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フリー・インプロヴィゼーション聴取の手引き

フリー・インプロヴィゼーション聴取の手引き

ジョン・コルベット(著) 工藤遥(訳)

カンパニー社

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松村正人   Feb 27,2020 UP

 即興音楽とはなにか、との問いにジョン・コルベットは本書のまえがきで「即興演奏(improvisation)でつくられた音楽」と端的に答えている。おっしゃるとおり至極単純。それらをさしてひとは、あるいはメディアはフリー・インプロヴィゼーション、フリー・ミュージック、スポンタニアス・ミュージック、はたまたインスタント・コンポジションなどと呼びならわすが、本書のあつかう即興音楽は即興演奏だけでできた音楽、それのみをさす。すなわちまじりっけなし、純度100パーセントの即興でできた音楽──というときの「即興」というものは、ではなにかという疑問に、コルベットは事前のとりきめなく、曲を憶えることもなく、演奏の進行と同時にできていく音楽なのだという、その点では音楽の分野を問わず遍在する即興という行為の多様性からその核にあるものをうかびあがらせようとするデレク・ベイリーの主著にして、この分野の書物の古典中の古典である『インプロヴィゼーション──即興演奏の彼方へ』とは射程は異にするものの、コルベットはそもそもベイリーのむこうを張るかのごときだいそれたことは考えていないとも言明している。なんとなれば、この小ぶりな本は題名どおり『フリー・インプロヴィゼーション聴取の手引き』であるのだからして。
 そもそもなぜ即興音楽に「聴取の手引き」が必要なのか。そうおっしゃる読者はおそらく即興音楽になじみがうすい。というのも、即興音楽に真剣にむきあおうにも、どう聴いていいのかわからない事態に直面した音楽ファンもすくなくないであろうから。なぜならそこには通常の意味でのメロディがない、明晰なリズムもハーモニーもなければ楽曲の構造をほのめかす形式もなく、それに沿って展開する(ときに弁証法的な)物語性も、あたかも蒸発したかのようで言語化しがたい。このようなないないづくしは一見、即興音楽の制約であるかにみえる。ところが私たちがふだん耳にする音楽におぼえる美的興奮こそ、ルールの枠に則ったものにすぎず、即興とはその枠組みの外の新雪のような余白に(危険をかえりみず)踏みだしていく行為であり、演奏や作品は既存の文脈になじまないだけで、美学的かつ批評的な水準も存在する。すばらしいものとそんなにすばらしくはないものがあるが、そのちがいを理解するには時間と経験がいる。ちょっとの軍資金も必要かもしれない。思えば遠い道のりだった。そうひとりごち、私はレコード棚をふりかえると夥しい数の即興音楽の音盤の背が手招きする。私はいまにも頬ずりせんばかりにレコード棚ににじりよる。一枚一枚に思い出も思い入れもある。私はついさっき、即興音楽には(も)出来不出来があると述べた。棚の音盤を眺めるとたしかにそのとおりだと確信を深めもするが、しかしそうみなす理由はなんなのだろう。即興音楽を判断する基準みたいなものがあるのだろうか。その基準は私という個人に固有のものだろうか、それともプラトンのいうイデアみたいなものでもあるのか。じつは愛好家や評論家諸氏はフィギュアスケートのように即興に点数をつけているのだとして、はたしてなにをもって何点とするのか。そもそも原理的に無限といえるほど多種多様なあらわれ方をする即興音楽全体にあてはまる基準など存在するのか、またそれをだれが把握できるのか。とはいえ即興音楽も音楽であるからにはかならずや、演ること以上に聴く側にだって方法論がいる。
 ポップスやロック、ジャズやクラシックでも、形式が確立した分野の作品なら、数をこなせば自分なりの聴き方が身につけられる。おそらく多くの音楽リスナーはそのようにしてあらゆる音楽をふるいにかけながら聴き方を学んでいく、その一方で既存の音楽の枠組みの外を視野に入れる即興音楽にとって形式は土台というより制約にちかい。したがってリスナーも作品や演奏ごとに新たな聴き方をたちあげる──べきなのだが、聴くたびにふりだしに戻っていてはなかなか厄介である。記憶(の獲得ないし喪失)と即興のかねあいはこの分野をつきつめる課程でおりにふれて顔を出す重要な命題だが、『聴取の手引き』はそのような考える楽しみのちょっと手前で、まずは聴くことの楽しみの発見を手助けしようとする。
