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スーパーカーが結成された青森の港町で僕は育った。この町でテクノやエレクトロニカに傾倒していた思春期の頃の僕にとってスーパーカーそして中村弘二は、近いような遠いような、つかみどころがあるような無いような。言ってみれば遭難者が砂漠で見るオアシスの蜃気楼。そういう存在だった。
地方都市でアンダーグラウンドな音楽にどっぷり傾倒するということは、やはり孤独との戦いという部分が大きい。情報を入手するのもひと苦労だし、発信者になろうとしても受け手の絶対数が限りなく少ない。田舎独特の閉塞感もある。ダンス・ミュージックに関しては素晴らしいレコード店とクラブ、そしてそれらの店を中心としたコミュニティがあった。が、しかし音響系だとか古いジャーマン・ロックだとかそういう音楽に関しては、当時高校生だった僕はやはり同好の士をなかなか見つけられずにいた。そんな状態だったので、スーパーカーやニャントラの活動を通してポップとアヴァンギャルド、オーヴァーグラウンドとアンダーグラウンドの境界線をヒョイヒョイと軽やかに飛び越えて活動し、熱い支持を集めていたこの同郷の才人には共感と羨望と......、そしていま思うと希望のようなものすら感じていたのだと思う。ほんと、砂漠でオアシスを見つけたみたいに。
ナカコーこと中村弘二がiLL名義でリリースする5枚目のアルバムとなる今作は、各曲がいろいろなミュージシャンやDJとのコラボレートによって作られている......とひと言で書くと「あー、そういうアルバムあるよね」という感じかもしれないが、参加しているミュージシャン/DJのラインナップはやっぱり何度見ても圧倒される。なにせ、(これはやっぱり名前が並んでいることに意味があると思うで全員列挙すると)山本精一+勝井祐二、向井秀徳、POLYSICS、ALTZ、Base Ball Bear、DAZZ Y DJ NOBU、the telephones、MEG、RYUKYUDISKO、moodman、ABRAHAM CROSS、aco、ASIAN KUNG-FU GENERATION、clammbonである。このラインナップのなかのいくつかの組み合わせであれば同時にチェックしているという人も少なくないだろう。とは言っても、少なくとも現状ではアブラハム・クロスとMEGを同列に並べる人はそうそういないんじゃないだろうか。それこそ、本人を除いては。この時点で充分"中村弘二ならではのアルバム"だと思う。でも、これ音的にはどうやって纏めるのだろう? というのがこのアルバムを聴く前の最大の関心事だった。
「相手がワルツを踊れば私もワルツを、ジルバを踊れば私もジルバを踊る」、これは、20世紀を代表するアメリカのプロレスラー、ニック・ボックウィンクルの言葉だ。このアルバムにおけるナカコーのスタンスは、まさにこういう感じだ。相手のファイティング・スタイルに合わせて柔軟に立ち回りながら要所要所で自分の持ち味の技を繰り出していく。それが例えば電子音のテクスチャーであったり、その声とメロディ・ラインであったり、ギターのトーンであったりする。自分の色は必ず出していくが、それはすべてをナカコー色に染め上げるような安易な統一感ではない。フラットな視点で相手を理解して、コミュニケーションが取れていなければなかなかできない芸当だ。このラインナップが決して、ある種の悪戯心だけで選ばれたわけでないという事が窺える。
