「HK」と一致するもの

interview with Koichi Matsunaga - ele-king

 DJイベントでもなんでも、そこにコンピューマの名前を見つける確率は、彼が仲間たちと精力的にライヴ活動をしていた90年代よりも、ゼロ年代以降、いや、テン年代以降のほうが高いだろう。年を追うごとにブッキングの数が増えることは、近年のアンダーグラウンドにおいては決して珍しい話ではない。シカゴのRP Booやデトロイトのデラーノ・スミスやリック・ウィルハイトのように、大器晩成型というか、年を重ねてから作品を発表する人も少なくなかったりする。ことにDJの世界は、ミックスの技術やセンスもさることながら、やはり音楽作品に関する知識量も重要だ。ゆえにコンピューマのDJの場が彼の年齢に比例して多くなることは、シリアスに音楽を捉えているシーンが日本にはあるという証左にもなる。
 とはいえ、そうした文化をサポートするシステムや人たちが大勢いる欧米と違って、この国でアンダーグラウンドな活動を長いあいだ続けることはそれなりにタフであって、だからコンピューマのようなDJはいままさにその道を切り拓いているひとりでもあるのだ。先日、アルバム『A View』を発表した松永耕一に、まあせっかくだし、これまでの活動を思い切り振り返ってもらった。

当時はそれを世に出すなんてことはとてもじゃないですが考えたことなかったです。「チェック・ユア・マイク」にはバイト仲間の友だちと一緒に応募しましたが、テープの段階で見事に落ちてました(笑)。

音楽活動をはじめてからいま何年目ですか?

松永:音楽活動は、バンド/グループのメンバーとして参加したのはADS(Asteroid Desert Songs)が初めてです。1994年末にADSイベントをはじめて、作品を出したのが確か1995〜6年にEPミニ・アルバムを出してますので、その頃から音楽活動をはじめたということになるのではないかと思います。

ADS( Asteroid Desert Songs)がきっかけだった?

松永:バンドやグループに入って、自分自身が何か楽器を演奏して音を奏でるっていうことは、それまではあまり考えたことがなかったんです。どうにもリスナー気質で、DJはやりたいと思っていましたが。そう、だから聴くの専門で、ただ高校時代ダンス・ミュージックのメガミックスが流行ったり、メジャーの音楽でもホール&オーツでのアーサー・ベイカーのリミックスなどを知ってからは、自宅でラジカセでカセットテープを切り貼りしてみて、下手くそながら連打エディットにトライしてみたり、強引にカットイン繋いだりしてみたり、もちろん遊びの延長で全然上手くできないんですが、雰囲気や気持ちだけは(笑)。
 その後上京して、コールドカットや「Lesson 3」などヒップホップ的メガミックスを知ってから、学生時代に4トラックMTRを使ってトラック作りの真似事やコラージュミックスなどを下手っぴで作ったりしたことはありましたけど、当時はそれを世に出すなんてことはとてもじゃないですが考えたことなかったです。〈チェック・ユア・マイク〉(※90年代初頭にはじまったECD主催のヒップホップのコンテスト)にはバイト仲間の友だちと一緒に応募しましたが、テープの段階で見事に落ちてました(笑)。
 そういうこともオタクDJの延長でやってました。なので、まさか自分がバンド/グループに関わって何か作品を出すことになるなんてことは思ってもいませんでした。

ヒップホップが大きかったんですか?

松永:リスナーの延長線上でも身近に音として戯れられるというか、こういう音の組み合わせにしたら何か新たな発見や楽しみ方ができたりワクワクしたのはあの時代に出会ったヒップホップ的ミックス感覚でした。大好きで影響を受けたのは、いとうせいこう/ヤン富田/DUB MATER X『MESS/AGE』、KLF『Chill Out』に『Space』、デ・ラ・ソウルの1stと2nd、ジャングル・ブラザース、パブリック・エネミー、そしてジ・オーブも。グレイス・ジョーンズ『Slave to the Rhythm』、マルコム・マクラレン『Duck Rock』などもあらためて……こういった作品やアーティストのセンスとユーモア、コラージュ感覚にとても惹かれました。クリスチャン・マークレイの存在もこの時期に知ってさらに世界が広がりました。あとは細野晴臣さん責任編集の季刊音楽誌『H2』の存在も大きいです。

KLFの『Chill Out』と『Space』が出てきたのは、その後のコンピューマの作風を考えてると腑に落ちますね。

松永:大胆なコラージュ感覚とか、惹かれました。アート・オブ・ノイズも大好きでした。

本当にサウンド・コラージュが好きだったんだね。

松永:いま訊かれて気付いたんですけど(笑)。そういう組み合わせの心地よさを無意識に感じていたんでしょうね。学生時代の音楽仲間と、いろんなジャンルのレコードのビートレスの曲のみでノンビートに近いDJミックスを作ったりしていたことも思い出しました。

10代のころ好きだったレコードを挙げるとしたら?

松永:PiL「Public Image」『Metal Box』『This Is What You Want…』、アート・オブ・ノイズ『Who’s Afraid Of The Art Of Noise』『Moment In Love』、プロパガンダ、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドまで〈ZTT〉ものが好きでした。

東京出てきてからの方が音楽にハマった感じ?

松永:インターネットもまだなかったですし、当時の同じ地方出身者同様に、熊本での限られた情報のなかで雑誌やラジオ、テレビを聴いたり見たりしながら、ラジオ短波でエアチェックしていた大貫憲章さんの全英トップ20だったり、NHKサウンドストリートだったり、音楽雑誌で紹介されてるアルバムを聴いていました。ただ、小遣いも限りがあるし、いわゆる田舎の普通の高校生の趣味の範疇での世界で、情熱はありつつも、そこまで深追いはできてなかったのではないかと思います。
 思いだすのは、高校入学してすぐに仲良くなった音楽に詳しかった同級生から、彼の寮の部屋でペンギン・カフェ・オーケストラやブライアン・イーノを教えてもらったりして、衝撃を受けたりしてました。環境音楽? アンビエント? こんな音楽もあるんだとか。ヒップホップも、好きだったPiL経由で“World Destruction”を知って、アフリカ・バンバータの存在を認識しました。で、ジャケットがカッコよかった「Renegade Of Funk」の12インチを買ったり……。コールドカットのようなメガミックスものをちゃんと知るのは80年代後半に東京に出てきてからです。そこからまた新たな音楽世界を知っていくことが日々楽しくて楽しくて、友だちとレコード屋行きまくって、もちろん一人でも。当時は試聴もできなかったからレコードのジャケの雰囲気や裏面、見れたら盤面クレジットを舐めるように見て妄想して買ってみて、当たることもあれば、まったく予想と違っていたり、外したり……。ただ、そのときには聴いてよくわからなくても何とかわかろうとする気持ちというか、何度も聴いてみて、そこから新たな発見したりしなかったり……。買ったあろにあーだこうだと語り合ったり、お金もあまりないからレア盤はなかなか買えないし、とにかく安いレコードを買いまくって、そこから新たなグルーヴやあえてビートのない部分でかっこいいパートを探したりもしてました。コラージュするために(笑)。

面白いですね(笑)。

松永:とにかく安く中古レコードを売っているお店に行って、ネタが見つかったらすかさず報告しあう。みたいなことをやってました(笑)。

バイトは?

松永:当時、埼玉県の川越にあった〈G7〉っていうローカルなレンタル・レコード屋さんです。国内盤だけじゃなくて、輸入盤のCDやLP、12"、日本のインディも扱ってました。ヴィデオ・レンタルもやっていたり、なかなかマニアックなものが揃っていましたと思います。そこでの経験や出会った先輩や同僚、みなさんからの影響が大きかったです。

ADSは〈WAVE〉(※80年代から90年代まであって西武資本の大型輸入盤店、当時は影響力があった)で働くようになってから?

松永:そうですね、〈WAVE〉に入ってからですね。ただ、ADSのイベントの初期では、〈G7〉時代の友だちにも手伝ってもらったりしてました。

〈WAVE〉で働くきっかけは?

松永:就職活動の時期、1990年に『ミュージック・マガジン』に〈WAVE〉の社員募集の広告が出ていたんです。〈WAVE〉には当時憧れていたし、よく通ってもいたので応募して、面接も何度かあったりしました。社員入社して……、ちょうどその頃、ヒップホップやダンス・ミュージックを経た新しいタイプの音楽がどんどん登場するような時代だったので。なんとなくですが、自分もそういう新しい音楽をいろいろ紹介できるといいな、という夢を漠然とではありましたが、何となく描いていました。

担当はどこだったでんすか?

松永:入社してすぐは〈WAVE〉の店舗ではなく〈ディスクポート〉という百貨店のなかにあるいわゆるレコード屋コーナーの店舗に配属されて、そのときの上司にお願いしまくって入社2年目にようやく渋谷のLOFTの1階の路面にあった渋谷〈LOFT WAVE〉に何とか移動できたんです。そこで、レジやアシスタント業務をしながら若手の一員としてワイワイと働いていたんですが、『RE/SERCH』誌の「Incredible Strange Music」特集号の出る前、その後のモンド・ミュージック前夜、『サバービア・スイート』が流行りはじめる頃に、そのサバービア関連アイテムを紹介できる小さなスペースをいただいて、本で紹介されていたムード/ラウンジ・ミュージック、エキゾチック・サウンズやオルガン・ジャズ、サントラ、ムーグものなどジャンル分けが難しいような作品やアーチストのCDになっている盤をセレクトして、それにプラス自分の勝手な妄想盤、サン・ラやジョー・ミーク、それに宇川直宏さんが作っていたハナタラシのライヴ音源にボーナス音源でついていたストレンジなムーグものやエキゾチック・ヴードゥーものセレクションCDをどさくさでサバービア関連と一緒に置いてみたりして……。そういえば当時、この売り場を見た橋本徹さんに「これはサバービアでない」と冗談まじりに怒られたり、とにかく無理矢理そういうコーナーをやらせてもらったんです。いま思うとホント勝手な奴で……若気の至りとはいえ、いろいろ反省してます。

[[SplitPage]]

とにかく安いレコードを買いまくって、そこから新たなグルーヴやあえてビートのない部分でかっこいいパートを探したりもしてました。コラージュするために(笑)。

音楽制作をやるきっかけは、村松誉啓くん(マジアレ太カヒRAW )との出会い?

松永:もちろんです。それまで、先ほど少しお話ししたように、学生時代にコンテストへ応募したりもしてみましたが、本格的に音楽制作をやるきっかけは、村松さん、高井(康生)さんと出会ってADSをはじめてからです。

どうやって出会ったの?

松永:ヤン富田さんがプロデューしていたハバナ・エキゾチカ経由でバッファロー・ドーターも好きになって、サバービア橋本徹さんからの紹介でムーグ山本さんと出会いました。当時バッファロー・ドーターが渋谷のエレクトリックカフェでライヴをやるというので、それを見に行って、ライヴ終了後にムーグさんから村松さんを紹介していただいたんです。村松さんは当時、『i-D Japan』という雑誌の編集を手伝っていて、同誌の「オタクDJの冒険」というコーナーを担当していました。だからぼくのほうは勝手ながら村松さんのことを、あのコーナーを担当したあの人だ! と知っていたんです。
 出会った頃の村松さんは、灰野敬二さんのような髪型していて、とんでもなくお洒落で……。当時の界隈ではなかなか存在感のある目立ってた人だったのではないかと思います。高井(康生)さんもそこで紹介されて、全員がヤン富田さんが大好きということで、いろいろ盛り上がって話しているうちに、みんなでDJイベントをやろうと意気投合して。高井さん、村松さんはそれぞれ楽器もできるというので、いろんなアイデアからDJと演奏との実験的セッションみたいなことをDJイベントとしてやってみようと、それがADSのはじまりでした。1994年だったと思います。青春ですね。ムードマン〈M.O.O.D.〉からEPを出してもらう前のことです。


Asteroid Desert Songs
Pre-Main E.P.

M.O.O.D.(1996)

 〈WAVE〉繋がりもあって仲良くしてもらっていた、ちょうどその頃にオープンした〈LOS APSON?〉の 山辺(圭司)さんにもDJをお願いしたり、〈LOS APSON?〉経由で知り合った宇川(直宏)さんにVJをお願いしました。その後、佐々木(敦)さんから四谷P3でのイベント「Unknown Mix」でのライヴに誘われて、村松さんドラム、高井さんがギターを担当するという、バンド演奏に初めてトライしてみました。ベースは当時、村松さんがDMBQのベース龍一君と3人でUltra Freak Overeatというバンドをやっていたんですが、そのベースだった(高橋)アキラ君(アキラ・ザ・マインド)を誘いました。で、ターンテーブルが自分という。消防士のヘルメットをレンタルしてコスプレして、ビーチ・ボーイズの“Fire”をカヴァーしました。ヘルメットで、ヘッドホン・モニターがめちゃくちゃやりずらかったことを思い出します(笑)。

ADSといえば、村松君の機材で変調させた子供声も評判でしたが、あれも最初から?

松永:最初からですね。エレクトロ愛から。チップマンクスはもちろんバットホール・サーファーズもちらり(笑)。

エレクトロ愛が高まったのは、ADSを組んでから?

松永:より高まりました! とにかく、エレクトロ愛は、村松さんと出会ってさらに加速したっていうのはあると思います。

村松くんはもうエレクトロ?

松永:ビリビリにバリバリでした! 自分もそれに感化されながら、日々エレクトロ愛を邁進してました。それと同時に、お互い当時リリースされる数多くの新譜もかなりチェックしてました。

あの時代は新譜が常に最高だったからね。

松永:毎週火曜日でしたっけ? CISCOの壁一面にその週のイチオシのものがバーン! と並んで、全員それを買うみたいな、そういう時代ですもんね。

ADSは2年ぐらいで終わってしまって、すぐにスマーフ男組になるじゃないですか。あれは?

松永:自然の流れというか。もっとエレクトロに絞った活動をやりたくなって、それで、スマーフ男組になったという感じです。

松永くんはまだ〈WAVE〉で働いていたんですか?

松永:渋谷の〈LOFT WAVE〉から関西へ異動を命じられたんですね。非常に悩んだんですが、ADSをはじめてすぐの頃だったんで、どうしてもそのときは東京にいたかった。それで泣く泣く〈WAVE〉を退社して……。その後、タワーレコード渋谷店へ何とか再就職できたという流れになります。

それでいきなり、いまや伝説となったいわゆる「松永コーナー」を作ったんだ?

松永:1995年当時、タワーレコード渋谷店が現在の場所に移転したタイミングでした。6階がクラシックの売り場で、現代音楽の売り場もその階にもあったんです。ただ5階のニューエイジの売り場の隅にも現代音楽の一部も扱いつつ、アヴァンギャルドやその狭間みたいな、ジャンルは何?的な、売り場ではなかなか取り扱いが難しく扱いしづらいアーティストや作品を置けるような……当時は音楽産業絶好調で、しかも大型店だからできたと思うんですが……、余白を扱えるスペースとして機能できそうな売り場を作ることができたんだと思います。
 タワーレコード渋谷店が現在の場所に移転した年で、ぼくはその5Fのニューエイジの売り場へ配属になって、上司や同僚と試行錯誤しながら、お客様やアーティストたちと併走するような形で学ばせてもらい、その売り場を形作ろうとしたように思います。クラシック現代音楽のコーナーにあるようなコンテンポラリー・ミニマルなアーティスト作品から電子音楽、ニューエイジ、アヴァンギャルド、アンビエント、民族音楽、フィールド・レコーディング、効果音、そしてこの時代ならではでのジャンル分けの難しい、規定のジャンルやコーナーでは取り扱いの難しいアーティストや作品を紹介できるような売り場になっていったんです。最初は売り場に名前をつけようがないのでとくに付けてなかったのですが、どうしてもコーナー・サインとして何かしらのジャンル名を付けなくてはならなくなって、ホント難しくて、悩みに悩んで“その他”(OTHERS)コーナーと付けたように思います(笑)。

あのコーナーはホントに面白かったですよ。サン・ラー、ジョン・ケージ、ジョー・ミークやアンビエントまで、ジャンルの枠組みを超えたDJカルチャー的なセンスで展開していました。

松永:そういう時代だったんでしょうね。

赤塚不二夫まで置いてあったよ(笑)。

松永:アニメーション作家レジェンド久里洋二先生の廃盤だったVHS作品をタワレコ渋谷店のみで限定再発とか(笑)。ESGのライヴ・アルバムなんかは、卸業者さんを通じて直接メンバーに連絡してもらい、残っていたCD在庫200枚をすべて卸てもらったり、上司の高見さんがイタリア〈Cramps Records〉のジョン・ケージやデヴィッド・チューダー、アルヴィン・ルシエ、『|Musica Futurista 』(※ルイジ・ルッソロなど、未来派の音楽の編集盤)などの電子音楽の古典的名作アルバムの数々をいち早く独占CD化したり、思い出すといろいろ懐かしいです。
 デヴィッド・トゥープの影響も大きかったです。1996年に『Ocean of Sound』のCDも出たし、あのリリースには勇気づけられましたね。あのコンピレーションがメジャーレーベルからオフィシャル・リリースされたことで、ジャンルを横断的に楽しむってことは、もう普通になりつつあるんだなってことをあらためて感じて。そういう時代が来たんだなと。あれは嬉しかったです。実際、売り場でもものすごく売れました。

幅広いけど音楽への深い愛情と信念、ユーモア、その音楽を自分自身へと浸透させる力、そこへの気持ち、自分の言葉として語ること、宿る気持ち。村松さんはその説得力と音楽愛は半端じゃなかったです。

松永くんはそういう自分のレコ屋のバイヤーとしての仕事をやりつつ、音楽活動もやってきている。だからあの時代のクラブの感じやレコード文化の感じの両方わかっているよね。ところで、スマーフ男組という名前は、村松くんが付けたの?

松永:ふたりでつけたんですよね。ADS(Asteroid Desert Songs)のネーミングからの反動もあって(笑)。エレクトロでは“スマーフもの”っていうスマーフをテーマにしたりタイトルに付けたクラシックがけっこうあって、ブレイク・ダンスの型にも“スマーフ”っていうスタイルがあったり、1980年代、エレクトロとアニメのスマーフがわりと繋がっていたところがあった。スマーフのキャラもかわいいし、村松さんも自分もフィギュアやグッズも集めてたんです(笑)。それとPファンクやヒップホップのように、何とかクルーとか何とかプロダクションとか、次々と入れ替わり立ち替わりメンバーを迎え入れる不定型の集まりでいるような、そういうものにもどこか憧れていたので、それで男組になったんです(笑)。とはいえ、結局のところは村松さんとアキラくんと自分、ほぼこの3人での活動でしたが(笑)。

スマーフ男組の最初の音源は?

松永:〈P-Vine〉から出たマイアミベースのコンピ(『Killed By Bass』1997年)だった気がします。そのあとに〈File〉からの『Ill-Centrik Funk Vol. 1』(1998年)。〈Transonic〉からの『衝撃のUFO 衝撃のREMIX』(1998年)への参加だったと思います。


Various
Ill-Centrik Funk Vol. 1 (Chapter 2)

File Records(1998)

松永くんから見て村松くんはどういう人だったの?

松永:天才ですね。ADS、スマーフ男組と一緒に活動させてもらっていましたが、ある意味では、自分も村松さんのファンで、村松さんの才能やすごさを世に伝えたいっていう気持ちがずっとあったように思います。

彼の海賊盤のミックスCDを聴くと、フリー・ジャズからポップスまで、選曲が本当に自由じゃないですか。あのセンスはずっとそうだったんですか?

