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子どもを寝かしつけた9時近くにたまたまアクセスしたドミューンの五所純子さんの番組でかかった小室哲哉がまだ初々しかった時期の曲を聴きながら、そういえば私の妻も小室哲哉の曲が主題歌だった映画を小学生のころ見たと言っていた。私の妻は五所さんやChim↑Pomのみなさんと同年かすこし年長のはずだが、小室哲哉は彼らが過ごしてきた年月の一部だった。番組は終わった。私はそのまま、私と同郷で(たしか)同学年のヒカルくんのDJを見続けたのだが、10時を過ぎたころにヴィラロボスのトラックに、私の故郷の島では誰もが知っている、坪山豊が作曲し、島の最大の娯楽である闘牛のアンセム(?)でもある「ワイド節」がピッチをあげてミックスされたのを聴き、4月に入ってから普天間基地(の一部)の移設問題で島が揺れてきたのを考えはじめた、というか、この1月はそのことばかり考えていてele-kingの原稿を全然書いてなかった! ここから基地問題について書きはじめるといくら字数を尽くしても終わりそうにないので止めますが、私は忘れてならないのは、沖縄と沖縄周辺をめぐる基地の問題は歴史、政治、地政学(ポスト冷戦構造とか現実問題としての東アジアとかアメリカとか)、地方の振興策とか地域間の格差とか、複数の力学が入り組んだ"問題の系"であるがゆえに政治的であることは当然としても、鳩山がいう「公平な負担」というのは、この前の戦争(というのは1945年に敗戦した戦争だ)で沖縄と同じくアメリカに統治され53年に日本へのクリスマス・プレゼントとして(本当なんですよ)返還されたその島にも当てはまるのかということだ。美辞麗句として吐かれた「公平」の言葉は少数の記憶を曖昧に覆い隠そうとする――逆進税である消費税が新自由主義の残滓としてでもまだ議論されるのはその見せかけの「公平」さのせいだろう――が、記憶はある者の身体を通して他者の身体に伝達される――それは語りでも歌でも記された言葉でもいい――ことで、53年はおろか沖縄の本土復帰の日にも間に合わなかった私がヒカルくんのDJから考えたように、歴史修正主義の隠蔽をこえる広がりを持ちうるのではないか。
私は長くなりましたが、なにを言いたいのかというと、音楽をめぐる記憶の仕組みです。90年代の手法だったサンプリング~リミックス~カットアップ~コラージュ(はちがうか)、つまり編集文化にはセンスやリスペクトの裏書きがあり、方法に自覚的なかぎり改竄や盗用といった言葉さえ、ラディカリズムに落としこまれてきたが、「ネタ」は濫用されることで背景にある体系から独立し、「ネタ」というより情報のようにふるまいはじめ、アーカイヴは10年前よりずっと味気なくなった。私はメディアの問題は無視できないと自戒しないわけにいかないが、アーカイヴはもうエントロピーの上限に達してしまったのだろうか? それともバベルの図書館のように際限はないのだろうか? 私はいまの時点ではどちらともいえないけど、USTREAMのリアルタイム性はアーカイヴの座標に時間という新しい次元をもちこみ、そこに流れてくる膨大なテキストデータは共有の概念をSNSのようにコミュニティ内に蓄積させず、タイムラインに沿って離合集散することでコミュニティの舞台であるアーカイヴをも活性化させてはいるのだと思う。いまさらだが、私はTwitterのユーザーではないのでおもしろさはよくわらかないが、つぶやくよりつぶやかれることで主体の時間に他者の時間が割りこんでくることのおもしろさがある気がする。それは動物化の別の局面かどうかを検証するのは他稿にゆずるとしても。
音楽のアーカイヴは時間を取り戻して音楽的になった、と書くとまるっきり同語反復なのだが、音楽はほかのどのカルチャーよりも時間(時空)がフォーマットに密着したものだからこの変化は原点回帰のようにも思える。しかしそれはたんに戻っただけではない。
NRQをご存じだろうか?
