「PAN」と一致するもの

宇多田ヒカル - ele-king

情愛の濃さを一方的に注いでいる状態、全身的に包んでいて、相手に負担をかけさせない慈愛のようなもの、それを注ぐ心の核になっていて、その人自身を生かしているものを煩悩(ぼんのう)というのです。……愛という言葉はなんとなく、わたくしどもの風土から出て来た感じがしませず、翻訳くさくて使いにくいのでございますが、情愛と申したほうがしっくりいたします。そのような情愛をほとんど無意識なほどに深く一人の人間にかけて、相手が三つ四つの子どもに対しても注ぐのも煩悩じゃと。石牟礼道子「名残りの世」

 ポップ・ミュージックにおける「わたし(I)」と「あなた(YOU)」をめぐる歌は、たいてい「ラヴ・ソング」とくくられがちなのだけれど、そこでの「愛」はセックスの欲望をふくんだ恋愛関係だけに限られるものではけしてなくて、セクシャルな欲望よりももっと大きく、深く、強い感情もそう呼ばれる。慈愛……なんていえば聞こえはいいけれど、人は生まれて、必ず死ぬから、その愛も必ずいつか断ち切られる痛みをともなう。水俣公害の苦難を描いた『苦海浄土』で有名な熊本土着の作家、石牟礼道子は、ネガティヴな仏教用語をほがらかに裏切った民衆の言葉づかいで、その愛を「ぼんのう」と肯定的に呼んだ。それはこの国の大衆=ポップの言語感覚だ。

 インタヴューなどではっきりと語られているように、この『Fantôme』には、3年前に急逝した宇多田ヒカルの実母の存在、というか不在が横たわっている。もちろん歌は歌だし、言葉は言葉だ。ポップ・ミュージックに見いだされる意味はいつだって複数あって、それらはときにアーティスト本人のなかでさえ不確かに重なり合いながら発せられ、オーディエンスに受け取られる。このアルバムで生々しさを増した彼女のヴォーカルは、あくまで普遍的なメロディと言葉に落としこまれることで、ポップ・ソングとしての透明な強度を保っている。とてもパーソナルで、シリアスなモティーフを扱っているのに、とても開かれていて、ぞっとするほど優しい。

 いつか彼女がフェイヴァリットとしてあげていたのは、コクトー・ツインズやPJハーヴェイ、シャーデー、それに実母である藤圭子といったシンガーとともに、アトムス・フォー・ピース、フランク・オーシャン、最近ではOPNとハドソン・モホークの手を借りてアノーニへとトランスフォームしたアントニー・アンド・ザ・ジョンソンズといった名前だった。それでなんとなく、復帰後のアルバムはポップ・ソングの形式を前衛的に溶解させるものになる可能性もあるのかなと思ったのだけれど、このアルバムのたたずまいは、あくまでクラシカルでオーセンティックだ。多くの曲でエンジニアとしてクレジットされているのはスティングやU2、昨年のグラミーで4部門を受賞したサム・スミスなどを手がけたスティーヴン・フィッツモーリス。マスタリングはスターリング・サウンド。ベースになっているのは丁寧に音響処理された生楽器の演奏、彼女自身の手によってプログラミングされた電子音、それに静謐でドラマティックなピアノだ。

 『Fantôme』は宇多田ヒカルの8年半ぶりのオリジナル・アルバムということになるけれど、その長い沈黙を意識したことがない人間でも、彼女の名前と顔、そしてその声を知っている。前世紀末にピークを迎えた20世紀の大衆音楽の巨大産業化の波は、日本では「Jポップ」と呼ばれるムーヴメントとして現れた。そのスター・システムの最大で、おそらく最後の申し子。平成日本のポップ・スター。

 21世紀になってCDの売上がごっそりと減り、音楽シーンの断片化が進み、ストリーミングの普及によってさらに流動的な多極化が進む現在、「ポップ」という言葉を定義するのはますます難しくなりつつある。それでも、1990年代末に物心がついていた世代で、彼女の声をまったく聴いたことがない人間というのは日本にたぶん存在しない。本当に存在しないかなんてわからないけれど、わからなくてもそう言わせてしまうのがポップ・スターというものだ。15歳でデビューした彼女は、アルバムを重ねるごとにシンガーとしてだけではなく、自分自身に対するプロデューサーとしても成長していった。名実ともにポップ・フィールドの頂点にいるのに、どこか居心地の悪そうな表情を浮かべながら。宇多田ヒカルはやがて2010年に「人間活動」を宣言し、表舞台から姿を消した。

 このアルバムはリリース直後、アメリカのiTunesで6位にチャート・インした。かつて全編英語詞でのぞんだ2枚のアルバムが商業的には苦戦したことを考えれば、ほぼすべて日本語で歌われるこのアルバムのチャート・アクションは驚くべきことだ。ティンバランドやトリッキー・スチュアートといったプロデューサーを起用したそのアメリカ進出のアルバムについて、彼女が強く感じた違和は、英語による詩作よりも、自分の作品に自分以外の声を入れること、だったそうで、それはこれまでの彼女のアルバムがいつもどこか密室的な空気を漂わせていたことと無関係ではないと思う。その宇多田ヒカルがこのアルバムに自分以外の人間の声を歓迎した。元N.O.R.K.の小袋成彬、椎名林檎、そしてKOHHだ。クレジットで確認する限り、KOHHは唯一、声だけではなく言葉をこのアルバムに捧げている。

 そういえば彼女のアメリカでのアーティスト・ネームは、「UTADA」だった。ファースト・ネームじゃなくファミリー・ネーム。すでに2012年に発表されていた“桜流し”をのぞけば、アルバムのクライマックスと呼ぶにふさわしい“忘却”に招かれたKOHH。彼もまた、幼い頃に死別した実父のファミリー・ネームを名乗る人物だ。著名な音楽一家で英才教育をうけ、10代のなかばでポップ・スターになったニューヨーク帰りの帰国子女と、父親との死別と母親の薬物中毒を赤裸々に歌いながら日本のアンダーグラウンドなトラップ・ミュージックの立役者となった、北区王子の刺青だらけのラッパー。いかにもメディア好みの組み合わせだし、間違いなく現在の日本のポップ・シーンで最大級の事件ではある。けれどここにあるのは、それぞれに周囲から押しつけられる「特別さ」に背を向け、手ぶらでみずからの根源的な喪失の経験に向き合おうとする、ふたりの人間の誠実な姿だ。

 みな望んでこの世界に生まれてくるわけではない。誰も生まれる家族や場所を選べない。突然ある国に、ある家族に、ある肉体に産み落とされ、ある言語を、人種を、国籍を、セクシャリティを、肌の色を、からだの形を受け入れることを強いられる。どんなに普遍的に表現しようとしても必ずある特定の言語に縛られてしまう「言葉」を、誰もが感覚的に感知できる「音」へと変換することを「歌」と呼ぶなら、歌とは、不自由な世界で自由であろうとする意志のことだ。

 リード・トラックは宇多田自身の手によってプログラミングされたシャープで吹っ切れたダンス・ポップ、“道”。フックの「It’s a Lonely Road, but I’m not Alone」という嗚咽のような切実なリフレインは、リズムに乗ったファルセット・ヴォーカルの軽快さによって引っ張られつつ、直後の「そんな気分」でチャーミングにはぐらかされる。まるでタトゥーのように心の傷跡を引き受けること。不在という形の存在=ファントーム(幻/気配/亡霊)というアルバム・タイトルの秘密は、ここであっけらかんと明かされる。

 ダブル・ベースに誘われた濃厚なバンド・セットで共依存的な男女をロール・プレイする“俺の彼女”。歌声のトーンと一人称を使いわけ、空虚なマチズモをフェミニスト的な視線でアイロニカルに戯画化するのかと思いきや、それだけではなく、見せかけの強さと共犯関係にある、ほの暗い内面のもろさを描く。重なり合わない男女のモノローグの並列は、ストリングスをバックにしたスリリングな欲望を訴えるフックをはさんで、振り出しの男の語りに巻き戻され、宙吊りのまま終わる。この曲のクライマックスにフランス語で忍ばされた「永遠(L'éternité)」をめぐる関係性のモティーフは後半、ヘルマン・ヘッセを呼び出しながら勇ましいホーンを響かせるファンク・チューン“荒野の狼”では逆に、今度はお互いに交差することができずに「永遠の始まりに背を向ける」人間同士の孤独として変奏される。

 ヒップホップ的なリズム・セクションで始まり、インコグニートのベーシストが心地よくベースを滑らせる“ともだち”は、本人がインタヴューでLGBT的な問題系を意識して作曲した、と発言したことで一部で話題になっている。きわめて保守的なジェンダー観をかかげる自民党の政治家までがレインボー・プライドのパレードに顔を出す現在、そうした解釈が可能なポップ・ソングが日本語圏で歌われること自体はそこまで驚くべきことじゃない。けれど、ポップスの社会的インパクトが歌詞のメッセージうんぬんを超えて、それが誰によって、どんな場所で鳴らされるかによって現実を揺さぶるパワーを生み出すのだとすれば、この曲はやはりとてもアクチュアルだ。

 この夏、都内のあるロースクールで同級生による同性愛のアウティングによって命を絶った青年の事件が明るみに出た。遺族の会見での言葉、あえて公開されたプライベートなLINEでのやりとりのディティールなど、いまだこの社会に蔓延するセクシャル・マイノリティに対する無理解の残酷さを痛感させる出来事だった。小袋成彬の深みのあるヴォーカルをバックに、あくまで軽いトーンで口にされる「君に嫌われたら生きていけないから」というボーイ・ミーツ・ガールのクリシェは、ボーイ・ミーツ・ボーイにも、ガール・ミーツ・ガールにも、あらゆる関係性にむけて開かれることで、ひどく生々しい痛みを表現してしまっている。それにしても、「ハグ」と「キス」のあいだの無限の距離をじれったく逡巡する歌声、口には出せない嫉妬や性的なファンタジーをほのめかす言葉、そんな葛藤を無視して悪戯っぽく欲望を煽るホーンのアレンジ……社会的なコンテクストうんぬんを抜きにして、まずはポップスとしての緻密な魅力をこの曲が持っているからこそ、そこにはあらゆるアイデンティティを超越する力が宿っているのだ。

 もっとも力の抜けたストレートなヴォーカルを聴かせる“花束を君に”は、オフコースやチューリップを意識してソング・ライティングされたというオーセンティックな葬送曲だけれど、それは「薄化粧」というワンフレーズで匂わされるだけ。それにアルバムで最初に完成させたという、悲恋の歌のようにも聴こえる追悼歌“真夏の通り雨”の、コーラスと呼ぶにはあんまりな言葉をリフレインしながらのフェード・アウト。爪弾かれるハープの響きに夢のあわいから拾ってきたような詩を並べる“人魚”は、左右のチャンネルに丁寧に振りわけられたドラム・パターンの絶妙なズレが心地よく鼓膜を撫でる。

 “二時間だけのバカンス”でデュエットする椎名林檎とはいつかカーペンターズの“アイ・ウォント・ラスト・ア・デイ・ウィズアウト・ユー”をデュオでカヴァーして以来のオリジナルの共演だ。この曲自体が、切実なモティーフにあふれたアルバムのなかで、それこそ古くからの友達に誘われて出かけたような解放感に満ちている。そしてある1曲をはさんでラストの直前、サム・スミスの“ステイ・ウィズ・ミー”でも響いていたシルヴェスター・アール・ハーヴィンの抜けのいいスネアに後押しされ、彼女のソロ・ヴォーカルが跳ねる“人生最高の日”。「歓声にも罵声にも拍手喝采にも振り返んない」というラインは、KOHHがフランク・オーシャンの“Nikes”への客演で披露した「自由にする/まるでパリス・ヒルトン」という、毎分毎秒、何億万分の一の出会いの可能性を祝福するラップの転生した歌声のようにも聴こえる。

 ラスト・ナンバーは“桜流し”。仏教的な諸行無常の死生観、本居宣長以来のその日本ヴァージョンとしての「桜」というモティーフ。繰り返す生と死……いや、それでも決定的な死はある。「もう二度と会えないなんて信じられない」からのぞっとする絶望と諦観は、このトラック・リストの最後に置いてしまえば、どうしてもアルバムの核に置かれた、家族をめぐる喪失のストーリーを連想させてしまう。けれどこの曲はその決定的な出来事の前に発表されているのだ。あらゆる別れはひとつの死であること。すべての葬送は生き残った者たちのためのセラピーであること。この曲が、まるでその喪失にむけて歌っているように聴こえてしまうことは、なによりも彼女のソング・ライティングの普遍性を物語っている。

 そして作品が他者に開かれたという意味でも、アルバムを通じたハイライトといっていいだろうKOHHとの“忘却”。最初はノイズだと思った。クリアに、そして重く鳴る心臓の音。すぐにアンビエント的に風景を覆い尽くすストリングスが鼓膜を支配して、後ろでピアノが踊り、曲の三分の一がそのまま過ぎる。前触れもなくヴォーカルが入る。「好きない人はいないもう/天国か地獄」。黄達雄(KOHH T20)という強烈な固有名詞は、「三歳の記憶」、「二十三年前のいい思い出」という記号的な数字にそっけなく置き換えられる。「思い出せないけど忘れられないこと」について韻律をたどる男の言葉に亡霊のように女の声がよりそい、やがてラップが途切れると、女の声が生々しく実体化する。「熱い唇/冷たい手/言葉なんて忘れさせて」。次のヴァースでぶっきらぼうに女の背中を押すラップは、「吐いた唾は飲むな」、「男に二言はない」といった男性的なジェンダー・ロールを裏切り、ラストのオルガンにのせた「いつか死ぬとき手ぶらがベスト」という彼女のパンチラインに引き継がれる。ふたりの声は、ぎりぎりまで接近して、だがはっきりとは交わらず、ただ言葉だけがダイアローグをつなぐ。足をすくうベースの低音の浮遊感に抵抗するかのように、心音はいつのまにか力強いドラムスに変わっている。

