Home > Columns > 『男が男を解放するために』刊行記念対談
外側の制度や法律を変えることと、内側の意識や欲望を変えること、それらの両輪が大事だという感覚が自分にはあって。(杉田)
男性の駄目さみたいなものをどうすくい上げて、それを断罪する形でなくどうほぐしていけるかを考えていた。(木津)
『男が男を解放するために 非モテの品格・大幅増補改訂版』の杉田俊介と、『ニュー・ダッド──あたらしい時代のあたらしいおっさん』の木津毅による対談をお届けする。
昨年9月に発売された杉田俊介著『男が男を解放するために 非モテの品格・大幅増補改訂版』。本書は集英社新書から2016年に刊行された『非モテの品格』に、副題のとおり大幅に描き下ろしを加えた増補版となる。原著の1~3章に加えて「4,5章」として書き加えられたパートはおよそ9万字。実質的に原著のほぼ2倍の分量になっている。
現代社会において男性が直面する数々の生きづらさについて、「弱さ」という観点から考えたオリジナル版。
そして増補版ではマーク・フィッシャーやスラヴォイ・ジジェク、デヴィッド・グレーバーなどの現代思想、『ジョーカー』や『イニシェリン島の精霊』といった新作映画などに言及しながら男性と「弱さ」についての考えをさらに深めていった。
一方の木津が2022年刊行した単著『ニュー・ダッド』では、ポピュラー・ミュージックや映画に登場する好ましい「おっさん」たちを通して、新たな男性像を提示することを試みていた。
現代の男性のあり方についての考察を深めてきたふたりに、それぞれの立場から改めてこれからの男性像について語り合ってもらった。
男性のルサンチマンによって結びつくのではないような、そういう「善きホモソーシャリティ」としての対話関係やケア関係がもっとあったらいいのに。(杉田)
いわゆるホモソーシャルな関係のなかで「本音」と思われてることは、じつはあんまり本音でもない気がします。(木津)
木津:今回加筆された4章5章の部分を後半とすると、前半と後半で論じる内容や文体の違いに感じるものがありました。もともと出された2016年から今回出される2023年の間には#MeTooもありましたし、SNSをはじめとしてジェンダー論の対立が激化した面もあります。
杉田さんは男性論を次々出されるなかで、この2016年から2023年の男性論について世の中の受け入れられ方の変化など、どういったところに問題意識を持たれているのでしょうか。
杉田:この何年か『非モテの品格』『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』『男がつらい!』という男性論の本を連続で出してきて、今回の『男が男を解放するために』に至るんですが、自分では自分の変化がよくわからないところもあります。木津さんは、どの辺でいちばん落差を感じましたか?
木津:落差というか、「ひろゆき論」の話が出てきたり、稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』の引用があったりと、近年話題になったトピック、それもいわゆる弱者男性論と結びついて語られていないことがダイナミックに絡んでいるのが、4~5章についての僕の強い印象です。そこはもしかすると、ジェンダー論がより広範な問題と関わっていると世の中で意識されるようになったこととも繋がっているのかなと。経済の問題にも関わっているし、アイデンティティ・ポリティクスにも関わっている、というように。弱者男性問題は非モテ論みたいな狭いところに押し込められていたけれど、じつはもっと広範に及ぶ話だということが、この4~5章に入ってるという印象を受けました。
杉田:2016年の『非モテの品格』では、ストレートに自分の男性としての当事者意識を言葉にしてみました。だから結構ポジティヴなことも後半では言っています。だけど新たに本を書くごとに、どんどん否定性のほうが強くなってきました。
特に日本では#MeToo運動の大きなターゲットが「おじさん」だったと思うんです。「おじさん」が日本的なハラスメントや家父長制の象徴とされた。そのなかで、自分の男性性を否定する気持ちも高まっていった。しかし他方では、脱・男性特権と言うものの、脱してどこに着陸すればいいのかわからない。ネガティヴな後退戦が続いてきた、という印象があります。
それに対して、木津さんの『ニュー・ダッド』を読むと、「新しいおっさん」というポジティヴな「おっさん」像を積極的に楽しく打ち出していて、とても元気づけられましたね。
木津:ありがとうございます。
