「kizu」と一致するもの

 2010年、インディは本当にチルウェイヴの年だったのだろうか? ......いや、きっとそうなのだろう。チルウェイヴに属すると言われる若いアーティストは単純に数の問題で言っても見過ごせないほど増えているし、作品として議論に上るものも多かった年だった。だが、それでも「2010年はチルウェイヴの年だった」と結論付けられることに抵抗があるのはどうしてだろう。26歳のインディ・リスナーである自分が、2010年トロ・イ・モワやスモール・ブラックのアルバムに心底興奮しなかったのはどうしてだろう......。現実逃避的な音楽はいつでも必要だし、ますます若者を憂鬱や孤独が襲う2010年においてはなおさらだろう。しかしそんななかにあってこそ、僕がチルウェイヴの心地良い逃避にどうしても逆らいたいと思ってしまうのは、2010年はそれでも現実から目を逸らさなかった音楽に心を動かされたからだ。チルウェイヴ的な動きは今年出るパンダ・ベアの新作が決着をつけるだろうと予想するが、ここではそれとは別のものについて書いてみようと思う。2010年にele-kingでレヴューで紹介されず、かつ欧米で高く評価された作品がいくつかあって、それはチルウェイヴ的な「子どもたちの音楽」に対比させて言うならば「大人たちの音楽」だ。


Arcade Fire
The Suburbs

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 北米のインディ・ロックにとって、2010年のハイライトになった作品がザ・ナショナルの『ハイ・ヴァイオレット』とアーケイド・ファイアの『ザ・サバーブス』だ。優れた文学性とリベラルな活動が高く評価されるこのふたつのバンドが同じように経験したのは、オバマの「チェンジ」に少なからず加担したことであった。アーケイド・ファイアの2007年の前作『ネオン・バイブル』は、ブッシュ政権末期に響いた「アメリカには住みたくない」という告白に象徴されるように当時切実に時代とシンクロしていた。そして"ノー・カーズ・ゴー"では「私たちは車が行かない場所を知って」いて、その場所に「行こう!」とエクソダスを宣言し、それを当時の希望としたのである。だが政権交代とオバマへのバックラッシュを経た2010年、アーケイド・ファイアは......ウィン・バトラーが育ったアメリカの郊外に立ち返る。はじめ、それはあまりに感傷的な所作に見えた。つまりそれは自分たちがやったことに対する失意や後悔が苦く滲み出たもので、ある意味では非常にアメリカ的な凡庸なテーマであるように思えたからだ。だがウィン・バトラーはそのような典型的な物語を避けることはせず、スプリングスティーンの道程を思い返しつつ、もう一度アメリカの内部から生まれる物語について見返してみたのだ。『ネオン・バイブル』ほど重くはないが後悔や罪悪感が顔を覗かせ、いくらかのノスタルジックな感傷も呼び覚ましつつ、そしてアルバムは「もし時間を取り戻せたら/もういちど僕は時間を無駄にするだろう」という決意に辿り着いていく。つまり、アーケイド・ファイアは自らが宣言したエクソダスの後始末について決着をつけたのだった。決して苦難は終わらないが、それでも何度でもやり直すことは出来る――というシンプルなメッセージが『ザ・サバーブス』には刻まれていた。