ギターの牧野琢磨に、二胡とマンドリンを担当する吉田悠樹とコントラバスの服部将典、ドラム、クラリネット、アルト・サックスの中尾勘二からなるインストゥルメンタル・クァルテットでNRQは新興住宅地を意味するニュー・レジデンシャル・クォーターズの略称である。ネット・メディアにはあるまじき遅さで恐縮ですが、彼らは今年のヴァレンタインにファースト・アルバム『オールド・ゴースト・タウン』を〈swi〉からだした。彼らはセッションや別バンドでも活動するミュージシャンたちで、吉田悠樹は前野健太とデヴィッド・ボウイたちの一員だし、服部将典はこのサイトの読者によく知られているであろうShing02の歪曲バンドでの活動をあげればよいだろうし、中尾勘二はコンポステラやストラーダでポピュラー音楽史に足跡をのこしてきた。牧野琢磨は私もメンバーの一員である湯浅湾のギタリストでもある。なんて書くと「また身内でテキトーに褒めあって!」とけなされそうなのだが、私がここまでムダともいえる冗舌を弄してきたのは、いいものはいいと言いたいからだけじゃなく、彼らは私を考えさせるからだ。彼らの音楽はブルースやジャズや軽音楽などの古き良き時代の音楽のエッセンスを抽出したものと思われがちだがそうではない。いや、そうでないことはないかもしれない。NRQの音楽には過去への憧憬がたしかにあるが古典の再解釈ではない。大谷能生はそれをライナーノーツのなかで「あたらしい過去」と呼んでいる。私は前段に書き忘れたが、ゼロ年代までの激化したリヴァイヴァル・ブームは近過去を消費して古典へ接近することになったが、その時点で古典を音楽にとりいれるのはそれまでのリヴァイヴァルの手法も超えなければならなかった。私なりに大谷能生の言葉を煎じ詰めると、「あたらしい過去」には2種類あって、HOSEやcore of bells――関係ないがこの前のライヴには感動した――のように形式の外から形式を操作するメタフィジカルなやり方と、あくまで音楽の内側で音で語る方法があって――もちろんこれは明確に線引きできるものではなく、あくまで比重の問題だ――NRQは後者だと思う。NRQというか、牧野琢磨といいかえてもいい。牧野琢磨は厳密にギタリストであり、彼の言語はギターである。ギターとシールドと数個のエフェクターとアンプと振動する空気があれば牧野琢磨は語るだろう。その語り口にはギターを習得するうちに彼の身体に流れこんだ数多のブルースメンの記憶が介在しているはずだ。彼のファースト・ソロの『イン・ザ・サバーブス』(grid)にすでに兆候はあったが、「古いゴースト・タウン」と名づけたNRQのファーストに作曲と演奏と録音の形であらわれている。編曲と作曲をメロディに溶けこませた吉田悠樹の二胡であるとか、服部将典の強くて味わい深いコントラバスとか、NRQとHOSEとふいごにもいる中尾勘二については長い別稿が必要なほど、それぞれが音楽のゆたかな記憶をもつひとたちだから、『オールド・ゴースト・タウン』を聴いているいまこのときも、「NRQが『ワイド節』をカヴァーしたらおもしろいかもな」とか「私も楽器練習しようかな」とか「5月14日の彼らのレコ発(@マンダラ2)はどうなるのかな?」とか、私は触発され考えはどうどうめぐりするようでいて、彼らの音楽がそうであるように、螺旋を描き、あたらしい場所にたどりつきそうだった。
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カリブーとは、簡単に言えば、フォー・テットとともに聴かれてきた人である。2001年にマニトバ名義で〈リーフ〉から発表したデビュー・アルバム『スタート・ブレイキング・マイ・ハート』によって脚光を浴びた彼は、柔らかな抒情派エレクトロニカ路線をそのまま進むのかとおもいきや、セカンド・アルバムではソフト・ロック調のメロディを注入し、そしてカリブーと名前を変えてから発表した2005年の3枚目では、もしジャンル分けをするなら迷わずロックの棚に並べられるであろう作品を出している(ありがちと言えばありがちな、クラウトロック風味のロックだったが)。まあ、IDMスタイルからロックへ......これはこの10年におけるひとつの流れで、カナダ人のダン・スナイスもそのひとりというわけだ。ちなみに彼は数学博士である、見た目もふくめて。