杉田:僕は典型的な異性愛者の古い感覚の持ち主で、何を書いてもそうした「男」の内側からの悪戦苦闘になってしまう。そこは年代差もあるし、シスヘテロである僕とゲイの当事者である木津さんの差異もあるかもしれない。僕がおじさんを肯定する、というのは欺瞞がいっぱい入ってくる。とはいえ否定ばかりでも人間は生きていけない。どうすれば欺瞞なく肯定的なおっさん像が得られるのか。木津さんの本にはそのヒントをもらいました。
木津:まさに男性の自己肯定やセルフラヴの難しさは僕の本の動機になっています。例えばゲイプライドという言葉があります。世の中ではクィアとかゲイというのは、「男らしさ」の規範から悪しきものだとされてきたからこそ、意趣返しとして「プライド」と言えるわけですよね。でも2010年代以降のフェミニズムあるいはジェンダー・イシューが盛んになっていくなかで、ヘテロ男性が自分のアイデンティティにプライドを持っていくのは非常に困難である。脱・男らしさみたいなことが言われていくなかで、いかにセルフラヴが難しいかということは僕も感じていたので、そういうのを、まじめには考えるんだけれども、あまり深刻になりすぎずに、「パーティー感覚」というかみんなで一緒に助け合おうぜみたいな軽いノリで書けないかなというのが自分のなかでは大きかったんです。
ご本を読んでいると、自意識の問題を大切にされている印象があります。弱者男性論には経済の話が後ろにあることをもちろん杉田さんは落としてはないんだけれども、その話ばかりをしてしまうと、誰がいちばん悲惨なのかという被害者競争になりかねない。あるいはインターセクショナリティ(交差性)の議論は大切だけれども、そこではすくいきれない自意識の問題もある。そのなかで杉田さんが弱者男性とは言わないまでも、マジョリティ男性の当事者の自意識の問題を大切にされているのはどういったポイントなのかもお聞きしたいです。
杉田:自意識というか……どうしても性格的に、肯定と否定を繰り返しながら議論がぐるぐる循環しがちではありますね。木津さんの本を読んで、この自分にとって新しいおっさん像って何だろうかと考えてみたんですけど、これまでの僕は、肯定的な中高年男性像をあまりイメージできてこなかった。
木津:なるほど。
いま、イクメンとか、ケアリング・マスキュリニティのようなことが、リベラルエリートがさらに勝ち抜けるためのマウンティングの道具になっている、という状況もあるんですよね。(杉田)
ケアをする男性像を新しいものとしてもてはやしすぎると、それはそれで新たな勝ち組を生み出してしまう。でもケアをすることは日常的な苦労、ハードさの積み重ねのはずなので、具体的な話をすることで、現実と日常に根ざした男性のケアのモデルが見えてくるんじゃないか。(木津)
杉田:たとえば木津さんはブルース・スプリングスティーンについて書いています。パッションのある素晴らしい文章でした。僕は以前、『長渕剛論』という本を出しました。長渕はベタなマッチョで愛国者のイメージがあるし、そう言われても仕方ない面もある。しかし僕は、長渕のなかの、自分の弱さを引き受け、傷や弱さを晒しながら、それでも自分を前向きに肯定していこうというジグザグな姿勢が好きでした。そうした彼の男性性のあり方は重要なものに思えた。彼はスプリングスティーンほどリベラルではないし、危ういところはかなりあるけれど……。
少し話はズレますが、僕にとっての男性論は、ウーマンリブや障害者解放運動から影響を受けています。社会の側の法律や制度を批判するだけではなく、内なる優生思想や内なる女らしさ幻想を解除しなきゃいけない。そういうジグザグがそれらのムーヴメントにはあった。外側の制度や法律を変えることと、内側の意識や欲望を変えること、それらの両輪が大事だという感覚が自分にはあって、肯定と否定がぐるぐるするのもそのためもあるかもしれない。自意識の空転とは違うつもりなんですが……。
木津:スプリングスティーンに触れてくださったのはおっしゃるとおりで、どこか葛藤があるほうが僕もリアリティを感じます。杉田さんも本のなかで問題にされてますけれども、最近第4波フェミニズム以降の流れとして、男性が積極的に男性性を降りるみたいな話になると、そこで新たなマウンティングが発生することもある。フェミニズムに目覚めた男たちという別の階層が現れてしまう。
PC的・リベラル的なメンズリブに助けられる部分もゲイとしてはあって、建前的だとしてもゲイ差別はいけないと言ってくれるマジョリティがいるだけで非常に助かる。一方で、そこでかえって弱者男性のルサンチマンをこじらせるような要因が発生してしまうというパラドックスをどうしたらいいのか悩んでいます。そこから取りこぼれる人間の、あるいは男性の駄目さみたいなものをどうすくい上げて、それを断罪する形でなくどうほぐしていけるかを考えていたので。その辺りの杉田さんが見てこられたメンズリブの近年の流れのなかで特に問題意識があるのはどういったところなんでしょうか?