松永:ずっとそうですね。幅広いけど音楽への深い愛情と信念、ユーモア、その音楽を自分自身へと浸透させる力、そこへの気持ち、自分の言葉として語ること、宿る気持ち。その説得力と音楽愛は半端じゃなかったです。掘り下げ方、レコードやCDクレジット、ジャケットや盤面への思い、愛情と向かい合い方、情熱、気持ち。姿勢、本当にオールタイムで学ばせてもらったというか。

ぼくはこういう仕事してるから音楽好きに会うんですけど、でもその「好き」の度合いが、けっこう軽かったりする人も少なくないんです。でも村松くんの「音楽が好き」っていうときの「好き」は、すごいものがあったよね。

松永:ホントそうですよね。そして、どこかカリスマ的なユニークなスター性もあったというか。


スマーフ男組
スマーフ男組の個性と発展

Lastrum(2007)

Smurphies' Fearless Bunch* And Space MCee’z
Wukovah Sessions Vol. 1

Wukovah(2007)

『スマーフ男組の個性と発展』は、本当はもう少し早く出すはずだったんだよね?

松永:『Ill-Centrik Funk』が98年なんで、本当はその後すぐに出ていてもおかしくなかったんですよね。でも、そこから10年くらいかかってしまいました(笑)。ただその分、なんとも味わい深いアルバムができたと思うんですが、ADSからスマーフになって、その勢いがある時期でのリリースは完全に逃してしまいました。(笑)。
このデビューアルバムをリリースした後に下北沢〈Slits〉スタッフだった酒井(雅之)さんに声をかけてもらって、 酒井さんのレーベル〈 Wukovah〉からSpace MCee'z(ロボ宙とZen-La-Rock)とのJohn Peelセッションばりのスタジオ・セッション・アルバム(『Wukovah Sessions Vol. 1』2007年)をリリースしたんです。このプロジェクトを経て、スマーフ男組のライヴ・バンドとしての新しい可能性も感じて、メンバー3人ともすごくフレッシュな気持ちでそこへ向かい合っていました。その頃はたくさんライヴもやったんですよ。

音楽活動とレコ屋での仕事とのバランスはどういうふうに考えてました?

松永:もう両方やってくしか生活できないっていう、ただそれだけです(笑)。

[[SplitPage]]

悪魔の沼を10年以上まだ続けられて、現在もオファーをいただけて3人でプレイできているというのはホントにありがたい限りで、はじめた頃のイメージからすると信じられないありがたさです。

DJはもうスマーフになってからはやってました?

松永:DJはADSをはじめる前、〈WAVE〉に入った頃に六本木〈WAVE〉にいた同期入社だった井上薫君や現kong tong福田さんに誘ってもらって西麻布にあった〈M〉(マティステ)でやらせてもらうようになって、そこからADSイベントにもつながっていくのですが、スマーフ以降2000年代以降の大きな経験ということであれば、(東高円寺のDJバー)グラスルーツの存在が大きいです。店主であるQくんにDJ誘っていただいて、あの場所でいろいろと鍛えられました。タワーレコード渋谷を離れた頃、2004年、毎月水曜平日の夜中に「コンピューマのモーレツ独り会」っていう一人DJ会を1年間、全12回をやらせてもらったり。翌年には「二人会」シリーズ「ふらり途中下車」になって、これ以降、グラスルーツを拠点にDJとしての活動が本格化したように思います。

自分のレーベル〈Something About〉もはじめますよね? 最初は自分のミックスCDだったね?

松永:そうなんです。『Something In The Air』という自分のミックスCDでした。ちょうどそのときもリリース後にele-kingのwebサイトで野田さんに取材(Something In The Air)していただきました。2012年なんで、もはや10年前なんですよね。時間が経つのが早すぎます。

はははは。

松永:このミックスCDをリリースする2010〜11年頃は、個人的にもプレイスタイルの過渡期で、自分のDJスタイルを見つめ直していた時期でした。引っ越しもあったりして、あらためてレコードやCDのダンボールを整理したりしつつ、タワレコ渋谷5F時代に紹介した電子音楽や実験音楽などのCDをあらためて聴き直したりして、自分なりにDJミックスの表現の可能性を追求してました。東日本震災も大きいかもしれません。そんな中で生まれたのが『Something In The Air』でした。

あれはまさにサウンド・コラージュ作品だったよね。

松永:この作品を制作するにあたって、密かに大きかったのが、2000年代初頭、永澤陽一さんのパリコレのファッションショーの音楽を担当する機会をいただいて、テーマや意向を詳しく教えてもらって、それをイマジナリーに音や音楽に変換してみて、その候補になりそうな音源サンプルを打ち合わせの際にたくさん持っていって、それらをひとつひとつ聴いていただいて、そのなかからじょじょに絞っていきながら、最終的に絞り込まれた厳選音楽素材、それらの音源を組み合わせてショーの音楽を構築していきました。10〜15分ほどの短いショーの時間内で、その音世界としてどのように起承転結を作ってくかというときに、自分の技術力の問題や選ぶ音楽の傾向や種類も関係したかもしれませんが、ビートが強くある曲を選ぶと、どうしてもBPMで繋いでいかなきゃいけなくなったり、カットアップ&カットインのポイントやタイミングの難しさや違和感にも繋がるから、なるべく柔らかに変容していくようにするために、どうしてもビートのあまり強くないものやノンビートのものを意識して選んでミックスしていたんです。その頃の経験が、その後『Something In The Air』でミックスしているようなことに繋がっていったように思います。

どんな感じだったんですか?

松永:拙い英語力なので、コミュニケーションもままならないなか、現地スタッフさんと一緒にルーブル美術館の地下のフロアでひとり冷や汗かきながらMDプレイヤー数台とラック式CDプレーヤーを数台積んで。PA卓でショーのリアルタイムでプレイをトライしてました。モデルさんの出るタイミングやシーンの雰囲気の変わるタイミングを察しながら、舞台監督からの指示をもう片方の耳でモニターしながらでのプレイでもあるので、もうそれが半端じゃない尋常じゃない緊張感というか、絶対にミスれないので、めちゃくちゃドキドキで、かなり鍛えられた気がします。その経験を4〜5年やらせていただいたように思います。でもそのときの思い出として、ショーを無事に終えれてフィナーレのタイミングで拍手をもらったときの嬉しさやホッとする安堵感はいまでもたまに思い出します。貴重な経験させてもらいました。


Something In The Air
mixed by COMPUMA

2012

『Something In The Air』はエディットなしのライヴミキシング?

松永:基本そうですね。

それはじつに興味深いですね。で、『Something In The Air』は当時すごい反響があった。

松永:うーん。どうなんでしょうか。やっぱりアンダーグラウンド・リリースですし。でもあの作品をリリースしたことは自分にとってとても大きかったように思います。

コンピューマ作品のひとつの原点になったよね。

松永:それは本当そうですね。ありがとうございます。

松永くん個人史のなかで、人生の節目というのはいつだったと思いますか? 

松永:そうですね。ソロ名義のアルバムをリリースしたいまのタイミングも大きそうな気がしますし、まだまだこれから先も続いていく、続いていってほしいとも思ってます。なので、これから先にもまだまだそのようなタイミングがいくつかあるかもしれませんが、これまでということで考えてみると、さっきとも重複してしまいますが、やはり震災を経て2012年初頭『Something In The Air』、あの作品をあのタイミングでリリースしたことは大きいかもしれません。自分のなかですごく楽になったというか、励みになりました。こういう世界観やプレイスタイルもDJ ミックスとしてトライしていいんだっていう、自信とまではいかないですけど、もっとやっていいんだ、ということに繋がったと思います。それと2017年に浅沼優子さんの尽力のおかげもあって、ドイツ〈Berlin Atonal〉へ出演できたこと、そこでDJ経験できたことも大きいと思います。何か景色が変わった気がします。

いっぽうで悪魔の沼もはじめます。

松永:下北の〈MORE〉、厳密にいうと〈MORE〉店長だった宮さんがその前にやっていた同じく下北沢ROOM”Heaven&Earth”ではじまったイベントだったんです。メンバーのAWANOくんから「沼」をテーマにイベントをやるので一緒にやりませんかと、そして、何かいいタイトルないですかと相談されて、そのときに「沼」と聞いて、瞬間的にトビー・フーパーの映画『悪魔の沼』のポスターの絵、大鎌を振り回すオッサンのあの絵が頭にパッーと浮かんだんです。それで冗談まじりに『悪魔の沼』」はどうですか? と(笑)。で、AWANO君から「誰か一緒にやりたい人いますか?」と尋ねられて、その頃自分は勘違いスクリュー的なプレイを盛り上がってよくやってた頃で、コズミック(イタロ・ディスコ)が再評価された後の時期でもあったので、西村(公輝)さんは面識はあったのですが、それまではDJご一緒したこともほぼなかったんです。AWANO君と西村さんは学生時代から縁もあって、それもあって西村さんとご一緒できたらと思って声をかけていただきました。悪魔の沼イベント初期は全編ホラー映画のサントラのみでトライしてみたり(笑)。初期は一人30分交代だったので一晩で3〜4セットをプレイするという、皆レコード中心だったので準備だけでもなかなか大変で、かなりしごかれました(笑)。オリジナルメンバーとしては二見裕志さんも参加されてました。一時期、1Drink石黒君も参加していたこともありました。そんなこんなを経て、現在の3人になりました。その頃に、ミヤさんに「3人でback to backでやってみたら」とアドバイスもらい、試しにそれをやってみたことがきっかけで現在のスタイルに繋がってます。
〈MORE〉時代の沼イベントは、およそ季節ごとの開催でした。フリーゆで卵とか、フリーわかめとか、幻や沼汁というドリンクあったり(笑)、毎回ゲストを迎えながら、ダンス・ミュージックながら自由に沼を探ってました。

これだけ長く続いているのは、やっぱ楽しいから?

松永:自分的には、ADS、スマーフ男組を経て、そしてDJの延長線上でもあったし、沼がテーマでしたし(笑)、なんだかとても気持ちが楽だったんです。季節ごとにやる趣味の会合や寄り合いくらいの感覚だったというか、なので、10年以上まだ続けられて、現在もオファーをいただけて3人でプレイできているというのはホントにありがたい限りで、はじめた頃のイメージからすると信じられないありがたさです。西村さん、AWANO君との共同プレイで、ヒリッとした刺激はもちろん、毎回の化かし合い含めて切磋琢磨し続けられているのはホントにありがたいなと思ってます。

松永くんはDJをやめようと思ったことってないの?

松永:いまのところ意識的にはないですね。ただ、いつまでこういうことを現場でやっていけるのか。やっていいのか。やり続けていいのか。ということはここ最近何となく思うこともあります。コロナ禍以降、最近は、より若い世代や幅広いジャンルの素敵なDJやアーチストさん、バンドとご一緒する現場も多くて、幅広い世代の皆さんと一緒に音を奏でられることにも大きな喜びを感じてます。それと長年サポートしてくれている友人と家族には感謝の気持ちでいっぱいです。

[[SplitPage]]

もう本当にそれはありがたい限りでして。一緒に遊ばせてもらってるっていうか、彼らと話していると、たまに、「お父さんと(お母さんと)同い年です。コンピューマさんの方が年上です。」とか話してくれたり(笑)。

それで、今回のアルバム(『A View』)が、これだけ長いキャリアを持ちながら、初めて自分の名前(COMPUMA)で出したアルバムになるんですよね。

松永:はい。

元々は演劇のために作ったものを再構築したっていう話なんですけど、作り方の点でいままでと変わったところってあります?

松永:僕はミュージシャンではないので、できることがかなり限られてるんです。だから、ある意味で音楽を作る場合は、諦めからはじまるともいいますか。今回の作り方も基本的にはそういう意味では一緒なんですが、ここ近年での制作は、今作も含めて、Urban Volcano Sounds/Deavid Soulのhacchiさんの存在はすごく大きいです。

ダブでやミニマルであったり、松永くんのDJミキシングのサウンドコラージュ的に作っていたものとはまた違うところにいったように思いました。

松永:今回は、北九州の演劇グループ〈ブルーエゴナク〉さんからオファーいただいた演劇『眺め』のための音楽が基になってます。 2021年春頃に〈Black Smoker〉からリリースした『Innervisions』というミックスCDがありまして、その内容がかなり抽象的な電子音のコラージュが中心で、ダンス・ミュージックと電子音楽の狭間を探求するような、わりと内省的な内容だったんですけど、ブルーエゴナク代表の穴迫さんがこのミックスCDを購入していただいたようで、そこからオファーをいただきました。自分的には当初『Innervisions』の感じの抽象的なものだったら何とかできるかもしれないと思って、リクエストもそんなような感じの内容だったんで、それであればいけるかもということでお受けしたんですが、具体的に進行させたところ、実際にはかなり場面展開もあって、抽象的な音がダラッと流れるだけじゃどう考えても成立しないということがわかって、しかも九つの場面用の音楽が必要ということで、実のところかなり焦りました(笑)。
そこからBPM90でミニマル・ミュージックというお題をいただいたり、台本から音のイメージにつながる言葉をいくつもいただいて、それらの言葉をイマジナリー音に変換していって、それらをパズルのように組み合わせて試して構築していきながら制作を進めました。

『眺め』という言葉を松永くん的に音で翻訳してたと思うんですけど、どんなふうに解釈してどんなふうに捉えていったんですか?

松永:演劇タイトル「眺め」から当初感じていたのは、何となく、どこか遠くからというか、俯瞰してるような感覚でした。ただ、制作を進めていく中で、これは俯瞰だけではなくミクロでマクロな世界観も含めての「眺め」なんだと再認識しました。

穴迫信一さんさんのライナーノーツにすごくいいことが書いてありました。希望が見えない時代のなかで、いかにして希望を見つけていけばいいんだろうみたいな、それを音に託したというような話があって。

松永:本当に恐縮で素敵なライナーノーツをいただきました。そして何より演劇の音楽を担当するという貴重な機会をいただいて心から感謝してます。

松永くんの関わってきた音楽作品はダークサイドには行かない、それは意識していることなんですか?

松永:そうですか。そういうイメージなんですね。そこは無意識でした。ダークサイドに行っているか行ってないかどうかは自分ではわかりませんが、今作に関しては、演劇のための音楽でしたので、舞台と装置、照明や映像、お芝居もそこに入ってくるので、そういう意味では、今まで作った作品以上に、どこか余白の部分が残ることを意識した音、イメージとして何か少し足りないくらいの音にすることは意識しました。あとは、何と言いますか、何でもない、聴き疲れしまい音を目指すと言いますか、、

それはなぜ?

松永:最初は自分の持っているシンセなどで用意した個性的な音を合わせたりしたみたんですが、どうにも今回は、なんだかイメージが合わなかったんです。それとミニマル・ミュージックというテーマもいただいていたので、そこも意識しながら発展させてみました。何も起こらない感覚といいいますか、インド古典音楽ラーガ的メディテーショナルな世界も頭のなかに浮かびつつ。

いまでもレコードは買っていますか?

松永:新譜も中古もレコードもCDも買います。カセットテープもたまに。データで買うものもあります。全部のフォーマットで買ってますね。笑

いま関心があるジャンルとかあります?

松永:オールジャンル気になった新譜をサブスクで軽く聴いたり、そこから気に入ったものはCDやレコードでも買ったりするんですが、サブスクって、ふと思ったのですが、便利なので活用しますが、何と言いますか、聴いてるけど何となく聴いた気にだけなっているというか、しっかりと自分の中に沁み込んでこないというか。年寄りだからなのかもしれませんが、レコードCDで購入する音源への思い入れが強すぎるのかもしれませんが、長年の習慣での癖が抜けきらないんですかね。購入したものでないとなんだかしっかりと頭に記憶されないというか(笑)。DJプレイに関わるものはまた別ですが、リスニングするものは幅広くオールジャンルに話題作、旧譜もチェックしてます。これも年のせいなのか、より耳疲れしないような音楽と音量や距離感を求めているようにも思います。

最近はどのぐらいの頻度でDJやってるんですか?

松永:DJは平均すると週1〜2回くらいでしょうか。その時々によって差があるかもしれません。

コロナのときは大変だったよね。

松永:DJほとんどやってなかったんで家にずっといて、街も静かだったじゃないですか。いろんなことを考えさせられました。東京も、こんなに静かなんだとも思って。

なんかこう将来に対する不安とかある?

松永:それはもうずっとあります(笑)。凹んだり落ち込むようなことが多い世のなかですけど、少しでもいいところや心地いいところ面白いところを探していけたらと努めてます。息子達の世代が、少しでも未来に希望を持てるようなことを伝えられたり作っていってあげたいなというのが正直な気持ちとしてもあります。現実には、いろいろとなかなかハードなところだらけじゃないですか。だから、何かちょっとでも明るい未来を感じられるような気持ちと視点でありたいなという願望かもしれません。

松永くんからみて90年代ってどういう時代だったと思います?

松永:自分の勝手な解釈なんで違うかもしれませんが、90年代といまが違うとしたら、妄想力の違いでしょうか。当時はまだインターネットがなかったから、海外のマニアックな音楽や文化に関しては、勘違い含めて、皆が妄想力でも追求して熱量で挑んでいたと思うんですね。DJ的センスが良くも悪くもいろいろな場面で浸透しつつあって、その感覚でいろんな視点から色々な時代いろんな音楽を面白がる感覚がより世間的にも広がっていくような感覚が90年代に誕生したんではないかとも勝手ながら思います。インターネット以降、とくに最近は、やはりその知り得る情報の正確さ、速さが90年代とでは圧倒的に違うと思うんです。勘違いの積み重ねや妄想の重ね方の度合いは90年代の方が圧倒的に高かったと思うんですよね。翻訳機能のレベルも高くなりましたし、ただ、SNS含めて情報量がとにかく多すぎるので、本当に自分のとって必要な情報を選ぶことが大変な時代になっているような気もしてます。それはそれでなかなかに大変ですよね。自分でも何か検索すると同じような情報がたくさん出過ぎて、どれを読めばいいのか、ホントに知りたい正しい情報まで逆に辿り着けなくて、それだけで疲れてしまうことも多々あったりしますし。
 とは言ってもインターネットは便利ですし、音楽制作においてもDJにおいても素材集め含めてとんでもなく早く集められるし、それを活かせる環境があるから、90年代と比べると洗練された上手いDJプレイをできると思うんですよね。ただ、一概に比較は難しいのですが、どっちが好みかというのはまたちょっと比べられないですよね。どっちにもカッコよさもありますし、かっこよすぎてかっこよさ慣れしてしまう感覚もありますよね。

松永くんは世代を超えて、若い世代のイベントにも出演しているわけだけど。

松永:いや、もう本当にそれはありがたい限りでして。一緒に遊ばせてもらってるっていうか、彼らと話していると、たまに、「お父さんと(お母さんと)同い年です。コンピューマさんの方が年上です。」とか話してくれたり(笑)。

(笑)でも、DJの世界は、音楽をどれだけ知っているかが重要だから、ベテランだからこそできることっていうのがあるわけなので。

松永:ここ最近「沼」のメンバーとは会うたびに、こんなおっさんたちが、果たしていつまでこういう現場にいていいものかどうなのかっていう話にはいつもなります(笑)。

はははは。でも、続けてくださいよ、本当(笑)。最後に、〈Something About〉をどうしていきたいとか夢はありますか?

