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Book Reviews

磯部 涼 (編著)

磯部 涼 (編著)

踊ってはいけない国、日本 ――風営法問題と過剰規制される社会

河出書房新社

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橋元優歩   Oct 10,2012 UP
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 いつそれが「わたしの問題」になってくるのか、ひとまずクラブなどの与える恩恵に浴してこなかった筆者にはそこが問題である。同じような距離感でこの一連の騒動を眺めているかたには、この本は手頃なガイドになるだろう。たとえばこのことが「クラブが警察によって取り締まりを受けている」という事実描写にとどまるかぎり、筆者にとっては対岸の火事である。しかし「踊ると取り締まりの対象になるらしいよ?」という言い方になれば話は別だ。それはクラブに通う通わないを問わず、踊る踊らないということすらこえかねない種類の問題へと拡大される。またここに「何のために取り締まるのか」「そもそもそれで誰が得を?」というような視点が加われば、思いがけない角度から危惧を感じることにもなるだろう。この本はそのようにさまざまな視点と経路をとりながら、ダンス規制法としての風営法やクラブ閉鎖問題が「いつわたしの問題になるのか」を考える手がかりを与えてくれる。

 宮台真司はまずクラブという場所が持つ意味を語り直す。かつてほとんど同内容の証言を野田努から得たのだが、筆者をふくめかなり多くの人がクラブとディスコのイメージを混同していないだろうか。宮台は両者をハレとケとで分類し、ケとしてのクラブの意義を強調する。そこは素の自分を出してリラックスできる居場所であったとして「善の場所」と回顧され、クラブの持っていた包摂的な機能が指摘されている。何千人で盛り上がるレイヴに対し、10人ほどの音楽鑑賞会的な集まりを思い浮かべれば、おのずとダンスのイメージも多重化するだろう。それをすべて犯罪の温床であるかのように見倣すのはかなり無理がある。

 いっぽうで、そもそもダンスというものが人間の生の営みのなかでどのような役割を果たすものであるかという原理的な問いからこの問題を観察しているのが、佐々木中や千葉雅也らである。彼らの述べていることは同じではないが、ダンスを大きく生の比喩としてとらえようとするところには共通するものがある。無理に要約するならば、そこでは生というものの本質が、何らかの型へと押し込まれ飼いならされていくことに抗おうとする運動としてとらえられ、ダンスも同様にイメージされている。またそれぞれに、風営法は憲法違反だとしたり、法の有効な誤読をうながしたりと、大本の枠組を読み換えようとするアイディアにも通じるところがある。

 ダンス=生=反抗といった感覚はよく理解できるものだが、佐々木においてはそうした図式がややロマンチックに用いられすぎている印象がある。アメノウズメノミコトが世界に朝を取り戻したように、はたしてわれわれは踊りつづけることで(日本の)夜明けを迎えることができるのか。ただ生きていることがすなわちダンスであるとしながら、ここでいわれるダンスとは、反抗であり戦いであり、つまりはただ息をしているという意味での生とは釣り合わない、とてもレベルの高いものであるようにみえる。クラブで日夜おこなわれているダンスは、実際、その意味でのダンスを担えるものなのか。そしてそうではないダンス(=戦わない生――戦わないということ自体が生と矛盾するため、このような表現はナンセンスということになるだろうが――)の、おそらくは数多に及ぶ存在は、氏によってどのように評価されるのか。筆者にはそのへんがよくわからなかった。また、ロベスピエールのギロチンの犠牲者たちのためにも生存権は守られるべきだという主張はもっともだが、だから風営法を見直しましょうというのは現実を動かすためにはやはり難度の高いロジックであり、そうした難度が、ここでは生の概念や一連の論旨をむしろ耽美的で虚無的なものへと転換してしまうように感じた。

