「CE」と一致するもの

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 思えば、2014年は、1月におこなわれた〈ハイパーダブ〉のショーケースにはじまたのだった。ジュークの世界に足を踏み入れたコード9がシカゴのDJラシャドを引き連れて来日した記念すべきイベント(最初で最後の、DJラシャドの来日となってしまったけれど)。
 あれから11ヶ月。レーベル誕生から10周年を記念する4部作のコンピレーションのリリースを経て、コード9はこの年の末、再度来日する。
 またしても強力なメンチだ。ハウス・レジェンドからブロークン・ビーツの魔術師へと変貌を遂げたキング・ブリットことフロストン・パラダイム。シカゴ・ジュークの使者、DJスピン。新作アルバム『ウェイト・ティル・ナイト』をリリースしたばかりのアンダーグラウンド・ディーバ、クーリー・G(アントールド曰く「DJも激ドープ」)。
 そして、D.J.フルトノやフルーティといったジュークDJも出演、ダンサーも登場。日本代表ウィージー、レペゼン・シカゴのライトバルブのフットワークが生で見れる! 
 まあ、2014年を締めるには、最高のメンツのイベントですな……存分に踊って、2015年を迎えましょう! Let me show your footwork!

interview with Takagi Masakatsu - ele-king


高木正勝
かがやき

felicity

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 高木正勝が久しぶりにリリースする「オリジナル・アルバム」は、今年もっとも心を揺さぶられた作品のひとつだった。であるにもかかわらず、筆者は彼が今作で録ったものが何であるのかをはっきりと言い表すことができない。

 2枚組となる『かがやき』のディスク2には、スタジオジブリを描いた映画『夢と狂気の王国』、NHKのドラマ『恐竜せんせい』のサントラが収録されている。そこでは『おおかみこどもの雨と雪』や数多くのCM音楽などますます充実する高木正勝の近年の仕事の一端を垣間見ることができるだろう。しかし筆者が驚くのは1枚めの、なかでも昨年引越したという山村で録られた作品群だ。

 ある山村でのフィールドレコーディング作品だと言えば説明としては間違っていない。だが高木は山へわざわざ出かけていって採音してきたわけではない。彼はそこに住んでレコーダーを回している。
 となると、音による生活環境の記録だと言うほうが正確だろうか。それも間違ってはいないだろう。しかし彼は録ったままの自然ばかりではなく、そこで演奏をし、そこに住む人びとに演奏もさせている。ばかりか、その依頼の模様の録音をそのまま収録してさえいる。
 それならば素人とともに作り上げた一種のリレーショナル・アートと言うのはどうか。これまた見当はずれではないと思う。しかしそのリレーションというのは、作品を離れてからもつづいていく、隣人たちとのあいだにつながれたものなのだ。

 高木が録音したものはつまり環境であり生活であり関係でもある。そしてそこに歴史と文化が加わることも、以下を読み進めていただくとよくわかるだろう。土地の歴史と独自の習俗が彼に及ぼした影響は、「天気にすべてが左右される」という厳しい自然環境からのそれと同等以上に大きいことがしのばれる。環境、生活、関係、歴史、文化……。これだけ挙げると、高木が録ったものは世界なのだと要約できるのかもしれない。本作中には、第5回アフリカ開発会議(TICAD V)の一環として依頼された、エチオピアでの滞在とそれをもとにした作品制作企画「うたがき」からもいくつか収録されているが、ここで言うのはそうしたものに表象される「世界」とはまた意味を異にする世界のことである。自分を真ん中に入れて成立しているさまざまなことがら。高木が『かがやき』において行っているのは、それをひとつひとつ確認するような営みであるように思われる。そしてそのなかに彼は“かみしゃま”を見つける──それがどんなものなのかは、本作を聴き本文を読んでみてもらいたい。

 間をあけてみたび現れる“かみしゃま”の、そのそれぞれに涙腺がゆるむだろう。サントラとちがってそれは「ヴァージョンちがい」ではなく、ひとつひとつが生きた解釈として響いてくる。そして、何の説明がなくとも、たとえこのインタヴューがなくとも、こうしたことはディスク1を聴いていけばすべて明白に語られている。難しいものではない。高木の美しいピアノと旋律はそれに聴き心地のよいフォームを与え、音響作家としての、あるいは映像作家としての優れた感覚が、それを上質で飽きることのないBGMのようにも仕立てている。うっかり聴きはじめて、いつしかそのなかに溶け入ってしまう。そして作家の経験を通してその世界をすっぽりと追体験してしまう。素晴らしい読書をしたあとのようだ。

高木正勝 / Takagi Masakatsu
1979年生まれ、京都出身。2013年より兵庫県在住。美術館での展覧会や世界各地でのコンサートなど、分野に限定されない多様な活動を展開している。『おおかみこどもの雨と雪』やスタジオジブリを描いた『夢と狂気の王国』の映画音楽をはじめ、コラボレーションも多数。

自分の音がエレクトロニカと呼ばれるのは、その頃エレクトロニカと呼ばれていた音を作っていた人たちに失礼なんじゃないかと思っていましたね。

高木さんのキャリアのスタート地点には──こう括られるのが本意ではないかもしれませんが、エレクトロニカのひとつのブームがあったと思います。フォークトロニカとかグリッチとかブレイクビーツとか含めて、ですね。フェネスとかピタとか池田亮司さんとかがいるもう片方で、高木さんの『コイーダ』(2004年)のジャケなんかが思い浮かびます。実際に高木さんのなかでは、そうしたシーンの一部であるような意識があったんでしょうか?

高木:最初の1、2枚くらいは、あったと思います。海外のレーベル(〈カーパーク〉や〈カラオケ・カーク〉など)から出していたのは、まだ「エレクトロニカ」っていう呼び方があったかなかったかという頃でした。タワーレコードとかでも「その他」っていう棚で──音響とかアヴァンギャルドとかの一角が「その他」という感じで、いまエレクトロニカと認識されているようなものは「実験音楽」というような呼ばれ方もしていたと思います。
 自分の音がエレクトロニカと呼ばれるのは、その頃エレクトロニカと呼ばれていた音を作っていた人たちに失礼なんじゃないかと思っていましたね。「素人音楽」というような名前があればいいのに、って(笑)。自分の仕事は、映像制作がメインだと思っていたので。

ジャンル全体としては、コンセプチュアルに手法とか実験性を詰めていくような流れがありましたよね。高木さんご自身はもっと感覚的に作られていたという感じでしょうか?

高木:そうですね、そういう人たちがやらないことをやろうとしていました。オヴァルとかフェネスとかが出てきたときは、とてもいい音なのに、なぜこの音を使って旋律を作らないんだろう? って。あとは、なんで楽器の音を上に乗せないんだろう、足さないんだろう、とか。たぶん、そういう隙間を見つけて、自分でもドキドキしながら作っていたと思います。ピアノの音を上に乗せてみたらどうだろう、とか、いまコンピュータで流したよくわからない音をピアノで弾いてみたらどうなるだろう、っていうふうにやっていたら、『コイーダ』の“GIRLS”みたいな曲ができたりして……。そういうのが「エレクトロニカ」だったのかもしれないですけどね(笑)。

まだいろいろと柔らかい部分があったかもしれません(笑)。そういういろんな取り組みのなかから「エレクトロニカ」っていうものの輪郭が立ち上がってきたのかも。

高木:いろいろと考えていましたよね、みんながみんな。

そうですよね。その「考える」ことをしなかったりメロディアスだったりすると、ちょっと厳しく見られたり……その意味では変なストイシズムもあったんじゃないかと思います。

高木:そうだと思いますね。

高木さんも、最初の頃はピアノが少なかったですよね。あるいは、モチーフの底に沈んでいたというか。

高木:はい、はい。

でもそういうものが、あるときからばーっと出てきたというか。生音とか声とかを積極的に使われたり、フィールド・レコーディングに寄っていったりっていう流れがあって、そのひとつの極点が今作『かがやき』のディスク1なんじゃないかと思うんです。

高木:案外変わってないかもしれないですね。むしろ、すごく濃密にその時期やっていたことを詰めると、今回みたいなことになるのかもしれません。演奏も入っているし、あの頃のフィールド・レコーディングだったり、映像的に作ったりしていたのを、いまちゃんとやるとこうなるっていう……。だから、10年前にこれができていたら確実に「エレクトロニカ」って呼ばれたんじゃないか(笑)。

ははは!

高木:電子音入っていなくても。

たしかに。でも、どの棚に置くかというのはレコ屋さんにとってますます悩ましい問題になっていると思います(笑)。

高木:今日、たまたま時間があったので、本当に久しぶりにCDショップに行ったんです。もう、何年ぶりという感じで。そしたらJポップ、Jインディというのはわかるんですが、「アニメ」ってジャンルができていて、アニメって何だろう!? って思って。

映像作品が置いてあるのかなと思われたわけですか?

高木:というか、どういうジャンルのことだろうと思って行ってみたら、ああー! ってなりました。アニメの音楽っていうのが、「ワールド」とかみたいに、こんなに大きな括りになってるんやって。「ワールド」のところに行ってみると、今度は「Kポップ」とか。

ははっ、浦島太郎みたいじゃないですか! アニメなんてチャートもすごいんですよ。

高木:そうなんですね。さらに田舎に引っ越してしまって……。大きな店もなくなってしまいましたから。

あ、そうですね、本当に久しぶりだったんですね。


去年引越をしたんですが、それこそ昔話が暮らしのなかに残っているようなところなんです。何か無理をしなくても、マイクを置いてピアノを弾いただけで、勝手にそういうものが入ってきちゃうんですよ。

さっき「フィールド・レコーディング」と言ってしまいましたが、とくに今回のアルバムで使われている録音(素材)に触れると、「フィールド・ワーク」というほうがしっくりくるような感じがするんです。なんというか、「環境音」として、コンセプチュアルに音楽に取り込んでしまうのではなくて、実際にそこに入っていってありかたそのものと関わるというか。

高木:ああ、あると思います。

何かの折に柳宗悦さんについても言及されていたかと思うのですが、たとえば民芸だったり民俗学みたいなモチヴェーションが、創作の深い根元にあったりするんでしょうか?

高木:ずっと興味がありました。でも、日本でそれをどうやったらいいかわからなくて、海外の、昔話の生きているような生活がある土地をねらって撮影に行ったり。新興住宅地で生まれ育ったので憧れもあって、実際に見たり聞いたりしたいなと。
 でも、去年引越をしたんですが、それこそ柳田國男さんなんかが追われていたような昔話が暮らしのなかに残っているところなんです。だから、何か無理をしなくても、マイクを置いてピアノを弾いただけで、勝手にそういうものが入ってきちゃうんですよね。

ああ、すごくそんな感じです。

高木:たとえば誰かおばあちゃんの声で歌ってほしいなって思ったら、まず誰かに探してもらって、決まったら挨拶にいって、っていう手順を踏むことになると思うんです。でもそうじゃなくって、1年つきあってきたおばあちゃんに「曲あるけど、ちょっと助けて! 歌って!」って声をかけて、「んー」って……「譜があるんやったらいいけど、こんないきなりは無理やわ!」ってやりとりをして(笑)。

ははは!