松永:今回もいろいろな皆さんの協力のもと、自主リリースでソロ名義で初めてのアルバムをリリースすることができて本当にありがたい限りなのですが、このCDリリースをきっかけにして、ここから新たないろんな可能性を探求できたらと思ってます。できることなら海外の方にも届けられたらとも思いますし、デジタルやアナログ・リリースも視野に目指してみたいです。自分なりのペースにはなりますが、これからもオヤジ節ながらトライしていきたいと思います(笑)。精進します。どうぞよろしくおねがいいたします。
 それと9/30金に、渋谷WWWにてリリース・イベントを開催させていただくことになりました。最高に素敵な皆さんに出演していただくことになりました。よろしければ是非ともです。よろしくお願いいたします。


COMPUMA 『A View』 Release Party

出演 :
COMPUMA
パードン木村
エマーソン北村
DJ:Akie

音響:内田直之
映像:住吉清隆

日時:2022年9月30日(金曜日)開場/開演 18:30/19:30
■会場:渋谷WWW
■前売券(2022年8月19日(金曜日)12:00発売):
一般 : 3,000円/U25 : 2,000円(税込・1ドリンク代別/全自由 ※一部座席あり)
■当日券 : 3,500円(税込・1ドリンク代別/全自由 ※一部座席あり)
■前売券取扱箇所:イープラス<https://eplus.jp/compuma0930/
■問い合わせ先:WWW 03-5458-7685 https://www-shibuya.jp/

※U25チケットは25歳以下のお客様がご購入可能なチケットです。
ご入場時に年齢確認のため顔写真付き身分証明書の提示が必要となります。
ご持参がない場合、一般チケットとの差額をお支払いいただきます。

Associates - ele-king

 今年もアナ・ウィンターは名前を呼ばれなかった。NHKのアナウンサーはトム・クルーズやウイリアムズ王子の姿をウインブルドンの客席に見つけるとすぐに名前を呼んだのに、同大会に毎年姿を見せるアナ・ウィンターは名前を呼ばれたことがない。ラミ・マレックやレベル・ウィルソンまで呼ばれたのに、映画『プラダを着た悪魔』のモデルとなった『ヴォーク』の編集長は一度も名前を呼ばれたことがない。ロンドン・オリンピックで『モンティ・パイソン』もわからなかったNHKとはいえ、それにしてもウィンターは日本で知名度がない。もしかするとウィンター本人よりも彼女が毎年、NYで主催するファッションの祭典、メット・ガラの方が最近は認知度が高いのかもしれない。今年もグッチのドレスを着たビリー・アイリッシュ、ほとんど裸だったカーラ・デルヴィーニュ あるいはキム・カーダシアンとピート・デヴィッドソンのツーショットや赤い芋虫と化したジジ・ハディッドの画像が次々とスマホの画面に流れてきた。ウィンターが今年のテーマとして掲げたのは「金ピカのグラマー」だったにもかかわらず、白い魔女と黒い魔女に扮したジェンナー姉妹も僕には楽しかった。金持ちが力の限り見栄を張る世界を僕は否定しない。ポップ・カルチャーからゴージャスという価値観をなくすことに僕は賛成できない。明るくて華やかなヴィジュアルはそれだけで心躍るものがある。しかし、3年前のメット・ガラはさすがに悲惨だった。ウィンターが提示したテーマは「キャンプ」。メット・ガラのレッド・カーペットを埋め尽くしたセレブの誰1人として「キャンプ」を理解していなかった。シャンデリアに扮したケイティ・ペリーは論外としても、ほぼ全員が「キャンプ」を「わざとらしい」という意味でしか捉えられず、都会的な生活様式に対するアイロニーやダンディズムを演じるという文脈でファッションが具現化されることはなかった。並みいるファッション・デザイナーたちも70年代のコピーがようやくといったところで、シャネルやマーク・ジェイコブスもひどければ、お題を出した当のアナ・ウィンターまで酷評されることとなった。そう、現代のセレブたちに「キャンプ」はいささか高尚過ぎた。「キャンプ」というのは70年代初頭に現れたゲイ・ファッションや映画『ピンク・フラミンゴ』を論じる際にスーザン・ソンタグらが用いた美術用語。ポップ・ミュージックでいえばデヴィッド・ボウイやルー・リードが牽引したグラム・ロックのタームと大体のところは重なっている。「グラマラス」が語源とされるグラム・ロックには音楽的な共通性はないとされるのが普通で、マーク・ボランのT・レックスやブライアン・イーノが在籍していたロキシー・ミュージックがポップ・ミュージックをアートの領域へと推し進め、ダニエル・J・ブーアスティンが『幻影の時代』で指摘したマスメディアによる情報操作や「スペクタクル」といった概念を「スターを演じるスター」というメタ表現によってリプレゼンテーションしたもの。いわば熱狂の戯画化である。


 グラム・ロックは1975年には下火になり、時代はパンク・ロックへと移り変わる。「スペクタクル」という概念をそのまま引き継ぎ、「グラマラス」を(ヴィヴィアン・ウエストウッドがパンク・ファッションを指して名付けた)「コンフロンテイション(敵対)」に置き換えればパンク・ロックはグラム・ロックのヴァリエーションだったとも考えられ、ハード・グラム・ロックという呼称でも通用したように思える(ダムドなどはまさにそれだった)。しかし、「パンク」や「コンフロンテイション」はあまりに時宜を得過ぎていたために社会的な仕草としてアートの領域にとどまるにしてはポテンシャルが高過ぎた。その影響について多くを書く余裕はないけれど、ポップ・ミュージックだけを見ても、その余波は多岐に及び、2年間の混沌が過ぎた後もなお混乱は続くことになる。スロッビン・グリッスルによるインダストリアル・ミュージックは「コンフロンテイション」を純粋培養し、政治用語だったオルタナティヴがアンダーグラウンドのロックを形容するジャンル用語として採用される。個人的な雑感をひとまとめにいえば、70年代末に「衝動」として存在した気運が「破壊」や「反動」を経て80年代には全体が解きほぐれることなくそのまま異なるステージまで移動したという印象。同じものがメジャーとアンダーグラウンドの両方から同じ力で引っ張られ、どちらも譲らない状態が長く続いたというか。アラン・ランキンとビリー・マッケンジーによるアソシエイツがブライアン・イーノの隠れた名曲でもあるデヴィッド・ボウイ“Boys Keep Swinging”をカヴァーしてデビューした1979年はまさにそうした時期にあたり、翌年に入ってリリースされたデビュー・アルバム『The Affectionate Punch』もメジャーとアンダーグラウンドの両方に向かうヴェクトルが錯綜し、彼らが何をしたいのかすぐに理解できるようなアルバムではなかった。実際、このアルバムは彼らが進むべき道を明確にした2年後に丸ごとリミックスされ、驚くほど引き締まった内容に改められ、ミックスだけでこんなに変わってしまうのかと、けっこうな感動を覚えたものである。だいぶ後になってアソシエイツのライヴ音源を聞くことができるようになると、その当時の演奏があまりにもパンクだったことに驚かされ、そのありあまる衝動が『The Affectionate Punch』には滲みでていたということも理解できるようになったけれど、“Transport To Central”のような曲はスロッビン・グリッスルとも近しく聞こえてしまうギターのアレンジだったり、現在に至ってもまだ素直に楽しめる内容ではない。そう、彼らのライヴ・テイクを聞くことができたのは89年にリリースされた『The Peel Sessions』が初めてで、『The Affectionate Punch』ではミドル・テンポのディスコ・ナンバーとしてアレンジされていた“A Matter Of Gender”が81年のそれではスラッシュ・ヴァージョンとでも言いたくなるような早さで演奏され、エフェクトをかけたギターが鳴りっぱなしだったり、セッション全体がほとんどノイズのようなパフォーマンスだったことにはほんとに驚かされた。数合わせのようにしてニューロマンティクスに分類されがちだったアソシエイツが、現在はポスト・パンクに数えられるようになったのも当然というか("Club Country" はニューロマンティクスの気をひくためにつくられたらしいけれど)。

 『The Affectionate Punch』がキュアーの成功で勢いを得ていた〈フィクション・レコーズ〉にライセンスされたランキン&マッケンジーは続いて〈ベガーズ・バンケット〉傘下の〈シチュエーション・トゥー〉と契約。81年に5枚のシングルをリリースし、それをコンピレーション・アルバム『Fourth Drawer Down』にまとめると、それらが格別大きなヒットとなったわけでもないのに〈ベガーズ・バンケット〉傘下に〈アソシエイツ〉レーベルを新設するという高待遇を受け、セカンド・アルバムのために1000万円近いアドヴァンスを受け取る。このことが彼らの方向性を決定的にする。大金を手にした彼らはまず500万円を投じて倉庫を改造したスタジオをつくり、残りも派手に使いまくった。「バカげたお金の使い方をした」と、キュアーと掛け持ちだったベースのマイケル・デンプシーは後のインタヴューで答えている。主には洋服代とドラッグに消え、マッケンジーは愛犬のためにホテルのルームサーヴィスでスモーク・サーモンを取り寄せるなど「それこそ狂気だったと言っても過言ではない」とランキンも回想している。「自分たちは自信満々だったし、あれだけの浪費がなければあんなアルバムはできなかった」と。そう、『Sulk』というアルバムはとにかくゴージャスで、贅沢を音楽にしたらこうなるだろうという作品である。音楽的な連続性はもちろんあるものの、『The Affectionate Punch』や『Fourth Drawer Down』に残っていたしみったれムードは粉微塵に消し飛んでいた。時期的にもポスト・パンクの大半が闇に向かい、PILやザ・フォールなどアンダーグラウンドも手法的に充実していたので、余計にその差は際立った。ジョージ・マイケルがジョイ・ディヴィジョンの作品を愛していたことはイギリスでは周知のエピソードだけれども、ジョイ・ディヴィジョンがワム!の曲を演奏し、カルチャー・クラブが“Love Will Tear Us Apart”をカヴァーしてもアソシエイツのようにはならなかっただろう。アソシエイツが表現したグラマラスで華やかな世界観はとても独特で、プリンスでさえ地味に思えるほどである。アソシエイツというグループがデヴィッド・ボウイのカヴァーでデビューしたことを思い出すと、おそらく彼らの本質はグラム・ロックにあり、パンク・ロックからグラム・ロックへと揺り戻しを図りながら、その過程でパンク・ロックから得た過剰さを光り輝くような世界観に転化させた。それが『Sulk』というアルバムだったのではないだろうか。パンク・ロックのパワーを持ったグラム・ロック。『Sulk(不機嫌)』というタイトルにはそれこそ当時、パンク的なものを感じたものである。ABCを指してブライアン・フェリーが「僕より僕みたいだ」というコメントを残しているので、グラム・ロック的なスペクタクルはパンク以降も衰える気配はなかったとは思うけれど、その多くはニューロマンティクスのような反動ではあってもアソシエイツのようなかたちでモディフィケーションを表現できた例は少なかったのだと思う。

 ビリー・マッケンジーというシンガーはどこか名曲歌手のような風情があり、実際、イエロやホルガー・ヒラーなど客演の幅は広く、ビリーと名乗っているのもビリー・ホリデイにあやかっているからだといっていたのにもかかわらず『Sulk』は軽快なインストゥルメンタルで幕を開ける。いつかオリンピックの開会式で聴きたい“Arrogance Gave Him Up”は勇壮として、流線型という形容詞はこの曲のためにあるとしか思えない。『Sulk』は全編を通してドラムがかなり派手で、それはスネアをメタル仕様に、タムを銅性の素材に変えたことに由来するらしく、“Arrogance Gave Him Up”でもスネアを叩き込む箇所の激しさは容赦なく、これが流れるようなシンセサイザーとの対比でくっきりとした輪郭が浮かび上がる。かと思うと続く“No”ではまさに名曲歌手が思う存分に歌い上げるモードへと一変し、”Bap De La Bap”では再び金属音の乱舞に舞い戻る。ギターもヴォーカルも、あるいは複数のシンセサイザーも一歩も引かないと言った鬩ぎ合いを続け、それこそ「デヴィッド・ボウイよりデヴィッド・ボウイみたい」なサウンドになっていく。スピードを出しては落とし、上げてはまた落とすといった感じで”Gloomy Sunday”のカヴァーへ。ヨーロッパでは自殺の歌として知られる30年代のクラシックで、その成立過程を追った映画までつくられた曲をビリー・ホリディが戦後すぐにアメリカでヒットさせたスタンダード・ナンバー。これをアソシエイツはラバーズ・ロック調のシンセポップにアレンジし、悲しみに沈んだ曲調からその情緒をナルシシスティックな感情へと反転させてしまう(ビョークはこの曲をアソシエイツのオリジナルだと思い込んでいて、オーケストラが演奏し始めた時に驚いたという話をしている)。アナログ盤ではAサイドのラストを飾るのが“Nude Spoons”。ノイ!を思わせるメトロノミック・ビートを強調したパンク風ディスコ・ナンバーで、ビリー・マッケンジーが15歳の頃に体験したLSDによるトリップが歌詞の元になっているらしい。彼の書く歌詞は曖昧で意味が取れず、日本語には訳しづらいし、当時から大した意味はないとも言われていたので、あまり気にしたことはなかったけれど、10年ほど前に昭和女子大で英語を教えている清水みちさんに“Arrogance Gave Him Up”や“Party Fears Two”の訳し方を訊いてみたところ、非常に興味深い英語の使い方だということで、彼女が参加しているシェイクスピア研究会で議題に取り上げてくれたりして、とてもユニークだということは教えてもらったものの、どう訳したらいいかはやはりよくわからなかった。彼らの最大のヒットとなった“Party Fears Two”などはPartyを政党として解釈すると共産党と保守党の意味にも取れるらしく、とてもスキゾフレニックな感覚を表現しているなどイギリスでの解釈も多岐にわたっている(これ以上はもっと英語に詳しい人に委ねたい。そして、意味がわかったらぜひ教えて下さい。清水みちはちなみに保坂和志の奥さんです)。

 Bサイドに移って“Skipping”。個人的には洋楽でベスト3に入るフェイヴァリット・ナンバー。ミステリアスなスキャットで始まり、ランキンの弾くギターの循環コードとデンプシーによるソリッドなベースが入ってくるだけで昇天しかけてしまう。調子にのってスキップし続けていくうちにだんだんと意識がかすれていくような情感に襲われる曲で、宙を泳ぐようなキーボードはここでも効果的。とはいえ、彼らの曲はサイケデリックではなく、ドラッグの影響がダイレクトに出たものはない。そこはやはりパンク・スピリットが色濃いというか。続く“It's Better This Way”もノイ!とデヴィッド・ボウイが手を組んだような曲で、メトロノミック・ビートとスコットランドらしい燻んだ叙情が見事に溶け合った傑作。スタイリッシュで、実にかっこいい。そして、最大のヒット・シングルとなった“Party Fears Two”。完成に3年をかけたという大作で、他の曲よりも少しテンポを落とし、ノイジーな要素も後退。全編でヴォーカルが引き立てられ、圧倒的にセクシーで、これでもかと艶やかさを増している。きらびやかな音が背景で鳴り続け、これまでになくソウルを感じさせ、実際、パンク色は薄れ、ランキン&マッケンジーによる最後のシングルとなった「18 Carat Love Affair」への導線となった曲である。『Sulk』がリリースされた4ヶ月後にアラン・ランキンが脱退してアソシエイツは実質的に解散したも同然となり、それはツアーに対する2人の考えが違ったからだということになっているけれど、“Party Fears Two”で疾走感とは異なる価値観に足を踏み入れたことが分裂の遠因となったのではないかと僕には思えて仕方がない。それだけこの曲は他の曲とは異なるフォーマットを有しているし、新しいものをつくりたいと願った2人の到達点だったのではないかと。達成されてしまうと、目的はなくなってしまうのである。続いて“Club Country”。『Sulk』では最も大袈裟な曲で、明らかに大団円という位置に置かれている。手法的にも彼らの集大成になっている。エンディングは“Nothinginsomethingparticula”。前述した”18 Carat Love Affair”のイントロが2分だけ収録され、続いてリリースされた”18 Carat Love Affair”のフル・ヴァージョンにはカップリングとしてダイアナ・ロス“Love Hangover”のカヴァーも収録。『Sulk』の40周年記念盤はここまでの10曲がアナログ化されたものと、さらに同内容のCDと「Outtakes, Monitor Mixes & Rarities」、「The Peel Sessions」及び「Gigant, Apeldoorn 10/01/81」でのライヴを収めた計46曲がプラスされたエディションに加えて“Party Fears Two”のヴァージョンを集めたCDシングルか、”18 Carat Love Affair”の7インチ・シングルがおまけに付いているデラックス・エディションと4パターンがリリースされている。2016年にリリースされたエディションで13曲追加されていた曲も再度リマスターされているなど「The Peel Sessions」以外は重複していない模様。マニア泣かせです。でっぷり太ったアラン・ランキンが3年前から各曲の解説動画をユーチューブにアップしているので、興味のある方はそちらもどうぞ。

 『Sulk』というアルバムはとても幸福なアルバムで、リリース当初に理解されなかったという経験はしなかった。ヒット・チャートも駆け上がり、批評家の絶賛も同時に手に入れた。ただし、モノマネやフォロワーというものがまったくなく、時代のなかにポツンと取り残された作品となっていく。ニュー・オーダー、ザ・スミス、ジーザス&メリー・チェインと続いたブリティッシュ・ロック・シーンに彼らの陰が落ちることはなく、アシッド・ハウス期にはグラム・ロックよりもサイケデリック・ロックが復活したことは歴史に刻まれている通り。ザ・スミス“William, It Was Really Nothing”のWilliamはビリー・マッケンジーのことを指していて、どうやらモリッシーとマッケンジーは恋人関係にあったということが後々にはわかってくるのだけれど、そのことと音楽シーンはまったく関係がない。ビリー・マッケンジーもアラン・ランキンもソロ活動は細々としたもので、2人とも『Sulk』に迫るような作品はつくれず、何が原因かはわからないけれど再結成もうまくはいかなかったらしい。そして、1997年にはビリー・マッケンジーの訃報が流れる。当時のエレキングで追悼文を書いた時はガンを苦にして自殺という報道だったので、それをそのまま引き写してしまったのだけれど、その後、BBCがマッケンジーの姉と父親に取材した追悼番組を製作し、そこでは母親の死に耐えきれず、実際には後追い自殺だったということが明らかにされていた。イギリスでは珍しく労働階級出身のファッション・デザイナー、アレキサンダー・マックイーンと同じである。アソシエイツのファッショナブルなジャケット・デザインはすべてマッケンジーのアイディアで、レザー・ファッションでプールに浸かるというハード・ゲイまがいの『Fourth Drawer Down』はDAF『Gold Und Liebe』と同じ時期であり、両者はまさに都会的な生活様式に対するアイロニーやダンディズムを体現するものだった。プロモーション・ヴィデオやシングルのジャケットを飾るマッケンジーはいつもファッショナブルで、自分たちの音楽性を見事にヴィジュアル化した『Sulk』が見事だったことは繰り返すまでもない。アレキサンダー・マックイーンはデヴィッド・ボウイ『Earthling』やビョーク『Homogenic』のジャケット・デザインも手掛けていて、ボウイの影響を隠さないマッケンジーにビョークが影響を受けているなど、マッケンジーとマックイーンがどうも重なって見えてしまう僕はマッケンジーとマックイーンが2019年のメット・ガラでコラボレーションしていたら、どんなスタイリングを見せてくれただろうかなどとつい考えてしまう。

山本アキヲの思い出 - ele-king

山本アキヲとシークレット・ゴールドフィッシュ
文:三浦イズル


「ほな、行ってきますわ」

 アキヲと最後に電話をした数日後に、アキヲの突然の訃報が届いた。シークレット・ゴールドフィッシュの旧友、近藤進太郎からのメールだった。
 2021年秋頃からアキヲは治療に専念していた。その治療スケジュールに沿っての入退院だった。その間もマスタリングの仕事をしていたし、機材やブラック・フライデー・セールで購入するプラグインの情報交換なども、電話でしていた。
 スタジオ然とした病室の写真も送って来た。Logic Proの入ったMacbookProや、小型MIDIキーボード、購入したてのAirPodsProも持ち込んでいた。Apple Musicで始まった空間オーディオという技術のミックスに凄く興味を持っていて、「これでベッドでも(空間オーディオの)勉強ができるわ〜」と嬉しそうだった。

「夏までに体力をゆっくり戻して、復活やわ」

 明日からの入院は10日間で、これで長かった治療スケジュールもいよいよ終了だと言っていた。

「ほな、行ってきますわ。じゃ10日後にまた!」

 近所にふらっと買い物にでも行く感じで電話を切った。その日は他の友人にも連絡しなくてはいけないということで、2時間という短い会話だった。
 アキヲと俺はお互い本当に電話が好きで、普通に何時間も話す。あいつが電話の向こうでプシュッと缶を開けたら「今日は朝までコースだな」と俺も覚悟した。明日の仕事のことは忘れ、まるで高校生のように会話を楽しんだ。話題が尽きなかった。
 電話を切った後、アキヲが送ってきた写真をしばらく眺めていた。
 それは先日一気に購入したという、2本のリッケンバッカーのギターとフェンダーUSAのテレキャスターを自慢げに並べたものだった。