なんというか、iLLという存在そのものがひとつのメディアとして機能しているようだ。しばしば語られるDJのメディア性にも似たそれは、さながらガラージにおけるラリー・レヴァンのようだ。サルソウル・オーケストラのようなフィリーソウルだけではなくザ・クラッシュから島田奈美まで、ラリーの手によって、ときに自らリミックスを施してプレイされた楽曲は一様にガラージクラシックスとして扱われている。それはひとつのジャンルであり、ラリー・レヴァンというメディアを通して参照されるひとつの時代のドキュメントでもある。じゃあ、iLLをフィルターとしていまの日本の音楽を参照する行為ってどうなんだろう? ちょっぴりフリーキー? やっぱり"iLL"なんだろうか? いや、ひとつの入り口からこんなにフラットにいろいろな音楽文化圏にアクセスできるというのはむしろヘルシーなことだろう。もしいま、文化的孤独に悩む地方の高校生がこのアルバムを聴いて、誰かと関心を共有できる音楽がひとつでも増えたとしたらそれはとても素晴らしいことだと思うし、やっぱりそれは希望なんだと思う。
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INSTRA:MENTAL / SKREAM
NO FUTURE (SKREAMIX) / MINIMALISTIX
NONPLUS / UK / 2009.12
»COMMENT GET MUSIC
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![]() こだま和文 空をあおいでK&Bパブリッシャーズ |
「だめになるものは、だめになればいい、というのは、だめなもの、だめな関係、嘘なものを取りつくろいながら先送りして、結果だめになるまでの時間を引きのばして生きていてもつまらないから、思い切ることだ」――こだま和文は最近上梓した著書『空をあおいで』のなかで、興味深い勇気づけ方をしている。「とにかく、ひとつひとつあきらめることだ。(中略)とことん自由になるためにもっとあきらめることだ」
「あきらめる」を「削ぎ落とす」という言葉に置き換えると、この希代のダブ・トランペッターの思想がジャマイカの音楽とリンクしていることがわかる。削ぎ落とす美学はダブである。
こだま和文において、とにかく僕が最初に強烈に引きこまれたのは、ミュート・ビートのデビュー・アルバム『Flower』(1987年)のアートワークだった。それはレゲエのアルバムらしからぬ写真とデザインで、部屋に飾って何度眺めても飽きることのない不思議な力を持ったアートワークだ。滲んだように鮮烈な赤、深く沈んだ濃い緑、それはレゲエが好む色彩感覚とはどこか違う。
何よりもチューリップだ。この花は言うまでもなく魅惑的であるが、キングストンのサウンドシステムと似合うとは思えない。が、こだま和文はカリブ海の熱帯気候においてはどこか場違いに見えるチューリップを差し出すのである。
レゲエに何かほかのイメージを重ねる表現者は他にもいる。ザ・クラッシュやアンドリュー・ウェザオールはロンドンの不良少年の夢をオフビートに重ね合わせ、ベルリンのベーシック・チャンネルはダブにおけるミニマリズムの美学を極端なまでに強調した。どちらも当初は画期的だった。が、いまとなってはだが......わかりやすいと言えばわかりやすい。ルードボーイとパンクとのコンビネーションにいたっては、もはや定番のひとつである。
それを思えばこだま和文は、レゲエから連想されるであろう"美"において、控え目に、しかし実は大胆な提案をしているように見える。チューリップの似合うレゲエ、いまだ新鮮な組み合わせである。なんというか、チューリップとレゲエが出会うとき、愛だけがとめどなく溢れだし、そして世界はいっきに広がるようだ。あるいはまた、こだま和文のチューリップは、輸入文化であるレゲエをこの国の土壌に落とし込もうとする最初の衝動でもあった。そう考えれば、チューリップはフィッシュマンズやリトル・テンポといったこの国の"レゲエ"独自の抒情性を準備したとも言える。
どうしても知りたいことがあった。なぜこだま和文がレゲエを選んだのかという理由だ。彼の尽き果てることのないペシミズム(もしくは酒飲みの愚痴とも言う)が、ジャズやロックではなくなぜレゲエと接続したのかという理由である。『空をあおいで』を読みながら、あらためてそれを知る。