 日米のヒップホップにおけるラップの主流が、セルフ・ボースティングによるマチズモと具体的な固有名詞を駆使したリアリズムをベースとしていることを考えれば、ここでのKOHHのラップはひどく特異だ。最近の彼のラップ、たとえば『DIRT』シリーズ以降のいくつかの曲の英訳に目を通すと、ほとんどヒップホップのリリックとは思えないほどのアブストラクトさを実感する。「女と洋服と金」というトラップ・ラッパーとしての彼のマテリアリズムとは真逆の、スピリチュアル・ミュージックとしてのラップ。時代のアイコンであることを背負わされたポップ・スターが、ごくごくパーソナルな喪失の経験に生身で向き合う、その最奥の現場で、あまりに人間的なリアリティを歌ってのし上がったラッパーが、これまでにないスピリチュアリティに接近している。ここにあるのは、ポップ・スターのロール・プレイでも、ヒップホップ的な成り上がりのストーリーでもない。

 このアルバムを語る際、しばしばイギリスのアデルが引き合いに出されているようだ。それは国民的なポップ・スターとしての存在感、という意味ではなるほど頷けるものの、しかしすくなくとも純粋に音楽的にいえば、どちらかといえばコンサヴァティヴなたたずまいのアデルに比べて、卓越したグッド・リスナーとして吸収したエッジーな音楽的要素を独自に消化し、普遍的なポップスに組み上げる宇多田ヒカルの手腕は際立っている。そのことを別にすれば、そういえばアデルの大ヒット曲“ホームタウン・グローリー”は、そのサンプリングをネタにイギリスの各地のラッパーたちがそれぞれの地元をレプリゼントする曲をYouTubeに発表するストリート・アンセムになっていた。それはたしかに、日本のヒップホップ・シーン界隈での宇多田ヒカルの根強い人気にもオーヴァーラップする。PSGのPUNPEEがDOMMUNEでのスペシャル・セッションで示したように、ニューヨークのハードコア・ラップのキング、ナズが“ザ・メッセージ”でサンプリングしたスティングのあの“シェイプ・オブ・マイ・ハート”のギター・フレーズは、ここ日本では、「二人で靴脱ぎ捨てて、はだしで駆けていこう」という“NEVER LET GO”の彼女の甘い歌声とともに記憶されているのだ。

 そして、デビューしたばかりだったKOHHの“MY LAST HEART BREAK”での、“SAKURAドロップス”のサンプリング。スキャンダラスなラインとヴィデオばかりが話題になりがちだけれど、あそこでKOHHは、ひどく猥雑なラップの隙間で、「これが最後のハート・ブレイク」という原曲の歌詞を「これが最後の傷だから平気/自分に言い聞かせる」というリリックでさりげなく引き継いでいた。「壊れない心臓」という歌い出しで始まるあの曲が、登場時のKOHHのまるで内面を欠いたエイリアンのようなメンタリティの誕生を記録した曲だったとすれば、ふたりの新たなフェーズを予感させるこの曲でのセッションは、飛び交うハイプとはまったく無関係なところで、やはり記念碑的な意味を帯びている。

 「宇多田ヒカル」というひとりの人間について語ろうとすれば、天才と呼ばれるその才能であるとか、特殊といえば特殊なその生い立ちであるとか、どうしても特別なドラマがつきまとう。もちろんポップ・ミュージックはそうしたバックグラウンドさえ原動力にしてさまざまな感情をオーディエンスから引き出すものだ。けれどここにあるのは、誰もが誰かの子であり、ときには父や母となり、そして誰しもいつかは喪失を経験する、というシンプルなリアルだ。普遍的な喪失の経験に向き合おうとするこのアルバムの誠実さを、もしドラマティックと呼ぶのなら、どんな人間の生もドラマティックなのだ。彼女のパーソナルなセラピーの記録でもあるこのアルバムは、大切なのは「特別であろうとすること」じゃなく、「自由であろうとすること」なのだと教えてくれる。世界の不自由さをいったん受け入れ、それでもそこには「自由になる自由がある」と。宗教思想においては煩悩と呼ばれる愛も、諸行無常の死生観も、しなやかに飲みこんで笑ってみせる大衆音楽=ポップスのぞっとするような力がここにはある。

 2016年、カニエ・ウエストにせよビヨンセにせよフランク・オーシャンにせよ、話題作をリリースしたトップ・アーティストたちはいずれも、リリース形態そのものがアート表現の一部であるといっていいような動きをみせていた。そうでなくても、この日本ではポップ・アイコンに否応なくつきまとう「物語」への消費欲望だけをあっけらかんとアンプリファイしてCDの売り上げに結びつけるセールス方法が定着してひさしい。データ配信やストリーミングの普及と、アナログ・レコードへのフェティッシュな回帰のはざまで、CDというメディアは過渡期のものとして衰退していく運命にあるとの声もあるほどだ。そんななか、彼女は特典もなしのフィジカルCDとiTunesによる配信という、とても素朴なフォーマットでこのアルバムをリリースした。そこには、自分の音楽に対する自負……というよりは、なにかもっと力の抜けた、大げさにいえば、自分を取りまく世界に対する信頼のようなものを感じる。

 宇多田ヒカルが愛読しているという話もある小説家、中上健次の音楽論はけっこうデタラメなものも多いのだけど、もっとも印象的に記憶しているもののひとつに、耳と音にかんするものがある。耳は目や口と違い、閉じることができない感覚器官だ。しかも脳にいちばん近い。だからそれはもっとも脆く、それゆえ聴覚とは生命や霊のヴァイブレーションをもっとも鋭敏に感じとる器官なのだ……と彼は真剣に論じていた。冗談のようなその熱弁にならうなら、このアルバムでもっともスピリチュアルな場所で鳴らされる音は、生命のヴァイブレーションそのものである、心臓のたてる鼓動だ。誰も自分の心音を直接に聴くことはできない。鼓動を聴くためには、誰かの胸に耳を押しあてる必要があるし、鼓動を聴かせるのなら、誰かの頭を胸に抱く必要がある。聴くこと、聴かせることは、誰かを信じることなのだ。

トクマルシューゴ - ele-king

 10月19日に4年ぶりとなるニュー・アルバム『TOSS』をリリースするトクマルシューゴ。楳図かずお原作、フィリップ・ドゥクフレ演出、高畑充希&門脇麦主演のミュージカル『わたしは真悟』の音楽を手掛けることでも話題となっている彼だが、このたび、『わたしは真悟』のイラストをアレンジした『TOSS』の〈楳図かずおアナザージャケット・バージョン〉が数量限定でリリースされることが発表された。
 他にも各種特典やTV出演などが続々と決定している。詳細は以下を!

トクマルシューゴのニュー・アルバム『TOSS』に、衝撃の超限定<楳図かずおアナザージャケット・バージョン>が登場!
さらに特典情報やTV出演情報などニュースがてんこもり!

【ニュース 1】
楳図かずお「わたしは真悟」のイラストを大胆にアレンジした『TOSS』<初回限定アナザージャケット・バージョン>発売決定! 限定店舗のみで販売の完全数量限定生産盤につき、即完売→プレミア化は必至です!

トクマルシューゴ
『TOSS』<初回限定アナザージャケット・バージョン>

2016.10.19 in stores
PCD-26066 ¥2,685+税
★完全数量限定生産
★一部店舗のみでの限定販売
※アナザージャケット以外のパッケージ仕様、収録曲は通常ジャケット・バージョン(PCD-26065)と同様です。

[販売店舗]
・タワーレコード:札幌PIVOT店/仙台パルコ店/渋谷店/新宿店/池袋店/秋葉原店/吉祥寺店/町田店/横浜ビブレ店/名古屋近鉄パッセ店/名古屋パルコ店/京都店/梅田大阪マルビル店/梅田NU茶屋町店/難波店/神戸店/広島店/タワーレコードオンライン
・ディスクユニオン:新宿日本のロックインディーズ館/御茶ノ水駅前店/大阪店/オンラインショップ
・ヴィレッジヴァンガード下北沢店
・ローチケHMV(オンライン)
・アマゾン
・TONOFON SHOP

【ニュース 2】
アルバム初回特典として、ボーナストラックのMP3ダウンロードURL付き<紙ホイッスル>を封入! ただのダウンロード・カードにあらず! 組み立てると楽器になっちゃう優れもの!
※アナザージャケット・バージョン、通常ジャケット・バージョン共通特典

【ニュース 3】
アルバム・パッケージは、遊び心に溢れたスペシャルポップアップジャケット仕様! 中身は手に入れてからのお楽しみ♪
※アナザージャケット・バージョン、通常ジャケット・バージョン共通仕様

【ニュース 4】
恒例のTONOFON SHOP限定特典も決定!
新作『TOSS』アナザージャケット・バージョン、通常ジャケット・バージョンを<TONOFON SHOP>にてお買い上げの方に、先着でオリジナル巾着をさしあげます♪
https://shop.tonofon.com/

【ニュース 5】
トクマルシューゴがNHK総合「バナナ♪ゼロミュージック」学校音楽SPに出演します! オンエアは10/8(土)!お見逃しなく!

[番組詳細]
2016年10月8日(土)23:25〜 OA
NHK総合「バナナ♪ゼロミュージック」学校音楽SP
【司会】バナナマン, 久保田祐佳,
【出演】あばれる君, 生田絵梨花, 石井竜也, 桐山照史(ジャニーズWEST), 重岡大毅(ジャニーズWEST), 嗣永桃子, トクマルシューゴ, オルケスタ・バナナゼロ・ムジカ
https://www4.nhk.or.jp/bananazero/


<商品情報>

トクマルシューゴ
『TOSS』

2016.10.19 in stores
PCD-26065 ¥2,685+税
★初回生産分のみダウンロードURL付き紙ホイッスル封入
★スペシャルポップアップジャケット仕様
※価格が¥2,600+税から変更となりました。

Frank Ocean - ele-king

あなたの表面に浮かぶ印
あなたのしみだらけの顔
傷ついたクリスタルが
あなたの耳からぶら下がって
あなたの怖れは 僕には計り知れなかった
僕は仲間たちには 共感できない
本当は 外側で生きたい
ここにいて 頭がおかしくなるくらいなら
むしろ僕のプライドを粉々に砕いた方がましだ
たぶん僕は馬鹿なんだ
たぶん僕は移動するべきなんだ
どこか落ち着けるところへ
二人の子供たちとプール
僕は臆病者だ
僕は臆病なんだ(★1)

 ポップソングが持つ、既存のフォーマットに絡め取られず、果てしなく自由であること。ルールで固められたホームの、遥か上空を浮遊すること。彼が臆病でないことは、このアルバムの作りを見れば分かる。彼は移動する。

 彼は内側から外側へ移動する。あるいは境界線を移動させ、外側を内側に引き入れる。しかし内側と外側は、見方ひとつで反転してしまう。

 17の名前が付けられたピースたちは、典型的なR&Bの楽曲の長さと比較して、不自然なほど長くてもいいし、逆に短くてもいい。それはシンガーソングライターのソロ・アルバムだが、必ずしも、常に歌声が聞こえていなくてもいい。ビートは、何らかのテンポを刻むが、ダンスフロア向けにチューニングされていなくてもいい。それが、外側で生まれたこのアルバムの色。歌モノのクリシェの外側へ、彼が移動することで拾い上げた、ブロンド色。

 何かを拾い上げたということは、何かを捨てたということだ。フランクが捨てたものたち。そのひとつ。バックビートに打ちつけるスネア。もしくはバックビートをひとつのカテゴリとするビートそのもの。現代的なR&Bの世界の内側がこれまで共有してきたバックビートを疑うこと。結果、中盤から後半にかけて、スネアとキックなき楽音がビートを刻むプリミティヴな風景が展開する中、途中キックとスネアの世界観に回帰する“Close To You”のどこか牧歌的な響き。

 一拍目のキックで沈み込む身体を引き上げるスネア。抑圧された欲望を解放するクラップ。言い換えれば、目の前のあなたを抱き締めることの、あるいは殴りつけることの表象としてのスネア。これらのクリスピーな因子たちを沈黙の沼の底に放置することで、示す、反動。

 あるいはぶつ切りにされ、突発的に挿入されるコラージュのサウンド・ピース群。ティム・ヘッカーやOPNが弄ぶ時空の歪みが、随所に配置された60分超の音の連なり。たとえば“Nights”や“Godspeed”の曲中で肌触りが異なるピースが導入されたときの、あなたの驚きの表情、あるいは好奇心に満ち、仄かに潤んだ瞳の輝き。カーテンが引かれる動作とともに、突然喜怒哀楽の価値が入れ替わったり、心地よさの定義が転覆されたりする世界。