高木:住んでなければそうやって歌ってもらうって発想もないんですけどね。でも「いやー、歌ってよ!」って家によんだり、縁側で録ったりして。

なるほどー。それがアルバムの頭からしばらくつづくパートでしょうか。

高木:ちょこちょこ入れてますね。以前だったら、たとえばいろんな音を使いたいっていうような──音を素材として考えて、レゴブロックみたいに組み立てたいというようなところもあったと思うんです。でも、今回はそんなふうに考えなくても、窓を開けたらカエルがわんさか鳴いているし、車の光にも集まってきてぴょんぴょん跳ねてるし、鳥もすごくいて、ピアノを弾いていたら寄ってきたりするし、いろんな音が録れてしまう。そういうのが毎日のことなんです。そんな風景をなんとか残せたらいいのにな思うと、自然にフィールド・レコーディングみたいな発想になっていきますね。
 でも、いわゆるフィールド・レコーディングというか、なんというんでしょうかわざわざ山に出かけたりして──

わかります、「山へいって素材を採ってきました」という感じともちがうと。

高木:そう、そういう感じじゃないんですね。自分の住んでいる家の音、村の音をなんとか聴けるかたちまで整える。整えるっていうか、音として届けようとするとこのかたちにしかならなかったというか……(笑)。

いえ、すごくよくわかります。あのおばあちゃんの歌は、練習していないんですか?

高木:いえ、いちおう練習はしてくれたんですけど、CDに使えたのは最初に遊びでやっているところですね。そのあと練習したいというので譜面も渡したんですけど、後日「練習したけど、(録音は)まだかい?」って言われたときには、「いやー、じつはもう終わってて」って(笑)。

ははははっ。

高木:「いや、練習してるがなー」っていうから、「じゃ、録ってみるかー?」って録ってみたら、ぜんぜん歌えてない。むしろ悪くなっている(笑)。

ピアノの音に頼ってつられようとしている感じ、音程に迷いが生まれている感じとか、リアルにわかりました(笑)。

高木:新しいメロディになりすぎたりして。

はははっ。

高木:あかん、好き勝手やりすぎや、って。……僕が欲しかったのは、普段の素敵な、おばあちゃんのしゃべっている延長の声なんです。でも練習したり録音したりってなると、すごく何かの型にはまってしまうんですよね。おばあちゃんたちのなかの録音のイメージ、たとえば氷川きよしだったりとか、演歌の人、テレビの人の歌い方に近づいていってしまうんです。そうじゃない、そうじゃない、まんまでいい。

ああ、むしろ「まんま」ってコンセプトを伝えることのほうが難しい、みたいな。

高木:そう、難しいんです。だから何も説明せずに録っとくしかないですね。

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いまはカメラを向ける側ではなくて、カメラを向けられた側にいるというか。そっち側にいる自分を撮りたいやと思うようになったんです。


高木正勝
かがやき

felicity

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“かみしゃま”の朗読とかも、ぶつっと切って使われてますね。ぶつっと入れて、ぶつっと切って。あの使い方もすごくはっとするものがありました。

高木:ははは。

たぶんそのようにしか入れられないんですね。

高木:入れられないですね。

だから、ある意味では実験性も高いと思うんですが、一方ですごく聴きやすいものでもあると思います。イージーなんじゃなくて音楽至上主義的じゃないというか、あくまで人と人の間にあるものとして発想されているというか。

高木:たぶん、ちゃんとした録音で、間違いのないものを録ろうっていうふうに、はなから思っていないところがありますね。あるときからライヴ・アルバムを作るようになって、こんないわゆる「オリジナル・アルバム」って感じのものを作るのは久しぶりなんですよ。

ああ、そうですね。

高木:前回はそういう意味でのアルバムというよりも、コンピレーションという感じだったし、ほとんどが仕事の曲でもあったんです。今回もそのつもりだったんですが、なにかうまくハマらなくって……。それで新しく録り出したりしました。だから、「アルバム」っていう感じで作ったものは2006年くらいが最後で。すっごく久しぶりだから、ドキドキしたんですよ。

オリジナル・アルバムとしての緊張感がすごくあります。

高木:おばあちゃんの曲とか作るじゃないですか。映画の音楽とかCMの音楽だったら、誰かが、「そこまで」とか「これでいいです」って、締切やOKの合図をくれるんですよね。でもこのアルバムは、曲を入れるか入れないかということを含めて自分で判断しなくちゃいけない。レーベルの人に反対されるじゃなし、さて、このおばあちゃんのを入れるべきかどうかって、すべて自分で決めなくちゃいけないんです。だから毎晩のように、「これ……。録ったはいいけど、どうしようかなー……」って悩んで(笑)。

ははは!

高木:誰が聴きたいのかな、これ、って。久しぶりにそんなことを思いました。

なるほどー。でも、たとえば『Tai Rei Tei Rio』だって、エチオピアに行こうという企画先行の作品にせよ、暮らしとか人と人のなかに入っていこうという作品だと思うんです。そういう原型はすでに少しずつかたちづくられていたのかなとも感じます。

高木:今回は2枚めがいわゆるサウンドトラック集になるんですが、やっぱり、サントラとしてじゃなければ作っていないだろうなという曲が多いんですね。同じ曲の編曲ヴァージョンあったりとか、展開の仕方だったりとか、こういう曲を、なんにもないのにわざわざ自分で作ったりはしないだろうなと。1枚めを聴くととくにそう思います。

はい、まさにわたしもそう思って──今日おうかがいするのはディスク1についてだと思って来ました。それこそ『ミクロコスモス』(『Mikrokozmosz 2003-2007』、2012年)の冒頭の曲(“Private/Public”)とかは、まだ「素材」という感じのフィールド・レコーディングのフォームだったと思うんです。

高木:あ、そうですね。というか、たぶんいまとはすごく大きくちがっていると思います。エチオピアでやった『Utagaki』(2013年)とかに入っている音にしてもそうなんですが、それらはたしかに自分が体験したことではあるんですけど、相手が何をしゃべっているかもわからないし、音としてしか聞いていないようなところがあるんです。それに、どうしてもカメラを向けている感じがあって、自分はその中にいるけど、本当の意味ではその中に入っていないんですね。ただ「見ている」という感じ。うらやましいなと思って見ているんだけなんです。Facebookで「いいね!」って押している感じというか……。

はい、はい。

高木:それが、いまは見ていた側ではなくて、カメラを向けられた側にいるというか。そっち側にいる自分を撮りたいやと思うようになったんです。だから、「いいね!」って思っていた環境に近いところが見つかったから、そこに引っ越してしまいました。今回のアルバムの1枚めっていうのは、もう、そういうことでしかないですね。

すごくよくわかります。

高木:引っ越してからは、自分のまわりに起こることがおもしろいから、それだけでいいんです。誰かが録ってくれればいいんだけど、録ってくれないからつねに録音機を持ち歩いていました。だから、旅行をしながら撮っていたようなものとはぜんぜん目線がちがいますね。この1年2年の暮らしぶりというか、写真のアルバムみたいな感じです。

まさにそこに感動するアルバムだと思います。でも、ここであえて反対側からも考えてみると、わたしの耳には、おばあちゃんの発語もポリネシア語もある意味で同列だったりするんですね(笑)。何を言っているかよくわからなかったりしますし。でも音としてはっきりと何かを訴えかけてくる。そういう「音」っていうレベルから言えば、『Tai Rei Tei Rio』とかもふくめて、高木さんの仕事のなかで溶け合うものでもあると思います。
 発話、発語、何かが音といっしょに生まれてくる瞬間、そういうものがぐわっと取り出されていますよね。

高木:たぶん、僕はそこしか見ていないと思います。たとえばコンサートでも、ずっと練習してきた曲で少し整わない部分があっても、うまくいかなかったというのではなくて、間違いがきっかけでものすごい境地にいけたりします。何かがポンと出てくる瞬間がすべてなんです。


「山で何がおもしろい?」ってまわりの人に訊いたら、とにかく春だと言われて。

高木:1曲め(“うるて”)でしゃべっているのは97歳のおばあちゃんなんですけど、よく柿を採ろうとして曲がった腰のまま手を伸ばしてたりするんです。それがもう、最高の褒め言葉のつもりなんですけど、猿にしか見えない。「シヅさーん」って呼びかけてビクッて振り返る感じも本当に……「猿だ」って(笑)。

ははは!

高木:でも、自分もだんだんそっち側になっているというか、同化していっているところがあります。まだ引っ越して一年ですけど、いろんなことがありました。山のなかではじめて冬を越して、春を味わったんです。「山で何がおもしろい?」ってまわりの人に訊いたら、とにかく春だと言われて。

ああ、春。

高木:そうなんです。「何があっても春だけは体験していって」って言われました。冬は雪も降ってすごく厳しくて、村じゅうが鬱になっていって。

村じゅうが!

高木:はい(笑)。家の中でも、はじめて妻と喧嘩になって……閉ざされた空間で、寒いし動けないし、世界にポツリっていう気分になってくるんです。もう、厳しいなあって。

へえー。

高木:その後くる春の感じが──。もう、日に日にという感じで、あ、芽が出てきた、双葉が出てきたっていうところからはっきりわかるんです。ひとつひとつの変化がうれしくて。鳥がいなかったのに来はじめる瞬間とか、虫がいなかったのに、今日、いま、まさに卵から孵って出てきたんだなっていうようなこととかに全部気づくんですよ。いままで見えてなかったものが一気に見えはじめるんですね。

ああ……。

高木:桜の枝とか花が咲く前に赤くなるって知ってました?

いえ? それはなんというか、オーラとか、比喩的な意味とかではなく?

高木:ええ、見たままというか。おばあちゃんが「枝が赤くなってきたから、花ももうすぐやわー」とかって言うから見てみると、「あ、ほんまや」って。

へえー! それは知らなかったですけど、たしかに、花が赤いからにはその色素がどこかからきているわけですからね。

高木:そうです。昔は、咲く前の枝を切って布を染めるというのが最高の贅沢だったと言ってました。枝から出てくるんですね、色が。それは東京でもどこでも同じはずなんですけど、見えてなかった。いまはすごく解像度が上がったというか。味覚だってそうなんです。野菜なんかもいままではスーパーでしか買ってなかったけど、それはけっこういろいろ壊れたあとのものなんですよね。消毒もされているし。でも自分で育てたものとか、おばあちゃんからもらったものとかだと、採ってそのまま食べますし、少なくともその日のうちに料理して食べてしまうから、ぜんぜん味がちがうんですよ。いままで味わっていたその味覚の幅がすごく広がって、こんな味があるんやってことがわかってきて、おもしろいですよ。

その「解像度が上がる」っていう感覚が、今回の音においては単にプロダクションをクリアにしていくっていうのとは違う方向に出ている気がします。ロウというかなんというか──

高木:うん、そうかもしれませんね。でも本当はクリアに全部録れているならそれでいいのかもしれないです。やり方が……わからないだけで(笑)。たとえば、ホーミーとかがわかりやすいんですけど、声にもたくさんの倍音が含まれているんですよね(※1)。それを感じるか感じないかというのは、生活を大きく違うものにすることだと思います。気にしなくてもいいことではあるんですが。

※1 ひとしきり担当のHさんとホーミー講座を受け、i音で倍音を感じました

なるほど。

高木:気にしはじめると止まらなくなることなんですよね。たとえばピアノを弾くときも、「ド」しか感じない弾き方というのもあるんですけど、その一音に「ドソドミソシ♭ドレミ……」とたくさんの音が重なって鳴っていることにきちんと意識を向ける。奏でた音の響きに耳を澄ませて、それから次の音を鳴らすという弾き方に変わっていくと、同じ楽器といってもまったくちがったものになっていくんです。

ありがとうございます、感覚の感覚はわかった気がします。ちょっとずれちゃうかもしれませんけど、“かみしゃま”って、歌とピアノを同時に録ったものですか?