杉田:そうですね、たとえば男性集団におけるタテマエとホンネの問題などが気になります。公的な場では、タテマエとしてPC的な基準に合わせようとするんだけど、ホンネのところでは納得していないから、性的マイノリティや女性に対する反感が無意識に溜まっていく。やがて暴発して、男こそ傷ついているんだとか、女性やマイノリティには特権があるんだ、という話になってしまう。つまり、反PC的なホンネのルサンチマンによって結びつくホモソーシャルな共同体が形成されてしまう。
もしかしたら日本では国学的なものの伝統と言うべきなのか、抽象的な外来語としての漢意(からごころ)を嫌って、正直な感情や感動を大事にしよう、みたいな文化がいまも強いのかもしれない。フェミニズムやPCなんて外来の思想は、人間の正直な感情に反するんだ、みたいな。
でも、人間の「本心」とはおそらくタテマエでもホンネでもない。自分の本心って、自分でもはっきり言語化できなかったり、失語や沈黙を通してしか他者に伝えられなかったりする。カウンセリングや精神分析のような領域に近い。感情的な葛藤を抱えたり、うまく語れなくて失語したりしながら、それでも自分のなかの本心を他者と分かち合っていく──そういう意味での対話を重ねながら、自分のなかの傷や本心を分かち合えるような男性文化をうまく作ってこられなかったんじゃないか。それは「男同士で腹を割ってホンネで話そう」というような悪しきホモソーシャリティとは違うはずです。男性のルサンチマンによって結びつくのではないような、そういう「善きホモソーシャリティ」としての対話関係やケア関係がもっとあったらいいのに。
木津:いわゆるホモソーシャルな関係のなかで「本音」と思われてることは、じつはあんまり本音でもない気がします。例えばモテたいというのも、自分の欲望を真剣に見つめたときに、本当にモテたいのかどうかは人それぞれだと思うんですよ。女性と積極的なコミュニケーションをとってたくさんセックスをしたいというゴールがあるとすると、それは旧来的な「男らしさ」がモデルであって、それよりも例えばマスターベーションの時間を充実したものにするとか、自分へのケアの方向が人それぞれで本当は違うはずです。男性同士の間で本音と思われてる部分が違う可能性もあるんじゃないか。ご本を読んでいても想像するところがありました。
杉田:そういえば、何年か前の紅白歌合戦で、氷川きよしが『ドラゴンボール』の歌を歌った回が好きでした。LGBTフレンドリーな空気を取り入れているのに、「紅白」というバイナリーな枠組みはどうなんだろう、というのはもちろんありますが、氷川きよしが最初は白い服を着ていて、途中から真っ赤な服に着替える。で、そこからもう一段階進化する。てっきり虹色になるのかな──と思っていたら、なぜかゴールドに変身する。そこにグっときた。はっきりいってなぜ金色になって空を飛ぶのか、合理的な理由はわかんないんだけど、金色じゃなきゃダメだったんでしょう。それは本人に固有の特異的な欲望を示す何かであって、別に誰かに共感したり理解したりしてもらう必要もない。でも、本当の意味での多様性って、そういうわけのわからないものなのではないか。虹色モチーフを使えば自動的に多様性、ということではない、と感動しました。
木津:いまの話と繋がってきますが、僕は男性同士の友情、フレンドシップの話はどうなってるんだろうと思っています。例えばこの前ゲイの飲み会があって、50代後半のゲイの方が最近編み物にはまってるとか、同世代のゲイがいまさら『冬のソナタ』にハマったとか、いわゆる「男らしさ」から外れる「ゲイあるある」話ですごい盛り上がって。僕はそういうやり取りにすごくエンパワーメントされるんですよね。それぞれがそれぞれの人生を楽しんでいる感じがゲイにとっても、ひとくくりにできるものじゃないんだけれども、何か共通するものがあり、それでエンパワーメントされる。男性同士の友達の話のなかからそういったことはあまり聞かないなと思って。