「リッケン2本買うなんて気狂いやろ!」
 中学時代父親にギターをへし折られて以来、ギターは弾いていなかったらしい。

「最近無心でギターずっとジャカジャカ弾いてんねん。気持ちええな」
「今さらやけどビートルズってほんますごいわ」
「ほんまいい音やで。今度ギターの音録音して送るわ」

 アキヲの声がいまだにこだまする。
 赤と黒のリッケンバッカーたちが眩しかった。


俺はそいつを知っていた——アキヲとの出会い

 シークレット・ゴールドフィッシュは1990年に大阪で結成された。英4ADの人気バンド、Lushの前座をするためだ。その辺りのエピソードに関しては以前、デボネアの「Lost & Found」発売の際に寄稿したので、そちらをご覧になっていただきたい。
 1990年、Lushの前座が終わり、ベースを担当していたオリジナルメンバーのフミが抜けることになった。フミも経営に携わっていたという、当時はまだ珍しいDJバーの仕事に専念するためだ(その店ではデビュー前の竹村延和が専属DJをしていた)。
 そんななか、近藤が「同級生にめっちゃ凄い奴がおるで」と言って、ベーシストを紹介してくれることになった。
「学生時代番長や」近藤は得意のハッタリで俺をビビらせた。当時勢いのあった大阪のバンド、ニューエスト・モデルのベース・オーディションにも顔を出したことがあったという(*)。「むっちゃ怖いで〜、顔が新幹線みたいで、まさにゴリラや」そして俺の部屋にアキヲを連れてきた。たぶん、宮城も一緒だったと思う。
 現れたのは近藤の大袈裟な話とは違い、体と顔はたしかにゴツイが、気さくで物腰の柔らかい男だった。しかも俺はそいつを知っていた! 忘れることもできないほど、俺の脳裏に焼きついていた人物だったからだ。
(*)現ソウル・フラワー・ユニオンの奥野真哉氏の回想によれば、「ええやん、やろや!」となったそうだがその後アキヲとは連絡取れず、この話は途絶えてしまったそうだ)

 1989年か1990年に、(たぶんNHKで放送していたと記憶しているが)「インディーズ・バンド特集」的な番組を観ていた。新宿ロフトで演奏する大阪から来たというパンク・バンドの映像が流れた。彼らはインタビューで語気を強めて答えた。
「わしらぁ武道館を一杯にするなんてクソみたいなこと考えてないからやぁ」
 そう語る男の強面な顔と威切った言動が強く印象に残った。
 しばらくして、バイト帰りに梅田の書店で無意識に「バンドでプロになる方法」らしきタイトルの本を立ち読みした。その本の序文の一説に、先日NHKで見た「武道館クソ発言」とそのバンドについて書いてあった。それは否定的な内容で、そういう考えのもとでは一生プロにはなれない、と著者は断じていた。
「あいつや……」
 忘れようとしても忘れられない、あの大阪のバンドの奴の顔が浮かんだ。
 そう、近藤が連れてきた番長の同級生、目の前の男こそが「あいつ」だった。山本アキヲ。物腰の柔らかさと記憶とのギャップに驚いた。

 俺も最近知ったのだが、シークレットのメンバーは大阪市内の中学の同級生が半分を占めていたらしい。近藤進太郎、山本アキヲ、朝比奈学、近所の中学校の宮城タケヒト。皆、俺と中畑謙(g. 大学の同級生)とも同い年だった。彼らは「コンフォート・ミックス」というツイン・ヴォーカルのミクスチャー・バンドをやっていて、自主制作レコードもその時持参してくれた。同じ日に宮城も加入した。
「コンフォート・ミックス」のLPは在庫がかなりあったらしく、シークレットがCDデビューする前の東京でのライヴで便乗販売していた。当時の購入者は驚いただろうが、今となっては超貴重盤である。

  こうしてアキヲがしばらく、シークレットのベースを担当することになった。俺にとっては運命的な出会いだった。その友情はその後30年以上も続くのだから。


1991-アキヲと宮城が゙加入した頃-京都にて

 アキヲはシークレットのベースとして多くライヴに参加したが、仕事の都合で渡米したりするので、アキヲの他にも朝比奈、ラフィアンズのマコちゃん(後にコンクリート・オクトパス)など、ライヴの際は柔軟に対応していた。
 2nd EP「Love is understanding」では、アキヲが2曲ベースでレコーディングに参加している。東京のレコーディング・スタジオまで飛行機で来て、弾き終えると大阪へとんぼ帰りだった。今思えば仕事との両立も大変だったろうに、本当にありがたい。アキヲが他のメンバーよりも大人びていると感じたのは、そういう姿も見ていたからかも知れない。


LOVE IS UNDERSTANDING / SECRET GOLDFISH 1992

 シークレットは多くの来日アーティストのオープニング・アクト(前座)を務めていた。その中でも英シェイメン(Shamen)のオープニング・アクトは特に印象に残っている。
 俺たちのライヴには「幕の内弁当」というセットリストがあった。「もっと見たいくらいがええねん」と、踊れる7曲を毎回同じアレンジ、ノンストップで30分ほど演奏していた。
 せっかくシェイメンと一緒のステージだし、いつもの演奏曲も宮城のエレクトロ(サンプラー)を前面に出したアレンジに変えた。練習も久しぶりに熱が入った。アキヲはそのスタイルに合わせ、ベースラインを大きく変えて演奏した。

「ええやん、そのベース(ライン)」
「せやろ!」

 そのライヴでの「Movin’」のダンスアレンジは今でもかっこいいと思う。その時のアレンジが先述のEP「Love is〜」や「Movin’」のリミックス・ヴァージョンに、宮城タケヒト主導で反映された。


MOVIN' / SECRET GOLDFISH (Front act for SHAMEN,1992)


1991年の大阪にて

 シークレットの最初期こそ京都を中心にライヴをしていたが、活動場所は地元の大阪へと移っていく。心斎橋クアトロをはじめ、十三ファンダンゴ、難波ベアーズ、心斎橋サンホール、大阪モーダホールなどでライヴをした。
 ちなみに91年難波ベアーズでのライヴの対バンは、京都のスネーク・ヘッドメンだった。「アタリ・ティーンエイジ・ライオット」を彷彿させるパンク・バンドだった。アキヲとTanzmuzikのオッキーことOKIHIDEとの出会いはその時だったのかもしれない。
 心斎橋サンホールでは「スラッシャー・ナイト」にも参加した。出演はS.O.BとRFDとシークレット。そのイベントに向けてのリハーサルは演奏より、メンチ(睨むの大阪弁)を切られても逸らさない練習をした記憶がある。なんせ近藤と宮城が真顔でこういうからだ。「ハードコアのライヴは観客がステージに上がって、ヴォーカルの顔面1cmまで顔近づけてメンチ切るんや。イズルが少しでも目逸らしたら、しばかれるでぇ」
 アキヲは笑ってたと思う。俺も負けじとドスの効いたダミ声で「Don't let me down」と歌うつもりで練習した。当日、S.O.BのTOTTSUANがシークレットのTシャツを着て登場し、「次のバンドはわしが今一番気に入ってるバンドや!」とMCで言ってくれたおかげでライヴは超盛り上がった。予期せぬ事態にメンバー一同胸を撫で下ろした。

 10月にはデビュー・アルバムも発売され、そこそこヒットした。あまり実感はなかったが、心斎橋あたりを歩いていると、その辺の店から自分の下手な歌が聞こえてくる。と、同時に多くの「ライヴを潰す」とか「殺す」などの噂も耳に入った。それはかなり深刻で、セキュリティ強化をお願いしたこともあったほどだ。


1992-心斎橋クアトロ-4人でのステージ

 そんな状況下でアキヲとの関係が深まる出来事が起こる。英スワーヴ・ドライヴァーの前座、クラブチッタ川崎でオールナイト・イベントがあり、その夜にはそのまま心斎橋クアトロでワンマンという日だった。諸事情で近藤と宮城はそれらに参加できなくなった。ステージを盛り上げる二人の不参加に俺は不安になった。

「ガタガタ抜かしてもしゃあない、わしも暴れるし思い切りやろうや!」

 その言葉通りアキヲは堂々と4人だけのステージで、近藤のコーラス・パートも歌いながらリッケンバッカーのベースを弾いた。その姿とキレのある動きはまさにザ・ジャムのベーシスト、ブルース・フォクストン! しかもチッタでは泥酔&興奮してステージに上がろうとする外国人客を蹴り落としたり、演奏中に勢い余って転んで一回転しながらも演奏を続けたりしてめっちゃパンク! 派手なステージングに俺のテンションも上がった。

 大阪行きの新幹線で初めてアキヲと向き合って話した。距離が少し縮まった気がした。


Taxman - Secret Goldfish 1992 @ CLUB CITTA'


祭りの後

 心斎橋のワンマンも無事に終え、シークレットはさらに勢いづいた。が、元来気性の荒い個性的な集団だっただけに、ぶつかり合いも多々あった。若さだけのせいにはしたくないが、未熟でアホやった。俺も独善的だった。
 祭りはいつかは終わるものだが、神輿の上に乗ったまま、知らない間にそれは終わっていた。バンドもメンバー・チェンジをしながら、音楽の新しいトレンドが毎月現れる、激流のようなシーンのなかで抗った。次第にメンバー同士が会う機会も減った。
 正式に解散したわけでもなくフェード・アウトしていく。それは単に、皆がそれぞれ違う音楽や表現手法に興味が向かっただけだった。無責任ではあるが、ごく自然なポジティヴな流れで、決して感傷的ではない。もともと皆新しもの好きだったのだから。


アメ村で見たフードラム

 暫くアキヲをはじめとするメンバーとは連絡を取り合っていなかったが、96年頃大阪に行った時、アメ村の三角公園前にある、アキヲが働いていた古着屋に立ち寄った。
 Hoodrumのメジャー・デビュー直後で、レコードショップでは専用コーナーも作られていた頃だ。アキヲがどんどん有名になっていくのは俺も嬉しかったし、誇らしかった。
 その店に立ち寄ったのも、単に一緒にいた仲間にアキヲの店だよ、と自慢したかっただけだが、レジのカウンター越しで怠そうに座っていたのはアキヲ本人だった。メジャー・デビューであれだけメディアに露出してるのに、普通に店番もしているなんて、まさにシークレット時代のアキヲのままだ。かっこ良すぎる。
 まだ携帯もメールもない時代。アキヲは当時と変わらず接してくれた。考えてみるとアキヲとは、過去から今に至るまで一度も衝突したことがない。それだけ大人だったんだな、とふと思う。
それ以来、時々また連絡を取り合うようになった。

 ミックス作業が上手くいかなくなった時などアキヲに聞くと、
「ミックスっちゅうんは一杯のコップと考えればいいんよ。その中で音をEQなどで削って、上手に配置するんやで」
 今ではAIでもやってくれるマスキングという作業についてだ。
 当時その情報は目から鱗だった。今でもミキシングの真髄だと思っている。


2000年の夏、河口湖にて。居候・山本アキヲ

 2000年の夏、アキヲが河口湖の俺の仕事場兼自宅に、2ヶ月ほど滞在(と言えばかっこいいが居候だな)することになった。その経緯は割愛するが、アキヲはちょっといろいろと精神的に疲弊していたんだと思う。俺も同じ経験をしているので、それは思い違いではないだろう。

「富士山をみると背筋が伸びんねん。叱られてる気分やわ」


2000-西湖にて富士山をバックにするアキヲ

 富士北口浅間神社では「今まで訪れた神社で一番空気が凛としてるわ」など気分転換になったと思う。慣れてくると自転車に乗って一人で河口湖を一周したり、俺の実家の父親の仕事を手伝ったりして汗も流していた。
 夜になると必ず一緒に音楽を爆音で聴きながら酒を呑んだ。湖畔の古民家だったので、夜中の大音量に関しては問題ない。まだSpotifyなどの配信は当然ない時代。俺のレコードやCDライブラリを聞いた。時には湖畔で夜の湖を眺めながら。
 日課のように聴いていたのは、B-52'sやThe Clash、JAPANやコステロなどのニューウェイヴ、他にもグレイトフル・デッド、ティム・バックリィ等々。音楽なら何でも。クラシックから民謡までも聴いたりした。Cafe Del Marを「品質がええコンピ」と紹介してくれたのもこの時期だった。

 酒が深くなると職業柄のせいか、制作側の視点へと熱を帯びながら話題も変化していく。例えばこんな感じに。

「The Clashの『London Calling』 (LP)のミックスは研究したけど、あれは再現不可能や。誰にも真似できひん」

「(Tanzmuzikの2ndのつんのめるようなリズムについて)あれはな、脳内ダンスなんや。頭の中で踊るんやで」

「(大量に持参した89年辺りの当時一番聴かないようなDJ用レコードについて)今は陽の目を見ないこれらの音楽を切り刻み、そのDNAを生かして再構築して再生させるんや」──その手法で作られたSILVAのリミックスには本当に驚いたのを覚えている。

「リヴァーブは使わんとディレイだけで音像を処理するんよ」

 アキヲには音のみならず、何事に対しても独特の哲学とインテリジェンスがあった。感心するほどの勉強家で、読書家でもあった。何冊かアキヲの忘れていった本があるが、どれも難しい評論や硬派な文学だった(吉本隆明著『言語ににとって美とはなにか』など)。
 例えば不動産の仕事に就けば、一年掛かりで宅建資格を取得して驚かせる。他の仕事に就いた時も常にそうだ。そして、楽しそうにその仕事のことを話す。とことん深く掘り下げる。高杉晋作の句に置き換えると「おもしろき こともなき世を おもしろく」を体現していた。

 俺たちはギターの渡部さん(渡部和聡)とアキヲと3人で、シークレット・ゴールドフィッシュとして4曲レコーディングした。2000年の夏の河口湖の記録として。


2000-河口湖のScretGoldfishスタジオにてくつろぐアキヲ


あの最高の感覚

 いつだったかアキヲがまた大阪から河口湖に来た際、旧メンバー数人でスタジオに入った。
 まず「All Night Rave」を合わせたのだが、その刹那、全身が痺れた。これだよ。この感覚。タツル(Dr)のドラムとアキヲの太くうねるベース。全員の息の合った演奏とグルーヴ。一瞬で時が巻き戻された。そう感じたのは俺だけではないはず。皆の表情からも伝わってきた。

 バンドは結婚と似ているというが、俺は今でもそう思う。シークレット以来パーマネントのバンドは組んでない。ごくたまにベースで手伝うことはあったが、まあ正直興奮はしない。だけど、このセッションではアドレナリンが溢れた。この快感が忘れられないからだったんだな。


山本アキヲとシークレット・ゴールドフィッシュ

 今回のアキヲの訃報で多く人の哀悼の言葉を読んだ。アキヲの音楽と人柄が愛されていることを知り、本当に嬉しかった。と同時にモニター越しに「厳然たる事実」を突きつけられ、不思議な感覚に陥った。3月から気持ちの整理を徐々にしているつもりだったのに。
 俺の知らないアキヲの側面を知っている仲間もたくさんいるし、各々がアキヲとの大切な思い出や関係性を持っている。近藤や宮城たちは謂わば幼なじみだ。その心中は俺には計り知れない。
 ただ、今こうしてシークレット・ゴールドフィッシュのメンバーと気兼ねなく電話やメールもでき、本当に幸せだと感じる。アキヲの訃報を直接口で伝え、アキヲとの馬鹿な思い出話を笑いながらできたことは良かった。ネットニュースで聞いたという形にはしたくなかった。
  バンドとしての在籍期間や活動期間は短かかったが、20歳そこそこの多感な時期、一緒に経験したあの密度の濃い瞬間は永遠だ。
 アキヲのマスタリングで過去のアルバムをサブスク(配信)に入れる話もしてたが、今後どうするかはまだ決めていない。

 アキヲは昨年から、河口湖にマンションを買って引っ越すつもりで調べていた。冗談なのか本気だったのかは、今となってはわからない。俺も地元の仲間も、その話には大歓迎だった。これからも酒を飲みながら音楽の話をしたり、一緒に制作したりする将来を楽しみにしていた。そういえば河口湖は第二の故郷だといっていたなあ。

 アキヲとの話はここでは語りきれないし、語らない。ただ、全部を胸に秘めておくだけでもいけない、ともう一人の自分が言う。アキヲという人間の一面を知ってもらうためだ。
 アキヲの音楽がそれを一番多く語ってくれている。そう、俺たちは音楽家だ。

「イズルも俺もミュージシャンやないねん。抵抗あるやろ? アーティストとか」
「音楽家や。今でも俺らはこうして音楽に携わっている。感謝せなあかんくらい、これってむっちゃ幸せなことやで」
 酒をごくりと飲む音と一緒にあいつの叱咤する声が聞こえた。

 最後にアキヲが言った一番嬉しく、一番心強かった言葉を記して終わることにする。
「イズルがシークレットやるって言うんなら、わしゃあいつでもやるで!」

 アキヲ、ありがとう。

2022年6月30日

三浦イズル(Secret Goldfish)


"All Night Rave" Secret Goldfish (12/07/15)


https://secretgoldfish.jp/
Secret Goldfish in 1991 ;
Drums:Tatsuru Miura
Bass: Akio Yamamoto
Guitar:Ken Nakahata
Vocal & Guitar:Izuru Miura
Dance & Shout: Shintaro Kondo
Synth & Sampler: Takehio Miyagi

[[SplitPage]]

アキヲさんとの思い出のいま思い出すままの断片
文:Okihide

■出会った頃

 たぶん91年かそこらの、なんかやろうよって出会った頃にアキヲさんが作ってくれた「こんなん好きやねん曲コンパイルテープ」。当時みんなよくやった、その第一弾のテープには、そのちょっと前にくれたアキヲデモのテクノな感じではなく、フランス・ギャル(お姉さんからの影響だと、とても愛情を込めて言っていた)やセルジュ・ゲンズブールの曲が入っていた。僕がシトロエンに乗っていたのでフレンチで入り口をつくったのか、そこからのトッド・ラングレンの“ハロー・イッツ・ミー”や“アイ・シー・ザ・ライト”、その全体のコンセプトが「なんか、この乾いた質感が好きやねん」って、くれたその場のアキヲの部屋で聴かせてくれた。その彼は当時タイトに痩せながらもガタイが良く、いつものピチピチのデニム、風貌からもなんとなくアキヲさんは乾いたフィーリングを持っていて、で、その好きな音への愛情や気持ち良さをエフェクトのキメや旋律に合わせて手振り身振り、パシっとデニム叩きながら、手で指揮しながら語ったくれた。
 その部屋には大きな38センチのユニットのスピーカーがあって、周りを気にせずでかい音で鳴らしてたのは僕と同じ環境で、その音の浴び方もよく似ていたが、昭和な土壁の鳴りは乾きまくってて、そんなリスニングのセッティングもアキヲさんの一部だった。
 そのテープの最後に入っていたYMOは、彼が少年期に過ごしたLA時代に日本の音として聴いたときの衝撃について話してくれた。初期のTanzmuzikに、僕がよく知らなかった中期のYMOへのオマージュ的な音色がときどき出てくるのも、こうした出来事があったから。
 そんなことがあって、アキヲさんには、その体格を真似できないのと同じように、真似できない音楽的感性の何かがあって、そこにはお互いに共鳴するものがあると気づいて、リスペクトする関係になった、そんな初めの頃のエピソードを思い出す。

 〈Rising high〉 のファーストが出て、やっとお互いいちばん安いそれぞれ違うメイカーのコンソール買って、少しは音の分離とステレオデザインがマシになったけど、それまではほんとにチープなミキサーと機材でやっていた。そのチープ機材時代の印象的な曲として、“A Land of Tairin”という曲がある。アキヲさんがシーケンスやコード、ベースなど全ての骨格の作曲を作って、こんなん……って聴かせてくれたものに僕がエフェクトやアレンジを乗せた曲。このノイズ・コードをゲート刻みクレシェンドでステレオ別で展開させたいねん!って、アキヲさんに指と目で合図しながら、2人並んで1uのチープなゲートエフェクタのつまみをいじって、当時のシーケンス走らせっぱなしで一発録りしたのを思い出します。
 あの曲のそんなSEや後半〜ラストに入れたピアノは僕がTanzmuzikでできたことのもっとも印象的なことのひとつで、アキヲさんだからこそさせてくれたキャッチボールの感謝の賜のひとつです。