高木:別ですね。

そうですよね。ピアノが後ですか?

高木:後ですね。

あ、ですよね。なんか、普通はピアノ伴奏に合わせて歌をうたうものですけど(笑)、あの曲は歌にピアノを合わせにいっている──寄り添わせていっているというか。

高木:ははは!

そこに感動がありました。それが、さっき言っていた「音楽至上主義じゃない」っていうことなんですよ。音楽に人を合わせるんじゃなくて、人に音楽を合わせる。

高木:僕はそればっかりしかやってないかもしれない(笑)。

ははは。いえ、その感じがいちばんラディカルに出ているのが、この『かがやき』の1枚めなんじゃないかって言いたかったんです。

高木:ああ、2枚めはそれが映像相手ということになるかもしれないですね。

悪い意味ではなく、きちんとした製品にもなっているんだと思います。その意味では対極的な2枚組ともいえますよね。


餅を食べて、なにか「入った」っていう感じがしました。山を食べたような気もしましたし、なんだろう……生殖にかかわる何かだという感じもしました。

高木:ねえ。1枚めは村に引っ越していなかったらなかったものです。まあでも毎日気にしないといけないものが変わったり、どこでどんな風に暮らしているかは大きいです。雨が降ってきても前の家では大して気にしなかったですけど、山では降ってくるだろうなってことが目にも見えるし、肌にも感じるし。数時間後にくるから洗濯物しまおう、とか、古い家だから通気しないとすぐカビるんですが、あ、閉めたほうがいいかな、とか。

感覚がフルに働きはじめるというか。

高木:うん、そうですね。聞いたことのない音がきこえるなって思うと、何かがいたりもします。妻なんかはすごく聞こえるんですね。ごはんを食べていて「なんか音する」って。僕はぜんぜん聞こえないんですけど、「なんかいつもしいひん音がする」って言うんですよ。それで「こっちや」って見にいったらムカデがいたんです。

ええー! ムカデの音ですか?

高木:そう、「カサカサっていうとったよ」って。僕も「ええー!」って思いました。で、危ないから取って。
 それから、離れにスタジオがあるんですけど、夜、真っ暗な中でそこに行こうとしたときに、何かいるって思ったんですね。何かいつも嗅がないにおいがする、って。

はい。

高木:これはマムシだなと思いました。そしたら、マムシで。

ええー!

高木:やっぱりいたなって。

ええー! って、さっきから「ええー」しか言ってないんですけど(笑)、誰でも住めばそうなれるものですかね?

高木:うーん、はじめはこわいですけどね。でも、自分でもなんでわかったんだろう? って思いましたよ。マムシはつがいで出るって聞いていたんですが、やっぱりそうで、一回家に戻って出たら、におうんですね、もう一匹おりました。

ははは! 今作は、マムシのにおいがわかるようになった高木さんのフィーレコなわけですね。

高木:そりゃ、変わりますよね。

うーん、なるほど。その感じは「かみしゃま」ってものにも結びついていくんじゃないかと思うんですよね。実際、「神様」のイメージは高木さんのなかでどういうものなんですか?

高木:その歌詞どおりで。自分だけじゃなくて、村の人もみんな感じているところを拾おうと思いました。狙ったわけじゃないんですけどね。たとえば、村にいろんなお祭りがあるんです。ひとつひとつはちっちゃいものなんですが、そのひとつに「やまのかみさま」っていうのがあって。

お祭り名が「やまのかみさま」なんですか?

高木:そうなんです。「今日、やまのかみさまやし」って言われて。

ははっ! なに言ってるのかわかんないですね。

高木:はい、「なんやそれ?」って。それで、「男だけやから」って言われて、前の日にお餅をついて、それを藁でできた包みの中に入れるんです。楕円形のような……子宮みたいな感じですね。そこに卵なのか精子なのか、本当に真っ白な餅を入れるんです。女の人はさわってはいけなくて、男だけでやるんですね。

へえ。

高木:それを持って朝早くに山の中に行くんですけど、時間通りに行ったら誰もいなくて(笑)。約束したやん。みんなどこよ? って(笑)。

ははは。

高木:探しながらもっと山に入っていったら、みんな焚き火をしていました。その餅をくべて、焼いて食べるんです。「山とセックスしてるみたい」「山から産まれてきたみたい」って思いました。そういう、山が女で男で……っていうような民俗学みたいなものは、情報としては知っていましたけど、素直にそう思いました。餅を食べて、なにか「入った」っていう感じがしました。

ああ、命か、魂みたいなものか。

高木:山を食べたような気もしましたし、なんだろう……生殖にかかわる何かだという感じもしました。

ええ、なるほど。

高木:お祭りって全部そういうものだと思うんですけど、その感じをみんななんとなくわかってやっているという感じですね。おじいちゃんから子どもまで。で、「いいねー」って食べて、「じゃ帰ろかー」って(笑)。

ははは! ささやか。

高木:なにか、そういうものが生きているんですよね。歌ってくれているおばあちゃんなんかも、お地蔵さんの前を通るときに「あっ」ってやるんです。


こういう毎日なので、暮らしの中でいろいろ発見できる。それを素直に歌詞に書いていくと、神様ひとつとっても、あまり宗教的にならずに、借り物じゃない言葉で表現できたんですね。

どういうことですか?

高木:軽く身を引くというか、お辞儀するというか。神社とかでもお社の何かに触れると「あっ」ってやっていて。診療所に行きたいっていうから車で送ったんですけど、お地蔵さんの前を通るときに、やっぱり「あっ」って言うんですよ。「ん? いまなんか言ったぞ」って思って(笑)。

なんなんですか(笑)。

高木:次の、隣の町の神社のところでもまた、「あっ。今日は若いもんに乗せてもらってます。あっ」みたいな。報告するんですよ。

(一同笑)

高木:それが僕らにも伝染ってきて、東京に来るときも「あっ。東京行ってきます」って(笑)。

ははっ。それが「あ」であることが不思議ですけどね(笑)。お参りのときに出る声みたいな息みたいな。

高木:それをなんて言ったらいいんだろうって……。「神様」っていうとなにか──

なるほど。まして「ゴッド」じゃないですし。

高木:そう。なんか、「かみしゃま」ってふうにはぐらかしたかったし、見近な感じにもしたかったし。それが“かみしゃま”ですけれど、でもそのうたを紙にして持っていって、おばあちゃんに読んでもらうと、「かみさま」って言うんです。

え?

高木:「かみしゃま」を「かみさま」って読む。そこはちゃんとしたいんです。

そこは(笑)。

高木:そこは「かみさま」なんやーって思って。

ははは。すみません、確認なんですが、この詩は村の伝承とかから採ったものなんですか?

高木:いえ、これは僕が作ったものですね。だから「かみしゃま」をかみさまって読むのもわからなくはないんですけど、でも歌のときは「かみしゃま」って歌うんですよ。歌のときはかみしゃまで違和感ないの? ってきくと、「これはかみしゃまでわかるよ」って。

へええ……。

高木:あ、そんなに難しい話じゃないんだなって思いました。引っ越す前はこんな詩はいまの半分も書けなかったかもしれません。たとえば、「みずはくもにあめにゆきにちになり」っていう歌詞が出てくるんですけれども、それも引っ越したあとの暮らしの中で気づいたことなんです。とにかく天気を気にすることから出てきた言葉というか……天気のせいでいろんな事件が起こるので(笑)。
 太陽自体は変わらないんですけど、雲が遮るとくもりになって、それが降り出すと雨になるじゃないですか。以前はそれだけだったんですけど、いまは目の前で雲ができあがっていくのが見えるので、「ああ、雲って水か」って実感できるんですよ。そうすると、天気って全部水のことやん、って思って。家の横の川も、それが何かでせき止められると土砂崩れが起きたり家の中がかびたりするので、つねに流れているようにしなくちゃいけないんですね。それで溝を掘ったりする。そういう水の循環の真ん中に自分たちが立っているという、こういう毎日なので、暮らしの中でいろいろ発見できる。それを素直に歌詞に書いていくと、神様ひとつとっても、あまり宗教的にならずに、借り物じゃない言葉で表現できたんですね。
 僕は、日本語で歌詞を書きたかったんです。それがずーっとできなくて、でも引越しをしてそれがようやくできるようになりました。毎日起こったことを普通に書いていくだけでいいので……。

なるほど。そういう「かみしゃま」については、わたしも知識としては「アニミズム」なる言葉に結びつくようなかたちで知っていたりするわけなんですが。高木さんはもっと皮膚で感じるような具体性とともに理解されたってことなんですね。

高木:そういう言い方でわかる人ならいいんですが、おじいちゃんとかおばあちゃんとかだと、どういうふうに言うのか……というところですよね。

そうですよね。かといって「これはアニミズムをテーマにしたアルバムなんです」というのもちょっとちがいますしね。そんな言い方のレベルの解像度ではとらえきれないような、すごい情報量のつまったアルバムだと思います。
 いまの歌詞の部分はわたしも訊きたかったところなんですが、「くもにあめにゆきに」はわかるんですが、「ちに」なるというところはちょっと驚きがありました。「ちに」なるんですね……「地」か「血」かわからないですけども。

高木:そうそう、「血」のことですね。でもたぶん「地」のことでもあります。前のアルバム(『おむすひ』)で絵本を付けたときに、ひとつひとつの言葉について知らないと、言葉を扱えないなと思ったんです。前から言葉には興味があって。日本語がおもしろいのは、「あ」とか「い」とか、ひとつひとつの音にすごくイメージや意味があって、「葉(は)」だって「歯(は)」だって、あとは「はな」だって同じ「は」という音を持っていますけど、音しかない時代にそういう言葉ができたとすると、どれも何らかのイメージは共有していたんじゃないか──たとえば「刃(は)」と「歯(は)」は同じ鋭利なものというところは共通していますよね。そうなると、「あいうえお」ひとつひとつを知らないと、こわくて使えないなっていう気持ちになるんです。

なるほど。

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何かこの先があるだろうという予感だけはあって。思い返すと、そのときのひとつの限界にはきていたと思うんですね。新興住宅地に住んでいることの限界。


高木正勝
かがやき

felicity

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高木:「ち」の話に戻ると、ようやく「ち」って使っていいって気持ちになったんだと思います。急にというよりも、たぶん何年もかけて。

中西進さんとかを引用してお話されていたことがありましたよね。万葉というか、現行の日本語につながるものの前、言葉以前のものに近いところに戻っていくような感覚なんだなって思いました。

高木:そうですね。そういう言葉遊びができるのがおもしろいです。「やみのおくとひかるおくのまじわり」っていうときに、音だけだと「奥」なのか「億」なのかわからないですよね。それぞれでイメージも変わります。さらに、「ひかるおく」の「おく」が「億」だとすると、億と億が交わるってすごいイメージになるじゃないですか。僕はそっちのイメージで書きました。

なるほど、たしかに。

高木:でも、説明しなければ、多くの人は「闇の奥」と「光の奥」のさらなる光の交わりを想像するだろうなと思いました。それが「闇の億と光る億の交わり」になると、夜は夜ですごい闇がいっぱいあって、朝になってくると光がつぶつぶにたくさんあって、それが毎日毎日交わっているのが「かみしゃま」っていう感覚なんだよって……。

ああ!

