「Wire」と一致するもの

interview with Tomoko Sauvage - ele-king


Tomoko Sauvage
Musique Hydromantique

Shelter Press

AmbientExperimental

Amazon

 Mark Hollisのように1枚の傑作を残せれば、その作品を最後に音楽をやめてもいい。とずっと思ってきた。けれど僕自身はいまだにそういう作品をつくれていない。
 去年の10月ごろ一時帰国したパリ在住のトモコさんと、町田良夫さんの家で食事をした。その時に、8年ぶりの新作をリリースするというトモコさんが「この作品が出せたら、もうこういう音楽をやめてもいいと思ってる」と言っていた。その作品『Musique Hydromantique』は、ele-kingでもデンシノオトさんのレヴューや、WIREなどの海外のメディアでも話題になっている。

 個人的に90年代後半から00年代中盤までは、デジタル・テクノロジーが音の世界でどこまで何ができるのかという、先が見えない楽しさの中で動いていた。グラニュライザーやロング・ディレイが一般的になった頃からアンビエントやドローンの量産がはじまって、デジタル・ミュージックへの関心が急になくなった。ちょうどその頃、西洋医学から東洋医学への意識の移行もあったので、時代に動かされた要素も大きいだろう。仲のいい友だちもライヴでラップトップを使わなくなりはじめたのは00年代後半。それからちょうど10年を経て1周したように個人的にはデジタル・テクノロジーおよび西洋医学の再評価がはじまってはいる。

 そんな流れの中で、即興演奏を加工・編集なく構成されたトモコさんのこのアルバムは、アナログな音を即興的にデジタルで加工して演奏をする。という、この時代を象徴するひとつの演奏スタイルの集大成的な作品のように思う。特筆すべきは、デジタル・リヴァーブ全盛の時代に大きな楕円形の会場でジェネレックのモニタースピーカー10台を鳴らすことで作り出したアナログ・リヴァーブを収録した1曲目だろう。
 最近は、アナログよりもデジタルの方がいい音楽も増えてきている中で、この音楽は、レコードの方が圧倒的にいい。はじめの数秒でそう確信してクレジットをみるとマスタリングはRashadBecker。初回限定版のクリスタル・レコードとジャケットのデザイン、そして音の透明感……、針を落とした30秒後には2017年のベスト・アルバムが決まった。

 音楽にとっていまも昔も変わらない大切なことは、音が「生じる」というその瞬間の神秘性だと僕は思っている。その音の発生する「瞬間」、そしてテクノロジーも含めた「現在」にこだわり続けて10年。ついに完成されたTomoko Sauvage(トモコ・ソヴァージュ)の音楽は、人類史にしっかりと刻まれる傑作だ。
 音の振動は周囲に影響を与えながら減衰していく。その影響は永遠に消えることはない。フランスから届けられたこの音楽が、世界中のあらゆる時間と場所で再生され、世の中の振動が、静逸な調和へと導かれることを心から願う。そんな想いもあってレヴューを書きはじめて、トモコさんにインタヴューまでしてしまったので、それを共有させてください。

水かさを変化することによって、調性、ハーモニーを少しずつ変えていっていますが、やっているのはそれだけです。録音は、西南仏の田舎のとある村にあるフェスティヴァルで、会場に使われた、いまは使われていない公民館のようなところで録音しました。

録音の環境や、機材に関して教えてください。

T:録音に関してですが、すべて4トラック、2本のマイク(ノイマンのKM184ステレオ)と、ミキサーからのステレオアウトです。
 ハイドロフォン(Aquarian Audio / H2a-XLR)は私は楽器の一部としてとらえています。waterbowlsは、大きさの異なる6つの磁器のボウルです。白磁で有名なフランス、リモージュ市のセラミック研究所で作ってもらいました。リムザン地方の山の中にある La Pommerieというアーティスト・レジデンスでのプロジェクトの一環です。いちばん大きいものは直径50センチほど、小さいものは直径20センチほど。水の量によって音程を調節します。それぞれのボウルの水の中にハイドロフォンを沈めて、左手で常にフェーダーの操作できるよう、私の左手にミキサー。右手は水の中、左手は乾いていてフェーダーの上、という感じで演奏をしています。レコードのジャケット写真のように、氷のしたたる音を使っていると思われる方が多いのですが、もっと簡素なドリップシステムで水滴をたらしています。ジャケット写真は、楽器から派生させたインスタレーション作品(2010年)のベルリンでの2度目の展示風景です
 磁器のボウルは私の身体の一部とでも思えてしまうぐらい、大切なものです。飛行機の移動で何度か割れてしまい、トイレで泣いたこともあります。氷が落ちてきたら嫌なので、私の大切なボウルの上には絶対つるしません! 壊れた破片をヤスリで磨いて、それでインスタレーション作品を作ったこともあります。インスタレーション用のボウルは、お店で買えるものを使っています。
 ここ8年間で、25カ国、100回以上コンサートをするうちに、ルーム・アコースティックにものすごく左右される楽器だということ、それをいかにコントロールするかを探ってきました。やっとマスターできた、と思えたのは去年あたりからです。スピーカーの数、位置、それからもちろんミキサーやミキサーのEQなどのクオリティやなどでもものすごく変わります。

それぞれの曲について教えてください。

1曲目:Clepsydra

T:2009年のアルバム『Ombrophilia』でも多用した、水滴でボウル鳴らすテクニックです。ボウルの水かさを変化することによって、調性、ハーモニーを少しずつ変えていっていますが、やっているのはそれだけです。録音は、西南仏の田舎のとある村にあるフェスティヴァルで、会場に使われた、いまは使われていない公民館のようなところで録音しました。楕円形、3層、真ん中が吹き抜けの変な構造になっていて、オーガナイザーが音響に詳しい方だったので、いろんなところにいろんな種類のスピーカーを置いてもらって、建物全体が良く響くようにしてくれました。
 スピーカーの一部として、ジェネレックの小さいスタジオモニター用スピーカーを10台位設置してくれたり、かなり豪華に音響を施してくれました!
 こういった、理解あるオーガナイザー、エンジニア、そしてそれをサポートする国の補助金(税金でまかなわれている)によって、私の音楽は育てられたと思っています。今回は全てフランス国内のそういった、オーガナイザー(でも彼ら自身もミュージシャンなど、若い人たち)のサポートによって録音を実現出来たので、アルバムはフランス語のタイトルにしています。ときどき建物がきしんで、みしみしする音が入っていますが、これは狙いではなく消せなかったものです。

2曲目:Fortune Biscuit

T:気泡の出る素焼きのセラミックを水に沈めることによって音をならしています。泡がはじける音、泡が穴から出てくる時の音が、毎回違うので、フォーチューンクッキー(アメリカ系中国の、中にメッセージが入ったクッキー)にちなんでタイトルをつけました。ビスキュイは、そういった素焼きのフランス語名です。これはマットな音環境の普通のスタジオで録音しています。80年代のソニー製のお宝高音質オープンリールで録音しています。

奇跡を信じて強く生きていかなければならなかった時期、フィードバックがきれいに鳴ることに、一種の奇跡を感じていたというか、日本語で言うと願掛けみたいのかな。強く祈るような気持ちが私の編み出したフィードバック奏法と密接につながっていると思います。

3曲目:Calligraphy

T:これは、私がここ8年以上オブセッションのように追求してきた、ハイドロフォンとスピーカーのフィードバックで演奏しています。もともと手芸用品のDMCの工場で、今はがらんどう、コンクリート、天井高6、7メートル、その部屋は小さめの35-40平米位だったと思いますが、残響が10秒ぐらいある、いままででも最高の音響で録音しています。スピーカーは4台のNEXO。普段は鳴らない周波数のフィードバックもどんどんなって、もう奇跡じゃないかと思うくらいすごかったです。以前鈴木昭男さんが、残響のあるところで笛を吹くと自分が天才になったみたいに上手く吹けるけど、野っ原に行って吹くと途端に天才じゃなくてがっかり、とおっしゃっていました。残響があるところだと鳴る以前の音が鳴るんだ、というような言い方をされていましたが、このフィードバックもそういうことですよね。フィードバックって、なんか幽霊みたいですよね。
 電気も音も目に見えないものだから、幽霊的なものがあるような気がします。
 時々どこからきているかわからないノイズとかがのったりして、すべて科学で証明できるものとはいえ、それでもなにか神秘を感じてしまうのです。
 じつは、当時3歳だった娘の病気が発覚したのが2013年の4月、その約4ヶ月後の演奏、録音です。
 奇跡を信じて強く生きていかなければならなかった時期、フィードバックがきれいに鳴ることに、一種の奇跡を感じていたというか、日本語で言うと願掛けみたいのかな。強く祈るような気持ちが私の編み出したフィードバック奏法と密接につながっていると思います。
 それで『Musique Hydromantique』というタイトルです。古代ギリシャなどで行われていた水占い。現代では占いの結果をどう解釈するかは個人の自由だし、それよりも、占う時の強い気持ちに、なにか意味があるんじゃないかと……
 “Calligraphy”では、複数のボウルの複数の周波数のフィードバックが同時に鳴っています。これ実は結構コントロールが難しいのです。左手でミキサーのフェーダーを超微妙にコントロールしながら、増幅しつつある周波数に耳を傾けて音が強くなりすぎないよう注意を払いつつ、減衰しつつある周波数のフィードバックを増幅するべきフェーダーをアップして……
 バランスポイントを微妙にキープし続ける、集中力を要するプロセスです。この録音ではそういった、瞑想に近い集中力に達することができたと思っています。
 それから、水を揺らし波を作ることで、増幅しつつある周波数が落ち着くんです。
 また、こぶしを水に浸すことによって水かさを増やすことも、増幅しつつある周波数を落ち着かせるテクニックです。その時にできる、カーブ、音楽用語でいったらポルタメント、グリッサンド、ピッチベンドが、とにかくすごく好きなんです。母書道をやっていた母が、完璧な美しいライン、カーブを描くために執拗に練習していたのを見て育ちました。なんかそれに通じるものがあるなーと思ってのタイトルです。インド音楽のガマカなんかに通じるものがすごくあるとも思っています。
 と、とにかく奥深くて、ここ8年間の私の人生の半分位をしめた(!)といってもいい水のフィードバック奏法、語り始めたら止まりません(笑)。
 ちなみに、フィードバックは、幽霊を写真に撮るように、録音が非常に難しいと感じます。一度録音エンジニアと語ってみたいです! 素人として思うのは、フィードバックって、フィジカルに身体に貫通する、骨で聴く音なのではと。身体で直接ヴァイヴレーションを受け取るというか。マイクはそれを感知できないところがあるみたいで、毎回録音に非常に苦労しました。
 実はこの3曲目も、もともと録音状態がひどくて、アナログやデジタル技術を駆使して友人に修復してもらったものなのです。この難しさが今回のアルバムに時間がかかったいちばんの理由です。
 余談ですが、つい先日スウェーデンでのコンサートで、私の到着時にエンジニアがスピーカーチェックのためにこのアルバム、『Musique Hydromantique』をかけていて、ああ音悪いなあと思いながら聴いていて、実際サウンドチェックしたらすごく音がよかったので、音が悪いのはアルバム……。次作は本当の音にもっと近づけるように頑張ります。

この作品を出したらこういう音楽をやめてもいい。とおっしゃっていましたが、WIREなどの世界中のメディアから反響を受けたあと、その心境に変化はありましたか?

T:ええええ、そんなこと言いましたっけ!? 全然覚えがないです。もしかしたら、次へ進むという意味で、違ったスタイルを追求したいという意味で言ったのかもしれませんね。以前から、この楽器は、私の幸せにしてくれる魔法の楽器だと感じていて、誰もよんでくれなくなっても一生演奏し続けているとおもいますよ。先週もレコーディングしていて、楽しくて仕方なかった。次作、早く出したいです。『Musique Hydromantique』はもうだいぶ時間がたってしまい、私がいまやっている演奏スタイルとはだいぶ異なりますが、次作は全然違った雰囲気になると思うので期待していてください(笑)!

資本主義リアリズム - ele-king

内面は疲れ果て、いまぼくたちは永遠に魂を失う。 ──ジョイ・ディヴィジョン“ディケイド”

資本主義リアリズムがこうも網羅的で、現在の抵抗の形がこうも絶望的かつ無力であるなら、実のある異議申し立てはどこから来るのだろう? 資本主義がいかに苦しみをもたらすかを力説するモラル的な批判は、資本主義リアリズムを増長させるだけだ。貧困、飢餓、戦争は、現実の避けられない一面として描かれ得るが、こうした苦しみを無くせるかもしれないという希望となれば、しばしばナイーブなユートピア主義のレッテルを貼られれてしまう。資本主義リアリズムを揺るがすことができる唯一の方法は、それを一種の矛盾を孕む擁護不可能なものとして示すこと、つまり、資本主義における見せかけの「現実主義(リアリズム)」が実はそれほど現実的ではないことを明らかにすることだ。  ──マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』


 待望の翻訳だ。妥協のない厳しいメッセージではあるが、率直で勇敢な本だ。ある意味気が滅入るかもしれないが、世界を変えようと真剣に考えている。なんにせよ、昨年1月に自害したイギリスの批評家、マーク・フィッシャーが2009年に発表した『資本主義リアリズム』、彼の代表作がついに日本語で読める。
 ジャンル的に言えば、現代思想に精通している人が評すべき本だと思うが、サイモン・レイノルズが嘆くように、音楽についての文章がただ音楽のためだけの文章になってしまった今日、同調主義的かつナルシスティックなFacebookやインスタのようなネット文化ではないそのオルタナティヴにおいて、フィッシャーはただ音楽のためだけではなく音楽についても書き続けた人でもある。読みやすい本だし、音楽好きにも読んでもらいたいと思うがゆえに自分で書くことにした。
 だいたいフィッシャーは、いまのところ公式では最後にURを取材した人である。2007年の『WIRE』誌に掲載されたそのインタヴューの一部分は、拙著『ブラック・マシン・ミュージック』の新装版のあとがきに引用させてもらった。もうひとつ、彼こそはBurialないしはダブステップをを論じた第一人者であり、現代においてジョイ・ディヴィジョンを論じ直した人だ(あるいはリアーナのようなポップスターについてとか)。レディオヘッドについて書いている文章は読んだことはないが、いずれにせよ、この本を避けて通ることはできない。

 が、おそらくぼくたちはそれをいつの間にかずいぶんと避けてきているかもしれない。避けているとういよりは、慣らされてしまったというか、ほぼ盲従しているというか。たとえばの話、ぼくたちはなんとなくハリウッドがろくでもないバビロンかもしれないと思っている。そのハリウッドではいまどきのトピックの社会派の映画が優秀な人材を配して作られる。そして言う。いや、ハリウッドだろうとないよりはマシだと。この「マシ」にはかなりの説得力がある。
 数年前『パレード』という映画があった。80年代の炭坑夫とゲイが共同してデモをするという、言うなれば集団的オルタナティヴの形成に関する美しい実話をもとにしたイギリス映画で、いまでもぼくは人に薦めたいと思っている。が、その物語は、サッチャーから炭坑廃止をめぐって「それしか道はない」と強制/提言されたことで生じた労働者階級の「亀裂」については突っ込んでいない。資本主義リアリズムはその「亀裂」に深く関わっている。それはジェイムス・エルロイの「ノワール」とも、ギャングスタ・ラップにおける「リアル」とも連なる。
 
 ギャングスタ・ラップとは、その支持者がしばしば主張するように、既存の社会状況を単に反映したものでもなければ、その批判者が主張するように、そうした状況をただ引き起こすものでもない。ヒップホップと後期資本主義の社会的フィールドが互いに浸透し合う回路はむしろ、資本主義リアリズムがアンチ・神話的な神話と化すところと通底している。(本書より)

 本書の特徴は、まずは「ポストモダニズム」よりも「資本主義リアリズム」という用語を優先して使っている点にある。フィッシャーは、サラヴォイ・ジジェクのようにいくつかの映画を解読しながら、複数のアングルから「資本主義リアリズム」なるものを暴いてみせる。そのひとつに、ポスト・フォーディズムの問題がある。いま企業で働いている人たちには身近な話で、これから働く人たちにとってもじつにシリアスな問題だ。

 というのも、ごくまっとうな理由からではあるが、四十年間も同じ工場で働き続けるのはごめんだと思ったのは彼らだから、左派はいろいろな意味で、フォーディズム的バランスを崩し、そしてそのことから未だに立ち直れていないままでいる。特に英国では、労働者階級の伝統的な代弁者、つまり労働組合と労働党の幹部らによって、フォーディズムはむしろ都合が良すぎた。安定した階級対立によって彼らの役割は保証されていたというわけだ。しかしその結果、ポスト・フォーディズム的資本主義を唱える者として容易に自己アピールすることができた。(本書より)

