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Campanella

Hip Hop

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PEASTA

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泉智   Feb 22,2017 UP
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誰が光で 誰が影で 誰がサグで 誰がオタクで 誰も知らねえ
俺は光で 俺は影で 俺はファックで 俺はカスだ 全部当たりまえ
誰がバビロン 誰がファッション 誰がボスで 誰がルールだ 誰が決めたね
俺がラッパーで俺が詩人で俺が俺であるがゆえの俺のプレイ
“OUTRO” 

 「アンダートウUNDERTOW」という言葉があって、ジャンルを問わないアンダーグラウンド・ミュージックを聴いていてよく思い出す。表面の波に逆らって最深部を力強く流れる底流。KOHHが宇多田ヒカルとコラボレーションし、バトル・ブームの熱気に後押しされた若い世代のトラップが勢いよくポップ・フィールドへと流れこみつつあるいま、日本のヒップホップ・シーンにおけるアンダートウはどこにあるだろう? 2017年1月14日、深夜の渋谷WWWで開催されたCAMPANELLA『PEASTA』のリリース・パーティに足を運んで確信した。現在の日本でもっとも強力なアンダートウのひとつは、NEO TOKAIにある。

 NEO TOKAI。名古屋を中心とする近隣エリアを指すそのスラングを初めて耳にしたのはたしか2、3年前で、やがてそれがHIRAGENのあの『CASTE』を輩出したTYRANTクルーを源流のひとつにしていることを知った。冷却装置がぶっ壊れたように沸騰するその熱をパッケージしたコンピレーション『WHO WANNA RAP』とその破壊的再構築『WHO WANNA RAP 2』。そしてC.O.S.A.が自主流通のみでリリースした傑作『CHIRYU YONKERS』の衝撃……。西日本に大雪が降った1月の真夜中、WWWでのパーティはJET CITY PEOPLEの鷹の目のDJで始まり、Fla$hBackSのJJJとKID FRESINOの東京組がばっちりとオーディエンスをあっためた後には、FREE BABYRONIAとRAMZAのビート・ライヴが会場を襲い、NERO IMAI、呂布カルマ、C.O.S.A.というスタイルは違えどどれもヘヴィ級のMCたちがその夜の主役、CAMPANELLAの登場を準備していた。もちろんその日のアクトに限らず、現在流通している音源や飛び交う噂だけでも、東海地方にうごめく凶暴でソリッドなうごめきを黙殺するのは不可能になりつつある。

 そして名古屋といえばなにより、2004年に急逝したTOKONA-Xという大き過ぎる存在なくしては語れない。しかしその喪失はすでに、彼の姿を熱っぽく見つめていた若い世代によって埋められつつあるようだ。ATOSONEとDJ BLOCKCHECK主催の不定期開催のパーティ<METHOD MOTEL>は名古屋を中心に東海各県の猛者を集めてぶつかり合わせる地下闘技場としてこのシーンの母胎となった。エクスペリメンタルでレフト・フィールド……だがそれだけじゃなく、叩き上げならではのタフな精神性がある。NEO TOKAIはすでに独自の音楽性と毅然としたアティテュードによって東京や大阪に牙をむく、オルタナティヴ・ヒップホップの音楽的爆心地となっている。

 しかし『PEASTA』はNEO TOKAIというよりももっと濃密な、三人の人間のトライアングルから生まれている。C.O.S.A.のシャウトアウトにも登場する名古屋郊外のベッドタウン、小牧市桃花台。そのニュータウンで生まれ育ったCAMPANELLAはまだ十代半ばで、今回すべてのトラックを手がけたビート・メイカーRAMZAとFREE BABYRONIAの二人と出会った。フライング・ロータスに導かれたINDOPEPSYCHICSの子どもたち。そんな言葉さえ浮かぶインタヴューの通り、アンビエント~ノイズ~エレクトロニカのフィールドでも注目を集める二人の仕事は、既存のヒップホップの枠をはみ出し、だが結局はヒップホップと呼ぶしかない異形の音像でそのアートフォームを更新している。

