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七尾旅人

合評

七尾旅人- リトルメロディ

Felicity

Aug 16,2012 UP 文:桑田晋吾、橋元優歩
12

小さなメロディにおける両義性 文:橋元優歩

七尾旅人
リトルメロディ

Felicity

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 七尾旅人はこれからもフォークのスタイルをつづけていくのだろうか。『リトルメロディ』は美しいが、どこか不自由で息苦しい印象を受ける。筆者にはその理由の一端が彼のフォークにあるように思われる。かつてあれだけ多様な音楽性を乱反射させていた七尾がなぜこのスタイルへ向かったのか。

 そもそもの1作目から言葉が渦を巻いていたわけだから、それが言葉とギターというシンプルな形態に結びついていったのは必然だったかもしれない。デビュー作の歌詞カードを見れば瞭然であるように、はじめそれらの言葉はまったく整理されていなかったが、ひとつひとつがつよい磁石のように、まったくおびただしい音や形式を引きよせているのがわかった。「雨に撃たえば...!」などという表記は、荒唐無稽であるようでいて、物事とその名前や意味がくっつかないでぶらぶらと宙をただよっていたようなあの時期(99年の流行語には学級崩壊やだんご三兄弟があり、改正住民基本台帳法が成立してぶらぶらしたものは数字をつけて管理されようとしていた)の感性をすばらしく圧縮している。

 いま聴き直してみると、そうしたぐちゃぐちゃな表出がやがて現代詩のような体裁をそなえはじめるころに、フォークのスタイルが獲得されていったようにみえる(『ひきがたり・ものがたりVol.1 蜂雀』)。言葉の序列が整ったことがフォークを呼び寄せたのか、フォークへ行きついたことが言葉を整えさせたのかはわからないが、それは朗読や物語りを編むまでに研磨されて、やがて『911ファンタジア』へと結実していく。その意味で『911ファンタジア』はプログレッシヴなフォークというふうに言えるかもしれない。その後に発表されるのが前作『ビリオン・ヴォイシズ』である。

 これらの作品にあってそのスタイルは挑戦であり先鋭性そのものであった。フォークにおいて社会的なテーマ性が往々にして硬直してしまうという難点を、ただ切り離して四畳半フォークへとスライドさせてしまうのではなく、音楽自体を研磨することで踏み抜いてしまう......つまり食えないプロテスト・ソングではなくジューシーなプロテスト・ソングを組み上げていた。「プロテスト」という言葉自体が硬直しているため、そのように言ってしまうと作品のイメージをとてもせまく限定的にしてしまうが、甘い音に固い言葉をのせるなどというレベルをはるかに超え、七尾旅人という大きな創造性のなかに彼自身の社会的な問題意識をきわめて自然に組み込んでいた。"シャッター商店街のマイルスデイビス"などは『911ファンタジア』からの方法的な成果をふまえ、ファンタジーと社会批評とが卓抜なアイディアとパフォーマンスによって縫い合わされた曲だ。そこには「フォーク・シンガーって、いかになにもしないかだと思ってるから」とうそぶく余裕やユーモア、そしてフォーク・シンガーというものの本質的ないかがわしさへの憧れをみることができた。

 こうしたカーヴを描きながら、いま彼のフォークは直接性へと向かっているようにみえる。よりダイレクトに、より平易な表現で、手の届く範囲へ届けたいという思いが本作の背景にあったのではないか。フクシマに材をとった "圏内の歌"は、ここまでパッケージ化されることなく、あくまで肉声での表現にこだわって各地で歌われてきた。震災がひとつの引き金になったのかもしれないが、大胆で融通無碍な七尾のフォームは、小ささというあたらしい倫理へと変容しかけているようにみえる。それはもちろん、これまでの作風のひとつの進化として、ひとりの表現者としての誠実さや真摯さから生み出されたものであるはずだ。

 七尾の近年の活動、とくにライヴ活動には、なによりもつよくコミュニケーションが前提されている。彼のフォーク・スタイルはほとんどそのために選択されているようにさえ感じられた。歌は自己表現というよりは、そこにいる人々に向かって投げられる対話の端緒であり、そのフィードバックをえて再度投げられる。客をいじるのも、ツイッターを組み込むのも同じことであり、彼はそれをとても鮮やかな手つきでみせてくれる。「百人組手」などの取り組みや、ストリーミング配信、さまざまなミュージシャンとの録音やコラボレーションも同様である。七尾はそうして対話の端口をひらこうとするような取り組みを、もうずいぶんとあの黒と麦わらのいでたちでおこなってきた。それはさながら踊り念仏の聖人のようでもあり、各地へおもむき、自分のじかの声が届く範囲の人びとに、彼の信じる歌の力を届けてまわるという"圏内の歌"=小ささの倫理のスタンスは、すでに準備されていたのだとも言えるだろう。

 だが、それならばライヴ・アルバムの名盤を作ることもできたのではないか。スタジオ・アルバムというパッケージングにおいて、七尾の取り組みの価値がうまく取り出されているとは言えない。"エヴリシング・イズ・ゴーン"や"湘南が遠くなっていく""七夕の人"などは普遍的なラヴ・ソングとしての平明さをそなえ、また宛名のついた曲でもあるような直接性もにじませていて、七尾が想定する聴き手の射程がより小さく絞られたというようにもみえる。つまり、小ささの倫理にもとづき、生の声で伝えることのできるライヴやプライヴェートな演奏において引き立つ曲だというようにも思われる。"湘南が遠くなっていく"のシングル盤が湘南地区限定で販売されているのも同様の原理からであろう。だがアルバムのなかではやや一本調子である。さまざまなアーティストとの録音にはとても緊密な空気がある。だが"サーカス・ナイト"や"メモリー・レーン"は、"ローリン・ローリン"を超える一手を打てない。"アブラカダブラ"の微熱のようなサイケデリアや"ビジー・メン"のもつれるようなビートのアプローチも全面化されるわけではない。

 "リトルメロディ"ではこう歌われる。「そしてみつけたよ/小さなメロディ/何千光年の遠すぎる時間を/短い歌で超えよう」......小さなメロディの本質は、その小ささで思いもかけない距離を超えていけるものとして表現されている。歌というものがものを動かす途方もない力について、七尾のような稀有な歌い手には確信があるのだ。だがその「小ささ」とはかならずしも平易さという意味ではないはずだ。「リトルメロディ」によって、自身の大きさを規制してしまってはいけない。ギターと言葉だけで人びとを愉しませ、あるいは煙にまくことの、本質的なうさんくささをもういちど引き寄せてほしい。そのことで自身のフォークのもうひとつの倫理性を立ち上げてほしい。そのように思った。

文:橋元優歩

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