■最後の頃。

 こんなして思い出すとキリがないので、最後の頃。アキヲさんが亡くなる前の数ヶ月ほどは不思議とよく会いました。僕が古い機材をとにかく売って身軽になってからやりたいなぁ、って機材を売りにいくって言うと、着いてきてくれてね、帰りに大阪らしいもの食べよって 天満の寿司屋に連れてってくれて、そしたら「久々こんなに食べれたわ!」って8カンくらい食べたてかな、ありがたいわって。その前のバカナルのサラダも。
 帰りに2人で商店街歩いてたら、民放の何とかケンミンショーのインタヴュー頼まれて、断ったけど「危ないわ、こんなタンズて」って笑ってて。

 たぶん最後に会ったときなのかな、気に入って買ったけどサイズ合わへんし、もしよかったら着てくれへん?ってお気に入りのイギリスのブランドの僕の好きなチェックのネルシャツを色違いで2枚。おまけに僕の両親に十三のきんつばも。
 で、最後のメールは、僕におすすめのコンバータのリンクだったと思います。
 彼はもちろん平常心、良くなるはずでしたから、マスタリングの仕事からそろそろ自作をと、ギターやベースも買ったばかりで意気込んでたし、なかなか音に触れない僕にも常に機材や音の紹介をしてくれていました。
 そんなことともに、僕のなかのアキヲ臭さっていうのは、クセのある人でパンクで短気であると同時に、20代の頃から僕と違ったのは、ことあるごとに、〇〇があってありがたい、〇〇さんには感謝やねん、って僕によく言っていたことで、アキヲさんは僕の感謝の育ての親でもあると今さら思うのです。 
 彼が面白がって興味を持った作曲のきっかけになったモチーフには、彼なりの独自な愛情が注がれてます。ターヘル名義のハクション大魔王やタンツムジークのパトラッシュ(たまたま思い出せるのがアニメ寄り)……、色々あるけど、アキヲさんの曲を聴いてる人のなかで産まれるおもしろさや気分を覗いてみたい気分にもなってきました(笑)。音楽は不思議です。アキヲさんと、アキヲさんの音楽に感謝。


■トラック5選


Dolice/Tanzmuzik
アルバム『Sinsekai』のあと、追って〈Rising high〉から出た5曲入りEPのなかのB1の曲。アキヲさんのセンチメンタルサイドの隠れ傑作と思ってます。〝最終楽章” のたまらん曲!です。実はデモはもっとすごくて、なにこれ!って絶賛するも再現なく、「あれ、プロフェットのベンダーがズレてたわ……」



Countach/Akio Milan Paak
着信音にしたい、この1小節。



Mothership/SILVA..Akio Milan Paak Remix
Silvaのリミックス、強いキックの隙間にノイズの呼吸するエロティックなアキヲ・ファンクの特異点。これもデモテイクは下のねちっこいコードから始まって上がってそのまま終わってしまうという、もっと色気のある展開だったのに……


Classic 2/Hoodrum
Fumiyaのフィルターを通してアキヲさんが純化されたカタチの傑作と思う。PVによく表現されたベースラインもアキヲさんらしくたまらないし、他に絡む抑えの乾いた707(?)のスネアは707のなかでいちばんカッコいいスネア。あの当時の2人の僕のなかの印象を象徴する。
 ほかにも、“HowJazz It”のサックスとオルガンの〝お話”合いのような裏打ち絡みも好きだし、“Classic 1”は青春期の鼻歌アキヲ節全開な面あって、シークレットのイズルやトロンのシンタロー……アキヲの好きな旧友の顔が不思議と浮かんでくる。
 あと1曲挙げようと思ったけれど、いっぱい出てくるのでここまでにします。
 サブスクにもあまり出てこないマニアックな曲も多いけど、是非機会があれば聴いてみてください! Radio okihide が出来ればかけたい曲やテイクが山ほどあります。

 アキヲさん、ありがとうございます。

文:Okihide

Zettai-Mu “ORIGINS” - ele-king

 大阪の KURANAKA a.k.a 1945 が主催するロングラン・パーティ《Zettai-Mu》あらため《Zettai-Mu “ORIGINS”》の最新回が6月18日(土)@NOON+CAFE にて開催される。2020年以降の度重なる延期を乗り越えてきた同パーティだが、今回 KURANAKA は「30th Anniversary Historic Set」を披露するほか GOTH-TRAD、D.J.Fulltono、ntank と、豪華な面子が集合する。ぜひ足を運びましょう。

Zettai-Mu “ORIGINS"
2022.6.18 (SAT)
OPEN/START. 22:00 -

KURANAKA a.k.a 1945
[ 30th Anniversary Historic Set ] (Zettai-Mu)
GOTH-TRAD
(Back To Chill/DEEP MEDi MUSIK/REBEL FAMILIA)
D.J.Fulltono
(Booty Tune Records/Exit Records/Tekk DJ'z Crew)
??????
ntank (MAVE)
HARUKI
ランプ (sabato)
Vis (PAL.Sounds)
Ascalypso
PACONE
Somae'369
ZTM SOUND SYSTEM (Main Floor)
369 Sound (2nd Area)
and YOU !!!

at NOON+CAFE
TEL : 06-6373-4919
ADDRESS : 大阪市北区中崎西3-3-8 JR京都線高架下
3-3-8 NAKAZAKINISHI KITAKU OSAKA JAPAN
WEB SITE : https://noon-cafe.com
ZETTAI-MU WEB SITE:https://www.zettai-mu.net/news/2206/18/
FB EVENT : https://www.facebook.com/events/739754973706169

OPEN/START. 22:00
ADV. 1500yen (要予約)
DOOR. 2000yen
UNDER 23. 1500yen
※1D別*入場時に1DRINKチケットご購入お願い致します。

【予約登録リンク】
https://noon-cafe.com/events/zettai-mu-origins-yoyaku-6
※枚数限定ですので、お早めにご購入ご登録お願い致します。LIMITED枚数に達した場合、当日料金でのご入場をお願い致します

【新型コロナウイルス感染症拡大防止対策】
・マスク着用での来場をお願いします。
・非接触体温計で検温をさせて頂き、37℃以上の場合はご入場をお断り致しますので、予めご了承ください。
・店内の換気量を増やし、最大限換気を行います。

【お客様へご協力のお願い】
・以下のお客様はご来場をお控え頂きますようお願い申し上げます。
・体調がすぐれないお客様
・37℃以上の発熱や咳など風邪の症状があるお客様
・くしゃみや鼻水などによる他のお客様にご迷惑をかけする可能性があるお客様
・ 60歳以上の方のご入店をお断りしています。
・お年寄りや体の弱い方と同居するなど生活を共に行われている方のご来場はお控えください。
・体調がすぐれないとお見受けするお客様がいらっしゃいましたら、スタッフがお声がけさせて頂きます。

● SNS
Facebook --- https://www.facebook.com/zettaimu.jp
Instagram(@zettaimu) --- https://www.instagram.com/zettaimu
Twitter(@zettai_mu) --- https://twitter.com/zettai_mu


GOTH-TRAD

様々なアプローチでヘビーウェイト・ミュージックを生み出すサウンド・オリジネイター。
2001年、秋本"Heavy"武士とともにREBEL FAMILIAを結成。"METMORPHOSE"でのデビューライブを皮切りに、Fuji Rock Festivalなど多くの国内フェスに出演。 2007年までに5枚のシングル、3枚のアルバムをリリースする。 ソロとしては、2003年に1stアルバム『GOTH-TRAD I』を発表。国内でソロ活動を本格的にスタートし、積極的に海外ツアーも始める。2005年には、自作楽器・エフェクターを駆使した、実験的な2ndアルバム『The Inverted Perspective』をリリース。同年11月にはMad Raveと称した新たなダンス・ミュージックへのアプローチを打ち出し、3rdアルバム『Mad Raver's Dance Floor』を発表。
『Mad Raver's Dance Floor』に収録されたタイトル「Back To Chill」が、ロンドンのDUBSTEPシーンで話題となり、2007年にUKのSKUD BEATから『Back To Chill EP』を、DEEP MEDi MUSIKから12"『Cut End/Flags』をリリース。8カ国に及ぶヨーロッパツアーの中では、ロンドンの伝説的パーティー"DMZ"にライブセットで出演し、地元オーディエンスを沸かした。以降、海外を中心にリリースを続け、ヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニア等、毎年、世界中でコンスタントにツアーを重ねる。2012年には待望のアルバム『New Epoch』をDEEP MEDi MUSIKからリリースし、Fuji Rock Festival 2012に出演。2009年~2014年にかけて、数々の欧米のフェスティバルにも出演してきた。 2015年、再びダブプレートのカットを始め、完全にVinyl OnlyのDJスタイルにシフトする。
アンダーグラウンドシーンで注目を集めるノイズコアバンド"ENDON"のリミックスを手がけ、5月にMerzbowのリミックスとのスプリット12"が、Daymare Recordingsよりリリースされる。12月には、日本が世界に誇るバンド"Boris"とのコラボレーションイベント"Low End Meeting"を代官山UNITにて開催し、共作"DEADSONG"を披露。 サウンドシステムを導入した、超重低音かつ実験的なアプローチのライブが話題となった。
2006年より始動した自身のパーティー"Back To Chill"は、2014年11月にREDBULL MUSIC ACADEMY TOKYOとスペシャルイベントを開催し、Back To Chillレーベルとして初となるコンピレーション"MUGEN"をリリースする。 記念すべきBack To Chill10周年を迎えた2016年、Boris、Dalekとの共作を収めた4thアルバム"PSIONICS"のリミテッド・ダブプレートバージョンを、特別会員限定でリリース。2017年4月には、台北のKornerにて、Back To Chill初の海外公演を開催した。
2018年9月、ヴォーカリスト"Diesuck"とノイズアーティスト"Masayuki Imanishi"と共に2017年に結成した新ユニット"EARTAKER"の1stデビューアルバム"HARMONICS"が、U.A.E.の気鋭レーベル"Bedouin Records"よりリリースされ、その新たなサウンドに注目が集まる。

A unique producer with a unique style, Goth-Trad has emerged from the Japanese electronic scene in the last decade as one of the most arresting artists from his generation. ‘The Sound Originator,’ Goth-Trad creates remarkable dance music with an abstract approach. Goth-Trad’s music career started in 1998. He soon formed Rebel Familia in 2001 with Takeshi ‘Heavy’ Akimoto (ex-member of Dry & Heavy) while continuing to work on his own. From abstract electronica to noise, from dub and reggae to jungle and rave music, grime to dubstep, Goth-Trad has always experimented and in the process developed his own unique style: blending influences and delivering music that is constantly evolving.
Between 2001 and 2004 Goth-Trad grew his notoriety on the Tokyo underground and went on his first European tour. He also released his first album, Goth-Trad I, and opened for The Mars Volta during their 2004 Japanese tour. His second album was released in January 2005, titled The Inverted Perspective it focused on the improvisational live style he had been developing in previous years and which he would continue to refine to this day. In March he played in Korea and in the summer established a new style called Mad Rave. ‘Mad Rave’ is Goth-Trad’s own take on dance music, refined and musically distilled through years of work.
This led to his third album, Mad Raver’s Dance Floor released in November 2005. Over 10 tracks the album condenses more than 10 years of dance music into an amalgamation of styles which flows seamlessly. The release tour for the album travelled to Berlin, Paris, Metz, London and 8 Japanese cities.
It was with this third album that Goth-Trad would finally break into the international market during 2006 thanks primarily to one track - Back To Chill - which would soon become synonymous with the Japanese dubstep scene. Inspired by the grime sounds he’d heard in London in previous years, Back To Chill also became the name of Goth-Trad’s monthly dubstep night in Tokyo - set up in 2006 - and saw a release on the UK label Skud Beats, his first official single on a non-Japanese label. At the same time Goth-Trad embarked on his fourth European tour, where he met with dubstep pioneer Mala from Digital Mystikz, at the seminal dubstep night FWD>>. This meeting led to Goth-Trad being signed to Mala’s Deep Medi Musik label and become a fixture of the international dubstep scene, which from 2006 onwards grew at an exponential rate and Goth-Trad soon became one of the genre’s most recognised and loved international artists.
From 2007 onwards Goth-Trad received increased support, respect and interest from across the dubstep and electronica scenes worldwide with people like The Bug, Kode 9, Blackdown, Juju and Skream all playing his music and sharing stages with him. Mary Ann Hobbs was also an early supporter on her Breezeblock show on BBC Radio 1.
Goth-Trad released his first 12” single for Deep Medi Musik in 2007, Cut End. That same year he also released a new Rebel Familia album, includ- ing collaborations with legends Arie Up and Max Romeo. He continued to tour extensively in Japan as well as starting more regular European tours where he appeared at the legendary DMZ dances among others. His eclectic and varied live show made him a firm favourite of European audiences and he has toured Europe every year since 2007.
In 2008 he released singles on both Skud Beats and Soul Jazz Records and for the first time he toured China in April. At the same time he continued to grow the Back To Chill nights in Tokyo providing a platform for the burgeoning Japanese dubstep scene. Over the coming years the night would see new Japanese talent added to the resident line up and play host to both local and international guests.
From 2009 to 2011 Goth-Trad continued to tour in Europe, Japan and Asia and released singles on Deep Medi Musik as well as remixes for European and Japanese artists leading to the Babylon Fall EP in late 2011, the precursor to New Epoch his fourth album. New Epoch was released on Deep Medi in early 2012 and marked Goth-Trad as one of the most important voices in dubstep. The album received praise from around the world with the UK’s FACT Magazine heralding it as one of the best dubstep albums of the year.
With New Epoch marking yet another milestone in Goth-Trad’s career, the Japanese one-man army - as Kode 9 once referred to him - is set to continue on his unique path. Always charting new territories while staying true to what motivates him: making good and honest music that reflects the world around him.
After the release of New Epoch, Goth-Trad embarked on his worldwide tour across Europe, US and Asia including many Festivals such as Coachella, Fuji Rock, Outlook Festival, and Lockdown (Natherlands) to name a few. During the tour Goth-Trad was involved with various projects including the Dubspot workshop in New York and a project in Japan called “Z-Machines”, where he was asked to produce a piece of music for the first ever Robot Band. In the UK Fabric, invited him to play and also asked Goth-Trad to provide a mix for the event, around this time Goth-Trad was asked to remix Danny Scrilla and Lea Lea, Goth Trad showed his new direction on both remixes, especially “Lea Lea - Black Or White (Goth-Trad Remix)“ awarded 3rd place on XLR8R’s Best of 2013 : Top Downloads.
Alongside producing and touring, Goth-Trad still runs Japan’s most famous bass driven club night, Back To Chill in Tokyo city every month, inviting the newest local producers to play alongside the scene’s for runners such as The Bug and Kode9.
Not only do Goth-Trad and his team organize and curate the event with cutting edge, stunning visuals but Goth-Trad also provides the sound pressure with his very own soundsystem. In 2014 he collaborated with Red Bull Music Academy Tokyo for “Back To Chill - A Red Bull Music Academy Special Party” which invited American sludge metal band “The Body”. In November 2014, he started his own Back To Chill label.
In 2015, GOTH-TRAD found a dubplate cutting studio “Was Alchemy” near his house, and he restarted cutting dubplates. As can be seen from his approach like the remix for Japanese noise core band “ENDON” and a collaboration with Heavy Rock Band “Boris”, his music was becoming more alternative. In 2016, his Back To Chill night had the 10th Anniversary, and he released very limited Dubplate & USB digital album “PSIONICS”. He featured “Boris” and American Experimental Hiphop MC “Da¨lek” on the limited dubplate.

★ GOTH-TRAD WEB SITE --- https://www.gothtrad.com
★ Facebook --- https://www.facebook.com/gothtrad
★ Instagram --- https://www.instagram.com/gothtrad
★ Twitter--- https://twitter.com/GOTHTRAD
★ Soundcloud --- https://soundcloud.com/goth-trad
★ BACK TO CHILL WEB SITE --- https://backtochill.com


KURANAKA a.k.a 1945 (ZETTAI-MU from Japan)

Born in Kyoto, Japan. He is a descendant of the temples of the one of the most famous Buddhist monk in Japan history, the initiator of the Buddhist incantation chanting, drumbeating, and dancing (origin of the Bon festival dance).
 He makes full use of his 11 faces and 1000 arms to continue to be the beacon of peace and revolution, from his underground performances in Japan. His riddim to be combined with his open minded instruments that build-up upon, the Super heavyweight bass that goes back and forth with the whole body, with dub effects that of a beast, letting the floor dance madly with joy.  He is a Dub. Jungle and Sound system music pioneer who has been the undisputed leader in the genres for about 30 years. He has performed at over 2000 gigs, and has organized more than 500 Dances until now. He has organized w famous and important Dance in Japan "Zettai-Mu" began in 1995 (Bay Side Jenny, Namura Shipbuilding, Noon, Liquidroom, Unit, Yellow, Eleven, AIR, Rockets, Motherhall, Quatro, Circus, Open Air and more) it will be 25th anniversary 2020!! and then "Outlook Festival Japan" (ageHa Studio Coast, Sound Museum Vision and more) also "Exodus Island " "A Taste Of Sonar (its first time in Asia Sonar Festival)" "International Dub Gathering Jahpan" as well. He performs about 100 gigs a year for more than 25 years, and tour pilgrimages more than 50 times including Japan, Asia, UK, Europe , British London, Spain "International Dub Gathering" "Outlook Festival" and then active in the Asian countries including Beijing, Shanghai, Hong Kong, Korea, Taiwan, the Philippines, Vietnam, Thailand etc in recent years. and also He did use Sound System for Bass music first time in japan.
 Kuranaka (a.k.a 1945) also has been hugely successful with festival appearances throughout Japan, such as the Fuji Rock Festival, Rainbow 2000, Asagiri jam, Metamorphose, Earth Dance, Saturn, Dommune, Nagisa, Mai Music Festival , Outlook Festival and Sonar Festival. such as art museums (Yokohama Art Museum , Kyoto Museum of Art , London ICA etc), the Valley and seaside, Club Hall of city, the Gap of Building and the top of Desk, and the Your Ears.
and then He declined the offer of contract from many major label of japan also world. chose this way staying normal.
 Kuranaka has also toured Japan with Dub Reggaes such as Lee perry, Jah shaka , Aba shanti-i , Mad professor , Zion Train , Adrian Sherwood , Dennis Bovell etc. then Drum and Bass / Jungles such as Roni size Reprazent, Congo Natty, Shy fx, Andy C and many. More then he play with Daftpunk , James Blake , Darren Emarson Underworld , Ash Ra Tempel , Atari Teenage Riot and many more in First visit japan show. he also Performed Flyng Lotus , Battles , The Orb , Smith&Mighty , Cold cut Ninja Tune etc. ofcouse he also with Japanese Acts such as Boredoms, Dj Krush , Audio Active , Tha Blue Herb , Dry&Heavy , Oki dub ainu , Goma , Goth-trad and many more.
 He perform live set with "Kazufumi Kodama" of Japanese reggae originator from Mute Beat. also Didgeridoo player "Goma" and then The controversial product "the Constitution of Japan" developed by a combination with "Shing02" for two International Art Festival (Yokohama Triennale, Kyoto Parasophia) It was created and released for one year.
 He also creates and plays music with Heavy (Dry&Heavy, Rebel Familia), Ao (Dry&heavy), Goma (didgeridoo), Coba (Accordion), NHK Koyxen, E-da(ex.Boredoms), Iccihie (ex.Determinations) , Tokona-x etc. He released (suchas) DJ Spooky , DJ Vadim also The Bug as the name of "MOU", which is the pioneer Future Beat Music "Electlic Lady Land" from the well-known German's "Mille PlateauxI" Moreover, as the name of "Kuranaka", he attended compilation of "Kyogen" with Calm, Shing02 and so on. Furthermore, as the name of "1945", he released featuring alongside ex-Dry&Heavy's bassist, "Akimoto Heavy Takeshi". also released Mixs called "TIGHT" from "Entotsu Recordings". He(and his Live CDs) amassed the sold out sales including all the titles. As a remixer, he sends deep world, dissembles and reconstructs masterpieces done by On-U Sound (UK) Audio Active , Rebel Familia, Churashima Navigator, Original Love, Jun-Gold (Tha Blue Herb Recordings) and so on. The strong beats with the message is down to earth and very sensitive but mighty sense of "Past", "Now", and "Future". We are fighting against the monsters of our own creation. Remember 1945, Peace one love Harmonic future !!
 Japanese written "クラナカ" also his name in long time ago. and then "The Kaoss Pad" used habitually all over the world is.. Delay, Reverbe, Siren.. It was developed by him. and the his model "Siren Machine" thats using Mala (Digital Mystikz) also The Bug etc.  The message carried out from his strong beat, reaches those of whom both legs are grounded to our earth, is delicate, yet, powerful.. the 21st century taiko drummer, waves his flag to peace and love for a harmonic future. Somewhere, now today.