高木:おばあちゃんとかはなんにも説明しなくてもわかってくれていて、ちゃんと「やみのおくとひかりのおくとまじわる」って読むんですよ。「まじわり」って書いたのに、なんで「まじわる」って読むんだろうって思って……すごくぞっとしたんですね。なにかいますごいことが起こったって(笑)。そういうことはどこまで聴いている人に伝わるかわからないんですが。

そういうものの原アイディアみたいなものは、すでに“Nijiko”とかに端的に表れているとも思うんですが、でもその発想が本当に音の世界で肉を得たのが今作という感じがします。つながってますよね。

高木:よかった。だから『おむすひ』を作ったときに、すごく気に入っいて、「これの次を作るのやだな」ってずっと思っていたんです。でも、何かこの先があるだろうという予感だけはあって。思い返すと、そのときのひとつの限界にはきていたと思うんですね。新興住宅地に住んでいることの限界。この次はなにか本当に体験しないと、さっきのホーミーみたいに、すでに存在しているものに気づきもできないということになると思った。それで、もう引っ越さなきゃって思ったんです。

なるほど。

高木:村だと80代から上の人がほとんどで、その下はもう僕らって感じになるんですね。もう、上の人たちにはぜんぜんちがう文化があって、断絶がめちゃくちゃ大きいんです。憧れるものとか大切にしているものがぜんぜんちがうし、見ているものもそう。お祭りなんかでも、口に出したりするわけじゃないですけど、いわゆるアニミズムみたいなものを本当に大切にしているんです。性的なものとか愛情のようなものも含めて。でも、そのひとつ下の世代はそこまで思っていない。おじいさんたちほどに自然と一体化していないというか。お祭りなんかでも、下の世代が中心になると、かたちは真似ることができるけど、核心はそこまで引き継げていない感じがしました。だから、兵庫県の山の中のお祭りなのに、平気で北海道の踊りを踊れたりします(笑)。

ははは、それは各地でありそうですね。えっと……

高木:「ソーラン節」ですね。だけど、おじいちゃんおばあちゃんはあんまりそこに入ってこないですね。そういうことは住まないとわからなかったです。「ああ、この人しいひんねや。なんでや」って思ったことが、いまはわかります。いろいろ気づいていくんですけど、でももう長くて20年くらいしか、その人たちから学べる時間が現実としてなくなってきているんですよね。


それまでは外の世界を憧れをもって見ていたんですけれど、自分が住んでいる郊外の感じを肯定したい……映画『おおかみこどもの雨と雪』のサントラが仕上がったとき、ニュータウンに響く音楽がつくれたと思いました。同時に、できることをやりつくしたという想いもありました。

ああ、そうですよね。……ちょっと品のない質問かもしれないんですけど、引越しされたのは、創作のモチヴェーションに一種の危機を感じたからなんですか? それとも、たとえば震災以降に地方に越される方も多かったですが、そういうようなことが関係していたりもするんでしょうか?

高木:どうなんでしょうね。でも、震災がなかったら、もしかしたらもう少し違う意識で移っていたかもしれないですね。

じゃあ、いまのところは「見つかったから」引っ越したという感じなんですか。

高木:たまたま行ったらそうだったから、もうここに住んどこうと思って、けっこうすぐ決めました。どこかに引っ越したいとは思っていたんですけど、不動産屋さんのサイトの情報でいまの家を見つけて、いい感じだったから冷やかしついでに見に行こうと思って、そしたらすごくおもしろそうだったので……。でもいまは1年経ちましたけど、最初は寝るのもドキドキしましたよ。囲炉裏で火をおこしたりというのも、テレビでは見て知っていても、「え、ほんとに家の中で火を燃やしていいの?」って。誰も責任を取ってくれる人はいないですしね。

いわゆる郊外というところが原風景というか、お育ちになった環境なんですか?

高木:そうですね、ニュータウンです。最近まで住んでいたところも「~ヶ丘」というようなところ。山をきりひらいてできたような場所で、文化がないんですよね。歴史もありようがない。ニュータウンですから。

育った場所としての郊外への愛着はありますか?

高木:それはありますね。映画『おおかみこどもの雨と雪』のサントラをやらせていただいたんですが、あの作品の舞台と少し似ていて。後半は田舎に引っ越しはするんですけど、僕が知っている感じのニュータウンが前半の舞台で。その郊外の住宅街の雰囲気が、震災の影響もあってとても愛おしく思えたんですね。それまでは外の世界を憧れをもって見ていたんですけれど、自分が住んでいる郊外の感じを肯定したい……『おおかみこども』が仕上ったとき、ニュータウンに響く音楽がつくれたと思いました。同時に、できることをやりつくしたという想いもありました。この暮らし方で、僕から出てくるメロディとしてはもうこれで限界かもしれないというところまでいって。
 あの土地でつくった曲は大切ですね。あるときぽっと出てきた“GIRLS”みたいな曲とか『おおかみこども~』のお母さんの曲とか、やっぱり人生のいろいろが全部入ってます。毎年毎年繰り返し弾いて育てていきたいなと思います。ちゃんと歌いなおすというか。そのほうがきちんと次にいけるって思うし。

歌って、そもそもそういうものかもしれないですよね。

高木:そうそう、そんなに数はいらないですよね。

はい。継承されていくものでもあるだろうし、メロディというか節だけを頭にインストールさせとくものでもあるというか。

高木:子どものころに聴いたポップ・ソングとかだったとしても、ずっと頭の中で育っていて、あらためていつかラジオなんかで聴いたときに、何かちがうもののように響いたりする──あえて聴かなかったり歌わなかったりするほうが育つということもあると思うんです。

よくわかります。あの、高木さんが先導して一節を歌って、それをたくさんの人たちが追いかけて歌うかたちの録音が入っていますよね(“あげは – 合唱”)? あれはどういうときのものなんですか?


子どものころに聴いたポップ・ソングとかだったとしても、ずっと頭の中で育っていて、あらためていつかラジオなんかで聴いたときに、何かちがうもののように響いたりする──あえて聴かなかったり歌わなかったりするほうが育つということもあると思うんです。

高木:あれは、台湾の台北でオーケストラといっしょに演奏会をやったときのもので、まとめるのがけっこう大変だったものですね。文化も言葉もちがえば、時間もなく。それで、一通りやっと終わったというアンコールでの模様なんです。せっかくこんなに音楽を奏でられる人たちがいるんだから、ちょっと自由にやりたいなって……お客さんに「僕がまず歌うので、山びこみたいに同じ旋律を歌い返してください」って声をかけて。みんな一回歌うたびにくすくすって笑いながら──

そう、ちょっと戸惑うような空気感もそのまま録られていましたね。

高木:そうですね。だから最初はうまくいかなくて、なにかふにゃふにゃとなってしまう。次にやってもそう。でも、ちょっとうまくなってきたときに、急に空気を変えたんです。本気でいきますよ、あそびじゃないですよっていう感じで雰囲気を切りかえたら、お客さんも急に声が変わってきて、すごく声の立つ人が出てきたりして。

ああ、そうですよね! プロみたいな発声の人が何人かいらっしゃるみたいに聴こえました。

高木:そう、オーケストラもそこまでは様子を見てる感じだったのが、急に演奏しだして、最後の最後にばちっと合う瞬間があったんです。たった数分でここまでたどりつくんやっていうような感動をみんな味わっていて、結局その日の感想はみんな、「あれが楽しかった」っていうのばっかりでした(笑)。

ははは! すごいですね。ライヴならともかく、演奏会ってなかなか煽られても声を出せないですよ。そのお話に鳥肌が立ちますね。あれは、ホール……いや、体育館みたいな音響ですよね?

高木:あ、体育館みたいなところですね。

なるほど、でもハコに集まってきた人たち……音楽好きな人たちではあるわけで、それに対して今回録っているのは村、庭先、そのつもりのない人たちじゃないですか。その両者、あるいはエチオピアだったりっていうものの差までが、今回はひとつに統合されるという印象も受けます。

高木:ね。だから細かいところでいえば、場所もちがったり、音の処理なんかもちがうし、違和感のある人はあるかもしれませんけど、音を使って何をやるかという点では全部同じなんです。たとえば、ピアノを弾いて、鳥がなくのを待って、それを聞いてからまた弾こうかなと思うと、思ったとおり「ほーほけきょ」ってなくんですよ。後から編集しようと思えばできることですけど、現実にちゃんとそうなるので、こっちは音を鳴らすだけでいいんです。ぜんぶその耳で聴いてもらえれば……。“せみよび”っていう曲があるんですけど、あれも合成じゃなくて、やっていたら蝉が自然に歌ってきたっていう感じです。

ああ、そうなんですね。

高木:なにか、「これが答えです」っていうようなつもりはないんです。読書とかもそうなんですけど、好きな読書体験って、いかに勘違いできるかということだったりして。

一同:ああー。

高木:数ページ進んでしまってから「ああっ!」って。読みながら空想してしまっていて、ああ、いますごくいいことを空想していたけど、読めてない! っていう感じになって、ちょっと戻ってもう一回読むんです。それで、その本の内容がすごくおもしろかったという話を他の人にしたりするんですけど、後で読んでみたらぜんぜんそんなこと書いてないんです(笑)。

はははは! そこまではないですけどね。

高木:だから、たぶん空想の誘発剤になるところが好きなんです。


今回ほどハンディなレコーダーに頼った録音はいままでになかったと思います。それに耐えられるだけの機材が出てきましたよね。

世の中がデジタルに移行していったことで、ようやく何か作れるようになった世代ですから。そういうタイミングでなければ、別の仕事をしていたかもしれません。

なるほどー。初期から一貫している部分も変化のように見える部分もあるわけですが、環境については今回大きな動きがあったということをすごくたくさんおうかがいできました。録音の仕方や方法については、これから変化していくことはありますかね?

