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天国よりマシなパンの耳

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水越真紀   Nov 17,2009 UP
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 いつになっても誰の人生にも何が起こるか分からない――。そこにいる全員が酔っ払ってまるっきりバカになっていても、ECDがそんなことになっている姿は見たことがない。けっして私のゴールが早すぎるから、ではなく......。そう。 ECDとは、飲み屋で管巻く酔っ払いを尻目に、仙人のように孤独な、一人ぼっちのアナキズムを貫き通す丘のような巨人、だった。私の中では......。
 けれども昨年からのECDは、結婚、誕生、育児となんだか急に華やいでいる。幸せ太りならぬ幸せ激ヤセというものがあることも教えてくれた。ことに、小説やエッセイを含めて、私生活を赤裸々に露出するECDの新作には、この健康で(たぶん、ですが)愛に満ちた生活の変化はどんなふうに現れているんだ? という関心をもって聴かれる可能性のことは、彼自身がいちばんよくわかっていたことだろう。

 ということで、どうしたって、新しい家族に向けるまなざしを消し去って聴きはじめることはできないこの新作に、実はその影はほとんど見えない。まったく見えない、と言ってもいいくらいだ。
 脳にこびりつくほど繰り返されるフレーズはこんな感じ――「毎日毎日腹が減る 毎日毎日眠くなる」「聞き返すテープ停止巻き戻し」「職質やめて」「自殺するよりマシ」「ぐるぐる目目回す催眠術」。淡々と続くこうした言葉も含め、らせん状に落下していくようなサイケデリック感覚が押し寄せる。いや、それで愛ある暮らしってやつはいつになったら出てくるんだ?
 "仙人"みたいな ECDにとっては、家族の増加も娘の笑顔も作品に影響を与えることはないのだ。そういうこと? いや、そうではないなあ、やはり。

 「レコード会社の契約打ち切りやアルコール依存症を経て、毎日賃労働をしながら自主レーベルで作品を発表していたECDは不幸な境遇にあったけれど結婚が彼を幸せにした」というシンプルなストーリーがそもそも間違っているのだ。ひとさまの心境をとやかく詮索するのもどうかと思うが。日常生活の変化にもかかわらず、そこにある満足感や幸せ、不安やおぼつかなさといったものは変わらず、彼が存在する社会の状況は相変わらずで、彼の視線も基本的には変わらない。
 不遇続きだったECDの作品は、思春期的な感性や自意識とはそもそも無縁で、ことに近年の表現には攻撃性にさえ諦観が忍ばされ、それが21世紀の日本の路地感覚によく反響したのだと思う。

 RUMIが『Hell Me Nation』でスタートラインを引きなおしたと言えるなら、ECDはこの新作でゴールラインを引きなおしたのだろう。それは諸手をあげて寿ぐような出来事ではない。気力や意志はきらめくよりも鈍く光り、ふさがれたたくさんの出口のことも織り込み済みの淡々としたものではある。けれども。
 「何かがしたくてこうなった」のであり、日々の暮らしに「深い訳なんかナッシング」だが、「何が起こってもキープするペース膨張今も刻々遠ざかる広大無辺無限のポテンシャル」が、"再"発見されたことへのかすかなふるえを感じる。
 現実の路地の風向きは簡単には変わらないが、このゴールライン=未来への視線に共鳴するものが、同年代の私にはかすかに見える。気もする。

水越真紀