 尺の長い曲と短い曲のふるまいの、圧倒的な差異。まずは、長い曲。弾き語りの楽曲は裸体だ。その裸体に、どのように布をあてがって、隠しながら曝け出し、ラインを強調し、あるいは輪郭を霧で包むかを探求しているのが、フランクのプロダクションだ。ドライな音場でピアノやギターに伴奏される彼の歌声は、あなたが手を伸ばせば、触れられるほど、そこにある。一方で、深い残響音の支配する音場で、彼の歌声は、あなたの目が届かないところまで離れゆく。リヴァーブやディレイは、あなたとの距離を測る物差しだ。いや、そもそもラヴ・ソングというもの自体が、あなたと誰かの距離を測る観測機なのだから、フランクが投げかけるサウンドの肌触りに、あなたは素直に近さや遠さを感じればいい。

 次に、尺の短い曲。たとえば、アンドレ3000のライムで埋め尽くされた“Solo (Reprise)”。フランクはどこで何をしているのか。そこにあるのは、アンドレのライムと、フランクの不在を証明するビート。不在のピアノコード。彼を象徴する歌声を不在とすることのオーラにより、逆に存在感を強調すること。マイルスがトランペットを置いて、オルガンを叩いた“Rated X”のように。セカンド・アルバムにして、すでに不在でいられることへの驚嘆。

 マガジン付属版のオープニングを、加工したヴォイスと日本人のラッパーのライムで飾ること。「君たちを預言者にしてあげる/まずは未来を見てみよう」と歌うフランクに、「今しかない時間/大事にしな/何憶万人も/いい人ならいるよ」と返答するKOHH。逆にKOHHのヴァースの「誰かのことを/誰も縛れはしない/他人の心」というラインに、フランクはアルバムを通して対峙している。人はそれぞれが、他人には計り知れない「怖れ」を抱えている。

 2012年、フランクは4つ前の夏の記憶、つまり19歳のときの夏の記憶をネットで世界に向けてカミングアウトした。彼は、自分と同じ19歳の青年を前にしたその時の状況を「絶望。逃げ場はない。その感情とは交渉の余地はなかった。選択の余地もなかった。それが初恋だった。それが僕の人生を変えた」と記した。

1942年生まれ、ニューヨークはハーレム育ちのアフロアメリカンでゲイのSF作家、サミュエル・R・ディレイニーは、ダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」を批判する論考である「サイボーグ・フェミニズム」の中で次のように述べている。

ひとつの立場から、私は読む。
ひとつの立場から、私はこの読みかたには何かが欠落しているように思う。
かくて、私はひとつのテクストを──テクストのシミュレーションを──ひとつの立場からもうひとつの立場へ手渡す。私のものとはいいがたい借りものの立場から、あなたのものともいいがたい立場へ。このテクストは私のところへ回ってきたが、あなたもまたこれを誰かに手渡すだろう。(★2)

フランクがこのアルバムで模索し、示そうとしているのは、過去に描かれたことのない、歌と、感情と、愛と、人間のあり方だ。かつてディレイニーが僕たちの外側の生物/機械や世界を描いたテクストで、それらを探究したように。フランクは、外側との境界線を軽々と跨ぎながらも、友人や恋人との関係を通して、人は自己の意識の内側、そして皮膚の内側に留まらざるをえないという事実を繰り返し突きつけられる。そして“Be Yourself”ではロージー・ワトソンによってピア・プレッシャーの無化が諭され、“Solo”では「So low」な自身の内側において、孤独=soloであることの高み=ハイになることのポジティヴネスが探られる。

しかしフランクが“Nikes”という楽曲において、ひいてはこのアルバムにおいて証明していることがある。70億の二乗で示される組み合わせから、28歳のルイジアナ育ちのLAのシンガーと、26歳の王子のラッパーのヴァースが連結されることで、何が見えるのか。その、目も眩むような、確率の脆弱さ。そして、その吹けば飛んでしまいそうな確率が生き延びたことで現れた、外側と内側を重ね合わせることで生じるランドスケープの新奇さ。そして、あなたは気付くかもしれない。あなたの日常における他者との出会いも、実は、このように新奇な風景を更新しているのだという事実に。それぞれの怖れは個別のものでも、その怖れから生まれる言葉は共有されうる。他人の内側の怖れは共有できずとも、その怖れから生まれた言葉=テクストは他者に手渡され、外側で書き足され、組み合わさる。その組み合わせに、賭けてみること。

一光年の距離はどのくらいだろう

アルバムはこの言葉で締め括くられる。フィーチャリング・ゲストを単純に並べただけではない、言葉の組み合わせ。ケンドリック・ラマー、ビヨンセ、アンドレ3000、KOHH、ジェイムス・ブレイク、キム・バレル、セバスチャン、そしてフランクの弟や友人の家族、つまり他者の言葉=テクストが有機的に、しかし都度交わらない確率に晒されながら組み合わされたアルバムの、最後のライン。アルバム最後の曲“Futura Free”は、メインの楽曲の後、途中40秒間の空白を挟んで、ノイズ塗れの会話群がコラージュされる。その中で、最後に聞き取れる言葉。ひとつの問い。アフロ・フューチャリズムの想像力が、現在の方向に折り畳む未来。折り返された現在にプロットされた未来が、あるアーティストや作品に、突如として、顔を覗かせることがある。

ディレイニーは、前述の引用部に引き続き、次のように記している。

おそらく、それは移行に関するシミュレーションにほかならない。
読むことによって、我々はそれを食い止めるのだろうか?
読むことによって、我々はそれとともに歩むのだろうか?(★3)

フランクは、移動の目論みをこのアルバムに落とし込んだ。あなたは、このアルバムをどう読んでもいい。いかようにも解釈して、あなたの言葉=テクストを付け加えてもいい。そのために、“Futura Free”の40秒間の空白が、あなたを待っているのだから。

★1:フランク・オーシャン『Blonde』(2016年)より“Seigfried”。
★2、3:巽孝之編『サイボーグ・フェミニズム』2001年、水声社。

吉田雅史

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大勢が僕たちを嫌ってるし、僕たちが存在しなければいいと願っている
──フランク・オーシャンのタンブラーより

 6月12日の夜は眠れなかった。フロリダ州オーランドのゲイ・クラブで49人が殺された銃乱射事件の続報を次々に追っているうちに気がつけば朝になり、精神的にすっかり参ってしまったのだ。そのひと月前にたまたまゲイ・クラブに遊びに行っていた僕は、自分が被害者になるところを……ホモフォビアの凶悪犯に殺されるところを想像した。あるいは逃げ惑う自分を。それから少し経って、犯人がクラブの常連であったことからゲイもしくはバイセクシュアル男性であった可能性が高い(というか、確実にそうだろうと自分は思う)ことが報じられると、いっそういたたまれない気持ちになった。僕は自分が加害者になるところを……自分が同性愛者だと受け入れられず、自己嫌悪とルサンチマンに駆られてホモフォビアに囚われる自分を想像した。自分が被害者にも加害者にもなりえる世界に、いまなお生きている現実を突きつけられた気分だった。そして考えても詮ないことが頭をよぎった。犯人は、フランク・オーシャンの『チャンネル・オレンジ』を聴かなかったのだろうか……と。

 『チャンネル・オレンジ』は、オーシャンが自分の失恋を赤裸々に綴り、歌うことでそれを乗り越えていこうとするところで終わるアルバムだった。そうして自分の恋を葬送し、自身を受け入れる作業でもあった。“フォレスト・ガンプ”……それはラヴ・ソングにおいてはごくありきたりの失恋の物語だったはずだが、青年が青年に抱いた恋心について描かれていたために、ブラック・ミュージック/ポップ・ミュージックを更新する1曲と「なってしまった」。彼自身は自分の表現において、自分自身に正直でありたかっただけだ。社会に何かを強く訴えるとか、自分がきっかけとなるとか、そういうことは優先して考えられていなかったはずだ。僕もあの曲を、あのアルバムをそう捉えていた。
……だから、オーランドの銃乱射事件からしばらく経って、冒頭で引用したメッセージをオーシャンが事件を受けて発表したとき、僕は少し驚くとともに鋭く胸を突かれたような気がした。迷うことなく、「We」「Us」という人称を使っていたその熱のこもった文章に。その時点で発表されていた新作のタイトル『ボーイズ・ドント・クライ』──ザ・キュアーの引用──がどうして複数形なのかようやくわかった。それは反語だ。「僕たち」は、いつだって泣き続けているのだと。僕がフランク・オーシャンを聴いているといつも感じるのは、マイノリティとはたんに人数が少ないということや「属性」のことではない、ということだ。

 散々待たされてようやく発表されたヴィジュアル・アルバム『エンドレス』、そしてそれに続いた『ブロンド』は、「We」「Us」についての作品集だ。虚実入り乱れるストーリーテリングを特徴としていたそれまでの作風に比べ、より内面的で、よりパーソナルな度合いが高まったとされるが、自分には聴けば聴くほどに「僕たち」や「わたしたち」の音楽に思えてくる。膨大かつ多岐にわたるコントリビューター/インスピレーション元のリストのせいもある。ジャンルをやすやすと越えて行き来する音楽性によるところもある。よりエモーショナルな声で歌われている痛みや傷が、とことん赤裸々であるがゆえに生々しいからでもあるだろう。たとえば1曲め、“ナイキス”──あまりに感傷的で、あまりに美しいオープニング・ナンバー──ではエフェクトのかかった声が「RIP トレイヴォン」と告げる。もちろん、銃殺されたトレイヴォン・マーティンのことだ。「RIP トレイヴォン、僕みたいなニガー」。このナンバーのエクステンデッド・ヴァージョンでは、そして、KOHHのラップに引き継がれる。あるいはまた、タイラー・ザ・クリエイターとファレル・ウィリアムスがクレジットされている“ピンク+ホワイト”では涼風を感じるようなスムースな演奏に乗せて自身の生い立ちが綴られているが、それは後半ビヨンセとの現在のポップにおいて最高にリッチで眩しいコーラスとなって表現される。また、ギターの弦の震えが優しげな“スカイライン・トゥ”では夏の記憶がケンドリック・ラマーの客演をさりげなく加えながら映し出される。イントロのキーボードの響きがいかにもフランク・オーシャンらしいバラッド“ホワイト・フェラーリ”ではビートルズの“ヒア、ゼア・アンド・エヴリホウェア”が、“ジークフリード”ではエリオット・スミスが引用されている。それらは彼自身が想いを寄せてきた/寄せているアーティストたちやミュージシャン、シンガーが総動員されたものであり、彼の内面世界に溶け込んでいる。これまで以上にR&Bやソウルの囲いをあっさりとはみ出る音楽的な幅広さにかかわらず、統一感があるのはそのためだろう。そもそもアートワークがヴォルフギャング・ティルマンス──90年代のアンダーグラウンド・ゲイ・カルチャーを現代アートの領域まで拡張したドイツの写真家──だという時点で、フランク・オーシャンというひとがアメリカのメインストリームにおけるブラック・カルチャーの枠を大きく外れた感性のひとだということがわかる。
 叶わなかった恋、ドラッグ、SNS時代における虚しいリレーションシップ、子ども時代の記憶と肉親への想い、ポップ・スターとしての空虚さや孤独……『ブロンド』における音楽的/文化的な折衷性や多層性は、フランク・オーシャン自身の感傷を中心としてかき集められたことによるものだ。それは彼の弱さや正直さからできている。ポップ・スターもアンダーグラウンドの新鋭も、肌の白いひとも黒いひとも黄色いひとも、生きているひとももう死んでしまったひとも召喚されて、ここで息を吐き出したり音を鳴らしたりしている。オーシャンの心の震えが、それら大勢の人間の表現と少しずつ共鳴している。その、少しずつ、という感覚こそがフランク・オーシャンのポップ・ミュージックだと思える。彼の音楽にとっての「僕たち」とは、彼が説明されるときにしばしば言われる「ゲイもしくはバイセクシュアル男性」、ではない。たくさんの、本当にたくさんの人間たちの吐息のことだ。

 このアルバムのムードを端的に示しているのがラスト2曲だろうか……とくにビートレスの“ゴッドスピード”は出色だ。ゴスペルのコーラスは、しかしカットされ、ときにピッチシフトされてどこかしら不完全でいびつなものとして響いている。それにどこまでもセンチメンタルな鍵盤と歌──存在しなければいいと願われている僕たちが、しかしそれでも存在していること。多様性やダイヴァーシティなんて言葉を政治家が声高に叫ぶ現在において、それでも行き場所を見つけられない人間たちの逃げ場所が『ブロンド』だ。いまこのときも燃えさかる憎悪を一瞬だけでも忘れられるように、そこでは少しばかり苦しそうに、だが慈しみをこめて、「I will always love you」と歌われている。

木津毅

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JAZZ MEETS EUROPE - ele-king

 ヨーロッパはある意味アメリカ以上にジャズを受け入れたことはよく知られている。とくにに60年代から80年代にかけて、多くのジャズメンたちは欧州に渡り、数々の名盤を録音している。本場のジャズの模倣からはじめて、やがて自分たちのジャズを模索した欧州人も数多い。また、ロックをやりながらジャズを取りれて、なにか違ったものを創出したバンドも忘れるわけにはいかない。ヨーロッパを舞台に、数多くの魅力的なジャズ作品が生まれている。