高木:そうですね……。今回ほどハンディなレコーダーに頼った録音はいままでになかったと思います。それに耐えられるだけの機材が出てきましたよね。それに、カメラの性能が上がったのといっしょで、わざわざ後からInstagramみたいなものを用いなくても、iPhoneなんかでさえすごく見たままのものを撮ることができる。カメラで撮った場合についてしまう脚色が極力なくなっている……みんなそれがいやでInstagramとかを使うのかもしれないですけどね。

ああ、そうですよね。

高木:だからいいことか悪いことかはわからないですけど、僕はけっこう見たままのものがいいと思うので、その意味ではけっこう頼れるものが出てきているなと思います。昔にくらべて、いま聴いたままのものが録れるようになっている。
 あとは……やりたいことの理想はあるんですけどね。つねにぱっと録りたいし、事を起こしたいです。引っ越したし、いろんなことをやれる空間もありますし。いままではひとりひとり会いにいって録音したりしていましたけど、これからはばっと家に集まって録ることができるなあということはありますね。ひとりでずっと作っているのに飽きてきて。だから合宿みたいにやれたらいいなって。まあ、他のミュージシャンの人たちがふつうにやっていることではありますけれども(笑)。

そうですけど、それもおもしろそうですね。

高木:自分にとっては新鮮で。泊りがけでずっと何かをやるとかっていうことが、これまであんまりないんですよ。そのほかには、次に映画音楽を頼まれていますね。それはピアノを使っちゃいけないというしばりがあって……じゃ、何やるんだっていう(笑)。

(一同笑)

ははは! でも、お住まいがすごい田舎になっているけど、テクノロジーを嫌わない感覚って高木さんの音楽にとってもけっこう本質的なことのような気がします。エレクトロニカという出自も併せて。

高木:コンピュータが安くなったり、デジカメが出てきたり、インターネットを使うようになったり、世の中がデジタルに移行していったことで、ようやく何か作れるようになった世代ですから。そういうタイミングでなければ、別の仕事をしていたかもしれません。たしかにあの頃は新しく出てくる機材やソフトやアイデアがいちいちおもしろかったですが、だんだん何でも簡易に大雑把になっていく傾向があって物足りなくなっていったんですね。
 僕自身は、その頃からきちんと根本的なことを学びたいとか、時間が掛かってもいいから自分の身体で何かしたいという風に変わっていきました。

世の中もひと回りして、音質や画質がぐんといいのが当たり前になって、だからこそ何を記録するのか、何を残したいのか、核心部分にきちんと取り掛かれるようになってきたと思ってます。

高木:そうこうしている間に、世の中もひと回りして、音質や画質がぐんといいのが当たり前になって、だからこそ何を記録するのか、何を残したいのか、核心部分にきちんと取り掛かれるようになってきたと思ってます。僕としてはいい流れというか、演奏できる身体になってきたなと思ったら、ぽんと気楽に置いておくだけでいい音で録音できる機械がでてきて。村での録音も、ひと昔前だったらここまで簡単に鮮明にはできませんでしたから。いいところに落ち着いたなと思ってます。僕と同じように、「こんなにきちんと残せるならこれを残したい」っていう人はこれからきっと他にもたくさん出てくると思いますよ。

死の黒は春の黒へ - ele-king

 現〈アンチコン〉を代表するビートメイカー、バスが、今年発表したEP『オーシャン・デス』でみせた意外な展開──ダークでミニマルなテクノ──は、音楽のモードばかりでなくもうひとつの“モード”にも接続した。〈ディオール・オム〉2015年春のビデオ・ルックブックのサウンドに、そのタイトル・トラックである“オーシャン・デス”が起用されたのだ。
 デイデラスの寵愛を受けるLAビート・シーンの鬼っ子、といった説明はすでに過去のものになっているが、当時もいまも、「どこか」のジャンルに繰り入れられることなく、アーティに、かつポップに、そしてオリジナルなフォームのもとに独自の世界をひらいてきたバスが、ファッションとの交差においてするどい緊張感をはらみながら魅せる音の色は、『オブシディアン』(2013)から引き継ぐ黒。3人の男たちのまとうディオールからは、そのつややかな黒をやぶって萌えいづる春の色がのぞいている。パリのクリエイティヴ・ユニットM/M (Paris)によるデザインが完璧なフレームを提供する、この欠けるところなきヴィデオをご覧あれ。



 Dior Homme 2015年春ビデオルックブックのサウンドに、Baths「Ocean Death」が起用されました!!

 ビデオに登場する、モデル達が佇むモジュラー式シーティングのデザインはビョークやカニエ・ウェスト、そして数多くのビッグメゾンとコラボレーションをした、パリを拠点に活動するクリエイティヴ・ユニットM/M (Paris)(エムエムパリス)によるもの。

 コレクションの世界を象徴するBathsの曲“Ocean Death”のエネルギッシュなビートにのって映像ははじまります。

■詳細
https://www.dior.com/magazine/jp_jp/News/アーバン-ミックス

■Baths『Ocean Death』

リード楽曲


ライヴ映像 (収録曲「Ocean Death」パフォーマンスは12分50秒から)



Baths
Ocean Death EP

Anticon / Tugboat

TowerHMVAmazon

作品詳細

https://www.tugboatrecords.jp/4912

・発売日:2014年07月16日発売
・価格:¥1,380+tax
・発売元: Tugboat Records Inc.
・品番:TUGR-015
・歌詞・対訳・対訳付き

■Baths
 LA在住、Will WiesenfeldことBathsは現在25歳。音楽キャリアのスタートは、両親にピアノ教室に入れてもらった4歳まで遡る。13歳の頃にはすでにMIDIキーボードでレコーディングをするようになっていた。あるとき、Björkの音楽に出会い衝撃を受けた彼は、すぐにヴィオラ、コントラバス、そしてギターを習得し、新たな独自性を開花させていった。大傑作ファースト・アルバム『Cerulean』は、LAのanticonよりリリースされインディ・ロック~ヒップホップリスナーまで巻き込んだ。満を持して2013年にリリースしたセカンド・アルバム『Obsidian』はPitchforkをはじめ各メディアから高い評価を得た。いまもっとも目が離せないアーティストと言ってもけっして過言ではない。


「沼牧場」 - ele-king

 いや、ホント、かったるい世の中ですね。それじゃま、パーティに行ってナマで踊りましょうってことで、今月の28日金曜日、代官山ユニットで、おもろいパーティがあるので紹介します。その名も「濡れ牧場」。COMPUMA、Dr.NISHIMURA、AWANOの3人による沼人パーティ「悪魔の沼」とCMT、Universal Indiann、Shhhhhの3人による放牧パーティ「濡れ牧場」との合同パーティということです。バカバカしくて、ナイスなネーミングです。ライヴにはヘア・スタイリスティックスこと中原昌也します。フライヤー持って行くと1500円で、気軽に入れるところも良いです。FOODコーナーもあるようなので、月末金曜日は、代官山で踊ろう。私も紙エレの入稿が終えていたら行って、自分を解放したいっす。

2014.11.28.fri
代官山UNICE
open:23:00
entrance:2000yen / 1500yen(w/flyer)

濡れ牧場
(C魔T・Uni魔ersal Indiann・S魔魔魔魔魔)
悪魔の沼:
(COMPU魔・Dr.NISHI魔RA・A魔NO)

LIVE:ヘ魔・スタイリスティックス

OtOdashi Sound System
supported by BLACK SHEEP

「沼牧場」

濡れ牧場
CMT、Universal Indiann、Shhhhhが2002,3年頃から東高円寺GRASSROOTS 平日に開催していた"放牧"会。やるなら平均12時間。本人たちもその存在を忘れた頃にたまに開催される。

悪魔の沼
2008年結成。現在のレジデントである沼クルー(沼人)は、COMPU魔、Dr.NISHI魔RA、A魔NOの3人。 東京・下北沢MOREの沼に生息。 活動は不定期ながらおよそ季節ごとの開催を目指している。これまでに、E魔C魔D、瀧魔憲司、二魔裕志、MOOD魔N、 魔ltz、魔DRINK、Toshi魔-BING-Kaji魔ra、テーリ・テ魔リッツ、小魔林 径、2魔ng(一★狂/国際ボーイズ)、C魔H魔E魔E、C×魔×Tなど、多彩なDJやアーチスト達が独自の沼を演出してきた。 2014年3月に、BLACK SMOKER RECORDSより3作目のMIXCD『涅槃 -Nirva魔-』をリリースした。

HAIR STYLISTICS(中原昌也)
1970年東京都生まれ。88年頃よりMTRやサンプラーを用いて音楽制作を開始。90年、アメリカのインディペンデントレーベルから「暴力温泉芸者=Violent Onsen Geisha」名義でスプリットLPをリリース。ソニック・ユース、ベック、ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンらの来日公演でオープニング・アクトに指名され、95年のアメリカ・ツアーを始め海外公演を重ねるなど、日本以外での評価も高い。97年からユニット名を「Hair Stylistics」に改め活動。映画評論、作家など多岐にわたる活動でも知られる。2013年にはdisques cordeより初の全編ビートアルバム「Dynamic Hate」をリリース。数多くの作品のリリース、ライヴなど精力的な活動が続いている。


Veronique Vincent & Aksak Maboul - ele-king

 夏頃だろうか。突然、アクサク・マブールの新作が出る! なんて噂を耳にしてそわそわしてしまったのだけど、それがヴェロニク・ヴィンセント(元ハネムーン・キラーズの紅一点ヴォーカル)&アクサク・マブール名義のものと知り、「……ていうか、これってアクサク・マブールというよりもハネムーン・キラーズでしょう?」と考えこんでみたのもつかの間、名義の後ろにしっかり「with ザ・ハネムーン・キラーズ」と書かれていて納得。そもそも、アクサク・マブールの頭脳であり〈クラムド・ディスク〉首謀者でもあるマーク・ホランダーは、同時にハネムーン・キラーズのメンバーでもあるんだから、そんなことはどうでもいいのだ。そして、内容のほうはというと、新録ではなく1980〜83年に録音されていたもので、本来ならアクサク・マブールの3枚めとしてリリースされる予定だったはずが、何がどうしたのやら完成を待たずにお蔵入りになってしまったブツで、30年越しに陽の目をみるというんだからもう……おもしろくないなんて言わないよぜったい!

 出身はベルギーなのに、母がポーランド人、父がドイツ人。生まれがスイスで幼少期をイスラエルで過ごす、というホランダーの特殊な生い立ちが影響しているとしか思えないキッチュでストレンジでプログレッシヴなコスモポリタン・ポップが炸裂するファースト『偏頭痛のための11のダンス療法』(1977)。フレッド・フリス、クリス・カトラー、カトリーヌ・ジョニオーらレコメン系の精鋭たちとの必然的出会いが産み落としたチェンバー・ロックの最高峰であるセカンド『無頼の徒』(1980)──NWWリストにも掲載されていて、いまや泣く子も黙るアヴァンギャルド古典2枚を残して消滅したアクサク・マブールのその後を知るにはうれしすぎる作品が世に出たわけだが、これがじつに肩ひじ張らないゆかいつ〜かいエレポップな仕上がりでびっくり!

