Home > Reviews > Album Reviews > 寺尾紗穂- 青い夜のさよなら
物云えば 今も昔もさびしげに 見らるる人の 抱く火の鳥
与謝野晶子 - 歌集『火の鳥』より
音楽はいまでも鳴っている。多くは、慰めや、励ましや、大量生産された(=大量廃棄される)希望を伴って。彼らが、音楽を通じて引き受けられると過信している痛みとは、いったい誰のものなのだろうか......。そこからすると、寺尾紗穂、6枚目のフルレンス『青い夜のさよなら』、その"私は知らない"が見せる剥き出しの無力感はどうだ。自分が何も知らない人間であることを、寺尾は認める。社会のこと、他人の命のこと、愛のこと、そして、自分のこと。それらを知らないと、寺尾は認める。それは、過去への謝罪であり、未来への誠実さであり、表現者としての勇気である。卑下などでは、ないと思う。衒いなく言って、私は胸を強く、強く打たれた。
私は知らない
きれいな未来を
あるのは泥のように続いていく日々
"私は知らない"
彼女はいわゆる社会派とか、3.11以降とか、そのような文脈でマイクの前に立っているつもりではないようである。『青い夜のさよなら』で新しい段階へ達したのは間違いないが、寺尾のうたは、筆者や、これを読んでいるあなたの身近にいてもなんら不思議ではない、ひとりの女性による表現である。ラヴァーズ・フォークの透き通るようなソング・ブック『愛の秘密』(2009)を聴けばわかるように、与謝野の言を借りて言うなら、恋に命をかけて生きる女性という立場も、自分の人生の一部として寺尾は隠さずに描いている。というより、それこそが彼女の作品の根幹をなしてきたとさえ言えるだろう。
本作でも、ほとんどの曲では、「私」と、「あなた」と、そのほかさまざまな登場人物たちが、それぞれに日々をやり繰りしている。そこには労働があり、酒場の喧騒があり、季節があり、恋があり、別れがある。一見、それはどこの誰が歌ってもよさそうな、ごくありふれた生活者の物語である。だから、あえて矮小化して言うのなら、どこにでもいるひとりの女性が抱える暮らしのなかの思想として、原発への関心があり、社会への疑いがあり、さらにはその陰に隠されたものへの眼差しがある、それだけのことなのだ。したがって、本来の順序から言えば、"私は知らない"が全国紙のレヴェルで注目を集めるのは、おかしな話でもある。「普段、音楽をあまり聴かない」という言葉を真に受けるなら、彼女はいまの状況に違和感を覚えているかもしれない。しかし、この国のポピュラー音楽は、そのような「物云う」表現を、汚らわしい特殊さ/異物として商業的に排除し、文化的に淘汰してきたのだ。
だが、社会を考えることは、特定の専門知を持った人間の特権ではない。強固に思える小さな日常、しかし少し目線を転じたところに、世界はいくらでも転がっている。それに気付ける人と、気付けない人、あるいは気付きたい人と、気付きたくない人がいる。だから、寺尾は堂々と直進する。自分の表現に足る質量を持ったありのままの言葉に向かって、背筋を伸ばし、ツカツカと――。彼女自身、自分がやっていることが特殊だとは考えていないからこそ、それを素手で掴むことができるのだと思う。やがて、"私は知らない"に至り、これまで積み重ねられた愛の叙情詩、その繊細で薄い膜を、現実の重みが破る。悲鳴が聞こえる。太陽が隠され、血が流される。平穏が奪われていく。そして、新たな言葉が生まれる。新しい、音楽がはじまる。そもそもは2010年に原発労働者を歌った"私は知らない"は、いま、「みんな」に照準を合わせたプロテスト・ソングとして、2012年に流れる仮初めの平穏を撃っている。
ひとり憂いを抱きしめて
青い夜を見つめる
無口な星群れが
西へと去りゆく
"道行"