★ Zettai-Mu --- https://www.zettai-mu.net
★ Outlook Festival Japan --- https://outlookfestival.jp
★ Facebook --- https://www.facebook.com/zettaimu.jp
★ Instagram --- https://www.instagram.com/zettaimu
★ Twitter(@zettai_mu) --- https://twitter.com/zettai_mu
★ Sound Cloud -- https://soundcloud.com/kuranaka1945


D.J.Fulltono

大阪を拠点に活動。レーベル〈Booty Tune〉主催。2014年に発表したEP『My Mind Beats』は、米国の音楽メディア『Rolling Stone』年間チャートに選出。ポーランドの『UNSOUND FESTIVAL 2016』出演。2019年、dBridge主催レーベルEXIT Recordsより “Before The Storm EP” をリリース。
シカゴのジューク・フットワークサウンドを、自身のルーツであるミニマルテクノ的な感性でミックス。また、CRZKNYとのプロジェクト〈Theater 1〉や、Skip Club Orchestraらとの〈Draping〉等、160BPMに拘りながら日本発進の独自スタイルを追求している。

Footwork/Juke DJ and Track Maker. from Osaka Japan
DJ/track maker DJ Fulltono comes from the Kansai region, Japan. He runs a label “Booty Tune”. Host of a party “SOMETHINN”. A prolific writer of Juke/Footwork for international medias. Based in Juke / Footwork , his voracious style includes Ghettotech, Electro, Chicago House, and so on. He provides Planet Mu and Hyperdub with privilege DJ MIX CDs. In the mix for Concept Radio, a Spanish web magazine, He pursues Techno-style Juke. In May 2015, he released his 6th EP “My Mind Beat Vol.02. The first one,”My mind beats vol.1”was selected ““20 Best EDM and Electronic Albums of 2015” by the media in US ” Rolling stone ” and that obtained an evaluation from the fan in the world.

★ D.J.Fulltono WEB SITE --- https://djfulltono.com
★ Facebook --- https://www.facebook.com/djfulltono
★ Instagram --- https://www.instagram.com/djfulltono
★ Twitter--- https://twitter.com/djfulltono
★ Soundcloud --- https://soundcloud.com/dj-fulltono


ntank

2000年さいたま市生まれ、京都在住。 自身のパーティMAVEを京都West Harlemにて主宰。日本各地からゲストを招聘し、ダンスミュージックを主軸にバラエティあるパーティとなっている。 様々なジャンルを横断しながら自由に駆け抜けるプレイを得意としている。 また、大阪や神戸等の関西圏だけでなく名古屋や、東京など様々なエリアにてプレイを重ねている。

★ Instagram --- https://www.instagram.com/_ntank
★ Twitter--- https://twitter.com/_ntank
★ Soundcloud --- https://soundcloud.com/ntank

interview with !!! (Nic Offer) - ele-king

 言うまでもなく、パンデミックは世界じゅうのミュージシャンに甚大な被害をもたらした。部屋に閉じこめられた多くの人びとは内省へと向かい、それと関係があるのかないのか、アンビエント作品のリリース量も増えた。あれから2年。欧米ではライヴもパーティもほぼ普通に開催されるようになっている。20年間つねにダンスを追求しつづけてきたNYのパンク・バンド、!!! (チック・チック・チック)の面々はこの期間、どんなふうに過ごしていたのだろう。
 新作を再生すると、アコースティック・ギターが感傷的なコードを響かせている。なじみのある声が控えめに「普通の人びと、普通の人びと」と繰り返している。エネルギッシュなライヴ・パフォーマンスで知られる彼らが、まさか弾き語りに活路を見出す日が来ようとは。まったくコロナ恐るべし……

 嘘だ。2曲めからアルバムはフルスロットルで走り出す。ちょっとしたジョークなのだろう。R.E.M. のカヴァー(というよりはリリックの拝借と言ったほうが近いが)からデンボウ(*)にインスパイアされた曲まで、相変わらずヴァラエティに富んだ内容である。軸になっているのはやはりダンス。!!! がそれを手放すなんてありえない。
 むろん変わったところもある。ドラムマシンの存在感。通算9枚めのスタジオ・アルバムは、かつてなく打ち込みの度合いが高まっている。集まってセッションするのが困難なら、機械を活用するまで。ダンス・パンク・バンドが踊れない時代に突きつけた回答、それが新作『ブルーなままに(Let It Be Blue)』だ。パンデミックの「暗い」思い出を否定することなく、ポジティヴに前へと進んでいこう──ビートルズの曲に引っかけたこのタイトルにはきっと、そんな想いが込められているにちがいない。
 幸いなことに、日本でもだいぶライヴやパーティが復活してきている。先日《LOCAL GREEN FESTIVAL’22》への出演がアナウンスされた !!! だが、ここへ来て単独東京公演も決定した(詳細は下記)。リモートで制作されマシン・リズムに身を委ねた楽曲たちが生のステージでどのように暴れまわるのか、いまから楽しみでしかたない。

* シャバ・ランクスの(反ゲイ感情を含む)問題曲に由来し、その後ドミニカで独自に進化を遂げた、レゲトンの発展形。

普通でいたくないんだけど、普通でいたくないと思うのは他の皆が思っている普通のこと。それって感情の戦いだからね(笑)。ユニークであること、ユニークでありたいと思うことは普通のことなんじゃないかな。雪の結晶と同じさ。ひとつひとつが違って当たり前。それが普通のことなんだ。

つい最近スペインでツアーをされたのですよね。いまだパンデミックは継続中かと思いますが、オーディエンスの状況やパフォーマンスの手ごたえはどうでしたか?

ニック・オファー(以下、NO):すごく良かったよ。久々のコンサートだったから特別感があったし、手ごたえもすごく良かった。パフォーマンスを永遠に続けていたいような感覚だったね。まあ、メンバーのひとりでもコロナにかかったらショウをキャンセルしなきゃっていうプレッシャーはあったけど、その他はいつものライヴと同じように楽しかったし、雰囲気も同じだった。3日だったから、違いを感じる時間もなかったっていうのもあるかもしれない。アメリカに戻って長いツアーをやったらどんな感じなのかな? っていうのはいま俺も気になっているところなんだ。

住まいはいまもニューヨークですか?

NO:そうだよ。

NYはどういう状況なのでしょう? マスクをしている以外は以前のNYに戻りつつあるというような記事も見かけましたが……

NO:ニューヨークって感染者の数も多かったし、アメリカのなかではコロナを気にかけてるほうだとは思うけど、正直いまはもうコロナはあまり影響していないと思う。スーパーとかに行くと、けっこう皆マスクをしていたりするけど、それ以外は前のニューヨークと変わらないね。クラブにいったらワクチンの接種証明のカードを見せないといけないとか、以前と違うのはそれくらい。

前作もヴァラエティに富んでいましたが、今回もだいぶヴァラエティに富んだアルバムに仕上がっています。パトリック・フォードによるトラック、ドラムマシンも印象的です。こういう打ち込み寄りのアルバムに仕上がったのは、ここ2年のパンデミックと関係がありますか? たとえばエレクトロの “Panama Canal” は、ラファエル・コーヘンとマリオ・アンドレオーニのファイル共有から生まれた曲だそうですね。

NO:!!! はエレクトロニックな要素を年々増してきているけど、今回はそれがMAXになっている。やっぱりそれは、バンドとして集まることができなかったから。俺たちはエレクトロニック・ミュージックが好きだし、それは常に !!! のサウンドの要素としては存在していたけど、今回はさらにそれを強化せざるをえなかったんだ。だから逆に、次のアルバムはもっとアコースティックになるかもね。今回は、リモートでエイブルトン・セッションをやりながら曲をつくっていったんだけど、“Panama Canal” もそのひとつ。誰かがまずサウンドを作って、それにまた違うメンバーが自分の音を乗せていく、というのが主な流れだったんだ。

R.E.M. の時代は、皆もっと無知だった。だから、情報を与えられると皆がそれを信じざるをえなかったと思う。でもいまは、皆ある程度知識がある。いまは、陰謀論をつきつけられても、俺たちはそれを信じるか信じないかの選択肢を持ってるんじゃないかな。

今年は “Me And Giuliani Down By The School Yard (A True Story)” から19年、来年で20周年です。最近就任したエリック・アダムス市長はどんな印象の人物ですか? 銃の暴力からの脱却やホームレス問題の解決などを掲げているそうですが。最近は、仮想通貨で給料を受け取るというニュースも話題になりましたね。

NO:俺はあんまりそういう話題はフォロウしてないんだよね(笑)。ジュリアーニよりはマシなんじゃないかな。もちろんエリック・アダムスも大衆が嫌がることをしてはいるんだろうけど。でも、彼なりにニューヨークという街をより多くのビジネスや観光業で潤わせようとはしてると思う。それが俺が望むことかと聞かれたらそうではないけど、彼は彼のやり方でやってるんじゃないかな。完璧ではなくても、ジュリアーニよりマシなのは確か(笑)。ジュリアーニより良くなるのはぜんぜん難しいことじゃないしね(笑)。

“Me And Giuliani” が出た当時は、アメリカやイギリスがイラクに戦争を仕かけていました。いまはロシアがウクライナを侵略中です。今回バイデンはあまり積極的には介入していないように見えます。彼は、米国民からの支持は高いのでしょうか?

NO:俺はあまり政治のことを理解していないから、この質問に答えるのに適してはいないと思う。ニューヨークでは絶対に見ないのに、アメリカの真ん中なんかに行くと、トランプ支持の垂れ幕が掲げてあったりしてさ。俺もびっくりするんだ。それくらい、アメリカ全体がなにを考えているのかはわからない。バイデンの文句を言っているひとたちもいるけど、彼が完全になにかをやらかしたとも思わないし、エリック・アダムスと同じく、彼は完璧ではないけどトランプよりはマシなんじゃないかな。

初めて1曲目を聴いたとき、アコースティックな曲でびっくりしました。まるで違うバンドになったかのような印象を受けました。リスナーにどっきりを仕かけるような意図があったのでしょうか?

NO:そうそう。このアルバムにはサプライズがあるぞってことを知らせるため。あと、気に入らなかったらスキップしやすいとも思ったし(笑)。

同曲は、タイトルどおり「普通の人びと」がテーマの曲ですが、逆にあなたにとって「普通ではない人たち」とはどのような人びとですか?

NO:なにを普通とみなすかがまさにこの曲のテーマなんだ。自分自身でいることへの葛藤とかね。でも、誰だって普通なんだ。みんなそれぞれ違うし、それは当たり前のこと=普通なんだ。皆、最初は似たような希望や夢を持っていて、成長するにつれそれにそれぞれのフィルターがかかってくる。自分自身でありたい、ユニークでいたいという思いは皆が共通して持っている普通の思いだし、イコール、それは他と違う、つまり普通ではないということ。この曲は、その「もがき」について歌っているんだ。普通でいたくないんだけど、普通でいたくないと思うのは他の皆が思っている普通のこと。それって感情の戦いだからね(笑)。そういうわけで、なにが「普通でない」のかは逆にわからない。基本、皆普通だと俺は思ってるからさ。ユニークであること、ユニークでありたいと思うことは普通のことなんじゃないかな。雪の結晶と同じさ。ひとつひとつが違って当たり前。それが普通のことなんだ。

いまUSもしくはNYで「普通の人びと」が最も気にしていること、心配していることはなんでしょう?

NO:難しい質問だな(笑)。たぶん、みんなまた自由を手にして普通の生活を取り戻したいと思ってるんじゃないかと思う。パンデミックでいろいろ学んだし、シンプルなことのありがたさ、すばらしさに気づかされた。だから、皆それを恋しがり、ふたたび手にしたいと思ってるんじゃないかな。皆で集まったりとか、一緒に出かけるとかさ。当たり前だと思っていたけど、それがどんなに特別なことかを知った。俺にとっては、人前でパフォーマンスすることもそのひとつ。以前の普通の生活に戻りたい、それが皆がいちばん気にかけていることだと思う。気候変動とかも心配だけど、パンデミックがまた戻ってくるんじゃないかっていうのがいちばん心配だよね(笑)。

4曲目 “Un Puente” は歌詞も一部スペイン語ですし、サウンドもこれまでになかったタイプの曲と感じ、!!! の新機軸かなと思ったのですが、ご自身たちではどう思っていますか?

NO:この曲は、こないだスペインで演奏したときオーディエンスの皆が一緒に歌ってくれたんだ。あの時間はすばらしかった。俺たちはいつだって新しい領域に足を踏み入れようとしているし、もちろんこの曲もそれを試みた作品のひとつ。この曲が特に影響されているのはドミニカ共和国のデンボウという音楽で、なかでもエル・アルファというアーティストが大きなインスピレイションなんだ。俺たちはポップ・ミュージックが好きなんだけど、ビートルズもプリンスも、ティンバランドもアウトキャストも、ポップの流れのなかである境界線を超え、音が奇妙になる時期があった。ドミニカのポップ・ミュージックは、いまその時期に突入していて、それが俺たちにとってはすごく魅力的だったんだよ。聴いていてすごく楽しかったから、取り入れてみることにしたんだ。

“Man On The Moon” はシングルで先に出ていた曲ですね。ちょうど30年前にリリースされた R.E.M. のこの曲は、なにごとも疑ってかかるひとや、もしくはなにが真実なのかわからないということがテーマの歌かと思うのですが、これをカヴァーしたのは昨今の陰謀論の流行を踏まえてですよね?

NO:正直、なんでカヴァーしたのかは自分たちにもわからない(笑)。そのトラックをつくっていたときに、たまたま思いついて。つくっていたトラックに “Man On The Moon” の歌詞を適当にのせてたんだけど、それがすごくしっくりきて、この曲にこれ以上の歌詞は書けないなと思ったからそのまま使うことにしたんだ(笑)。逆にその歌詞にあわせてベストなサウンドをつくりたくもなったし、やっていてすごく楽しかった。だから理由は陰謀論が流行っているからではないけど、カヴァーをつくっていたとき、20年前にこの曲の歌詞を聴いたときとは時代がぜんぜん違うんだなとは感じたね。昔といまでは陰謀論の捉え方や、なにを信じてなにを信じないかも違っているから。

[[SplitPage]]

自分たちなりのパンクな “Let It Be” って感じかな。パンデミックのことを明確には語らずに、パンデミックについて触れているんだ。「レコードがつくられた2020年に起こった悲劇を、いまは素直に受け入れよう」というのが “Let It Be Blue” なんだよ。

これまであなたがもっとも仰天した陰謀論はなんですか?

NO:ははは(笑)。なんだろうな。月への人類の着陸ってのはけっこうワイルドだと思う(笑)。アイディアもすごいし、その様子を撮影してつくり上げるってすごくない(笑)? あとは、19歳のときにエイリアンが政治に関わってるっていうのを聞いてさ(笑)。そのときはもう興味津々で、それについての本を読んだりもした(笑)。あのときは若かったんだな。本を読んで、そんなの馬鹿げてるとちゃんとわかったからよかったけど(笑)。でも、R.E.M. の時代は、皆もっと無知だった。だから、情報を与えられると皆がそれを信じざるをえなかったと思う。でもいまは、皆ある程度知識がある。いまは、陰謀論をつきつけられても、俺たちはそれを信じるか信じないかの選択肢を持ってるんじゃないかな。10年ごとに、人びとは騙されにくくなっていると思う。アメリカのクリスチャンみたいな宗教やその考え方だって、日に日に解体されてきているし。皆、前よりもなにを信じるかを選ぶ自由を得ていると思うんだ。それってすごく良いことだよね。

現在も、ロシアやウクライナをめぐり真偽が定かでない情報が流れてくることもあります。なにが真実かわからないとき、あなたならどう行動しますか?

NO:俺は、それが真実かどうかを無理やり見極める必要はないと思ってる。SNSで配信されることをそこまで真剣にはとらえていないし、もしなにかをツイッターで見たとしたら、それが本当かどうかは自分でもっとちゃんとしたリサーチをしないと真に受けてはいけないと思ってるしね。まあ、ニュースってどんなニュースももしかしたら真実でない可能性はあると思うし、信じるかは自分次第。俺の場合は、いろいろあるうちのひとつの情報として頭のなかに入れておく程度にしてる。情報が不確かなものが多いから、フォックスニュースやフェイスブックはあまり見ないようにしてるかな。すぐに突き止めようとしなくても、時間をかけてそれが真実かそうでないかを判断してもいいんじゃないかなと俺は思うけどね。

“Let It Be Blue(ブルーなままにしておこう)” というのは、悲しいことやつらいこと、憂鬱なことは無理に忘れようとしないほうがいいということでしょうか?

NO:理由はさまざま。ひとつはビートルズの “Let It Be” の言葉遊び。前にマイケル・ジャクソンの “スリラー” をもじったみたいに。自分たちなりのパンクな “Let It Be” って感じかな。あとは、きみがいったとおり。パンデミックのことを明確には語らずに、パンデミックについて触れているんだ。「レコードがつくられた2020年に起こった悲劇を、いまは素直に受け入れよう」というのが “Let It Be Blue” なんだよ。

ちなみに、わたしは五年ほどまえ東京での取材時にあなたに薦められたのがきっかけで Spotify をはじめたのですが、最近の Spotify についてはどう見ていますか? 利益をアーティストに還元しないという話もよく聞きます。最近はニール・ヤングやジョニ・ミッチェルが曲を引き上げたことも話題になりました。

NO:ニール・ヤングが曲を引き上げたのは良かったと思う。そういうことをするからこそ、俺はニール・ヤングが好きだしね。それは心からリスペクトする。でも俺は、Spotify はプレイリストを交換するのにも便利だし、悪くはないと思う。俺たちだって、他のミュージシャンたちと同様 Spotify に悩まされてもいるのは確か。やっぱりだれかがなにかを完全にコントロールしてしまうのはよくないことだし、Spotify だけが音楽のアウトレットになってはいけないことはじゅうぶんわかってる。そうなってしまったら、それは恐るべきことだよね。だけど、やっぱり便利な部分もあるんだよな。好きな音楽が気軽に聴けるっていうのは事実だし。

振りまわされるのは悪いことじゃない。自分を楽しませてくれるなにかのファンであること、それに影響を受けることは大切なことだからね。ビートルズもボブ・ディランも、ライヴァルでありながら互いに学び合い、ともに成長してきたんだ。俺もその流れのなかにいたい。

あなたたちはプレイリストなどのトレンドとは無縁に、自身の固有のサウンドを追求しています。“Fast Car” や “Man On The Moon” のカヴァーが原曲とは似ても似つかないのもそうです。振りまわされない秘訣は?

