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The Lemon Twigs

Power PopRock

The Lemon Twigs

Go To School

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柴崎祐二   Sep 20,2018 UP
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 「ロック・オペラ」は、これまでの長い間、「良心的な」音楽ファンから「最もオルタナティヴでない」もののひとつと目されてきた。
 この形態の発端となったザ・フーの『トミー』(69年)(萌芽としてはその前々作にあたる『ア・クイック・ワン』(66年)収録の組曲“ア・クイック・ワン ホワイル・ヒーズ・アウェイ”を端緒とする)は、ビートルズが打ち出したコンセプト・アルバムという概念を最大増幅させたものであり、元をただすならば、それまでのシングル~EPメディア中心のリリース形態に反駁するという(ヒップな)企図があったわけだが、コンセプト・アルバムの一般化とともに、そのコンセプト・アルバム性を拡大貫徹しようとした「ロック・オペラ」という形態が、却って大作主義的仰々しさの化身として弾劾されるようになっていく。
 ザ・フーやキンクスといったバンドが手がけた本格的かつ先駆的なものから、デヴィッド・ボウイ、トッド・ラングレン、ウィングス、クイーンなど、要素としての歌劇性を取り入れたアルバムまで広範囲に「ロック・オペラ」の要素と成果を見出すことができるが、しかしながら、元来「ロック・オペラ」に胚胎された大作主義的な心性それ自体が暴走/繚乱するようにして後には形式主義的な傾向が主たる流れになっていってしまったのだ。いつしか「ロック・オペラ」の主たる担い手は、必然的に、いわゆるプログレッシヴ・ロックと呼ばれる音楽を演奏する一団、例えばジェストロ・タル、ピンク・フロイド、ジェネシスなど、あるいはハードロック~ヘヴィ・メタルと呼ばれる音楽を演奏する一団、例えばクイーンズライクやドリームシアターといった者たちに受け継がれていったのだった。これでは控えめに見ても「オルタナティヴ」な状況とは言えない。

 ロック・バンド:ザ・レモン・ツイッグスは、周知の通り非常に若い(二十歳そこそこ)ブライアンとマイケルのダダリオ兄弟による音楽活動時の別名である。70年代から活動するミュージシャンのロニー・ダダリオを父に持ち、かつて女優活動をおこなっていたというスーザン・ホールの間に生まれた彼らは、その所与の文化資本力を天真爛漫に見せつけた2016年のファースト・アルバム『ドゥ・ハリウッド』で、世の者たちに少なくない衝撃を与えた。その衝撃の主な内容は「今の時代にこんな〈まっとうなロック〉を素晴らしい完成度で実現する若者がいるなんて!」という、懐古主義傾向を普段恥じらいながらもどうしても「あの頃」のパッションに懐かしむ/憧れる、年寄り/若者たちからの感嘆だった。昨年のフジロック・フェスティバルでのライヴ・パフォーマンスに浴すことのできた私も、やはりその感嘆を強くもったひとりだ。しかしながら昨今では、この種の感嘆は、その懐古風の音楽自体の批評性を議論するという地平の前に、旺盛な持続力に欠けることも、感嘆をしているその人自身も気づいてしまっているのだ。だからこそ、その感嘆のエンジンに給油をしてくれるようだったEP「ブラザーズ・オブ・デストラクション」に一応満足しつつも、つづいて来るべきセカンド・アルバムがどんな内容になるかを(お節介ながら少し心配しながら)期待していた。

