Home > Reviews > Book Reviews > 相互扶助論- ピーター・クロポトキン 著小田透 訳
ECDさんは「大杉栄 日本で最も自由だった男」(道の手帖 河出書房新社)のなかで、自分は一端アナキストをやめると書いている。大震災から一年後の2012年当時、それまでさまざまなアナキズムの文献を読んでいたけれど、原発の再稼働を止めるためには国家という制度のなかで闘わなければいけないのだから、ただ「ぶちこわせ」と言うことはできないのだと書いている。律儀で江戸っ子なECDさんらしい物言いだと思う。それにしてもストリート・ワイズたるECDさんはきっと12年前の路上でアナキズムだけでよいのかという声を聞き取ったのではないか。そういう声がその時どこかに漂っていたのではないだろうか。
ECDさんの文章から十年以上がたち、今年に入ってアナキズム関連の書籍が立て続けに出されている。アナキズムという言葉が社会に馴染んだのか、社会の方が近づいたのかわからないけれど、アナキズムという言葉を基とするような生き方がさまざまな場所で散見されるようにもなった。何にも拠らないような自由な生き方を試行する人たち。社会的弱者を救援するような活動に携わる人たち、ケア・教育という現場のなかで相互扶助的な思想を体現し始めた人たち。音楽のことを云えば、パンクというコミュニティを経てさまざまな自由で自律的な表現活動をはじめた人たちなど。
もちろん日本には明治期以降、幸徳秋水・大杉栄以降のアナキズムの歴史があったが、それは基本的に自分を消してしまうような「無名」な運動であったためにマイナーな存在であり続けてきていて、どこかで一端途切れてなくなってしまったものが今年復活してしまったという現象ではなく、見えやすくなってきているというだけのことなのかもしれない。が、とにもかくにも現在本はたくさん出版されている。
今年4月に新版として出されたクロポトキンの『相互扶助論』は、アナキズムという思想のでき上る時代、1902年が初出の重要な本である。地理学者(今で言うならば人類学者)だったクロポトキンはロシア、ヨーロッパの各地を踏査しながら、紀元前には確固としてあり、中世以前に色濃くあり、資本主義の登場以降にも連綿と受け継がれてきた、人間の考え方の中心にあった「相互扶助」という所与の感覚/思想を人類史という大きな歴史のなかで立ち上がらせた。政治や経済学の立場からマルクス主義とはまた違った立場で資本主義と対抗しようとしたアナキズムを人類学の立場から補強した。デヴィッド・グレーバー(彼は本書の序文も書いている)の『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』(光文社)やユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』(河出書房新社)など、現在も文化人類学者による人類史の本はベストセラーになっているが、百年前、資本主義が人間の生活を大きく変化させていく時代にこの本は書かれている。
1924年、大正13年に大杉栄が本書を翻訳して紹介をしたが、以降現在新本として原典の補遺と注釈すべてを含めた形の新しい邦訳はなかった。大杉栄訳にしても、その後の大沢正道の翻訳にしても、アナキズムという思想を紹介するという役目が大きかったけれど、今般の新訳は一冊の古典学術書としての完訳がなされたといってよい。また文化人類学の百年以上の蓄積も翻訳者によって本書には活かされており、古典を現在の言葉に近い形で読む上で今までの翻訳よりも読みやすく作られている。500頁にわたる本を読むのは難儀をするだろうけれど、別に一気に読まなくたっていい。流行りの本ではないのだから、何年もかけてゆっくりと読んで人生に反映させるような大きな内容を持つ本だ。
ダーウィンの進化論を資本主義にとって都合よく解釈し、弱肉強食・自然淘汰などという概念を人間の在り方として広く行き渡らせてきたのは、そうすることによって国家の権力を持つ者たちが国家の成員たちを馴致しやすくするためである。『相互扶助論』はダーウィン批判としても書かれているけれど、ダーウィンが間違っているとただ看破するのではなく、それを自らのために改謬するもの、その勢力、その人間の精神をこそ批判する。前回本の紹介文を書かせていただいた川口好美さんの批判の方法にも似て、クロポトキンがダーウィンを語るときのリスペクトの感覚はとても大切なものに思えてくる。
あとがきに訳者によってクロポトキンの人生が描かれる。百年前に各地を踏査するとともに索引に並んでいる膨大な書籍を読み、さらに社会運動にもかかわったクロポトキンの生涯のスケールの大きさはやはりすごい。まるで生き字引のように文中にさまざまな学者の引用を散りばめながら自らの論を進めてゆく。むろん批判のための引用もあるけれど、それよりもさまざまな学者や市井の人の考えが接ぎ木のように反映されていき一体誰の書いたものなのかがわからなくなっていくような大きさを持つ本なのだ。
そのような百年前の思考方法を感じることができることは、時に冗長な表現があったとしても(だからこそある種錯綜した書かれ方の「万物の黎明」が現在あるのではないか)、無駄なことなどではない。「現在の社会システムのもとで、同じ通りや近所の住民を結びつける絆はすべて分解してしまった」と本書には書かれているけれど、それよりもさらにさらに社会システムも人びとの心のなかも分断の進んでしまった現在、本書が有効なのかどうかを問うよりも、ロシア革命がおこる少し前、さまざまな不安が顕在化し第一次世界大戦が始まろうという少し前にこのような本が作られたということを知ることは大切なことだ。
日々何の気なしに生きていて、ぼくらは資本主義以外の世界があると想像することすらできない。災害の最中、誰に命令されるでもなく金銭のためにでもなく身体が他者のために動いてしまうという心。ケアという行為のなかで相手・他者がしてほしいことをしてあげたいと思ってしまうことなど、「交換」というよりももう少しわけのわからない自律的な私たちの行いを、それが資本主義からまったくかけ離れて行われているものなのかどうかぼくには判断することはできないが、それらの瞬間をきっかけに今ここが資本と自分の行為の交換だけでは成り立っていないことが感覚できるのではないだろうか。『相互扶助論』はきっとその瞬間の強度を高めてくれるはずだ。厚い本だけれど、気後れしないでまずはあとがきから読み始めてほしい。
市原健太