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そういえば、宮沢賢治の『春と修羅』には、電線の唸る音を歌った詩があった。「電線のうなりが/いちめんの ひのきやならのなかにひろがり」。ドローンと呼ばれる音楽の創案者、ラ・モンテ・ヤングは、電線どころか、世界で鳴っているあらゆる音が好きだったそうだ。「子どもの頃、ヤングは人為的なものも自然のものも含め、連続した音に強く惹かれていた。地元の発電所にある変圧器のハミングや、川向こうの列車の汽笛、旋盤やドリルプレスの音、風や虫の声、水の流れ、木々のざわめきなど」とイギリスの音楽学者、キース・ポッターは著書のなかで書いている。それは、「ケージの思想に出会うずっと前から、外の世界こそが芸術よりも遥かに魅力的であるかもしれないと考えるようになった」
Sunn O)))の新作について書くか、イルミン・シュミットの新作について書くか迷った。前者はドローン・メタルの大御所による深い「森」が舞台、後者は元CANのメンバーによる「環境音」のコーラジュで、どちらのアルバムも「自然界」を作品の重要な主題としている。人間中心主義の外側、マーク・フィッシャーが言うところの「外部」「不気味なもの(The Eerie)」を。「自然」や「環境音」を単なるテクスチュアの「素材」として消費することを拒むその姿勢は、自然を美化する反動的なオーガニック系やヒーリング系とは、根本的に位相を異にしている。
Sunn O)))の新作は約7年ぶりで、大手〈Sub Pop〉からのリリースとあって話題になっている。ヴェノムに手を出すわけでも、かといってスティーヴ・アルビニを自らのガラだと思っているわけでもない。そんなリスナーがこのアルバムを気に留めた理由は、三つに集約される。ひとつ、マーク・ロスコの原画に圧倒された経験をもつ身として、それをアートワークとした作品への関心がある。ふたつ、スティーヴン・オマリーのパートナー、カリ・マローンの2枚の近作(ドローン作品)を好んでいる。三つ、森は好きだし、ここ数年、あの独特の冷気とも木々の匂いとも無縁であるし。うーん、しかし重たい音楽をじーっと聴いていられる余裕もないし、無理せずここはイルミン・シュミットにしよう。
シュミットが外側の世界に関心を寄せたのは、戦後ドイツの前衛と括られるモダニストたちへの反発からだった。クラシック音楽のエリートだった若きシュミットの師匠は、宇宙の秩序さえ数学的に写し取ろうとした音列主義者(カールハインツ・シュトックハウゼンという名で知られる)だ。だが、シュミットが心酔したのは、作曲家の意志を排し、音楽概念の根底を揺るがした実験主義者(ジョン・ケージという名で知られる)のほうだった。1960年代、ケージ作曲の『アトラス・エクリプティカリス』の西ドイツでの初演においてピアノを弾いたのはシュミットである。
CANなきあとのシュミットが、若き自分を夢中にさせたその音楽哲学を再訪しているのは、ここ二作のソロ・アルバムであきらかだ。『レクイエム』もその系譜にあり、プリペアド・ピアノによる近年のシュミット節というか、しかし今回のアルバムのほとんどは自然界の音のコラージュである。カエルの鳴き声、鳥のさえずり、小川のせせらぎ、そして雨の音の移ろい——鳥のさえずりといっても、清々しい朝や、夕暮れ時に聞こえるあれではない。ナイチンゲール、日本ではサヨナキドリと呼ばれるその鳥は、多くの鳥が日中に鳴くのに対し、文字通り「夜に鳴く」。また、雨の音と言っても、しとしとと心地よい音でもサーと音を立てる夕立めいたあれでもなく、傘をさしてもずぶ濡れの土砂降りだったりもする。それら自然の歌声や音にプリペアド・ピアノが織り交ぜられる。
もう動かないし、かつて持っていた技巧も失ってしまったと語っている89歳の彼は、もの悲しい旋律を寄せ、ときに打楽器のようにピアノを叩き、ノイズを発信する。それは、自然との対話のようだ。また、人生を重ねた老芸術家に特有のとめどない思いを感じもする──「孤独」「愛」「苦悩」「悲哀」という言葉で表せそうな。
アルバムは二部構成になっているが、どちらも瞑想的で、そして魂を洗うかのように、水のせせらぎが鮮明に聞こえる。川の流れであろうとスコールであろうと、ぼくは水の音が好きだ。『レクイエム』にはたくさんの水の音があるのがいい。が、『レクイエム』と言うからには、そこには亡き友人たち、亡きCANというひとつの生き物とのコレクティヴへの当然の思いはあろうし、滅びゆく自然環境への思いもあるのかもしれない。
テクスチュアそのものも魅力的だが、これは何度でも聴きたくなるような作品だ。深みあるサウンドコラージュ作品とも言える。たとえあなたがCANのこと知らなくても、シュトックハウゼンもケージも知らなくても、難解な言語による音楽理論を読まなくても、このアルバムの世界に浸ることができる。外の世界に耳を傾けるということは、自然を人工に対する美として持ち上げることではない。耳を開かせるということであり、拒まれることはないということなのだから。
野田努