ご本のなかで『イニシェリン島の精霊』も引用されてましたけど、あれは男性同士のフレンドシップの不可能性みたいな映画に僕は見えたので、シリアスに考えたい。一対一の男性同士の関係じゃなくても、グループのなかでも旧来的なホモソーシャルより、もうちょっとマイルドな男同士の関係性を模索できないかなと考えているんです。
杉田:先ほど述べた善きホモソーシャリティというか、非暴力的なホモソーシャリティが大事だと思っています。SNSの議論だと、誰が正しいか間違っているか、敵か味方か、という政治的な集団の対立になりがちです。言葉もぎすぎすしていく。とはいえ、オンラインを遮断してオフラインの対面に還るべきだ、という単純な話でもなさそうです。オンラインとオフラインの中間あたりに、非暴力的で、セラピー的で、善良にホモソーシャルな空間がだんだん拡がっているような気がします。オンライン自助会とかオンライン読書会とかもそうかもしれない。
新しい自分になること、新しい価値観を持つことに対する恐怖をどう男性は乗り越えていけるのかを考えています。(木津)
ひとつの価値観を受け入れたから一瞬で万事OKになるわけではないし、逆にいままでの人生が全部駄目だった、ってことにもならない。自分のなかの古い感情や価値観にも大事なもの、よいものはたくさんあるはずなんですよ。(杉田)
木津:『ニュー・ダッド』のなかで、『クッキングパパ』の高齢男性が料理教室に行く回が好きという話を書いたんですが、男性たちがゆるく繋がれる場所がもっとあればいいですよね。僕ら世代の子育てをはじめた男性たちは暴力的な父親、強権的な父親という、古きおっさんになることを恐れている人が多い。そのなかで子育てをどのようにやっていけるかリアルに悩んでいて、そういった悩みがちゃんと最近は共有されはじめている。そこに前向きなものを感じているんです。
杉田:そうですね。僕も少し前から、MetaLifeというサービスの、自助会みたいな場に参加しているんですよ。ちょっとメンタルを病んでしまって……。ただ、そこはすごくケア的で穏やかな場なんですけど、MetaLifeのホームページを見ると本田圭佑がバーンと出てきて、ちょっと自己啓発的で新自由主義的な感じで(笑)。たしかにいま、イクメンとか、ケアリング・マスキュリニティのようなことが、リベラルエリートがさらに勝ち抜けるためのマウンティングの道具になっている、という状況もあるんですよね……。
木津:それはリアルな話ですよね。
杉田:もちろん使い方次第だとは思うんですけど。他者を配慮したり弱さをシェアできる男性が新しい時代の勝ち組なんだ!、みたいな話には回収されたくない。
木津:いまの話はグラデーションがあって、いわゆるケアをする男性像を新しいものとしてもてはやしすぎると、それはそれで新たな勝ち組を生み出してしまう。でもケアをすることは日常的な苦労、ハードさの積み重ねのはずなので、具体的な話をすることで、現実と日常に根ざした男性のケアのモデルが見えてくるんじゃないか。例えばエッセイ漫画でもお父さんが子育てしてる漫画が増えています。単純に俺は子育てしてるぜっていう感じでもなく、日常的にこれが困ったとか、それをママ友やパパ友に教えてもらって助かったみたいな話が増えてるのは、子育てしてない身としてもいい話だなと思うと同時に、男性たちもいろんなものから解放されてるんじゃないかと、思うところもあります。
杉田:そうですね。ケアをあまりに自己責任、家族責任にしすぎると燃えつきてしまうけど、パブリックすぎず、プライベート過ぎないような──具体的な家事とか育児とかケアってそういうものじゃないですか。その辺の面白さをシェアしながら入れる領域がもっとあったほうがいいですよね。
木津:そうですね。
杉田:男女の間でケア負担に圧倒的に非対称性があるわけだし、ヤングケアラーや老々介護などもあるのだから、一部のイクメンやケアリング・マスキュリニティを持てはやすのではなく、もっと日常化して、かつその面倒な部分も楽しい部分も、わいわい語ったり、わちゃわちゃ協同で実践していければいいなと。
木津:『ニュー・ダッド』の書き下ろしの部分で自分の彼氏のあまりにも子どもっぽい姿を入れたのも、理想論では語りきれない日常的な話を入れたかったんですよね。どうバランスをとっていくか、グラデーションを示していくか。これからの男性論でも重要になってくるだろうし、僕のようなゲイが話してもいいし、ヘテロから出てきてもいい。多様なものが生まれるといいですね。
