野田努
2002年の日韓ワールドカップのときのことだ。抽選でチケットの買えた試合が、横浜国際総合競技場(現・日産スタジアム)で行われたアイルランド・サウジアラビア戦だった。緑色のユニフォームを着た大勢のアイルランド人たちのほぼひとりひとりが、缶ビール500mlの6缶入りのパックを手にぶら下げて、あるいは、スタジオ周辺の道ばたで試合開始の数時間前から座って飲んでいる。道中にあった立ち食いそば屋も缶ビールを手にしたアイルランド人たちで占拠され、なかばパブと化していた。こうなれば頭のなかはザ・ポーグスだ。このバンドからはいくつかのアイルランド民謡を教えてもらった。“ウイスキー・イン・ザ・ジャー”、それから“アイリッシュ・ローバー”。初めてロンドンを訪れたときは、ソーホーを歩きながら“ソーホーの雨の夜”を思い出した。映画『ストレート・トゥ・ヘル』も忘れられない。ご多分に漏れず、クリスマスには何回も“フェアリー・テイルズ・オブ・ニューヨーク”(数年前、歌詞の一部がPC上問題ありと削除された)を聴いた。もうだいぶ昔の話だけれど。
シェイン・マガウアンは過激なヒューマニストであり、怒りのアイリッシュ・ディアスポラだった。天才的な詩人で、力強いメロディを作れる優れたソングライターでもあった。彼の歌詞は、アイルランドという故郷を離れた人たちの視点で描かれた故郷への思慕、そして放浪や喪失、失意や後悔、すなわち人生の苦難についての思いや感情だった。ハッピーな詞ではないが心に響く言葉で綴られ、人生のつらさを笑い飛ばすかのように曲はたいていダンサブルだった。
夏のそよ風のなかを歩くのが好きだ
ダリングロードの枯れ木のそばを
そして友人と飲む
ハマースミス・ブロードウェイで
わが愛する汚れて愉快な酔っぱらいの日々
いま、冬がやって来る
クリスマスになると街をおおう
その寒さが俺は耐えられない
天罰が下るのを待つばかりだ
俺は1ペニーも持たずに
ロンドンの暗い通りを彷徨っている
“ダーク・ストリーツ・オブ・ロンドン”
アイルランド人の両親のもとに生まれ、5歳から酒を飲みはじめた生涯を通じての大酒飲みは、その音楽と同時に破壊的な人生も語りぐさとなっている。たとえば、文学の才を見出された彼は名門校に進学するものの校内でドラッグを売って退学となり、施設に収容されたばかりか18歳を精神病院で過ごしている。そして、退院後のシェインにとっての居場所がパンク・ロックの現場だった。彼はパンクのドキュメンタリー映像に映り込むほど、最前列で踊る狂う目立ったパンクスのひとりだったが、周知のようにやがてパンクは廃れ、彼はまたしても行き場を失う。しかしシェインはこの逆境のなかで、パブでビールを飲みながらアイルランド民謡の生演奏で踊っているディアスポラの文化とパンクを融合させるというアイデアを思いつく。ザ・ポーグスの誕生だ。先に紹介した“ダーク・ストリーツ・オブ・ロンドン”は、1984年のデビュー・シングル曲である。
それからシェインは、ザ・ポーグスの歌手として、この先も聴かれ続けられるであろう2枚の傑作、『ラム酒、愛 そして鞭の響き(Rum Sodomy & The Lash)』(1985)と『堕ちた天使(If I Should Fall From Grace With God)』(1988)をリリースする。とくに後者は80年代後半のアイリッシュ・ディアスポラを完璧に表現した作品として知られており、バンドの音楽的な探究(カントリーをはじめとするアメリカーナなどとの合成)が頂点に達したアルバムでもある。シェインの作詞ではないが収録曲“サウザンツ・アー・セイリング(海を渡る幾千人)”は、アメリカに渡ったアイルランド移民の物語として“フェアリー・テイル・オブ・ニューヨーク”と並ぶ人気曲だ。それにこのアルバムには、アイルランド独立運動とその惨劇を主題にしたド“ストリート・オブ・ソロー/バーミンガム・シックス”もあるし、また、美しい“ララバイ・オブ・ロンドン”もある。