 まさか、この30数年前に(批評的地平からは)葬り去られたはずの、大作主義の権化たるあの「ロック・オペラ」に彼らが挑戦するなんて、という喫驚とともに、なんとなく得心もしてしまったのだが、その実、本作『ゴー・トゥ・スクール』は期待以上に素晴らしいアルバムだ。
 コンセプト、意匠としては従来の「ロック・オペラ」に蓄積された成果をもちろんながら踏襲し、ロック・ミュージック黄金期に充満していたエネルギーを(複写的手法を用いるときに生じる熱量の減退という問題を巧みに避けながら)存分に発散している。次々とものすごいスピード感で去来する音楽要素の入り乱れは、これまでに増してスリリングで、耳を通り過ぎるその要素を書き出すなら、ローリング・ストーンズ、ビッグ・スター(唯一生存するオリジナル・メンバーであるジョディ・スティーブンスが実際に録音へ参加している!)、キンクス、トッド・ラングレン(実際に録音へ参加している!)~ユートピア、ポール・マッカートニー、ヴァン・ダイク・パークス、ニルソン、アラン・パーソンズ・プロジェクト、ミートローフ、ルー・リード、デヴィッド・ボウイ、セイラー、10cc、続く続く続く……という感じで、まさにレファレンスの洪水という印象を抱かせる。しかしながら、これまでにあったような、ガレージでダッド・ロック(お父さん世代のロック)に戯れるような内向性が薄らぎ、それよりもむしろ、聴衆と観客を予め想定したような強固な作品外郭を感じさせるものになっている。また重要なのは、曲から曲へと、あるいは曲内で矢継ぎ早に要素が用いられ、こね合わされ、昇華され、吹き飛ばされていく、その異様な加速感であろう。くるくると出し物が入れ替わるミュージック・ホールでの風景のように、様々なクリシェ的音色が飛び、過ぎ去っていく。この加速的快感は、昨今注目されるようなシンギュラリティに至ろうとする破壊的な加速主義的な心性では決してなく、むしろかつての未来派的=(男児好きのする)流線型主義のようなものに親和性のあるものなのではないだろうか。速くて、大きくて、鮮やかで、甘くて、パワフルでポップなものが大好きな兄弟が、めちゃくちゃ楽しそうに音楽で遊んでいる。それもとても綿密に。
 だから、このアルバムは、ティーニーボッパーな世界への反抗として無理をしてしかめ面をしてみせたような(だから今古びてしまったように思われる)かつての「ロック・オペラ」とは決定的に異なっている。むしろティーニーボッパー的心性を極めて制御的に(けれど異常に素早く)再構築した、「ロック・オペラ〈的〉パワー・ポップ」であると言えよう。成長しつつある知性と肉体は、かならずしも難解なテクストの構築に向かわなくても良いのだ。ジュヴナイルの完成度を高めるために向かってもいいじゃないか。すくなくとも、ロックっていうのは最初そういう音楽だったはずなのだし。

 純真な心を持つ(自らを人間だと思いこんでいる)チンパンジーのシェーンが主人公となるトラジディは、その切なさと寄る辺なさにおいて非常な輝きを発揮しているが、アウトサイダーが周囲との軋轢と相克に苦悶するという『トミー』~『ジギー・スターダスト』~『ザ・ウォール』と続く伝統を踏まえながらも、それらかつての作品群に見られるような、社会への湿り気のあるアンチヒーロー的懐疑/呪詛といったものがない。学校に放火するような野放図な行動も描かれるが、むしろここにあるのは、繰り返し(ときにコピーを重ねすぎて異様な形で)描かれてきた、郊外のアメリカン・ユース・カルチャーに取り付く気の抜けたソフト・ドリンクのように不気味に甘いゴシカルな気配である。
 描かれる風景がどんなに破滅的だろうと(シェーンが憧れの女子生徒から性の慰みものにされ打ちひしがれる場面など、とてもショッキングだ)、愛の救済と承認(「もしも愛があれば違っていたのに」という形だろうと)が意外なほどまでの素直さによって称揚されることに見て取れるのは、かつての「ロック・オペラ」が(無意識にでも)不器用に主題に取り入れていた自己とそれ以外の対峙と不安という大上段のテーマ性とは異なる、あくまで私的で、同時に、ある意味で未成熟な地平だろう。そして、それでいいのだと思う。いやむしろ、そうあってくれてよかった。ダダリオ兄弟が今こうやって(古色蒼然とした)「ロック・オペラ」という形を無邪気に担ぎ出したのは、彼らがどんなにかつての黄金期ロック・ミュージックの伝統を吸収していようと、逆説的に彼らの歴史意識がロックの歴史から断絶した存在であることを言い表しているし、また、その断絶は彼らの瑞々しさと若々しさを純粋に我々に提示してくれるための「才能の囲い」の役割もしばらくは果たしてくれるだろうから。
 次もまた、「ロック・オペラ」を墓場から引きずり出したように、ロックの亡霊、例えば「ブルース・ロック」あたりに挑戦してもらいたいものである。それはきっとまたしても好ましい成果になるだろう。


柴崎祐二