 全体は大きく基礎編と発展編にわかれ、音盤や人名リストが付録としてつく構成をとっている。コルベットがまえがきで即興音楽の定義を述べていることはすでに述べたが、それをもとに基礎編以降はじっさいに音楽を聴く段階にはいっていく。おもしろいのはふつうならここで、即興音楽の聴きどころをあげていくものなのにコルベットは聴くにあたってのハードルを列挙するところ。すなわち「リズム(がない)」「時間(が読めない)」「誰がなにをしているのか(わからない)」という、先述の即興音楽の「NAI-NAI 16」をクリアする手立てに紙幅を割く、その懇切丁寧な筆の運びをいささか乱暴に要約すると、私たちがふだんよく耳にする音楽では韻律的(メトリカル)なリズムが方眼(グリッド)の役目をはたし音楽を定量化するが、即興音楽ではドラムやベースなど、一般的な合奏形態内で時間(タイム)をキープし、ビートないしグルーヴを生み出す役割を担うパートも期待どおりに機能しない。機能していけないわけではないのだが、そうなったらなっただけ因習的な形態にちかづくから既知感もます。そもそもたえざる変化を旨とする即興音楽において反復は両立不能な命題ともいえる(むろん戦略的な反復ないし形態の模倣は選択肢として排除しないとして)のだが、演奏にじっくり耳を澄ませると周期性のないなかにも変化は感じられる(反復していないのだからむしろ変化しかないともいえる)。とはいえその変化はパターン化できるようなものではなく、終わりもみえない。この演奏はいったいいつまでつづくのだろうという疑問(不安)は下世話なようでいて、即興演奏にはじめてふれる聴き手には死活問題である。なにせひとの集中力はそんなにはつづかない。有限の集中力を適切にふりわけるには演奏の見取り図があると便利だが、即興音楽はクラシックみたくプログラムノートもない。とはいえ演奏者がラ・モンテ・ヤングでもなければ、即興演奏とてほとんど常識的な時間内に終了する。常識的というのは、1曲(セット)20~30分で、2セットやったとして1時間とちょっと。ときおりノンストップの長大な即興をくりひろげるライヴもあるが、すくなくとも1時間半のうちには親切なお店の方の出すビールにありつけるというコルベットの見立てには私もおおむね同意する。むろんそれ以前でも、あなたには自由に席を立つ権利がある。とはいえせっかくなので演奏は最後まで楽しみたい、そうすると音楽全体が体感できる。ただしそこで起こるすべてを理解する必要はない──そもそもそんなことは人間にはほとんど不可能かもしれない──が、演奏の空間で起こる出来事の残像みたいなものは認識できないともかぎらない。その輪郭を記憶にとどめたりメモをとったりすると、あなたの手のなかの地図は音楽を比較、検討するときに役立つかもしれない。すくなくとも理解の目安にはなりますよね。
「そうそう、出来事といえば、さっきのライヴではサックス奏者が牽かれていく牛のような嘶きを発したのに呼応するかのようにドラムスとベースがドナドナっぽくなったのは圧巻でした」
「とてもいい目のつけどころです、即興音楽の出来事とは演奏者どうしの『相互作用のダイナミクス』からできているのですから」
「相互作用のダイナミクス?」
 そうです。即興はいっさいのとりきめがないことはご存じですよね。とはいえ複数の演奏が参加する場合、演奏者どうしに関係性のようなものが生まれ、それらは(1)調和、(2)補足、(3)対比の3種で特徴づけられ、そのさいの音楽的エネルギ—は(1)集中、(2)拡散のどちらかをとるとコルベットは述べています。それらをパラメータにした演奏者どうしの関係性が「相互作用のダイナミックス」であり、著者は作中で代表的な7パターン(と派生的な数パターン)をとりあげていいます。この一連のながれはレーベルを運営する熟達の聴き手にして演奏家でもある著書の経験を多面的に動員した本書の読みどころのひとつ。詳細は読者諸兄ご自身の目でたしかめられたいが、一例だけあげると、「サポート/ステップアップ」と名づけた関係性では、ある演奏者があたかも即興(合奏)の前景に歩みでるかのように、それまでの演奏と異なる音楽的言明をおこない、状況が相対化(し場面が転換する)ことを意味するが、意見の一致/不一致などの単純に論争的なダイナミクスの外の思弁的な重層性を明記したのはみのがせない。