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岡田拓郎

ExperimentalJazz

岡田拓郎

Betsu No Jilkan

Newwhere

細田成嗣 Oct 20,2022 UP
E王

 先日、とあるミュージシャンがSNSから距離を取り、ライヴの告知を短いラジオのような音声データで配信していることを知った。早速耳にしてみると、しんと静まり返った場所で微かな虫の音とともに、落ち着いたトーンで訥々と間を空けながら語りかける様子が、まるでそのミュージシャンの即興演奏そのものであるようにも響き、わずか10分だが気づけばじっくりと聴き入ってしまっていた。ライヴの告知なのだから音声の内容を手早く知りたければ倍速で流すこともできる。だがわたしは、その音声を倍速で聴こうとは露ほども思わず、むしろ流れる時間に身を委ね、運ばれるがままに任せていた。それは没入感やASMR的な心地よさと似ているようで異なる、いわば時間そのものの体験とでもいうべきものだった。あたかも没入と離脱の両方に開かれたアンビエント・ミュージックのようでもある──わたしたちは多くの場合、それを倍速で聴こうとはしない。音楽をどのように聴くかは聴き手の全き自由だが、倍速にした際に抜け落ちてしまうもの、別様に変化してしまうものがあるのもまた事実だ。メロディや歌詞、コード進行、リズム・パターンなど、形象化し得る情報はある程度速度を変えても同じように取得できる。他方で引き伸ばされた低速度の時間を聴かせるアンビエント・ミュージックは、倍速にした途端にその本質をごっそりと失ってしまう。10分という時間を体験するためにはまさしく10分の物理的時間が必要なのである。ある種の音楽では、音を媒介することによってこのような時間そのものの体験を聴き手にもたらす。それは日常生活に流れる時間を別の時間へと置き換えることとも言い換えられるだろうか──。

 ソングライター/ギタリスト/プロデューサーの岡田拓郎が未曾有のジャズ・アルバム『Betsu No Jikan』を完成させた。むろんジャズといってもいわゆるストレートアヘッドな4ビートのそれではない。だが9月27日に渋谷WWWで開催された特別編成でのリリース記念ライヴを観ても感じたが、ジャズの傍流に位置付けられてきたフリー~スピリチュアル~アンビエントの系譜──奇しくもその3日前に他界したファラオ・サンダースが生涯を通じて歩んだ足跡とも幾ばくか重なる──を、日本のフリー・ジャズから音響系までを踏まえたうえで、岡田流のポップス的感性でアップデートしているように聴こえたのだ。そう、岡田はまずもってポップス的感性を持ち合わせたミュージシャンであった。テン年代前半はバンド・森は生きているではっぴいえんど以降の日本語ロックに新たなページを刻み、バンド解散後はソロ名義で『ノスタルジア』(2017年)および『Morning Sun』(2020年)と、あくまでも歌およびポップ・ソングを中心とした作品をリリースしてきた。だが同時に彼はこうしたポップ・ミュージックと並行して、即興/ノイズ/アンビエントの文脈でも先鋭的な音楽を制作し続けてきた人物である。森は生きているとして活動する傍ら、フルート奏者/作曲家の池田若菜率いる即興トリオ・發展に参加し、同時期に即興的な魅力に溢れたソロ・ギター作『Lonerism Blues』(2014年)を発表。エレクトロニクス/コンポーザーの duenn とはドローン・アルバム『無常』(2016年)およびアンビエント/環境音楽作品の『都市計画』(2020年)を共作し、自身の bandcamp ではとりわけコロナ禍以降、実験的なソロ作品を精力的にリリースしてきている。なかでも昨年はレコーディングから公開までわずか半日で仕上げた、しかしながら奇跡的なまでに高いクオリティを誇る傑作フリー・インプロヴィゼーション作品『Guitar Solos』が少なくないリスナーの度肝を抜いたことだろう。

 そのような岡田拓郎のポップス的感性と実験精神がジャズのムードを纏いながら極上のサウンドへと結実したのが本盤『Betsu No Jikan』である。『Morning Sun』から数えると約2年ぶりのアルバムであるが、すでに述べたようにこの間にも bandcamp で複数のソロ作をリリースしている。制作に約2年を費やし、多数のゲストを交え、録音上の編集を巧みに施した本盤は、制作期間半日・ソロ・一発録音の『Guitar Solos』と好対照を成すアルバムでもある。本盤では、岡田を除いて唯一全楽曲に参加している打楽器奏者・石若駿との即興演奏を主な素材としつつ、他のゲスト・ミュージシャンの録音を交え、マイルス・デイヴィス=テオ・マセロ流の編集作業を経て、いわば想像上のアンサンブルへと編み上げられた。