 新自由主義が基本的に人の弱みや満たされない欲望につけ込んで入ってくることは、我が国の政治家たちを見れば一目瞭然であり、歴史の分水嶺ともなったサッチャーの言葉=「これしか道はない」は、訳者もあとがきで指摘しているように安倍内閣が執拗に使っているフレーズでもある。フィッシャーが言うように「反国家主義的なレトリックを明示しているにもかかわらず、新自由主義は実際のところ、国家そのものに反対しているのではなく、むしろ公的資金の特定の運用に反対しているのだ」。そして、こうした新自由主義(非道徳的な合理性)と新保守主義(道徳的で規制的な合理性)は、たがいに矛盾しながらも「資本主義リアリズム」のなかで融合する。
 その結果、現在ぼくたちは自由にお買い物を楽しみ、そして自由に転職して失業するという不安定さのなかで生きる/死ぬことを甘受している。ラップのMCバトルは、あらかじめ敗残者に溢れた世界を生きることを前提とする社会、それが当たり前(リアル)だと思わせるという点で「資本主義リアリズム」を補完する。それは起業家ファンタジーとの親和性を高めるはするものの、みんなが勝利する世界をますます想像しづらくする。
 ラップだけのことではない。それはありとあらゆるものに接続可能だ。社会貢献が好きなボノのような人がつい口にしてしまった「パンクやヒップホップは硬派な商業主義」という言葉から漏れている「資本主義しか道はない」という合意にも通じる。
 インディーズやオルタナティヴも他人事ではない。インディーズやオルタナティヴがメインストリームの外部にあるのではなく、「メインストリームに従属しているどころかそのなかでもっとも支配的なスタイルにさえなっている」ことは、Jポップやファッションを見ていてもわかる。それはテクノやレイヴ・カルチャーがEDMや企業イベントに吸収されたことや、リヴァイヴァルと冷笑主義ばかりが繰り返され、新しいモノが生み出せなくなってきている文化的膠着状態ともリンクしている。いや、「新しいモノ」は出てきてはいるかもしれない。が、「経済的効果」を生み出せないがゆえにメディアで紹介されない、されなくて当然となっている、日本ではいまにはじまったことではないが。
 「資本主義リアリズム」におけるこうした文化の衰退、そして誰もが幸せな未来を描けなくなっていることへの無力感、あるいは、健康や禁煙を奨励するいっぽうで、統計的にもその疾患者の増加が目覚ましいのに関わらず、政治経済からは放置され続けるうつ病/情動障害……これら「資本主義リアリズム」の異常さをフィシャーはとことん見逃さない。

 早とちりしないで欲しいのは、本書は「またかよ」の新自由主義批判ではないということだ。最近問題視されている奨学金制度もそうだが、金利の値下げによりまずは人びとを債務者にする新自由主義にもほころびが起きている。フィッシャーが「新自由主義は必然として資本主義リアリズムであったが、資本主義リアリズムは必ずしも新自由主義である必要はない」というように、実際いまぼくたちはトランプ政権やイングランドのEU離脱という出来事を目の当たりにしている。そしてディスピアを量産することはできても(ディストピアを描くことは現状認識という点において重要だと思うが)、ユートピアを想像できないままでいる。
 「Is there no alternative?」、オルタナティヴはないのか?(選択肢はないのか?)が本書の副題となっているが、フィッシャーは彼なりに未来への手がかり(実験的かつ実践的なオルタナティヴ)をある程度まで具体的に書いている。興味深いことに、毛利嘉孝のようにUKのポスト・レイヴ・カルチャーをバックボーンに持つ彼は、東浩紀のようにポストモダニズムの「大きな物語」批判を超克するための、左派の新しい目標として一般意志という概念の再興を説いている。(そして、原書で読んでいる高橋勇人がぼくにしつこく言ってくるのは、ポストモダニズムの限界とうつ病というテーマにおいて、國分功一郎的でもあるということ)

 フィッシャーが48歳で自ら命を絶ったということもあってか、いまUKの大学生のあいだでは、およそ10年前に著されたこの本がさらにまた読まれているという。学生はカスタマー(顧客)ではないし、公的サーヴィスはビジネスであってはならないのにビジネスにすらなっていないという現実。人口減少にも関わらずマンションが新築され続けるように、多国籍企業の店舗を破壊したところで破壊されることのない「資本主義リアリズム」。フィッシャーの意見をすべて肯定する必要はないだろうけれど、手遅れにならないためにも、その実体を確認することは急務だろう。

Various Artists - ele-king

野田努

 ま、とりあえずビールでも飲んで……かつてUKは自らのジャズ・シーンを「jazz not jazz」(ジャズではないジャズ)と呼んだことがある。UK音楽の雑食性の高さをいかにも英国らしい捻った言葉づかいであらわしたフレーズだ。これこそジャズ、おまえはジャズをわかっていない……などなど無粋なことは言わない。ジュリアードやバークレーばかりがジャズではないということでもない。何故ならそれはジャズではないジャズなのだから。

 そのジャズではないジャズがいま再燃している。昔からUKは流れを変えるような、インパクトあるコンピレーションを作るのがうまい。編集の勝利というか、ワープの“AI”シリーズやハイパーダブやDMZなどを紹介した『Warrior Dubz 』のように。『We Out Here』もそうした1枚だ。アルバムには、近年「young British jazz」なる言葉をもって紹介されている新世代ジャズ・バンドたちの楽曲が収録されているわけだが、その中心にいるのはシャバカ・ハッチングスである。

 いまやシーンのスポークスマンにもなっているシャバカ・ハッチングスは、同じサックス奏者であることからUK版カマシ・ワシントンなどと形容されているけれど、彼はもっと泥臭いというか、ストリートの匂いがするというか、強いてたとえるならシャバカは21世紀のコートニー・パインだろう。ロンドンに生まれ幼少期をバルバドスで過ごし、16才でブリテン島バーミンガムに移住したときにはクラリネットを手にしていたという彼は、ここ10年、UKジャズ・シーンのさまざまな場面に関わってきている。

 近年ではメルト・ユアセルフ・ダウンでサックスを吹き、ザ・コメット・イズ・カミングやサンズ・オブ・ケメトなどの別プロジェクトも手掛けている。いまもっともロンドンで熱いと思われる街、ペッカムから生まれたYussef Kamaalのアルバムにも参加しているし、2016年は Shabaka And The Ancestors名義のアルバムをリリースしている。そして、21世紀のUKジャズの現場で演奏し続けているシャバカは、自らの大きな影響としてジャズ・ウォリアーズの名を『Wire』誌の取材で挙げている。

 ジャズ・ウォリアーズは、ワーキング・ウィークやシャーデー、ジャズ・レネゲイズら80年代後半にニューウェイヴとリンクしながら注目を集めた、白いUKジャズ・シーンにおいてメンバー全員が黒人という当時としては異色の存在だった……そもそもジャズ・ウォリアーズはUKにおいて初の黒人ジャズ・オーケストラだった。コートニー・パインはそのバンドのリーダーだった人だ。

 ジャズ・ウォリアーズは、伝統的なジャズに囚われず、レゲエやアフロなど雑食的な演奏を展開した。その音楽に対する自由なアプローチがアシッド・ジャズとリンクし、そしてドラムンベース/ブロークンビーツとも共鳴した。こうしたUKにおける黒いジャズ(ノット・ジャズ)──エクレクティックで、マルチカルチュアルなその現在形のドキュメントが『We Out Here』というわけだ。

 アルバムは、2017年8月、3日間に渡って録音されている。ジャケットに貼られたステッカーには「THE NEW SOUND OF LONDON JAZZ」を記されている。参加した9組のうち7組が白黒混合、2組が全員アフリカ系だが、いくつかの演奏ではメンバーは何人か重なっているので、ひとつの音楽コミュニティの記録とも言える(つまり本作もひとつのコミュニティによる1枚のアルバムだと言える)。

 『We Out Here』には伝統と現代性、精神性と政治性が入り混じっている。アルバムはMaishaによるアリス・コルトレーン風のスピリチュアルな曲ではじまるが、続くEzra Collectiveの曲はそのままダンスフロアに繋げることができるだろう。本作には収録されていないが、Ezra Collectiveの昨年のアルバムにはベース・ミュージックを通過した感覚で演奏されるサン・ラーの“Space Is The Place”がある。そして、すでに広く注目を集めているドラマーのMoses Boydのバンドは、エレクトロニクスとアフロビートを組み合わせながらダブの境地へと突き進んでいく──。収録曲の解説は小川充さんにまかせるとして、アルバムの中核となるのはシャバカ・ハッチングの“Black Skin, Black Masks”になるわけだが、そう、この曲名は反植民地主義の先駆的思想家、フランツ・ファノンの『黒い皮膚・白い仮面』のオマージュである。

 『We Out Here』(私たちはここにいる)という、音楽的にも政治的にもどちらにも解釈できるこの堂々たる題名からもわかるように、ここには今日のUKブラックの秘めたる思いが記述されている。昔のラフトレードのコンピレーションにザ・スリッツやザ・レインコーツがいたように、女性3人を中心とするKokorokoのようなバンドもいる。また、ラフトレード時代の比較でもうひとつ言うなら、あの時代のUKはジャマイカだった。『We Out Here』はアフリカである。

 ※シャバカ・ハッチングスによるThe Comet Is Comingの新作『Channel Spirit』は〈リーフ〉からリリース予定。Sons of Kometのアルバム『Your Queen Is A Reptile』(あんたの女王は爬虫類)はユニーバサルから3月に発売。アルバム収録曲のひとつは、“俺の女王はアンジェ・デイヴィス”。また、『We Out Here』に参加した(ポスト・フライグ・ロータスの呼び名高い)Joe Armon-Jonesの新作も春頃には〈ブラウンズウッド〉からリリース予定。

野田努

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小川充

 いまから20年ほど前のロンドンでは、北西部のラドブローク・グローヴを中心にブロークンビーツのムーヴメントが盛り上がりはじめ、俗にウェスト・ロンドン・シーンと呼ばれていた。ジャズ、ヒップホップ、ハウス、テクノ、ドラムンベース、レゲエ、アフロ、ファンクなどを立体的に融合したブレイクビーツというのがブロークンビーツだが、それはロンドンの折衷的で雑食的な音楽文化を象徴するものでもあった。そしてここ1、2年、今度は南ロンドンで新たなジャズ・ムーヴメントが注目を集めている。かつてのウェスト・ロンドン・シーンを思い起こさせる動きで、このムーヴメントは南ロンドンにあるペッカムという街を中心としている。もともと治安が悪かったこの地区だが、近年はレコード・ショップやインターネット・ラジオ局、ギャラリーやバーなどが生まれ、アーティストや若者が集まり始めているという状況だ。このペッカムを拠点とするレーベルに〈リズム・セクション・インターナショナル〉があり、ディープ・ハウスを軸にブロークンビーツやジャズなどクロスオーヴァーな音楽性を志向する作品を紹介している。〈リズム・セクション・インターナショナル〉からは鍵盤奏者のヘンリー・ウーことカマール・ウィリアムズが作品を出しているが、彼とユナイテッド・ヴァイブレーションズというバンドのドラマー、ユセフ・デイズの組んだユゼフ・カマールが登場したのが2016年。この頃から南ロンドンのジャズ・シーンがクローズアップされるようになっていく。

 このムーヴメントの代表的なミュージシャンには、ヘンリー・ウーやユセフ・デイズ、ユナイテッド・ヴァイブレーションズ以外に、ドラマーのモーゼス・ボイド、サックス奏者のテンダーロニアス、シャバカ・ハッチングス、ヌブヤ・ガルシア、キーボード奏者のジョー・アーモン=ジョーンズ、ベーシストのマックスウェル・オーウィンなどがいる。
 それぞれのソロ作やプロジェクトのほか、横の交流やセッションも盛んで、なかでもモーゼス・ボイドはもっとも早くから注目を集めていたひとりだ。サックス奏者のビンカー・ゴールディングとフリー・ジャズ・スタイルのデュオを組むほか、エクソダスというクラブ・サウンド寄りのプロジェクトでも活動する。このエクソダスのようにドラマー以外にビートメイカーという側面も持ち、昨年リリースしたEPの『アブソリュート・ゼロ』ではフュージョンとフットワークを融合したような世界を見せている。一方でジャズ・シンガーのザラ・マクファーレンのアルバム『アライズ』をプロデュースし、ジャズとジャマイカ音楽を結ぶなど多彩な音楽性を持つ。テンダーロニアスも同様にビートメイカー/プロデューサーでもあり、〈22a〉というレーベルも運営し、ユセフ・デイズらと組んだルビー・ラシュトンというユニットのアルバムも出している。
 シャバカ・ハッチングスはジ・アンセスターズ、サンズ・オブ・ケメット、ザ・コメット・イズ・カミング、メルト・ユアセルフ・ダウンなど様々なユニットで演奏し、前述のザラ・マクファーレンの『アライズ』やユゼフ・カマールの『ブラック・フォーカス』にも参加していた。サンズ・オブ・ケメットとメルト・ユアセルフ・ダウンではトム・スキナー(ハロー・スキニー)と組むなど幅広い音楽交流を持つ。ジョー・アーモン=ジョーンズはファラオ・モンチのヨーロッパ・ツアーでバックを務めたエズラ・コレクティヴというユニットに参加する。このエズラ・コレクティヴはザラ・マクファーレンを交えた作品のほか、昨年は『ファン・パブロ:ザ・フィロソファー』というEPをリリースし、サン・ラーのカヴァーを披露していた(ちなみに、このEPのエンジニアはフローティング・ポインツのサム・シェパードがやっている)。
 また、ジョー・アーモン=ジョーンズはマックスウェル・オーウィンと共同でEP『イディオム』もリリースしているが、この『イディオム』や『ファン・パブロ:ザ・フィロソファー』には女流サックス奏者のヌブヤ・ガルシアも参加する。彼女もレーベル運営とイベント主催を両立させる〈ジャズ・リフレッシュド〉からリーダー作を出し、そこにはジョー・アーモン=ジョーンズとモーゼス・ボイドも参加するという間柄だ。〈ジャズ・リフレッシュド〉は近年のロンドンのジャズ・シーンを支える存在で、リチャード・スペイヴンやカイディ・テイタムなどキャリア豊富な面々から、マイシャ、トライフォース、トループ、ダニエル・カシミールなど新鋭や若手が作品をリリースしている。

 ジャイルス・ピーターソン監修による新しいコンピ『ウィー・アウト・ヒア』は、こうした南ロンドンの新しいジャズ・ムーヴメントを伝えるものだ。音楽ディレクターをシャバカ・ハッチングスが務め、彼のほかにモーゼス・ボイド、エズラ・コレクティヴ、ジョー・アーモン=ジョーンズ、ヌブヤ・ガルシア、マイシャ、トライフォースらが新曲を披露している。
 マイシャの“インサイド・ジ・アクション”はスピリチュアル・ジャズで、エズラ・コレクティヴの“ピュア・シェイド”はアフロ風味のジャズ・ファンク。モーゼス・ボイドの“ザ・バランス”はコズミックなフューチャー・ジャズで、ヌブヤ・ガルシアの“ワンス”はストイックなモーダル・ジャズと、それぞれジャズと言ってもタイプの異なる作品を演奏しており、こうした間口の広い点がロンドンらしさの表れでもある。ジョー・アーモン=ジョーンズの“ゴー・シー”はフュージョン的な作品だが、そこにはダブやUKクラブ・ミュージックのエッセンスも注ぎ込まれている。
 UKのジャズ・シーンはアシッド・ジャズの昔からクラブやDJサウンドと密接な繋がりを持ち、お互いに作用し合ってきた。かつてのウェスト・ロンドン・シーンに登場したカイディ・テイタムもそうした流れに位置するミュージシャンであるし、近年であればリチャード・スペイヴンがその最たる例だろう。そして、このコンピのモーゼス・ボイドやジョー・アーモン=ジョーンズの作品を聴くと、こうしたUKのジャズの歴史や流れがいまも息衝いていることがわかる。

小川充

Filastine & Nova - ele-king

 いまエレクトロニック/クラブ・ミュージックはどんどんワールド・ミュージックと交錯していっている。とはいえ、一言で「ワールド・ミュージック」といってもそのあり方はじつに多岐にわたる。その多様性や複雑さを損なうことなく新たな形で示してくれるアクトのひとつが、世界各地の音楽を実験精神をもって表現しているデュオ、フィラスティン&ノヴァだ。バルセロナを拠点としているフィラスティンとインドネシア出身のノヴァから成るこのユニット、詳しくは下記のバイオを読んでいただきたいが、なかなかに尖っている(ちなみにフィラスティンは先日亡くなったECDこんな曲を共作してもいる)。そんな彼らの久しぶりの日本ツアーが開催されるとのことで、これは足を運ばずにはいられない。東京公演には KILLER-BONG や ZVIZMO(伊東篤宏×テンテンコ)らも出演。要チェック。

越境するマルチメディア・デュオ、FILASTINE & NOVAのジャパン・ツアー決定!
東京公演は2/11(sun)に代官山のSALOONにて開催!