答えは"自由"だ。こだま和文は、レゲエという音楽のなかにラディカルな"自由"を聴き取っている。幸いなことにその感覚をわれわれ――日本という名で呼ばれる国で生まれその文化圏内で暮らすわれわれは理解できる。レゲエから聴こえる"自由"とは、制度(ジャマイカ人の言葉を使えば"システム")からの自由でもあり、場合によっては法からの自由でもある(ジャマイカにおいて大麻は非合法である)。またルーツ・レゲエがよく使う「I & I」という主語からも見える自由である。「私と私」――主語が複数であることの素晴らしさ、松村正人の文体とは正反対の、「私」の否定。
およそ1ヶ月ほど前、『アンチ・オイディプスの使用マニュアル』(水声社)という本を読んだ。冒頭において著者であるステファヌ・ナドーはアルチュール・ランボーの有名な言葉「私とはひとりの他者である」――を持ち出す。「私とは実はいないのである」という発想だ。なぜなら「私」とは誰かによって勝手に作られたモノだからである。「私」はレゲエ好きだからドレッドにしてラスタカラーを着込んで田舎に住む、という「私」――まあ、いまどき本当にそんな人がいたらギャグか本気ですごいかのどっちかだろうけれど。
要するに、サラリーマンという「私」のためのライフスタイル。主婦という「私」のための服装。いつの間にかコースが決められている「私」。「私」が「私」を意識したときの息苦しさ――19世紀の詩人は「私」の窮屈から解放されたいという願いを、「酩酊船」なる長い詩に託している。実際の話、「私」なんていない――と想像すると気が楽になった気になる。酒をたんまり飲んで喋りすぎた翌朝の、世にも地獄の鬱状態においては、ひたすら繰り返すことだ。「私」などいないと。
こだま和文は「私」からの自由を目論む者のひとりでもある。旅行に行ったところで「自分」がなくなるわけではない。彼はそう考える。
『空をあおいで』の装丁には携帯電話が描かれている。素晴らしい自由を与えられたかのように、人はコンピュータを所有し、携帯電話を肩身はなさずに歩いている。牢獄のように小綺麗な部屋から一歩も出ることなく、せこい話かもしれないが、携帯電話の料金を気にしながら生きている。なんだか巧妙な手口で自由が奪われているように思うことがある。
こだま和文は本書において自由になるために繰り返し思索する。そしてところどころで彼なりの考えをぶつける。「がまんするのではなく、あきらめるのだ。ただし自分や他人を傷つけることなく、息苦しくなる原因をひとつずつあきらめて、自由を獲得したいものだ。自由を得るため不必要ながまんをせずに、持てあます情報を見極めて、あきらめる。あきらめても、あきらめても、あきらめきれない強いものがみえてくるはずだ」
『空をあおいで』はいくつもの短いエッセイで構成されている。『すばる』での連載をはじめ、いくつかの雑誌に寄稿した原稿、1996年に出版されたエッセイ集『ノート・その日その日』からも何本か選ばれ、1993年に出版された幼少期の自伝『スティルエコー』も再収録されている。
こだま和文は僕の世代にとってヒーローのひとりである。若い頃、僕たちはじゃがたらと同じようにミュート・ビートに憧れた。彼は英雄で、憧れだった。いや、もちろんいまでも......そうである。
こだま和文に対して「こだまさ~ん、飲みましょうよ!」などと軽口をきけるような関係ではなかった頃、というかまだ口をきいたことすらなかった頃、僕は銀座線の青山一丁目の駅構内でその後ろ姿を見ている。まるでゲリラ兵士のような出で立ちで(どう考えても目立つよな、あれは)、肩からさげていたトランペットのケースは迷彩模様だった。「うぉ、やべー、こだま和文じゃん、どうしよう、声かけようか」――結局、僕は声をかける勇気が持てなかったのだが、あとになってそのときのトランペットのケースの迷彩模様がビニールテープを丁寧に貼り合わせた手製のものであったことがわかって、僕はひとしきり感動したものだった。「さすがこだまさんだ」、そう思った。手作りの器用にデザインされたそのケースは、僕のなかでは『Flower』のチューリップに繋がるのである。それらは豊かさのなかでゆっくりと衰弱していくわれわれの生活に釘を刺す。