彼はそして、〈シティ・スラング〉に移籍して2007年に『アンドーラ』を発表しているが、さすがにこれには参った。マニトバ時代から、彼の音楽には救いようのない楽天性があったとはいえ、まさかこの人がMGMTみたいなカラフルなサンシャイン・ポップスをやるとは、ショッキングでさえあった(......というほどではないか)。そしてマニトバ名義から数えて5枚目となる新作『スウィム』はダンス・ミュージックときた。最初は警戒した。この人と僕のあいだに接点はない、そう思っていた。が......、聴いているうちに緊張はほぐれ、感動が押し寄せてくる。それは驚くべきことに、まるでアーサー・ラッセルが歌っているようなダンス・ミュージックなのだ。そう、70年代のニューヨークを生きた偉大なるディスコの実験主義者、アーサー・ラッセルだ。彼の直接的な影響を感じる作品というのを僕は初めて聴いたかもしれない。アルバムのタイトルは"スウィム"――そう、おそらくは"レッツ・ゴー・スウィミング"(ラッセルの代表曲)からの引用だろう。
リキッド・ダンス・ミュージック――カリブーは自分のダンス・サウンドをこのように定義しているが、たしかにこれは揺れるような音に特徴を持つ。音は左右のスピーカーを時差を持って往復する。ドップラー効果めいた揺らぎが目眩を与える(これをちまたでは"ドップラー・エフェクト・ダブ"と呼ぶ)。そして......まさにラッセルのダンス・ミュージックがそうであるように、実にしっかりとしたベースがあり、そして、そう、深いエコーのかかった"歌"がゆらゆらと揺れている。もしいまラッセルが生きていてミニマル・テクノに興味を覚えたら、こんなアルバムを作っていたかもしれない(ラッセルは70年代、スティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスら、オリジナル・ミニマリストたちのグループにいた)。
カリブーは主に、セオ・パリッシュ、リカルド・ヴィラロボス、カール・クレイグ、ジェームズ・ホールデンらに影響を受けたと告白しているが、多くの人からアーサー・ラッセルとの類似点について指摘されていることも明かしている。「それを言われて嬉しかったんだ。なぜなら僕は彼の声が大好きだし」、カリブーは『ピッチフォーク』の取材でこう答えている。「この2年で、彼は僕のヒーローとなったんだから」
「泳ぎなさい」というタイトルは嘘じゃない。リスナーはこの数学博士の作った音の波を泳げるだろう。ユーモラスな"オデッサ"やドップラー・エフェクト・ダビーな"カイリー"も良いが、マニトバ時代のドリーミーなIDMサウンドをセオ・パリッシュがハウス・リミックスしたような"ボウルズ"の深いトリップがさらに良い(曲中ではアリス・コルトレーン的なハープの音が響く)。ディスコのベースがうなり、かたやメランコリックなシンセが波のように押し寄せる"ハンニバル"も忘れがたい。
アルバムの最後の曲にも美しい憂鬱の感覚がある。歌は空中を舞って、衝突して落下するように消える......ダンス・ミュージック特有の強烈なはかなさが漂う。もういちど、この独創的なカナダ人の音楽に耳を傾けてみようと思う。
90年代後半からノト名義でミニマル・ミュージックに手を染め、すぐにも実験的な体質を顕わにするようになったカールステン・ニコライは、いわゆるサイン波とパルス音の鬼と化し、00年代を通じてエレクトロニカからミュージック・コンクレートへの移行を促した重要人物のひとり。自身のラスター・ノートンから『プロトタイプス』(00年)でミル・プラトーへ移り、続いて01年にリリースした『トランスフォーム』ではリズム感でも優れたところを見せたにもかかわらず、そちらに歩を進める気配はなく、ミカ・ファイニオや池田亮司とのサイクロ、あるいはトーマス・ナック(元ジェイムズ・ボング!)とのオプトや坂本龍一とのジョイントを通じて試行錯誤の範囲をいまでも拡大し続けている。
オピエイトとの『オプト・ファイル』(01年)など、彼の抽象表現のなかにはアンビエントへと向かう感覚もなかったわけではないものの、この方向性が全開になったといえるのが(テイラー・デュプリーの〈12K〉がサブ・レーベルとしてスタートさせた)〈ライン〉から06年にリリースした『フォー』からだった。トッド・ドックステイダーズとの共作で知られるデヴィッド・リー・マイヤーズ(アーケイン・ディヴァイス)まで借り出してきた〈ライン〉は、ミニマルを基調としてきた〈12K〉に対してサウンド・インスタレイションのレーベルとして位置付けられているようで、その筋の先駆といえるスティーヴ・ローダンからマーク・フェル(SND)のソロなど、抽象表現のセンスは非常に幅広く設定されている。つまり、レーベル・カラーがアンビエント表現へと誘ったわけではなく、彼の実験的な感覚が自然と辿り着いたものがそれだったということになるのだろう。しかも、『フォー』の翌年にはアレフ-1の名義でアンビエント専門のプロジェクトもはじめられ、サンプリング(=コピー)を主体とした『ゼロックス Vol.1』(07年)、『ゼロックス Vol.2』も同傾向の作品としてカウントすることができる。