 2月にバルセロナを拠点とする作曲家/映像作家フィラスティンと、インドネシア出身のネオ・ソウル・ヴォーカリスト、ノヴァ・ルスによるデュオが来日、ジャパン・ツアーを敢行する。「都市の未来を崩壊させるようなベース・ミュージック(Spin)」、「ワールド・ミュージックというよりも、もう一つの世界から来た音楽(Pitchfork)」と評される、映像、音楽、デザイン、ダンスを駆使したダイナミックなライヴ・パフォーマンスは必見だ。

FILASTINE & NOVA
Drapetomania Japan Tour 2018

2/6 福岡 art space tetra
2/7 尾道 浄泉寺
2/8 名古屋 K.D Japon
2/9 京都 octave
2/11 東京 SALOON
2/12 札幌 第2三谷ビル6F 特設会場

 2/11(sun)に代官山のSALOONにて開催される東京公演では、“最も黒い男” KILLER-BONG、アヴァン・エレポップ/ストレンジ・テクノイズを響かせる ZVIZMO(伊東篤宏×テンテンコ)がライヴを披露、また、オリジナルなワールド・ミュージック/伝統伝承の発掘活動も展開する Shhhhh、空族の映画『バンコクナイツ』への参加でも知られる Soi48、ヒップホップやアンビエントを行き来しながら活動を展開する YAMAAN といった独創的なDJたちがスペシャルなプレイをくり広げる。VJとして rokapenis の参加も決定している。世界各地域の音楽、文化を実験精神をもって独自に表現する面々によるクレイジーでダンサンブルな一夜になるだろう。

FILASTINE & NOVA
Drapetomania Japan Tour 2018 in Tokyo

2018.02.11 (sun)
@代官山 SALOON
Open/Start 18:00
Adv 2500yen(1D付き)/ Door 3000yen(1D付き)

| Live |
FILASTINE & NOVA
KILLER-BONG
ZVIZMO

| DJ |
Shhhhh
Soi48
YAMAAN

| VJ |
rokapenis

| Ticket |
前売りチケット取扱い店
・IRREGULAR RHYTHM ASYLUM
・disk union
└ 渋谷クラブミュージックショップ
└ 下北沢クラブミュージックショップ
└ 新宿クラブミュージックショップ
└ 新宿ラテン・ブラジル館
└ 吉祥寺店
└ 池袋店

・予約 filastine.tokyo2018@gmail.com

| Info |
IRREGULAR RHYTHM ASYLUM
https://ira.tokyo/filastine-nova-tokyo/ | 03-3352-6916


【PROFILE】

●FILASTINE & NOVA

バルセロナを拠点とする作曲家/映像作家フィラスティンと、インドネシア出身のネオ・ソウル・ヴォーカリスト、ノヴァ・ルスによるデュオ。ブラジルのカーニバルのバトゥカーダやモロッコの神秘主義者たちとの関わりから打楽器を学び、ラディカル・マーチングバンド The Infernal Noise Brigade を率いたフィラスティンと、幼い頃からペンテコステ派の霊歌やコーランを歌い、ガムラン・パーカッションを演奏し、インドネシアのヒップホップ・シーン草創期にラッパーとしても活躍したノヴァが生み出す音楽は、まさに「ワールド・ミュージックというよりも、もう一つの世界から来た音楽(Pitchfork)」である。世界各地の音楽フェスティバルに出演する以外にも、ドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』の公式ミックステープ制作や、フランス・カレーの巨大難民キャンプ「ジャングル」でのライヴ、掃除婦や鉱夫などの底辺の労働者がダンスによって解放される映像シリーズの制作など、音楽を通して「もう一つの世界」の実現を目指すラディカルな表現活動を続けている。2017年に最新アルバム『Drapetomania』を発表した。
https://soundcloud.com/filastine

●KILLER-BONG

〈BLACK SMOKER RECORDS〉主宰、最も黒い男。

●ZVIZMO

蛍光灯音具 OPTRON (オプトロン) プレイヤーの伊東篤宏と、アンダーグラウンド⇔メジャーを縦横無尽に行き来する テンテンコ によるデュオ・ユニット。テンテンコの聴き易いが意外に重たいエレクトロ・ビートと伊東のフリーキーだが意外とキャッチーな OPTRON が作り出すその音世界は「奇天烈だが何故かフレンドリー」な響きに満ちている。2017年11月に〈BLACK SMOKER RECORDS〉より1st アルバムをリリースした。

●Shhhhh(El Folclore Paradox)

DJ/東京出身。オリジナルなワールド・ミュージック/伝統伝承の発掘活動。フロアでは民族音楽から最新の電子音楽全般を操るフリースタイル・グルーヴを発明。13年に発表したオフィシャルミックスCD、『EL FOLCLORE PARADOX』のコンセプトを発展させた同名レーベルを2017年から始動し、南米から Nicola Cruz、DJ Spaniol らを招聘。アート/パーティ・コレクティヴ、Voodoohop のコンピレーションLPのリリースなど。dublab.jp のレギュラーや、オトナとコドモのニュー・サマー・キャンプ“NU VILLAGE”のオーガナイズ・チーム。ライナーノーツ、ディスク・レヴューなど執筆活動やジャンルを跨いだ海外アーティストとの共演や招聘活動のサポート。全国各地のカルト野外パーティー/奇祭からフェス。はたまた町の酒場で幅広く活動中。
https://soundcloud.com/shhhhhsunhouse
https://twitter.com/shhhhhsunhouse
https://www.facebook.com/kanekosunhouse

●Soi48(KEIICHI UTSUKI & SHINSUKE TAKAGI)

旅行先で出会ったレコード、カセット、CD、VCD、USBなどフォーマットを問わないスタイルで音楽発掘し、再発する2人組DJユニット。空族の新作映画『バンコクナイツ』にDJとして参加、〈EM Records〉タイ作品の監修、『爆音映画祭タイ・イサーン特集』主催。フジロックや海外でのDJツアー、トークショーやラジオなどでタイ音楽や旅の魅力を伝えている。その活動の様子はNHKのTV番組にも取り上げられ大きな話題となった。CDジャーナル、boidマガジンにて連載中。英Wire Magazineにも紹介された、『Soi48』というパーティーを新宿歌舞伎町にて不定期開催中。Brian Shimkovitz (AWESOME TAPES FROM AFRICA)、Zack Bar (FORTUNA RECORDS) からモーラム歌手アンカナーン・クンチャイ、弓神楽ただ一人の後継者、田中律子宮司など個性的なゲストを招いてのパーティーは大きな反響を呼んでいる。タイ音楽と旅についての書籍『TRIP TO ISAN: 旅するタイ・イサーン音楽ディスクガイド』好評発売中。
https://soi48.blogspot.jp/
https://www.instagram.com/soi48/

●YAMAAN

HIPHOPやAMBIENTを行き来しながら活動中。2017年2月に“NN EP”をリリースした。
@Mirage______

編集後記(2017年12月30日) - ele-king

 不思議なもので、客入りが悪いライヴ、驚くほど人が少ないクラブというのは、むしろ記憶に残ったりする。1998年の冬のロンドンで観たハンス・ユアヒム・レデリウスのライヴは、入って2分もすれは客の顔ぜんぶを憶えられるほどの少なさだった。5人いたかどうかの世界。WIRE誌がオーガナイズしたイヴェントで、いかにも学生風の若者が下北のTHREEぐらいの広さの場所でじっとしている(いまならスマホをいじっているだろうが、当時はそんなものはないのでビールを飲んでタバコを吸って、ただじっとしているしかない)。
 90年代といえば、クラウトロック・リヴァイヴァルの時代である。入手困難だった音源が次々とCD化されて、アナログ盤でも再発された。なのに……こんなものなのかと。日本でのクラスターのライヴもものすごく盛況だったわけではないが、それにしても、まあ、クラウトロック・リヴァイヴァルの震源地のロンドンで5人とはなんという寂しさか(ある意味、これこそロンドンぽいのだが)。
 しかしながら、その寂しさ、なんというか、微笑ましい寂しさとでも言えるような居心地の良さがそこにはあり、これほどレデリウスの音楽を聴くに相応しい条件もなかろうと思えてきた。ある意味、それはぼくにとって贅沢な夜だった。
 翌日の昼前、ホテルをチェックアウトした当時64歳のドイツ人は、黒いトレンチコートを着て、機材と着替えが入っているであろうスーツケースを持ってひとりで現れた。このまま彼が住んでいるオーストリアに帰るという。そのわずかな空き時間に取材に応じてもらった。あの寒いロンドンで、名声あるアンビエントの巨匠がひとりで荷物を持っている姿も、なんというか、レデリウスらしいなと思った。

 そんなわけで2017年に83歳になったレデリアスの新譜(ソロではない共作)を見つけて、しかもドイツのグラムフォンからのリリースなので、これはCDで買ったのだが、少し調べてみると、この人は毎年複数枚の作品を出し続けている。アンビエントを賞揚しているメディアにあるまじき行為だが、まったくノーチェックだった。しかも2000年代以降はほとんどが共作で、これはきっとレデリウスの人間性も関与しているのだろう。彼の決定的な名言に「raging peace(荒れ狂う平和)」というのがあるが、レデリウスの音楽はソロになってからはとことん穏やかであり、平和的だ。
 Arnold Kasarなるベルリナーとの共作の『Einfluss』は、まあ言ってしまえば80年代に確立した彼の芸風の反復である。ピアノを習ったことのない人間が演奏する微笑ましいまでにシンプルなピアノ。荒れ狂う平和の反復。素晴らしい録音が、もういちど新鮮な気持ちでレデリウスの音楽に向かわせる。まだ聴いたことがない人はぜひ聴いて欲しい。

 エルヴィス・プレスリーよりも1年早く生まれたレデリウスは、ドイツ人として第二次大戦を経験している。そしてArnold Kasarがライナーで言うには、クラウトロック・リヴァイヴァルの90年代にさえも彼の居場所はドイツになく、そしてぼくの経験によればロンドンにもなかったのだろう。いや、そんなことはないか、あの観客5人ぐらいの会場は彼の居場所だった。トニ・ブレアの時代である。ロンドンにはイケイケのナイトライフがあったが、当たり前の話、つねに、それだけが世界ではないのだ。
 サッカーがわかりやすい例だが、重要なのは必ずしも点取り屋だけではない。2018年もよろしくお願い申し上げます。


※紙エレキングvol.21の表紙の裏の写真は、坂本麻里子さん撮影のものです。ロンドンは、高橋勇人も住んでいるペッカムの壁でした。 

上野俊哉 - ele-king

 ルフェーヴルにとって「日常生活(everyday life)」とは批判の対象であると同時に、批判と抵抗の拠点でもあった。それは、あくまでも資本主義的な生活様式の反復であるかぎりで、単なる「日々の生活(daily life)」とは区別されている。しかし凡庸、惰性、退屈、反復としての日常生活のなかには、特定の強度と緊張や、活性化につながる瞬間=契機がありうることもまた事実である。批判と変革のカギは日常生活の外部からやってくるのではない。言い換えれば、批判と抵抗の場としての外部を日常生活それ自体の内部に瞬間的/一時的に含みこむことができる。 (本書より)

 『トレインスポッティング』の新しいヤツまだ観ていないんだけど、あの最初の話、まだ映画化される前のこと、90年代半ばの話ですね──、当時ele-king編集部に在籍していた英語力に優れた渡辺健吾は、原書を取り寄せ、その読破にトライしたのであった。アーヴィン・ウェルシュはすでに英ポップ・メディアで騒がれていたし、誌面では、スコティッシュ訛りの見出し(ex: toe ya/Ah'll beなどなど)が踊りはじめた時代だった。『トレインスポッティング』に関しては、当時のスコットランドの悲惨な現実を切り取ったなど定番の論評がいくつもあるが、ひとつ重要なことを忘れてもらっては困る。この本が証明したもうひとつの真実とは、サラ・チャンピオンも書いているように、クラブに夢中になっているようなバカは本など読まないだろうという、それまでの定説/偏見を覆したことだった。あの本はクラブ世代が読みまわし、ベストセラーにした。ゆえにアンダーワールドは(クラブ・カルチャーとは一見なんも関係のないように思える)映画の主題歌を担当しなければならなかった。

 ダンス・カルチャーは、昔はよくこう言われてきた。no lyrics, no messages, no faces, no poltics.....ゆえにロックよりも劣ると。そして『トレインスポッティング』以降、こうも言われるようになった。パンクでさえ取り締まりの対象にならなかったがレイヴ・カルチャーは法的に禁じられるほどのものとなった──と。
 そして“歌詞のない”、“フェイスレスで(スター不在の匿名的で)”“明確な政治的スタンスも持たない”ダンス・カルチャーに関する研究書は、ジャズやロックに劣らぬほど(いや、単体アーティストのファン・ブックを除けば、ヘタしたらそれ以上の研究の書が)刊行されている。まったく頭を使わないと思われた文化が、より知性を刺激する出版物を数多く出しているということは、じつに興味深い。
 レイヴ・カルチャーの歴史に関してはマシュー・コリンによる『Altered State』(1997)が名著として有名だが、サイモン・レイノルズの『Energy Flash』(1998)もよく知られるところで、まあ、後者には小難しい理屈を並べやがってという罵りもあるにはある。しなしながら、レイノルズよりもさらに小難しい理屈の徒=思想系であるKode 9が切り拓いたシーンのことを思えば、意地悪い雑言も小さく見えるだろう。日本ではいっときの流行のごとく誰も言わなくなったカルチュラル・スタディーズだが、ことUKに関して言えば、ポール・ギルロイ影響下のコドゥ・エシュンが『more brilliant than the sun』(1998)を出し、そして2000年代で言えば、カルチュラル・スタディーズ/フランス現代思想の流れを汲む故マーク・フィッシャーがダブステップ世代の哲学を繰り広げている(ベリアルを思想的に解釈したのはこの人である)。ちなみにゼロ年代のUKの大学生にかなりの影響を与えたフィッシャーは、『WIRE』誌の看板ライターとしても活躍し、その後音楽評論でも参照されることになる『Capitalist Realism』を2009年に発表している。上野俊哉の『アーバン・トライバル・スタディーズ』は、レイヴ・カルチャーをこうした思想系/文化研究/社会学のコンテクストにおいて読み解いた、日本では唯一の書物である(とくに日本のトランス・シーンに関しては詳述されている)。

 2005年に出版された同書が、今年の春に増補版として刊行されたのは、著者=上野センセ~がどこまで意識していたのかは不明であるが、タイミングとしては悪くない。2008年のゾンビー『Where Were U In '92?』が象徴的であったように(あるいはele-kingに上がったばかりのダブ・スクワッドのインタヴュー記事を読んでいただければわかるように)、あの時代のあの形態、ダンス・カルチャーから生まれたレイヴと呼ばれる文化運動形態(本書では“パーティ”と記されている)がいま見直されているのは事実だ。90年代を知らない若い世代のなかで、実際に新しいレイヴ・カルチャーが起きているのが現在なのである。(現代思想系を巻き込んでうねりをあげているこのあたりのUKでの展開は、7月14日刊行予定の紙エレキングの20号に掲載される高橋勇人の原稿を参照されたし)
 レイヴ・カルチャーというのは、90年代初頭にたとえばそれがストーンヘンジ・フェスティヴァルのような、60年代型対抗文化の流れと結びついたときに、紋切り型のポップの社会学をもって語られもしたが(ワタクシもそれをやってしまったことがあった)……、しかしこのいかがわしい文化は、そんなナイーヴな面構えをしていない。内面には無垢さばかりでなく、猥雑さも複雑に反射している。匿名的で、草の根的な大衆運動性をもってすれば、さらにまたどこかで爆発しかねないほどのポテンシャルはある。レイヴ経験者にはわかるだろう、何よりもそこにあるのは、圧倒的ないま/現在なのである。「批判と抵抗の場としての外部を」「日常生活それ自体の内部に」「含みこむことができる」、瞬間だ。そこにほのめかされる可能性──

 著者=上野センセ~は、『Altered State』を書いたマシュー・コリン同様に、このシーンへのあきれかえるほどの愛情があり、また、いまだに当事者であり続けている。年齢を考えると恐れ入る話だが、この増補版の長い序文には、匿名的なパーティ・ピープルのひとりであり、ダイナミックなダンサーであり、そして哲学好きの研究者である著者の経験/感覚/思考/感情が、ときにベンヤミンやアドルノ、粉川哲夫に立ち返りながら、ときにユーモアを込めて記述されている。ここ10年ほどの日本の政治運動についての著者の考察についても、ここぞとばかりに言葉を費やしている。もうひとつ。80年代のB級ニューエイジが高値で再発されている今日のニューエイジ・ブームには基本的に否定の立場であるぼくだが、上野センセ~のレイヴにおけるニューエイジ的なるものの再・再解釈には、シーンの細部も見渡せる立場の当事者ならではの大らかさ/注意深さがあり、かのクレオール主義者、今福龍太と共通する感性を見いだすこともできるかもしれない。が、しかしそうそう体よくまとめることができないのは、著者がいまもこのラディカルなレイヴ運動体の確実ないち部であるからだ。サッカーの試合中、選手は走りながら思考を働かせている。
 なんにせよ、本書においてもっとも重要なのは、たったいまもそれが起き続けているという感覚だ。物事をなにかと類型することで自己の論を振りかざすのが人の陥りがちなところだが、むしろ類型化しようにもできないもののなかにこそ契機を見いだすこと、それがこの20年著者が実践していること/ダンスし、思考に思考を重ねていることだと言えよう。本書はその成果であり、日本ではたった1冊の、過去の物語ではなく文字通りの意味で“アクチュアル”な、レイヴ(パーティ)文化研究の書なのである。

RAMZA × TAKCOM - ele-king


Pessim (short film) from takcom™ on Vimeo.