Arcade Fire



The National
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 ザ・ナショナルはいっぽうで、エクソダスにすら参加できずにアメリカの内部に留まり続けたごく普通の人びとの物語を歌にした。自分のことを書けば、2010年にもっとも感動したのが彼らの『ハイ・ヴァイオレット』だ。前作『ボクサー』に収録されていた"フェイク・エンパイア"がオバマのキャンペーン・ソングに大抜擢される経験をした彼らだが、しかしこの新作ではある種の特権的な立場から言葉を紡ごうとしていない。バンドにとっての新たな代表曲である躍動感のあるロック・ナンバー"ブラッドバズ・オハイオ"は、保守的な故郷を嫌ってそこから離れた男が、それでも故郷への想いを捨てきれない心情を歌った1曲である。「俺は結婚しなかったけれど、オハイオは俺のことを覚えていない」
 「結婚しなかった」というのは結局リベラルになりきれなかったことのメタファーだろう。「故郷のことを考えるとき、俺は愛について考えなかった」と嘯きながら、自分の本当の生きる場所を見つけられずに苦しむ男の物語を浮かび上がらせる......例えばスフィアン・スティーヴンスの『イリノイ』と並べると見えてくるものがある作品だと言えるだろう。「ニューヨークで生きて死ぬなんて、俺には何の意味もない」と吐露する"レモンワールド"では「とにかくいまはもう、どこかに車を走らせるには疲れすぎているんだ」と言うように、アルバムでは歌の主人公たちはとにかく疲弊しきっていて身動きが取れないというイメージが繰り返される。もっと良く、正しく、幸福に生きようと願いながら、どうしてもそうすることが叶わない普通の人びとの歌を歌うことを、ザ・ナショナルは自らの使命にしたのだ。それは、「チェンジ」後も生きづらいことは変わらない現代のアメリカの歌だ。
 そして『ハイ・ヴァイオレット』の素晴らしさとは、そんないまの現実の苦難を引き受けながら、それをセクシーなポップ・ソングとして昇華させてしまった点に尽きる。バンドが自らの音楽を「ダッド・ロック」と冗談めかして言うようにある種の古風なダンディズムに支えられてはいるが、マット・バーニンガーは自分のバリトン・ヴォイスの色気により自覚的になり、そしてバンドの音は何ひとつ奇を衒ったことをしなくともタフにダイナミックに響き渡る。それはこれらの歌の底には、それでも潰えない尊厳があるという宣言のように聞こえる。
 ラストのゴスペル・ソング"ヴァンダーライル・クライベイビー・ギークス"では「僕たちの最良の部分をすべて捧げて/愛のために自らを犠牲にするんだ」と、新たな場所に足を踏み出すことも示唆される。人びとに必要なのは劇的な「チェンジ」ではなくて、着実に地面を踏みしめる足取りであると......つまりザ・ナショナルは80年代のR.E.M.を引き継ぐのだと決意したのだった。今年の春に、シカゴではアーケイド・ファイアとザ・ナショナルがともにライヴをやるのだという。それはアメリカにとって、非常に輝かしい夜になるだろうと思う。


The National



LCD Soundsystem
This Is Happening

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 「ニューヨーク、俺はお前を愛しているけど、お前は俺を落ち込ませる......」とニューヨークに対する失意と幻滅と、そして愛をこぼしていたLCDサウンドシステムのジェームズ・マーフィもまた、ポップに対する理想を捨て切れなかった男である。インターネットの土壌が進んで出てきた初めてのムーヴメントがチルウェイヴだとしたら、ジェームズはそういった動きに対して最後の悪あがきを繰り広げるような活動をしてきた。70年代のボウイのあり方をポップの理想とし、自分より若くて才能のある連中のケツを蹴り上げるような存在でありたいと、彼は繰り返し語ってきた。分断化が取り沙汰されたゼロ年代にあって、それでもそこに抵抗する形で「ポップ」を定義し直そうとした彼の姿は、僕たち若い音楽好きを虜にした。音楽オタクであることしか誇れることがない男のみっともない恨み言を並べた"ルージング・マイ・エッジ"での彼を未来の自分の姿だと確信した人間は、ジェームズ・マーフィを心底信頼したのだ。だがそんなものはもう終わっていくのだろう、とジェームズ本人が自分たちの挑戦に決着をつける意味で制作されたのが、ラスト・アルバムだと予め宣言された『ディス・イズ・ハプニング』であった。
 『ディス・イズ・ハプニング』は音楽的な参照点もやや広げ、例えばOMDのようなシンセ・ポップも溶け込ませながら、これまででもっともキャッチーな佇まいを持った作品となった。全編ダンス・トラックでありながらも非常にメロディアスで、そしてメロウでスウィートだ。歌詞はファースト・アルバムのような自問自答よりも、自分の仲間たちや聴き手に対する目線がこめられている。相変わらず自分の情けなさやみっともなさを綴りながら、しかしどこか清々しさが感じられるのはバンドが辿ってきた道のりやその記憶が明滅しているからだろうか。ラスト・トラックの"ホーム"は間違いなく、彼の挑戦を見つめ続けてきた僕たちに向けて......そしてたぶん、ジェームズよりも若い連中に向けて歌われている。「君が自分に必要なものを気にしているなら/見回してみなよ/君は囲い込まれている/そんなの、何にも良くなりゃしないよ」というのは、明らかにリスナーに向けた愛の言葉だ。ジェームズはツアーを回りながら「やっぱりこれからもアルバムを制作するかも」と思い直したことが明らかにされているが、しかし『ディス・イズ・ハプニング』が2010年において、一つの「ポップ」の時代に対して決着をつけたラスト・アルバムであったことは変わらない。