『フォー』から4年が経過した『2』は、ニコライ流の実験音楽がアンビエント・ミュージックの文脈に近接することで、まるでクラシック・ミュージックのような響きを帯びるに至っている(いわゆるクラシック・ファンには無理だろうけれど)。抑制されたシンセーストリングスや繊細で優しいメロディの繰り返しは即物的な音響表現がすべてだった過去とは(表面的には)まったく異質に感じられ、シルヴァン・シャボーやヨハン・ヨハンソンといった自意識の低いポスト・クラシカルとも距離を置いている。あくまでもエレクトロニカの発展形であり、その成熟したフォームといえる。この穏やかさは癖になる......『フォー』とは「葛飾北斎」や「ジョン・ケージ」などに向けられた「フォー」を意味していた(なぜかコイルのジョン・バランスまで含まれている)。『2』では、しかし、その対象は拡散し、完成度とは裏腹にこれといった焦点は持っていないようである。
国内盤は『フォー』(06年)とのカップリングで〈インパートメント〉から。
ポリフォニックな世界観に揺さぶりをかけるかのようなフォースフリーなギター・リフ。驚きだ。ハイ・プレイシズにまったく期待していない要素である。アルバム全編を支配する4つ打ちの力強さにも同様の意外性がある。が、このギターの重用と明確なビート感覚こそが、ハイ・プレイシズらしさの裏をかく今作の2大要素である。
アニマル・コレクティヴやギャング・ギャング・ダンス、ダーティー・プロジェクターズをはじめとしたブルックリン・アクトたちは、昨今のモードであるトライバル/プリミティヴィズムに先鞭をつけている。彼らはギター・リフという力の象徴のような方法論、「伴奏と歌」というような西洋音楽的でホモフォニックな構成を避け、4つ打ちなどもってのほか、小節線の見えるような截然としたリズム・パターンを避け、やわらかく世界と対峙する姿勢をひらいた。この手のスタイルの先例ならいくつもあるが、彼らには急速に進行するハイブリッドな世界にさらされた若者たちの、新しい態度表明のようでもあった。世界の底は抜け、拡張している。この世界をそれでも愛していくとすれば、どのような方法が可能だろうか。もちろんボアダムスからの影響も大きかったと思うが、その問いの上でチョイスされた"トライバル"でもあったのではないか......。
〈スリル・ジョッキー〉の男女デュオ、ハイ・プレイシズもブルックリン・アクトの重要なひとつである。『ハイ・プレイシズ・ヴァーサス・マンカインド』は2008年の『ハイ・プレイシズ』以来のフル・アルバムで、ふたりは今作であっと驚くモード・チェンジを果たしている。
スティールパンと抜けのいいメアリー・ピアソンのヴォーカル、わずかなディレイを伴ってひろがるサイケデリア、軽やかな打楽器。あのソフトでミニマルなハイ・プレイシズ・サウンド、そこに突如としてギター・リフと4つ打ちが闖入する。二元論的なアナロジーになるが、あらゆるものが融け合って存在する"女性的"な世界がこれまでのハイ・プレイシズなら、分節し、統制し、世界を動かす"男性的"な力が今作を色づけていると言えるだろう。これがタイトルにある「ヴァーサス・マンカインド」ということなのかもしれない。"マンカインド"は"人類"また"男性"の意だ。
冒頭の"ザ・ロンゲスト・シャドウズ"、続く"オン・ギヴィング・アップ"の2曲を聴いただけでも、そう解釈するのに充分だと思われる。独特の残響とスティールパン、トライバルなパーカッション、そして浮遊感あるヴォーカルという彼らのスタイルはもちろん生きている。だが、シンプルだが印象的なベース、圧倒的なヘゲモニーを持って打ち鳴らされる4分音符のキック――ぐっとロック寄りなサウンドになっている。ファズがかったギターとディレイの効いたスネアはセクシーでもある。"男性性"が強調されたからだろうか、メアリーのヴォーカルもとくに2曲目など随分と艶やかだ。〈イタリアンズ・ドゥー・イット・ベター〉あたりのつやっぽい女性ヴォーカルと並べても違和感がないだろう。