杉田:あと、ドラえもんにもちょっと「ニュー・ダッド」的なイメージがあります。あの丸めの体形なんかも含めて。ドラえもんはのび太くんがあまりにも駄目だから、のび太の身の回りをケアするために未来から派遣されてきた。ケアラーの役割なんですよね。しかしドラえもんには、のび太を自分に依存させることで駄目にしていく、というマターナリズム(母性的支配)の危うさもある。先回り的にケアしすぎてしまう。
しかし話が進むにつれて、逆にドラえもんのほうがのび太に依存しているようにも見える。あるいはドラえもんのある種の母性的な力によって共依存関係に陥っている。ふたりはそれを自覚して、だんだん適切な距離を取っていくんですよね。それでちゃんと対等な「友達」になっていく。支配関係や依存関係ではない関係を構築していく。そうした関係の作り方は、現代のおじさんたちにも大事なことに思えました。
木津:なるほど。ちなみに『ドラえもん』で僕が男性でいちばん好感を持ってるのは出木杉くんなんです。満点のザ・ちゃんとした男性(笑)。でも、出木杉になれなくてもいい、という話も『ドラえもん』には出てきます。「家庭科エプロン」のエピソードで、のび太が将来お嫁さんになるしずかちゃんに家事をやってもらうから自分はやらなくていいんだ、みたいなことを言います。それで出木杉の家に行ったら彼が料理を作っていて、しずかちゃんが──この言い方もちょっとどうかって問題はあるんですけど──出木杉さんのお嫁さんになる人は幸せねみたいなことを言ってのび太が大ショックを受ける。『ドラえもん』がいいのは、のび太がそこで出木杉くんを僻んで敵にするのではなく、自分もちょっとでも家事ができる男になろうとするんですよね。ドラえもんの道具を借りてですけど。そこにヒントがある気がします。
のび太は弱者男性とまでは言わないけれどもある種の僻み根性を持ちやすい立場にある。その感情自体は受け入れて、でも客観的にいいところは取り入れていくという方向のエピソードになっている。僕はすごくそのエピソードが好きなんです。ここでの出木杉的な──いまで言うPC的リベラル的なものがあったとしても、そこに対してたんに僻むじゃなく、距離を置きながらもいいところは取り入れていくというフラットなのび太のあり方には感銘を受けるし、そういうあり方を何か世の中に提示できないかと個人的には考えています。
杉田:『ドラえもん』のコミックスを読んでいくと、最初はジャイ子と結婚することが不幸の象徴なんだ、みたいな女性蔑視とルッキズムからはじまりますが、作者である藤子F先生が時代の流れに学んで価値観が変わっていくんですよね。しずちゃんがじつは男の子に憧れていて自分の体を男性の身体と取り替える回とか、ジャイ子が少女マンガ家の夢を通してフェミニズム的な気高さを発揮していくとか。
木津:そうですよね。
杉田:ジャイ子には自己卑下がなく、ルッキズムの内面化がないのもいいですね。それからジャイ子には途中で男の子の友だちが出てくるんだけど、恋愛関係に入るのではなく、あくまでも同じ漫画家を目指す者同士のアソシエーションのような感じ。女の子は仕事じゃなくて恋愛するのが幸せでしょ、というほうへは行かない。男女の間でフラットな友情を結びながら、漫画家としてお互いに切磋琢磨していく関係でした。時代を先取りするようなところがありますね。『ドラえもん』の映画でもそろそろジャイ子が主人公の長編が観てみたい。
木津:僕もジャイ子の変化がいちばん好きかもしれないですね。藤子先生が漫画家という職業を与えたことも含めて、彼女に対しての優しさを感じます。時代の変化がちゃんと作用している。
変化という話でいうと、例えばいまLGBT差別はいけないとか言ってる人でも、ほんの15年前ぐらいには差別的なことを言ってたじゃないかと指摘されることがあります。その気持ちもわかるんですけど、僕は時代とともに変わったことをポジティヴにとらえたい。もちろん全く反省しないで単純に乗り換えたのでは困るんですけど、昔は気づいてなかったことを自己反省して変わったのであればそれは歓迎したいんです。男性性の問題についても、価値観を変えることの怖さもある気がして、杉田さんが自意識の問題を重要視されているところも僕は共感します。そこで新しい自分になること、新しい価値観を持つことに対する恐怖をどう男性は乗り越えていけるのかを考えています。
