「Nothingã€ã¨ä¸€è‡´ã™ã‚‹ã‚‚ã®
- ele-king
Eccyです、久々のチャートっす。
相変わらず曲作ったり写真撮ったりしてます。
最近は下北沢moreでVERTIGO PLUSというPartyをやっております。
次回は多分10月です。遊びに来てください!
https://twitter.com/_Eccy_
https://soundcloud.com/eccyprodukt
https://yusukekiyono.tumblr.com/
Chart
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Chvrches - Recover (Cid Rim Remix) - Glassnote |
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![]() 2 |
Tinashe - Boss (Ryan Hemsworth Remix) - Free DL |
![]() 3 |
Eccy - BLSPK - Forthcoming NTB |
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Purity Ring - Lofticries - 4AD |
![]() 5 |
TOKiMONSTA - Go With It (feat.MNDR) - Ultra |
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Eccy - Fantasia - Unreleased |
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Eccy - Sketchbook - Forthcoming NTB |
![]() 8 |
Rustie - Slasherr (Flume Edit) - Free DL |
![]() 9 |
AlunaGeorge - Your Drums, Your Love (Friendly Fires Remix) - Tri Angle |
![]() 10 |
Zomby - White Smoke - 4AD |
ロック。という音楽は、米国で白人に奴隷として使われていた黒人たちが夜な夜な歌い踊っていた音楽と、ジャガイモ飢饉で大挙して米国に渡り、やはり白人階級の中では最下級の存在として労働していたアイルランド人が歌い踊っていた音楽が、19世紀後半に何かの拍子で出遭い、混ざり合って出来た音楽だという説がある。
つまり、この説でいえば、ロックとは、虐げられた黒人と白人の音楽が混合して出来上がった下層のハイブリッド・ミュージックだったわけである。
この説に並々ならぬロマンを感じていたのがセックス・ピストルズのマネージャーだった故マルコム・マクラレンだ。彼は、この説を叩き台にした映画を撮る企画を熱っぽく英紙に語ったことがあった(米国で異人種の音楽が出遭うきっかけを作るのが何故かオスカー・ワイルド。という、いかにも彼らしい設定だったらしい)が、結局はその夢を果たせないまま他界した。
この野望を語るマルコムのインタヴュー記事を読んだ時、わたしが最初に思い出したのは、英国のミュージシャンでも、米国のミュージシャンでもなく、山口冨士夫だった。
十代の頃からの友人が、村八分に参加していたことのある男性と同棲していたという事情もあり、友人とわたしは年上のその男性に連れられ、東京で何度かティアドロップスのギグを見に行った。それはわたしが英国とアイルランドと日本を行ったり来たりする若い娘だった時代の話だが、山口冨士夫という人のバンドは、マーキーやダブリンのトリニティ・カレッジのホールで見るロック・バンドと比較しても遜色ないと思っていた。
友人の恋人から村八分時代の冨士夫やチャー坊の逸話を聞かされたわたしは、日本のロックというのは、村八分のことである。という主張を抱いて来た。わたしは福岡出身の人間なのでサンハウスも聴いたし、柴山俊之や鮎川誠の長距離ランナーとしての凄みや、博多の人間らしい芸人根性もわかる。
が、ロック。というのは、芸人や音楽家として優れていることとはちょっと違う。
黒人の血を引く日本人として生まれ、ひどい差別を受けながら施設で育ったという、戦後日本の矛盾や浅ましさを全身で受けとめながら生きて来たような冨士夫のギターには、芸事の巧さや楽曲の出来云々では語れない(おそらく今どきの人々に言わせれば音楽のクールさとは全く無関係な)スピリッツとか、アティテュードとかいうようなものの轟きが宿っていた。
マルコム・マクラレンという希代のロマンティストがそう信じたように、ロックの起源が虐げられた者たちの異人種交合ミュージックであったとするなら、山口冨士夫は日本のロックのオリジンだったとも言えるのではないか。
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『街のものがたり──新世代ラッパーたちの証言』を読んでいて、OMSBやMARIAのインタヴューの箇所でふと思い出していたのも冨士夫のことだった。日本における混血の子供たちのストーリーは、昔も今も、一貫して存在しているのである。
数年前、ブライトンから福岡に帰省した時に、バスの中で3歳の息子が泣いたことがあった。「みんなからジロジロ見られるのが怖い」という。あのジロジロは確かに日本独特のものだと思う。英国なら、目が合えばにこっと笑ったり、とりあえず何か言ったりする。相手に喧嘩を売っているわけでもなければ、無言で誰かを凝視するというようなことはしない。
「なんでみんな僕を見ているの?」
と尋ねてきた息子にわたしは言った。
「他の人たちと違うからだよ」
「?」
「例えば、イングランドのバスだって、誰かが犬を連れて乗ってきたら、みんな一斉に犬を見るじゃん。あれと同じ」
と答えると、息子が「僕は犬じゃない」と言って余計ぎゃんぎゃん泣きはじめたので、しまった。と反省したことがあったが、しかし、要するにあれは犬だからなのである。わたしの祖国には、日本人離れしたものを妙に崇める風潮がある一方で、本当に身近に存在する日本人離れしたものは凝視し、排他する傾向がある。
英国で、「No Blacks, No Dogs, No Irish」(北部では「No Blacks, No Gypsies, No Irish」だったらしい)が罷り通ったのも、子供の頃の冨士夫が日本で差別されていたのと同じ時代だ。
英国で黒人やアイルランド人をもっとも激しく差別したのは、実はワーキング・クラスの人びとだった。というように、戦後の日本でも、貧しい人々の歪んだ憂さ晴らしの矛先が下層の混血に向けられたのは容易に想像がつく。
ひどい時代に弱者が一つになる。というのは、あれはわりと幻想で、ひどい時代ほどひどい目にあっている者がさらに弱い立場の人間に対してひどいことをする。しかし、そうした人間の本性が剥き出しになっている時代は、虐げられている者たちの怒りやせつなさが表現として噴出する時代でもあろう。