 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』からアーティスト・ネームを拝借したというCAMPANELLAは2014年のミックステープ『DETOX』では、タイラー・ザ・クリエイターの“ヨンカーズ”とともに、レディオヘッドの“ナショナル・アンセム”もビート・ジャックしていた。強烈な個性のラッパーがひしめくNEO TOKAIにあって、CAMPANELLAが武器にするのはときにナンセンスなユーモアとリリシズム、そしてフリーキーなフロウだ。刺繍作家RISA OGAWAの赤い刺繍糸が印象的な今作のアートワークにはオズの魔法使いやアルチュール・ランボーのコラージュが並び、楽曲にはチリの革命詩人パブロ・ネルーダやイスラムのスーフィズム由来の詩がまぎれこみ、ミュージック・ヴィデオでは花飾りで顔を隠したコンテンポラリー・ダンサーが踊る。

 狂騒のパーティを繰り返したその先、退廃を拒絶し、怠惰を遠ざけるストイックなストリート・マナーは、ポスト・Jディラ的なビート・ミュージックの音楽的実験性と融合し、トラップ以降の享楽主義とはひと味違う、洗練されたアートの花を咲かせている。このフレッシュさは、USヒップホップの最新トレンドの日本的翻訳ではなく、世界中に拡散するヒップホップそれ自体の実験性が、極東の地方都市の歴史の中で独自に進化し、溢れだした結果だ。

                   *

 アルバムの幕開け、タイトル・トラック“PEASTA”。丁寧に音響処理されたブレイク・ビート、綿密に計算されたタイミングでインしてくるピアノ、ベース、ヴォーカリーズ的にたゆたう女の歌声。チリチリとしたノイズが鼓膜の内側の空気の圧まで調整するような繊細さと緊張感を漂わせる。仲間とハニー、すれ違うビッチズ。ドラッグでヨレるヒマはねえ、というルードなストイシズムと、リリックはため息混じり、ビートは日々の意味、と言い切る詩情。次いで“THE HAVIT”は低音を抜かれたドラム・パターンとループする効果音、腹を震わせるベースで軽快に疾走する。クラブは太陽で音楽は月、というリリカルなパンチラインとともに、ノー・ギミック、完全に言いたいことを言う宣言。

 「A Little Wind Cleans the Eyes…」。13世紀のイスラム神秘主義者、ジャラール・ウッディーン・ルーミーの詩「ライク・ディス」の一節を英女優ティルダ・スウィントンが囁く声で始まる“INDIGO”。「グラスに注いだビアみたいな日々」…それを「うたかたの日々 Mood Indigo」とするなら、ここにあるのは衝動まかせに快楽を追いかける青春を飲み干した後の、葛藤と内省の日々のスケッチだ。美しい恋人と愛する音楽、それ以外のものはすべて消え去っていい。そう言い切れる若い勢いを失って、不規則なブレイク・ビートの上を千鳥足で行ったり来たりする言葉。デューク・エリントンの往年の曲によればインディゴはブルーよりも深い憂鬱を意味する。焦燥と苛立ちから自己を解放するまでの自問自答のモノローグ。

 双璧をなす“BIRDS”は、もともとFREE BABYRONIAのビート・テープ『KOMAKI』に収録されていた同タイトルのインストゥルメンタルを再構築し、ラップをくわえたもの。「わたしになりたい」という回帰願望と「あなたになりたい」という変身願望が、アシッド・トリップ的な鳥の目の幻視を通じて結合される。イントロとアウトロ、そしてピアノのブレイクとともに混線するテレグラフは、タイトルの由来であるパブロ・ネルーダの英詩を伝えるゲリラ・レディオ。去年ついに倒れたフィデル・カストロとチェ・ゲバラは、1956年たった12人でシエラ・マエストラに上陸して始まったキューバ革命の途上、夜になると野営地で兵士たちにネルーダの詩を朗読して聴かせたそうだ。
 