「郊外」という場所が浮かび上がるのは時間の問題だったのかもしれない。

 この20年あまりのあいだにJポップのフィールドが空洞化していくのに並行して、日本各地で勃興したインディペンデントな音楽たち。その背景にはいうまでもなく、郊外のベッド・ルームから直接に作品を発表できるインターネットの普及があった。それはいままでの一極集中だった日本の音楽産業の脱中心化とも呼べる状況を引き起こしたのだけれど、神戸のニュータウン出身のインターネット世代のアーティストの代表格、TOFUBEATSがその素晴らしい最新アルバムでするどく問題提起したように、そうしたゲームのルールの変化を無邪気に祝福する事態でもなくなっているようだ。

 現在インターネットについてゆるやかに共有される「すべてあるようでなにもない」といった感覚は実は、濃密な歴史をもたない郊外やニュータウンについてよく口にされてきた常套句でもある。あらゆるものにイージーにアクセス可能なのに、なにか決定的なものが奪われてしまっている感覚。考えてみれば、インターネットという「場所」は、中心を持たないフラットな空間性、歴史を欠いたデータのカタログ化、フェイクとリアルがごちゃ混ぜになった噂話のエコー・チェンバー……といったいくつかの意味で、郊外という場所をつよく思わせる。郊外のニュータウンもインターネットも、すくなくともその誕生時には未来への夢を仮託されて創りだされたものなのだけれど、どうやらその夢の中身は必ずしも輝かしいものとは限らない、ということらしい。

 映像作家のTAKCOMが監督した『PESSIM』というショート・フィルムは、つまりはそんな郊外をめぐる磁場をすくなからず無意識に共有し、また別の角度から照射しているように思える。知っての通りこの映像作品は、東海地方のアンダーグラウンドなラップ・ミュージックの屋台骨をつくってきたビート・メイカー、RAMZAの同タイトルのファースト・アルバムから生み出された。RAMZAの作品には、エディットされたATOSONEのラップの断片が登場するだけで、アレサ・フランクリンを始めとするソウル・ミュージックのサンプルはあくまで音の断片としてその意味を剝ぎとられている。光根恭平と宮本彩菜をキャスティングし、VFXを抑制的に駆使したTAKCOMのフィルムにも、セリフらしいセリフはなく、ただ「郊外の悪夢」という短いシノプシスが添えられているだけ。両者ともにとても寡黙だ。

 しかし、郊外生まれのふたりの作家が創りだしたふたつの『PESSIM』には、20世紀に形成された日本の郊外という場所に由来する、強烈なイメージがそれぞれ棲みついている。郊外というのは不思議な場所で、各地のそれぞれの違う文脈の中で造形されながら、ひとめで「郊外的」としか言いようのない、なにか共通の感覚を思い起こさせる。その感覚はグローバルなものだ。郊外の風景は世界中どこでもよく似ているから、郊外生まれの人間はまるで移住性の鳥のように、遠く見知らぬ場所にさえデジャヴにも似た郷愁を抱く。都市の構造的にいって、いわばこの世界の人口の大半は郊外をその故郷にしているのだ。

 それにしても「郊外の悪夢」というイメージは示唆的だ。今年のはじめに大きな波紋を呼んだWIRED JAPANの記事「ニーズに死を」のきっかけは、去年の大統領選以降のアメリカの混乱にあるのだけれど、そのディストピアSFよろしくの状況の中心にいるドナルド・トランプは、ニューヨークやカリフォルニアといったリベラルな都市部とは真逆の、ラスト・ベルトと呼ばれる打ち棄てられた中西部の郊外の絶望をその源泉のひとつにしている。イギリスのEU離脱を決めたブレクジットへの賛否のマップにおいても、フランス大統領選で決選投票まで進んだ極右候補マリーヌ・ル・ペンの支持率を表すマップにおいても、各地の郊外はグローバルなリベラル都市への反発の色に染まっていた。現在の世界の反動を突き動かしているのは、リベラルな未来の夢を見続ける先進的な都市群への、置き去りにされた郊外からの復讐に見えなくもない。ここ日本に目をむけるなら、スーパー・パワーとして急成長する中国のそばで、あらゆる客観的な統計がかつてのアジアの経済大国の悲観的な未来を描いている現在、もしかすると「日本の郊外」というよりも「郊外としての日本」というイメージのほうが、これから重要になってくるのかもしれない。

 ゴタクはこれくらいにして、最新の情報をアップデートしておく。7月8日にはいよいよ渋谷WWW LOUNGEに凄腕の面子を集めて東京でのリリース・パーティも発表されたRAMZAの『PESSIM』は、盟友FREE BABYRONIA 主宰のインディペンデント・レーベルAUN MUTEからリリースされ、TOFU BEATSやCE$、FUMITAKE TAMURA(BUN)、ATOSONEなどが惜しみない賛辞を捧げている。コラージュ作家も名乗るRAMZAのアートワークが素晴らしいのでぜひフィジカル盤を手に取ってほしいけれど、反響にこたえてデジタルでの配信も始まった。
 TAKCOMのほうの『PESSIM』は、カルチャー・メディア『HIGHSNOBIETY』でプレミア上映され、最近ではTAKCOMの単独インタヴューも公開されるなど、海外メディアからもじわじわと注目を集めているようだ。プレミアに前後してひっそりとオープンされた公式サイトには、「ビート・サイエンス・フィクショニストは郊外の悪夢を見るか?  Does the Beat Science Fictionist Dream of Suburban Nightmare? 」と題した文章も寄稿させてもらった。モティーフは夢と、サイエンス・フィクションと、そして象徴としての郊外だ。重要なインスピレーションを与えてくれたふたりの作家に感謝する。(泉智)


■ PESSIM SHORTFILM オフィシャル・サイト(JAPANESE & ENGLISH)

https://www.pessim-shortfilm.com/

■ RAMZA 『PESSIM』 RELEASE PARTY 7/8(Sat)渋谷WWW LOUNGE

https://www-shibuya.jp/schedule/007855.php


OPEN/START
24:00 / 24:00
ADV./DOOR
¥1,500 / ¥2,000 (税込 / オールスタンディング)
LINE UP
[Beat live] Ramza / Free Babyronia
[Live] Campanella / Nero Imai / DUO TOKYO
[DJ] 行松陽介 / BUSHMIND / DJ HIGH SCHOOL
TICKET
一般発売日:6/3(土)
e+ / RA / WWW店頭
INFORMATION
WWW 03-5458-7685

即興音楽の新しい波 - ele-king

 『ジャパノイズ』の著者としても知られるアメリカの音楽学者デイヴィッド・ノヴァックはかつて、90年代後半からゼロ年代前半にかけて東京に出来したひとつの音楽シーンを、代々木Off Siteをその象徴として捉えながら日本発祥のまったく新しい即興音楽のジャンルとして「音響(ONKYO)」と呼んだ(1)――もちろんそこで挙げられた数名のミュージシャンたち、たとえば杉本拓、中村としまる、Sachiko M、吉田アミ、秋山徹次、伊東篤宏、宇波拓、そして大友良英らについて(ここに大蔵雅彦やユタカワサキをはじめとしてまだまだ加えるべきシーンの担い手がいたこととは思うが)、その多様な試みと実践を「音響」というただひとつのタームで括ってしまうことなどできないし、ノヴァック自身もおそらく批判を覚悟のうえで戦略的にそうした呼び方を採用しているようにみえる。それにそもそも「音響」と言い出したのはノヴァックが最初ではない。この呼称が日本語の読み方のまま世界的に流通していることからもわかるように、それが認知されるきっかけとなったのは日本語圏ですでにそうした呼び方がなされていたからだ。その起源は虹釜太郎が渋谷に90年代半ばに2年ほど構えていたレコード・ショップ、パリペキンレコーズのコーナーにあった「音響派」という仕切りにあると言われているが(2)、そこで扱われていた音楽は即興音楽シーンに限らずより広範かつ雑多なものだった(3)。だがいずれにしてもこの時期にそれまでの即興音楽とは質を異にしたニューウェーブとも言うべきいくつもの魅力的な試みがおこなわれていたことは事実であり、匿名的で、微弱な音量で、沈黙や間を多用するなどとしばしば言われる(4)ように、それらにゆるやかに共有されていた同時代性のようなものがあったということも指摘できるように思う。そしてそうした動向をリアルタイムで国内外へと発信し続けてきたウェブ媒体として「Improvised Music from Japan」があった。

 もともとは「Japanese Free Improvisers」という名称で1996年に英語オンリーで開設されたこのウェブサイトは、その後日英二ヶ国語になり、日本で活躍する外国籍のミュージシャンも紹介するために名称を変え、さらにCDショップ兼レコード・レーベルとしても機能しはじめることとなる。2012年からは水道橋にイベント・スペースとしても利用できる実店舗「Ftarri」を構えることになる、その前身となったサイトである。それを独力で立ち上げ運営してきた鈴木美幸は、それまでジャズ評論家/翻訳家として執筆活動をおこなっていたのだが、この時期に出現したまったくジャズとは接点のない即興演奏を前にして戸惑いと驚きを感じ、そして途方もない魅力を覚え、すぐさま世界に紹介する役割を買って出た(5)。ウェブサイトに記載されるミュージシャンの数は日増しに増えていき(いま現在も増えている)、シンプルなページ・レイアウトも手伝って、膨大なアーカイヴを簡潔に参照することのできる類稀なメディアとして機能していった。そしてこのウェブサイトが日本の同時代的な即興音楽シーンを、殊に海外へと向けて発信していく重要な役割を果たしていったということは改めて述べるまでもない。そこには「音響」として括ることはできないにしても、しかし何らかの新しさはあった。ならばそれはいったいどのような新しさだったのか。

 「Improvised Music from Japan」が紙媒体として発行している雑誌がある。2003年にその増刊号として、音楽家/批評家の大谷能生が責任編集を務めたものが出された。新しい世代の即興演奏家を紹介することがテーマになっていたその増刊号では、冒頭に、大谷による「Improv's New Waves ―論考―」(6)と題された文章が掲載されていた。そこでは多くの若手即興演奏家たちに「個人的な好みを排した、匿名的な音の世界」へと足を踏み入れていくことを厭わない傾向がみられるという指摘がなされ、さらにジョン・ケージもデレク・ベイリーも前提していなかっただろうものとして、しかし当時の(おそらくは現在も)先端的な即興音楽シーンの経験の基盤となっているものとして、録音メディアという装置を挙げながら、「これまでの音と音楽との区別がまったく役に立たないこうした世界を一旦受け入れ、そこからまた改めて『音楽』と呼べる体験を作り上げていくこと。即興演奏家とは、『音』と『音楽』とが現実に交錯する『演奏』の現場でそれを実践していくミュージシャンたちのことだ」と述べられ、そして次のように締め括られていた。

先ほど聞こえた音は、一体なんだったのか? 今聴こうとしている音は、一体どのような音なのか? 指先を緊張させながら鼓膜と思考を充分にゆるめる、または、思考を緊張させながら指先は脱力させるという相反する作業をおこなうことによって生まれるこうした問いを繰り返すことによって、即興音楽の演奏者は物質的持続の底の底へと降りていく。リ=プレゼンテーションに伴うすべての喜びと手を切ろうとする、こうした聴覚による世界の描写方法は、これまでのどのような芸術からも得ることのできない、まったく新しい現実との接点をぼくたちに提示してくれるだろう。(「Improv's New Waves ―論考―」)

 録音装置というメディアは人間的な価値判断や聴取の可能性を度外視して、あるいはそれらとは無関係に、あくまでも物質の次元で響きを捉え記録するものであり、たとえば自由に織り成されていく即興演奏が、メロディ・ハーモニー・リズムといった西洋音楽を構成する要素を持たずとも、あるいはその他の組織化された音の秩序をあらかじめ備えていなかろうとも、録音されるというそのことが音楽の成立条件となることによって、そうした側面をまるごと預け、繰り返し聴くことのできる音楽として手元に残してしまうことができる。演奏家はそこで出す音の種類や音の出し方に縛られることなく、思い思いにサウンドと関わりを持つことができるようになる。経験の基盤となっている物質的な次元が、意味づけられる前の音響を聴き手としての演奏家に開示してくれるのだ。そこに「聴覚による世界の描写方法」が見出されていく。「まったく新しい現実との接点」が見出されていく。

 大谷の論考にいち早く反応したのは音楽批評家の北里義之だった。彼は大谷の論考にいくつかの疑問を提起した(7)。するとそれに対する大谷の返答が「ジョン・ケージは関係ない」(8)という新たな論考としてまとめられ、さらに北里の再反論が「ケージではなく、何が」(9)という文章をも生むこととなり、とりわけ後者の論考は曖昧に乱用され続けてきた「音響」というタームについての再考を促し実相を炙り出そうとする極めて示唆に富んだものなのではあるが、ここではそれらのやり取りに関して深入りしない。一言添えるとしたら、大谷が個人主義を徹底させた先にある「匿名的な音の世界」を見出したことと、北里が「匿名的な音の世界」にモダンの原点そのものへの回帰を見出したことは、同じことがらを別の側面から考察しているに過ぎないということのように思う。だがここでは大谷が描いたシーンの情況について、北里がそれを「即興演奏が徹底して個の音楽であったことに対するアンチテーゼ」(10)だと読み取ったことに着目しておきたい。個人主義が徹底されようと、モダンの原点への回帰であろうと、そこにはそれまでの即興音楽が個と個の衝突やそれを過剰に濃縮することに価値を見出していたこととはまったく別の在り方があった。それはオフサイト周辺のシーンをつぶさに観察してきたイギリスの音楽家/批評家クライヴ・ベルの言を借りるならば、「肉体的なエネルギーや即効性のあるレスポンスよりも、リスニングとサイレンス、そして忍耐力を前面に押し出していた」(11)のである。そして「個の音楽」から離脱していくなかで見出されたのは、共演する際に単に個と個が対峙するだけではなく、「まわりの空間の、ほかのたくさんのものの一部」(12)として捉え返されるような共演者の在り方でもあった。ここに聴取と同様に新たな価値が見出されたことがらとして空間を付け加えることもできる。そこでは「アカデミックな場所にはいないバンドマンたちが、初めて空間を問題にしだした」(13)のである。

 あれから14年もの歳月が流れている。その間にも様々な試みがなされてきた。「音響」をジャンルとして忠実になぞる者もいれば、杉本拓のようにそれを「テクスチャーの墓場」(14)と呼んで明確に批判する者もいるし、それでもなお何らかの可能性を模索する者もいれば、そうした問題系とはまったく別の領域で活動をおこなう者もいる。「音響」の行く末として「即興」の原理的な不可能性が提起される(15)一方で、そうした原理論は即興音楽の実際に即していないという意見(16)もある。多様化と細分化を複雑に極めていく現代即興音楽シーンについて、それを一言であらわすのは容易ではない。だがこれだけは言えそうだ。そうした様々な試みが自然と集まってくるような、いわばホットスポットのような場所が各地に点在しているということは。とりわけ水道橋Ftarriに足を運んでみるならば、戸惑いと驚きを覚えるような、そして途方もない魅力に打ちのめされてしまうようなイベントに、なんども出会うことができるのである。それらは「音響」に限らず、たとえばジャパノイズ、サウンド・アート、現代音楽、フリージャズといった既成のジャンルに近接し人脈的な交流を持ちながらも、それらのどのタームでも捉えきれないような魅力を放っている。だから大谷能生の「Improv's New Waves」にまるで呼応するかのようにして、それを呼び覚ますかのようにして、今年のはじめにFtarriの店主・鈴木美幸が「即興音楽の新しい波」(17)というタイトルを冠したイベントをおこなったことを、もう少しよく考えてみたいのである。