 『Jazz Next Standard』シリーズ、『CLUB JAZZ definitive』の監修者、小川充の新刊は、ヨーロッパのジャズとその周辺音楽の案内書、『ヨーロピアン・ジャズ ディスクガイド』。アメリカから伝播したジャズを消化し始めた1960年代のモダン・ジャズ(イアン・カー、マイク・ギブスほか)、独自のスタイルを築き上げる60年代後半のジャズ・ロック(マイク・ウェストブルック、ソフト・マシーンほか)、70年代のプログレ/アヴァンギャルド(キング・クリムゾン、キース・ティペットほか)、ビッグ・バンド(ケニー・クラーク、ピーター・ヘルボルツハイマーほか)などなど、年代やジャンル別に紹介する。
 さらには、国外音楽家の録音盤(ドン・チェリー『オーガニック・ミュージック・ソサエティ』)やヴォーカルもの(カーリン・クロッグ、ノヴィ・シンガーズ)などを独自の眼線で大胆にセレクト。ヨーロッパ・ジャズとその周辺音楽の入門書として、最適な一冊! 発売は9月30日です。

 また、『ヨーロピアン・ジャズ ディスクガイド』の刊行に併せて、P-VINEからヨーロピアン・ジャズの名盤がリイシューされる。
 9月28日発売の第一弾は、クラーク=ボラン・セクステット『ミュージック・フォー・ザ・スモール・アワーズ』、ケニー・クラーク=フランシー・ボラン・ビッグ・バンド『オフ・リミッツ』の2タイトル。10月12日発売の第二弾は、サヒブ・シハブ『コンパニオンシップ』、サヒブ・シハブ・クインテット『シーズ』の2タイトル。4枚とも名盤であり定番でもあるので、まだ聴いてない人はこの機会にぜひヨーロピアン・ジャズの情熱と香気を味わってください。

『ヨーロピアン・ジャズ ディスクガイド』

(目次)

■Part 1 - Modern / Contemporary Jazz
・GREAT BRITAIN
・GERMANY
・FRANCE
・ITALY
・WEST EURO
・NORDIC
・EAST EURO

■Part 2 - Jazz Rock / Progressive Rock / Avantgarde
・GREAT BRITAIN I (JAZZ ROCK / CANTERBURY)
・GREAT BRITAIN II (MOD JAZZ / NEW ROCK / PROGRESSIVE ROCK)
・GERMANY
・FRANDLE
・EURO
・SINGER-SONGWRITER / FOLKY

■Part 3 - Jazz Funk / Fusion
・GREAT BRITAIN
・GERMANY
・WEST EURO
・NORDIC
・EAST EURO

■Part 4 - Big Band
・BIG BAND
・CBBB / RC&B / GERMAN BIG BAND

■Part 5 - Euro Recordings
・ETRANGER
・SABA-MPS / HORO / STEEPLECHASE

■Part 6 - Vocal
・VOCAL

■Part 7 - World
・AFRO
・LATIN / BRAZILIAN

■Part 8 - Mood
・CINE JAZZ
・EASYLISTENING / LIBRARY

COLUMN 英国ジャズ未発表音源の発掘

監修:小川充
JAZZ MEETS EUROPE
ヨーロピアン・ジャズ ディスクガイド

P-VINE/ele-king books
Amazon

【9/28発売 2タイトル】

PCD-24543
クラーク=ボラン・セクステット『ミュージック・フォー・ザ・スモール・アワーズ』
CLARKE-BOLAND SEXTETT / Music For The Small Hours
これぞクラーク=ボラン楽団の最高傑作にして、ヨーロッパ・ジャズの最高峰たる超名盤!

PCD-24544
ケニー・クラーク=フランシー・ボラン・ビッグ・バンド『オフ・リミッツ』
THE KENNY CLARKE-FRANCY BOLAND BIG BAND / Off Limits
欧州最強ビッグ・バンドが活動の最盛期に当たる1970年に放った豪快かつスリリングなビッグ・バンド・ジャズ傑作!


【10/12発売 2タイトル】

PCD-24545
サヒブ・シハブ『コンパニオンシップ』
SAHIB SHIHAB / Companionship
数あるサヒブ・シハブの作品中でも最もエッジの効いた演奏が堪能できる珠玉の1枚!あのクラーク=ボラン・セクステットの最高傑作『Music For The Small Hours』に匹敵するヨーロッパ・ジャズ史に永遠に光り輝く最重要作品!

PCD-24546
サヒブ・シハブ・クインテット『シーズ』
THE SAHIB SHIHAB QUINTET / Seeds
マルチ・リード奏者、サヒブ・シハブがリーダーを務めた1969年発表の欧州ジャズの至宝盤!

Theater 1 (D.J.Fulltono & CRZKNY) - ele-king

 D.J.FulltonoとCRZKNYは日本のジューク/フットワーク・シーンを牽引するプロデューサーである。このふたりはTheater 1という名義で、昨年夏より月一のペースでコンセプチュアルなリリースを展開してきたが、このたびそれらのスプリット・シングルが2枚組CDとしてまとめられることになった(デジタル盤は12枚のシングル形式)。
 気になるタイトルは『fin』で、10月16日(日)に〈melting bot〉よりワールドワイドにリリースされる。なお本作は、D.J.Fulltonoにとっては初めてのCD作品でもある。
 これまでのジューク/フットワークの概念をテクノやミニマル・ミュージックとして大幅に拡張した本作は、ジューク/フットワーク第2世代のJlinや食品まつり a.k.a foodmanなどと同様、発祥の地であるシカゴ以外の場所でもジューク/フットワークがどんどん成熟していっていることの証左であり、日本の音楽シーンから世界へと向けられた挑戦状でもある。となれば、これはチェックしておかないとマズいでしょう!

 なお、D.J.Fulltonoは下記日程にてヨーロッパ・ツアーをおこなうことも決定している。こちらもあわせてチェック!

D.J.Fulltono EU Tour 2016
20th Oct Krakow - Unsound w/ Traxman, 食品まつり a.k.a foodman
21st Oct Paris - Booty Call Presents Global Footwork
22nd Oct Berlin - TBA

"フットワーク以降アンビエント未満、観賞する白銀のミニマル・テクノ"

世界へと切り込むD.J.FulltonoとCRZKNYによるコンセプチュアルなシリーズ・プロジェクト“Theater 1”がアルバムとなってワールドワイドでCDリリース! フットワークをフレームワークとした無機質で催眠的な新感覚のミニマリズム、〈Kompakt〉を共同主宰する独電子界の巨匠Wolfgang Voigt(aka Mike Ink, Gas)のミニマル革新作『Studio 1』(1997)のオマージュでありながら、テクノとしてのフットワークを拡張する逸脱の実験音響作。

『Pitchfork』、『Fact』、『Fader』、『RA』にも取り上げられ、『VICE』での特集や『Rolling Stone』の年間ベストのランクイン、そしてUnsound出演を含めるEUやUSツアーなど、先鋭アクトとして世界的な注目を集める日本フットワークの両雄が前人未到へ踏む込むテクノ最先端!

2015年の夏から1年間に渡って毎月2曲のスプリット・シングルをリリース、後のクリック/ミニマルの源流となった90年代テクノの革新的レーベル〈Basic Channel〉と並ぶ、〈Kompakt〉の共同オーナーでもある鬼才Wolfgang Voigt(aka Mike Ink, Gas)のコンセプチュアルなシリーズ作『Studio 1』を参照とした、日本からジューク/フットワークを牽引するD.J.FulltonoとCRZKNYのシリーズ・プロジェクト“Theater 1”の全リリースをまとめた全24曲のコンピレーション・アルバム。フットワークをフレームワークとしながら、160BPMの中で繰り広げられるループから変拍子、4つ打ち、ポリリズムを抽出し、デトロイト、クリック、ミニマル、ベース、ジャングル、ガムラン、ドローン、アンビエントなどのレイヤーを織り交ぜ、多種多様なグルーヴを展開。ミニマリズムにおけるテクノとしてのフットワークを前面に打ち出した、未だかつてない逸脱の実験音響作品集。

CAT No : MBIP-5569
Artist : Theater 1 (D.J.Fulltono & CRZKNY)
Title : fin
Label : melting bot
Format : 2CD (Album) / Digital (12 Singles)
Price : ¥2,400 + tax / ¥300 per Single at ITMS
Release date : 2016/10/16
Genre : Techno / Minimal / Footwork
Territory : Worldwide
Barcode : 4532813635699

【CD限定特典】CD exclusive bonus track *Download Code

Theater 1 CD exclusive DJ mix by D.J.Fulltono

- CD (Album) Tracklist -

DISC I (CRZKNY album edit)

01. Remi
02. Nanami
03. Annie
04. Jerusha
05. Peter
06. Jo
07. Katri
08. Annette
09. Thomas
10. Anne
11. Marco
12. Heidi

DISC II (D.J.Fulltono album edit)

01. John
02. Romeo
03. Jackie
04. Maria
05. Cedric
06. Pollyanna
07. Sara
08. Lucy
09. Flone
10. Perrine
11. Sterling
12. Nero

CD Artwork & Design by hakke https://twitter.com/mt_hakke

- Digital (12 Singles) Tracklist -

01. Remi
02. John

01. Romeo
02. Nanami

01. Annie
02. Jackie

01. Maria
02. Jerusha

01. Peter
02. Cedric

01. Jo
02. Pollyanna

01. Sara
02. Katri

01. Annette
02. Lucy

01. Flone
02. Thomas

01. Anne
02. Perrine

01. Sterling
02. Marco

01. Nero
02. Heidi

Digital Artwork & Design by Theater 1
https://meltingbot.net/release/theater-1-fin
https://soundcloud.com/meltingbot/sets/theater-1-fin

▼ シアター・ワン・バイオグラフィー


D.J.Fulltono [Booty Tune] https://soundcloud.com/dj-fulltono

DJ/トラック・メイカー。レーベル〈Booty Tune〉を運営。大阪にてパーティー「SOMETHINN」を主催。ジューク/フットワークを軸に ゲットーテック/エレクトロ/シカゴ・ハウスなどをスピン。〈Planet Mu〉、〈Hyperdub〉のジューク関連作品の日本盤特典ミックスCDを担当。スペインのConcept Radioにて発表したDJ MIXでは、ジュークの中にテック・スタイルを取り入れながら新たな可能性を模索する。2015年に6作目のEP「My Mind Beats Vol.02」をリリース。また、「Vol.01」はUSの音楽メディア『Rolling Stone』の“20 Best EDM and Electronic Albums of 2015”に選出され、世界の音楽ファンからも評価を得た。タワーレコード音楽レヴュー・サイト『Mikiki』にて「D.J.FulltonoのCrazy Tunes」連載中。



CRZKNY [HIROSHIMA SHITLIFE] https://soundcloud.com/crzkny

日本ジューク/フットワーク・シーンの代表的トラック・メイカーの一人。ハイペースな楽曲制作、そして過剰低音かつアグレッシヴなLIVEでファンを魅了し続けている。2012年から現時点までのリリース総数は、142タイトル、430曲以上を発表。国内盤CDアルバム『ABSOLUTE SHITLIFE』(2013)、『DIRTYING』(2014)を〈DUBLIMINAL BOUNCE〉よりリリース。またアメリカ、メキシコ、ポーランド、アルゼンチンなどの海外レーベルからも多数リリース。日本のトラック・メイカーとして初のシカゴ・フットワーカーMVも制作された。日本初のジューク/フットワーク・コンピレーション『Japanese Juke & Footworks』シリーズを食品まつりと共同で企画。近日、自身3枚目のCDアルバムを発表予定。並行してE.L.E.C.T.R.Oの制作も行っており、初期Electro作品「RESIST」はアナログ盤にて海外レーベルよりリリース、表題曲リミキサーとしてドレクシアのメンバーDJ Stingrayも参加している。国内においては〈Tokyo Electro Beat Park〉から2枚のフルアルバム『NUCLEAR / ATOMIC』、『ANGER』を発表。Keith Tenniswoodなど海外トップアーティスト達に絶賛される。また2012年より原爆・核・戦争・歴史についてのコンピレーション『Atomic Bomb Compilation』シリーズをGnyonpixと企画、多くの国内外アーティストが参加。今までに『The Japan Times』、『Red Bull Music Academy』、『Pitchfork』などで特集、インタヴューなどが掲載されている。国内グライム・シーンにおいても、2013年に開催されたWarDub.JPにおいて100名超の中から見事トップ10入りを果たし、翌2014年に開催された140BPM WARでも決勝進出を果たした。現在ノイズ・エクスペリメンタルDJとしてYung Hamster名義でも活動中。
https://meltingbot.net
https://twitter.com/meltingbot
https://www.facebook.com/meltingbot

interview with Machinedrum (Travis Stewart) - ele-king


Machinedrum
Human Energy

NINJA TUNE/ビート

Electronic PopIDMBass MusicR & BExperimental

Amazon

 マシーンドラムが変わった。どこかダークな『ヴェイパー・シティ』から一転し、新作『ヒューマン・エナジー』では、煌びやかでカラフルな色彩が溢れるエレクトロニック・ポップ・ミュージックへと変貌を遂げたのだ。ドラムンベースからベース・ミュージック、エレクトロからIDMまで、エレクトロニカからEDMまで、さまざまな音楽的要素をスムースに昇華しながら、いまのマシーンドラムにしか出せない新しいエレクトロニック・ポップ・ミュージックを生み出している。
この「変化」は、マシーンドラムことトラヴィス・スチュアートがカリフォルニアに移住した環境の変化も大きいらしいが、たしかに降り注ぐ陽光のような音楽だ。アンダーグラウンド・サウンド・プロデューサーとして評価を獲得していたが彼が、その志を一貫したまま、米国「ポップ・ミュージック」のプロデューサーとしての第一歩を踏み出したとでもいうべきか。00年代に、あのIDMレーベル〈メルク〉からアルバムをリリースしていた彼が、ここまで成長したのかと思うとなかなかに感慨深い。

 じじつ、この新作には昨年海外メディアの年間ベストを席巻したR&BシンガーD∆WNこととドーン・リチャードをはじめ、ブルックリンのラッパー/プロデューサーのメロー・X、リアーナ(!)のコラボレーターとしても知られるケヴィン・フセイン、ネオ・ソウル系シンガーのジェシー・ボイキンス三世、ロシェル・ジョーダン、アニマルズ・アズ・リーダーズのトシン・アバシなど、なかなかのメンツが集結しているのだ。これは勝負にでたのかもしれない。そう確信できるだけのアルバムといえる。

 では、いまの状況を、彼はどう考えているのか、どう思っているのか。来日したばかりのトラヴィス・スチュアートに話を聞いてみた。しかしてその返答・回答は極めてリラックスしたものであった。なるほど、「ポップであること」を決意したとき、人は、こうもリラクシンな状態になるものなのだろうか。新作『ヒューマン・エナジー』を聴きながら(もしくは聴きたいと思いながら)、彼の言葉を読んでほしい。奇才マシーンドラム=トラヴィス・スチュアートの「いま」の気分が伝わってくるはずだ。



現在は、どこに住んでいるのですか?

