Home >  Reviews >  Book Reviews > 酒井隆史- 暴力の哲学

Book Reviews

酒井隆史

酒井隆史

暴力の哲学

河出書房新社

Amazon

野田努   Feb 09,2016 UP
このエントリーをはてなブックマークに追加

 ドラッグ中毒者というのは、なにか手に負えない危害を与えているのでなければ、基本、欧米では悪人ではなく病人として認識される。そして人が病人にならないためにも、まずはそれに関する知識の共有をうながそうとする。それがジャーナリズムというもので、日本はいつまで経ってももっとも重要であるはずの情報の共有を拒んでいる。これと同じように、ただ暴力を拒み、いっぽう的に暴力/反暴力という二元論でしか見れないうちは暴力はなくならないと、酒井隆史の『暴力の哲学』は勇気を持ってきわどい主題に切り込んでいく。2004年に刊行された本だが、去る1月に文庫化された。数年ぶりに読み返してみると、とくに前半が面白い。せっかくなので、そのいくつかについて書いてみる。
 暴力と括られるものの内側から、著者は、マーティン・ルーサー・キング牧師、フランツ・ファノン、マルコムX、ブラック・パンサー党らの思想の断片を並べながら、反暴力を導き出そうとする。まずはその手始めに、トゥパック主演のギャングスタ映画『Juice』(1992年)とパリ郊外の移民を描いた『憎しみ』(1996年)──あるいは『シティ・オブ・ゴッド』(2003年)──を紹介する。これら「アンダークラスの若者をめぐる暴力の物語」すなわちゲットーにおいてエスカレートする暴力の物語の背景には、もちろん90年代以降のネオリベラルなグローバリゼージョンがあるわけだが、『Juice』と『憎しみ』に共通して描かれているのは、「単純に道徳的に暴力を拒絶」するのではなく、「むしろ暴力をぎりぎりにまで内在して」「そのうえで暴力的な状況をなんとか乗り越え」ようとすることである。
 『Juice』の結末でトゥパック演じる主人公ビショップに対抗するQが、銃こそ放棄するものの、しかし本質的な意味において戦いを放棄してはいない、いや、それどころかギャング同士の殺し合い、ある種の「エディプス的ゲーム」を終わらせ、やられたら同じようにやり返せではない、そしてなにか別の次元の戦いへと移行させようとするのではないか……という指摘はじつに興味深く、それはなぜ直接行動やデモが必要なのかという根源的な問いに対するキング牧師の次の回答へと連なっていく。

  なぜ交渉というもっと良い手段があるのに、直接行動やデモをするのか、こうした問いに対してキング牧師は「非暴力的直接行動のねらいは、話し合いを絶えず拒んできた地域社会に、どうでも争点と対決せざるえないような危機感と緊張をつくりだそうとする」ものであり、「もはや無視できないように、争点を劇的に盛り上げようとするもの」だと答えている。     ──マーティン・ルーサー・キング(本書より)

 もちろん暴力は、ときにナルシスティックに陶酔できるものでもあり、短絡的にまとめてしまうことはリスキーこのうえない。そもそも本書は初版が刊行されたときから、実際さまざまな反論や疑問を喚起してきてもいる。〝暴力〟と言われただけで、敬遠してしまう人もいるだろう。ぼくも正直、マッチョな文化は得意ではない。あるいはまた、ブラック・ミュージックのメロウなところだけをすくい上げるのも悪くはない。
 だがしかし、大著『通天閣』において、町の猥雑なパワーをみごとに描いた著者の思索は、音楽ではケンドリック・ラマー、政治的なムーヴメントとしては#BlackLivesMatterに注目が集まる今日においては、ある意味では時代の空気感をともなってに入ってくる。また、ブラック・パンサー党の成功したこと/失敗したことのおさらいなど、社会運動とは何かを考えるうえでも、共有すべき知識が詰まっている(たとえば黒豹党が、なぜあんなクールなベレー帽を被ってあんなスタイリッシュな出で立ちで、あんなにフォトジェニックに登場したのか……などなど)。
 また、著者が文庫本の後書きで述べているように、今日の社会は、10年前よりもさらに露骨に暴力に囲まれた社会だ。そういう意味では、本書は予見的でもあった。

野田努