 トレードマークともいえる、ぽんつくぽんつく拍子を刻むリズム・ボックスを土台に、光輝くエキゾチックなシンセ/キーボードのフレーズが次から次へと飛び出し、まるでテクノ歌謡のごときノスタルジアにかられるかと思いきや、東西ヨーロッパを横断するオリエンタル急行のようにパンクでロマンチックな疾走感をもったナンバーがピコピコ駆け抜ける。しかも、ホランダーによるヘンテコなアレンジが随所に仕掛けられているので、ドタバタ蛇行しながら全力疾走を強いられたりして異様にスリリングなのだ。ホランダーと同じくアクサク・マブールの創設メンバーであり、ハネムーン・キラーズにも在籍していたヴィンセント・ケニスやファミリー・フォッダーのアリグ・フォッダーらが参加しているのもうれしいけど、やっぱり結局のところ、そこにホランダーの妻でありモデルでもあるヴェロニク嬢のフレンチロリータ風イエイエ・コケティッシュ・ヴォーカルがのるんだからたまらない。エレガントなくせに舌ったらずで憎いぜこのヤロー! 聞き惚れるぜこんチキショー!!

 楽曲のどれもがダンサブルでキヤッチーなフックをあわせもち、さらにヴェロニク・ヴィンセントの存在感ありまくりのヴォーカルがフィーチャーされているがゆえに、ハネムーン・キラーズ寄りの作風に思われるこの作品。しかし、チャルメラ風のシンセリフ、トロピカルなギター、奇妙なダブ処理のほか、アコーディオン、クラリネット、シロフォン、サックスなどの音も聞こえてきたりして、一曲のなかにさまざまなアイデアを放りこんで巧みに楽しむワケのわからなさはアクサク・マブールの実験室内楽そのもの。ボーナス・トラックに収録された、一段上のレベルをいく異様にエネルギッシュなライヴ演奏を聴いてほしい。いまの耳で聴いても辺境最先端をいく、緻密にして野蛮でエスプリの効いたあざやかなグルーヴが魔法のように紡がれて──そこにはるか昔という感慨はない──まるで、ついさっきの出来事のようなけざやかさに度肝をぬかれてブチのめされるはずだ。

 ジェフ・ミルズの『Man From Tomorrow』は、今年2月2日、パリのルーブル美術館オーディトリアムでのワールド・プレミア上映において、入れない人が続出するほどの盛況を博したという。電子音楽ファンにとっては興味津々の上映だっただろう。そのアート・ドキュメンタリー・フィルムが、限定でリリースすることが発表された。

 昨年は日本科学未来館館長の毛利衛氏(宇宙飛行士)の依頼で同館のシンボルゾーンに設置された地球ディスプレイをとりまく音を作成したり(毛利氏とは同時にコラボレーション・アルバムも制作している)、それを記念したトーク・セッションの折には、フリッツ・ラング『メトロポリス』に生DJで新たなサウンド・トラックを提供するなど、映像めぐる作品や活動がますます活発になっていることは、ここ日本における取り組みやイヴェントからもはっきりとうかがわれる。

 このたびリリースされる『Man From Tomorrow』は英文+和訳の解説もついており、日本盤にはサイン入りポスターも付属。アート・フィルムとして、またファンとしてもぜひ蒐集しておきたいアイテムだ。

『MAN FROM TOMORROW』トレーラー

 近年、音楽だけにとどまらず近代アートとのコラボレーションを積極的に行い、フリッツ・ラング『メトロポリス』への新たなサウンド・トラックや、パリ、ポンピドゥーセンターにおけるフューチャリズム展に唯一の生存アーティストとして作品を提供するJeff Mills(ジェフ・ミルズ)。

 テクノ/エレクトロニック・ミュージックによる音楽表現の可能性を拡大しつづける彼が、John CageからRichie Hawtinにいたる現代ミニマル・ミュージックに造詣が深く、デトロイトのElectrifying Mojoのドキュメンタリー作品『The Colours of the Prism, the Mechanics of Time』でも知られるフランス人映像作家、Jacqueline Caux(ジャクリーヌ・コー)とタッグを組んで今年発表した映像作品『Man From Tomorrow』(Axis Records / U/M/A/A)を、12月17日にDVD+CDの2枚組、日本500枚限定でリリースされることが決定した。

 アーティスティックでエクスペリメンタルなこの映像の中には、Jeff Millsの考えるテクノのあり方、音楽制作の過程、彼の想像する未来、また、大観衆の前でプレイする際に感じる不思議な孤独感(「One Man Spaceship」で表現しようとした宇宙における孤独感に通じるものでもある)などのすべてが凝縮されると同時に、テクノ・ミュージックの醍醐味を、DJイヴェントとは異なったスタイルで表現する試みで制作された作品。まさにJeff Millsの創造性・実験的精神をあますところなく体現する作品だ。

 今年2月にパリのルーブル美術館オーディトリアムでワールド・プレミアを行った後、ニューヨーク(Studio Museum of Harlem)、ベルリン(Hackesche Hofe Kino)、ロンドン(ICA)と上映を重ね、その後、京都、東京でも上映された本映像作品を、Jeff Millsによるサウンドトラック(16曲中12曲が未発表曲)を収録したCDとともにパッケージ。日本限定特典としてJeff Millsによるサイン入りポスターも封入される。

『Man From TomorrowなぜJeff Millsが音楽を作るのか、テクノとは何のために存在するのかという疑問の答えを解き明かす映像による旅路。エクスペリメンタルな映像美に彩られた斬新なスタイルのアート・ドキュメンタリー・フィルム作品を手にされてみてはいかだろうか。

Jeff Mills
https://www.axisrecords.com/jp/

Jacqueline Caux
https://www.jacquelinecaux.com/


■JEFF MILLS
『MAN FROM TOMORROW』(DVD+CD)生産枚数限定日本仕様

(日本オリジナル特典: JEFF MILLSサイン入りポスター)

品番:XECD-1132
価格:¥3,900(+税)
発売日:2014年12月17日

[DVD]
ドキュメンタリー映画(40分)
オーディオ:英語 / 
字幕:日本語、フランス語、イタリア語
ブックレット: 解説:門井隆盛/
ジャックリーヌ・コー(英文+和訳)

Produced by Axis Records & Jacqueline Caux
Starring Jeff Mills
Directed by Jacqueline Caux
Original Music by Jeff Mills

[CD]
1. The Occurrence
2. Multi-Dimensional Freedom *
3. The Event Horizon *
4. Gravity Drive *
5. Star Marked *
6. Us And Them *
7. Sirius *
8. The Man Who Wanted Stars *
9. The Source Directive
10. Actual
11. The Watchers Of People *
12. Searching *
13. The Warning *
14. Light-like Illusions *
15. Star People *
16. Utopia
(合計:71分)
* 未発表曲


Scott Walker + Sunn O))) - ele-king

SCOTTO))) なる筋書き
Side:Sunn O)))倉本諒

 今年の春頃に「SCOTTO)))」とロゴのみのヴァイラル効果を狙ったウェブ・ページが〈4AD〉から表れ、音楽メディアを騒がせた。サンによる毎度スキャンダラスなコラボレーションは今回も大きな波紋を呼ぶのだろうか?
 その時どきの時代性を射抜く先駆的なコラボレーションを企ててきたサンは、もちろんドローン・メタル/パワー・アンビエントのバンドであるわけだが、僕はそれ以上に彼らをある種のカルチャー・ムーヴメントの立役者として捉えてきた。

 ヘヴィ、またはラウドと呼ばれるような音作りにおいて、その筋から絶大な信頼がおかれているアンプ──サン(sunn)だ──によって壁を築き、そのいまはなきメーカー・ロゴをそのままバンド名に冠し、カルトな垂れ流しドローン・ロック・バンド、アースへのトリビュートを謳うパロディ・バンドであったサン。彼らをはじめてコンテンポラリーな存在に仕立てたのは、2003年に発表したアルバム『White 1』でのジュリアン・コープとのコラボレーションだ。
 バーニング・ウィッチ(Burning Witch)、ソーズ・ハンマー(Thorr's Hammer)等で、ひったすらに重い、遅いメタルやハードコアを追求してきたスティーヴン・オマリーとグレッグ・アンダーソンがたどりついた、「スピードは死に、それでも地を這うメタル・リフとフィードバッグが延々とアンプから垂れ流される」という境地をカンテラの明かりで照らすようなジュリアンの朗読が冴える“マイ・ウォール”はいまも秀逸な響きを放っている。

 今回のスコット・ウォーカーとのコラボレーション『サウスト』を聴きながら、これまでのサンのコラボレーションに思いをめぐらせ、10年以上も前のジュリアンとの曲を振り返り見えてくるバンドの原点、それは舞台装置としてのサンだ。

 圧倒的な数のヴィンテージ真空管アンプとスピーカーの壁から放射される、まさに振動としての音波、やりすぎなスモーク、全身に纏うローブ、ギター・ミュージックの究極形にあるアンビエント化したロック・サウンド。舞台装置としてのサンのコンセプトは完成されている。それは文字通りショウとしての、エンターテイメント/見世物としてのロック史の、黒いパロディのようでもある。
 今回その舞台で披露された演目は、スコットとの、さながら『ファントム・オブ・パラダイス』のような悪夢のロック・オペラだ。フランスの舞台演出/美術家、『こうしておまえは消え去る』のジゼル・ヴィエンヌによるビデオ・クリップも発表され、ゴシックな舞台を彩っている。そもそもスティーヴンとピタによるKTLは当初ジゼルの演劇作品『キンダートーテンライダー(Kindertotenlieder)』の舞台音楽としてキャリアをスタートさせているわけだし、どうにも彼らはこういう方向性に強いようだ。
 10年以上前の“マイ・ウォール”でジュリアンがスティーヴンとグレッグの紹介を読み上げるセリフから、今回のスコットとのコラボレーションまでが、サンによる壮大なバンド活動計画の脚本のうち、とすら思われてしまうほど説得力を感じてしまう。

 過去のさまざまなアーティストたちとのコラボレーション同様、この作品が音楽のみならず、映画やファッション、現代美術など異なるフィールドを振動させてくれるのが楽しみである。

倉本諒

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ホラーと笑いのロック・オペラ
Side:Scott Walkerブレイディみかこ