が、わたしの祖国の場合には、その後、「国民みんなそれなりにお金持ち」のスローガンと共に、政府と国民が共謀して下層の存在を隠蔽した時代がやって来て、虐げられている者。などというコンセプトじたいがどうしようもなくダサくてアナクロで、「やっだー、いまどき何言ってんのー」と笑われる時代がやってきた。
英国の場合、サッチャーの時代までは下層の叫びはロックのテーマになり得たが、トニー・ブレアが登場すると、日本の「みんなお金持ち」時代と似たようなアゲアゲ系のムード重視政治の時代が到来し、やはり虐げられた者はコメディのネタになってしまった。
が、UKでは保守党が政権を奪回し、再びサッチャー時代ばりにひどい時代がやって来てしまったので、昨年はジェイク・バグのような人がチャート1位になるという現象も起き、数年前なら余裕でアイコンになっていただろうトム・オデールのような人が「クソMORの焼き直し」とこき下ろされるような風潮になっているが、日本は、どうなのだろう。
と思っていた矢先に、日本のロックのオリジンである山口冨士夫が逝った。
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冨士夫の死を知らされた日、勤務先の保育園の庭でティアドロップスをかけていた。
職場には音楽好きの保育士が何人かいるので、裏庭で子供を遊ばせるときに、およそ保育園らしからぬ音楽がかかっていることがたまにあるが、わたしがかけたティアドロップスでも子供たちはノリノリで踊っていた(ちなみに、彼らはボガンボスも大好きだ)。
"いきなりサンシャイン"で4歳児がギターを抱えているふりをしてがんがん掻き毟るような仕草をしたときには、ああ、やっぱりこれを聴くと、万国共通、みんな冨士夫になるんだよ。と、つい目頭が熱くなったが、英語を母国語(または第二母国語)とする子供たちにはこの曲が一番発音しやすかったのか、キャッチーで覚えやすかったのか、そのうちぽつぽつと子供たちが歌いはじめた。
グァテマラのインディオ インディオのグァテマラ
白い肌や黒い肌、茶色い肌、黄色い肌、それらの色が混ざり合ってもはや何色なんだか判然としなくなった肌、をした子供たちが山口冨士夫と一緒に歌っていた。
グァテマラのインディオ インディオのグァテマラ
冨士夫がこれを見たら、何と言っただろう。と思った。
英国の夏の空は、珍しく真っ青に晴れ渡っていた。
あの日は終戦記念日だった。が、インドが英国から独立した日でもあることをお迎えに来た父兄の一人が教えてくれた。
踊った。というか跳ねた。ベッドルーム・ポップに繚乱と彩られたこの6~7年に象徴されるように、メディテーショナルでドリーミーでサイケデリックなムードにとっぷりと浸かってきたインディ・シーンはいま、その長い長い眠りを、壁を蹴破られるようにして覚まされつつある。まるで『進撃の巨人』だ。ベッドルーム(=壁の中)の安寧は、破られた穴から流入するおびただしいノイズ(=巨人)によって乱れ、緊迫し、覚醒させられるだろう。巨人たちの名は、もちろん「インダストリアル」である。
昨年末の『ele-king vol.8』に収録された座談会内ですでに指摘されていたこの兆候は、つづく『ele-king vol.9』において特集となり、約半年をかけて誰の目にも著きものとなった。筆者がいまもレコ屋の店員だったならば、売りたい新譜のポップにはたとえ間違っていたとしても「インダストリアル」の文字を滑り込ませただろう。定義も曖昧で振れ幅の大きいこのマジック・ワードは、だからこそ広い射程を持った新しい価値観としてリニューアルされ、ベッドルーム・ポップの思わぬ細部へと浸透している。サファイア・スロウズや禁断の多数決のほうのきらが昨年の年間ベストのなかにアンディ・ストットを挙げたりするのはその顕著な例だろうし、当のアンディ・ストット自身も両者の境界点に結像する存在である。
いろんな側面があるが、ズシン、ガシャンという、倉本諒言うところの「鉄槌感」は、その重要な要素のひとつだ。自意識の延長ともいえるベッドルーム空間を、容赦なく壊してくれるノイズやビート、あるいはミニマリズムを、われわれはおそれつつも、いつしか欲するようになっていた......"パンク・オーソリティ"は、この間隙に途方もない力で入り込んできて、気持ちよいほど血を沸かせ、身体を叫ばせる。興奮した意識にはベッドルームはいかにも手狭だが、狭い壁のなかで、頭のなかはむしろ澄み渡っていくような気がする。
と書くと、情感や内面性を排した身体的な音楽だと思われるかもしれないが、そういうわけでもないところがピート・スワンソンの素晴らしいところであるし、筆者とてべつに「外の世界に出よ」などと言いたいのではない。基本、出たくない。"パンク・オーソリティ"では、鉄槌感がそのままメロディのように機能して、あるエモーションを立ち上げていくのだ。
各トラックが層状に重なっているのではなくて、一枚に溶けているようなノイズ・コラージュ。どの部分も、たとえばポップスのように安定した構造を持っていたり、それに沿って聴く体験を支えてくれない。どの音もチリチリ、ビリビリと震え、ふいに発火しそうな細かい電流をた走らせている。ただ、低音が裏拍を強調しながらリズムのパターンを形成しはじめると、曲(あえてトラックとは書かない)の相は一気に色合いを変え、鉄槌感とともに、感情を揺さぶり、そこに訴えかけてくる力が生まれる。それでダンスを知らないこの体も飛び跳ねることになったのだ。
繰り返しになるが、ピート・スワンソンにおいてズシン、ガシャンはメロディであり、エモーションである。"パンク・オーソリティ"は、彼が2000年代初期から続けてきたイエロー・スワンズの、パッショネートなギター・ドローン、凝縮されたノイズ、心を打つ旋律性、そういったものの延長にあるのだろう。ビートが意識的に取り出されたのは、ほんの最近のこと――『マン・ウィズ・ポテンシャル』(2011)で、テクノ的なバックグランドを初めて大々的に解放したというスワンソンだが、そこにいたる約10年には、膨大なノイズ・ロックのアーカイヴがあったわけだ。筆者はそのほんの数箇所しか摘んでいないけれども、『パンク・オーソリティ』を親しく感じるのは、そのイエロー・スワンズの名の下に錬成された内面性やエモーションのためなのだろう。やわくも脆くもなるものを、彼はつよく美しく音によって鍛えることを知っている。『進撃~』で言えば彼は「奇行種」なのであり、人間なのだ。
今年もっとも繰り返し聴いた作品だ。かけるたびに部屋のなかで躍り、部屋のなかで部屋を破り、身体に流れる血の温度を感じている。眠気はなくなった。国内盤には5曲ものボーナス・トラックが収録されている。すごい、どうしよう。でもやっぱり"パンク・オーソリティ"がいちばん素晴らしい。
よう、ニュース太郎だ。何かニュースはないのかな......っと、そうだ、「カセット・ストア・デイ」ってどう思う?