 物騒なのは中盤の2曲。前曲からの鳥のさえずりをディープなベースラインとゆったりとしたブレイク・ビートがかき消す“KILLEME”。幻聴かと思うほどかすかに鳴らされるアコースティック・ギター。ドローン的な音像にのせて引き伸ばされ、それでも棘々しく尖る攻撃的な言葉。次は間髪入れずに威嚇射撃のような強烈なスネアが鼓膜を突き刺す“SHOOT-IN”。逃げ遅れた/あえて逃げ出さなかった人間に突きつけられるC.O.S.A.の16小節。ダセえDJ、ダセえMC、セルアウターをまとめてなぎ倒すタフな殺気と、愛やクルーという言葉の裏に貼りつく寂しさと孤独。「みんな違ってみんないい」とお互いの多様性を認め合って仲良くやれればいいのだけれど、このゲームのルールは「白黒以外必要ねえ」。フックで挑発するのはバンダナを顔に巻いたNERO IMAI。オラついた相棒二人のストレートさに煽られても、CAMPANELLAのラップはフリーキーさとナンセンスさを失わない。このあたりは外野がはやし立てる話じゃないから聴きたければ自分の耳で。

 寝静まったベッドタウンで意識を夜間飛行させる“BLACK SUEDE”以降は、“RELAX, BREAK”の言葉通り、アンビエント的なチル感やナーサリー・ライムを織り交ぜながらぐっとピースフルなムードに変化していく。今じゃUSも日本もビーフの勃発やリスペクトの表明はSNS経由で、便利な反面ずいぶん軽くもなったそのやりとりに「写真にいいね押していい気分に浸ると/なぜか遠くなった気がしたストリート」と正直な逡巡を告白する“NINE STORIES”。ぐにゃりと曲げられたギターの音色がブルース・シンガーのように歌う九番目の雲……そんな幸福な一夜の感覚を永遠に引き延ばすような“YUME NO NAKA”。肌寒い夜にコンビニの前で開ける缶ビールとくゆらすウィード。記憶を飛ばすほどの多幸感は暖かなグルーヴのハンド・クラップによるエンディングに着地する。

 スタンド・アローンでラストに待ち受ける圧巻の“OUTRO”は、ずいぶん前に“COLD DRAFT”というタイトルで配信されていた曲をそっけなく改名したもの。冒頭、きらめき陶然と遊んでいたエレピが、最初のキックの音を合図に意志を持って走り出す。フリークアウトする生のベースとRAMZAのマシンの腕が操るドラムによるコズミック・ファンク。仲間と女、背中を押してくれる歓声、それでもけして他人には触れられない影。吐き捨てるライムの怒りと焦燥の矛先はほかでもない自分自身に向けられ、ラッパーであり詩人であるひとりの青年のメンタルの肖像を彫刻する。たんにエモーショナルというのでもない。アルバムで最初にレコーディングされたというこの曲がすべての葛藤と成熟の出発点だ。

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 DJ クラッシュとDJ シャドウが1990年代に世界中にバラまいたビート・ミュージックとしてのヒップホップ、いわゆるアブストラクト・ヒップホップは、それ自体コンペティティヴ(競争的)な独自のバトル・フィールドを構成した。フリースタイルに端を発した去年のラップ・ブーム以降、バトルと言えばMCバトルのみが想起されるような風潮もあるかもしれないが、ヒップホップでコンペティションに晒されるのはラップだけじゃない、ビートもだ。そしてその熾烈なバトルはもちろんラップとビートの間にも勃発する。トラックに対して、インストゥルメンタルとしても通用する、というのはよく言われる褒め言葉だが、もっといえば、突出したビートは生半可なラップを拒絶する。鍛錬と引き換えに獲得した互いの自由と自由がぶつかり合い、挨拶がわりに口にするだけなら簡単な「リスペクト」という言葉の真の対価を要求する。