こだま和文の作品ではいちばん好きなのは『Quiet Reggae』(1992年)、続いて『Stars』(2000年)、その次が『Dread Beat In Tokyo』(1996年)で、近作では『IN THE STUDIO』(2005年)が気に入っている。そして今回の『空をあおいで』では、「あり合わせ、日々の暮らし」というエッセイがいちばん好きだ。
「好きな食べ物は何ですか」と聞かれたら「あり合わせの飯」と答えようか――こんな書き出しではじまるこの文章をこれ以上引用するのは止めておこう。こだま和文の"自由"の思想はこの「あり合わせ、日々の暮らし」で実にうまく表現されている。もし、まわりに元気のない友だちがいたらこれを読ませてあげるとよい。仕事がなかなか決まらずに、持つ必要のない劣等感を持たされている友だちがいたら、人生のどん底でもがき苦しんでいる友だちがいたら読んで聴かせてあげよう。できれば平日の昼間、青空の下が望ましい。この手に負えないペシミストの話は、おかしなくらいわれわれを勇気づけるのである。
ディスク・ヨッケは、近年熱い盛り上がりを見せている北欧コズミック・ディスコ・シーンにおいて期待の新星として注目を集めているアーティストだ。2008年のデビュー・アルバム『ステイング・イン』はインディ・ミュージック批評サイト『ピッチフォーク』のレヴューでも「明るく、遊び心に溢れ、宇宙的で、カラフルな音楽」と高い評価を得ている。彼の持ち味であるその煌びやかなシンセ・サウンドは、プリンス・トーマスと並んでこのムーヴメントの火付け役のひとりでもあり、野田努言うところの"ノルウェー・コズミック・ディスコの王様"リンドストロームとも重ねられ「ポスト・リンドストローム」とか「ノルウェー・コズミック・ディスコの次なるスター」との呼び声も高い。ここ数年はリミキサーとしても名を馳せているが、そのモテっぷりはブロック・パーティやThe XXからも抜擢されるほどだ。
そんな風に目覚しい活躍を見せているディスク・ヨッケが今回リリースするアルバム『En fin tid』、訳せば"素晴らしい時間"という意味のこのアルバムで彼が差し出すのは、全編を通じてどこか牧歌的なイメージがあった前作とは打って変わって、より深度を増したサイケデリック体験である。1960年代に巻き起こったサイケデリック・ムーヴメントにおいて"セットとセッティング"が重要視されたように、今作も1曲目は来るべき"素晴らしい時間"のための"リセット・アンド・ビギン"という曲でスタートする。なにかを予感させるようにゆったりと脈打つようなシンセ・ベースに伸びやかなシンセリードとエレクトリック・ギターのフレーズが添えられるこの曲、なにかに似ているなぁと思ったら、これまた60年代サイケデリック・カルチャーを語るうえで避けては通れないクラウトロックの雄、ハルモニアのサウンドそのものだ。続く表題曲"エン・フィン・ティド"は、音楽の書法としてはジョルジオ・モロダーのミュンヘン・サウンドに近いといえるのかもしれないが、シンセサイザーのテクスチャーの質感などはむしろタンジェリン・ドリームやクラスターのそれに近い。
先日リリースされたプリンス・トーマスのデビューアルバムにも、その名も"サワー・クラウト"という曲が収録されている。今作におけるディスク・ヨッケのクラウトロックへの接近は同じシーンで活躍するプリンス・トーマスに同調した部分も多分にあったかとは思うが、そこから各人の音楽的嗜好の違いが透けて見えてくるのが面白い。マニュエル・ゲッチングへのトリビュート作品を制作したことからもうかがい知れるが、おそらくプリンス・トーマスはクラウトロックの一連の作品を鑑賞するとき、ギターを中心に聴きこんでいるのではないかと思う。そのいっぽうでディスク・ヨッケがクラウトロックから受けた影響は電子音の質感と空間処理、そしてバッド・トリップ感覚じゃないだろうか?