「レコード・ストア・デイ」はぼちぼち定着してきたよな。今年はあれのカセット版がはじまるらしいんだよねー。来月あたまの9月7日。目前だ。運営は同じじゃないように見えるけど、実際そのへんはどうなのかな? レコード・ストア・デイは、中小レコード屋にみんなが足を運ぶようにって狙いもあったわけで、そもそもはアーティストが大手チェーンやネットでは買えないエクスクルーシヴな音源(レコード)を作って、該当規模の店だけに販売を許可、「それ売ってちょっとだけでも潤ってくれよな!」っていう、まあ平たく言えばアナログ盤文化活性化&レコ屋救済イヴェントだった。もちろん、アナログのおもしろさを改めて楽しんだり、「レコ屋」って場所で生まれるコミュニケーションを途絶えさせたくないっていう意図が中心にあるわけで、年々その規模を拡大しているところはリスペクトに値するよな。
付帯するイヴェントも海外ではたくさん企画されているし、何より、誰でも勝手に「レコード・ストア・デイ限定」って銘打って作品のリリースができるところがいい。みんな、どうせCD-Rでデモとか自主盤とか出すんだったら、どんどん「ストア・デイ限定」を売り文句にしたり、それ用にシングルを作ったりすればいいんじゃないかなあ。その許可は誰に取る必要もないもんね? 利用しない手も楽しまない手もないんだよ。
年々少しずつ規模を大きくして、いまではビートルズのニュー・リミックス音源とか、企画仕様盤の類は常連、ニール・ヤングやジョーン・バエズからブルース・スプリングスティーン、デヴィッド・ボウイ、T・レックス、ザ・クラッシュ、ポール・ウェラーからトロ・イ・モワやセント・ヴィンセント、ウィルコまで何でもある。「ストア・デイものに今年は何が出る?」ということ自体が楽しい話題を提供していて(一部の人間は血眼になって予約を入れまくる......)、春と秋の風物詩のように感じている人もいるんじゃないかな。
カセット・ストア・デイの方はどうなるのか。公式に「詳細教えてよ」ってメールしたんだけどナシのつぶてでさ。サイトには趣旨や理念についての説明がほとんどないんだけど、参加店舗名や参加アーティスト名がズラッと並んで、イヴェント情報も載っているから、レコード・ストア・デイの目指すところと大体同じなんだろうと思う。カセット自体のおもしろさの伝道、というだけではなくて、それを売る「場所」とカルチャーを盛り上げていこう、っていうね。でも、すごいよね、そうそうたるレーベルがすでに名前を連ねている。〈4AD〉〈ドミノ〉〈ウィチタ〉〈トランスグレッシヴ〉〈ファット・キャット〉〈ジャグ・ジャグ・ウォー〉等々......あれ? カセット出してたっけ? みたいなレーベルのアーティストがどんどん参加してるんだよ。それに、アット・ザ・ドライヴ・インとかフレーミング・リップスとかカセットあったら普通にアガるよな! グッズ感覚でさ。
まあ、ニュース太郎はそんな感じで素朴かつカジュアルにこの祭を楽しむけどさ、〈ナイト・ピープル〉とかガチのテープ・レーベルの参加がいまひとつ薄いところは気になるよね。実質的にシーンを築いてきた人たちはどう思っているんだろうか。メジャーなプレイヤーたちが宣伝塔になるのはいいことだとして、祭が祭で終わっちゃって、あとに何も残らなかったりするとさびしい。とくに、クルマのオーディオ環境がいまだカセット・デッキ主流だっていうUSと、カセットの生産自体が終わりつつある日本との間には差が大きいよね。カセットがより「トクベツなモノ」に感じられる日本では、それこそいっとき珍しがられて終わってしまうことだって考えられる。カセット文化を定着させる必要なんて、べつにないといえばないんだけど。
あと、公式ホームページのライヴ・スケジュールの「東京」の欄がずっと未定なまま最近消えてたことも気になる。東京でも何かやりたかったんだね......。誰か、何か知ってたらele-king info宛に教えてくれよな! いや、教えてくださいませ。ツイッターでもいいぜ。あと、どう思うかっていうオピニオンでもかまわねえ。テープの時代なんてほんとにくるんですかい!?
![]() Clark Feast / Beast Warp/ビート |
まず、アートワークが秀逸だ。シュールなユーモア、そこはかとない猟奇性、しかしどこか飄々とした表情......そして何より、彼の「手」は分裂して、増殖している。来る日も来る日も休まずに、カッ飛んだトラックを作りまくっているクラークの作品にぴったりである。
いままで出ていなかったのが不思議なぐらいだが、多作な彼による数多くのリミックスのなかから厳選した初のリミックス集である(それでも2枚組30曲の大ヴォリュームだが)。初期の繊細なエレクトロニカ/IDMから、ボディ・ミュージックやエレクトロを飲み込んでエクストリームな方向に振り切った中期、そして最近作『イラデルフィック』でアコースティックな要素を大きく取り込みまた新たな方向に進もうとしているクラークだが、本作はそんな彼の多面性がよく伝わる内容になっている。しかしまた、たんにリミックスのコレクションではなくひとつの流れがある「作品」にしたかったと以下のインタヴューで本人が何度も強調しているが、そうして聴くと不思議と一貫性も見出せる。『フィースト』は電子音が美しいメロディを奏でるテクノやエレクトロニカ、アンビエントが中心を占め、『ビースト』はマッシヴなビートが暴れるクラブ・トラックが並んでいるが、そのどちらも制御装置が故障しているような、明るい壊れ方をしている。マッシヴ・アタックからDMスティス、マキシモ・パークからバトルスにヘルスまで......みんなブッ飛んでいる。そういう意味では、リミックス集とはいえ、自身の土俵で堂々と取り組んだ、立派なクラークの作品である。
おそらく、本作を契機に音としてはまた違うステージに進もうとしているのだろう。エイフェックス・ツインの長い不在の間、彼と比べられ続けたクラークはしかし、「手」を止めなかった。休まずに素早く動かした......と言うよりは、増殖しているようにしか思えないのだ、やっぱり。
「Feast」は散歩しながら聴いたり、座っているときに聴く音楽。だから「Feast(=ごちそう)」と名づけた。座って、比較的、落ち着いて楽しめるもの。それに比べ「Beast(=野獣)」はより攻撃的なクラブ・ミュージックだ。
■ここのところハイ・ペースなリリースが続いていますが、なぜこのタイミングでリミックス盤を出そうと思ったのですか?
クラーク:今年はリミックスのオファーがたくさん来て、そのうちの多くが実現した。2枚組のアルバムをリリースするにしてもこれ以上曲を収録できないから、このリミックス集をまとめたんだ。今後はもうリミックスはやらないと思う。僕のキャリアにおいてリミックスをする時期は終わりを迎えた気がする。
■今年中に作ったものでないのもありますよね?
クラーク:うん、なかには10年以上前のものもあるよ。
■『フィースト/ビースト』というタイトルの由来と、「Feast」と「Beast」に分けた基準を教えてください。
クラーク:「Feast」は散歩しながら聴いたり、座っているときに聴く音楽。だから「Feast(=ごちそう)」と名づけた。座って、比較的、落ち着いて楽しめるもの。それに比べ「Beast(=野獣)」はより攻撃的なクラブ・ミュージックだ。ふたつの言葉は韻を踏んでいて、互いによく合う言葉だと思う。「Beast」はよりクラブ向けの音楽で、もうひとつの方はアコースティックギターが入っていたりして、よりソフトな感じの音楽だ。
■かなりの曲数ではありますが、それでもここに収録された以外にもあなたには膨大なリミックス・ワークがありますよね。権利の関係で収録できなかったものもあるとは思うのですけれども、それ以外に、このリミックス集の収録の基準としたところはありましたか?