アルバムは、彼ららしいカリビアンで小作りなエクスペリメンタル・ポップを折々に交えながら進む。それでもやはり耳に残るのは"コンスタント・ウインター"や"ホエン・イット・カムズ"などのダンサブルでアシッドなロック・ナンバーだ。曲によっては『スクリーマデリカ』をも彷彿させる。
こうした傾向がいったい何を意味するのか、"マンカインド"との対決はどういう結末を導くのか、その点は判然としない部分もある。が、それでも、この10年トライバル・サウンドにつき合ってきた耳には、本作を新鮮に聴くことができる。
トライバルに関してはファッション・ブランドがいまになって追随しているようだが、今年に入ってアニマル・コレクティヴ・フォロワー(あくまでフォロワーに限る)を筆頭に、同傾向の新人バンドは急激に新鮮味を失っている。いまは何か新しいものをと人びとの心がはやるには、難しいタイミングかもしれない。さて、本作は今後10年にとって何かの火種となり得るだろうか。少なくとも、今年はじめて微かな異質さを聴き取った作品だった。
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60年代末のドイツのベルリンのコミューンから生まれたのがアモン・デュールなら、ハンブルグとブレーメンのあいだにある街、ヴュメの廃校のアート系コミューンを拠点としたのがファウストである。"なぜニンジンを食べないの?"というオモロい曲名と大胆なサウンドコラージュ、透明なヴィニールのレントゲン写真をアートワークとした彼らのデビュー・アルバム(71年)、言葉遊びやナンセンスを追求したミニマル・ポップの傑作『ソー・ファー』(72年)、そしてかのリチャード・ブランソンが契約を交わし、"カット&ペイスト"アルバムとしては世界で最初のヒットとなった『ザ・ファウスト・テープス』(73年)......"まともでない"クラウトロックの宇宙においてひときわ諧謔と知性を感じるのがファウストである。ファウストは、ポップの史学ではたびたび「スタジオを楽器として使用した最初のバンド」と記されるが、そのファウストのスタジオを使って録音されたのがトゥ・ロココ・ロットの新しいアルバム『スペキュレーション』というわけだ。
1996年に〈キティ・ヨー〉から最初のアルバムを発表した、ステファン・シュナイダー、ロナルド&ロベルトのリポック兄弟の3人によるこのバンドは、あの時代のポスト・ロックなる動きのベルリンからのアンサーとして注目された。潔癖性的なポスト・ロックとエレクトロニカを軸にしながら、彼らはアルバムを出すたびによりユニークなサウンドを手に入れつつあるように思う......というか、最初の2枚は毒に薬もならないポスト・ロックをそのまま体現しているバンドのひとつに過ぎなかったが、3枚目の『アマチュア・ヴュー』(99年)におけるメロウなサウンドでいっきに評価を高め、〈ドミノ〉に移籍してからの『ホテル・モルゲン』(04年)でもエレクトロニカの甘い享楽に耽っているという、悪くはないが積極的に話題にしづらいバンドだった。
が、オリジナルとしては6枚目となる今作で、3人のドイツ人はさらに前に進もうとしているのだろう、冒頭に書いたようにファウストのスタジオを借りて新境地に挑んでいる。言うなれば、クラフトワーク、プラッド、ブライアン・イーノの領域から、ファウストやクラスターのほうへと向きを変えているのだ。緻密に計画された実験から、どこへ行くのかわからない実験へとハンドルを切っている。より生々しい演奏に挑戦しているのである。
『スペキュレーション』はトゥ・ロココ・ロットのクラウトロック・アルバムである。ロマンティックでメロウな感覚はなくなり、乾いた遊びの感覚がある。1曲目の"アウェイ"と2曲目の"シーリー"は、失礼だがトゥ・ロココ・ロットとは思えないほどの躍動感があるり(とくにベース)、それは明らかにハルモニアを連想させる。もちろんハルモニアの複製ではない。これまで彼らが15年かけて磨いてきたエレクトロニック・サウンドとの有機的な結びつきにおいて、新たに更新されるクラウトロックである......と言ったら褒めすぎだろうか。
クラスターの電子の遊びを継承する"ホーシズ"も素晴らしい。広大な一軒家で暮らすメタルも絶賛の、4/4ビートが入った"フォワードネス"はトゥ・ロココ・ロットの真骨頂であるメロウなトラックで、今回の関して言えばアルバム全体のなかではむしろ異質である。この曲は先行シングルのB面に収録されている。