 確かに2003年には見られなかった新しい試みが、2017年までにはいくつも出てきている。それらが果たしてシーンとしての波を形成するものなのかどうかはまだわからないが、まったくもって無関係な試みがただ単に乱立しているだけというよりも、やはり同時代的であるような響き合いを聴かせてくれるように思うのである。それを考えてみるためにも、ここでは水道橋Ftarriをひとつの窓としながら、そこからどのような光景が見えているのか、あくまでも極私的な体験から得られた見取り図を描いてみることにしたい。そのためにここでは、「ハードウェア・ハッキング」「ライヴ・インスタレーション」「シート・ミュージック」「即響」という4つのテーマを設け、それぞれについて言及していく。ただし、これらは情況を把捉する手段として便宜的に設定されたテーマに過ぎないので、当然のことながらジャンルのようにシーンを四分できるというものではなく、さらにミュージシャンによってはこれらのテーマに跨る試みをおこなっている者もいるだろう。それでもそうした具体的な実践に接近していくための契機になるのではないかとは思う。

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1 ハードウェア・ハッキング

 ハードウェア・ハッキングというのは字義通り既成の楽器や電子機器を物理的に改変するという意味で、とりわけ実験音楽/電子音楽の世界で著名な作曲家ニコラス・コリンズによって特有の意味合いが付与されて用いられるようになった。コリンズの言わんとするところを簡潔にまとめた金子智太郎による記事(18)から引用すると、ハードウェア・ハッキングとは「電子工学の専門知識を前提としないDIY電子工作」であり、「コリンズがハードウェア・ハッキングの文化的性格として強調するのは、電子音楽における作曲家と技術者の分離の解消や、デジタル化によって減退した直接性と接触性の回復などである」。要するに必ずしも専門的な技術者ではない演奏家が、自らの手を動かし試行錯誤と実験を繰り返しながら、既成の道具に直接的な改変を施していくことによって新たなサウンドを探し出すのである。コリンズ自身が述べるように、それを「その機器の設計者すら予想しなかった結果を、あらゆる可能性に挑戦する極端な実験主義によって生みだすこと」(19)と言い表すこともできるだろう。そこには既に完成された楽器を使うことでは得られない新奇な音色の探求と、さらにそうした楽器を用いた演奏に要請される新たな身体性の獲得、およびそこから導き出される、これまでになかったような時間的/空間的な構造化への可能性が秘められている。


中田粥 - A circuit not turning
きょうRecords (2017)
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 こうした方向性をもっとも過激に推し進めているひとりとして中田粥の名前を挙げることができる。東京都出身で現在は大阪に拠点を移して活動する中田は、既成のキーボードを解体し、内部の基盤を剥き出しにするとともにその回路に手を加え、独自の音響を紡ぎ出す実践をおこなっている。そうして生み出された楽器を彼は「バグシンセサイザー」と名付け、彼自身はハードウェア・ハッキングではなくリード・ガザラが提唱した「サーキット・ベンディング」の手法の応用であると言い、さらにそれをかつてジョン・ケージがピアノの内部の弦に直接ゴムや金属を挟むことでコンパクトな打楽器アンサンブルとしての音響を生み出した「プリペアド・ピアノ」における内部奏法の延長線上にある実践として捉えている。初期のバグシンセサイザーによる演奏では、自主制作したミニ・アルバムに残されているようにプリセットされた音源が断片的にあらわれていく奇妙な具象性を聴かせていたが、現在はより回路の接触から生まれる電子音響ノイズが強調されたサウンドとなっており、それは『A circuit not turning』で全面的に聴くことができる。一方でライヴでは音響を聴かせるだけではなく、小さな基盤のタワーを構築したりするなど、単なるサウンドの愉しみとしてだけでは終わらない、造形的な視覚要素と空間を生かしたインスタレーション的側面を体験することができる。


竹下勇馬 - Mechanization
Mignight Circles (2017)
Bandcamp

 中田粥とも共演歴が多く、ハッキングという方法論を別の視点から極端に推し進めているもうひとりのミュージシャンとして、竹下勇馬の名前も外せない。中田とふたりで「ZZZT」というデュオ・ユニットを組んでもいる竹下は、エレクトリック・ベースに様々な自作の電子機器を取り付け、自ら「エレクトロベース」と名付けた、これまた奇っ怪な楽器を扱っている。アメリカのトランペット奏者ベン・ニールが「ミュータントランペット」と名付けた改造トランペットを使用していたことを彷彿させるが、ミュータントランペットが既存の音楽を前提とした複数の楽器パートを兼ねる異なる要素の統合を目指すものであったのに対して、エレクトロベースは統合というよりも増殖であり、異なる要素が異物のままに同居することで前提とされる音楽それ自体を問い直しにかけていく。さらにニールがSTEIMという研究所の後ろ盾のもとに楽器を発展させていったことに比すると、あくまでもDIYの精神で改変を施していく竹下の楽器はより自由な音楽へと開かれてもいる。竹下によるベースの改造はいま現在も続いており、一旦でき上がった状態に慣れるとさらにコントロールし難いものへと改変していくというのだからその実験精神は尽きることがない。演奏では通常のベースの弦の響きを織り交ぜ、それを変調するとともに複数の電子音響ノイズを併用するサウンドを生み出しており、『Mechanization』の後半においてその模様を聴くことができる。


《《》》 - 《《》》
Flood (2015)
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 中田粥と竹下勇馬が、ドラマーの石原雄治、ギタリストの大島輝之とともに結成した《《》》(metsu)によるアルバム『《《》》』では、ハッキングによって生み出されたふたりの楽器が、アコースティックな打楽器とエッジの効いたカッティング・ギターとともに丁々発止のやりとりをする様が収録されている――とはいえハッキングされた楽器から発されるのは肉体的というよりもテクノロジカルなエネルギーであり、レスポンスも即効性があるというよりは不確定的な要素が多く、そこが従来の即興音楽にはない面白さとも言える。このアルバムの3曲めおよび4曲めに参加しているサックス奏者の山田光は、改変こそ施していないものの、マイクロフォンやスピーカーを組み合わせることによって独自の音響をサックスから紡ぎだす演奏を試みてもいる。山田のそうした側面にフォーカスを当てたアルバムはまだ発売されていないものの、ロック・バンド「毛玉」のフロント・マンとしても知られる黒澤勇人とのデュオによる作品が近くリリースされる予定だという。すでにゼロ年代の後半から即興音楽シーンに関わってきた黒澤もまた、集音と増幅を駆使することによって、卓上に寝かせたギターから独自のエレクトロ・アコースティックなサウンドを聴かせる演奏をおこなっている。

 このようにハッキングされた楽器からスピーカーを通して発される電子音は、楽器奏者との共演をおこなうことによって、電子音と楽器音が交錯するいわゆるエレクトロ・アコースティック音楽としての様相を呈していく。「エレクトロ・アコースティック」という言葉自体は、狭義には50年代の電子音と具体音を併用したレコード音楽のことを指すが、「音響」のムーヴメントと相俟って90年代以降により広く知られるところとなり、生演奏にエレクトロニクスを取り入れただけの音楽にも適用されるなど、現在では語感の良さも手伝って乱用されているきらいがある。しかし「エレクトロ・アコースティック」という考え方がもたらしたのは単に電子音と生音を併用するということだけではなく、技術の進歩などにより一方にまるで本物の楽器のような音を出す電子音があらわれ、他方には拡張され尽くした特殊奏法――これもひとつの技術革新だ――によってあたかも電子音のようなサウンドを奏でる楽器奏者があらわれ、そうした境界線の曖昧になった電子音/生音が、サウンドの平面上に同等の資格をもって立ちあらわれることによって、電子音や楽器音に歴史的に担わされてきた役割というものを、あらためて問い直す契機になったという点にこそある。そこでは音の発生源がラップトップPCなのかアコースティック楽器なのかといったことよりも、そこに一体どのような音が発生していて、それがどのように聴こえてくるのかということの方に焦点が当てられる。とりわけ「ハードウェア・ハッキング」の流れのなかから導き出されてくるエレクトロ・アコースティック音楽では、電子的なノイズと楽器の非器楽的使用による無形のサウンドが交差する傾向が強く、それを必ずしもハッキングすることのないエレクトロ・アコースティックの実践と関連づけてみることもできるだろう。


高島正志 / 影山朋子 / 長沢哲 / 古池寿浩
Astrocyte meenna (2016)
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 山田光のアイデアを取り入れることによって、独自の組み合わせからエレクトロニクス装置を生み出したドラマーの高島正志もまた、サウンドの地平をゆく固有の道を突き進んでいる。「G.I.T.M.」と名付けたその自作装置を取り入れた高島の演奏は、リズムというよりは痙攣するパルスの積み重なりを聴かせ、合奏では往年のスピリチュアル・ジャズのような陶酔感を伴っていく。他方で高島は作曲も手掛けており、そのモチベーションは自由であるはずの即興演奏が陥りがちな定型を脱することという、ギャヴィン・ブライアーズのデレク・ベイリーに対する批判を彷彿させるものがあるが、それでも彼自身はプレイヤーとして即興演奏をおこなう活動を手放してはいない。いわば彼にとっての作曲行為は即興演奏と相互に影響を与え合うような地続きのものとしてあるのだろう。現在は福島県に居住し、アジアン・ミーティング・フェスティバルにも出演したギタリストの荒川淳が郡山市で運営するスペース「studio tissue★box」で主に活動しているものの、都内でライヴをおこなうこともある。先日(5月5日)も高島の作曲作品が、竹下勇馬と石原雄治によるデュオ・ユニット「Tumo」によってリアライズされるライヴがおこなわれるなど、シーンとの交流がみられた。


Straytone / 中村ゆい / 増渕顕史 / 徳永将豪
A Crescent and Moonflowers
meenna (2016)
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 エレクトロニクス奏者と楽器奏者の共演から生まれるエレクトロ・アコースティック作品も紹介しておきたい。ミニマル・ドローンな音源の反復から電子音響を変化させていくStraytone、太く豊かな倍音を含んだサウンドを求道的に発し続けるサックス奏者・徳永将豪、12小節という定型を取り外したブルースの音響そのものに焦点を当てるかのようなギターを奏する増渕顕史によるトリオ・セッションと、声というよりも呼吸する気息の物質性をあらわにするヴォイス・パフォーマー中村ゆいが加わったカルテットによるセッションのツー・トラックを収めた『A Crescent and Moonflowers』である。管楽器のようなうねりとプリペアド・ギターのような打楽器的なサウンドを聴かせるStraytoneの演奏は、徳永と増渕による特殊奏法を取り入れた響きと混ざり合い、さらには吉田アミの「ハウリング・ヴォイス」を彷彿させる電子音響的なヴォイスを発する中村ゆいの演奏がそこに重なり合うことで、サウンドそれ自体の地平が開かれていく。そうした音像のなかから、ときおりその楽器の、あるいはその奏者にしか出せない固有の響きが前面に出てくる瞬間に立ち会うとき、サウンドの地平に照準を合わせていた耳に異化作用が施されていくというのも、こうしたセッションならではの愉しみだと言えるだろう。


康勝栄 / 弘中聡
state, state, state
ftarri (2012)
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 エレクトロ・アコースティック音楽の可能性を、あくまでも演奏を基礎としながらも、録音芸術として作品化した特筆すべきアルバムとして『state, state, state』も挙げておきたい。MultipleTapを主宰しウェブ雑誌『20hz』を発行するなど、日本のインディペンデントな音楽シーンを精力的に紹介し続け、クライヴ・ベルにも「これらの音楽を取り巻く環境を、特に日本において変えていくという使命を負っている」(20)と評された康勝栄と、変則的で巧妙にデザインされたリズムがラップのフロウを新鮮に聴かせるバンドskillkillsなどで活躍するドラマーの弘中聡によるデュオ作品である。僅かにポスト・プロダクションが施されたデュオ演奏とそれぞれのソロ、そして録音されたままのデュオ演奏が収録された本盤は、エレクトロ・アコースティックという考え方によって演奏をサウンドの地平で捉えられるようになったはずのわたしたちの耳が、それでも音盤上で施される改変によって本来の演奏を想起してしまうということ、しかし手を加えないことが本来の演奏と呼べるものなのかどうかということなどを、スタイリッシュなビートとともに提示している。すでに5年前の作品であり、とりわけ康の現在の活動はギターよりも自作エレクトロニクス装置を用いた演奏をする機会が多くなっているものの、そうした問題提起する射程の深さを伴うこの作品の特異性はまったく古びていない。

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2 ライヴ・インスタレーション

 かつてデュオ・ライヴをおこなった川口貴大と大城真は、それを観た米国のとあるレーベル・プロデューサーから「これはインスタレーション系だ」と評されたことがあるという。要するに「こんなものは音楽ではない」という否定的なニュアンスが含まれた評価を受けたのだが、むしろそうした評価を、従来の音楽概念では評価しきれないような、しかしあくまでも音を介した新しいパフォーマンスとの出会いから発された言葉として、ポジティヴに受け止めることもできるだろう。今年の春に出版された大友良英による好著『音楽と美術のあいだ』でも提示されていた、音楽とも美術ともつかないそうした新たな表現領域――あるいは領域から逸脱する表現のありよう――を、しかし美術に基軸を置いた音の展示ではなく、あくまでも音楽の現場で「演奏」としてなされている、いわば「ライヴ・インスタレーション」とも言える実践を眺めることから、その実態を探っていきたい。ここで紹介するミュージシャンたちの多くはアート・スペースに設置されるような音の展示作品も制作しており、いわゆるライヴハウスのような音楽のために設けられた場においても、空間と大きく関わるようなリアルタイムの反応と操作をおこないながら、投げ出された音の行方を見守るという非常に独特な「演奏」をおこなっている。こうした動向については、音楽家/評論家のデイヴィッド・トゥープによって「フェノメノロジスト」という呼称が用いられてもいる(21)


川口貴大 / ユタカワサキ
Amorphous Spores
Erstwhile Records (2015)
Erstwhile Records

 川口貴大はもともとフィールド・レコーディング作品の制作からそのキャリアを出発させながらも、ゼロ年代の半ばにはすでに会場内を歩き回りながら自作の音具を設置していくという特異なパフォーマンスをおこなっていた。『n』に結実するそうした方向性は、その後、大城真、矢代諭史とともに結成したグループ「夏の大△」へと受け継がれるとともに、より演奏に比重を置いた新たな表現を開発していった。複数のヤンキーホーンと音叉、さらには臓器のように伸縮する巨大なビニール袋とスマートフォンの光を用いたパフォーマンスでは、演奏の進行と展開を共演者に対する反応ではなくビニール袋の動きに合わせるという、非常に独特な即興演奏の取り組み方をしている。共演者との相互触発から反応の応酬を聴かせるのではなく、もっと人間の世界から離れた物と物の相互作用を提示するかのような川口のパフォーマンスは、その見た目の異様さもさることながら、どこにでもある日用品の匿名性とは裏腹に、彼にしか生み出せない個性的なサウンドを奏でることにも成功している。ユタカワサキとのデュオ・セッションにポスト・プロダクションを施すことで完成した『Amorphous Spores』で聴くことができるのは、人間の身体的な動作からは切り離されたところにある音響に刻まれた、しかし紛れもない彼の個性である。


大城真
Phenomenal World
hitorri (2014)
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 匿名的かつ個性的なサウンドは大城真が自作した通称「カチカチ」からも聴くことができる。かつてはヴィデオ・フィードバック現象を音楽として提示し、その後も「ウネリオン」と名付けた独自のフィードバックを発生させる楽器を自作するなどしてきた大城は、よりコンパクトに持ち運びの出来る形態として手のひらに収まるサイズの「カチカチ」を生み出した。会場内を歩き回るパフォーマンスは、ともに「夏の大△」で活動する川口貴大の初期の試みを彷彿させるところがあるが、至る所に設置された「カチカチ」が生み出す即物的な音響のアンサンブルがサウンドのモアレを形成するところなどは、独自に取り組んできたフィードバック現象の実践からの形跡を感じさせる。ヴィデオ・フィードバック、ウネリオン、「カチカチ」などを全て収録した、大城の活動の集大成ともいうべき作品が『Phenomenal World』である。彼自身の「現象としての音や、その発生の仕組みへの興味」(22)があらわされている本盤のタイトルからは、現象学を出発点に非人間的なオブジェクトに立脚する哲学を構想するという、グレアム・ハーマンの「オブジェクト指向存在論」を連想させるところがある。ただしそうした現代の思想動向の実体化や反映を彼の音楽に見出すことよりも、まずは様々にあらわれるサウンドに対する興味と驚きが根底にあるのだということには注意しなければならないだろう。