クラーク:このコンピレーションに合わないと感じた曲もあり、それらは収録しなかった。このアルバムに入れるにはしっくりこないと感じたから入れなかった。とにかくリミックスならなんでも入れてしまおう、とは考えなかった。このアルバムに入っているのは、数多くのリミックスのなかから選んだ優れたリミックスだ。
■ということは、このアルバムに合うかどうかという基準で選んだということでしょうか?
クラーク:そのとおり。作品をアルバムのように仕上げたかった。単なるコンピレーションではなく、一連のプレイリストとして良いものであるような作品を作りたかった。
■あなたのリミックスだけでなく、あなたの曲をほかのアーティストがリミックスしたトラックも挟まっていますよね。アルバムの流れで聴くといいアクセントになっているんですけど、どうして自分のリミックスだけにせず、収録しようと思ったのですか?
クラーク:じつはビビオからあの曲のリミックスを出せって、長い間せがまれていたんだ。ネイサン(・フェイク)からもしつこく言われていた。だからようやくリリースできたというところだ。ネイサンのリミックスは、以前12インチでリリースを試みたんだけど実現しなかった。"グロウルス・ガーデン"、あの曲はとても気に入っている。嵐のようなクラブ・トラックだ。
でもほかにもアルバムには、友人のバンドのベージュ・レザースのような、まだレーベル未契約のアーティストなども収録してある。彼らのアンビエント・トラックをリミックスした。アルバムの最初のトラックだよ。だからこのアルバムには、まだリスナーが聴いたことのない音楽もけっこう入っているんだ。
■そもそも、リミックスは依頼があればけっこうすんなり引き受けている感じですか? それとも、けっこう慎重に選ぶほうですか?
クラーク:けっこう慎重なほうだよ。その決断が難しいときもある。時間がないときは、とにかくできない。だから忙しいときは断ってしまうね。リミックスにおいては大体の場合、友人の曲をリミックスするのは楽しい。ある意味、ビッグなバンドの曲をリミックスするよりも楽しい。だから友人の曲をリミックスするほうが断然好きだね。
[[SplitPage]]属しているという意識はあまりない。このアルバムにはアコースティックな要素も結構入っているから、アルバムを通してさまざまなスタイルが聞こえてくると思う。だからどこかに属しているという感じはとくにないね。
![]() Clark Feast / Beast Warp/ビート |
■アルバムとして通して聴くと非常にあなたの色が強く、率直に言ってクラークのオリジナル・アルバムと言われれば信じてしまいそうです。かなり自由に原曲を触っているように思うんですけれども、どうでしょう? そうではなくて、逆に、ひとのトラックであることで制約を設けることはありますか?
クラーク:自由はある。原曲の要素を全く入れずにリミックスと称している作品は好きじゃないけれど、僕がよくやるのは、曲のヴォーカル・ラインだけを取り、曲を変形させてしまう方法だ。だから僕にとっては、ヴォーカルを扱うことがリミックスの一番良い点だと考えているんだ。ヘルスの曲はヴォーカルしか使ってないし、DMスティスの曲もそう。僕がリミックスをやる上で一番好きなことはそれなんだ。ヴォーカル・ラインを取って、それを違ったテクスチャーやメロディに載せてみる。
■では、逆に制約を設けることはありますか?
クラーク:いやあまりない。それはしないようにしている。
■オリジナルのトラックを作るときと、リミックス・ワークの最大の違いはどこにありますか? さきほどの質問とは逆に、リミックスだからできることってありますか?
クラーク:リミックスの方がずっと解放的になれる。アルバムに取り組むほど真剣に取り組まなくていいからね。普段だったら探求しようとしないようなアイディアを、リミックスで探求することができる。だけど、リミックスは大抵1週間くらいの締め切りがあるから、早く仕上げなければいけないというプレッシャーもある。
■そんなに早いんですか。
クラーク:そう。だから自分の腕を試す良い試験のようなものだよ。アルバムの音楽を作っているときは、その制作活動を続けていればいい。それがどれだけかかってもいい......何年かかってもいいんだ。だからタイトな締め切りがあるのも良いことだと思う。だけど、マッシヴ・アタックのリミックスにはとても時間がかかって結局仕上げるまで3カ月かかった。とにかく時間がかかったんだ。なぜかはわからないけど。トラックはシンプルなんだけど、バージョンが5つくらいできてしまって、そこからが大変だった。
■さきほどの質問とは逆に、リミックスだからできることってありますか?
クラーク:あるよ。リミックスする曲には他のアーティストの声が入っている。それを扱うことができるんだ。あと、原曲をどのようにして自分のサウンドにしていくか。どのように自分の音の特徴を加えるか、という醍醐味がある。ここに収録されているリミックス曲からも僕のスタイルを聴き取ることができると思う。
■とくに印象に残っているトラックがあれば教えてください。
クラーク:1枚目に入っているDMスティスの曲はとても気に入っている。彼は素晴らしい声の持ち主だと思う。僕は彼のヴォーカルをいじったり、いろいろ操作するのに何時間も費やしたよ。彼とはリミックスについていい話もできたし、彼もこのアイディアに賛成してくれた。よい経験だったよ。とても楽しくリミックスができた。
■リミックスをやってみたいアーティストはいますか?
クラーク:いつかビビオのリミックスをやってみたいね。彼には借りがある気がするしね。ネイサンも同様。あ、でもネイサンのリミックスはアルバムに入ってるね。あれは結構前にリミックスしたものだ。ほかにはレディオヘッド、モグワイなどやったら面白いと思う。
■じつにさまざまなジャンルの、ヴァラエティ豊かなラインアップになっていることで、あなたの自由な立ち位置が表れていると思うのですが、あなた自身はどこかに属しているという意識はありますか?
クラーク:属しているという意識はあまりない。このアルバムにはアコースティックな要素も結構入っているから、アルバムを通してさまざまなスタイルが聞こえてくると思う。だからどこかに属しているという感じはとくにないね。
■では、共感できるアーティストはいますか?
クラーク:もちろん。オープンな考え方で音楽に取り組めるひと。そういうひとだったら誰でも共感できる。特定のことを求めるのではなく、オープンな考えを持って音楽に取り組んでいるひと。
■アートワークが面白いですけど、あれはどういったところから出てきたアイディアなのでしょう?
