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UCDの「適当に敬意を」

UCDの「適当に敬意を」

3:5lack この分かちもつ孤独を、踊りを、夜を、責任を、「適当」にいけよ(1)

文:UCD Sep 26,2016 UP

東京 アンダーグラウンド 誰も知らない世界で戦う
Morning and Night 遊びつつまた Hustle, Deal Yen
S.L.A.C.K.“In The Day”『この島の上で』

 HIPHOPはGroundの音楽だ。Groundとはいま踏みしめている「地面」、生まれ育った「土地」、わたしが生きている「根拠」、そこから生まれる明確な「立場」、いま抱えている「問題」だ。しかし、同時にHIPHOPはGroundを内破する。HIPHOPはGroundから生まれ、踏みしめ、拠って立ち、その生まれによって固有の苦悩を抱える人間のGroundを内側から掘り崩し、再構築する。その担い手は、自らのGroundをDigることでGroundを愛し、ゆえに破壊し、再創造するのだ。そこにどんな楽しみがあるかは、やったことがねえやつにはわかんねえな。そこには俺たちだけの、かけがえのない夜があり、踊りがあり、分けもたれた孤独があるんだ。

* * *

  さて、前回の続きだ。S.L.A.C.K.のキーワードである「適当」は、日常的に使う悪い意味での「いいかげん」ではない。この「適当」は前回書いたように、クソみたいだけど、手放したくない、いずれ終わりのくる日常の中で、その限界を意識しつつ、緩く、タフに生き延びようとする思想から出た言葉だ。だからそれは、まず「良い加減」であり、「ちょうどいい」ことを意味している。しかし、それだけではないのではないか? この問いは、表記が5lackになってから、また震災の後、さらに強くなった。
 実際、5lackは震災以後初めてのロング・インタヴューで以下のように答えている。少し長くなるが引用する。

■うん。「適当」っていう言葉は当初は日本のラップ・シーンに対する牽制球みたいな脱力の言葉だったと思うんですね。もう少し気を抜いてリラックスしてやろうよ、みたいな。

スラック:はいはいはい。

■それが、より広くに訴えかける言葉になってたな、と思って。

スラック:漢字で書く「適当」の、いちばん適して当たるっていう意味に当てはまっていったというか。要するに、良い塩梅ということです。だから、いいかげんっていう意味の適当じゃなくて、ほんとの適当になった。まあ、でも、最初からそういう意味だったと思うんですけど、時代に合わせるといまみたいな意味になっちゃうんですかね。ちょっと前だったら、もうちょっとゆるくて良いんじゃんみたいな意味だったと思う。

■自分でも言葉のニュアンスが変わった実感はあるんですか?

スラック:オレがラップする「適当」を、気を抜いてとか楽天的にとか、ポジティブに受けとられれば良いですけど、責任のない投げやりな意味として受けとるのは勘違いかなって。

 ここにダブルミーニングが生じる。S.L.A.C.K.から5lackへ、震災後へ。恐らく5lack自身、また、この島に住む多くの人々が、あの揺れと、波と、何よりも底の抜けた圧力容器からの線によって、変容させられた。正体不明の不安を覆い隠すように、偽物の多幸感の影を追いながら、社会の問題に他人事でいられた冷笑家すら、いまや当事者となった。もはや、「いいかげん」だけではすまない。良くも悪くも、いや、最悪なことに、この「いいかげん」と「無責任」によってあの災厄はもたらされたのだから。「大人」たちのほとんどはこの責任を取ろうとしなかったし、責任を想像すらできなかったが、この時代が生んだ子どもたちは、3.11以後の想像力は、未来からの呼びかけに応答しようとしている。子どものように責任を回避し、駄々を捏ねる大人の代わりに、取れる限りの責任を取ろうとしている。歴史に残るほどの大きな出来事は、言葉の意味すら変容させるらしい。震災以後の日本人の切実さは、「適当」に新たな内実を与えた。それは無責任な「いいかげん」ではなく、「良い加減」だけでもなく、自分のやっていることを自覚し、責任を持つ、ある種の真面目さ、真剣さ、「適切」に近い、本来の語義を取り戻した。