MD:ロサンゼルスさ。

前回日本に来たのは3年前ですね。今年、来日して何か変わったなと思うことはありましたか?

MD:そんなにはないね。来たばかりであまり街を見ていないから、とくに違いは感じてないよ。大阪で人と話したときに、みんな街がどんなに変わったかを話していたから、もちろん変化はしているのだろうけどね。

これまでもさんざん聞かれているとは思いますが、マシーンドラムの名前の由来について教えてください。

MD:高校の時に思いついたくだらない名前さ(笑)。90年代からずっとこの名前を使っているんだ。当時の俺の友人たちや有名なエレクトロニックのミュージシャンたちがドラムマシンを使っていたから、そのドラムとマシンを入れ替えてマシーンドラムにしたってだけ(笑)。誰も使ってないし、いいかなって(笑)。

あなたはエレクトロニック・ミュージックから、どのようなインパクトを受けてきましたか?

MD:エレクトロニック・ミュージックはタイムレスだし、定義が難しいよね。ポップ・ミュージックだってエレクトロだし、ヒップホップもそうだし、さまざまなモダン・ミュージックの制作にはエレクトロと同じソフトウェアや機材が使われている。俺自身が思うエレクトロニック・ミュージックは、人びとが限界、制限を超えて自分たちを表現することができる音楽かな。たとえばロックだと、ギター、ベース、ドラム、ヴォーカルといった制限があるけれど、エレクトロでは、キーボートやほかのものを使っていたり、そこからまた広がったりして、さまざまなもの作れるからね。

では、アーティスト、レーベル、作品、何でも良いので、あなたがいままでで一番影響を受けたと思うものは?

MD:俺は常にエイフェックス・ツインに影響を受けている。あと、〈ワープ〉の初期作品だね。エイフェックス・ツインの、「誰が何をいおうと気にしない」っていうあの姿勢が好きなんだ。自分がやりたいことを常にやって、境界線を押し広げている。だからこそ誰にも予想できないものが生まれるし、常に人びとを驚かせることができる。あの自由さは多くのミュージシャンのなかでもレアなものだと思う。人の期待や流行の波の罠に気を取られてしまうことは簡単だし、作った特定の音がいちど大きく受け入れられると、それを作り続けて人気を保ち続けることだってできるのに、彼はそれをやらない。いまの時代って、インターネットやSNSがあるから、ファンの声がダイレクトに伝わってくるぶん、彼らが好むサウンドを作らなければいけないというプレッシャーも大きいと思うんだ。でも彼や〈ワープ〉や〈ニンジャ・チューン〉に所属するアーティストたちは、その期待を超えた作品を作っているアーティストたちが多いと思う。自分の道を進んでいるよね。

あなたの作るサウンドもすごく複雑ですね。IDM的といいますか。

MD:IDMって呼ばれているアーティストで、自分が作っている音楽がIDMと思っている人ってあまりいないと思う。そもそもIDMって、とってつけたような名前だよね(笑)。でも、俺の最近の2、3枚のアルバムは、実際IDMっぽかったとは思うよ。

たしかにIDMっぽくもありながら、同時に、とても聴き心地が良いです。音作りにおいて一番大切にしていることは?

MD:自分を笑顔にして、興奮させてくれる音楽を作ること。その音楽が、他の人に音楽を作りたいと思わせることができたらなお良いし、嫌な1日を良い1日に変えて、リスナーの気分を良くすることができたら嬉しいね。そういった意味で癒しの要素を持った作品を作りたいとも思う。実際に、自分の人生を変えてくれたとか、暗い時期にいたけど明るい気分にさせてくれたとか、そういう声をリスナーから聞いたりもするんだ。自分のために自分を興奮させる音楽を作ること、ほかの人たちがインスパイアされるような音楽を作ること。そのふたつのバランスを意識しているね。

子供のときにピアノとギターを習っていたそうですが、エレクトロニック・ミュージックの場合、楽器をプレイすることができないミュージシャンも多いですよね。楽器を演奏できるということは、あなたの音楽にどう影響していると思いますか?

MD:マーチング・バンドやジャズ・バンドにいたり、アフリカン・アンサンブル、パーカッション・アンサンブルを演奏してきたりして、そういった音楽のセオリーを理解していることは、自分が作るエレクトロニック・ミュージックに大きく影響していると思う。そもそも、エレクトロニック・ミュージックを作り始めた理由が、俺は小さい街に住んでいて、そういった音楽(バンドやアンサンブル)をひとりでは作れなかったからなんだ。だから機材の使い方を学んで、ひとりで音楽を作ってレコーディングできるようになるしかなかったんだよね。

楽器を弾けることで、ほかにはないエレクトロニック・サウンドが生まれていると思いますか?

MD:ピアノが弾けるからメロディの作り方は理解している。コードの使い方とか、どの音符同士が綺麗に聴こえる、とか。マイナーとメジャーの使い分なんもそう。それは、メロディを書く上で影響していると思う。でも、そういう知識がないほうがより面白い作品が生まれる場合もあると思うけどね。何も知らない方がクリエイティヴになれたりもするしさ。自分がそういった知識をもっていることが音楽にどう影響しているか明確に説明はできないけど、もしピアノやギターが弾けなかったら、俺の音楽はまったく違うものになっていたというのは確実だと思う。

あなたのビートのプログラミングは非常にユニークですが、ビート作りにおいて意識していることはありますか?

MD:あまり意識していることはないね。ただただ自分が良いと感じるものを作っているだけ。メロディを始めとするほかの要素も同じ。すべてはフィーリングさ。良いものが生まれれば、それが良いと感じるんだ。それを作るためのマニュアルはないし、作っているうちにしっくりとくる瞬間が来る。それに従うことだね。

〈プラネット・ミュー〉からリリースされた『ルームス』(2011)の後から、あなたの音楽が大きく変化したと思うのですが、この変化はどのようにして起こったのでしょうか?

MD:『ルームス』ではビートから音作りをはじめるかわりに、そのときに「起こっていること」や「瞬間」を捉えるという姿勢で音作りに取り組んだんだ。『ルームス』ではそのやり方を発見できたし、その「瞬間」をとらえ音にするというのが、どんなに大切かがわかった。自分が作りたいと思う音を考えに考え抜いて作ることもできるけど、スケルトンの状態からその瞬間に生まれるものを取り込んでいくことも大切なんだ。それを発見してから、そのメソッドで音を作るようになったし、いまだにそのやり方を採用しているね。

『ヴェイパー・シティ』と比べて、新作はベース・ミュージックでありながらもカラフルですね。このような変化は、どうして起きたのでしょう?

MD:LAに引っ越してから、自分の人生の新しいチャプターがはじまった。気候や環境も違うし、それは影響していると思うね。でも同時に、これまでも俺は常に新しいことにチャレンジするのが好きだったし、緊張感がありながらもポジティヴな、メジャー・キーを使ったサウンドに挑戦してみたかったというのもある。前の作品ではコード・サンプルを使ったり、小さなキーボードでリードラインを書いたりしていたけど、今回は昔やっていたようにピアノでメロディを書いたりもしたんだ。だからこのアルバムでは、多くの曲がリズミックというよりもメロディックなんだよね。それは大きな変化だと思う。やっぱり88鍵盤を使うと違うね。ベースラインとメロディを一緒にプレイすることができるから、音と音の間により繋がりが生まれるんだよ。

新作『ヒューマン・エナジー』のリード・トラック“エンジェル・スピーク”にはメロー・Xを起用しています。彼とのコラボレーションはどのようにして実現したのですか?

MD:前からいろいろとレコーディングはしていたんだけど、曲に採用することがなかったんだよね。でも今回は、前にとったヴォーカルをビートに乗せて使ってみることにしたんだ。

ケヴィン・フセインはいかがでしょう?“ドス・プルエタス”では彼の声が前面に出ていて驚きましたが、何か意図はありましたか?

MD:自分では何も(笑)。俺が作るほとんどのトラックにゴールはない。ただクールなものを作りたいと思っているだけさ。

では、“ドス・プルエタス” 目指したサウンドはどのようなものですか?

MD:とくにはないけど、トラップやEDMといったモダン・ミュージックに対するリアクションのような曲だろうな。あと、『ヴェイパー・シティ』と新作のブリッジとなる作品でもあるんだ。早いドラムンベースのテンポを使いながらも、曲が進むにすれて音がどんどん発展していく。アルバムに収録されているほかのトラックと比べて、この曲はマイナー・コードだし、音的には『ヴェイパー・シティ』と繋がっているんだ。

なるほど! それにしてもかなり斬新な新作ですね。リスナーの反応はいかがですか?

MD:大好きな人と大嫌いな人にわかれるね。本当に気に入ってくれたというコメントももらったし、がっかりしたという意見も聞いた。でも、『ヴェイパー・シティ』のときもそうだったんだ。全員をハッピーにすることなんて不可能だよ。結局のところ、自分自身が楽しめているかがもっとも大切なんだ。

リード・トラックの2曲は、すごくポップで東京っぽいなと思いました。

MD:アルバム全体にその要素はあるかもね。ハイパーで、メロディックで、メジャー・コード。それってJ-popやK-popの特徴でもある。ほかの人からも似たような意見をもらったよ。

ちなみに日本の音楽や日本のアーティストに影響を受けたことはありますか?

MD:竹村延和。以前、彼の音楽にハマっていたんだ。彼のアプローチはすごくユニークなんだよ。ボアダムスもよく聴いていた。日本の音楽って、掘り下げるとすごくエクスペリメンタルなものが色々あるよね。

今回のアルバムのレコーディングで、何か変化はありましたか? 使用した機材や環境など。

MD:新しい街に引っ越したし、新しい家にも引っ越した。新しいコンピュータも買ったし、新しいエイブルトンのテンポレートも作ったんだ。今回はすべての曲において同じソニック・パレットを使ったから、統一感があると思うよ。

では参照した音楽はありますか?

MD:いや、それはない。アルバム制作期間の3ヶ月は、敢えて音楽を聴かないようにしたんだ。でも、何かの影響が自然に出ているということはもちろんあると思うけどね。

『ヴェイパー・シティ』シリーズについで今回も〈ニンジャ・チューン〉からのリリースですね。〈ニンジャ・チューン〉に関してはどう思いますか?

MD:レーベルがスタートしてから革新的音楽をリリースし続けているし、ほかとは違うレーベルだと思う。彼らと一緒に仕事ができて、本当に光栄だよ。

今年、リリースされたセパルキュア名義のセカンド・アルバム『フォールディング・タイム』も素晴らしいですね。このアルバムは、どのくらいで作り上げたのですか?

MD:1枚目のアルバムは2週間しかからなかったのに、セカンドは3、4年かけて作ったんだ。タイトルの由来もそこから来ていて、3年前のセッションをレコーディングしたものをはじめ、長い期間の間で作られた色々なマテリアルの点を繋げながら完成させたのがセカンド・アルバムなんだよ。すごく長いプロセスだったね。

その作品はR&B色が前より強くなっていると思いました。作品でのあなたの役割とはどのようなものだったのでしょう?

MD:何て答えたらいいのかわからないな(笑)。ただ普通にコラボしただけ(笑)。

“フライト・フォー・アス”でカナダの女性シンガー、ロシェル・ジョーダンを起用していましたね。どのようにして実現したのですか?

MD:知り合いが彼女を紹介してくれて、レーベルも、いくつかシングルを作ってみたらどうかと乗り気だったんだ。俺自身もいくつかの曲に彼女の声が自然にフィットすると思ったしね。

あなたの音楽にとって、ヴォーカルとはどのようなものですか?