クラーク:僕がガールフレンドとオーストラリアから帰る途中に、彼女が雑誌を買ったんだ。その雑誌にアルマ・ヘイサという写真家の作品が載っていた。でも、フランクフルトから電車で帰るという経路をもう少しで選ばないところだったんだ。別のフライトで帰ろうと思っていた。だから、駅であの雑誌を買っていなければ、このアートワークは実現していなかっただろうね。だから偶然だった。そして、マネージャーに彼女に連絡を取ってもらった。
彼女の作品は本当に素晴らしいと思う。画質がブリーチされたというかフラットな感じがする。とても好きだ。それから折り紙のようなイメージ。僕の音楽に対するアプローチにとても合っている気がする。複雑で何重もの層になっているところなんかがね。アルマはドイツ人の写真家だ。いま、住んでいるのはロンドンかな。
■ここ数年では、やはり『イラデルフィック』が大きな分岐点であったと思うのですが、このリミックス集を出したことが、今後のあなたのキャリアや作品に影響することはありそうですか?
クラーク:これからはバンドとのコラボレーションをたくさんやっていきたいと思っている。リミックスは、ある意味、コラボレーションの機会を増やすための扉を開けてくれるようなものだと思っている。リミックスができるということは、ほかのひととも仕事ができるという意味だから。今後はバンドとたくさん仕事をしていきたい。だからこのリリースは、その方向に向けての第一歩と言えるかもしれない。
■もっとアコースティックというか生演奏の音楽と関わっていきたいということでしょうか?
クラーク:そのとおり。リミックスをするのは、それに向けての第一歩のようなものだ。
■恐らくここに収められたリミックス・トラックも例に漏れず、あなたはとにかく作曲をし続けていることで知られていますが、その原動力はいったいどこからやって来るのでしょうか?
クラーク:何かを作っていないと落ち着かない、ソワソワした感じと、自分を前へ進めて制作するという気持ちがつねにあるんだ。はっきりとはよく分からない。でも僕にとって創作活動とは自然にそういう風になっている。
■では、つねにアイディアで溢れているという感じですか?
クラーク:まあ、そうだね。だけどそのアイディアは常により良いものへと進化させていかなければならない。だから同時にたくさんのアイディアを捨てるということもしている。すべてが良いものとは限らないから。アイディアはつねに更新され発展され続けなければいけない。だから修正作業がたくさんある。修正の繰り返しだよ。
今年の爆音映画祭はメインがマイケル・チミノ特集であったから、中学生のときの僕のヒーローだったロバート・デ・ニーロが若々しい『ディア・ハンター』をはじめて映画館で観ることができた。むろん映画は素晴らしかった、が、それとは別のところで妙に感慨深かったのは、そこで描かれているような鹿狩りをする男たちがいまだにアメリカの田舎にはたくさん......とまではいかなくても、一定数いることに気づかされたことだった。そう言えばボン・イヴェールのジャスティン・ヴァーノンはコネティカット州での銃乱射事件のあと、遺憾の意を示しながらも、自分は自分が属する狩猟文化を、そのコミュニティを捨てられないともこぼしていた。『ディア・ハンター』はヴェトナム戦争によって瓦解する男たちの絆とそのコミュニティを描いていたが、しかしそこで描かれていたような70年代やそれ以前の続きをいまも生きている人びともたしかにいるのだ。
アイアン&ワインもまた音楽的な意味において、あるいは表現する風景においても、70年代の続きのアメリカを生きているようだ。彼、サム・ビームの歌う歌には生きた動物が登場し、月と星が空にかかり、草が生い茂り風がそよいでいる。古きよき、と言うよりは時代の変化すら飲み込んでそこに厳然と残り続ける自然と、それを前にした叙情を見つめ続けている。
サム・ビームのように生きられたら......『ele-king vol.10』の部屋聴きチルアウトのディスクを選びながら、僕はぼんやりと考えていた。チルアウトのためにフォーク・アルバムを探していたのは、せわしい毎日を忘れさせるような行ったことのない雄大な風景を幻視したいからだ。考えてみてほしい......あごヒゲをあんなにも生やしたビジネスマンがどこにいるだろう。そう、彼はボヘミアンだ。妻と5人の娘に囲まれながら、ギターを弾き、絵を描き、詩を書いて、優しく歌っている。あんな風に生きられたら、と思うのはもちろん前提としてそれができない現実の日々が目の前にあるからだが、だけど、それが絶対に不可能だなんてどうして言い切れるのだろう。アイアン&ワインの音楽のどこかあっけらかんとした「漂泊感」は、いつだってそこに行けるのではないかと思わせるような風通しの良さがある。
5作目となる『ゴースト・オン・ゴースト』はアコースティック・ギターによるフォーク・ミュージックと言うよりは、もはやジャズ・アルバムであり、前作の方向性を推し進めた極めてアダルトな内容となっている。上品にエッセンスになるAORや70sソウル。"ザ・デザート・バブラー"や"ニュー・メキシコズ・ノー・ブリーズ"の涼風のようなコーラスとストリング・アレンジの洗練はどうだろう。もしくは、"ラヴァーズ・レヴォリューション"のアーバンなジャズ・インプロヴィゼーション。たしかに出世作『アワ・エンドレスナンバード・デイズ』のようにそこはかとなく漂う危うさはもうないし、すっかり落ち着いてしまったと感じるファンもいるにはいるだろう。
けれども、根本的なところで彼は何も変わっていないのではないか、とも思う。いや、たしかにモチーフとして年を重ねていくことの責任がより目立つようになっていて、それが音の変化に表れたとも読み取れるかもしれない。ラスト・トラックの得意のスウィートなバラード"ベイビー・センター・ステージ"は明らかに、子どもたちやを家族を守りながら生きていく決意についての歌だ。だが、その相手は社会システムでも時代でもなく、ハリケーンなのだ。この自然のなかで生きていくこと。物悲しいメロディを持ち、「12月の雪のミルウォーキー」を歌う"ウィンターズ・プレイヤーズ"も出色だが、ベストは甘く切ないコーラスが空間を満たすジャジー・ソウル"グラス・ウィドウズ"だろうか。「僕らは木々の間で風に吹かれてお互いを見つけたんだ/欠けてゆく月は海に飲み込まれたがっていたよね/まるでようやくこの世界の色を目にしたように」......。
アイアン&ワインの歌にはスマートフォンの小さい画面もなく、インターネットもSNSもない。その時代錯誤感が、いいことなのか悪いことなのかは僕にはわからない。けっして「現代的」ではないだろう、が、この歌は遠い場所の美しい風景を目の前に出現させる。それはひょっとしたら、この窮屈な毎日からふっと抜け出すヒントになるのかもしれない。
春に出たアルバムだが、この夏の終わりにこそ情感豊かに染み入ってくる。
![]() Franz Ferdinand Right Thoughts, Right Words, Right Action Domino / ホステス |