アルバムが中盤に向かうにつれて、ビートはファンキーさを増し、内省的だった前半からいっきに開放に向かっていくかのようにアッパーになる。そういえば60年代に経験したサイケデリック体験をDJの方法論に落とし込み、ニューヨークの伝説的パーティ〈ザ・ロフト〉を主催しているDJ、ディビッド・マンキューソはティム・ローレンスの著作『ラヴ・セイヴス・ザ・デイ』のなかで、こう語っていた。
「リアリーはひとつの旅には3つの段階もしくはバルドがあると言っているけど、自分でもこの構造を使っていたことに気づいたんだ。最初のバルドはとてもスムースで完璧で穏やか。2番目のバルドはサーカスみたいな感じ。そして3番目のバルドは再入場のためのもので、このおかげでみんな外の世界に比較的スムースに戻っていけるんだ」
3番目の段階を無事に通過することで、サイケデリック・ツアーは無事完了。ナイス・トリップお疲れ様! となる。しかし、このアルバムは、2番目の段階まではまさしくこの通り進んでいくのだが、最後に待っているのは"ナッテスティド(Nattestid)"という、いかにもバッドトリップを誘発しそうな不穏なフレーズが次から次へと現れる曲だ。こ、こ、これを解除するためにはぁ......おそらく1曲目の"リセット・アンド・ビギン"に戻るのである。まさに再入場。そしてまた"素晴らしい時間"に戻っていく......。うーん、やっぱり確信犯なのだろうか......?
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「その蛍光の服を脱げ。タンスの奥からチェックのシャツを引っ張り出すんだ!」と太文字で商品ポップに書き込んでみた。着ているもので行動様式や主義主張を規定されるのは愚かしいことではあるが、我々のライフスタイルはそんな象徴性が生み出すささやかな意味に支えられて営まれていると言えなくもない。「蛍光の服」とは長引くエレクトロ・ブームを、「チェックのシャツ」とはまさにいま追い風を受けんとしているグランジ・リヴァイヴァルを象徴させるつもりで書いている。
グランジ、エモ、ギター・ポップ......みなそっけないチェックのシャツを着ている。だらっと着ていればグランジ、元気よく着ていればエモ、清潔感があればギター・ポップだ。ひどい偏見ではある。だが「引っ張り出せ」と書くのは、いま確実に90年代のグランジ・ロックに対する再解釈・再評価の気運が高まりつつあるからである。USインディ・ロックのモードは、ゼロ年代後半を象徴する柔らかなサイケデリアから、ディストーションとギター・コードが導くハードな感覚へと移行をみせている。余談だが、UKやオーストラリアがこの2、3年でかなり素直なペイヴメント・フォロワーやソニック・ユース・フォロワーを地味に生み出し続けているのに対し、本場USがグランジに正面から向き合うまでには、ノー・エイジや〈ウッドシスト〉一門といった新しい形のローファイを咬まさなければならなかったという逡巡には意義深いものがある。
ファン・アイランドは、「アニマル・コレクティヴのゼロ年代」を透過したグランジでありエモでありパワー・ポップだ。アニマル・コレクティヴは、人と世界の多様性をどこまでも受け入れていくような新しい想像力を、極彩色のサイケデリック・ポップとして吐出した。それはゼロ年代最大の果実だと言っても過言ではないだろう。ファン・アイランドには確実にそうしたゼロ年代的な想像力が引き継がれている。
"デイジー"を聴くのが手っ取り早い。メタリックでメロディアスなギター・ソロが力強い8ビートに伴われて機銃掃射のように続いたのち、それがはたと凪いで、オルガンと4声のコーラスが唐突に顔をのぞかせる。そこには多声的なアレンジによってわっと広がる生命感と、その構築性ゆえのわずかな閉塞感がある。楽曲全体に施された、薄めのもやのような残響処理は――それはずっと「シューゲイザー」と誤称され続けたが――前掲の新世代ローファイとも切って語れない重要な要素だ。4声のコーラスは、このリヴァーブのなかで1千人のようにも1億人のようにも聴こえてくる。それはスタジアムでの合唱を思わせるが、決してひとつの旗のもとに集まってひとつの歌を斉唱する20世紀的なイメージではない。めいめいが何か福音のようなものの予兆をとらえて、天を仰いでいるような雰囲気だ。