MD:俺にとって、ヴォーカルは楽器のひとつ。ドラムなんかと同じで、大切な音の要素のひとつだね。そして同時に、やはり人間から生まれるサウンドだし、みんなが一番親しみのある音だから、どの楽器よりも人が繋がりを感じることができるものだと思う。上手い下手は関係なく誰でも歌は歌えるし、脳って、すぐヴォーカルに反応すると思うんだ。ポップ・ミュージックが親しみやすいのもそこだよね。音楽の知識がなくても、歌詞やヴォーカルを聴くことで、それをエンジョイすることができる。そういう意味ではヴォーカルってすごく重要なんだけど、俺はヴォーカルをメインにするのではなく、ほかの音とバランスをとらせたいんだ。

シンガーがあなたの音楽に何をもたらすものは、どのようなものですか?

MD:俺と一緒にコラボしているシンガーたちのほとんどが友だちだし、長いあいだ知り合いだから、その近さや心地よさが音楽に自然と反映されていると思う。

そこもあなたの音楽の聴きやすさの理由のひとつかもしれませんね。

MD:そうだね。高いお金を払って、大物ヴォーカルを起用しているわけじゃないから。お互い心を許せているから、良いエナジーが生まれるんだ。

ところで、ここ5年のエレクトロニック・ミュージック・シーンはジャンルに関してはどう思いますか?

MD:より多くの人びとに受け入れられるようになっていると思う。いまは若い世代もエレクトロを聴いているしね。俺が聴きはじめた頃は、エレクトロがどんな音楽なのかを説明するのも難しかったし、まわりの友だちにエレクトロニック・ミュージックを好きになって聴いてもらうのは簡単ではなかった。エレクトロのミュージシャンは真のミュージシャンじゃないという考え方もあったしね。でもいまは、それが完全に変わったと思う。誰もがエレクトロニック・ミュージシャンになれる時代にもなったし、ビートを作ってサウンドクラウドにアップするのだって、ティーンにとっては当たり前のことだしね。それは素晴らしい変化だと思う。エレクトロニック・ミュージックのプロデューサーたちとって、よりエキサイティングな環境が築き上げられていると思うよ。

EDMに関してはどうお考えですか?

MD:音楽のすべてのジャンルに良い部分があるし、面白いと思える部分がある。もちろん、最悪なドラムンベース、最悪なフットワーク、最悪なジャングルも存在するけどね。でも、そのジャンルのなかでクオリティの良いものは、すべて面白いと思う。EDMってちょっとふざけた面もあるけど、そのユーモアやトリックを楽しんだりもしているよ。

DJラシャドのトリビュート・アルバムに参加していますね。彼の音楽の魅力について教えてください。

MD:彼の魅力は、音楽を超えていると思う。いままで沢山のDJやミュージシャンたちに会って来たけど、彼はそのなかでも本当にユニークで、ほかのミュージシャンたちから何かを学ぼうと常にオープンな姿勢でいた。すべてに耳を傾けて、気を配っていた。プロデューサー、DJ、そして一人の人間として彼を心からリスペクトしているし、一緒にいると常にインスピレーションを受ける存在だったね。

あなたも常に音楽を作り続けていますね。それは何故でしょう?

MD:ほかに何をしていいのかわからないからさ(笑)。何で息をしているのかと訊かれるのと同じ(笑)。生活の一部なんだ。音楽を作ることで生きていられるし、音楽なしではどうしたらいいのかわからない。自分からクリエイティヴィティがなくなったらどうなるかなんて想像できないよ。

最後にミュージシャンとして、もっとも大切にしていることを教えてください。

MD:さっき話した通り、自分が満足できる音楽を作る、そして人にインスピレーションを与える音楽を作るというふたつのバランスをとること。それだね。

AJ Tracey - ele-king

 ロンドンのストリートで生まれたラップ・ミュージック「グライム」が話題になっている。特に自主レーベルから発表されたスケプタの『コンニチワ』が、イギリスで最も優れたアルバムに対して送られるマーキュリー賞を受賞したのは、世界のインディペンデント・シーンに勇気を与えただろう。

 そんなシーンでフローとリリックで頭角を現してきた若干22才の新星MC、エージェー・トレーシーが来日し、日本初ツアーをおこなう。
 彼はこれまで4枚のEPをフリー・ダウンロードでリリース。今月もニューヨークのエイサップ・ロッキーとのコラボレーションから、Mumdanceとのモジュラー・シンセのセッションまで、ジャンル・国を超えて活動中だ。その勢いを証明するかのように、昨年ストームジーが受賞したモボ・アウォードで早くも「ベスト・グライム・アクト」にノミネートされ、今夏のフェスティヴァルでも引っ張りだこである。

 ツアー初日の大阪は10月15日(土)、大阪COMPUFUNK RECORDSにて行松陽介やグライムMC 140 + Sakanaなどが共演。東京は10月16日(日)夕方からSkyfish × DOGMA、DEKISHI + Soakubeatsらが迎え撃つ。
 彼の初ツアーは勢いづく「今」のグライムとローカルのストリート・ミュージックが共鳴するイベントになりそうだ。(米澤慎太朗)


10月16日 (日) 18:00 -
MO’FIRE @ CIRCUS TOKYO

https://circus-tokyo.jp/
¥2000 (ADV) / ¥3000 (DOOR) + 1d
前売り : https://jp.residentadvisor.net/event.aspx?881144

AJ Tracey
Skyfish × DOGMA
DEKISHI + soakubeats
Double Clapperz
Carpainter
Underwater Squad
Host : Onjuicy

10月15日 (土) 23:00 -
PCCP @ COMPUFUNK RECORDS

¥2500 (ADV) / ¥3000 (DOOR) + 1d

AJ Tracey
YOSUKE YUKIMATSU
YOUNG ANIMAL
140 + SAKANA
SOUJ
SATINKO
ECIV_TAKIZUMI


AJ Tracey プロフィール

ウェスト・ロンドン出身のAJ Traceyはおそらくここ一年のUKアンダーグラウンドのグライム・シーンの盛り上がりから生まれた最も才能あるMCである。万華鏡のような言葉選びとはっきりと聞き取れるフローはそのシーンにおいて誰にも比較できない独自さを持っている。AJ Traceyはその美声とフローで荒々しいクラブ・アンセムからスイート・ジャムまで器用に乗りこなす。

The Quietus – 彼はマイクでクリアにラップして、常に魅了出来る本当のリリシストだ。

昨年夏の「The Front」でデビューし、秋には“Spirit Bomb”、“Naila”がストリート・アンセムとなった。“Naila”はYouTubeで異例の50万回再生され、Rinse FM、Beats 1 Radio、BBC Radioでヘヴィプレイされた。2016年に入り、Tim Westwood Crib Sessionへの参加、Last Japanとの共作「Ascend」のリリースや2stepレジェンドとして知られるMJ Coleとのコラボレーション“The Rumble”を公開するなど、常に話題のMCだ。

東京 アンダーグラウンド 誰も知らない世界で戦う
Morning and Night 遊びつつまた Hustle, Deal Yen
S.L.A.C.K.“In The Day”『この島の上で』

 HIPHOPはGroundの音楽だ。Groundとはいま踏みしめている「地面」、生まれ育った「土地」、わたしが生きている「根拠」、そこから生まれる明確な「立場」、いま抱えている「問題」だ。しかし、同時にHIPHOPはGroundを内破する。HIPHOPはGroundから生まれ、踏みしめ、拠って立ち、その生まれによって固有の苦悩を抱える人間のGroundを内側から掘り崩し、再構築する。その担い手は、自らのGroundをDigることでGroundを愛し、ゆえに破壊し、再創造するのだ。そこにどんな楽しみがあるかは、やったことがねえやつにはわかんねえな。そこには俺たちだけの、かけがえのない夜があり、踊りがあり、分けもたれた孤独があるんだ。

* * *

  さて、前回の続きだ。S.L.A.C.K.のキーワードである「適当」は、日常的に使う悪い意味での「いいかげん」ではない。この「適当」は前回書いたように、クソみたいだけど、手放したくない、いずれ終わりのくる日常の中で、その限界を意識しつつ、緩く、タフに生き延びようとする思想から出た言葉だ。だからそれは、まず「良い加減」であり、「ちょうどいい」ことを意味している。しかし、それだけではないのではないか? この問いは、表記が5lackになってから、また震災の後、さらに強くなった。
 実際、5lackは震災以後初めてのロング・インタヴューで以下のように答えている。少し長くなるが引用する。

■うん。「適当」っていう言葉は当初は日本のラップ・シーンに対する牽制球みたいな脱力の言葉だったと思うんですね。もう少し気を抜いてリラックスしてやろうよ、みたいな。

スラック:はいはいはい。

■それが、より広くに訴えかける言葉になってたな、と思って。

スラック:漢字で書く「適当」の、いちばん適して当たるっていう意味に当てはまっていったというか。要するに、良い塩梅ということです。だから、いいかげんっていう意味の適当じゃなくて、ほんとの適当になった。まあ、でも、最初からそういう意味だったと思うんですけど、時代に合わせるといまみたいな意味になっちゃうんですかね。ちょっと前だったら、もうちょっとゆるくて良いんじゃんみたいな意味だったと思う。

■自分でも言葉のニュアンスが変わった実感はあるんですか?

スラック:オレがラップする「適当」を、気を抜いてとか楽天的にとか、ポジティブに受けとられれば良いですけど、責任のない投げやりな意味として受けとるのは勘違いかなって。

 ここにダブルミーニングが生じる。S.L.A.C.K.から5lackへ、震災後へ。恐らく5lack自身、また、この島に住む多くの人々が、あの揺れと、波と、何よりも底の抜けた圧力容器からの線によって、変容させられた。正体不明の不安を覆い隠すように、偽物の多幸感の影を追いながら、社会の問題に他人事でいられた冷笑家すら、いまや当事者となった。もはや、「いいかげん」だけではすまない。良くも悪くも、いや、最悪なことに、この「いいかげん」と「無責任」によってあの災厄はもたらされたのだから。「大人」たちのほとんどはこの責任を取ろうとしなかったし、責任を想像すらできなかったが、この時代が生んだ子どもたちは、3.11以後の想像力は、未来からの呼びかけに応答しようとしている。子どものように責任を回避し、駄々を捏ねる大人の代わりに、取れる限りの責任を取ろうとしている。歴史に残るほどの大きな出来事は、言葉の意味すら変容させるらしい。震災以後の日本人の切実さは、「適当」に新たな内実を与えた。それは無責任な「いいかげん」ではなく、「良い加減」だけでもなく、自分のやっていることを自覚し、責任を持つ、ある種の真面目さ、真剣さ、「適切」に近い、本来の語義を取り戻した。

 では、この責任を自覚した「適当」は、何に対して適当なのか? 適して当てはまるのは、何に対して当てはまるのか? 「良い塩梅」とはどのくらいのことを言うのか? その答えは、どこにあるのだろうか? 少し遠回りになるが、5lackに寄って考えていく。5lackは切迫した調子で問う。

モニターに足かけ 調子どうだ?と客に話しかけ 渦巻く種仕掛け 人生につきその耳に問いかける Yeah 分からないことだらけ 見えないが感じる今だけ このステージ上がお前のLife 本番さどうにも止まらない  5lack“気がつけばステージの上”『情』

 ニーチェが「神の死」を宣告してから100年が経つが、近代人はいまだに「私はなぜ生きているのか?」という問いに対する絶対的な答えを喪失し、病んでいる。ある人は、その喪失の中で自死を選択し、ある人は安易な答えを掴む、そして多くはそもそも問うこと自体をやめてしまう。しかし、5lackは真摯に問い、全うにも「分からない」、「見えない」と答える。この答えは答えになってはいないが、その代わりに、ある事実を伝える。感じろ、何にせよお前は生き、お前の人生という舞台に立っている。これは本番だ。「どうにも止まらない」。そして開き直る。

Kick Push 人生 賭けて Believe it あっちよりこっちが絶対いいなんて信じてもなあ そうでもないかもしれねえし いまから決め付けないでさ
 人生 正解などないと思っていいぜ ひでえ目にあったりする それもまあいいぜ Weekend (×5) We Can (×5) I Love My Life  5lack“Weekend”『Weekend』)

 最後のフックまでは、フックの最後、“I Love My”の後にため息や嘆きに似た声が入っているが、最後のフックでは“I Love My Life”と明確にラップしている。いや、歌詞カードがないのだからここでも明確ではないかもしれない。しかし、最後に、確かにそう聴きとれるのだ。人は必ず死ぬ。そして人生に答えはない。「ひでえ目にあったり」もする。だけど、自分の人生をそのまま愛し、肯定できればいい。困難かもしれないが、俺たちにはできる。何度でも言う。“We Can”“I Love My Life”。この開き直りこそ、前回書いた「緩いタフネス」の本質だ。そしてこの回答によって、5lackの哲学の核心に近づくことができる。それは初期からの5lackのスタイル、変化そのものの肯定だ。根本のところで自分を愛し、もはや自分を恥じることがなくなるとき、人間は本物の自由を手にする。自由は、なにものにも寄らず、変化し続けること、創造すること、そのプロセスそのものを可能にし、また肯定する。そういえば、シングル『Weekend』のB面、あるいはもう一つのA面でこう言っている。