2004年、ひと昔。フランツ・フェルディナンドのファースト・アルバムを手にしたのが、つい3年ほど前のように感じられる人もいるかもしれない。10年も経っていることに驚くのは、単純に「光陰矢の如し」的な感慨なのか、彼らがほとんど古びていないということなのか、それともUKロックに目立った更新がなかったということなのか。久々のフル・アルバムとなる『ライト・ソーツ、ライト・ワーズ、ライト・アクション』を聴いていると、そのどれでもあるように感じられる。
今作にシンセ・ポップ寄りの嗜好が見られるように、彼らの音楽にはそのときどきのモードを反映したマイナー・チェンジはあるものの、4枚のアルバムを通して大きな方向転換はなかった。大ヒットした"ユー・クッド・ハヴ・イット・ソー・マッチ・ベター"は、ほぼ真っ直ぐに2009年の"ユリシーズ"へと連続している。バンド自体のストーリーとしても、とくにドラマチックな事件や変化を迎えたりはしていない。それで10年も現役としてメジャーな存在感を保っていられるというのが彼らのスペシャルなところだ。
フランツ・フェルディナンドには何があるのか。
今回はバンドの支柱とも呼べるベーシスト、ボブ・ハーディに話をきいた。彼らはけっして若さのために輝き、脚光を浴びたのではない。下積みが長いことがよく知られているが、彼らにあったのはずば抜けてクレバーなポップ・バンドとしてのアイロニーや批評性である。「信じるべきものなど何もないと僕は信じてる」("フレッシュ・ストロベリーズ")という一行(しかもカラっとした皮肉をこめて、のびやかに歌われる)は、その意味で彼らの来し方と行く末を照らすものかもしれない。若さやデビューの勢いが減退したからといって、まったく影響を受けない魅力やスタイルを、彼らは当初から備えている。
何度めかの「ロックンロール・リヴァイヴァル」が終わりかけていた頃、それと入れ替わるようにフランツ・フェルディナンドはロック・アンサンブルをダンス・フロアへと持ち出し、シーンをまるごと踊らせた。そしてその後につづく大きな潮流――空虚さを祭に転換するようなポストパンク・リヴァイヴァル――をある一側面において象徴することにもなった。「信じるべきものなど何もないと僕は信じてる」というのは、思えば一貫したスタイルである。
しかし、年を重ねること見えてくるものもあるはずだ。彼らにとっていまはどういう時期なのか、これからどんなふうに年をとっていこうと思っているのか。質問に対して、ボブ・ハーディは落ち着いた声と態度で語ってくれた。
「正しい考え、正しい言葉、正しい行動」、この3つの要素を適用すれば、人生のなかの大体のことは成功するんじゃないかな。
■今作のタイトルは『ライト・ソーツ、ライト・ワーズ、ライト・アクション』ですが、私ははじめ「ライト」って「light(軽い)」の方かと思ってたんです。その方がいい意味で音楽性にも合っているというか、あなた方が標榜する無神論的な態度やプレイスタイルをよく表しているような気がしたんですね。ですが実際は「right(正しい)」の意味で、どうやら仏教に由来するタイトルであると。
この「right」には、「ブリティッシュ・ポップ界きってのアホ野郎」とも自称されていたあなたたちの、わりとマジな理念や思考が反映されていると考えていいのでしょうか?
ハーディ:ははは、なるほどね。今回のタイトルに関してはどんなふうにでも意味をとってもらえるような余白があって、けっこういいんじゃないかって思ってるよ。僕らの込めた意味合いとしては、とても前向きなものがあるんだけどね。人生についてポジティヴな思いもあるし、バンド自体にもいまとてもいいエネルギーがあるんだ。「正しい考え、正しい言葉、正しい行動」、この3つの要素を適用すれば、人生のなかの大体のことは成功するんじゃないかな。僕らなりにはそう考えてつけたタイトルなんだ。だけど、全然、どうとってもらってもかまわないよ。
■今作はプロデューサー/ミキサーとしてトッド・テリエも参加していますが、あなたがたは一貫して人々を踊らせるというコンセプトを大事にされていますね。デビューから10年、ダンス・ミュージックもさまざまに変化してきたわけですが、エレクトロニックな表現に距離を置いて、あくまでバンドによるセッションのスタイルを大事にされるのはなぜでしょう?
ハーディ:たしかに僕らは「踊れる」とか「クラブ向き」っていうふうに言われてきたけど、そもそもそれを目指していたバンドではないからね。ライヴをやって、ギターがその中心にいて......というバンドのスタイルは最初から持っていたつもりでね。今回のアルバムはとくにその感じが全面に出ているかもしれない。レコーディングの過程を通じて4人がいっしょにプレイするということを貫いているからね。
トッドに入ってもらったのは、僕らが彼のファンだからだよ。こっちから声をかけたんだ。僕らがやった音の上に何か足せるものがあるかなってふうに呼びかけて、ロンドンのスタジオに来てもらった。音を聴いてもらって、その上でトッドなりに思うところがあれば......っていう感じでね。ベーシックなトラックは作ってあったから、その上にトッドらしい、ダンシーなフレイヴァーを加えてもらったんだ。最終的には彼はそれをオスロに持ち帰って、向こうで仕上げてくれたよ。彼がやってくれた2曲はその後、「エクステンデッド・ミックス」というかたちで8分くらいの尺に延ばしたものになったんだけど、それがすっごくいいんだ。僕らの演奏は生きてるんだけど、それをとてもいいかたちにミックスしたダンス・チューンになったるよ。いずれ2曲を両面に入れたシングルを出すつもり。というか、すぐ出るはずだね!
■他に参加しているアーティストにはメロディメイカーが揃っているなという印象もありました。ビヨーン・イットリングとかアレクシス・テイラー、ジョー・ゴッダートというのはポップなソング・ライティングにおいて屈指の存在だと思いますが、起用の理由もやはりそのあたりになるのでしょうか?
ハーディ:才能ということで言えば、アレクシスとジョーのふたりとも、とてもメロディに秀でてるよね。1曲め("ライト・アクション")と10曲め("グッバイ ラヴァーズ&フレンズ")が彼らに参加してもらった曲なんだけど、1曲めの方はアレクシスにメロディを追加してもらってるし、10曲めの方ではキーボード・パートも加えてもらっているよ。10曲めはヴォーカル・ハーモニーもだね。アレクシスの高音のヴォーカルが目立っていると思うけど、ああいう、彼ならではのヴォーカルをあの曲に入れられたのはすごくうれしいなって思うよ。
■ああ、アルバム全体のなかでもとても印象的なパートですね。あれはアレクシス・テイラーなんですね。
ハーディ:そう。そしてビヨーンについてだけど、ビヨーンのユニット自体がそうであるように、スウェディッシュ・ポップ自体がもともとメロディを重んじる音楽だよね。「いい曲」を大事にする彼らに僕はすごく惹かれるんだ。メロディメイカーとしてはもちろんだけど、プロデューサーとしての腕も確かで、リッケ・リー(Lykke Li)のプロダクション・ワーク(『ユース・ノベルス』2008年)なんかはほんとによかったな......。
■なるほど。リッケ・リー自体も好きなんですか?