 お。ポップになったじゃん。
 という表現が適切かどうかは不明だが、サンO )))と組んで聴きやすくなるアーティストというのもスコット・ウォーカー以外にそうはいないだろう。
 異色のコラボと言われるが、UKでは「すごくわかる組み合わせ」「もう音が想像できる」みたいなことが何カ月も前から言われてきた。思えば、スコットの前作『ビッシュ・ボッシュ』にもへヴィでオカルトなメタルっぽい音色はあったし、でも肉切り包丁を擦り合わせてきーきー言わせてた音がギターの音に変わったのだから、それはやはりポップになったのだ。が、だからと言ってスコット・ウォーカーとサンO )))のコラボに、ルー・リードとメタリカの『Lulu』のようなものを期待してはいけない。本作に比べれば『Lulu』はワン・ダイレクションのベスト盤のようなものである。
 わたしはだいたい音楽と名のつくものは何でも好きだが、一つだけどうしても駄目なのがメタルであり、のべつ幕無しギャーギャーわめくものが嫌い。という性格的なものだろうが、サンO)))の場合はわめくというより、唸ったり轟いたり歯ぎしりしたりという幅広い表現を追求しているのでスコットの声とは絶妙に合う。60年代には低音の魅力で売ったスコットも、前衛音楽に移行してからは妙な緊迫感のあるテノールを前面に出しており、本作は冒頭からまさにロック・オペラのようだ。
 スコットの音楽は映画的とも言われるが、たとえば、彼の『ティルト』以降のアルバムがタルコフスキー的だとすれば、本作はケン・ラッセルのロック・オペラ『トミー』だ。あれももともとはザ・フーのアルバムだったのに、ケン・ラッセルが映画化した途端にイロモノになったというか変なことになったが、スコット・ウォーカーもサンO)))と組んだ途端に変なことになった。ここでの彼は難解で崇高な芸術家ではなく、いい感じに力が抜けてイロモノ化している。

 歌詞にもそれは表れている。ああ見えて彼は以前からこっそり歌詞で笑わせることで知られていたが、『サウスト』ではそれが炸裂している。‟ブル”のソニック・ホラー風の緊迫した曲調でいきなり「leapin’ like a river dancer’s nuts(リバー・ダンスの踊り手の睾丸のように跳ね回っている)」などと歌われると、ぴょんぴょん跳ねながらアイリッシュ・ダンスを踊っている白タイツの男性を想像して吹きそうになったのはわたしだけではないだろうし、マーロン・ブランドが題材という‟バンド”でバシッ、バシッと鞭のパーカッションを使いながら「A beating will do me a world of good(ぶってくれたらとても僕のためになるのだけれど)」と劇的に歌い上げるのもナイスである。スコットは2008年にサンO)))からコラボの申し入れがあったときには断ったが、しっかりそれを覚えていてコラボ用の曲を書き溜めていたというのだから、きっとやりたくてウズウズしていたんだろう。

 2012年の『ビッシュ・ボッシュ』のレヴューを読み返していて、「スコット・ウォーカーはコードとディスコードの間にあるもやもやとした部分を追求している。この未知の領域は人間を不安にさせる。この不安に比べると、恐怖はまだいい。ポップだからだ」と自分で書いていたことに気づいたが、まさに『サウスト』の彼は、さらなる「不安」の探究を休み、よりポップな「恐怖」をやっているように思える。きっと彼はサンO)))という、それを形にする最高のパートナーを見つけたのだ。

 こうなってくると、気になることがある。それは、デヴィッド・ボウイやブライアン・イーノを羨望させたレジェンドが、このノリでつるっとステージに立ったりするのではないかということだ。そういうことを期待させるぐらい、本作のスコットは弾けている。そしてタルコフスキーよりケン・ラッセルのほうが100倍ぐらい好きなわたしにとり、本作は今年もっともチャーミングなアルバムだったと言ってもいいほど怖くておかしい。

ブレイディみかこ

ひらきつづける渋家(シブハウス) - ele-king


今年の注目書『遊びつかれた朝に』。表紙の写真は〈渋家〉内部を撮影したものだ。

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 今年の夏ごろにメールマガジンのサービスもはじまったが、〈渋家〉の活動がいっそう活発になってきているようだ。いまは乱暴に「シェアハウス」と混同されることも少なくなったのではないだろうか。渋谷の一軒家を拠点に現在50人のメンバーが活動するアートプロジェクト、〈渋家(シブハウス)〉。当初はアート・プロジェクトという性質がここまではっきりと打ち出されていたわけではなかったが、広報部などが整えられ、また、発起人である斎藤桂太や現代表のちゃんもも◎、かつての住人や周辺アーティストたちの活躍のステージが広がっていくことに比例するかのように、積極的に社会へ向けた発信・提案を生み出している印象だ。他にほとんど例をみない形態での活動を行っている当事者として、自身らが引き受けるべき役割や、それに対してどう責任をとっていくのかといったことにまで自覚的であるような、ユニークな取り組みが次々と発表されている。

 おそらくはこうしたイヴェントのシリーズも、その一端を示す好例なのではないだろうか。〈渋家アートカンファレンス〉が、12月6日(土)に開催される。

■渋家アートカンファレンス Vol.2
表現の自由と権力、その付き合い方
- Mix well with art and power -

川田淳 (アーティスト) / 塚田有那 (編集者) / 林道郎 (美術評論家) / 藤森純 (弁護士)
2014年12月6日 (土) 19:00 - 22:00

 「渋家アートカンファレンス」は、渋家が、昨年、森美術館による「全国のディスカーシブ・プラットホーム」に選出されたことなどを受け、アートを生み出し発表する場としての機能をより緻密に構成すために企画され、今年3月に東京国立近代美術館美術課長・蔵屋美香、美術評論家・林道郎を招き、「今、私たちを収蔵できますか? - アーティストとアーカイブ -」と題したテーマで第1回が開催された。

 第2回となる今回は、アーティスト・川田淳、編集者・塚田有那、美術評論家・林道郎、弁護士・藤森純というアートにかかわりながらも様々な立場にある方々をゲストに迎え「表現の自由と権力、その付き合い方 - Mix well with art and power - 」と題したテーマで開催される。

 表現規制を思わせるニュースが立て続けに報道され、そのコメントがSNSを賑わせる昨今、一方では、検閲に抗う、新たな表現の形を模索する果敢な展示も行われはじめているが、そういった果敢な展示も、その性質上、一過性のものとなってしまう危険性を孕んでいる。このまま、まさに「忘却の海」になってしまう前に、この状況を批評し、解釈し、そして展開して行く為に、様々な作品の提示の方法、本質、そしてそれぞれの暴力性についてを話し、忘却に抗う場にするという。

 渋家は、渋谷の一軒家を拠点とし、家を24時間365日解放しておくことで新たな関係性を生み出し、自由なコミュニケーションからさまざまなコンテンツ生み出している。現在、約50人が参加しており、メンバーは年齢や職業を問わず、生活や活動も固定されない。現在の代表は、ファッション誌での連載や、モデル、DJのほか、「バンドじゃないもん!」のメンバーとして活動する、ちゃんもも◎。

 近年の主な活動実績としては、日本最大のアート見本市「アートフェア東京 2013」に作品「Owner Change」を2億5千万円で出品、「ニッポンのジレンマ」(NHK) に渋家発起人・斎藤桂太が出演、森美術館「六本木クロッシング展」関連プログラム「全国のディスカーシブ・プラットホーム」選出、「第17 回 文化庁メディア芸術祭」審査委員会推薦作品選出、「平成26年度メディア芸術クリエイター育成支援事業」選出などがある。

 今回のカンファレンスが開催されることで、渋家というプロジェクトからどのようなコンテンツが生み出されるのかにも注目したい。

■申し込み

・事前予約
メールのタイトルを「カンファレンス予約」とし、本文に「氏名 / メールアドレス / 参加人数」を明記したメールを右記のアドレス [ shibuhouseinfo@gmail.com ] までお送りください。24時間以内にこちらから予約確認のメールをお送りいたします。予約をキャンセルされる場合は事前にご連絡ください。

・当日参加について
予約受付を告知していなければ可能です。お気軽にお越しください。予約確認のメールをお送りできないことがありますが、会場の準備などがありますので、お知らせいただけると助かります。ご協力よろしくお願いいたします。

■開催概要

・日時 : 2014年12月6日 (土) 19:00~22:00
      18:30 受付開始・開場
      19:00 カンファレンス開始
      21:00 来場者を交えた質疑応答
・参加費 : 1,000円
・場所 : 渋家 (東京都渋谷区 ※ 住所情報は上記申し込みの返信に記載致します)
・ゲスト : 川田淳 (アーティスト) / 塚田有那 (編集者) / 林道郎 (美術評論家) / 藤森純 (弁護士)
・運営・進行 : 金藤みなみ / 稲葉あみ
・ウェブサイト : https://www.facebook.com/events/389294321226206/

※ 後日、記録小冊子を発行します。それに伴い、当日冊子発行の支援募金を受け付けております。当日、ヴィデオ及び音声等を記録します。前半のみツイ-トキャスティングを導入し、リアルタイム配信をします。

■ゲストプロフィール

川田 淳 (かわだ じゅん)
アーティスト
埼玉県生まれ。2007年 武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。2006年-2008年 四谷アート・ステュディウム在籍。主な個展に 「ケンナイ」(広島芸術センター / 広島 / 2013年) 、「まなざしの忘却」(22:00画廊 / 東京 / 2012年) 。グループ展に「アラフド アート アニュアル 2014」(旧いますや旅館 / 福島 / 2014年) 、「前橋映像際 2014」(旧安田銀行担保倉庫 / 群馬 / 2014年) 、「Screen 川田淳× 高川和也」(HIGURE 17-15cas / 東京 / 2014年) 、「書を捨てよ、町へ出よう」(黄金町芸術センター高架下スタジオA / 神奈川 / 2013年) 、「ヒロシマ・オー ヒロシマフクシマ」(旧日本銀行広島支店 / 広島 / 2012年) 、「中之条ビエンナーレ 2011」(旧五反田学校 / 群馬 / 2011年) など。

塚田 有那 (つかだ ありな)
編集者
早稲田大学第二文学部卒業。企画、執筆、PR、キュレーションなどを行いながら、領域横断型のプロジェクトに幅広く携わる。2010年、科学を異分野とつなぐプロジェクト「SYNAPSE」を若手研究者と共に始動。2012年から、東京エレクトロン「solaé art gallery project」のアートキュレーターを務める。現在、アジア・クリエイティブ・ネットワークのメンバーとして「ASIAN CREATIVE AWARDS」を主催。

林 道郎 (はやし みちお)
美術評論家
函館生まれ。上智大学国際教養学部教授。1999年 コロンビア大学大学院美術史学科博士号取得。2003年より現職。専門は美術史および美術批評。主な著作に『絵画は二度死ぬ、あるいは死なない』(全7冊、ART TRACEより刊行中) 。「零度の絵画—RRの呟き」(ロバート・ライマン—至福の絵画展、2004年)、「光跡に目を澄まして—宮本隆司論」(宮本隆司写真展、2004年)。共編書に『From Postwar to Postmodern: Art in Japan 1945-1989』(New York: The Museum of Modern Art, 2012) などがある。「アジアのキュビスム」展 (東京国立近代美術館、2005年) には、キュレーターとして参加。

藤森 純 (ふじもり じゅん)
弁護士
東京都生まれ、東京都在住。弁護士法人品川CS法律事務所共同代表。早稲田大学卒。民事事件、刑事事件いずれも手掛けているが、特に力を入れているのは不動産に関係する紛争案件、アート・エンターテインメント法務。クラブとクラブカルチャーを守る会のメンバーとして風営法改正のロビー活動にも携わっている。『クリエイターの渡世術』(共著) 。