NO:振りまわされるのは悪いことじゃない。自分を楽しませてくれるなにかのファンであること、それに影響を受けることは大切なことだからね。でも同時に大切なのは、自分が好きなもののファンであること、影響を受けている理由が、「それが流行っているから」じゃダメなんだ。自分が興奮できるなにかのファンになることが大事。いま俺は、60年代のアーティスト同士が互いにどう影響し合っていたかという本(『The Act You’ve Known For All These Years』Clinton Heylin)を読んでいるんだけど、ビートルズもボブ・ディランも、ライヴァルでありながら互いに学び合い、ともに成長してきたんだ。俺もその流れのなかにいたい。これからの音楽を、他の音楽と影響し合いながらより良いものにできたらと思うんだ。もちろん、オリジナリティを保ちながらね。

最後の曲では「これはポップ」と連呼されます。あなたにとって「ポップ」とはなんですか? あなたにとって最高のポップ・ソング、またはポップのレコードはなんでしょう?

NO:ポップには悩まされたこともあった。ポップはダサいなんて思ってたときもあったけど、結局は、自分が子どものころにいちばん強いつながりを感じていた音楽がポップなんだ。ラジオから聴こえてくる音楽。それが聴きたくてラジオをつけてヴォリュームをあげてた。でも、ニューウェイヴやパンクが出てくると、そういうちょっとポップとは違うものがクールだと思うようになってさ。でも、ときが経つと、ポップを疑う必要はないことがわかった。自分が好きな音楽なら、なんだって受け入れていいんだ、と。俺にとっては、子どものころに直感でつながりを感じ、俺を魅了してくれたのが俺にとってのポップ・ミュージック。聴いていてそのつながりや魅力を感じられる音楽ができあがると、これはポップ・ミュージックをつくったんだ、と思える。そういう子どものころに感じた音楽の魅力を感じさせてくれる音楽はすべて、俺にとっては最高のポップ・ミュージックだね。

通訳:ひとつ選ぶとしたらどうですか?

NO:最高っていうのは選べないから、最近いいなと思ったのを言うと、ロザリアとニルファー・ヤンヤかな。2022年のなかでは、いまのところ彼女たちの作品がいちばんのポップ・ミュージックだと思う。すごく良い音楽だから、チェックしてみて。超ポップで言えば、テイラー・スウィフトも好きだし、ドジャー・キャットが賞をとったのも嬉しかった。ブルーノ・マーズとアンダーソン・パークも好きだしね。自分たちが好きな音楽をつくってるなと思う。あの70年代のソウルの感じが、すごくつくられた感もあるんだけど、それはあえてで、なんか聴いていてすごく楽しいんだよね。どうやってあの魅力がつくりだせているのかは俺にはわからない。でも、彼らの音楽のいくつかはすごくいいと思う。

通訳:ありがとうございました!

NO:こちらこそありがとう! またね。

キャリア25年を超え今もなお最狂!!!
最新アルバム『Let It Be Blue』遂にリリース!!!
LOCAL GREEN FESTIVAL’22出演発表に続き、単独東京公演も決定!!!
グルーヴの旅路の、さらにその先へ導く最狂のライブ・バンド=チック・チック・チックによる、魅せて聴かせる最新ライヴ!!!
主催者先行スタート!!!

史上最狂のディスコ・パンク・バンド、チック・チック・チックによる待望の最新アルバム『Let it Be Blue』がいよいよ日本先行リリース!!! そんな中、さらに嬉しいニュースが到着!!!

昨年、一昨年とGreenroom Festival出演が決定していたにも関わらず、新型コロナの水際対策の影響で来日を果たせなかった我らがチック・チック・チック。しかし遂に先日LOCAL GREEN FESTIVAL’22への出演が発表され、最新アルバム『Let It Be Blue』と共に3年振りに来日しリベンジを果たすことが明らかになった。そしてその発表の熱が冷めやらぬまま、何と単独東京公演が決定! 最新アルバムでは、今までよりミニマルなアプローチを取り入れながらも、ファンク、ディスコ、アシッド・ハウスからレゲトンまで、パーティ・ミュージックをゴッタ煮にしたカオティックでエネルギッシュな音楽性はそのままに、さらにはメランコリック且つほの明るい希望的なフィーリングを同時に持ち合わせ、まさに人々を解放へ導くダンス・ミュージックを展開しさらに磨きがかかった万全の状態だ。最も感染対策が難しいと思わる最狂のライブ・バンドによる、魅せて聴かせる免疫増強ライヴ!? 開催決定!

[公演概要]
!!! (Chk Chk Chk) チック・チック・チック来日公演

公演日:2022年9月5日(月)
会場:O-EAST
開場/開演:OPEN 18:00 / START 19:00

前売:¥6,800(税込) ※別途1ドリンク代
※オールスタンディング ※未就学児童入場不可

先行発売:
4/28 (thu) 12:00~ BEATINK主催者WEB先行(※限定数…Eチケットのみ)
https://beatink.zaiko.io/e/chkchkchk2022
4/29 (fri) 12:00~5/5 (thu) 23:59 イープラス最速先行(抽選)
https://eplus.jp/chkchkchk/
5/7 (sat) 12:00~5/9 (mon) 18:00 イープラス プレオーダー
https://eplus.jp/chkchkchk/

一般発売:
5月14日(土)~
イープラス
https://eplus.jp/chkchkchk/
ローソンチケット(Lコード:74982)
https://l-tike.com/search/?lcd=74982
Zaiko
https://beatink.zaiko.io/e/chkchkchk2022

チック・チック・チック待望の最新アルバム『Let it Be Blue』は、CDとLPが4月29日に日本先行で発売され、5月6日にデジタル/ストリーミング配信でリリースされる。国内盤CDにはボーナストラック “Fuck It, I'm Done” が収録され、歌詞対訳・解説が封入される。LPはブラック・ヴァイナルの通常盤と、日本語帯・解説書付の限定盤(ブルー・ヴァイナル)で発売される。また国内盤CDと日本語帯付限定盤LPは、オリジナルTシャツ付セットも発売される。

label: Warp Records / Beat Records
artist: !!! (Chk Chk Chk)
title: Let it Be Blue

release: 2022.04.29 FRI ON SALE
2022.05.06 (Digital)

国内盤CD BRC697 ¥2,200+税
解説+歌詞対訳冊子/ボーナストラック追加収録

国内盤CD+Tシャツセット BRC697T ¥6,000+税

帯付限定輸入盤1LP(ブルー・ヴァイナル)
WARPLP339BR
帯付限定輸入盤1LP(ブルー・ヴァイナル)+Tシャツセット
WARPLP339BRT

BEATINK.COM:
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=12382

TRACK LIST
01. Normal People
02. A Little Bit (More)
03. Storm Around The World (feat. Maria Uzor)
04. Un Puente (feat. Angelica Garcia)
05. Here's What I Need To Know
06. Panama Canal (feat. Meah Pace)
07. Man On The Moon (feat. Meah Pace)
08. Let It Be Blue
09. It's Grey, It's Grey (It's Grey)
10. Crazy Talk
11. This Is Pop 2
12. Fuck It, I'm Done *Bonus Track

!!! (Chk Chk Chk) - ele-king

 まもなく新作『Let It Be Blue』のリリースを控えるチック・チック・チックから嬉しいお知らせの到着だ。9月3日(土)と9月4日(日)の2日間にわたって横浜赤レンガ地区野外特設会場で開催されるフェス《LOCAL GREEN FESTIVAL’22》への出演が決定したとのこと。パワフルなライヴで知られる彼ら、パンデミックを経ていったいどんなパフォーマンスを披露してくれるのか。いまから楽しみだ。

史上最狂のディスコ・パンク・バンド
チック・チック・チックが LOCAL GREEN FESTIVAL’22出演決定!!!

待望の最新作『LET IT BE BLUE』は4月29日(金)日本先行発売!!!
数量限定のオリジナルTシャツ付セットや日本語帯付ヴァイナルも発売決定!!!

4月29日(金)に9枚目となる待望の最新アルバム『Let it Be Blue』のリリースを控える史上最狂のディスコ・パンク・バンド、チック・チック・チックが、2022年9月3日(土)、9月4日(日)の2日間に渡り、横浜赤レンガ地区野外特設会場にて開催する「Local Green Festival’22」に出演決定!

アルバムからはこれまでに “Storm Around The World (ft. Maria Uzor)” と “Here's What I Need To Know” の2曲が公開されている。

Storm Around The World (ft. Maria Uzor)
https://youtu.be/PVYddYDjBMc

Here's What I Need To Know (Official Video)
https://youtu.be/k3oKGyATLx4


Local Green Festival’22
開催日程:2022年9月3日(土)、 9月4日(日)
開催場所:横浜赤レンガ地区野外特設会場
主催:ローカルグリーンフェスティバル実行委員会
後援:横浜市文化観光局/スペースシャワーTV/J-WAVE
WEB : https://localgreen.jp/

ダンス・カルチャーを規制したニューヨーク市長に中指を立てた名曲 “Me And Giuliani Down By The School Yard (A True Story)” や、フジロックやソニックマニアを含め世界中の音楽フェスを熱狂させてきた “Must Be The Moon” “One Girl/One Boy” といった大ヒット・アンセム、そして他の追随を許さないパワフルなライヴ・パフォーマンスで知られる彼ら。芸術を作るということにおいて大切なのは、まず自らを奮い立たせ楽しむために、自らを改革し、常に挑戦し続けること。常に挑戦者の気持ちで自分自身の最高傑作を更新すること。チック・チック・チックの歩みを振り返れば、彼らは実に25年にもわたってその姿勢を貫いてきたことがわかるだろう。バンドの9枚目のアルバム『Let it Be Blue』は、その絶え間ない変化の感覚を、未開拓の新たな領域へと導いている。大音量でかけて人々を解放へ導くダンス・ミュージック、そういった類の音楽だ。

長年のコラボレーターであるパトリック・フォードがプロデューサーを務めた本作は、未来のダンスフロアを夢見て、2年間に渡って温められてきたという。その結果生まれた楽曲は、バンドがかつてないほど制作に力を注いだ作品となった。サブベースとドラムビートにあふれ、ダンス~パーティ・ミュージックをゴッタ煮したチック・チック・チック独自のグルーヴが表現されているが、これまでと比べて隙間のある作品となっている。それはバンドにとってエキサイティングな挑戦だった。ニック・オファーが「7、8人のバンドとしてスタートして、これまでは全員ですべてを詰め込んで、できるだけ多くのパーツをはめ込もうとしていた」と語るように、初期作品では音数の多さとある種の複雑さが魅力の一つだったが、今作はより洗練されたプロダクションとなっている。しかし、ミニマルなアプローチだからといって、代名詞のカオティックなエネルギーはまったく失われていないどころかむしろ熱量を増している。レゲトン、アシッド・ハウス、エイサップ・ファーグ、〈Kompakt Records〉作品、スーサイド、アコースティック……といった様々な要素が散りばめられたパンドラの箱のような作品だ。また、このアルバムには、ブルーでメランコリックな一面と希望的な感覚を同時に持ち合わせている。それはアルバム・タイトルにも反映されている。“Let It Be” という悟りではなく、“Let It Be Blue” というのはこれから待ち受ける様々なことを受け入れるという意味が込められている。憂鬱や悲劇は一時的なものであり、物事は過ぎ去る。しかし、何より本作『Let it Be Blue』は、これまで以上に踊り出したくなる作品だ。

チック・チック・チック待望の最新アルバム『Let it Be Blue』は、CDとLPが4月29日に日本先行で発売され、5月6日にデジタル/ストリーミング配信でリリースされる。国内盤CDにはボーナストラック “Fuck It, I'm Done” が収録され、歌詞対訳・解説が封入される。LPはブラック・ヴァイナルの通常盤と、日本語帯・解説書付の限定盤(ブルー・ヴァイナル)で発売される。また国内盤CDと日本語帯付限定盤LPは、オリジナルTシャツ付セットも発売される。

label: Warp Records / Beat Records
artist: !!! (Chk Chk Chk)
title: Let it Be Blue
release: 2022.04.29 FRI ON SALE
2022.05.06 (Digital)

国内盤CD BRC697 ¥2,200+税
解説+歌詞対訳冊子/ボーナストラック追加収録
国内盤CD+Tシャツセット BRC697T ¥6,000+税

帯付限定輸入盤1LP(ブルー・ヴァイナル)
WARPLP339BR
帯付限定輸入盤1LP(ブルー・ヴァイナル)+Tシャツセット
WARPLP339BRT

BEATINK.COM:
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=12382

TRACK LIST
01. Normal People
02. A Little Bit (More)
03. Storm Around The World (feat. Maria Uzor)
04. Un Puente (feat. Angelica Garcia)
05. Here's What I Need To Know
06. Panama Canal (feat. Meah Pace)
07. Man On The Moon (feat. Meah Pace)
08. Let It Be Blue
09. It's Grey, It's Grey (It's Grey)
10. Crazy Talk
11. This Is Pop 2
12. Fuck It, I'm Done *Bonus Track

Robbie Shakespeare - ele-king

 またレゲエ史が大きな曲がり角を曲がった。ロビー・シェイクスピアの死は世紀の “リディム・ツインズ” スライ&ロビーの死であり、レゲエ史上最高のリディム・マシーンが永久に操業を停止することを意味する。68歳とは若過ぎる。どこかであと5回や10回はステイジ上の2人を拝めるものだと勝手に信じ切っていた。ポスト=ボブ・マーリー世代のレゲエ愛好家であるぼくにとって、「レゲエ」とは、第一義としてスライのドラムに突き動かされ、ロビーのベイスに共振することだった。何故なら、はたち前の人生で最も多感な時期にブラック・ユフルのコンサート映像『Tear It Up』をヴィデオで観てしまったからである。あれで後頭部をガツンとやられた腫れが引かないまま生きてきた。マイク・スタンドの後ろに立つ異様な3ヴォーカリストの凄みを持ち上げつつもそれを凌ぐ、後ろのドラム&ベイスのすさまじいまでのクールさとインパクト。レゲエとは、他のジャンルにはない強烈な個性のフロントマンを “歌わせる” ドラム&ベイスが絶対的主役なのだと知った。その特異性は、宗教であり、哲学であり、生理学であり、奴隷の記憶と心臓の鼓動、自然の波動に由来するレゲエの普遍性そのものなのである。言い換えれば、特異なのに普遍、という観念上の矛盾がレゲエの “態度” であり、それが有史来の善悪、正否の価値基準を、耳から、そしてDNAレヴェルで問い直すのだ。レゲエのドラム&ベイスの振動は、だから言うまでもなく社会的、身体的な政治である。ベイス・ギターの太い弦をはじく、あのロビーの太い指は、その中で最も饒舌で快活で信用できるものの筆頭だった。
 1953年9月27日、キングストン生まれのロビーは、10代前半に音楽の世界に接近した。兄の故ロイド・シェイクスピアは当時マックス・ロミオらとエモーションズというグループを組んでいたが、それがヒッピー・ボーイズとなり、そこに加入してきたのが、のちにボブ・マーリーのバックを務めるバレット兄弟:アストン “ファミリーマン” バレット(ベイス・ギター)&カールトン・バレット(ドラムス)である。そのファミリーマンのプレイに憧れたロビーは頼み込んでボーヤ兼弟子としてとってもらう。マックス・ロミオがソロ歌手になって以降のヒッピー・ボーイズはリー・ペリーのバンド:アップセッターズとなり、バレット兄弟はその後ウェイラーズ・バンドの中核になるわけだが、その間ずっと、ファミリーマンは弟子ロビーに目をかけ続けた。自分がアップセッターズを抜けたあとは、ペリーの仕事をロビーに振り、マーリー専属となって世界デビューを果たしたボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ73年『Catch a Fire』では、あの “Concrete Jungle” のベイスを弟子に弾かせた。つまりマーリー世界デビュー作、そのアルバム・オープナーのベイスは20歳のロビーだったのである。ここまでの筋だけ見ても、彼が完全にレゲエ史の中核をなすミュージシャンとなるべき星の下に生まれてきたことが見てとれる。ちなみに、70年代中~後期の写真でロビーが弾いている(ポール・マッカートニーで有名な)独ヘフナー社製のヴァイオリン・ベイスもファミリーマンがロビーに譲ったものらしい。
 その “Concrete Jungle” は69年に16歳で最初のレコーディングを経験していた愛弟子に師匠が与えた名許皆伝の証のようなものであり、それ以降、ロビーはセッション・ミュージシャンとしてルーツ・レゲエ期に頭角を表していく。トップ・プロデューサー、バニー・リーの専属バンド:アグロヴェイターズに雇われ、重厚でバウンシーなベイス・ラインでカールトン “サンタ” ディヴィスのフライング・シンバル・サウンドを完成に導いた。その頃、キングストンのクラブ《ティット・フォー・タット》で同店の雇われドラマーだった、そして生涯の相棒となるスライ・ダンバーと出会っている。同クラブがあったのはジャーク・チキンのストリート・ヴェンダーでも有名なレッド・ヒルズ・ロードだが、その2人の思い出の通り名を冠した今年2021年のアルバムが遺作となったのも、いまとなっては運命的なものを感じさせる。
 そのスライが “サンタ” ディヴィスの代役でアグロヴェイターズのセッションに参加したときに、ロビーとスライは初めてリズム隊としてコンビを組んでいる。75年になると、バニー・リーの商売敵ジョジョ・フー=キムの〈チャンネル・ワン〉スタジオ/レーベルの快進撃がはじまり、スライはその専属バンド、レヴォリューショナリーズの核となるが、そこのセッションにロビーが呼ばれることもあった。さらにはジョー・ギブスのプロダクションの専属バンド:プロフェッショナルズ名義でのセッションも、実質その多数でスライとロビーが核になっていた。つまり70'sルーツ・ロック・レゲエ期の3大プロデューサーがこぞって2人を重用したことになり、それが、彼らが同ジャンルの発展に最も大きく貢献したドラム&ベイス・ユニットと評されるゆえんだ。
 それ以外の当時のロビーの活躍で忘れてはいけないのは、ブラック・ディサイプルズ・バンドでの仕事だ。映画『ロッカーズ』にも出演していた硬派プロデューサーのジャック・ルビーが、同主役ホースマウス(ドラムス)とロビー(の同映画での笑顔も忘れられない)を軸に編成したバンドだが、彼らのバッキング仕事の頂点に位置するのがバーニング・スピアー75年の大傑作『マーカス・ガーヴィー』。ルーツ・ロック・レゲエとは何かと訊かれたら、あのディープで黒光りする音を差し出せばよい。
 各プロダクションから引く手あまただったロビーだが、次第にスライとのコンビでの活動の比重が大きくなってくる。76年以降の2人はボブ・マーリーと別れてソロになったピーター・トッシュに雇われ、そのバック・バンド:ワード・サウンド&パワーを編成。ローリング・ストーンズはトッシュを自分たちのレーベルに迎え、78年『女たち』全米ツアーではトッシュ+ワード・サウンド&パワーを前座に起用した。さらにスライとロビーは前出〈チャンネル・ワン〉の花形ヴォーカル・グループ:マイティ・ダイアモンズ、あるいはジミー・クリフなどの世界ツアーもサポートしながら、70年代前半にスライがローンチしたものの軌道に乗らなかった自主プロダクション〈タクシー〉を今度は2人で再スタートさせるなど、70年代後半の彼らの恐るべきハード・ワークは、レゲエ史の中で繰り返し評価される重要なものばかりだ。
 新生〈タクシー〉は、70年代末以降スライ&ロビーのプロダクション兼レーベルとして、デニス・ブラウンやグレゴリー・アイザックス、タムリンズらを筆頭にそのリリースを充実させていったが、その中で最大の成功がブラック・ユフルである。ボブ・マーリーが81年にザイオンに召されると、彼を世界に売り出した〈アイランド〉レコーズの総帥クリス・ブラックウェルは、そのスライ&ロビーのプロデュース&バッキング・サポートによるブラック・ユフルを、マーリーの次の看板商品として世界に配給することを決める。その斬新な先駆的 “電化レゲエ” で世界的名声を得たユフルはレゲエ初のグラミー受賞者となった。
 そのブラック・ユフルwithスライ&ロビーもストーンズのツアーに参加するなどますます世界にその名を轟かせたリズム・コンビがレゲエ以外のアーティストから依頼される仕事もこの頃から急増する。それはロック、ソウルからハウス/ガラージ、ヒップホップと多岐にわたり、結果彼らの縦横無尽なリズムさばきは、世界市場においても揺るぎない地位を確立するに至った(70年代以降彼らのプロデュースやプレイを求めたアーティストといえば、ボブ・ディラン、ローリング・ストーンズ、ハービー・ハンコック、セルジュ・ゲンズブール、グレイス・ジョーンズ、ジョー・コッカー、イアン・デューリー、グウェン・ガスリー、シネイド・オコナー、ジェイムズ・ブラウン等A級のビッグ・ネイムが瞬時に頭に浮かぶ)。
 彼らの偉大なところは、そんな風にジャンルを超越した世界的成功を収めながら、自身の〈タクシー〉においてもオリジナルな創作を続けたのみならず、80代中期のジョージ・パンの〈パワー・ハウス〉レーベルを筆頭に、ジャマイカの他のローカル・プロダクションから依頼されたコテコテのご当地サウンド作りの仕事も嬉々として務め続けたところであり、かつ、例えばその〈パワー・ハウス〉サウンドが、35年超を経た現在、新世代ダンスホール・ヘッズを熱くさせたりするという、ヴァーサタイル感と不朽性が両立するところである。
 80年代の後半以降、打ち込みサウンドがジャマイカで主流になると、ルーツ・レゲエ期に活躍してきた演奏家たち、とりわけ仕事をドラム・マシーンやシンセ・ベイスに奪われたドラマーとベイシストにとっては受難の時代となる。しかしスライとロビーは、自分たちの四肢で産み出すフィジカルなドラム&ベイス・グルーヴを歌の伴奏としての瞬間芸術から限りなく思想芸術に近づける偉業を成し遂げながらも、そこにあぐらをかかず、風の流れが変わったとなればいち早く電子ドラムを皮切りに、ドラム・マシーンやシンセ・ベイスを使い、コンピュータライズド・リディム、サンプリング手法、ディジタル・ダブ等をこれまた嬉々として取り入れた。その頭の柔らかさ、枯れない好奇心とフットワークの軽さが彼らの偉大さを下支えしたことは間違いない。1990年を境にした一定期間はほとんど物理ドラムを叩かず、弦ベイスを弾かずに先進的なテクノロジーを楽しんで独創的なヒットを生み出していた。そんな電化期スライ&ロビーの代表的な仕事といえばチャカ・デマス&プライヤーズ “Murder She Wrote” となるだろうか。トゥーツ&ザ・メイタルズ1966年の “Bam Bam” リディムを使った曲で、その制作へのロビーの貢献度がどの程度かは分からないが、いま同曲を聴いてもスライ&ロビーというブランドがかび臭いアーカイヴ感とは無縁であることが分かる。そしてそのビート感はきっと永遠のヴァイタリティを放ち続けるだろうと確信するのである。
 永遠といえば、デミアン・マーリー “Welcome to Jamrock” にサンプリングされたアイニ・カモウジ “World-a-Music” のロビーのベイス・ラインもまた、少なくともいまこれを読んでいるレゲエ、ダンスホール、ヒップホップ愛好家が生きている間は不滅の響きを維持し続けるだろう。あのベイス・ラインは、今日まで地球の四隅で夥しい回数鳴り響いてきた間に、世界をひとつにして揺さぶる全能感を持ってしまったからだ。あるいはタムリンズ “Baltimore” のベイス・ラインはどうだろう(ロビーのベイス・ラインで最も好きなもののひとつだ)。寂寥感と憐憫と生命力が凝縮されている。音楽は世界を救える、というような考えを全くナイーヴなものだと思わないのは、ロビーのベイス・ライン単体でそれができそうだと思わせるからである。これが思想でないなら何であろうか。

