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V.A

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Kumaru Expo 2010

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松村正人   Jan 20,2010 UP
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 私は反省こめて書きますが、ジャンク~スカム・リヴァイヴァルとしての「関西ゼロ世代」を強調するあまり、その背景のポスト・ニューウェイヴ、つまり80年代インディ・カルチャー(とその発展型である90年代オルタナティヴ)と彼らの断絶をうまく描いてこなかった。ペンペンズや砂十島NANIやオオルタイチは90年代と00年代のグラデーションのなかでは多彩であったせいでかえって、私は彼らの逸脱へむかう気持ちを既視感に引き寄せたところはなくはなかったが、真保☆タイディスコの『住mばsyo着るmの絡まって』を去年聴いたときアンダーグラウンドのそのまた下に走る活断層がはっきりとズレたことをさとったのだった。私は音楽の素養をいいたいんじゃない。彼女がタイから持ち帰ったという非西洋的な快楽のベクトルは、DJ~トースティング(?)を通して不可逆的に彼女の身体に流れこんだグルーヴは彼女の身体性を変容させていて、Jポップ~クラブの押韻と言葉と歌のメロディを書き換え90年代までと切断するポップ・ソングを作りあげることに資しているとファーストを聴いて考えたのです。10年前までは文化人類学の残り香があった音楽の輸入形態も10年後にようやく路傍に晒されたというか、バイリ・ファンキでもクンビアでもアジアのクラブ・カルチャーでも、アーティストとリスナーの間を直接行き来する音楽は批評のハイアラーキーになじみがたく、自然発生的な解釈(曲解、誤解)はローカリティさえ攪乱する、ニコ動的な個人レベルの加工貿易の観をていしている。この10年の音楽のトレンドは欧米のメディア主導型のラベリングと、局所地的ですらないマイ・ブームの集積のようなベクトルが併走した年代で、これに勝手知った「タコツボ化」などといういい方で目を瞑るわけにはいかない。赤瀬川源平じゃないが、ツボの内側に張られたラベルが反転して宇宙を包むことだって、考えようによってはあるわけで、音楽は意外にスリリングだ、という現状を〈クマル〉のレーベル・コンピであるこのアルバムは伝えてくる。これに先だった真保☆タイディスコの旦那のシャブシャブの『SONOFX』はどこか遠くを見つめたくなる、幻の名盤解放同盟のいい方を借りれば「いい湯加減」の、グライムに異文化コミュニケーションのフィルターがかかったような快(怪)作だったが、有象無象が集った『クマル・エキスポ・2010』では状況はいっそう錯綜している。デ・デ・マウスへのアンサーともとれる『SONOFX』収録のフィルタード・バラッド "Katatsumiru"の真保☆タイディスコによるアップリフティングなリミックスをはじめ(私の五歳の娘は一度聴いてこの曲を憶えました)、このなかでは比較的名の知れた参加者だろうシャブシャブとオオルタイチのオバケジャーとか、ほかにもneco眠るのバイオマン、ガルペプシとシャブシャブによるガルシャブはリズムコンシャスである意味クールなトラックを披露したかとおもえば、京都シーンからはスズメンバが参戦し、スズメンバのMU-TONはシャブシャブとのパンパス・エスカルゴスなるユニットに増殖していく。真保☆タイディスコはラキラキ、ニジベンテンなど複数のユニット名を使いわけているが、フリクションのレックの非正統的な後継と目されるべき(ホントかよー)リズムから帰納されたヴォーカル・トラック(ドイツ語あり)はダブ・ステップの影をチラつかせながら、野田努よれば「女性の時代」だった00年代の殿(しんがり)をつとめるようにもみえ、総体的にはシャープな1枚になった。

松村正人