もう一度、考えたい。ひとりの人間が、一方では個人の人生を全うしつつ、一方ではみんな(社会)のことを考える、というのは、どういう試みなのだろう。自らの日常に一喜一憂する一方で、会ったことも話したこともない人の悲しみに胸を痛める、というのは、どのような行為なのだろう。邪推を含むかもしれないが、寺尾は、自分の子孫の立場で未来を生きてみることで、その想像力を「誰か」まで届かせているのではないだろうか。すまし顔の一般論や、積まれただけの知識、教養としてではなく、命の現場で感じる生活意識として、彼女には社会を糾弾する批評のこころがあり、その根源的な思想は子どもという存在に、そして広くは生命に、太く注がれているのだと思う。それは、文学と恋に生きた情熱の歌人であり、11人にも及ぶ子女の母でもあった与謝野晶子が、いわば「産むことができる性」として、社会や因習への批評的な視線を尖鋭化させていった軌跡とも、どこかシンクロして見える。
音楽的にも、本作は目覚ましい発展を遂げている。弾き語りに近いミニマムな編成でも素晴らしいものを作れることは、すでに何枚かのアルバムで示しているが、この『青い夜のさよなら』は、そこから広がりを得て、新たな連帯への準備が整えられた作品でもある。オープニングの"道行"のみ、個人の弾き語りで、その後の曲にはキセルから七尾旅人まで、実に強力なアレンジャーが揃っているが、とくに、『ミディ文庫』で自分でも書いているように、エレクトロニック音楽からの人選は嘘のような偶然からはじまったもので、彼女の歌に新しい表情と、色とりどりの背景を与えている。一連の連帯における始まりの始まり、その最初のひとりとなった大森琢磨が手掛けた"追想"は、ピアノの弾き語りをベースに、空間全体が震えるような電子音の揺らぎが付されている。
また、Crystalが童話の雰囲気を演出した"老いぼれロバの歌"は、労働を主題にした古典寓話のような含みある世界。前述した「恋に命をかけて生きる女性という立場」という表現が許されるのなら、雲がちぎれるように終わった出会いを歌った"風のように"は、その立場でなされた裸の表現である。そして『青い夜のさよなら』は、中盤の核となる"私は知らない"を経て、聞き流すことを拒むような大作を終盤に並べた。交通事故を契機に、ふたつの遠く離れた世界が衝突して邂逅するダースレイダーの詞に寺尾がメロディを付け、鴨田潤が様々な効果音を盛り込んだ"はねたハネタ"はある種の歌劇で、詩人・平田俊子のことばを借り、四月を「人さらい」と呼ぶ別れのうた"富士山"は、橋本和昌の手によって9分を超すクラシカルなアレンジに仕上げられた(本作屈指の1曲!)。
このあとに聴く、ラストのコズミック・フォーク"時よ止まれ"、個人的な好みとしては、この曲をもっとも多く聴いている。どことなくジャックスの"時計をとめて"を連想させるそれは、本作のなかにあっては簡素な部類に入る(ほぼ)弾き語りでの演奏だが、どんどん流れていく季節のなか、どうしても叶わない願いを前に、寺尾は祈りさえ燃やしてしまうような情熱を歌っている。重なり合うふたりの声は素晴らしい親和性を見せているが、もしかしたら、寺尾が「星」と呼ぶものと、アレンジャーの七尾旅人が「ビリオン・ヴォイシズ」と呼んだものは、あるいは同じものなのかもしれない。七尾は、発光するようなバック・コーラスで青い夜に幾千もの星をばらまいている......。それは息を呑むほど美しいのだ。
ひとつだけ、注釈を挿すなら、『愛の秘密』(2009)までの作品や、彼女にとって大きな転機となったであろう、外国人労働者の人生を取り上げた"アジアの汗"(2010)にさえ、常に微笑みながら歌っているような独特の軽い調子、弾むような歌い回しがあったが、それは本作には、完全には引き継がれなかったし、本作のシリアスさは聴く人をある程度、選んでしまうかもしれない。だとしても、『青い夜のさよなら』には、望んで生まれたわけではない同時代への鋭い批評があり、望んで与えられたわけではない人生への戸惑いと喜びが満ちている。それを「役割」と呼んでしまえば、寺尾は頑なに拒絶するだろうが、彼女が内に抱く抵抗の意志、そしてそれと隣り合わせの怒りと途方もない無力感は、この国が眠らせたプロテスト・フォーク、あるいはそれに似た何かを起こしたのだろうか。青い夜、その寂しげなとばりを、火の鳥の声が刺すように響く――。
竹内正太郎