 ジョン・コルトレーンの名曲 “A Love Supreme” の大胆なアレンジとなった1曲目では、折に触れて同楽曲のテーマをセッションの中で吹いてきたサックス奏者サム・ゲンデルが客演し、柔らかなシンセやサックスの響きと祝祭的な打楽器のグルーヴ、そして水音や鳥の声を彷彿させる音などが渦を巻くように絡み合う。続く2曲目 “Moons” は収録楽曲中唯一の歌ものである。とはいえ囁く歌声は前面に出るというより全体のサウンドに浸透し、谷口雄の煌びやかなピアノや細野晴臣のリズミカルなログ・ドラムと交わってミニマルな反復感を生み出していく。3曲目 “Sand” は岡田と石若のデュオだが多重録音によって万華鏡のような豊かな音のバリエーションと変化を聴かせる。アルト・サックスで大久保淳也、ベースでマーティ・ホロベックが参加したカルテット編成の4曲目 “If Sea Could Sing” は、あたかも森の樹々が風に吹かれてざわめくように音を鳴らし、スピリチュアルかつアンビエントな静けさを醸し出す。アルバム制作の起点になった楽曲でもある次の5曲目 “Reflections / Entering #3” はこれまでのゲストに加え、ネルス・クライン(g)、ジム・オルーク(b, synth)、ダニエル・クオン(vln)、山田光(as)、香田悠真(cello)、カルロス・ニーニョ(perc)、増村和彦(perc)と、総勢12名が参加した10分にのぼる大作だ。その人数に比して前半はむしろ離散的な音の響きが空間性豊かな落ち着きを生み、シンバルの降り注ぐパルスやサイン波のような持続音が張り詰めた空気を奏でると、一転して後半では高速ドラミングを基調としたサウンドに変化し、アルバムで白眉と言っていい苛烈なカオティックさへと至る。そして最後の6曲目 “Deep River” ではピアノの伴奏に乗せて、他の楽曲とは打って変わってヴィブラートを強調した大久保のサックスが宇宙の癒しと交信するように地を揺らすと、ゆったりとしたビートでモンド・ミュージック風の合奏がはじまっていく。

 “Deep River” の震えるサックスが出現したとき、真っ先に想起したのはアルバート・アイラーの慈愛に満ちた叫びだった。収録された楽曲は岡田と大久保によるオリジナル曲だが、“Deep River” といえばアイラーが非破壊的な郷愁を誘うサウンドで吹き込んだ黒人霊歌の曲名でもある。その意味で『Betsu No Jikan』は単にジャズ的なムードを漂わせているだけでなく、コルトレーンからはじまりファラオ・サンダースを経由してアイラーへと至る、父・子・精霊のジャズの三位一体がアルバムを通じたひとつのモチーフとなっているとも言える。ただしそこで基層を成す即興演奏は通常のジャズにおけるような、共有されているフォーマットからの逸脱やその変形ではない。むしろ即興演奏それ自体がフォルムを生み出すフリー・インプロヴィゼーションに近しいあり方をしている。だがさらに言うなら、音を演奏家のコントロール下に置くことでフォルムを生み出し、あるいはコミュニケーションを図ろうとすることとも異なっている。ここには音をあるがままとするような特異な即興演奏の捉え方がある。岡田はそれを次のように説明していた。

音楽というものが、水とか風とか葉っぱが揺らぐような自然の音……人が手を加えていない、自然がそのまま鳴っている音のような状態になればいいなというのはずっと考えていることで。今回の制作におけるインプロビゼーションというのは、そういう音を発生させる装置という側面で考えていたように思います
(「岡田拓郎、〈言語〉と〈編集〉の先の音楽を追い求めて──『Betsu No Jikan』をめぐるロングインタビュー」)

 「自然の音」を発生させる装置としての即興演奏。するとここでは即興演奏を録音することが、「自然の音」のドキュメント、すなわちあたかもフィールド・レコーディングのように捉えられているとも言える。演奏家がどのような音を発するかということと同等かそれ以上に、発された音をどのように聴き取るかという耳の視点が創作上の要点となっているのである。あるいは録音によって時間を音楽化する行為に焦点が当てられていると言ってもいい──フィールド・レコーディングとは音を記録する以前にまずもって時間を切り出す手段であるからだ。そのようにして収集された無数の「自然の音≒即興演奏」が、本盤では多層的に重ねられ切り貼りや加工が施されながらも、まるで全体が「自然の音≒即興演奏」でもあるかのようにより大きなひとつの時間の流れを生み出している。それは倍速の欲望を喚起する類の時間とはほとんど対極にある、風景としての音楽にも似た可聴化された時間の流れである。ならばわたしたちが本盤を再生するとき、そこには単に興味深い響きが現れるだけでなく、それまで流れていた日常生活の時間が丸ごと別の時間へと置き換えられてしまうのだとも言えるだろう。それが音響結果を付帯的なものとする実験音楽ではなく、あくまでもポップス的感性に根差した岡田流のジャズ・サウンドで提示されていることも付け加えておかねばならない。

細田成嗣