このように、即時的な丁々発止 インタープレイ)におさまらない即興音楽特有の(非)協働性は音楽的時(空)間の屈曲を招き、変化をきたす時間の幅が狭まれば、やがてシュトックハウゼンいうところのモメント(瞬間)形式に漸近するという説など、コルベットの見立てにはこみいった概念や記述を端折ったがゆえの陥穽もある(それもまた本書の性格に由来するとも思うのだ)が、その真摯な語り口にのぼる即興の諸相に虚心にむきあえば、私たちは演奏家が事前の計画も予備的なスケッチもなくおこなった演奏を、「聴く」という全的行為と記憶をたよりに溯及的に構造化するまでになる。このとき、(宿命的に)音楽のいちぶである演奏家にはけっしてとどかない聴取者の特権、無数の解釈にひらかれた、音楽を聴くことの不意のゆたかさがあなたを撃つのである。
 入門者の好奇心をくすぐりながら中級者の共感を呼び、すれっからしの微笑をさそう──根幹となる基礎編をへて状況論にも目配せする後半部で本書はいよいよ発展編にはいっていく。とはいえ『手引き』たるもの、いたずらに小難しかったり高尚になっては立つ瀬がない。そこで著者は具体的な事例をまじえつつ、レコードリストも掲げながら、一貫する機知で即興音楽の原理を浮きぼりにする。
 なかでも「情熱点火」と題した作品リストは端的で趣意に富んでいる。あがっているのは20枚だが、ポール・ラザフォードの『The Gentle Harm Of The Bourgeoisie』にはじまるセレクトは即興の旨味を凝縮している。また同時に、コルベットの即興観の根底にはおそらく(というか当然)ジャズがあり、聴取のポイントとしては個々の音楽家の語法のたしかさと、それらの合奏における働き方を重視していることをうかがわせる。そう考えるのは作品の中身もさることながら、それらがソロからデュオ、トリオからオーケストラまでを網羅しているのでもわかる。即興にとって編成は喫緊の課題である。このことについて著者は数ページあとに「3の法則」として一節とって述べている。いわく、ソロとデュオ、トリオとそれ以上では即興の関係性(ダイナミクス)のあり方がちがう。その見立てに則って、さきのリストでもソロからオーケストラまで形態のちがう作品を、コルベットは選出していたのだが、これにより意図したのはオススメのフォーマットがあるとかではなく、異なる編成それぞれに特徴があり、おそらくコルベットはその階調の広がりに即興音楽の魅力をみている。そのことは、ハシ休め風の「極端な仮説に挟まれ踊る」にもあらわれている。この節で著者は以下の思考実験をもちだしてくる。すなわち(1)すべてが即興である、(2)なにも即興ではない。このふたつの命題は、たとえば譜面の再現を前提とするクラシックの演奏家にも解釈の自由があるようにあらゆる音楽には即興的な側面が存在し、他方で、ライプニッツではないが即興音楽の錦のミハタである自由なるものもじつはけっこう予定調和ちゃうん!? ということなのだが、結論からいえば、コルベット自身は両方を極論として退けている。つまるところすべての音楽は即興の面ではそのふたつを両端としてのその線分上のどこかにある、と述べて、それこそが「メッセージの明瞭さと整然たる解決ということ以外の(引用者注:即興音楽の)価値」といいたがっているかに私にはみえる。いうなれば「聴く人を宙吊りにしておくやもしれぬ音楽のプロセス」でありつづけることが即興音楽の即興音楽たるゆえんであるということである。むろんそれが原理主義に収斂しては元も子もないのであって、即興音楽の「道徳的優位性」をもちだす信奉者にしっかりクギをさす著者の即興観なるものを『手引き』の本文を借りて述べれば「フリー・インプロヴィゼーションは音楽をつくりだす一方法であって、独立した価値や特質ではありません」ということになるだろうか。むろんその「方法」がおそるべき深みをもっているのはそこかしこにほのめかしてあるし、巻末の人名リスト、さらに付録として掲載した細田成嗣作成によるブックガイドと録音作品リストは欧米が主軸の本書に、日本と近隣諸国から届けられた重要作を補い『フリー・インプロヴィゼーション聴取の手引き』の有用性を高めている。その一方で、細田が指摘する「魅力的な即興の世界が無数にある」という可能態は選ばれた演奏家や作品の記名性と抵触するおそれもある、というこの問いは『手引き』たる本書の圏域外だとしても、即興音楽の門のむこうにはそのようにきわめて人間的で思弁的な領野が広がっているのがわかる。みなさんはいままさにそのとば口に立っているというわけです。
 ようこそ即興音楽の世界へ。

松村正人