このうえなくコミカルで、このうえなくヒップホップな夜 矢野利裕

 ヒップホップの醍醐味のひとつは演劇性にある、とつねづね思っている。エミネムが「Slim Shady」というオルター・エゴを持つように、ラッパーとしての表現は、ある部分においてはキャラクターを仮構することで獲得されている。
僕は、自覚があるかどうかはともかく、しっかりと演劇的に振る舞ってくれるラッパーが好きである。ハードコアな姿勢すらもコントとして捉えるような、強い演劇性を持ったラッパーに惹かれる。田我流を初めて聴いたのは『作品集 JUST』だったが、シリアスで強いメッセージ性を感じさせる一方で、どこかユーモアがあるところがとても気に入った。「墓場のDIGGER」のMVにおける田我流とBig Benは、まるで「B級映画のように」演劇性を発揮していた。さらにその後、「やべ~勢いですげー盛り上がる」のMVが最高だった。

 『死んだらどうなる』が発売される直前、stillichimiyaのライヴを初めて観た。山梨でマキタスポーツ(マキタ学級)とのツーマンだった。同郷ということで企画されたものだったが、音楽性とノベルティ性を高い水準で両立する者同士の対バンがとても楽しみだった。こういう組み合わせは、なかなかないのだ。そのライヴで、「生でどう?」の、あの往年の石橋貴明のような振付を観て、stillichimiyaから目が離せない、と思った。そして、発売された『死んだらどうなる』は、ノベルティ性も音楽性も期待を超えて高かった。けっこう感動した。BOSEとアニが、ザ・ドリフターズのように「ニンニキニキニキ」(“Get Up And Dance”)とラップした20年後、『死んだらどうなる』でstillichimiyaは、“ズンドコ節”のラップ・ヴァージョンを披露した。日本語ラップの側から、コミックソングへしっかりとアンサーをし、コミックソングとしての系譜を紡いだことは、とても重要なことだ。スチャダラパーの面々が『死んだらどうなる』にコメントを寄せていたことは、だから、とても感慨深いことであった。

 長々と書いてしまったが、ようするにstillichimiyaのコント仕立てのステージングが素晴らしかった、ということを言いたいのだ。エンタテイメントとしても素晴らしいし、音楽史的にも素晴らしい。10月5日、渋谷〈WWW〉でおこなわれたツアー・ファイナルは、Big Benが死後の世界に迷い込んだようなオープニング映像(スタジオ石制作)からはじまった。ヒップホップのライヴも、芸能の場所と考えれば、死者と生者が交歓する場所なのかもしれない。やはり、stillichimiyaはひとつの芸人集団なのだ。“うぇるかむ”に続く“Hell Train”のファンキーなトラックで、客も一気に異世界に持ってかれた。僕はほぼ最前列にいたが、冒頭からつづくテンションの高いパフォーマンスに客席は早くも興奮しており、“やべ~勢いですげー盛り上がる”でモッシュが起きた。前半数曲で、すでにへとへとだ。

 それにしても、Mr.麿という才能には惚れ惚れする。とくに、“やべ~勢いですげー盛り上がる”と“竹の子”の曲振りとなる一人コントは出色だった。あれだけ見事に、妄想の女性と踊ることができる人がいるだろうか。軽やかな身のこなし、表情の豊かさ、声のメリハリ――ラッパーというよりも舞台人としての身体性に、本当に目を奪われる。アンコールでは、なんとEXPOの曲まで披露してくれた。同じくアンコールの“莫逆の家族”で響かせた歌声も忘れがたい。
 ライヴが舞台演劇という側面を持つ以上、Mr.麿のような存在の重要性は疑うべくもない。いや、Mr.麿に限らずstillichimiyaは、誰もが舞台人としての魅力に富んでいる。これは、音盤では気づきにくい。Big Benは、ときには黒柳徹子に、ときには猫に扮してコミカルに振る舞う。すらりとしたMMMがラップをはじめると、(おもに女子の)歓声があがり気圧配置が変わる。Young-Gは、DJとラッパーの一人二役を伸び伸びとこなす。そして、田我流の華やかなラップ・スターぶり。この個性溢れる5人が横一列に並んで歌う“ズンドコ節”は、最高にヒップなコミック・ソングであった。ヒップホップに抱え込まれた芸能性が、このうえなく発揮されている。かつてノベルティ・ソングを歌った原田喜照も、だからこそstillichimiyaのライヴに召喚される。そういえば、MC時の、原田をからかうstillichimiyaとstillichimiyaに振り回される原田という構図は、完全にザ・ドリフターズといかりや長介の構図ではないか! 途中、原田の動きにYoung-Gが変な効果音を当てていたが、これも完全にコミック・バンドの文法である。この晩のハイライトは、やはり“土偶サンバ”か。サンバを器用に踊るMr.麿やMMMをわきに、ヒップホップ・ライヴの醍醐味ともいえるコール&レスポンスを煽る田我流。このうえなくコミック・バンドで、このうえなくヒップホップな、stillichimiyaの魅力が凝縮されていたようだった(“土偶サンバ”は事情により2回披露されることになったのだが、これはこれでstillichimiyaのノリがかいま見ることができて可笑しかった)。

 コミカルな面を強調したが、もちろんシリアスな面も変わらず存在している。というより、コミカルな面とシリアスな面を矛盾なく共存させることができるのが、ヒップホップの魅力でありstillichimiyaの魅力なのだ。田我流は、「土偶サンバ」に際して、現在の日本が抱える問題を語り、DIYの重要性を説いていた。たしかに田我流のリリックには、Back To Basic的なメッセージ性を感じる。しかし、一方でMr.麿は、『死んだらどうなる』について「メッセージ性ないからね」と発言している。メッセージ性は聴き手がそれぞれ受け取るとして、たとえば“だっちもねぇこんいっちょし”(原田喜照)から“You Must Learn”(KRS-ONE)まで、どんな内容でも放り込めてしまえるのがヒップホップの良さである。つまり、許容量が大きいのだ。stillichimiyaのライヴは、そんなヒップホップの許容量の大きさを存分に味わわせてくれるライヴだった。コミカルかつシリアス。ライヴ前は、DJ KENSEIによるstillichimiya関連のDJミックスが披露された。KENSEIらしく、アブストラクトなトラックと中毒的なフロウを引き立たせるような、選曲と2枚使いだった。そういえば、stillichimiyaはドープな曲も多いよね。なんせstillichimiyaは、幅広い魅力を持っているのだ。コミカルかつシリアスかつドープな夜で、おおいに満足した。まさか、「死んだらどうなる?」の答えが「土偶になる」だったとはなあ。

文:矢野利裕

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WWWの村祭 二木信

 僕は「生でどう。」ツアーの初っ端のライヴを甲府で観た。そして、stillichimiyaの地元ノリ全開の、歓待の精神にあふれたアフターパーティで遊んで、朝方に温泉まで行って、絶対にツアーファイナルも観てやろうと決めた。stillichimiyaの地元グルーヴが渋谷の〈WWW〉で爆発するところが観たかった。

 ええい、結論から言ってしまうぞ。stillichimiyaのライヴの素晴らしさは、大衆文化と土着パワーの融合によって、身内ノリを破壊力のあるエンターテイメントにまで昇華してしまうところにある。この日のライヴ後、ツイッターをながめていると、彼らのライヴをライムスターやスチャダラパーと比較しているツイートを見かけたが、この両者になくて、stillichimiyaにあるものは、土着のパワーだ。田舎もんの底力だ。この日の序盤に、会場を巻き込んではちゃめちゃな盛り上がりを演出した、お馴染みの“やべ~勢いですげー盛り上がる”は、サウス・ヒップホップだった。とにかく、いなたい。

 いまや日本のラップ界のミュージック・ヴィデオ制作に引っ張りだこの、ライヴでも重要な役割を果たしていた〈スタジオ石〉の映像を例に挙げるまでもなく、じつはセンスがいいのに、彼らのライヴや作品は少しダサくて、マヌケで、いなたい。そして、そこがすごくいい。甲府のライヴのときと同じ、おそろいの黒のスーツに身を包んだ田我流、MMM、YOUNG-G、Mr.麿、BIG BENの5人は、バブル華やかなりしころのブラコン(サングラスをかけたMMMは鈴木雅之にそっくりだ)やドリフ(“ズンドコ節”のラップ・ヴァージョン)、スキャットマン・ジョンの高速スキャットやリック・ジェームスのベースといった、一歩間違えれば(いや、間違えなくても)きわどいネタを土着のパワーでむちゃくちゃに結合させていた。もうなんでもありだ。着物とバンダナというファンキーなファッションで登場した元祖・甲州弁ラッパーの原田喜照との執拗な掛け合いがあり、Mr.麿の恋バナ漫談が会場の笑いと涙を誘う。お客さんはすべてにがっつりついていく。人、人、人で身動きの取れないパンパンの〈WWW〉のフロアは、どこか村祭りのような雰囲気さえあった。

 僕は、stillichimiyaのライヴを観て彼らに接すると、三上寛のインタヴューでの発言を思い出す。「土着のパワーなんですね。というのは音楽っていうのは元々作物ですから。やっぱり土地がないと生まれないんですよ。音楽って大根と同じですよ。それがいちばん顕著なのが声質でしょ。これは田舎の声なんですよ、わたしの声は。ジョンはね、アイリッシュとかケルトとか、あの声なんですよ」。そうだ、音楽は大根だ。いや、山梨県一宮町出身のstillichimiyaは桃だ。この日のアンコールで彼らがここぞとばかりに披露したのは、地元の一宮町について歌った“桃畑”という2009年の曲だった。

 ライヴの冒頭、「きゃあー!」「いえー!」「うおおおおー!」という嬌声や歓声が、5人が舞台に姿をあらわす前からフロアに響き渡る光景を目の当たりにしたときは、「アイドル・グループのコンサートか!?」という錯覚を覚えた。が、“桃畑”を歌う5人を観ながら、stillichimiyaは結成の2004年から何も変わっていないんだなと思った。いや、30人だったオーディエンスが300人になったかもしれない。彼らはアイドルになった。素晴らしいことだ。さらに、素晴らしいのは、快活で、爽快で、純朴な一宮の幼馴染の兄ちゃんたちがそれをやってのけていることだ。“うぇるかむ”ではじまったライヴはいちど“うぇるかむ”で幕を閉じ、最後はサンバのリズムで大団円を迎えたのだった。

うぇるかむ トンネル抜けたなら
うぇるかむ 俺の住んでる町
うぇるかむ お前が来てくれて
うぇるかむ 一緒にいてくれや
うぇるかむ ようこそ というよりも 
うぇるかむ 大空より高く
うぇるかむ 夢をあきらめないで
うぇるかむ むしろ逆に うぇるかむ stillichimiya “うぇるかむ”

文:二木信

 先日はele-kingでも合評を掲載! ディアフーフが結成20周年と新作リリースを記念して大ツアーを敢行する。12月2日の代官山〈UNIT〉を皮切りに全国11都市にて13公演。20年経ってもいまだリアルなシーンに緊張感を生み、古びない音と世界観を提示しつづけている彼らは、今回も必ずや記憶に残るライヴを披露してくれるだろう。

 新作『La Isla Bonita』から公開中の“Mirror Monster”MVを再生しながらチェックしよう!




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