ベストトラックは"ウォーキング・アゲインスト・タイム"だろう。感傷主義からは100億光年離れた場所で鳴っている前衛的なパーティ・ミュージックだ。シングルではA面に収録され、シャックルトンがリミックスしている、ファウストのハンス・ヨアヒム・イルムラーが参加した"フライデー"は、クラスターとコンラッド・シュニッツラーの現代解釈である。しかも......シンセサイザーのリフはヘア・スタイリスティックスみたいなのだ。
まあ、だからこれまでのファンを裏切る作品であるとも言えるだろう。素晴らしいのは、ファウストのスタジオを使ったことがまったく無駄になっていないことだ。よく言う言葉で恐縮だが、楽しい実験である。
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"UKガラージ"がテムズ川から南に位置するクロイドン近郊で"ダブステップ"へとトランスフォームしたのは周知の通りである。そこからしっかりと広がって、あるいはインターネットや媒体などを通してウイルスの如く目まぐるしい速度で感染していったわけだ。いまは亡きクロイドンの伝説的レコード店〈Big Apple〉から育っていったダブステップの先導者たち――スクリーム、ハイジャック、ローファーなども、"ガラージ"というフィルターを通り、インスパイヤーされている。実は筆者は2001年から2004年までのあいだのロンドン在住中、サウスロンドンのクラハムノースに住んだことがある。が、当時サウスロンドンでこのようなムーヴメントが起こっていようとは知る由もなかった。たしかにクロイドンが位置する南ロンドン周辺は、古くからジャマイカン・ミュージックやジャングル、ドラムンベース、ガラージの恩恵を受けた音楽が豊富なエリアではあるが......。
"ガラージ"の未来を担い、ポスト・ガラージの最左翼と称される20代前半の若者が昨年クロイドンからまた現れた。たった1曲により世界中を席巻してしまったジョイ・オービソン――本名はピート・オーグラディ(Pete O'Grady)という青年のことで、2009年の代表的なトラックとして取り上げられる「ハイフ・マンゴ(Hyph Mngo)」を発表したプロデューサーである。アーバン・サウンドのセンスとアイデアとクロイドンならではのサブカルチャー、そして"ガラージ"......まさにこれぞ"ミューテーション(突然変異)"というに相応しい音楽である。
ジョイ・オービソンは、12歳からDJをはじめている。ハウスやUKガラージがその中心だった。そこから、エレクトロニック・ミュージックの知識を貯え、多様な音楽性のDNAを受け継いでいる。ゆえに彼がアーバン・ベース・ミュージックのネクスト・レベルを提唱するのも必然かもしれない。 最近では、ホセ・ジェームスの「ブラック・マジック」、フォ ーテットの「ラブ・クライ」などのリミックスでも評価を高めている。
今作「The Shrew Would Have Cushioned The Blow」は、〈シンプル・レコーズ〉主宰のウィル・ソウル(Will Saul)とフィンク(Fink:〈ニンジャ・チューン〉所属)のふたりが運営しているレーベル〈Aus Music 〉からのリリースとなった。トレブルやミドルレンジがあまり広く用いられないサブ・ベース主体のダブステップに反して、上質なトレブル・サウンド・コラージュがプログラムされている彼のニュー・ガラージ感覚が注がれている。
ひょっとしたら新たなサブジャンルの誕生かもしれない......ふたたびクロイドンから世界に向けて。そしてまたしても世界中で感染するのだろう。
この連載の2月でも紹介したサブトラクト(Sbtrkt)だが、UKガラージ色が濃かった変則ビートの「ライカ(Laika)」に続いて、〈ブレインマス(Brainmath)〉からミニマル x ガラージを基調とした大傑作EPが届いたので紹介しよう。タイトル・トラック"2020"は、アートワークが暗示するように近未来の世界を模写したシネマティックなサウンドで、ブリアルの浮遊間溢れるダーク・エレクトロニカ感覚をさらに押し上げ、深い叙情性に富んだアンビエント・ビートなトラックになっている。4つ打ちを取り入れたハード・ミニマルなドライヴ感と音響派コズミック・ガラージとでも言えばいいのか、その素晴らしい"ジャムロック( Jamlock )"、ディープ・ミニマル・ダブと共鳴するインダストリアル・ベルリン・ステップな"ワン・ウィーク・オーヴァー"、エレクトリックなシンセ群が魅力的に交感し、パーカッシヴなビートがそれをフォローするガラージ・ステップ"パウス・フォー・ソート"......収録された4曲すべてが素晴らしい。