秋山徹次 / 大城真 / すずえり / Roger Turner
Live at Ftarri
meenna (2016)
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 今年の初めにイングランド北西の都市マンチェスターで大城真とともに展示およびライヴをおこなったすずえりの近年の活動にも非常に興味深いものがある。アコースティック・ピアノ、大小のトイピアノ、それにさらに小さな模型のピアノを連結し、「ピアノでピアノを弾く」という実にユニークな展示作品を手掛けるすずえりは、ライヴにおいても複数の「ピアノ」を用いながらそのユニークネスを発揮したパフォーマンスを繰り広げている。会場で何かを制作しようとしているものの、それにしてはあまりにも非合理的で非効率的なプロセスを踏んでいくことが、むしろ自作した音具たちの連関を生み出していくそのパフォーマンスは、従来の演奏概念とはまったく別のところから「即興」の醍醐味を聴かせてくれる。肩肘張らない脱力した佇まいもまた、しかつめらしく状況を見守る即興演奏とは別の緊迫感を生み出していく。残念ながら彼女のこうした側面を捉えた音盤はまだリリースされていないものの――とはいえ、彼女の面白さは音盤にはならないライヴのプロセスにこそあるともいえる。なので反対に、それをどのようにサウンドとして定着するのかは非常に気になるところだ――大城真、秋山徹次、それにロジャー・ターナーとのカルテットによるセッションを収めたアルバム『Live at Ftarri』でその特異な実践を垣間見ることができるだろう。

 音盤として残された彼ら/彼女らの実践は、あくまでも変化するサウンドの妙味にその魅力があらわれているわけだが、ライヴや展示においては「装置の実用性や象徴性ではなく、装置同士のネットワークや、物質が人間にもたらす影響」(23)とも言われるような、人間中心主義的な世界を離れた音たちが織り成していく、オブジェクトの相互作用のようなものを形成することの面白味がある。多くの場合ハッキングした自作音具を用いながらも、それをスピーカーから電子音として鳴らすのではなく、あくまでもアコースティックな響きとして空間に配置していくということも、現象する音の環境世界を提示しようとすることと無関係ではないだろう。それは「演奏」というよりも、人間に従属することのない音の発生を、制御不能なままに見届けようとするある種の「聴取」行為とも言える。こうした点から、まったく別の試みであるように思えながらもフィールド・レコーディングという実践との近似性が浮かび上がってくる。フィールド・レコーディングもまた、人間の世界を離れた音の環境を相手取っていく試みだからである。言うまでもなくそれをどのように切り取るのか、すなわち聴取する耳をどこに設定するのかということがフィールド・レコーディングの要であり、それは必ずしも聴くことによって視点を切り取ることが要点ではないインスタレーションの在り方とは異なっている。しかし耳の先で起こる出来事を人間が従属させることはできないのであって、とりわけそうした聴取の実践をライヴ空間でおこなうミュージシャンにあっては、そこでわたしたちが立ち会うこととなるのは出演者たちに同化した耳の視点ではなく、むしろ彼ら/彼女らが聴き、聴こうとし、それでも聴くことの外部へと溢れてしまうような音の生態系であるだろう。


stilllife
archipelago
ftarri (2015)
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 笹島裕樹と津田貴司のふたりによって結成されたstillifeは、フィールド・レコーディングをライヴにおける「演奏」としておこなう非常にユニークなデュオ・ユニットである。彼らのライヴでは、オートハープや木製の笛、音叉、小石、ガラス瓶その他無数の音具と、集音し変調するエレクトロニクス装置などを用いながらも、それらは一般的な音楽の演奏においてホワイト・キャンバスに描かれる絵のようにあるのではなく、むしろその場の環境やライヴをおこなう会場にすでにある様々に彩られたキャンバスを前にして、その背景が決してまっさらな沈黙ではないことを明かすかのように挿入されていく響きとしてある。言うまでもなく、彼らがそこで聴き取ろうとするサウンドは、観客であるわたしたちと同一のものではない。むしろ聴き取ろうとする彼らの「演奏」によって浮かび上がる音の世界が、わたしたちひとりひとりに固有の聴取の位置を与える契機となっていく。しかしだからこそ、彼らの音盤はライヴであらわされる音楽とはまったく別の価値を帯びもする。傑作ファースト・アルバム『夜のカタログ』の翌年にリリースされた『archipelago』では、あたかも電子音楽のような即物性を伴って響く鳥の鳴き声が、最終的にはそれが他ならぬ「鳥の声」という意味にまみれたサウンドでしかなかったということに、思わず気づかせるような工夫が凝らされていて、それは録音作品ならではのstillifeの「耳」の刻みかたとも言えるだろう。


松本一哉
水のかたち
SPEKK (2015)
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 stillifeのメンバーでもある津田貴司と、ベースを用いた特異なドローン/倍音を奏でてきたTAMARUとともに、昨年からは「Les Trois Poires」というグループでも活動をおこないながら、独自のフィールド・レコーディング作品を残しているアーティストとして、打楽器奏者の松本一哉の名前を挙げることもできる。「自分が指揮者になったように音を選んで聴けば、身の回りには常に偶然に作曲された音楽が溢れている」(24)と語る彼が、「偶然のオーケストラに奏者として自分が音を足すことで、全く別の聴き方ができたり、もっと違う楽しみができたり、今まで体感したことのない新しい価値を見出せる」(25)ということを念頭に置いておこなった環境音とのセッションが、『水のかたち』には収められている。全編が「ありのまま」に収録された本盤からは、「波紋音」をはじめとした複数の音具を用いた、水琴窟での数回にわたる演奏から、長野県根羽村に固有の独特な鳴き声を持つ蛙との演奏、梅雨明けに突然訪れるひぐらしとの演奏、あるいは浜辺に打ち寄せる波音との演奏など、水をテーマに様々な場所でおこなわれた「セッション」の記録を聴くことができる。打楽器奏者ならではのリズミカルな演奏もおこなう松本の音楽が、しかしときおり環境音なのか彼の打音なのかわからなくなる瞬間に立ち会うとき、「偶然のオーケストラ」が詩的な方便やケージ主義的な認識論ではなく、極めて具体的なサウンドのありようを指しているのだということがわかる。

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3 シート・ミュージック

 シート・ミュージックとは元来音楽の流通形態のひとつの在り方を指し、とりわけ録音/再生技術が音楽の消費形態として一般化する以前の18世紀末から20世紀初頭にかけて、音楽家が生み出した作品をいつでも再現できるような状態で所有するために売買された楽譜を指すのだが、ここでは大谷能生が『貧しい音楽』のなかで設けた章のタイトルから借用し、即興音楽シーンにおいて新たな表現を求めるために取り交わされているいわゆる「作曲もの」の総称として用いることにしたい。同書のなかで大谷がおこなったインタヴューにおいて、そのころ即興よりも作曲へと活動の比重が増していた杉本拓は、「即興で演奏すると落ち着き先が似てしまう、結局ある磁場の中に収まってしまう。そういった重力から離脱する手段としての作曲」(26)の魅力を語っていた。意味づけられる前の物質的な次元における音響を経験の基盤として分有しているならば、シート・ミュージックの役割もまた、同一の音楽を記号化して保存/伝達することよりも、記号化することから生まれる流動的で一回的な実践のほうに焦点を当ててみることができるようになる。すなわち、紙に書き記したスコアを介して演奏をおこなうことが、単なる伝達の手段やイデアルな領域に作品を保存するのではなく、即興演奏に新たな側面から光を浴びせ、より活動を活発化させるための方途となっていくのである。

(ところで、かつて批評家の佐々木敦は、体験を前提とし聴かれることを目指しているという点においてコンセプチュアル・アートとは異なるものとしながら、「一回性の中に、他の可能性を排除するに足る理由づけ」のないような、「聴かなくても聴いてることと無限に同じになる」ようなものこそが、「即興的な、偶然的な要素を取り入れたヴァンデルヴァイザー以後の作曲の方法論」だと述べていたことがある(27)。いわば充足理由律を否定する思弁的な作曲に可能性を見ていたのであって、それは音をあるがままにするはずのケージ主義的な実験音楽の多くの試みが、しかし音の物的状態ではなく、あくまでも聴くこととの関わりにおいてのみ可能な実践でしかなかったのに対して、聴取および演奏とは区別された作曲それ自体を提起していたジョン・ケージ自身の試みにおいては、「聴取と音の相関」(28)を抜け出す手掛かりをみることができるのであり、その方向性を相関主義の隘路に陥ることなく推し進めたものとして「ヴァンデルヴァイザー以後の作曲の方法論」を捉えることもできる。だが本稿では、あくまでも演奏やパフォーマンスに重心を置いた実践を事例として紹介しているため、こうした「思弁的作曲」を中心的に取り上げることはしない)。


Suidobashi Chamber Ensemble
Suidobashi Chamber Ensemble
meenna (0016)
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 2016年に結成されたSuidobashi Chamber Ensembleは、そのメンバーの多くが即興演奏家としても活躍していながらも、ヨーロッパの現代作曲作品からメンバー自身による豊富なアイデアを取り入れた楽曲、あるいは交流のあるグループ外の音楽家による作曲作品もリアライズしてみるなど、「作曲もの」を活発に実践しているグループである。メンバーを率いるのは吉田ヨウヘイgroupで活動していたフルート奏者の池田若菜で、ほかに即興演奏に果敢に取り組んできたヴィオラの池田陽子、シーンには珍しいファゴットを奏する内藤彩、さらに杉本拓と大蔵雅彦が参加している。前三者はクラシック音楽を素養に持つというところもユニークで、とりわけ内藤彩はこのグループに参加するまでこうしたシーンとはまったく関わりを持っていなかったというところも興味深い。ライヴでは毎回趣向を変え新たな楽曲に取り組んで見せる一方で、決め事なしの集団即興も試みるなど、尽きないアイデアと怖いもの知らずの実験精神にはつねに驚きが満ち溢れている。そうした彼ら/彼女らの魅力をたった1枚のアルバムに集約することなど到底できないが、それでも『Suidobashi Chamber Ensemble』におけるヴァンデルヴァイザー楽派の楽曲を演奏するという試みからは類稀な音楽が生み出されており、ライナーに池田若菜が書き記しているように「構造の理解だけでははかれない何か別の視点から作品を体験すること」(29)の面白さを感じ取ることができるだろう。


Various Artists
実験音楽演奏会
slubmusic / kenjitzu records / l-e (2015)
実験音楽演奏会

 Suidobashi Chamber Ensembleとも交流を持ちながら、主に大崎/戸越銀座のイベント・スペース「l-e」を拠点に活動する実験音楽演奏会(30)も、こうした「作曲もの」で魅力的な活動をおこなっている集団のひとつである。杉本拓が2013年にl-eでおこなっていた「実験音楽スクール」の参加者からなるこの集団には種々様々なメンバーがおり、「なるべく失敗しそうなのを作る」(中条護)という意見から「誰でも参加できる、なるべく簡単なことをやりたい」(高野真幸)という意見まで飛び交う(31)など、一様に括ることのできないバラエティの豊かさがある。だがそれでも、こうした集団として活動をおこなうことが互いに影響を与え合うことによって、また、基本的にはどのような実践も許されるl-eという拠点を持つことによって、様々に新しい試みへと踏み込んでいくことのできる理想的な環境があるとは言えるだろう。『実験音楽演奏会』に収められているのは、五線譜に書き記された作品からテキスト・スコアによるものまで様々であり、たとえば室内の温度を演奏を指示する楽譜に見立てた作品の実演などが収録されている。杉本はかつてこう述べたことがあった――「実験音楽とは、何が音楽であるのか、どのようにある音についてそれが音楽であるかないのかを認識するのか、そういう問題に対して思弁を活性化させ、さらにその思弁に対して実践で答える、そういった精神を持続させていく装置のひとつである」(32)


浦裕幸 / 金沢健一 / 井上郷子
Scores
meenna (2017)
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 こうした固定メンバーあるいは集団による実践とは異なりながらも、ユニークな作曲作品を生み出している存在として浦裕幸の名前も挙げることができる。2月17日のライヴで初演された「Etude for Composition #1」において、リアライズする即興演奏家の固有のサウンドを扱いながらも、カードを捲る無意識的な動作とそこから生まれる意図されざる響きを露わにしていた浦は、『Scores』においても奏者固有の音響をたゆたわせながらも、二重の無意識的なるものを顕在化させることに成功している。ひとつめはまったく音楽化されることを想定せず、もっぱら造形的な美しさだけを追い求めて制作されていた彫刻作品から、その形象を楽譜に見立てることで生まれる和音とその連なりであり、もうひとつはそれを演奏した10月1日の群馬県立近代美術館に偶然居合わせた子供のはしゃぎ声と基層となる環境の響きである。ポスト・ケージの地平にいるわたしたちにとって、もはや単にステージ上で演奏者がなにもしないというだけでは、意図されざる響きとしての「サイレンス」が立ちあらわれてくることはない。浦自身がどこまでそれに意識的に取り組もうとしているのかは定かではないものの、彼の実践からは、現代の耳に「サイレンス」をいかにして出会わせることができるのか、という挑戦を読み取ることもできるだろう。

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4 「即響」

 「即響」という耳慣れない造語は、フランス文学者/音楽評論家の昼間賢による論考「音響音楽論」(33)から借用した言葉である。同論考では、組織化された音楽、あるいはそうした音の連なりにすでにして組み込まれた楽音ではなく、「音響」――とりわけ音の(複製技術というよりも)保存手段としての録音を介したものとしての――を起点に据えて音楽の再構築を図る試みについて、それを喉歌、ブルガリアン・ヴォイス、クロード・ドビュッシー、ジミ・ヘンドリクス、フィールド・レコーディングといった多岐にわたる事例を辿りながら論述していくという内容になっている。その最終章「究極のローカル(二)――楽器に徹した即興演奏=即響の現在」において、昼間は現代即興音楽シーンについて触れながら、その特徴を「音の過剰や極端な欠如によって音楽の根幹を揺るがすのではなく、特異な響きを最大限にいかしつつ、通常の音楽とは別の音響を、あくまでも楽器によって、すなわち人間の身体を介したかたちで演出する音楽」として「即響」と呼ぶことにしている。それは「物質そのものではなく物的状態、すなわち、社会的に決められた用途から自由になった物と同様にありたいと願う人との出会い」であり、「意味づけられていない自由な音のために黙々と続けられる」実践なのである。大谷能生が14年前に提起した「新しさ」をも彷彿させるこうした定義は、当時見出された可能性を自らの身体と楽器を前にした音楽の現場において、さらに一層洗練させていく一傾向として捉えることもできるだろう。


歌女
盲声
blowbass (2014)
daysuke

 こうした傾向を語るにあたって、昼間賢がそれを体現するアーティストとして挙げていたチューバ奏者の高岡大祐について触れないわけにはいかない。ステージでパフォーマンスをおこなうだけでなく、生きることそれ自体が即興演奏と地続きにあるような発言を残してきた「旅するチューバ吹き」の彼が、石原雄治と藤巻鉄郎というふたりの打楽器奏者とともに結成した「歌女」は、ブラスバンドからそのキャリアを出発させたという高岡の音楽的な原点に立ち返るかのように、ニューオリンズ・スタイルのリズム隊を彷彿させる編成となっている。だがその音楽はまったく異なるものであり、重音奏法を循環呼吸によって延々と続けるチューバの響きにふたつの打楽器が交差するリズムが絡み合う演奏や、細かいパルスの連続が大きなうねりを生み出していく演奏など、音楽的なサウンドを聴かせる一方で、何かを転がしたりファスナーを開け閉めする物音が連ねられていく「非音楽的」な音響も聴かせている。そうした音楽が収められた『盲声』は、アルバムの冒頭に野外からライヴ会場へと赴く足音が、末尾にはライヴ会場から去っていく様子が録音されていることを思うと、この作品全体が「歌女」というグループの音響を生け捕りにした、いわばフィールド・レコーディング作品とも言えるものとなっている。


徳永将豪
Alto Saxophone 2
hitorri (2015)
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 楽器の求道者として自らに固有の音響を生み出してきたアルト・サックス奏者の徳永将豪もまた、「即響」とも言えよう特筆すべき試みをおこなっている。14年前の大谷能生の論考においてもっとも若い世代のひとりとして紹介され、当時多くの即興演奏家がエレクトロニクスを取り入れた演奏をおこなっていたのに対して、あくまでも「サックスというアコースティックな楽器の響きに取り組んでいる貴重な存在」(34)として挙げられていた徳永は、その後も自らの音楽を錬成していくことで誰にも到達できないような響きを獲得するに至った。運指をほぼ固定したまま息を吹き込むサックスからは、その呼吸の運動によって様々に反響し共鳴する驚くべきサウンドの豊かさを聴かせてくれる。それだけでなくときおり荒れ狂うように軋るノイジーな演奏もおこないながらも、気息によって形づくられる身体的なリズムが、特殊奏法を駆使したサックス演奏を、単なるノイズ生成ではなくより音楽的な流れとなっていくような構成的な展開をももたらしている。ファースト・ソロ・アルバムでは抑制された静謐さの揺らめきを探索していたその音楽は、5年半後の『Alto Saxophone 2』においてよりダイナミクス溢れる強靭な演奏に至り、そしていま現在も変化を続けている。彼の3枚めとなる新たなソロ・アルバムは近くリリースされる予定のようである。


