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モーグにとって“バッハ”とは? 前島秀国
30年ほど前、某クラシック評論家がウェンディ・カーロスのモーグ・シンセサイザーを聴いて、「クラシックがオモチャにされているようだ」と宣った。カーロスをはじめ、多くのシンセシストたちが酔狂でクラシックを演奏していると思っていたのだろうか? おそらくその評論家は、たったひとつの音色を初期ムーグ・シンセサイザーから引き出す作業が、どれほど困難で時間のかかることなのか、まったく無知だったに違いない。
カーロスの『スイッチト・オン・バッハ』の登場以降、シンセシストたちがベートーヴェンでもモーツァルトでもなく、バッハをこぞって演奏した理由もそこにある。つまり、彼ら彼女らが苦労して作り上げたモーグの音色をデモンストレートするのに、バッハの音楽が最適だったからだ。ハーモニーが音楽の重要な要素のひとつとなるモーツァルト以降のクラシック曲よりも、2本または3本のすっきりとしたメロディラインが対位法的に戯れていくバッハのほうが、モーグ独特の音色の特徴が伝わりやすい。せっかく作った音色も、分厚い和音の海に溺れてしまっては、元も子もないから。
モーグの“オタマジャクシたち”にふさわしい泳ぎ場は、ドラマティックな転調やノイズすれすれの不協和音が渦巻く荒海より、むしろ音楽がなだらかに流れる“せせらぎ”のほうである。ドイツ語でバッハ(Bach)という言葉は「小川」を意味するけれど、水草のようにケーブルが生い茂ったモジュールから生まれた“オタマジャクシたち”にとって、これほど自由に泳ぎ回れる居心地のいい“小川”は、いまも昔も他に存在しないのだ。
今回の『バック・トゥ・モーグ』では、その“オタマジャクシたち”がヴァイオリンや室内オーケストラの生楽器とともに“小川”に入り、なんら遜色のない泳ぎを披露している。胡弓のような雅をまとった、エレガンスあふれる“ヴァイオリン・ソナタ第4番”。こびとがリコーダーを吹いているような、微笑ましい“ブランデンブルク協奏曲第4番”。もう、オモチャなんて言わせない。
文:前島秀国
ロバート・モーグ博士没後10年と、モーグシステム開発50年を記念して、ラモーンズやブロンディのプロデューサーでもあったクレイグ・レオンが、モーグの最新システムシンセを使って大作曲家バッハの作品に挑む。ウェンディ・カルロスの『スイッチト・オン・バッハ』の21世紀版とも言えるユニークなアルバムだ。