ハーディ:ほんと、大好きだよ。それにあのアルバムにはビヨーンのプロデューサーとしての才能が詰まってるよね。
[[SplitPage]]シニカルというのは、本当に生きることの意味を探しはじめたからこそ出てくるものだとも思うし、僕らのような無神論者がほかになにを信じて生きていけばいいのか――生きていくために必要な、信じるべき対象を探しているという部分が出ているのかもしれない。
■そうですね。ところで、先ほどアルバムの大きな性格として「前向き」ということをおっしゃっておられましたが、私もすごくポジティヴなマインドを受け取りました。はじめの2曲なんかも、ほんとに10年前のファーストのときのような活力がありますね。その一方で、歌われている内容自体は、失恋というか、やぶれた関係のようなものがわりとテーマになったりもしています。こうしたテーマは自然に出てきたものなのでしょうか?
ハーディ:そういう音楽が僕は個人的に好きなんだよー。音楽だけ聴いているとアップで楽しいんだけど、詞のほうは逆。シリアスっていうんだろうか。ちょっと惨めなところがあったりね。例で言えばザ・スミス。ジョニー・マーのギターだけ聴いていればすごくエネルギッシュで、だけどモリッシーの歌の内容をきくと、そういうことばっかりじゃないというね。そういう組み合わせの曲の方が僕は好きだし、つい歌いたくなるのもそういう音楽だ。でも僕らのアルバムの詞がずっとそんな感じだからって、壊れた関係や別れってことばかり頭に残るんじゃなくて、音楽に身を任せて気分を上げて踊れるようになってると思うから、そういう両面を楽しんでもらえればなって思うよ。
■すでに活動も長いわけで、最初の作品の頃から比べて、人間性に深みが出るというか、苦くなったり影ができていくような部分もあるのかなと思いまして。最後の曲では「恋人が友人に変わる」場面が描かれていたりしますが、それをきれいな思い出としてスッキリ処理しないでくれと呼びかけるくだりは、10代、20代の無邪気さからは遠いものですよね。フランツ・フェルディナンドがどんなふうに年を重ねてきたのか、時間の経過を少し感じさせるように思いました。
ハーディ:この曲は恋愛関係の終わりというよりは、死というか、「葬式」を歌ってもいるんだ。だから、関係の終わりではなくて命の終わりなんだよね。そのなかで、死んだ人が、「こういうことだけはしないでくれ」っていうことをあげつらっている曲なんだ。ポップ・ミュージックは流さないでくれ、とか、自分にそぐわない神話や美談を作り上げないでくれ、とかね(笑)。
アレックスも、べつに自分の葬式を想定しているわけではなくて、別のキャラクターを想定しているんだと思うんだけど、たしかに僕らにも多少シニカルなところは出てきたのかもしれないよね。それはべつに悪いことではないと思ってる。シニカルというのは、本当に生きることの意味を探しはじめたからこそ出てくるものだとも思うし、僕らのような無神論者がほかになにを信じて生きていけばいいのか――生きていくために必要な、信じるべき対象を探しているという部分が出ているのかもしれない。それがタイトルにもつながっていくんじゃないかな。
だけど、まず自分たちが楽しむということ自体がなかなか簡単なことではないんだよ。
■なるほど......"フレッシュ・ストロベリーズ"では、「僕らは摘みたての新鮮なイチゴだけど、そのうち腐って忘れ去られるだろう」っていうようなことが歌われてますね。これはもしかすると部分的には自分たちの境遇や、長くアーティストを続けることの比喩だったりするのかなと思いました。
ハーディ:ははっ、そうだね。
■いえ、比喩として(笑)。それで、バンドにとって年を重ねることと、クリエイティヴの幅を広げていくこととは、対立することなくうまく結びついていると思いますか? フランツ・フェルディナンドはどのように年をとっていくのでしょう?
ハーディ:あの曲は、腐る直前のあの甘さ......じつはそこがいちばん味わい深く貴重な魅力を秘めているということを歌ってるんだ。それはとても重要なことでもある。
バンドとしては、これまで学んできたものがあるからいまがあると思っているし、年数を積んできただけのものはあるつもりだよ。たとえば、創造性をうまく保っていくためにはスケジュールに踊らされていてはいけない。スケジュールからも解放され、ツアーからも解放され、お互いからも距離を置いて自分だけのスペースを持つことがどれだけ大切かということを過去の経験から学んだ。そしてこのアルバムを作る前にそういう時間をしっかり設けたということが、この作品の出来につながっていると思うし、そうしないとアイディアが生まれてくる新鮮な感覚が持てなくなってしまうんだよね。書きたいことがなくなってしまうというか。
でもがんばってツアーなんかをしてきたから――その経験のなかから書くべきことが生まれているとも言えるわけだよね。それがいいかたちでいまの作品には出てると思うんだ。
■"スタンド・オン・ザ・ホライズン"なんかはめずらしくストレートに弱みやエモーションを見せている曲だと思うんですが、これは気に入っていますか? わりと湿っぽいことも、そう湿っぽくはしないのがフランツ・フェルディナンドだと感じるのですが、それはバンドとしての姿勢というか、哲学のようなものなんでしょうか?
ハーディ:ああ、"スタンド・オン・ザ・ホライズン"ね、ありがとう! 僕のフェイヴァリットだよ、この曲は。そうだな、ダンス・ミュージックをギターで演じるというのがやっぱり僕らの根本にあるわけだから、音的に高揚感を持たせることは意識しているよ。歌詞のテーマはその都度変わるけれども、ちょっとしたメランコリーのようなものはどうしても出てしまうことがある。だから音によってそこを引き上げようということは、意図的に行ったりはするね。
■フランツ・フェルディナンドは優れたバンドであるとともに、優れたエンターテイナーであるからこそ、ここまで人々に受け入れられるようになったと思うのですが、人を楽しませることと、自分が楽しむこととでは、基本的にはどちらが大切だと考えますか?
ハーディ:まずはやっぱり自分たちが楽しむことを大事にしているかな。そうじゃないと続けられないものね。だけど、まず自分たちが楽しむということ自体がなかなか簡単なことではないんだよ。4人の好みもバラバラだしね。そのあたりのチェック・リスト的なものが無意識にあって――たとえば誰かはこれが好きだけどポールはそれでは納得しない、とかってふうにね――そうやってそれぞれの嗜好をすり合わせながら曲を作っていくという過程自体が、広く受け入れられる音楽性を作っていくのかもしれないよね。というか、そうならざるを得ないということに近いかもしれないよ。
もう何回も言ってることだけど、日曜は下北沢THREEで遊ぼうぜ!