大上流一
Dead Pan Smiles
DPS Recordings (2015)
Tower

さらにもうひとり、ギタリストの大上流一の実践をこうした特徴から捉えることもできるだろう。すでにゼロ年代の前半には活動を始めていた大上を「新しい波」などと呼ぶわけにはいかないものの、80年代から続く中野のライヴ・スペース「Plan-B」において、彼が2004年から10年間にわたって毎月おこなってきたライヴにおけるソロ・インプロヴィゼーションが、5枚組のアルバムとして陽の目をみることによって、ようやくわたしたちは彼の試みに録音を介して出会うことができるようになった。10年間の記録から厳選された録音が収録されている『Dead Pan Smiles』には、デレク・ベイリーを思わせる点描的なハーモニクスとフレーズから逸脱する演奏や、後期高柳昌行のごときフィードバックを取り入れた轟音ノイズなどがありながらも、ベイリーとも高柳とも遠く離れたミニマルに反復していく独自の即興演奏までもが収められている。それはどこかジム・オルークのギター・ソロを彷彿させるところがあるかと思いきや、そこにとどまることもなく、豊富なアイデアと卓越した技術を駆使して新たな即興に挑んでいく様に立ち会うとき、こうした連想ゲームがことごとく無意味になるような気にさえなってくる。ひとつとして同じ演奏がなく、つねに変化を続けるその音楽は、当然のことながらジャンル化した「フリー・インプロヴィゼーション」の再生産などではなく、まさしく「意味づけられていない自由な音のために黙々と続けられる」実践の軌跡と言うことができるだろう。


Various Artists
Ftarri Third Anniversary Vol. 1 ~ Vol. 6
meenna (2015)
Ftarri / Meenna

 もっとも懸念すべき事態は、こうした見取り図を描くことによって、その図式に収まりきらない魅力的な実践の数々が、わたしたちの前から見えなくなってしまうことにある。それを避けなければならないということは強調してもし足りない。そこで最後に、水道橋Ftarriが実店舗を構えて3周年を記念してリリースしたアルバムを紹介しておくことにしたい。Vol.1からVol.6まで計6枚出されたこれらのコンピレーション・アルバムには、これまで言及してきたミュージシャンたちのほとんどを含みながら、それだけでなく、総勢28名にも及ぶ多様な音楽が収録されている。そこには当然のことながらこれまで書き記してきた4つのテーマではまったく掬い取れないような特異な実践もあれば、そうしたテーマに当て嵌まるものの紹介し切れなかった試みもあるだろう。だがさらに言うならば、水道橋Ftarriを窓口として眺めることそれ自体が妥当なことなのかどうかということも、問われなければならないように思われる。そこに出演しているミュージシャンたちは言うまでもなく他のスペースでも活躍しており、たとえば六本木Super Deluxe、大崎l-e、桜台pool、東北沢OTOOTO、八丁堀七針、千駄木Bar Isshee、神保町試聴室など、他にも十分に窓口となり得るような音楽の現場が無数にあるのだ。さらにそれらの情報が掲載されたウェブサイトは、現在では「Improvised Music from Japan」だけでなく、それぞれのミュージシャンたちが容易にインターネット上に個人の拠点を作ることができるようになっているし、あるいはト調のように、都内のライヴ日程を価値判断を下す以前にひたすら収集し続ける驚異的なウェブサイトもあらわれてきている。本来であれば、そうした個別の現場とそこで活躍する単独者たちについて、ひとつひとつに丁寧に言説を付していくという作業が正しいことのようにも思う。しかしその個別の実践があまりにも膨大に広がっていることが、一般的なリスナーにとってどこから近づけばいいのかわからない難解さを生み出しており、さらにそうした多様性がむしろ興味を分散し触れてみる機会をも数少なくしてしまっているようにも思うのである。そうしたことを打ち破るきっかけとして、本稿のような踏み台の役割を果たす言説も必要なのではないか。無論、ここから先は、個別の読者が実際に現場へと足を運んでいくことが期待されている。ここで紹介した数々の実践は、それを目前にしてみるならば、音盤とはまったく異なる風景として立ちあらわれてくることだろう。そしてそれを未だなお「即興音楽」と呼び続けることが適切であるのかどうかは、今後あらためて議論されるべきことでもあるように思われる(35)

interview with tofubeats - ele-king

 他人のことを気にしないように
 後ろ髪を引く人ばかりに
 これ以上もう気づかないでいい
1曲目“CHANT #1”

 もう良し悪しとかわからないな
 君らが数百万回再生した
 バンドの曲が流れてきた
2曲目“SHOPPINGMALL”


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FANTASY CLUB

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 高校時代にシカゴ・ハウスやニンジャ・チューンなどを聴いた彼は、しかし自分の出自を曖昧にぼやかし、エレクトロニカや細分化されたインディ・ミュージックしか聴かない類のリスナー〈誰だ?)へ反論するかのように、TSUTAYAや郊外ショッピングモール、安居酒屋チェーン店、地方都市の衰退を日本の現代的土着性として再定義しようとした。文化的焼け野原を故郷とすることによる大衆へのアプローチ。そして、Jポップ的(マーケティングの入った)オリエンタリズムを逆利用すること、これが彼の戦略でありクリティックでもあったように思う。もちろん賛否両論あった。良きことのひとつを言えば、単純な話、若者たちに広く聴かれたことだ(おかげで彼の曲は彼の政治嫌いに相反して、デモにも使われた)。悪きことをひとつ言えば、それは単なるホントの、消費されるだけの商品としてのJポップにしかなりかねないことである(何が大切に聴かれ続けて、何が商品として忘れられるかは、10年後の中古盤屋──残っていればだが──を訪ねれば明らかになる)。
 トーフビーツの根は、インターネットを若者が活用できる時代に培われたという意味でも、セイホーやトヨムやグライム・プロデューサーの米澤慎太朗らとほぼ同じだが、その打ち出し方は極端に反動的で、彼はワーナーと契約したさいも大胆にも「就職」という言葉を使った。音楽を商売に限定することになると反感を覚える者も少なくなかったが、それは音楽業界への皮肉にも見えた。
 こうしてバブルガム・ミュージックを生産しようとした彼は、しかし、いまここにはいない。いまここにいるのは、時代に翻弄されている自分を隠さない彼だ。日本経済の格差問題は、大手メジャーと契約している若いミュージシャンもお金の心配を隠さずにはいられないというところにも滲み出ているわけだが(苦笑)、新作『FANTASY CLUB』で彼が告白しているのは、インターネット社会が信用ならないということで、それは「インターネット世代」という肩書きを甘受してきた彼にとって、言わずにはいられない状況にいま直面しているということなのだ。彼は本作において「見解」を述べている。
 また、喪失感はトーフビーツが最初から表現してきた感覚で、ジャム・シティの『クラシカル・カーヴス』や初期ヴェイパーウェイヴにも見いだせる感覚ではあるが、彼のそれは先述したように、極めて日本的な問題意識に立脚している。『FANTASY CLUB』の最初の2曲では、とくにそれがむき出しになっていると言えるだろう。
 このアルバムの魅力は、アルバム中盤に収められたインストゥルメンタルにもある。ベース・ミュージックを吸収した“OPEN YOUR HEART”とタイトル曲のディープ・ハウス“FANTASY CLUB”は、もうひとつのクライマックスであるということを忘れずに。アルバムの出だしが強烈なので見過ごされがちだが、地味に良い曲である。(まあ、彼らしいメランコリックな曲調でもある)

“ポスト・トゥルース”が物語るのは、それがもはや「ぼくたちのインターネット」ではないということだと思う。

新作を聴いて、驚いたので、担当の岩田さんに電話したんですよ。

TB:その話聞きました(笑)。超笑ったすね(笑)。即レスで電話してきた人なんて初めてじゃないですかね。

「どうしちゃったの?」って(笑)。まさかの展開に驚きましたよ。

TB:はははは!

音楽において自分の感情を露わにすることは無粋だという立場だったじゃない? 音楽はあくまでもポップス、エンターテイメントに徹するべきというスタンスで作ってきたわけで。それが新作ではさ……

TB:今回は奇跡的といえるほど制作に時間をかけられたんですよ。

なんていうんだろう……疑問であったり、居心地の悪さを真摯に伝えようとしている。で、岩田さんに言われて今回の作品のコンセプトにはポスト・トゥルースがあると、『ワイアード』の記事“SHOPPINGMALL”についてのインタビューを読んで欲しいと言われて、「なるほど」とは思いましたけど。

TB:はい。

『POSITIVE』から『FANTASY CLUB』へ、この変化についてまずは訊きたいんですけど。

TB:『POSITIVE』の頃よりも、まずは好きなことをやれる比率が上がったんですね。独立したんで。

なるほど。

TB:『POSITIVE』のときは、制作期間も1~2か月で、しかも敢えてJポップを作りたくて作ったんですけど、今回はその逆というか……、聴き手の好きなものなんてわかんないのに、「こんなん好きでしょ?」と出すのをいまやるのは失礼かなと。そんな風にやるのはやっぱり無理、というか……、あのときは「ポジティヴ」という言葉があったからなんとか明るい方向でまとまったんですけど、「みんなの総意」みたいな部分でいうと、もうそんなものはなかったと。

昔から言われている「細分化」ということ?

TB:そういうこともあると思います。細分化されていったけど、メジャーにいるとJポップを期待されてしまうんですね。プロだから商業として成り立つものを作らなきゃいけないという気持ちはあります。頑張ろうという気持ちもあるんですけど……、『POSITIVE』を作って、やっぱりそんなものはわかんないとあらためて思ったんです。みんながなにを好きなのかなんてわからないと、だったら、その「わからない」と真剣に向き合ってみようと。ノリや理屈で突破するっていうんじゃなくて、とにかく「わからない」と向き合ってみようと。そうして出来たのが“SHOPPINGMALL”という曲です。アルバムは、その曲が出来て転がっていったみたいな感じなんですよ。

『POSITIVE』への反動もあると。ぼくが思ったのはね、『First Album』と『POSITIVE』はプロデューサーとして作品に接していたと、しかし今回は作家として接していると。この違いは大きいですよ。アルバムの1、2、3曲目の流れが前半のクライマックスになっているんですけど、最初の2曲が強烈ですよね。そして6曲目以降はインストが続いている。トーフビーツのビートメイカーの部分をおもてに出しているとも言えるし、7曲目なんて聴くと、あれ、トーフビーツにこんなアンビエント・タッチのメロディ・センスがあるのかとも思ったし。

TB:“OPEN YOUR HEART”や“FANTASY CLUB”は『POSITIVE』のときにはもうあったんですけど、あのとき削った曲なんです(笑)。

それはなに、プロデューサーとしての意識が強かったから?

TB:たしかに『POSITIVE』のときは完全にプロデューサー目線で考えていましたね。『First Album』のときは自分の作家性を自分で解体しようとして、しっちゃかめっちゃかになった、というのが当時は反省としてあったんです。だから、よりはっきりプロデューサーを意識したのが『POSITIVE』です。そして、インディーズ時代の気持ちに戻って作ったのが今回のアルバムとも言える。自分が好きなものを出そうと、そう思って作りましたね。

ソランジュがひとつのきっかけになった、と?

TB:ビヨンセのアルバムの超パワフルさよりも、ぼくはソランジュに感動しました。ソランジュは、新しいことをやろうとしているし、向き合っているものが共同体というよりも自分……というか、範囲が狭いものだと思ったんですよ。この感覚は、ぼくが宇多田ヒカルさんの初期のほうが好きということとも共通するんですけど。『ア・シート・アット・ザ・テーブル』は4年くらいかけて作られて、ヴィデオもちゃんとしているし、丁寧なんですよね。どこかの誰かではなく、自分が見えているものごとを題材にしているからこその丁寧さだと思いますし、ソランジュを聴きながら、あらためて自分が好きなものを出すことにビビっちゃいけないと思ったんですよね。いまだからこそ言えますが、『POSITIVE』のときは、ビビっていたということが大いにあった。最大公約数的に、みんなが好きなものを作らないといけないというか。

そのプレッシャーを払いのけたと? 

TB:独立したし、ソランジュのそういう作品を聴いて、ということですね。

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だいたい、日本の音楽を見ていてこの先絶対に良くなっていくぞ、という予感がしなくなってきているんです。


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で、トーフビーツの新作のタイトルが『FANTASY CLUB』なんですけど……

TB:そうですね(笑)。

で、“SHOPPINGMALL”では「なにがリアル/リアルじゃないのか/そんなことだけでおもしろいか」と歌っているわけだけど、前作が“ポジティヴ”だったら今回は“ネガティヴ”と言えるでしょ?

TB:いや、それは違うっすね(笑)。今回のほうが絶対に明るい。でもこれはさっきも言った通り『POSITIVE』はネガティヴな気分も内包しているんです。やっぱりポジティヴにやらないと売れない、みたいな(笑)。

逆説的なネガティヴさね(笑)。

TB:極端な言い方ですけど、そこからスタートしている。だから“FANTASY CLUB”や“OPEN YOUR HEART”のような曲はハズしたんです。で、今回はそれらの曲を入れたいがために作ったとも言えるんです。なんとか愛着のあるものをまとめてみると、そういう部分が大いにあったんです。

“SHOPPINGMALL”みたいな曲も?

TB:“SHOPPINGMALL”はポッと出の曲みたいな感じなんで、ラッキー・パンチみたいなところもある(笑)。ずっと思っていることがバンと出たんで良かったんですけどね。今回は『POSITIVE』のときみたいに大きなゲストに声をかけるということをやらなくてもよかった。自分的には『POSITIVE』よりも腑に落ちているんです。聴き味はそんなに明るくないかもしれないですけど。

“SHOPPINGMALL”を風刺的と呼べるなら、ぞっとするような空虚な消費社会が見えるじゃない? 

TB:そんなにですかね。

メランコリックでいい曲だと思うし、いまの「これを出したいがために~」という話には納得したんだけど、トーフビーツがまさか否定からはいるとは思わないからさ、「なんでこうなっちゃたの?」という驚きはあった。いい意味でね。

TB:マジすか。でもこれは前作の“別の人間”という曲を聴いたときにも「こういう部分があるのか」って野田さんが言っていたと思うんですけど……その先にある感覚なんですけどね。

今回はその感覚をいちばん最初に持ってきているでしょ。トーフビーツがこんなにも違和感を露わにするなんて思ってもいなかったから。

TB:今回は攻撃的とも言われているんですけど。

はははは。その感想も理解できるな。

TB:他意はないんですよ。1曲目からさっき言った「わからない」ということがずっと続いているみたいな、「俺はわからないぞ」みたいな感じなんです。

1曲目の“CHANT #1”は、明らかにツイッター社会の嫌なところを題材にしているんだろうけど、“ポスト・トゥルース”というかね……ぼくは“ポスト・トゥルース”という言葉はBBCの年末特番で「今年のイギリスの流行語です」といって紹介されて知ったんですよ。トランプを例に挙げながら、なにが真実なのかということはもはや問題ではない、人はネットのなかに自分好みの真実だけを見るようになった、という説明をしていたのね。トーフビーツは自嘲気味に「インターネット世代といまだに言われるんですよね」ってよく言っているけど、インターネットの暗い部分がよりはっきり見えたというか、“ポスト・トゥルース”みたいな現象はその象徴なわけでしょう?