 では、この責任を自覚した「適当」は、何に対して適当なのか? 適して当てはまるのは、何に対して当てはまるのか? 「良い塩梅」とはどのくらいのことを言うのか? その答えは、どこにあるのだろうか? 少し遠回りになるが、5lackに寄って考えていく。5lackは切迫した調子で問う。

モニターに足かけ 調子どうだ?と客に話しかけ 渦巻く種仕掛け 人生につきその耳に問いかける Yeah 分からないことだらけ 見えないが感じる今だけ このステージ上がお前のLife 本番さどうにも止まらない  5lack“気がつけばステージの上”『情』

 ニーチェが「神の死」を宣告してから100年が経つが、近代人はいまだに「私はなぜ生きているのか?」という問いに対する絶対的な答えを喪失し、病んでいる。ある人は、その喪失の中で自死を選択し、ある人は安易な答えを掴む、そして多くはそもそも問うこと自体をやめてしまう。しかし、5lackは真摯に問い、全うにも「分からない」、「見えない」と答える。この答えは答えになってはいないが、その代わりに、ある事実を伝える。感じろ、何にせよお前は生き、お前の人生という舞台に立っている。これは本番だ。「どうにも止まらない」。そして開き直る。

Kick Push 人生 賭けて Believe it あっちよりこっちが絶対いいなんて信じてもなあ そうでもないかもしれねえし いまから決め付けないでさ
 人生 正解などないと思っていいぜ ひでえ目にあったりする それもまあいいぜ Weekend (×5) We Can (×5) I Love My Life  5lack“Weekend”『Weekend』)

 最後のフックまでは、フックの最後、“I Love My”の後にため息や嘆きに似た声が入っているが、最後のフックでは“I Love My Life”と明確にラップしている。いや、歌詞カードがないのだからここでも明確ではないかもしれない。しかし、最後に、確かにそう聴きとれるのだ。人は必ず死ぬ。そして人生に答えはない。「ひでえ目にあったり」もする。だけど、自分の人生をそのまま愛し、肯定できればいい。困難かもしれないが、俺たちにはできる。何度でも言う。“We Can”“I Love My Life”。この開き直りこそ、前回書いた「緩いタフネス」の本質だ。そしてこの回答によって、5lackの哲学の核心に近づくことができる。それは初期からの5lackのスタイル、変化そのものの肯定だ。根本のところで自分を愛し、もはや自分を恥じることがなくなるとき、人間は本物の自由を手にする。自由は、なにものにも寄らず、変化し続けること、創造すること、そのプロセスそのものを可能にし、また肯定する。そういえば、シングル『Weekend』のB面、あるいはもう一つのA面でこう言っている。

変わり続けるのが俺らしい 変わらないものなんてまやかし  5lack“夏の終わりに”『Weekend』

 変化とは、破壊と創造のプロセス、ただいい音楽を作り、それを続けること。そこには、自由ゆえの不安と、孤独の夜が常に付きまとう。だけど、その一回限りの踊りの繰り返しには楽しみもあるだろう。そしてこの踊りによって5lackは、シーンだけでなく、5lackの音楽を聴くリスナーたちに、「強くあれよ」と自覚(コンシャスネス)を呼びかける。別に純粋に政治的なことを言うことだけがコンシャスラップではない。彼がやっているのは間違いなくコンシャスラップだ。それもズールー・ネーションから続いている、HIPHOP的に正統な。
 今回はここまで。詳しくはまた次回にしよう。次回以降も、5lackの踊りと哲学についてもう少し掘り下げ、では誰に対する「責任」を果たそうとしているのか、考えていきたい。

※歌詞は全て筆者が書き起こしたものなので、間違っていたらごめんなさい。

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