LCD Soundsystem

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 これらの「大人たちの音楽」から聞こえてくるのは、現実の困難に何度も何度も打ちのめされながらも、それでも信じるものがある......という不屈さだ。あるいは、LCDの歌にはつねに自虐や情けなさが盛り込まれていながら、しかしそこには必ずユーモアがある。それは自分たちの音楽をきちんと表現へと昇華させるという意志の表れである。「子どもたちの音楽」に何か信じるものはあるのだろうか? もちろん、そんなものが見つからないからこそのリアリティなのだろうが......いっぽうで2010年にこんなにもタフで知性的な音楽があったことも忘れてはならないと思う。
 ただ、ここ日本ではそのようなものは共感されにくい。中年男が社会のなかで、正しく生きようと苦しみもがく姿の色気を伝えるのはとても難しい。音楽と社会が、音楽と政治が密接に繋がっていない(ような素振りを見せる)この国では、政権交代した後も相変わらず生きづらい社会についてポップ・ソングが歌うことは大抵の場合避けられる。そして若者たちは、子どもたちはうずくまり、現実に背を向ける......。ある意味で、若者による現実逃避はこの国ではより切迫した問題だ。社会に背を向けるということもまた抵抗だとすれば、日本でこそチルウェイヴ的な(現実や政治から切り離された)まどろみがより必要とされているとも考えられるだろう。
 あるいは、社会に根ざした若者の音楽は知性やユーモアや文学性よりも、その感情の質量、その重さが目立っている(それだけ追い詰められているということだろう)。僕が世代的にも立場的にも共感できるはずの神聖かまってちゃんにどうしても距離を感じてしまうのも、そのような理由かもしれない。社会に対する怨恨を隠そうとしない彼らの音楽はアナーキーで切実で生々しいが......あまりにも痛ましい。かまってちゃんがいることは日本においてリアルだが、それがあまりに切実に求められるような状況は辛いとも思う。もしくは曽我部恵一のように、若者たちよりも青春を鳴らそうと目論む大人たちの歌がもっと届いてほしい。
 
 今年はどんな音楽が響くのだろう。アメリカに関して言えば、ブッシュ政権下より現在の方が遥かに表現に求められることが難しくなっている。問題だらけのオバマ政権の下、状況はさらに複雑化しているからだ。チルウェイヴのような流れはもうしばらく続くであろうからそれらは横目で見つつも、僕はそれでも現実を見据えたアーティストに期待したいと思う。比較的若い連中にもそういったミュージシャンはいる。例えば2月に新作が出るアクロン/ファミリーは前作でサイケデリックなアメリカ国旗をアートワークに掲げながら、「太陽は輝くだろう、そして僕は隠れない」と歌うことを厭わなかった。アクロンは不思議なバンドで、初期にはフリー・フォーク的な文脈で、前作頃ではブルックリン・シーンの文脈で語られつつも、実のところそのどちらともあまり関係ない朗らかなヒッピーイズムとアート志向が根本にある。それから、フリー・フォークではなくて新しい時代のフォークとして登場したボン・イヴェールとフリート・フォクシーズ。彼らは何よりも高い音楽性でもってこそ勝負しようとする、真面目さと理想主義的な立場で音楽に真摯に向き合っている。また、ヘラクレス・アンド・ラヴ・アフェアはきっと、相変わらず頑なにレイヴ・カルチャーの理想を信じる新作を放ってくるだろう。
 