TB:うん、そうですね……というか“ポスト・トゥルース”が物語るのは、それがもはや「ぼくたちのインターネット」ではないということだと思う。もうそれは「インターネットの次の時代」の話というか、ぼくたちみたいに比較的最初のほうにパソコンでインターネットに触れていた人たちが陥っている状況というよりも、あとからスマートフォンで入って来た受ける側にしかいない人たちの話ですよね。

ウェブ・メディアをやっているとわかるのは、PV数の虚しさなんだよ。まとめサイトなんか、あれをニュースだと思ったらまずいよね。あれはトランプも芸能人スキャンダルもすべてが並列されるスーパーフラッター・ワールドで、重要性ではなく人気がすべてを決めるわけだからね。

TB:そうですよね。広告とか、バズみたいなことですよね。

インターネットのおかげで距離が離れた人たちと繋がった、コミュニケーションの可能性が広がった、あるいは自分の作品を聴いてもらえる可能性が広がったという素朴な感動とはもう別物になっているんですよね。

TB:そうなんですよ。もう真逆。ぼくらがインターネットをはじめたときは、地方にいても良いものを作ったらみんなに見つけてもらえる時代が来るぞと思っていた。でも、いまはむしろ逆で、言い方は悪いですけど下世話なものに流れていくようになった。それはもう自分が思っていたインターネットと違うんですよ。別物だけど自分はインターネット世代と言われるみたいな悲しさもあるし……とはいっても自分はツイッターもインスタグラムも使っているし。そんなことは言いながらも、使っているんですよね。こういうときにそういうこと(ネット文化)を揶揄するのは自分も使っているから難しいじゃないですか。ということを曲にできたらいいなと思って作ったのが“SHOPPINGMALL”なんです。

そうなのか。自分が使っているからといって批評性を放棄することはないわけなんですけど、1曲目がドゥーワップでしょう? ドゥーワップというのは肉声の文化じゃないですか。それだって深読みできるよ。

TB:あれはめちゃくちゃ編集してあって(笑)。それがめっちゃ面白い。オートチューンというものに対する接し方面白さを見せたかったんですけどね。

インターネットにはイエス、だけどノー。オートチューンについてもイエスだけどノーという(笑)。そのイエス、だけどノーというのが重要なんじゃないかなという気がするんですよね。どっちか片方に偏ってもろくなことはない。

TB:そうなんですよ。どっちもあるんです。たとえばいまは自分の正しさを証明することが難しくなってきているじゃないですか、というのもソースがインターネットだし。インターネットがどんどん信用できなくなっていくということはそういうことで、かといってリアルに戻ることはもう無理なんですよね。

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UKガラージやシカゴ・ハウスが好きなのは、なんだかんだ言いながらあの気合い……気合いって言い方だと陳腐になるんで嫌なんですけど(笑)。でもぼくが好きな曲は気合いが入っていると思うんですよね。


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FANTASY CLUB

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すごい時代だよね……では次の質問、『FANTASY CLUB』という言葉を選んだのはなんででしょうか?

TB:昔からこの言葉が好きなんです。ライナーでも書いたことなんですけど、最初に好きになったシカゴ・ハウスがPierre's Fantasy Clubの“Dream Girl”なんですよ。

いいね(笑)! 曲の出だしのリズムなんか、たしかにシカゴ・ハウスっぽい。ベースラインも良いし。

TB:“Dream Girl”を聴いてシカゴ・ハウスを知ったくらい。高校時代かな、知り合いの家に泊めてもらったことがあったんですけど、そこでTRAXのコンピを初めて聴いたんです。すごくいいなと思って、とくにDJピエールが。昔やった連載のタイトルに「Fantasy Club」って付けたほどです(笑)。たしかにアルバムのコンセプトに“ポスト・トゥルース”という言葉はあったんですが、“トゥルース”って言葉を使いたくなかったんです。

楽曲的には、今回のアルバムのなかではいちばんだよね、“FANTASY CLUB”が。ありていに言えば、ディープ・ハウスだよね。Jポップ的なオリエンタリズムに依拠する必要もない、すごく良い曲……で、またそのタイトルも……実はリアリズムについて歌いながらも『FANTASY CLUB』なわけで、そこにも含みがあるというか。面白いタイトルだよ。

TB:そう、イエス、だけどノー(笑)。

だから今回は、トーフビーツのシカゴ・ハウス愛を思い切り出しているんだけど、ただそれだけでもなく、聴き手に考えさせるアルバムだよね。

TB:“FANTASY”という言葉はにもそれがあるんですよね。あとは誤解を招く言い方ですが、リスナーを楽させちゃいけないというか。

なるほど。まあ……いくら音楽に政治を持ちこむことが嫌いなトーフビーツであっても、これだけ世のなかでいろんなことがあったらね。いよいよ(政治性を)出してきたかと(笑)。

TB:いやいや(笑)。……でも今回アルバムを作っていて、政治に関してはマジでうっかりしそうになりましたね。“SHOPPINGMALL”で止めておかないと、みたいな。

そうなの(笑)!

TB:本当にちょっと政治に入りかけて、でもそれは絶対に入れたらアカンと思って、まあ止めておきましたけど。

これはいつか決壊するときが来るぞ!

(一同笑)

TB:だからこれ以上治安が悪くならないで欲しい!

それか!

TB:頑張りきれなかったんですよね。気づかないでいいという言い方とかもそうなんですよね。

いいじゃないですか、ぜんぶ自分でコントロールできちゃうような、悩んでいない表現者なんか面白くないですよ。とにかく、内面ではせめぎ合いがあったんだね。

TB:あったんです。だいたい、日本の音楽を見ていてこの先絶対に良くなっていくぞ、という予感がしなくなってきているんです。

未来が見えないと?

TB:自分の回りの人たちはすごく頑張っているんです。セイホーさんとかすごいし……、セイホーさんからは「詳しく聴いてからもう一回言うけど、極端なアルバムを作ったね」みたいな話をされましたね。本当は極端である必要はないのに、そういうのは身を滅ぼす気もする、みたいな話にもなったりして(笑)。

落ちた?

TB:それはないですけど(笑)。

バランスは失ってないじゃないですか……アルバムは、1~2曲目こそ不安定さ見せるけど、3曲目“LONLEY NIGHTS”のポップスで持ち直すじゃない?

TB:あれはね……ヤング・JUJUがすごくポップに立ち回ってくれましたね。あれはマジで役割をまっとうしてくれたなと思います。

8曲目“WHAT YOU GOT”も面白いよ。日本人が一周回って外側からJポップをやる感じ、歌メロとかさ(笑)。

TB:そう言ってもらえると良いんですけど……でもなんとこう、作っている側も前向きになれないっていうか、そういう現実もあると思うし。

いまはいろんなことが同時に起こりはじめているよね? たとえば7インチ・シングルとカセットテープって、ぼくは一時のファッションで消えると思ったんだよね。しかし、海外はとくにそうなんだけど、新しいレーベルや若い世代であればあるほどカセットテープや7インチ・シングルを作っていっている。彼らはそれを目的とはしていないけど、そういうこと自体がスポティファイやYoutubeだけでいいのかということに対する批評性を持っているよね……まあ、自分もスポティファイは加入しているしさ(笑)。

TB:ぼくはアップル・ミュージックもスポティファイも両方入っていますもん(笑)。ただ、音楽をやっている人がいまの世相を映してないのはなんかおかしくないか、とはめっちゃ思っていて。10年前と同じようなものがあるのって日本だけじゃないですか。まあ世界でもあるけど……。

トーフビーツやセイホー君の世代がいるじゃないか。

TB:いるんですけど、まだ台頭していないというか。これからなのかもしれないですけど。

〈PC Music〉とか、あの辺りはどうなの?

TB:一緒にスタジオに入ったことがあるんですよ。彼らは確信犯で、インテリ、って感じの人たちで。ぼくは……ほら、シカゴ・ハウスの気持ちの入った曲が好きなんで。とりあえずドラム・マシンを鳴らして「ああー、テンション上がってきた!」みたいな。

音楽はやっぱりパッションだと?

TB:ぼくは基本そう思うんで。UKガラージやシカゴ・ハウスが好きなのは、なんだかんだ言いながらあの気合い……気合いって言い方だと陳腐になるんで嫌なんですけど(笑)。でもぼくが好きな曲は気合いが入っていると思うんですよね。

米澤慎太朗みたいなヤツとかね?

TB:シンタ君? そうです。ガリガリやのに気合いとかいうね。いいですね。

トーフビーツは若くしにデビューしたけど、いま名前が出たシンタ君とか、ほかにも京都のトヨム君とか、同じ世代が頭角を出してきているじゃないですか。

TB:シンタ君もトヨム君も同い年じゃないかな。トヨム君はずっとやっていたのを知っていたんで嬉しかったですね。

トーフビーツはデビューが早いからベテランみたいに見えるけど、実はまだ20代半ばちょっとで、若いんですね(笑)。

TB:なんだかんだで10年目くらいなんでね(笑)。だからモヤっとするのかもしれないですけど……、とはいえ、新しいものが出てきたぞって本当に思いたい、みたいなのがあって。セイホーさんはめっちゃそこを意識している。あの人がすごいのは、曲を聴いていて5秒後にどうなるのかわかんないんですよ。そういう感じはすごいと思うし、あんなふざけた感じのキャラしてますけど、ちゃんとやんないとできないんですよね。

よく聴いているってこと? 

TB:いや、「お前らこれ知らないだろ」系はいまはネットがあるんで通用しないですよ。

いや、レコード店でしかわからない情報はまだあるし。

TB:でもそれをカッコいいねと言ってくれる人はもういないから。

それはネットを過信している子たちでしょ。たとえば、〈OS XXX〉とか、レコード店に行かないと目に入らないでしょ。しかもレーベルのネーミングは面白いし。それでアシッド・ハウスとか言っているんだけど。DJプレイステーションとかさ(笑)。

TB:レイヴっぽいハウスみたいな。

そうそう、レイヴっぽい(笑)。若いんですよ。だから確実に新しい世代は出て来ているんだよね。日本でも『レトリカ』みたいなメディアも出てきているじゃない?

TB:野田さんから見ると「ようやく形になってきたぞ」みたいな(笑)。

そういうこと。スケプタとトマド君が並列されているあの感じは、ネットのフラットな世界とは違うよね。いまはネットでだいたいの情報は入手できるし部屋にいるだけでもある程度の文章は書けてしまうんだけど、『レトリカ』は直に取材して、話を聞いて書いている。彼らからはなにかを再定義しようとするパッションは感じた。インターネット世代でありながら紙メディアを作り、しかもバーコードは偽物……あのフェイクさも新しいよね。

TB:『レトリカ』の登場はぼくも久々にテンション上がったっすね。

そういうときに『FANTASY CLUB』という素晴らしいアルバムを作って、ある意味タイムリーじゃないですか。

TB:うん、自分でもけっこう区切りになりそうな気がしていますけどね。さっきも話に出たけど、FANTASYと言いながらリアリティある音楽だと思っているんで。

うん、そうそう。トーフビーツがようやく出てきたという感じ。

TB:残り少ない社会性を発揮したいな、というのもあるんで(笑)。

(一同笑)

 昨秋〈Honest Jon's〉からリリースされたアルバム『Disclosure』は、ダンスの機能性と音響のフェティシズムとを兼ね備えた佳作で、作り手のセンスの良さが伝わってくる素敵なアルバムだった(これもレヴューを書く機を逃してしまった1枚)。
 カッセム・モッセことグンナー・ヴェンデルはライプツィヒのテクノ・プロデューサーで、これまで〈Workshop〉や〈The Trilogy Tapes〉といった尖ったレーベルから作品を発表してきている。なんでも、ウータン・クランとペイヴメントとURを同時に愛す変わり者だとか。この俊英の出演するオールナイトのクラブ・イベントが5月19日に開催される。会場は代官山ユニット/サルーン。他の出演者も豪華だし、いやこれは行きたいね。

Millennium People presents
KASSEM MOSSE, RESOM, DJ NOBU, KABUTO

アンダーグラウンド・ヒーロー KASSEM MOSSE (カッセム・モッセ)による2年振りとなる東京でのライヴ、DJ NOBU と KABUTO による一夜限りの B2B セット、カッセムの盟友 RESOM (レゾム)が出演する刺激的なクラブ・ナイト。

開催日:2017年5月19日(金)
開場/開演時間:open / start: 23:30
入場料金:early bird: 2,000yen | adv: 2,500yen | with flyer: 3,000yen | door: 3,500yen
出演者:Line Up /

KASSEM MOSSE [Live]
RESOM
DJ NOBU (Future Terror) B2B KABUTO (DAZE OF FAZE)

HARUKA
1-DRINK
S-LEE

https://www.m-people-agent.com/millennium-people-presents-kassem-mosse-resom-dj-nobu-kabuto/

東京・代官山の UNIT/Saloon にて “Millennium People presents KASSEM MOSSE, RESOM, DJ NOBU, KABUTO” が開催

UNIT Floor は、ハードウェアを駆使したリアルかつ生命感あふれるライヴでクラウドを魅了し続けるアンダーグラウンド・ヒーロー KASSEM MOSSE (カッセム・モッセ)と、KASSEM MOSSE の地元ライプツィヒ時代からの友人で、「反ナショナリズム/反差別主義」を掲げるベルリンのクラブ〈:// about bank〉のレジデントDJであり、オブスキュアでレフトフィールドな選曲によるストレンジなプレイに定評のあるフィメールDJ、RESOM (レゾム)のふたりをドイツから招聘。対するは〈Future Terror〉主宰 DJ NOBU と、元〈Future Terror〉、現〈DAZE OF PHAZE〉主宰の KABUTO による一夜限りの B2B セット。

Saloon Floor は、6月に初の欧州ギグを予定している〈Future Terror〉の Haruka、Disco / House / Techno / Bass の境界を彷徨いながら、最近は更にピッチダウンした Electro Funk から Digital Dancehall まで展開する DJ 1-DRINK、DJ NOBU の新パーティ GONG の第1回にも出演した〈Riddim Noir〉主宰、新星 S-LEE の3組。

シーンきっての異才たちが結集して織りなすファットなグルーヴとユニークなリズム、アヴァンギャルドなエレクトロニック・サウンドが交錯する刺激的な一夜となるだろう。


【出演者紹介】

■ Kassem Mosse (Workshop, Honest Jon's, Ominira)

〈workshop〉からのリリースによりブレイクしたライプツィヒが誇る若手プロデューサー、グナー・ヴェンデル aka カッセム・モッセは、いまドイツで最も熱い実力派アーティストのひとりである。オマー・S の〈FXHE〉、ドイツの〈Laid〉や〈Mikrodisko〉、UKの〈nonplus+〉などからもアヴァンギャルドながら、ファンキーな魅力も併せ持つエレクトロ~ディープ・ハウス~テクノの傑作トラックを多数発表、カルト的人気を得ているアンダーグラウンド・ヒーローだ。同郷の盟友 Mix Mup とのユニット、MM/KM として〈The Trilogy Tapes〉からのリリースも評判になっており、自身のレーベル〈Ominira〉からも多様なスタイルの作品を発表、昨年は名門〈Honest Jon’s〉から実験的なアルバムを出し話題になるなど、非常に精力的ながら独自のスタンスで活動を続けているユニークな存在。また、パフォーマンスにおいても一点に留まることがない。つねにセッティングや内容を変え、2回と同じことはしない、まさに「ライヴ」感満点なセットだ。特に Kassem Mosse 名義ではヒップホップにも通じるラフなビート感、自然と身体が動いてしまうグルーヴを備え、何度見ても新しさを発見させてくれる。

https://ominiraisfullofnoises.org
https://osresonance.net
https://www.facebook.com/kassemmosse
https://twitter.com/KareemMoser

■ Resom (:// about bank)

この1~2年で急に頭角を現してきたように見える(かもしれない) Resom (レゾム)は、ベルリンではよく知られた存在だ。反ナショナリズム、反差別主義を掲げる、ベルリンの中でも特にリベラルなスタンスのクラブ、〈:// about bank〉のレジデントDJを長年務め、ライプツィヒでの学生時代からの友人であるカッセム・モッセや Mix Mup (ミックス・マップ)らを陰で支えるブッキング・エージェントとしての顔も持ち、それ以外にもつねに様々なイベントのオーガナイズや、制作に関わってきた。音楽業界における女性の地位向上のためにも行動する、フェミニストでありアクティヴィストでもある。そのDJスタイルは一言では形容しがたい、非常に独特なもので、ジャンルで言えばアンビエントからエレクトロ、歌物からミニマルまで非常に幅広く縦横無尽にミックスしていくのだが、ただ色々かけているというのではなく、彼女の中で明確なイメージやテーマがあり、それをもっともオブスキュアでレフトフィールドな選曲によって紡ぎ出していくような、まったく予測不可能ながら、いつも彼女らしいちょっぴりストレンジな高揚感に到達させてくれるのである。Ben UFO や DJ NOBU も絶賛する彼女の個性を、ぜひ一度体験してみて欲しい。

https://www.residentadvisor.net/dj/resom
https://soundcloud.com/resi-resom
https://www.facebook.com/resom


【リリース情報】

アーティスト: Kassem Mosse / カッセム・モッセ
タイトル: Disclosure / ディスクロージャー
レーベル: Honest Jon's / Pヴァイン
品番: PCD-24562
発売日: 2016.10.19
価格: 2,400円+税
解説: Yusaku Shigeyasu

[Tracklist]
01. Stepping On Salt
02. Phoenicia Wireless
03. Drift Model
04. Galaxy Series 7
05. Collapsing Dual Core
06. Monomer
07. Galaxy Series 5
08. Aluminosilicate Mirrors
09. Long Term Evolution
10. Molecular Memories
11. Purple Graphene

https://p-vine.jp/music/pcd-24562


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