変わり続けるのが俺らしい 変わらないものなんてまやかし  5lack“夏の終わりに”『Weekend』

 変化とは、破壊と創造のプロセス、ただいい音楽を作り、それを続けること。そこには、自由ゆえの不安と、孤独の夜が常に付きまとう。だけど、その一回限りの踊りの繰り返しには楽しみもあるだろう。そしてこの踊りによって5lackは、シーンだけでなく、5lackの音楽を聴くリスナーたちに、「強くあれよ」と自覚(コンシャスネス)を呼びかける。別に純粋に政治的なことを言うことだけがコンシャスラップではない。彼がやっているのは間違いなくコンシャスラップだ。それもズールー・ネーションから続いている、HIPHOP的に正統な。
 今回はここまで。詳しくはまた次回にしよう。次回以降も、5lackの踊りと哲学についてもう少し掘り下げ、では誰に対する「責任」を果たそうとしているのか、考えていきたい。

※歌詞は全て筆者が書き起こしたものなので、間違っていたらごめんなさい。

Zomby - ele-king

エスキーなストリート・ミュージックが再び鳴り始める米澤慎太朗

 2008年に〈Hyperdub〉からデビューしたZombyが、再び同レーベルからグライム、「エスキー・ビーツ」の影響を強く感じさせる最新アルバム『Ultra』をリリースした。彼はこれまで、常に新しいモードにチャレンジしてきた。ジャングルや90年代レイヴ・ミュージックを強く感じさせる『Where Were U In '92?』〈Werk Discs〉に始まり、〈4AD〉と〈Ramp Recordings〉から4枚のアルバムをリリースしてきた。その後もTwitter上での熱いツイートで話題を常に絶やさなかった彼だが、ビートレスのトラックをWileyのヴォーカルが引っ張る昨年のシングル「Step 2001」〈Big Dada〉が本作『Ultra』を方向づけたように思う。

 収録曲の中でソロで制作されたものは、Wileyが作った(*1)エスキー・ビーツのアイディアを借用し、サウンドを発展させている。例えば、“Burst”の最初の小節に挟まれる一音はWileyの“Ice Rink”に使われていたエスキー・クリックと呼ばれる音である。また、アルバムのオープニング3曲は「Devil Mix」または「Bass Mix」とWileyが名付けたドラムのないインストゥルメンタル・トラックである。しかし、ただエスキー・ビーツをなぞるだけでなく、ハイファイな音作りで現在にアップデートさせた音像を提示している。
 無機質なベース音と、繰り返すビデオ・ゲームの効果音のような音の隙間には、グライムMCの熱のこもったラップが聴こえてきそうだ。DJがセットに時折混ぜるデヴィル・ミックスの淡々としたトラックは、ドラムなしのビートにマイクを握り続けるMCと、「早くマイクをよこせ」と待っているMCの間に生じる緊張感をさらに高めていく。“Burst”からは、そんなロンドンのラジオ局の様子が想像できた。しかし、ZombyはMCと共作する代わりに、ヴォーカルをチョップすることで、ほんの少しだけ緊張感を和らげているようだ。

 なぜ、今エスキー・ビーツなのか? この2~3年の間で、2000年代前半のエスキー・ビーツの再解釈がイギリスのシーンのトレンドになっていることがあるだろう。その背景には、アメリカの「トラップ」と全く異なり、2000年代初期の「エスキー・ビーツ」(*2)のスタイルにイギリス・グライムのオリジナリティを感じ、インスピレーションを求めようとする新世代のプロデューサーがいる。例えば、LogosやRabit、Visionistなどはエスキー・ビーツの影響を受けているし、今年は、2003年リリースのワイリーの曲“Igloo”を下敷きにしたトラックに、人気MC Stormzyが乗っかった“One Take”がクラブ・ヒットした。それに呼応するかのように、〈Local Action〉や〈DVS Recordings〉など名の知れたものからアンダーグラウンドまで、さまざまなレーベルが、2000年代前半シーンの勃興期にDJの間のみで流通していたプロモ盤を再リリース。2000年代前半のローな音への「原点回帰」がトレンドになりつつある。Zomby自身は年齢非公表のため想像にすぎないが、Zombyはおそらくリアルタイムで2000年代初頭のグライムを経験し、このタイミングでグライムの原点の一つであるエスキー・ビーツを自分なりにもう一度消化してアルバムとして提示したのではないか。

 ソロで制作された粗い質感のトラックはアルバムの方向性を決定づけているが、Burial、Rezzett、Darkstar、Bansheeとコラボレーションしたトラックではフロア向けのトラックとは別のベクトルに音楽性を発展させようと挑戦している。特に、Darkstarとのコラボレーションはどのパートをそれぞれが担当したかわかりやすいという意味でも面白い曲。どのコラボレーションもZombyのサービスとして、また息の詰まりそうなエスキー・ビーツの間の休みとして楽しめる。アルバム通してハイファイながら粗いローな感覚に浸れる一枚だ。

(*1)TR.1“Reflection”、TR.2“Burst”、TR.3“Fly 2”、TR.10“Freeze”、TR.11“Yeti”。
(*2)矩形波のベース音やKORGのTritonのプリセット音を使うスタイル。

米澤慎太朗

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 デリック・メイかと思った。9曲目の“Quandary”のことだ。なぜそう感じたのかはわからない。何度か繰り返し聴いているうちに、別にデリック・メイではないよなと考えを改めるようになった。けれどその後もときどきデリック・メイのように聴こえることがある。なぜなのか、よくわからない。

 日常的に交わされる雑談の紋切り型のひとつに、「誰が誰に似ているか」という話題がある。「鈴木さんって、山田さんに似ているよね」という、あれだ。誰かの顔が別の誰かの顔に似ているなんていうのは実際よくあることで、特に驚くことでもなんでもない。けれど、改めて考えるととても奇妙な事態でもある。なぜぼくたちは、誰かの顔と他の誰かの顔とが似ていると思ってしまうのだろうか。
 じつはぼくはこの類の会話が嫌いじゃない。といってもそれは、本当に鈴木さんが山田さんと似ているかどうかが気になるからではない。そんなことはどうでもいい。そうではなく、そういう話題を通して、発話者が観測対象をどのようにデフォルメしているかが明らかになるのが面白いのだ。発話者は、顔のどの部分を拡大しあるいは逆にどの部分を切り捨てて、対象を眺めているのか。それは、発話者が顔というものを通してどのように世界を見ているかということでもある。だから特に、意見が分かれるときほど面白い。
 たとえば高橋さんは、鈴木さんが山田さんに似ていると思っている。けれど斉藤さんは、鈴木さんが山田さんに似ているとは思っておらず、むしろ佐藤さんに似ていると思っている。このとき、高橋さんの眼差しと斉藤さんの眼差しが、あるひとつの顔の表象をかけてぶつかり合う。その瞬間ほどわくわくするものはない。ひとつの世界ともうひとつの世界が、戦闘を開始するのだ。「誰が誰に似ているか」という雑談は、あるひとりの人間が世界をどのように眺め、どのように切り取っているかをあらわにするのである。
 同じことは、音楽の聴き方についても言える。

 盟友ブリアルと同じように匿名性を堅守し続けてきたゾンビーは、本人は隠しているつもりはないと言っているようだけれども、現代における顔の見えないアーティストの代表格である。顔を隠すという行為は一見、彼に向けられる多様な眼差しを拒絶するということのようにも思われる。だがそれは、ゾンビーという対象に対し固定的なたったひとつの見方をしてくれという要求では全くない。他の分野がそうであるように、音楽の分野も多かれ少なかれ視覚的なイメージによって支配されているが、彼が顔を隠すのは、見た目ではなくあくまでサウンドでその音楽を判断してほしいからだろう。ゾンビーというアーティストは、どこまでもそのサウンドをもって、唯一無二の世界の切り取り方を提示する。
 通算4作目、およそ3年ぶりとなるゾンビーのニュー・アルバムは、ダブステップのその後のさらにその後の地平を切り拓く。まず、冒頭の1曲目“Reflection”から2曲目“Burst”の流れが素晴らしい。もうこの出だしだけで本作が何か特別なものに憑依されていることがわかる。ベルのような上モノが美しい“I”や“Glass”といった中盤のトラックもただただ最高だとしか言いようがない。他のアーティストとコラボしたトラック群も面白い。バンシーとの共作“Fly 2”は吐息に幻惑されながらぶっ壊れたR&Bを鳴らし、10インチとして先行リリースされたブリアルとの共作“Sweetz”はゲットー・サウンドを取り入れつつエクスペリメンタリズムの荒野を走り抜け、ぼくがデリック・メイだと「誤聴」したダークスターとの共作“Quandary”は暗く薄汚れたダンスホールでバレアリックなステップを誘発し、ウィル・バンクヘッドが主宰する〈The Trilogy Tapes〉からのリリースで知られるリゼットとの共作“S.D.Y.F”はジャングルへの愛慕と呪詛を同時に響かせる。1曲1曲に発見があり、戦闘がある。
 ロンドンのワーキング・クラス出身の顔を持たぬアーティストが、サウンドによって切り取ってみせる世界──それはジャングル、グライム、ダブステップ、あるいはアンビエント、そのどれにも似ているようで、そのどれとも似ていない。間に合わなかったレイヴ・カルチャーへの憧憬もあっただろう。ダブステップに対するアンビヴァレントな思いもあっただろう。未だ鳴らされたことのないサウンドへの渇望もあっただろう。このアルバムでは、これまでのゾンビー、いまのゾンビー、そしてこれからのゾンビーが同時に「顔」を覗かせている。そしてもちろん、ゾンビーとは屍体のことだ。

https://youtu.be/YMi8pXOaR9M

 ぼくはこのアルバムを幽霊に似ていると思った。幽霊だから当然、一度は死んでいる。その幽霊の「顔」は、ブレグジットを経たいまのUKの「顔」とよく似ている。グライムからダーク・アンビエントまでを消化=昇華したこの亡霊のようなベースとシンセの狂騒は、奈落へと沈みゆくUKの姿そのものなんじゃないか。あるいはタイトルの『Ultra』が指し示しているのは、いまのUKのあまりに「極度な」状況なんじゃないか。このアルバムは、どこにも逃げ場のない世界で、それでもなんとか生き抜こうともがいている、どこにも属すことのできない者たちに、ひとつの「顔」を与えようとする。このアルバムは、2016年という時代のロンドン・アンダーグラウンド・シーンの意地だ。
 最初にデリック・メイのサウンドを連想したとき、もしかしたらぼくは、もともと顔を見せなかったデトロイトのシーンのことを考えていたのかもしれない。ご存じのように、いまのかれらにはしっかりとした顔がある。対してゾンビーは、いまだに顔を見せようとしない。それはたぶん彼が、顔がない方が「顔」を見せることができるということをよく知っているからだ。
 ぼくはこのアルバムを幽霊に似ていると思った。きみはこのアルバムを誰に似ていると思う?