杉田:簡単ではないですよね、もちろん。変わると言ったときに、男性って、全肯定か全否定かになりがちな気がしますね。しかしここでいう新しさというのは、あくまでもパーツであり、その組み合わせの在り方だと思うんです。部分否定しながら部分肯定していく。新しいパーツを取り込んで少しずつ体質改善していく。ひとつの価値観を受け入れたから一瞬で万事OKになるわけではないし、逆にいままでの人生が全部駄目だった、ってことにもならない。自分のなかの古い感情や価値観にも大事なもの、よいものはたくさんあるはずなんですよ。おじさん性を全否定して、それが反転して被害者意識になってしまったら元も子もありません。しなやかな可塑性が大事ですよね、たぶん。
木津:個別具体性が大事なのかなと思いました。『ニュー・ダッド』でも「おっさん」というひとまとめで、そこに差異がないかのように一般化される言葉を、いかに個別具体的に開いていくかという試みをしました。そうして個人の物語が出てきたときに、どこの部分を否定するのか、肯定するのかは人によってバラバラだし、でも重なってくるものもある。その両方の動きがちゃんと語れることが重要だなと思いましたね。
杉田:「おじさん」という大枠の言葉で括って、まずはきっちり批判すべき問題が間違いなくある。特に日本社会にはある。他方では、そうやって大きく括ることで、そこに括り切れない面も見えてくるはずです。僕なんかも全否定しがちなんですよね、おじさんは全員滅びたほうがいい、みたいな。
木津:ただ、本を拝読していて、全否定とはあまり感じませんでした。すごくシリアスな言葉で圧倒される部分はありましたけど。例えばジジェクを引用する形で「残余」という言葉が出てくるのは結構ドキッとする。それは全否定されるものからこぼれ落ちていくものをどう再定義していくか、あるいは再評価していくかということだと思いました。杉田さんのご本を読んでいると、そういった全否定からこぼれ落ちていくものを考え直すことの重要性を考えさせられるきっかけになりました。
杉田:今回の増補版の最後のほうで書いたのは、トランスパーソンの人びととの対話から得られたヒントのことでした。トランスジェンダーの人たちにとっては、そもそも、男性であることや男性性は否定されるべきものとは限らない。そうやって他者による肯定をひとつの媒介にしたとき、シスヘテロの男性が男性性を全否定してしまうことの危うさも再認識したんですよね。逆にいえば、肯定していい部分もあるはずだと。ポジティヴなおじさんのあり方を積極的に語る言葉が、シスヘテロの側からももう少しあっていいんじゃないか。
木津さんの今回の本を読んでもそういうことを感じました。従来の男性学はどうしてもシスヘテロ男性中心です。異性愛男性中心の社会を批判するために一度通過しなきゃいけない面もあるんだけど、それによって見えなくなっている部分もたくさんある。マジョリティとマイノリティが領域横断的に議論や対話を重ねることによって、ニューダッドや新しい男のなかの肯定性を初めて語れるようになる面もあるのではないか。自己否定や撤退戦ばかりではなく、そういう肯定的な側面も今後はなるべく語っていきたいですね。
木津:僕もぜひそれはお聞きしたいなと思います。もっとシンプルなところで、男友だちのこういう発言に救われたとか、こういう行動に救われたとか、こういうケアがめっちゃ染みたから自分も他の人にしようと思ったとか、そういう男性同士の関係のなかから出てくるものが、今後日常的なところから出てくるといいですね。
杉田:そうですね。同性愛嫌悪やミソジニーを前提としない善きホモソーシャリティはたくさんあると思います。そういう可能性もいろいろとおしゃべりしたり語らったりしながら、もう少し身軽に楽しく実践していくのが大事な気がしますね。