 ラップとビートの衝突から生まれる先鋭的な音楽的オリジナリティにくわえて印象的なのが、アートワークや楽曲に臆面もなく散りばめられた古今東西の文化的なコラージュ。ドラッグや喧嘩をやっていれば不良で読書やアートにハマっていればオタクで……なにもかもテレビ向けのキャラクター的なストーリーに落としこんでしまう向きにとってはどうか知らないが、無菌室で育ちでもしない限り、人間は薬物や暴力とも文化や知識とも、自分なりの基準で向き合いながらその人格をつくる。誰に媚びる必要も何を恥じる必要もない。トリップの経験だろうが詩だろうが映画だろうが、自分の血肉になったインスピレーションをすべて遠慮なくつむいで創られたこのアートは、どうにも魅力的だ。傷だらけの拳に光るリングや花束に忍ばされたナイフのように、喧嘩腰の啖呵にリリシズムがきらめき、美しい詩に血の味が混じる。

 「これは音楽、輩の手なら届かない」、「言葉で負けた際に出る手」というCAMPANELLAのラップを聴いて思い出したのは、「誰か殴るわけじゃなく歌詞を書く」というC.O.S.A.のいつかのリリックだった。それはアンセムを一緒に歌うとか、コラボするとか、そんなものよりもっと深いレベルでNEO TOKAIの人間たちが共振していることを教えてくれる。知らざあ言って聞かせやしょう、と居並ぶ男たちのケツを蹴り上げていたTOKONA-Xの豪放なメンタルは、彼が知ることのなかった青春の終わりを生き延びた後輩たちによって、強く、しなやかに受け継がれた。若くして倒れた巨大な背中を見ていたキッズたちが成長し、やがてその年齢を追い越したのだ。

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 現在の東海のこの熱は2010年代なかば、「アンダーグラウンド」という言葉を再定義するだろう。2000年代のハスリング・ラップの本格的な台頭以降あいまいになってしまったことだが、本来アンダーグラウンドとは知名度のあるなしとも、アウトロー的な犯罪性とも本質的には関係がない。ストリートのトラブルで負った傷を地上波でふてぶてしく晒すMC漢のスキャンダラスな態度を見ればわかるように、言ってしまえばギャングスタ・ラップとコマーシャルなショウビズとの相性は必ずしも悪くない。

 清貧主義やギャングスタ・メンタリティの根底にあるアンダーグラウンド・ヒップホップの精神性とはなによりも、インディペンデントであることだ。いまじゃ珍しいものではなくなったアーティストによる独自のレーベル運営という意味で日本のシーンにアンダーグラウンドの種をまいたTHA BLUE HERBのBOSS THE MCのかつての言葉を借りれば、それは「レコード会社の奴隷にならず自ら皿を作り/テレビやラジオに利用されずに利用し/自分だけのアイディアで金を作り/責任を持ち/各地にいる同じ志の仲間達と/イカレた音楽をデカイ音でならす」という独立不遜の哲学だ。

 知っての通り、北と東海とのあいだには因縁がある。今でも語りぐさになるほどのインパクトを持ったTHA BLUE HERBに対するTOKONA-Xのディス“EQUIS. EX. X”、あのトラックを提供したのはINDOPEPSYCHICSのD.O.I.だった。それにSLUM RCのコンピレーションに新たな生命を与えたBUSHMINDやDJ HIGHSCHOOL、MASS-HOLE、アルケミストのビート遺伝子が繋げたC.O.S.A.とKID FRESINOの昨夏の『SOMEWHERE』、そしてあの日のWWWのパーティに集結したNEO TOKAIの面々を迎えた東京のアーティストたち……。M.O.S.A.D.に衝撃を受けたかつてのCAMPANELLA少年は、東京のラッパーのCDをすべて売っぱらったらしい。しょうがない。これは生まれや育ちが違う、ともすればそれだけで拳を交える理由になる物騒なカルチャーだ。しかしそもそも名古屋のレジェンドであるTOKONA-Xその人は、少年期に横浜から東海へと流れてきた異人だった。ウータン・クラン由来の筆で描かれたNEO TOKAIの地図は、すでに地理的な環境の制約をはみ出し、都市と都市を越えた力強いユニティを産み出してもいる。