 スライ&ロビーとしてだけで、生涯のレコーディング曲は20万曲を下らないと言われている(この数字は15年前には米AMG allmusic.com に記されていた)が、この数日間の訃報には50万と書いているものもあった。ロビー・シェイクスピアという音楽家に初めて興味を抱いた人はその尋常ならぬ数字にたじろぐと思うので、最後に哀悼の意とともに、老婆心ながら個人的なおすすめ(言うなれば人生の通奏低音である)の中から10点リスト・アップしておく。

Burning Spear / Marcus Garvey + Garvey's Ghost (Dub)

Peter Tosh / Live & Dangerous : Baston 1976

Rico / Man from Wareika

Serge Gainsbourg / Aux armes et cætera(フライ・トゥ・ジャマイカ)

Black Uhuru / Liberation : The Island Anthology

Bob Dylan / Infidels

Maxi Priest / Maxi

Tiken Jah Fakoly / Françafrique

Sly & Robbie / Blackwood Dub

Sly & Robbie / Red Hills Road

 ぼくは間違っていた。先日リリースされた『ラプソディー ネイキッド・デラックスエディション』の紹介文のことだ。なんかあれは、とくに高額商品ということもあって、ある程度年のいった連中にしかわからないんじゃないかという先入観を持って書いてしまった。なんて弱気な……。というのも、じつはあの文章を書いた直後に清志郎に夢中な12歳の少年の存在を知ってしまったのだ。親がファンというわけではない。どうやら彼が自分で清志郎の音楽を見つけて、バンドを組んで歌っているという。最近ではヘルメットを欲しがるほどにタイマーズにはまっていると聞いた。
 オリンピック以降、いや、それ以前からか、無理もないと言えばそうなのだけれど、世の中の空気はどんどん悪くなっている。誰かが何かを言えば誰かがむかつき、言葉の揚げ足をとっては炎上、それを各ネットメディアが同じように報じたり、そしてトーマス・バッハはいけしゃあしゃあとしていると……なんとも暗々たるこのご時世だが、清志郎の曲が12歳の少年に届いているという話は、嬉しいニュースじゃないですか。
 そりゃあ、さすがのぼくも清志郎の曲のすべてが現代に通用すると思っているわけではない。悪い意味での前時代的なノリもある。だが、いまだRCサクセションや清志郎の多くの曲は過去のモノにはなっていない、そう確信している。いまだパワフルに思える曲があるのは、もうどうしようもない事実なのだ。
 最近ユニバーサルが流したニュースによると、忌野清志郎50周年企画第5弾は、後期におけるソロの名作の1枚、『KING』だという。RCサクセション解散後、リトル・スクリーミング・レヴューやラフィー・タフィー、ラヴ・ジェッツなど複数のプロジェクトで活動していた清志郎が、三宅伸治らとがっつりバンドを組んで制作した2003年の作品で、この後続く『God』~『夢助』という晩年の傑作3部作の第一発目として知られている。この3枚は原点回帰的なロックンロールとソウルのアルバムで、いい曲がたくさんある。『KING』に関して言えば、個人的には女にふられた曲“胸が張り裂けそう”がベストだけれど、一般的にはソウル・ナンバーの“Baby 何もかも”や日本を風刺する“奇妙な世界”、十八番のソウル・バラード“雑踏”やなんだろうか。“ウィルス”なんかまるで最近できた曲みたいだな。なにしろ歌の出だしは「重い重い副作用が、体中に残っている」なんだからね。で、今回は当時録音されていた未発表が4曲も収録される。なんでも事情通によれば、どん底から立ち上がるあの名曲“Jump”にも似た秘蔵の曲があるらしい。一刻も早く聴きたいんだけれど、発売は11月24日だった。とりあえずその日までがんばろう。
 清志郎の長いキャリアのなかでもっとも売れなかったであろう1998年のアルバム『Rainbow Cafe』は、“世の中が悪くなっていく”という曲からはじまっている。2000年代以降の清志郎の諸作には、80年代には表現されていなかった世の中を覆う暗い空気や暗い予感がなにかしら通奏されている。悪い時代を生きているという自覚のもと、しかしではそこでどんな歌が歌えるのかと、もがき悪戦苦闘しているかのようだ。『KING』もそうだが、『God』と『夢助』のようなアルバムが再評価されるときがついに来てしまったのだろう。(野田)

忌野清志郎
KING Deluxe Edition

発売日:2021年11月24日
(オリジナル:2003 年11月19日発売)

【通常盤】
2CD+1DVD UPCY-7741 価格:3,636 円+税
Disc1(CD):KING 2021 Remaster + 4(未発表曲 Recorded at ロックン・ロール研究所)
Disc2(CD):忌野清志郎&NICE MIDDLE with NEW BLUE DAY HORNS LIVE in NHK「ONE NIGHT LIVE STAND」2003/10/26 at NHK 112st
Disc3(DVD):「WANTED」 LIVE at 日比谷野外大音楽堂 2003/8/17 ライヴ映像ダイジェスト
*仕様:紙ジャケ 3CD in 三方背 BOX

【限定盤】
3CD+1DVD+2LP UPCY-9993 価格:16,000円+税
(仕様:ゲイトフォールド 2LP ジャケット+3CD+付属 in LP BOX)

Disc1(CD):KING 2021 Remaster + 4(未発表曲 Recorded at ロックン・ロール研究所)
Disc2(CD):忌野清志郎&NICE MIDDLE with NEW BLUE DAY HORNS 「WANTED」
LIVE at 日比谷野外大音楽堂 2003/8/17 <前半> Disc3(CD):忌野清志郎&NICE MIDDLE with NEW BLUE DAY HORNS 「WANTED」 LIVE at 日比谷野外大音楽堂 2003/8/17 <後半>
Disc4,5(LP):KING 2021 Remaster + 4(未発表曲 at ロックン・ロール研究所)
Disc6(DVD):「WANTED」 LIVE at 日比谷野外大音楽堂 2003年8月17日 ライヴ映像ダイジェスト
〈付属〉
・佐内正史写真集「ANGEL」
人間「忌野清志郎」を捉えた未発表写真満載の全44P 豪華写真集
・「WANTED」 LIVE at 日比谷野外大音楽堂 2003年8月17日を捉えた写真プリント (写真:西村彩子)

■収録曲

【通常盤】
Disc1(CD)
KING 2021 remaster + 4(未発表曲 Recorded at ロックン・ロール研究所)
01 Baby 何もかも
02 WANTED
03 玩具(オモチャ)04, HB・2B・2H
05 雑踏
06 虹と共に消えた恋
07 ウイルス
08 モグラマン
09 奇妙な世界
10 胸が張り裂けそう
11 約束
〈未発表曲 at ロックン・ロール研究所〉
12 ジグソーパズル
13 ギブミーラブ
14 真冬のサイクリング
15 花はどこへ行った

Disc2(CD)
NHK「ONE NIGHT LIVE STAND」2003年10月26日 at NHK 112st
01 WANTED
02 玩具(オモチャ)03, HB・2B・2H
04 ウイルス
05 雑踏
06 スローバラード
07 上を向いて歩こう
Guitar:三宅伸治/Bass:中村きたろう/Drums:宮川 剛/Key:厚見玲衣 Alto Sax:梅津和時/Tenor Sax:片山広明/Trumpet:渡辺隆雄

Disc3 (DVD)
「WANTED」 LIVE at 日比谷野外大音楽堂 2003/8/17 ライヴ映像ダイジェスト


【限定盤】
Disc1
(CD)KING 2021 remaster + 4(未発表曲 Recorded at ロックン・ロール研究所)
01 Baby 何もかも
02 WANTED
03 玩具(オモチャ)
04 HB・2B・2H
05 雑踏
06, 虹と共に消えた恋
07 ウイルス
08 モグラマン
09 奇妙な世界
10 胸が張り裂けそう
11 約束
〈未発表曲 at ロックン・ロール研究所〉
12 ジグソーパズル
13 ギブミーラブ
14 真冬のサイクリング 15, 花はどこへ行った

Disc2
(CD)
「WANTED」LIVE at 日比谷野外大音楽堂 2003 年8月17 日 〈前編〉
01 WANTED
02 玩具(オモチャ)
03 サン・トワ・マ・ミー
04 トランジスタ・ラジオ
05 虹と共に消えた恋
06 MC
07 HB・2B・2H
08 奇妙な世界
09 MC
08 キモち E
09 ブ熱い LOVE SONG(愛しあってるかい?)
10 Baby 何もかも
11 ドカドカうるさい R&R バンド
12 約束
10 花はどこへ行った
11 君が代
12 誰も知らない
13 LONG TIME AGO
14 愛する君へ
15 スローバラード

Disc3
(CD)
「WANTED」LIVE at 日比谷野外大音楽堂 2003年8月17日 〈後編〉

01 ひどい雨
02 雑踏
03 世界中の人に自慢したいよ
04 月がかっこいい
05 胸が張り裂けそう
06 上を向いて歩こう
07 キモち E
08 Baby 何もかも
09 自転車ショー歌
10, MC
11 ウイルス
12 雨あがりの夜空に
13 約束

Guitar:三宅伸治/Bass:中村きたろう/Drums:宮川 剛/Key:池田貴史 Alto Sax:梅津和時/Tenor Sax:片山広明/Trumpet:渡辺隆雄

Disc4
(LP)
KING 2021 Remaster
A面
01 Baby 何もかも
02 WANTED
03 玩具(オモチャ)
04 HB・2B・2H
B面
01 雑踏
02 虹と共に消えた恋
03 ウイルス
04 モグラマン

Disc5
(LP)
KING 2021 Remaster + 4(未発表曲 at ロックン・ロール研究所)
C 面
01 奇妙な世界
02 胸が張り裂けそう
03 約束
D 面<未発表曲 Recorded at ロックン・ロール研究所
01, ジグソーパズル
02, ギブミーラブ
03, 真冬のサイクリング
04, 花はどこへ行った
2003/8/17 ライヴ映像ダイジェスト 

Disc6
(DVD)
「WANTED」LIVE at 日比谷野外大音楽堂 2003年8月17日 ライヴ映像ダイジェスト

Goldie - ele-king

 ベリアルが “Inner City Life” をリミックスしたり、スケプタとのコラボ曲 “Upstart” が話題を集めたりしたのが2017年。後進にも大きな影響を与えているゴールディーだが、このたび1995年のアルバム『Timless』の25周年記念盤がリリースされている。ゴールディー本人監修によるリマスターが施されており、レア曲やリミックスを収めたボーナス・ディスク付きのCD3枚組仕様。未聴の方は、ぜひこの機に。

ドラムンベースの金字塔作品が25周年を記念してリマスター復刻

4ヒーローの『Parallel Universe』と双璧をなすゴールディーによるドラムンベース初期の金字塔『Timeless』が発売25周年を記念してアニバーサリー・エディションとして未発表発掘&リマスター復刻! ソリッドなビートとフューチャリスティックな流線形サウンドをミックスしてアンダーグラウンドなクラブ・サウンドをネクストレヴェルへと引き上げたシーンのマイルストーン的な一枚。いま聞いても全く色あせることのない、まさに「タイムレス」なマスターピース。


アーティスト名:GOLDIE(ゴールディー)
アルバム・タイトル:Timeless - 25 Year Anniversary Edition(タイムレス 25周年記念盤)
商品番号:RTMCD-1480
税抜定価:2,700円
レーベル:London Records
発売日:2021年7月18日
直輸入盤・帯/英文解説日本語対訳付

◆ドラムンベースというイギリス独自のジャンルを4・ヒーローやロニ・サイズらと共に開拓し発展させ、00年代以降のベース・ミュージックのシーンにも大きな影響を残したUKクラブ・シーンの生ける伝説ゴールディー。

◆その名声を決定づけたデビュー・アルバム『Timeless』の発売25周年を記念した再発企画(オリジナル発売は1995年、ロンドン・レコード/FFRRからのリリース)。

◆ダイアン・シャーラメインのボーカルをフィーチャーしたリード・シングルの「Inner City Life」は、UKチャートのトップ40へと躍進し、ドラムンベースという音楽ジャンルが、アンダーグラウンドなクラブ・シーンから飛び出し広く一般的な注目を集める最初のきっかけとなった、歴史的にも重要な90年代クラシックス。

◆壮大なシンフォニーの「Timeless」、盟友ロブ・プレイフォードとの問答無用な直球ドラムン「Saint Angel」、メイズのベース・ラインが炸裂した「A Sense Of Rage」、意表を突くイーノのシンセが異郷トリップを誘う「Sea Of Tears」、生ドラムでレイドバックした「State Of Mind」、クリーヴランド・ワトキスのジャジーなチルアウト曲「Adrift」などなど、バラエティに富んだ楽曲群が、ゴールディーのアルバム・アーティストとしての新たな側面を、見事にあぶり出しております。まさに「タイムレス」なマスターピース。

◆本人監修によるリマスター、レア曲やリミックスを収めたボーナス・ディスク付きの3枚組。

◆クラフトワークやテクノのガイド本などの著作もあるジャーナリストのティム・バーによる解説の日本語対訳を添付予定。

[収録楽曲]

CD1
1-1a Inner City Life
1-1b Pressure
1-1c Jah
1-2 Saint Angel
1-3 State Of Mind
1-4 This Is A Bad
1-5 Sea Of Tears
1-6 Jah The Seventh Seal

CD2
2-1 A Sense Of Rage (Sensual V.I.P. Mix)
2-2 Still Life
2-3 Angel
2-4 Adrift
2-5 Kemistry
2-6 You & Me

CD3
3-1 Timeless [Instrumental]
3-2 Kemistry (VIP Mix)
3-3 Angel (Grooverider Re-edit)
3-4 State Of Mind (VIP Mix)
3-5 Still Life (VIP Mix) [The Latino Dego In Me]
3-6 Saint Darkie
3-7 Inner City Life [4 Hero's Part 2 'Leave the planet mix')
3-8 [re:jazz] - Inner City Life
3-9 Sensual

〈PAN〉 × 〈Hakuna Kulala〉 - ele-king

 ベルリンの〈PAN〉と、ウガンダはカンパラの〈Hakuna Kulala〉(〈Nyege Nyege〉のサブレーベル)が手を組んだ。『KIKOMMANDO』と題された新プロジェクトは、カンパラのシーンを新たな角度から切りとるもので、音源に加え写真やMVもその一環に含まれる模様。
 8月6日にリリースされるミックステープには Blaq Bandana や Ecko Bazz、Swordman Kitala や Biga Yut といった〈Hakuna Kulala〉のアーティストが参加。〈PAN〉の STILL が全曲のプロデュースを担当している。STILL ことシモーネ・トラブッキは、かつてザ・バグが先鞭をつけたエレクトロニック・ミュージックとダンスホールの折衷を継承する音楽家で、2017年の『I』が話題となった人物だ。
 それは対話だった、とトラブッキは今回のプロジェクトについて述べている。「シンガーたちに自信を持ってもらえるような音楽的土台をつくると同時に、わたしは彼らに挑戦もした。一緒に仕事をすることはアイディアを加速させ、発明というものがひとりだけでできるものではないことを明らかにする。それこそ『KIKOMMANDO』がわたしにとってアルバムでなく、ミックステープである理由だ」とのこと。
 現在 Ecko Bazz の “Ntabala (Rolex Riddim)” が公開中。他の曲も楽しみです。

V/A (Prod. by STILL)
Title: KIKOMMANDO
Format: Digital mixtape / Book
Label: PAN / Hakuna Kulala
Cat. No: PAN 124 / HK029
Release date: 6 August 2021

01. Blaq Bandana – Nkwaata (Prod. by STILL)
02. Ecko Bazz – Ntabala (Rolex Riddim) (Prod. by STILL)
03. Swordman Kitala – Rollacosta feat. Omutaba (Prod. by STILL)
04. Biga Yut feat. Florence – Ntwala (Prod. by STILL)
05. Biga Yut – Tukoona Nalo (Prod. by STILL)
06. High Cry Interlude (Prod. by STILL)
07. Jahcity – Njagala Kubela Nawe (Prod. by STILL)
08. Biga Yut – Plupawa (Prod. by STILL)
09. Winnie Lado – The Race (Prod. by STILL)
10. Florence – Bae Tasanze (Prod. by STILL)
11. Jahcity – Tukikole Nawe feat. Omutaba (Prod. by STILL)
12. Winnie Lado – Ahlam Wa Ish السماء هي الحد (Prod. by STILL)

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29