ファン・アイランド。ブルックリンを拠点に活動する5人組。2007年にセルフ・リリースで『デイ・オブ・ザ・グレイト・リープ』というアルバムを発表しているのがファースト・アルバムとなるようだ。その後ミニ・アルバムを1枚はさみ、セルフ・タイトルのセカンド・アルバムである本作は〈サージェント・ハウス〉からのリリースとなる。部分的に聴くだけなら、彼らの音はスーパー・チャンクの人懐っこさ、ウィーザーのソング・ライティング、プロミス・リングのようなエモ本流の疾走感、あるいはグランジの中に息づくハード・ロック的なギター・サウンドを思い起こさせたりするだろう。90年代のロック周辺を好む耳には親しみやすい、また懐かしささえ湛えた音だ。本人たちも音楽的な影響について「90年代半ばのディストーテッド・ポップ、ギター・ロック全般。とくにスマッシング・パンプキンズやウィーザーが大きい」(スピナー)と語っている。たしかに、あのヘヴィなギター・リフの端々に宿っているのがスマッシング・パンプキンズだと言われれば大いに納得がいく。
だが全体として非常に個性的な音楽性を持っている。スマッシング・パンプキンズ的な重くロマンチックなギターは、3本で絡みながらプログレ的な壮大なジャムへと流れ込んでいく。ジャムといっても成り行きまかせの冗長なものではない。はっきりとベクトルをもった、とてもブリリアントなものだ。特徴的なのはパッセージの激しい転換で、雄々しいギターに先導されて力強く駈けるフレーズのなかに、それを寸断するような展開がしばしば挟み込まれる。例えばコーラスであり、アコースティック・ギターの響きであり、異なったリズム・パターンである。そしてその激しい落差の中に一瞬ぽっかりと異次元が開き、オルガンやコーラスが厳かに降ってきたりする。異なったものの狭間に一瞬のぞく祈りのような感覚。これがファン・アイランドの正体だ。ギター・アンサンブルもしくはギター・ソロがかなりの時間繰り広げられるのも彼らの特異なスタイルだが、その歌のようになめらかで言葉以上に雄弁なギターに胸を熱くし、スタジアムの歓声のような合唱が沸き起こってくるのを聴き取るや、そこに生じるミメーシスの力に打たれ陶然としてしまう。曲は切れ間なく繋がれ、トータルとしてシンプルなモチーフを......祈りを浮かび上がらせる。何への祈りだろう。未来だろうか。演奏と曲の力で、しかもイヤホンで聴くCDからこれほどの迫力とポジティヴな世界観を感得できるというのは希なことだ。本当に風変わりなバンドだと思う。
しかし彼らは90年代リヴァイヴァルという動きが、シンセ・ポップやトロピカルなサイケ、ドリーミー・シューゲイズ等の浮遊感志向から、重めでハードな音への単純な揺り戻しではないということの好例でもある。2000年代というプリズムによって、ようやく90年代という時間が、歴史として分光され始めたのではないだろうか。2010年代をスタートするにあたって、1990年代の参照を後退として断罪するのは早計である。『ファン・アイランド』は、そのように感じさせる熱、そして何かしら未知の力をあふれさせた1枚だ。
自主制作で発売されたCD-Rやライヴがすでに口コミで話題になっているPredawn。このたびリリースされる全国流通盤を聴き、ライヴを観て、さらに本人から話を聞いて、すっかり筆者もぞっこんになってしまった。
Predawnは、新潟生まれ/東京の郊外育ちの23歳、清水美和子がギターで弾き語るソロ・ユニット。6歳頃にピアノの課題で作曲をはじめて以来、少しずつ曲を書きとめるようになった。いまでは作曲は日常のいち部であり、ときにはセラピーにもなっているという。すべてのパートを自身で演奏し、セルフ・レコーディングにこだわって制作された7曲入りのミニ・アルバム『手のなかの鳥』は、そうして生まれてきた曲のなかでも、比較的明るめなものばかりだそうだ。
