Home > Reviews > Album Reviews > Richard Dawson- 2020
ひと昔前なら、“都会的”という言葉は、まあ自由人が気ままに生きていける場ということで、文化的な褒め言葉として一定の支持があった。が、現代において“都会的”、あるいは“シティ”や“アーバン”が均一化の暗喩でもあることは、新幹線の駅を降りて目に入る服屋をチェックすれば明白にわかる。どこかで見た看板やロゴがここかしかにある。それでもかまわない。なぜなら、“シティ”や“アーバン”はいまや田舎者のためにあるんだろうから。
ニューキャッスルのシンガーソングライター、リチャード・ドーソンの前作『Peasant(田舎者/百姓)』がその当時(2017年)英米でえらい評判になっていたので聴いたら、こりゃなんて土臭いフォークだろうと思った。賛辞を込めていえば変態(実験的)フォークである。コンセプトは中世だが、その背後にはコミュニティがいまも社会的勢力として意味があるものとして存在しているのかという問いがあるという評も読んだ。ウィットに富んだ歌詞がそうとうなクオリティらしい。もっとも言語がわからないぼくのような人間をまず捉えるのは、独創的かつ情熱的な、土臭くもじつに音楽的豊かさを携えたフォークとしての圧倒的な響きである。歌詞がわからなくても坂本慎太郎や三上寛の音楽に心酔する欧米人のようなものだろう。なんかわからんけどおもろい! というわけだ。
日本のフォークにも土着性にこだわってきた歴史があるが、ドーソンのそれはギターを中心とした最小限の音による不定型な雑食性に特徴を持っている。具体的に言えば、ここにはロバート・ワイヤットもニール・ヤングもデレク・ベイリーもいるし、雑食の度合いは、彼のフェイヴァリットがサン・ラー(彼にとってもっとも重要な影響)、ニーナ・シモン、ミンガスといったジャズ、そしてワールド・ミュージック、あるいはソフィーといった最新のエレクトロニック・ミュージックという異様な幅広さにあることからもお察しいただけよう。また、フォークと言っても耳障りで基本やかましいし、ギターの演奏がちょっとずば抜けている。だから厳密にはフォークとは言えない。ぼくが最初に聴いたときの感想を言えば、こりゃカンタベリーっぽいな、しかし酒場でおっさんがベイリーのようなギターを弾きながらがなっているジャズ・ロック・フォークみたいだなといったところで、さもなければイギリス労働者階級的ボン・イヴェールというか、要するに唯一無二なのだ。
彼の新作『2020』は『ピーザント』よりも聴きやすい。フリーキーなギターは抑え気味で、シンプルなメロディを前面に出している。アルバムではいろんな人びとについて歌っている。
1曲目は“Civil Servant(公務員)”、生活保護者に支給打ち切りの話しをしなければならない公務員の朝起きてからの憂鬱な日常が歌われている。2曲目の“The Queen's Head”はおおよそは浸水したパブについての歌だが、曲中には痴呆症の母を持つ男や給付金にたかる移民など時事ネタが挟みこまれ、そしてサビでは「あー、我々はなんて小さいんだろう」と繰り返される。シングル曲“Jogging”では不安に囚われ希望退職し、医師からジョギングを勧められる人物が歌われている。βブロッカーを処方され、ひたすら走る。曲中には、窓の外から石を投げられるクルド族の一家が歌われ、ミッド・イングランドの外国人嫌いをチラつかせている。そしてドーソンは「私はパラノイアに違いない」と声を裏返しながら繰り返す。“Black Triangle”ではUFOのオブセッションに取り憑かれ破局する結婚、“Heart Emoji”では空しい不倫時における娘への絵文字メール……こうしたシニカルな風刺が全曲にあり、そのすべてが面白いのである。〈ビートインク〉は日本で信頼できるレーベルのひとつであることは違いないが、これは日本盤として優れた訳者の歌詞対訳付きでリリースして欲しかった。
ニューカッスルといえば、ケン・ローチの新作『家族を想うとき』の舞台でもあり、坂本麻里子さんによれば、格好つけないガッツある労働者階級の街だそうで、ドーソンのようなまったくトレンドに与してない音楽が出てくる土壌があるという。いま何がイケてるかなどどうでもよく、自分が歌いたいことがたくさんある人の音楽のほうが説得力を持つのは21世紀になろうと当たり前のことなのだろうけれど、それにしても彼はまったく非凡である。
野田努