 対して千葉はマイナーな生への寛容さをうながす意味でこうした法規制の批判を展開する。「性道徳の紊乱と奔放な射幸心を生じやすい為にこれを規制し」という驚くべき規制理由を引用しながら、なぜ「奔放な射幸心を生じ」てはいけないのかと問い返し、多くの人が法を内面化したがるメカニズムや、享楽性が不可解なまでに忌避されてしまう現象について考察し、強まりつつある「アンチ不道徳」な風潮を危ぶむ。これは宮台とモーリー・ロバートソンの対談でもひとつの焦点となっていた、誤ったクリーン志向を危惧する視点に通じるものである。「危険なものを目に見えない場所へと排除することで、本当に危険なものは地下にもぐり、いたちごっこのように規制は強化され、警察の権益も増す」といった状況を危険視するこうした指摘は、松沢呉一など、おもに風俗産業と風営法との歴史を追うルポルタージュにも繰り返されているほか、この本の秀逸な帯文「健全で清潔な社会は好きですか?」にも色濃く、この本の大きなテーマのひとつであることがわかる。

 このように、法による過剰規制をめぐる原理的な問いとして、クラブ規制問題が抽象化されれば、筆者にとってはもっとも理解しやすく興味深いところとなる。他方で、法改正やリアルなクラブ経営のための実地な取り組みとして、この問題にどう効率的なアクションを起こせるかという点から明快な提案を行う津田大介の話もおもしろかった。坂口恭平の「クラブへの金本位制導入」といったいたずらっぽいプレゼンテーションもキュートな感じの印象で彩りを添えている。

 とはいえ、風営法やクラブ規制問題について切実な利害関係を持たない筆者にとって、一連の議論は、知的な好奇心を刺激する以上のなにものかではない。それは論者の問題ではなく筆者の問題である。考えれば考えるほど、知的な興味関心以上に自分に関わってくるところを想像できず、またその点によってこそそれは切実な「わたしの問題」となって立ち現れてくるように感じられる。筆者にとってこの問題との唯一の接点であり、つらい部分でもあるのは、これらクラブ規制問題のまわりには、それと無関係でいることを許さない空気が生まれてしまうことだ。

 じつは「レッツ・ダンス」という署名運動に流れで署名してしまったことをとても後悔している。無論、この署名活動自体はまじめな取り組みであり、運動の側にまったく非があるわけではない。悪いのは自分で、「書いて」と言われて断れずになんとなく書いてしまった自分のなさがほとほと情けなくいやなのである。あのとき自分は必ずしも署名したいわけではなかった。だがこの取り組みにおいて掲げられている「表現の自由を守る」という題目の威力には、どこか思考する前に屈服させられるようなところがあって、訴えられている内容自体に何の異論もなくとも、自分の意思でないものに腕をつかまれて署名を行ってしまったというような、いかんともしがたい違和感と自身の空虚さへの嫌悪がつのり、自分のなかに変な後味を残したのだ。

 断る理由は本当にない。筆者はもとより「表現の自由」を侵す取り決めに対して不快を示すものである。それは守られるべき(というかただ行使すべきものだとも思うが......)権利であると認めるし、筆者自身の表現活動が何らかのかたちで取り締まられれば不当だと感じるだろう。しかしこのことを切実な問題としない第三者にあえて意思表示を求めたり、こちらの考え方を強要したりするつもりはない。同様に、自分が本当に理解し、愛しているわけではないかもしれない事柄について、つまりその責任をとれるかどうかわからないレベルの事柄について、不正直な協力をしたくないと思う。真剣にクラブを、ひいては生や自由を守り、不穏な権益の増大を抑制し、あるいは社会の成熟を企図し、あるべき共同体の姿を模索し、といった取り組みをおこなう人には、自分自身も恥じるところのない態度で向かいあいたいという気持ちがある。

 それが余計な、誰の得にもならない考えだったにしろ、だったらそういうつまらなさ、超マイナーなあり方を許してもらうことはできないだろうか。許してもらうべく自身の態度を決することができなかったことを恥じている。もしかするとくだらなく感じられることかもしれないが、それは筆者にとってこの問題と誠実に向かいあうための唯一のつながりである。自由という理念の、というか、自由ということが理念になるときに生じる抑圧的な力が、いまより大きくこの問題の周辺にあらわれてくることがあれば、筆者は当事者としてあらためて向かいあいたいと思う。

橋元優歩