清廉として、愛くるしい歌声とメロディ。ときにアルペジオでつま弾かれるアコースティック・ギターは、森の日だまりが似合うような心地よいサウンドを奏でる──。そんな形容詞の似合う日本の女性シンガーソングライターは数多くいるだろう。しかし彼女の音楽は、英語で歌っていることもあるが、非常に洋楽的なセンスを感じさせる。個人的には、アン・ブリッグスなど60~70年代のブリティッシュ・フォークの情景と、ザ・サンデイズ(90年代のイギリスのギター・ポップ・バンド)のピュアな躍動感をここに感じたが、欧米のネイティヴかのような土着感と、オルタナティヴな感性を同時に感じさせるのが、Predawnの魅力だ。
ちなみに手元の資料で彼女がフェイヴァリットに挙げているのは、スパークルホース、ヴェルベット・アンダーグラウンド、ウィリー・メイソン、ポール・ウェスターバーグ、マイルス・デイヴィス、エリック・サティ、ジェシー・ハリス、レディオヘッド、デス・キャブ・フォー・キューティーなど。インタヴューではグラスゴーの音楽ばかり聴いていた時期もあると言っていた。
ライヴはというと、曲間のMCでは「この林檎のお酒が美味しいんです」みたいに、ふにゃふにゃ~っとした一面を見せるいっぽう、演奏になると途端に凛とした表情を見せる。やさしい歌の魅力はもちろん、中学生からやっているというギターの演奏力もたしかだ。
インタヴューでは、自然体でありつつも、たしかなクリエイティヴィティとセンスを感じさせる発言が多々あった。演奏から録音までをすべてひとりでおこなったのも、彼女の表現欲求の高さや、手作り感を大切にしたい部分ももちろんありつつ、他人には委ねられないセンシティヴな世界観があるからなのだろう。女性らしい可愛らしさの奥に、時折、表現者としての強い眼差しを感じた。
どっちが主導権を取っているのか、『ウエルカム・トゥ・マース』というサウンドトラック盤をリリ-スしていたサイモン・ジェイムスとUKヒップホップのDJフォーマットがタッグを組んでデビュー・アルバムをリリース。これがほぼ全編でモーグ・シンセサイザーを使い倒したスペース-エイジ・ブレイクビーツの快作に。
90年代中盤に巻き起こったモーグ・リヴァイヴァルは〈アスフォデル〉のようなレーベルを通じて新旧が入り乱れ、ビッグ・シティ・オーケストラのようなアンダーグラウンド人脈にまでティプシーの名義でポップ・ミュージックへのアプローチを促し、元々のジャン・ジャック・ペリーにまでデヴィッド・シャザムとのジョイント・アルバム『イクレクトロニクス』をつくらせるまでになったと思ったら、00年代もしばらくするうちに跡形もなく消えてしまった。レイディオヘッドやゴッドスピード・ユー~が予兆となって暗い時代になったと......その通りになってしまったのである。
スペース-エイジ・ブレイクビーツといえばダン・ジ・オートメイターとクール・キースのドクター・アクタゴンである。ストリートではなく、実験室生まれのヒップヒップと呼ばれたアクタゴンは、まさにスペース-エイジ・リヴァイヴァルと足並みを揃え、絶好調のギャングスタ・ラップとまったく同じ時期にひとつの可能性を開いた......と思ったものの、誰ひとり続くものはいなかった。いや、アウトキャストがいたか。アクタゴンに少しばかり先駆けたアウトキャストは、それでも03年にはその異端ぶりを終息へと向かわせる。やはり00年代とスペース-エイジは肌が合わなかったらしい。なにが......ま、いーか。
サイモン・ジェイムスとDJフォーマットにどんな勝算があるというのだろう。フライング・ロータスが示した方向性だって、その気分だけをいえばレイディオヘッドやゴッドスピード・ユー~に呑み込まれたものではなかったとは言いづらいものがある。むしろ、そのなかで培われたものも大きかったのではないだろうか。ザ・サイモンサウンドは、しかし、そんなものとはまったくの無縁である。モーグ・クックブックやジェントル・ピープルがポコッと出てきたときと気分は同じ。好きだからやっているんですよといわれれば、好きだから聴きますねと続けるしかない。
いきなりクラフトワークをサンプリングした"ツール・ド・マース"。一転して重いビートにぷよぷよのシンセサイザーが絡む"ムーン・ロックス"。モンド直球の"インサイド・ザ・カプセル"、宇宙時代のポーティスヘッドみたいな"ビトゥイーン・ザ・ウェイク・アンド・ザ・スリープ"......果たして彼らはヒップホップ界のジョー・ミークになれるかなー。