 実際、このアルバムはとても小さなコミュニティから生まれたレフト・フィールドなたたずまいながら、不思議なほど風通しがいい。「PEASTA」というタイトルは、桃花台にあるショッピング・モールの名だそうで、PEACHにFESTAをかけて作られたというなんとも言えないその造語のセンスは、たぶんいまの日本のニュータウン的な地方都市で育った人間にとってはどこか懐かしいものなはずだ。文化資本など一見まるで見当たらない場所に生まれ育ったキッズたちが、自分や仲間の目と耳、腕だけを頼りに創りあげたアウトサイダー・アート。郊外の子ども部屋やモールのたまり場に響く無邪気な笑い声が聴こえてくるようで、リリースからしばらく経ったいまでも何度も聴き返してしまう。

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 ここ最近熱っぽく口にされる日本のヒップホップの夜明け……やっと朝がきたのだとすればここ10年ほどは夜だったということだろう。だがその長い夜の時代、ひときわ光の射さない地方都市で鍛えられた言葉と音、そして耳は、あらゆる熱狂に浮つきはしない。去年はさんピンCAMPから20年ということで、その黄金時代の思い出が口々に語られたけれど、あの日凄まじいステージングを見せたという弱冠17歳のTOKONA-XとDJ刃頭の姿はその後の映像作品からは完全にカットされている。同じくさんピン以降の東京に敵対心むき出しで登場したTHA BLUE HERBにせよ、日本の地方都市には熱に沸く中央に冷水を浴びせ、強烈なオルタナティヴを突きつける伝統的なマナーがある。

 「オルタナティヴ・ヒップホップなんてものは存在しない。なぜならヒップホップの唯一のオルタナティヴとして知られているのは完全な沈黙だけなのだから(There’s no such thing as Alternative Hip hop Because the only known Alternative to Hip hop is dead silence)」。スワヒリ語で「鳥のように自由」という意味の名を持つミシェル・ンデゲオチェロのファースト・アルバムのインナースリーヴにはそんな書き出しで始まる檄文が刻まれている。「オルタナティヴ」という言葉が切実に求められるのは必ず、ある文化がメイン・ストリームに溢れだし、バブルのように巨大化するときだ。しかし、ヒップホップはオルタナティヴの存在を認めず、対抗的なエネルギーをあくまでその内部に抱えこむ……それじゃヒップホップって?

 バイセクシャルであり、コンシャスなアクティヴィストであり、そして異彩のグルーヴを生み出すベーシスト/コンポーザー/シンガー/ラッパーであるンデゲオチェロの痛烈な檄文は、オルタナティヴ・ヒップホップの存在否定というよりも、むしろ本来オルタナティヴという名で呼ばれるものこそが真にヒップホップの名に値するのだ、と言わんばかりに、次のように締めくくられる。つまりヒップホップとは、「デジタルにグラインドされ、テクノ・モルヒネを生み出すジェームズ・ブラウンの骨盤」……「最高にぶっ飛んでいるときの感覚喪失に対する唯一の解毒剤」……なによりそれは「ドープ認識学/ドープノロジー(DOPE-KNOW-LOGY)」である、と。

 なるほど。たとえ誰もが動画やサイトのヴュー数、視聴率とセールスばかりに目を奪われていたとしても、ヒップホップ・サイエンスの審美眼はいつだってシンプルきわまりない。それは誰が一等ドープかを知るための科学(DOPE-KNOW-LOGY)だ。あらゆるライムとビートはオルタナティヴという冠に満足せず、あくまで文化の正統な後継者の地位を要求する。オルタナティヴ・ヒップホップが存在するとすれば、それは商品ラベルに書きこまれるジャンル名なんかじゃなく、現状の秩序を転覆(Revolve)しようとする、そのエネルギーのことだ。

 CAMPANELLAはつい先日JJJプロデュースでEGO WRAPPINの中納良恵とのジョイント曲“PELNOD”をリリースし、シーンの重鎮YUKSTA-ILLは待望のフル・アルバム『NEO TOKAI ON THE LINE』をドロップ、さらにはMC KHAZZの新譜も予告されている。2017年もNEO TOKAIからの轟音は止みそうにない。ここには確かに、馴れ合いも、ましてや沈黙も拒否する言葉と音がある。なにがドープか知っている人間は、東海の地殻変動からけして目を離せないはずだ。

泉智