サブトラクトは最近はリミックス・ワークも好調で、オリジナルにいたっては発表するたびに新たな試みが具体化されている。彼もまた、新世代の旗手としてジャンルレスな活動をしていくだろう......と言うよりすでに各方面で話題だが......。いずれにせよ、これこそ近未来のダブステップである。と同時に、実にDJフリンドリーなサウンド・パックでもある。
〈ノンプラス〉とは、ディープでアトモスフェリックなドラムンベースをリリースしていたインストラ:メンタル(Instra: Mental)主宰のレーベルである。インストラ:メンタルは、2009年に〈ノンプラス〉を立ち上げ盟友ディーブリッジ(dBridge)とともに「ワンダー・ウェアー/ノー・フューチャー」をリリースすると、続いてインストラ:メンタルの「ウォッチング・ユー/トラマ」を発表、シーンにディープ・ドラムンベースとでも呼ぶべき新風を巻き起こしている。ところが、2009年中頃からダブステップへとシフトしていくのである......もっともインストラ:メンタルの"音質"と"ダブステップ"との相性が抜群であったのは明らかだったのだが......。とにかく、彼らはダブステップへの転身により、アーティストとしてより輝き放ったのである。
転身したとはいえ、その作品の大半は、トライバル・ステップやドラムンベース・トラックの作品でお馴染みの、アトモスフェリックなテッキー・ダブステップである。現在彼らはコズミック・ステッパー、エーエスシー(ASC)と一緒にアルバムを創作中とのこと......まったく楽しみな話と言うか、DJセットにどう組み込むか期待は膨らむばかりだ。
そして、レーベル5枚目となったリリースは、先述のジョイ・オービソン「The Shrew Would Have Cushioned The Blow」のリミックスも務めたアクロレス(Actress)である。アクトレス(女優)......と言っても男性プロデューサーで、彼の本名はダレン・J・カニンガム(Darren J Cunningham)というのだが。
ビート職人としても名高い彼は、独特のビート・カットやハッシュする技術により、秀逸なエクスペリメンタル・トラックを世に送り出している。2004年にレーベル〈Werk Discs〉をスタートさせ、デビュー作「ノー・トリックス」を発表している。デトロイティシュなビート・マエストロとの好評価を受け、2008年には、ファースト・アルバム『ヘイジービル(Hazyville)』、2009年にはなんとトラスミー(Trus'me)率いるハウス・レーベルの〈プライム・ナンバー〉からディープな傑作「ゴースツ・ハブ・ア・ヘブン(Ghosts have a heaven)」をリリース、その多才ぶりを如何なく発揮している。
今作「マシーン・アンド・ボイス」は、彼の新境地とも言うべきエレクトロな高音色を多用した新感覚なビートスケープだ。一見ごくありふれたビートメインのトラックのように感じたのだが......聴いていくとビートのプログラミング構成がランダムかつグルーヴィーにどんどん変化していく。予測不能に陥るエクスペリメンタルなこのトラックは、フライング・ロータスをどこか彷彿させるのだ。ハッシュされたヴォーカル・サンプルの注入具合といい、奇才の風格が漂う彼ならではのビート・コラージュである。
いまもっともホットな......と言うか、流行っている......と言うか、制作者が目指しているといったほうが適切かもしれない。ダブステップのサブジャンルとして絶大な支持を得ているアトモスフェリック・ダブステップという潮流である。ロンドンの現在の事情に詳しい友人からそう聞いた。つまり、数年前のブリアルやコード9のようなアトモスフェリックな曲調は、あったことはあった......が、しかし、それを飲み込む程のダークな質感やインダストリアル・ノイズ・スケープといったものが上回っていたため、純粋の"アトモスフェリック"と言うものが流行りだしたのは、ここ最近に至っての話ではないであろうかと思う。どこか......このようなひとつのジャンルが派生していった流れは......と考えたとき、まったく同じ現象が時代を経ていま起こっていると気付いたのである。これは、90年代の中期に一世を風靡したドラムンベースのサブジャンル"アートコア"である。