 音楽が現実の状況に追随しているばかりでは寂しい。世界の見方を少しばかり、時には大きく変えてしまうようなものを、僕はいまこそ聴きたいと思うのだ。


The National / High Violet
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 大出世作である前作『ボクサー』でつけた自信は、USインディの現在の活況をリプレゼントしたコンピレーション『ダーク・ワズ・ザ・ナイト』のキュレーターを彼らに務めさせることとなる。そしてそれを経た本作は、バンドとしてより広い場所に進もうとする意欲に満ち満ちたものとなった。ポスト・パンク、チェンバー・ポップ、それに所謂アメリカーナ的なものをしっかりとアメリカン・ロックの土台でブレンドした音楽性はしかし行儀良く収まらずに、感情に任せてややバランスを崩しそうになる瞬間も見せつつスリリングに響く。フロントマンのダンディなヒゲの中年男、マット・バーニンガーの書く歌詞は抽象性もありつつ、より具体的なイメージを喚起しやすいものとなっている。そして彼が、曲によって異なる主人公を――しかし一様に思いつめたようにうなだれた男を演じ、そのバリトン・ヴォイスを響かせることでセクシーなハードボイルド感をも滲ませている。


LCD Soundsystem / This Is Happening
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 とにかくオープニングの"ダンス・ユアセルフ・クリーン"が素晴らしい。抑えたイントロがやがてシンセと共にリズムを鳴らすと、ジェームズ・マーフィが絶唱する――「まっさらになるまで踊れ!」。そうしてアルバムは幕を開け、中盤に向けて次第にメロウになっていく。ジェームズは自分がロックンロール・バンドのフロントマンをやっていることの居心地の悪さを何度も語っていたが、それでも開き直ったようにさらに自分を曝け出すようなエモーショナルな歌を聞かせるのは、やはりラスト・アルバムという決意があったからだろうか。前作の"ニューヨーク、アイ・ラヴ・ユー~"のようなバラッドはなくとも、これまでで最も切ないムードが漂っている。「僕が欲しいのは君の哀れみ」なんていう、相変わらずのみっともない歌詞も彼ならではで......そして僕たちはそんな彼のキャラクターを既に知っているからこそ、ジェームズ・マーフィその人の魅力を改めて思い知ったのだった。


Arcade Fire / The Suburbs
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 グーグルの機能を駆使し、自分の育った土地の住所を入力するとその風景がぐるぐると映し出される"ウィ・ユースト・トゥ・ウェイト"のインタラクティヴなビデオが非常に話題になっていたが、それは本作のテーマを見事に射抜いている。(もしかするとかつて捨ててしまった)自分の出自に立ち返ること......アメリカン・サバービアはかの地において宿命的なテーマだが、ウィン・バトラーはそれに真っ向から取り組んだのだった。アメリカを嫌ってカナダに抜け出した彼は、ここで自身の記憶を呼び覚ましながらアメリカのありふれた物語を描き出す。これまでの作品の悲壮感や演劇性はやや後退し、その分ニューウェーヴ風やパンク・ソングなど、音楽性を広げてとっつきやすいものになっているのも一部の層だけに届くだけでは満足しなかったからだろう。郊外の物語を個人の感傷ではなくて我らのものとして語る、現代の北米を代表するバンドであるという自負と貫禄が備わっている。


★ザ・ナショナル、来日します!
3月17日@Duo、詳細は→www.creativeman.co.jp/artist/2011/03national

名倉和哉木津 毅/Tsuyoshi Kizu
1984年大阪生まれ。大学で映画評論を専攻し、現在大阪在住のフリーター。ブログにて、映画や音楽について執筆中。 https://blogs.yahoo.co.jp/freaksfreaxx

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