小林拓音

寺尾紗穂 - ele-king

 『青い夜のさよなら』から昨年の『楕円の夢』までしばらくまがあいたので、ときをおかず新作が出ると聞いたときは意外だった。『楕円の夢』にせよ『青い夜のさよなら』にせよ、その前の『愛の秘密』もそうだったけれども、寺尾紗穂のアルバムは聴く者の身を切るような鋭さがある一方で身にしみるやさしがある。ときに原発問題や貧困や格差を歌いながら、それらを観念にとどめず、暮らしと地つづきの場所に足を踏みしめた反動で飛躍する声とことばのひらめきをもっている。時事問題を道具立てにするのではなく、道具になりがちなそれをいろんな角度からためつすがめつする――、というかやはり「うた」なのだと思うのですね、ともってまわったことを言い出しかねないほど、寺尾紗穂の歌が説得的なのは彼女の歌を耳にされた方はよくご存じである。しかも近作では編曲や客演でも野心的な試みがなされていて、個々の歌の集まりとして以上にアルバムの作品としての印象がきわだっていた。ピアノを弾き語るシンガー・ソングライターのたたずまいをくずさずに、歌のつくる磁場がひきよせるひとたちとの関係は寺尾紗穂の音楽を実らせてゆくのを耳にしてきた私たちにこのアルバムはしかし、ここ数作とはちょっとことなる肌ざわりをもたらすかもしれない。
 というのも、『わたしの好きなわらべうた』と題したこのアルバムはタイトルどおり、日本各地に伝わる童歌を集めたもの。童歌を厳密に定義するのはいくらか紙幅がいるが、wikipediaにならって端的にいえば「こどもが遊びながら歌う、昔から伝えられ歌い継がれてきた歌」となる。作者不詳の伝承歌で民謡の一種であり、子どものころだれもが口ずさんだ「ちゃつぼ」「かごめかごめ」「とおりゃんせ」「ずいずいずっころばし」などの遊び歌、数え歌、子守歌などの総称であり、つまるところこのアルバムに寺尾の筆になる曲は1曲もない。というと、オリジナリティに欠けると早合点する方もおられるかもしれないし、この手のコンセプトにありがちな教条的な作品かもしれないとみがまえる方もいないともかぎらない。ところが『わたしの好きなわらべうた』はそのような心配をよそに飄々とゆたかである。歌とピアノ、ときにエレピを寺尾が担当し、『楕円の夢』にも参加した伊賀航やあだち麗三郎はじめ、歌島昌智や青葉市子や宮坂遼太郎らが客演した抑制的な作風は原曲のかたちを崩さず、いかに伝えるかに主眼を置きながらも、聴けば聴くほど、歌い手と演奏者の自由な解釈と発想がうかがえる仕上がりになっている。なかでも、多楽器奏者歌島昌智の活躍は特筆もので、スロバキアの羊飼いの縦笛「フヤラ」を吹き鳴らしたかと思えば、インドネシアのスリン、南米のチャスチャス、十七弦箏まで自在に操り、『わたしの好きなわらべうた』に滋味深い味わいを添えている。楽器のセレクトからうかがえる意図は、童歌というきわめてドメスティックな媒体にワールド・ミュージック的な音色を向き合わせる実験性にあるはずだが、新潟の長岡と小千谷に伝わる冒頭の「風の三郎」での歌島のフヤラが尺八を思わせるように、寺尾の狙いはおそらく異質なものの同居というより地理的な隔たりを超えた響きのつながりを聞かせることにある。地球の反対側の楽器なのにどこかなつかしい音色。その数々。
 「ノヴェンバー・ステップス」で尺八を吹いた横山勝也の師匠である海童道祖はかつて武満徹との対談で彼が望む音とは「竹藪があって、そこの竹が腐って孔が開き、風が吹き抜けるというのに相等しい音」だと述べた(立花隆『武満徹 音楽創造への旅』からの孫引き、p475)。「鳴ろうとも鳴らそうとも思わないで、鳴る音」こそ「自然の音」であり尺八の極意はそこにある――などといわれると禅問答っぽいというかもろそのものだが、子どもが適当に孔を開けた物干し竿でもいち音の狂いもなく奏したといわれる海童道祖の楽音もノイズもない音楽観は武満のいう「音の河」とほとんど同じものであり、武満の雅楽への開眼に大きな影響を与えたが、一方で西洋音楽の作曲家である武満は東洋と西洋はたやすくいりまじらないといいつづけた。ここで武満の考えの細部に立ち入るのは、毎度長すぎるとお小言いただく拙稿をいたずらに長引かせるのでさしひかえるが、武満のフィールドである西洋音楽と大衆歌では形式と独創性にたいする態度がちがう。大衆の音楽は混淆を旨とし伝播の過程で姿を変える。寺尾紗穂は童歌をとおし歴史と地理の裏のひとびとの交易と親交を音楽で幻視する。「ねんねんねむの葉っぱ」のマリンバはバラフォンのようだし、「いか採り舟の歌」や「七草なつな」は日本語訛りのブルースである。図太いベースとピアノの左手は齋藤徹のユーラシアン・エコーズを彷彿させるし、ペンタトニックが人類のDNAに刻まれているのは、エチオピアの例をもちだすまでもない。
 というと、いかにも気宇壮大だが聴き心地は質朴で恬淡としている。歌詞のもたらす印象もあるだろう。「ごんごん」と吹く風や「ねんねん」と子どもをあやす母親、「こんこ」と降る雪やあられの呪文めいたくりかえしを基調に、寺尾紗穂は歌詞の一節をリレーするように歌で北陸、山陰、山陽、東海、東北、関東、関西をめぐり、われにかえったかのようなピアノ一本の弾き語りスタイルによる「ねんねぐゎせ」で『わたしの好きなわらべうた』は幕を引く。
 寺尾紗穂はこれまでも童歌を舞台にかけてきたが、『わたしの好きなわらべうた』をつくるにいたった経緯を「WEB本の雑誌」の連載に記している。それによれば、子どもをもち母になり、子どもたちにYouTubeでみせた「日本昔ばなし」の山姥の話に興味をそそられ、調べていくうちに小澤俊夫氏が主催する季刊誌「子どもと昔話」で徳之島の民謡「ねんねぐゎせ」に出会ったのだという。寺尾紗穂が文中で述べるとおり、小澤氏はあの小沢健二の父であり、オザケンの「うさぎ!」の連載でこの雑誌をご存じの方もおられよう。寺尾紗穂はこの本が採録した「ねんねぐゎせ」の譜面の主旋律にたいして左手(和声)のとりうる動きの多様さに表現欲を駆り立てられた。単純な旋律と繰り返し、ヤマトのひとには意味のとりにくいシマグチの歌詞とあいまって、「ねんねぐゎせ」はおそらく童歌に憑きものの呪術性を帯びていたのではないか。
 私は両親とも徳之島の産の島の人間だから「ねんねぐゎせ」はそれこそアーマの、あまり上等とはいえない歌声で記憶の基底部に眠っているがしかし私の記憶では「ねんねぐゎせ」の歌詞は『わたしが好きなわらべうた』のヴァージョンとは似ても似つかない。ためしにアーマに歌ってもらったら以下のようであった。

ユウナの木の下で
ゆれる風鈴 りんりらりん
ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
ねんねぐゎせよ

なくなくな なくなよ
あんまがちぃから ちぃぬまさ(母さんがいったら乳をのませるよ)
ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
ねんねぐゎせよ

 1行あけて下はアルバム収録ヴァージョン。ユウナの木は和名をオオハマボウといい、徳之島町の町木であるが、町のHPにも「徳之島の子守唄にも登場する」とあるので、公式にも現在は上段の歌詞が一般的であることを考えるとアルバム収録の歌詞はかなり古いものだと断定してよいだろう。これはあくまでも仮説だが、大正終わりごろから昭和初期にかけての新民謡ブームが「ねんねぐゎせ」の歌詞の変形におそらくは寄与したのではないか。新民謡とは演歌のご当地ソングにそのなごりをとどめる、土地土地のひとびとの愛郷心が高めんと、名勝旧跡、物産名産を歌詞に織り込んだ歌で、田端義夫の「島育ち」(昭和37年)ももとは在奄美の作曲家三界稔による戦前の新民謡である。バタヤンの復活からほどなく三沢あけみと小山田圭吾の父三原さと志が在籍したマヒナスターズとの歌唱による「島のブルース」(吉川静夫作詞、渡久地政信作・編曲)もヒットを飛ばし、昭和38年の紅白に両者はともに出演。にわかに島唄ブームとなっていた、とはいえ、これは古来から歌い継がれたシマ唄ではない。話がまたぞろ長くなって恐縮ですが、シマ唄のシマは島ではなくムラ、共同体の最小単位を指す、ヤクザがなわばりの意味でつかうシマにちかい。方言を意味する「シマグチ」のシマも同義。おなじ島でもシマどうし離れていると言い回しがちがってくる。
 寺尾紗穂が準拠した歌詞も、私は聴きとりがどのような契機でなされたのか存じあげないが、私のシマでは母を「アーマ」と呼ぶが、歌詞では「あんま」と詰まっていることを考えるとおなじシマではない。それをふまえ、訛音を補いつつ採録した歌詞を読むと、どうしても一箇所私の解釈とはちがうところがでてくる。
 「ねんねぐゎせ」は四連からなる歌詞だが、その四連目、つまり最終ヴァースは以下の歌詞である。

ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
あんまとわってんや なぁじるべん
ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
ねんねぐゎせよ

 2行目の歌詞を寺尾紗穂は「母さんとお前は実のない汁だね」とヤマト口に訳している。「なぁじる」の「なぁ」は「No」にあたることばでそのあとにつづくものがないという意味であり、「なぁじる」だと「具のない汁」だし、頭を意味する「うっかん」の頭に「なぁ」をつけた「なぁうっかん」となればアホとかバカの意で、私が子どものころは友だちのあいだではラップでいうところの「ニガ」のニュアンスでもちいていた。「YOなぁうっかん」といった具合である。それはいい。私はちょっと不思議に感じたのは、「わってんや」の解釈で、資料では「お母さんとお前」となっているが、「わってん」のように「わ」系列の主格は単数にせよ複数にせよ「私(たち)=IないしWe」を指すことが多く、「お前(You)」はふつう「やぁ」か尊称では「うぃ」となる。言葉尻をとらえたように思われたくはないが、ここが「お前」であるか「私」であるかは歌詞の視点に大きく影響する。では歌詞のなかの「私=わん」とはだれか。おそらく母が水汲みや畑仕事で不在のあいだ幼子の子守を任された年長の姉ないし兄だろう(とはいえ、子守は当時女の子の仕事だったから兄の線はまずない)。つまり歌詞は子守をたのまれた姉の視点であり、姉はさぼりたいから第二連で「わんがふらんち なくなよ(私がいないからって泣くんじゃないよ)」というのであり、「なきしゃむんぐゎどぅ なきゅりよ(泣く子は泣き虫の子だよ)」には親が子をさとすのではなく、「泣くな」と赤ん坊の二の腕をつねるような調子がこもっている。「なぁじるべん」の「べん」は限定の助詞だが、ここにも「なぁじるばっかだな」という不満を私は聴きとってしまう。そもそも赤ん坊は第一連で歌うように「あんまがちぃから ちぃぬまさ(これも「母さんがいったら」となっているが「母さんが来たら」のニュアンスにちかい。つまり「ちぃ」を「Go」ととるか「Come」ととるかということである)」わけだから、わざわざなぁじるを啜らなくともよい(から赤ん坊はいいよなという含みもあるだろう)。
 年端のいかない少女たちに視点を定めると唄は生活苦におしつぶされそうな悲哀を歌ったというより生活の苦しさの理由を理解しえない幼子たちの直感的なそれゆえに反論のしようのないが微笑ましくもある異議申し立てに聞こえてくる。生活はたしかに苦しい。ワンのアーマの時代には水道は引かれていたらしいが、祖父母の代では水汲みは暮らしのなかの大切な仕事だった。それでも、この島の連中の気性を身につまされている私なぞは、ツメに明かりを灯すような生活であっても、灯した火で汁でもゆがいて食うか、なぁじるだけどな、というほどの意思を感じるのである。
 徳之島の秋津には「やんきちしきばん」ということばがあった。「家の梁がうつるほど(薄い)おかゆ」のことだが、それほど貧しくとも、子はきちんと育てあげるという意味がある。これは根拠のない連想にすぎないが「なぁじる」とそのことばは引き合ってはいまいか。私にとって「なぁじる」は具はなくとも反骨の出汁が利いている。
 私が高田渡の「系図」を聴くたびに涙するのはそのような理由からかもしれない。そして寺尾紗穂は高田渡の境地にちかづきつつある数少ないシンガー・ソングライターだろうというと寺尾さんはかぶりをふるかもしれないが、古今東西津々浦々の歌をかきあつめ、あらたな息吹を吹きこむのは歌手としてなまなかなことではない。私は彼女の歌がなければ島の歌をあらためて考えることもなかった。シマ唄では、とくにすぐれた歌い手は唄者と呼ばれるが、唄者にもっとも求められるのは、そのひとの唄を聴いた者がみずからのシマに帰りたくなるような気持ちをかきたてるような唄であること。シマ口でその感情は「なつかし」というのだが、「なつかし」にはヤマト口の「懐かしい」以上の、唄にふれた瞬間おとずれる情緒の総体の意をそこにこめている。
 数学者の岡潔はエッセーで頻繁に「情緒」にふれているが、昭和39年に書いたタイトルもズバリ「情緒について」と題した一文で絵画や禅や俳句における日本的情緒を検討した著者は文章の後半で不意に以下のように述べている。

この前もこういうことがあった。前田さんがしばらくぶりで家に見えて、やがてピアノを弾いた。私は何とも知れずなつかしい気持になった。そしてなつかしさの情操は豊かな時空を内蔵しているものであることがよくわかった。最後に私は子供の時正しくこの曲で育てられたのだと思った。これは世にも美しい曲であって、西洋の古典を紫にたとえるならば瑠璃色だといいたい感じであって、しかも渾然として出来上がっている。何ですか、と聞くと「沖の永良部島の子守歌です」ということであった。この曲はバリエイションを添えて売り出されているということであるが、もとのものを弾いて欲しいと思う。真に日本的情緒の人ならばこの曲は必ず「なつかしい」と思う
 (岡潔著、森田真生編『数学する人生』新潮社 p131)

 寺尾紗穂の「WEB本の雑誌」の原稿にあるように、徳之島を民謡音階の南限とすると、その南隣の沖永良部は琉球音階の北限となる。これは学説的にもよくひきあいに出され、私としては単純にその説にあてはまらない例も多々あると思うのだが、それはさておき、岡潔がヤマトの音階と琉球音階の境界に日本的情緒を見出したのはなぜか。岡潔がなにを聴いて「なつかしい」と感じたかはいまとなっては知るよしもない。この原稿が上述のバタヤンや三沢あけみの歌がヒットしたまさにそのときに書かれたことも考慮しなければならないだろう。とはいえ、岡潔はそこに日本的な情緒を聴きとった。私は柳田や折口が南の島に日本の原風景をみたことは、官僚であり国学の出身であった者たちのことばとしておいそれと賛同しがたいところもある。そんなものを押しつけるなよと思いもする。そこに誇りを感じずとも歌は歌であり、学術の対象となりはてるより日々歌われたほうが歌もよろこぶでしょうに。
 島には「なつかし」のほかにも多義的なことばがいくつもある。「ねんねぐゎせ」のような子守歌が感じさせるのは日々の営みへの慈しみではないだろうか。私はまたしてもながながと書き連ねたが、作中の人称の問題など些末なことにすぎないのである。それよりも、そこにある日々がどのようなものであるかであり、歌がなにをリスナーのなかにたちあげるか。考えるより先に無条件につつみこみたくなる感情をシマ口では「かなし」という。漢字をあてるなら「愛(かな)し」。『わたしの好きなわらべうた』がおさめるのは、ときと場所を問わず現代の私たちにうったえかける「かなしゃる歌ぐゎ」の数々である。(了)

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