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「認識のバイアス」が、近年、エレクトロニック・ミュージックの世界において地殻変動の只中にある。ビート、ベース、電子音、ノイズ、ヴォイス、サウンド。さまざまなサウンドが相互に浸透しあい、混じり合い、基調となる部分を融解し、振動し、浮遊している。いわゆる「ジャンル」が失効し無効になり、新しい「括り」が蠢き始める。じっさい、あるダンス・ミュージックは都市の猥雑なストリートで鳴っているだろうし、正反対に小奇麗なアートスペースで鳴っているものもあるだろう。クラシックの劇場でも鳴ってもいるものもあるだろうし、フロアで鳴っているものもあるだろう。インターネット上のクラウドでシェアされてもいるだろう。
その共通感覚・イメージが拡散するような状況は、世界の無意識が変化しつつあることも体現している。共通するイメージに括れない状況/状態への生成変化。そして音楽は、いつも世界の無意識を表象するものだ。ジャンル、形式、演奏、黒人、白人、アジア人、女性、男性、国境、時間など、20世紀であればそれぞれのアイディンティティを示していたものの領域が融解し、変化し、認識の仕方を変えてしまう(それゆえのバックラッシュも起きる)。グローバリズム化ゆえの変化? あらゆる音楽が出尽くしたから? インターネットが世界と人間を覆いつくしたから? 新たな差異の表面化?
むろん、そのどれもが当てはまるだろう。が、重要なことは「共有するイメージ」がもろもろの状況へと拡散した結果、感覚的なものが「残滓」のように漂ってきた点にある。例えば2010年代のインダストリアル/テクノは世界の荒廃をイメージした。そして、「個人」の匿名性は「荒廃」のイメージの中に消失した(ように思える)。そして「荒廃」というダークで感覚的なものの「残滓」になった。その「残滓」が現代のアンビエンスではないかと思う。現に世界は荒廃している。荒廃とは残滓の集積だ。
アクトレス=ダレン・J・カニンガムのサウンドは、そのような「融解」と「荒廃」のサウンドトラックである。彼の音楽はエレクトロニック・ミュージックだが一定のイメージに固定していない。デトロイト・テクノ、ダブステップ、インダストリアル、ブラック・ミュージックなど、それぞれのジャンル、形式、さらにはネイション、ステートにも依拠せず、かといって宇宙などのイメージに飛翔するわけでもなく、ただ、ここにある「世界」と「インナースペース」の両極で鳴っている。だが、この「世界」の「荒廃」のムード(だけ)は確実に感じる。そう、「ジャンル」ではなく「ムード」を共有する感覚を得ること。それこそ10年代的な音楽感覚といえるのかもしれない。
その意味で2010年のセカンド・アルバム『スプラッシュ』、続編的な2012年の『R.I.P』よりも、2008年のファースト・アルバム『ヘイジーヴィル』、そして2014年の『ゲットーヴィル』の方が、インダストリアル/テクノの状況を予言した(その衰退も含めて)先駆的なアルバムであったといえるのではないか。特に『ゲットーヴィル』は、リリース当時の評価は賛否があったと記憶しているが、発表後3年経ったいまだからこそ、2010年代のインダストリアル/テクノにおいて重要かつ先駆的なアルバムだったとわかるはずだ。
3年ぶりの新作『AZD』もまた、『ヘイジーヴィル』、『ゲットーヴィル』に連なるSF的なイメージを展開している。いわば「アンドロイド/ポスト・ヒューマン」的な未来世界観である。酸性雨のムードに満ちた『ゲットーヴィル』から、人間以降の未来世界的な『AZD』へ?
この“X22RME”を聴けばわかるが、本作ではデトロイト・テクノ、エレクトロ的なルーツが全面化しつつも、ビートがトラックの中心となるわけではなく、まるで環境音のひとつとして、いくつものノイズや電子音のなかに、シンプルに、スタティックに、ミニマルに鳴り続けている。ジューク/フットワーク、さらにはゴムなどに代表されるように近年のダンス・ミュージックが、ビートの輪郭線が強くなっていることを踏まえると(欧米圏以外のダンス・ミュージックがネット環境とともに知られてきたからこその現象だろう)、これは異例の事態といえる。
言い換えれば、アクトレスは、テクノにおけるビートの意味性を問い直すかのようにトラックメイクしているのだ。ビートを否定しているわけではない。ビートとサウンドが、「環境」のように鳴り響くのだ。ここでも音楽の共通イメージがズラされ、ひとつの音楽的ジャンルに収まっていない。
だからこそ、私には、アルバムを締め括るラスト3曲、アンビエントでビートレスな“フォーレ・イン・クローム”、ビートとサウンドによるサウンドスケープを形成する“ゼアズ・アン・エンジェル・イン・ザ・シャワー”、そして“ビザ”がひときわ重要なトラックに思えるのだ。ここにはアクトレス特有の湿った「荒廃」のアンビエンスがある。それはまるで工業地帯に降り注ぐ雨のようなエレクトロニック・ブルースのようにも思えたし、無機質なホワイトキューブに鳴っているサウンド・アートのようにも思えた。ここでも「認識のバイアス」が融解し、サウンドの「残滓」が漂っているのである。
デンシノオト