灯りが消えても歌は続いた
北風が優しくため息をついた
東からの夕風が川辺にキスをした
俺は祈っている
この子守唄を聞くとき
呪われた墓場から吹く風が
決して不幸をもたらさないように
シェイン・マガウアンは11月30日の早朝に息を引き取った。1957年生まれの65歳。2022年12月、彼はウイルス性脳炎で入院し、2023年の数ヶ月間を集中治療室で過ごしていた。妻ビクトリア・メアリー・クラークはシェインを「もっとも美しい魂であり、美しい天使であり、太陽であり月でもある」と喩えている。
「魂」だの「天使」だのという言葉は、使い方を間違えると安っぽくなるが、シェインに関しては違和感を覚えない。この社会そのものが、かつて彼を収監した病院のようになっているのだとしたら、彼の方から去っていったのではないかと思ったほどだ。ぼくは、“ダーティ・オールド・タウン”も好きでよく聴いた。これはカヴァー曲だが、「ガス工場の壁で愛に出会った」という歌い出しはシェインに相応しく、「古い運河のそばで夢を見た/工場の塀のそばでキスをした」というフレーズは、ザ・ポーグスの世界そのものだ。アイルランド独立の話に関しては、ぼくに何か言えるとは思えない。が、シェインにとっての理想の人生とは、難しい話じゃない、素朴なことだったように思う。パブで老若男女が人生を積極的に楽しんでいるように騒いでいる、おそらくは、ただそれだけのことなのだ。
最後にもうひとつ。根性がなくてIRA に入りたくても入れなかったとか、言いたいことを言ってきたシェインは、1991年にはこんなことまで言っている。「酔っ払いについて覚えておくべきもっとも重要なことは、酔っ払いはそうでない人よりもはるかに知的だということだ。彼らはパブで多くの時間をおしゃべりに費やしている。高次の精神的価値を開発することもなく、酔っ払いのように頭のなかを探検することもない、上昇志向だけのワーカーホリックたちとは訳が違うんだ」
市原健太
ザ・ポーグスの最初のアルバム『Red Roses for Me』に収録された、イギリスの監獄のなかで響く鐘の音を歌ったバラッド “The Auld Triangle” を作った人物。IRAの闘士、劇作家にしてレンガ職人、聖なる酔っ払いたるブレンダン・ビーハン。その男がニューヨークの街角をコートの襟を立てのしのし歩く姿を自らに引き付けて活写した詩を書いたのは、シェインではなく(ギタリストの)故フィリップ・シェブロンだった。パンキッシュなフォーク・バンドから名実とも世界的な人気を勝ち得た3枚目のアルバム『堕ちた天使(If I Should Fall from Grace with God)』に収録された“サウザンツ・アー・セイリング(海を渡る幾千人)” のなかで歌われている。きっとシェインがこれを歌えば映えるだろうという魂胆もあったかもしれない。いま思うとちょっとできすぎな映画のワンシーンのように美しい曲である。。
名うてのトラッド・ミュージシャン、テリー・ウッズが加入した『堕ちた天使』が名盤であることは間違いない。アイルランド人たちのエグザイルという大きなテーマは90年代初頭のケルト・ミュージック・ブームにも大きな影響を与えた。世界に散らばったアイルランド人たちの音楽博覧会的な集大成は、当時カルチュラル・スタディーズやワールド・ミュージックの時流にものり、大ヒット・アルバムとなった。