先日告知したele-king本誌最新刊vol.10連動イベント「アンチ・ギーク・ヒーローズ」のことですよ。な、な、な、なぁぁぁんと、LowPass、カタコトに加え、ele-kingに欠かせないマン・オブ・タレント、踊ってばかりの国の下津光史(a.k.a The Acid House.)の出演が決定! イエー、ロックンロール~!
さらにはDJに、いまや売れっ子のライター二木信が登場。某ラップ・ユニットのミックステープではフリースタイルで客演するなど、垣根を超えた活動をするこの男が一体どんな曲をスピンするのか......見所と言えば、もしかしたらこれが一番の......いやいや、新人カタコトを見て欲しい!
というわけで、今週末、8月25日(日)、18時開場!
マジ、頼みます。みんな、下北沢THREEで遊ぼう!
ele-king presents "ANTI GEEK HEROES"
8.25 (sun) 下北沢 THREE
OPEN 18:00 / START 18:30
ADV / DOOR 2,000 yen (+ drink fee)
LIVE: LowPass / カタコト / 下津光史(踊ってばかりの国)
Opening ACT: バクバクドキン
DJ: 二木信
*公演の前売りチケット予約は希望公演前日までevent@ele-king.netで受け付けております。お名前・電話番号・希望枚数をお知らせください。当日、会場受付にてご精算/ご入場とさせていただきます。
INFO: THREE 03-5486-8804 www.toos.co.jp/3
たとえば、ジュリアン・コープの『ジャップロック サンプラー』でフラワー・トラヴェリン・バンドなどに較べ、村八分の旗色が悪いのは、英国と日本の間に横たわる歴史、地理、言葉の条件から来る齟齬のめもくらむばかりの溝をどのようにのこりこえるのかという以前に、音楽のオリジナリティをどこに聴きとるかという耳の志向に左右される。いわく、旧弊な日本社会におけるアウトサイダーたちによるストーンズ・タイプのロックンロール・バンドだったがそれ以上ではなかった――これはジュリアンがそう書いているのではなく、あの本で彼のいいたがっていることを私なりに解釈したものだが、私は彼にいってやりたい。ねえジュリアン、オリジナリティって新しい形式をつくることのなの? 一方で、小説を書かないことで知られるアルゼンチンの作家、エルネスト・サバトは『作家とその亡霊たち』のなかの「作家と旅行」と題した短文で「よしきにつけ悪しきにつけ、真の作家は自分が育ち、苦しんだ現実、つまり故郷について書く」と書く。この短い文章をサバトは「一見矛盾するようだが、もし作家が旅するとすれば、それは自分の拠所となる場所と事象を掘り下げるためなのである」と結んでいる。これを山口冨士夫に置き換えると、彼は彼自身の出自と対峙し、血の轍に乗って旅し、その道は「自分が育ち、苦しんだ現実、つまり故郷」に続いていたのかもしれない、と思うのはあまりに物語めいているが、山口冨士夫の訃報の一報に接したときの諦念と、続報で知った事実に、この国のロックンロールが失ったものの大きさを思ったとき、それを埋め合わせるにはなんらかの構図が必要だったのだろう。サバトの言葉はエキゾチシズムを退けるものではない。そしてジュリアン・コープの指標もそこにある。そこから何を聴き、読むかという作品への寄り添い方のちがいでしかない。おしむらくは、村八分に決定的なスタジオ録音があれば、評価もまたちがったかもしれないが、彼らはそれを潔しとしなかった。というより、あまりに音楽の速さにスタジオに篭もってはいられなかった。結果村八分は70年秋から73年5月までの2年あまりの活動期間で〈エレック〉に『ライブ』をのこしただけだったが、ブルースを消化した山口冨士夫のギターと、路傍の宝石の原石のようなチャー坊の言葉のせめぎあいはたやすく形式に定着できるものではなかった。
「一ついいフレーズが浮かんできたら、それについて一日中思いを巡らし、ギターで鳴らし、それでもまだ程遠いわけじゃん。で、だんだん近寄っていくわけなんだよね。自分の体とそのスピリットが。そこで初めて体全体でギターを弾けるようになる。その曲の一部になれる気がするんだよな......。」(山口冨士夫『村八分』K&Bパブリッシャーズ)と山口冨士夫はいう。ここには音楽をむしゃむしゃと咀嚼しりゅうりゅうと血肉化した者だけで語れる身体言語がある。あの瞬発力と強靱なリズム、リリシズムとユーモア。74年の『ひまつぶし』、ティアドロップス、どんとや清志郎たちといっしょのとき、山口冨士夫はゆるぎない全身ギタリストぶりをわれわれに教えてくれた。いや、教えるなどという押しつけがましさはなく、ただそこにいるだけで成り立っていたから「全身」であった。それはたとえ水谷孝の空間を満たすフィードバックの渦に対しても空間をつくり、一歩も引くことはなくじりじりと漆黒の空間を焼いていた、裸のラリーズの山口冨士夫在籍時(1980~81年)のライヴ音源にも明らかである。この地球にはライヴでしか表せない音楽があり、出音すべが生きているロック・ギタリストがいるのだということを山口冨士夫ほど体現していた者はいまい。だからその肉体が失われたことへの悲嘆は深く重い。のこされた数多の楽曲のグルーヴをもってしても、この喪失感はしばらく癒えそうにない。(松村正人)
音楽ファンとは、ある日突然ひとつの曲を好きになると、その曲ばかりを1ヶ月、下手したら数ヶ月聴き続けるものである。アルバムではない。アルバムのなかの1曲が、そのときの自分には最高の音楽となるのだ。
僕は山口冨士夫の『ひまつぶし』に入っている"おさらば"を繰り返し聴いていた時期がある。人生の根底が揺らぐような、ヘヴィな時期に聴いていた。別れを主題にした曲は星の数ほどあれど、"おさらば"の、日本的なウェット感を寄せ付けない乾き方は、明日からどうやって生きていこうかと考えている日々にぴったりだった。感傷を抱えたまま腹をくくらせる。家で数回聴いて、外に出て、歩きながら口ずさんだものだ。誰にも会いたくないし、誰とも話したくない。やっとおさらばできる。人生とは定住を許さない旅だ。
山口冨士夫は生まれからして、戦後日本のロックンロールそのものである。僕は、"おさらば"のような寂しさを表現できるブルースマンを他に知らない。死を美化するつもりは毛頭ないが、福生で米国籍の男に突き飛ばされたという話は、しかしそれでも、どうしようもなく思い巡らせるものがある。当たり前のことを言えば、いまだ真っ当な評価のされていない偉人がひとりいなくなった。合掌。(野田努)




