「Co-Op」というパーティーをソーホーのヴェルベット・ルームズではじめ(後にプラスティック・ピープルへと会場を変えている)、そこは一種のラボのような場となり、次々と新しいブロークンビーツを開拓していった。

 フィルは前述のベーシック・ソウル以外にも、フォーカス、フラッシュ、ウールフなどいろいろな名義を用いて作品リリースやリミックスをおこない、またレストレス・ソウル以外にもブラック&スパニッシュ、ミュージックラヴライフ、フュージュンなどさまざまなプロダクションに参加してきた。DJフレンドリーな12インチやリミックスがメインだったため、自身のアルバム・リリースはフォーカス名義での『スウィート・アンド・サワー』(2002年)のみだが、これにはバグズ・イン・ジ・アティックのカイディ・テイサン、マーク・ド・クライヴ・ロー、レストレス・ソウルのフェリックス・ホプキンス、マイク・パトゥー、ダ・ラータのクリス・フランク、ニュージーランド出身のネイサン・ヘインズなど、フィル周辺の仲間が一挙参加していて、ウェスト・ロンドンのファミリー・アルバムの一枚に位置付けられる。
 サウンドもディープ・ハウスの “マーヴィン・イズ・ワン” (自身の子供のために作った曲)や “ファインド・マイ・セルフ”、デトロイト・テクノ調の “ハル”、R&B系の “ハヴィング・ユア・ファン”、ダイメンツィオをカヴァーしたブラジリアン・フュージョンの “バンバ”、レゲエ~ダブを取り入れた “スペースシップ・ロケット” と幅広く、いろいろな音楽性を融合したブロークンビーツの在り方を示したものと言える。
 また、バー・サンバなどプロダクションに関わって成功を収めたグループやアーティストも少なくなく、そうした中でサックス&フルート奏者のネイサン・ヘインズによる『サウンド・トラヴェルズ』(2000年)は全面的にレストレス・ソウルが関わったアルバム。ネイサン・ヘインズがフロントに立つジャズ・アルバムだが、実質的にフィルとレストレス・ソウルによるコラボレーションで、ジャズとソウルとブロークンビーツが最良の形で融合した傑作である。同じくマイク・パトゥーも参加したリール・ピープルのアルバム『セカンド・ゲス』(2003年)にもフィルとヴァネッサ・フリーマンら周辺人脈が深く関わっていて、こちらもブロークンビーツとソウルやR&Bの架け橋となった金字塔である。

 ブロークンビーツ全盛期に比べてリリース量は少なくなったが、近年も地道にDJ活動は続けていて、ここのところはマイティ・ザフと組んだディスコ/ブギー系の12インチを出していた。派手な活躍こそないが、堅実にビートを編み出す様はまさに匠の技そのもので、ダニー・クリヴィットのように本当に職人という言葉がふさわしいDJのひとりだった。フィルとは一緒にDJをさせてもらったこともあるし、インタヴューをしたりライナー・ノートやレヴューを書いたりといろいろ縁のあるアーティストだったが、何よりもレコード好きな仲間という印象が強い。レコードの話になると目を輝かせていたことをいまも思い出す。

以下は、初代『ele-king』27号(1999年)に掲載されたフィル・アッシャーのインタヴュー(文:野田努/通訳:アレックス)からの抜粋です。ベイシック・ソウルの “オーヴァー・ザ・ムーン” は90年代エレキング(とくに三田格)のアンセムでした。(編集部)

“ハイテック・ジャズ” はバイブルで、ディーゴは俺のヒーローだ

 お店やレーベルを転々としながら、ヴァージンで1年働き、その後は〈ゲリラ〉(註:90年代初頭のUKのプログレッシヴ・ハウスの拠点のひとつで、当時の〈カウボーイ〉と並んで、DJピエールのワイルドピッチ・スタイルへの回答でもあった)でも働いた。1991年にはパスカル・ボンゴ・マッシヴの「ペレ・コンコン」に参加したり、〈ゲリラ・レコード〉からはトゥ・シャイニイ・ヘッズ名義でシングルを出したり、〈ゲリラ〉のコンピレーション『ダブ・ハウス・ディスコ』(1992年)を編集したり、ロイ・デイヴィスを〈ゲリラ〉でライセンスしたりしていた。〈ゲリラ〉を辞めた後は〈トマト・レコーズ〉でプロデュースの仕事をしていたが、まったく評価されなかった。
 アッシャーの音楽にアンダーグラウンドで評価が与えられたのは、ルーク・マッカーシーとパートナーシップを組むようになってからだった。アッシャーとマッカーシーのコンビはレストレス・ソウル、エレクトリック・ソウル、ベイシック・ソウル、バー・サンバ、ブラックン・スパニッシュといったプロジェクトでシングルをリリースしていった。
「ソウル・トリロジーだな。ベイシック・ソウルはマッド・マイクの “ハイテック・ジャズ” にインスパイアされた。マッド・マイクの魅力については何時間だって喋れるよ。“ハイテック・ジャズ” は俺のバイブルだ。俺は昔、デレク・ジャーマン(かつてモータウンのハウス・バンドのベーシストだった、ジェイムス・ジェマーソンの息子)と一緒に仕事をしたことがあって、その仕事を通じてマッド・マイクやレニー(オクタヴ・ワン)と知り合った。クールなヤツらだし、音楽は素晴らしかった」

「ベイシック・ソウルの “オーヴァー・ザ・ムーン” を作ったときに俺は泣いた。ちょうど母親が死んだ直後だった。実はベイシック・ソウルのアルバムも途中まで出来ていた。でも、俺は自分のパートナー(マッカーシー)と最近別れたし、もう俺にはベイシック・ソウルは出来ない」

「俺たちはヒップホップのやり方でハウスを作っていた。そこにディーゴも興味を持ったんだ。4ヒーローの『2ペイジズ』を初めて聴いたとき、俺は一ヶ月のあいだ何も出来なかった。こんなに素晴らしいアルバムがあるのに俺が音楽を作る必要はないとすら思った。ディーゴはマジで尊敬している。俺のヒーローだ。もしディーゴがビルの屋上から飛び降りろと言うなら、俺はビルから飛び降りる」

「俺は正直なところまだ自分がアルバムを作れるほどの人間じゃないと思っているんだ。金のためにアルバムを出すのはイヤだし、どうせなら人生を語る1枚を作りたいからな。メッセージをちゃんと伝えたいしね。真夜中に吹雪のなかをドライヴしていて、前方から光が見えたのなら、その光がどんな光かどうして光っているのかなんてことは問題じゃない。光が周囲を照らしているそのこと自体が重要なんだ。わかるかな? 俺がもし光を見失ってしまったら、そのときは潔く音楽を辞めてバスの運転手でもやるよ」

小川充

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