しかしそのリリース以降、二度の来日公演で観たザ・ポーグスのライヴでのシェインは、力強く歌うことはなかった。よれよれのシェインはスパイダーに肩を抱かれて一曲ごとに出たり入ったり。もちろん酒のせいではあったのだろう。しかしやはりどうしても表現者としての逡巡がなかったとは思えない。風景画のように人生のある一瞬を描くような美しいバラッドや、ポーグ・マホーン=ケツくらえ的なパンキッシュな曲ばかりを期待されること、アイリッシュ・ミュージックの立役者としての大きな括られ方がどんなに苦しかっただろうかと思う。その後脱退をし、ポープスなるバンドを作るけれども、ほんとうに作りたかった音楽はやはりポーグスでなくてはできなかったのかもしれないと考えるととても悲しい。
カタカタカタとタイプライターを打つ音からはじまる、脳性麻痺者にして作家、そして聖なる酔っ払い、映画化もされた自伝『マイ・レフトフット』で広く知られる(アイルランドの作家)クリスティ・ブラウンのことを歌った “Down All The Days” という歌がぼくはとても好きだ。何度でも繰り返し聴きたくなる。『堕ちた天使』のあとリリースされた4枚目のアルバム『Peace and Love』に収録されている。
停滞を歌った歌。一日中ベッドに横たわり、唯一動く左足のつま先でタイプをカタカタ鳴らし、世に出るあてもない文章を書き散らし、鼻からストローで酒をすする。停滞は沈鬱で寄る辺ないけれど、でもこの曲のさわやかさはすてきだ。シェインはちゃんといままでの過剰な大きすぎる高揚から抜け出す術を持っていたんじゃないかと思えるほどに、この曲は治癒的に聴こえるし、そして美しすぎない美しさを持っている。
クリスティ・ブラウンは疑り深く健常者に悪態をつき悪びれずなかなかに付き合いにくいやつだ。もちろんそれでは生きていかれないからかわいいところもある。すぐに女を好きになるけどフラれてツラいばっかりの人生を送る。でも文章を書くことをやめない。停滞のなかでずっとタイプライターをカタカタ鳴らしている。その反復・反応をシェインは音楽に表現する。ザ・ポーグスのタイトな演奏もすばらしい。
聖なる酔っ払いは過剰な美しさを宿す。いまではニューヨークの警官たちがやさぐれたラヴ・ソング “フェアリー・テイル・オブ・ニューヨーク” を合唱するくらいにその美しさは波及・大衆化している。しかしそんな大衆化に逆転反撃、無意味な反復もやはりシェインが出自を持つ国、司馬遼太郎が〈百敗の民〉と形容した場所の心性なのだ。『Peace and Love』、『Hell's Ditch』、そしてシェインがいなくなった後の『Waiting for Herb』へと続く後期ポーグスは佳曲というべきロック・ナンバーとトラッドをベースにした疾走感のある彼らにしか演奏のできないフォーク・ロックな曲が交互に並ぶ。なにか高みに達することをわざと避けるような軽さがいい。その彼らの潔さがうれしくて、毎年夏が終わった頃、無性に彼らの音楽が聴きたくなるのだ。そしてシェインの訃報。もう仕事にならなくてずっとユーチューブを観ていたが、シェインではなく、まるで禅僧のようなジェイムズ・ファーンリーの顔を観ていたら涙が止まらなくなる。
シェインが酔っ払ったふりをして話さなかったこと。そのことについてこれから考えようと思っている。以前インタヴューで「ぼくらのバンドは民主主義だから」とぽろっと話したことがあった。ほんとうにそうだったんだろう。誰かに頭を押さえつけられることの大嫌いなシェインであればそうするほかはない。彼は歴史や文学を決して蔑ろにしなかった。そうでなければトラッドにかかわることなどできないし、あの美しい詩を書くことなどできなかったはずだ。
しかしそんなこともいまはどうでもよいかな。猪木さんのように衰えていく姿をSNSでシェインは逐次伝えてきた。その上での訃報だった。潔いんだな。まったくかっこいい男だったとぼくのなかで歴史がひとつ積み上がる。