先日、DOMMUNEで開催した「DBS・スペシャル」(これを開催するにあたり尽力して頂いた神波さん、サポートして頂いた野田さん、カーズ、宇川さん並びDOMMUNEスタッフの方々、そしてジンク&ダイナマイトMCの素晴らしいプレイに心よりお礼申し上げます)にて、野田さんが推奨した"変人"ゾンビーの2008年のアルバム『Where Were U In '92?』という作品名が語るように、彼はまさにジャングルに没頭していたわけだが、その後、同じようにクロイドンのダブステップ・リーダーたちもジャングル、とりわけアートコアはに創造性をよりかきたてられ、心躍らせていたことだろう。LTJブケムと〈グッド・ルッキング〉、オムニ・トリオ、〈ムーヴィング・シャドー〉やファビオの〈クリエイティヴ・ソース〉等々......である。そういえば、昨年、スクリームが実に面白い作品をリリースしている。シャイFX主宰の〈デジタル・サウンドボーイ〉からの「バーニング・アップ」だ。これがまた......ただのアートコアよりのレイブ・ジャングルなのだ。初期〈ムーヴィング・シャドー〉をそのままをスケッチしたようなその姿勢に、彼の少年時代の記憶を聴こえるようだ。アートコアが築いた偉大な足跡は、今日に至ってもさまざまなところで受け継がれているのである。
今回の作品「U / It's Over」は〈ボカ〉からリリースとなった。フランスのボンDとハンガリーのDJマッドによる共作だが、彼らの思考がアートコアに直結しているのは、この作品をもって証明できる。ブリージーな心地よさとファジーで温かみのあるその全体像は、コズミックな宇宙観とも違い、ファンクネス溢れるジャジー・ソール思考とも違う......やはりこれは、アートコア=アトモスフェリックなのだ。
DJの視点からみて、このうえなく重宝する作品と言うのは多々ある。DJミックスによって素材の重なり具合によって作品の表情が180度変わったり、そこから予想だにしなかったグルーヴが生まれたりと......ロング・ミックス/ブレンドをこよなく愛す筆者の三台ミックス・スタイルにとって、小節単位でミックス部分を計算し、レコードをサンプルのように使うこの方法は、シンプルなサウンドほど変化させがいがあり、そこに"ハマる"貴重なものを見つける快感があるというわけだ。
シンプルとはいってもごくありふれたトラックなら山ほどある。が、ここに、そうしたミックスのコンセプトに合致したトラックが、パンゲア(Pangaea)とラマダンマンのふたりが共同運営するディープ・ガラージ系のダブステップ・レーベル〈へッスル・オーディオ〉から出た。「パンゲアEP」に続いてリリースされたディープ・テッキー・リーダー、ラマダンマンのEPがそれである。ちなみにラマダンマンと言えば、〈へッスル・オーディオ〉の他、〈アップル・パイプス〉、〈セカンド・ドロップ〉、〈ソウル・ジャズ〉などからダブステップをリリースしている20歳そこそこの若手プロデューサー。今回は、高まる期待のなかのリリースである。
さて、それで1曲目に収録された"I Beg You "「I Bet You」だが、パーカッシヴなビートにシンプルなベースが呼応し、サイドエフェクト的に絡むヴォーカル・サンプルがうまいアクセントになっている。テック×ガラージに対しての回答とも言うべきリズム・プロダクションだ。"No Swing"はタイトル通り、スイングしない。ドラムの乱打にエレクトロニカ調のエフェクト・ピアノ、ピョンピョン跳ねるゲーム音を混ぜて、実に混沌とした、スイングしそうもない音である。が、しかし、これがまた実に面白いように展開しているのだ。「ノースイング=リズミカルでなく調子が悪い」とは良く言ったもので、これはコミカル感覚なノースイング・ステップだ。
続く"A Couple More Years"も、ちょっとおかしなチープでバウンシー・ベースがメインラインのトラックだ。意外とミニマルにミックスすれば、新たなテイストが現れるかもしれない。最後の"Don't Change For Me"は彼のルーツを掘り下げているようだ。レイヴ・ジャングルのアーメン・ビーツをプログラミングしているあたり、彼の好みがうかがえる。ラマダンマンはテッキーではあるが、ミニマルなトップ・アーティストたち(スキューバ、マーティン、2562等々)とはまた一線を画したセンスがあるのだ。明らかに"並"ではないその変化に富んだプロダクションは、いまだ底が見えそうにない......。ヴィラロボス、フランソア・K、ジャイルス・ピーターソンらがラマダンマンのトラックをスピンするところに、彼のユニークな存在感が証明されている。