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ニュー・ダッド──あたらしい時代のあたらしいおっさん

ニュー・ダッド──あたらしい時代のあたらしいおっさん

木津毅

筑摩書房

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野田努 Aug 09,2022 UP

 出る出ると言われてなかなか出なかった木津君の本がようやく刊行されて、楽しく読ませてもらった。おもに欧米のポップ・カルチャーを愛する彼は、音楽や映画から言うなれば人生論や世界の見方を引き出し、それを文章にして発表している。エレキングではもう、かれこれ10年以上アルバムのレヴューを中心に書いてもらっているが、彼の関心ごとには、彼の好きな音楽を介して見える「社会」や「生き方」とともに、ゲイとしての文化論やジェンダー論もあることは、もう長年の読者には周知の話だろう。
 木津君は面白い男で、彼はぼくと初めて会ったときに、会話もそろそろ終わりかなというタイミングで、突如、じつはぼくはゲイなんですと切り出した。渋谷の宇田川町にあるカフェの奥の方の席だった。ぼくはそれまで、高校卒業後に仲の良かったふたりの友人から目の前で告白されたことがあった。某企業で働いていたときに、高学歴の社員が自分はゲイだから出世できないので辞めるといって辞めていった話も聞いたことがある。しかし編集者として、初めて会った書き手からそんなことを言われた経験などなかったから、あのときはぼくも面食らった。本人にとっても初対面で言うのだから、意を決してのことだったはずだ。ぼくがゲイ文化(たとえばストーンウォールの暴動など)についても書いていることと、こういうことは最初から言っておいたほうが良いのではないかと思ったというのが彼の言い分だった。ぼくだってハウス・ミュージックとの出会いがなければ、ゲイ文化に対するリスペクトは持ち得なかったかもしれない。マシュー・チョジックが紙エレキング紙上で言ったように、文化は政治に先んじ、その影響力というのはひとが思っている以上に大きなものなのだ。
 
 それにしても時代は変わった。大きく変わった。ことに性的マイノリティーをめぐる言説に関しては、『仮面の告白』や『ベニスに死す』や『バナナブレッドのプディング』の時代とは別世界だ。80年代の新宿2丁目のいかがわしいアンダーグラウンドな匂いも(再開発のこともあって)いまはない。ましてや、ぼくと木津君とが初めて会ってからこのおよそ10年のあいだで、社会はめざましい速さで変化していった。人種、フェミニズム、そしてLGBTQといった人権をめぐっての人びとの意識は、まあ、少なくはないその反動を抱えながらも如実に更新されてきているが、そうした社会の変化に敏感だったのは、(ぼくは間違っても欧米至上主義ではないが、ひとつの事実として言えば)欧米のポップ・カルチャーだった。それにDJカルチャーにおいても欧州は、白人男性だけに偏らず、女性、黒人、アジア人を同時にブックするようになったし、エレクトロニック・ミュージック・シーンにおける女性とLGBTQの進出拡大については、ここであらためる必要などあるまい。いまではむしろ男はどこ? といった感じだったりする。
 こうした社会の激変期たる今日において、では自分たちはどうしたものかと難しい立場に置かれているのが「男性」だ。木津毅にとっての初の単著、『ニュー・ダッド』におけるひとつのテーマもそこにある。これは議論のしがいのある話だとぼくも思う。男は、旧来の社会が強制してきた男性性から必ずしも自由になれないまま、変革を強いられている。弱音を吐くわけじゃないが、これはきつい。政府が時代に逆行してきたここ日本ではとくにそうだろう。誰もがキュートな中年になりたいと思えるのかどうかも、難しい話だ。だが、社会は動いているのだし、家父長制の残滓とどう取り組んでいくのかは、未来を思えば避けがたい課題でもある。『ニュー・ダッド』の主軸となっているのは、映画や音楽あるいはゲームや漫画など主に欧米のポップ・カルチャーを題材にした「cakes」での連載原稿で、ここには男性性——木津君の言葉で言えば「あたらしいおっさん」——をめぐっての考察が展開されているのであるが、本書は難解なタームをバシバシと続けるような批評でない。著者があれこれ感じたこと/考えたことをつらつらと書いているエッセー集といった趣の本だ。
 ぼくが木津君の文章で好きなところは、なんでもかんでもロジックで白黒決めつけないところだ。ダメなヤツにだっていいところはある。つらい人生にも夢はある。ロジックだけでは割り切れない感情だってある。それを甘いと考えるか、それとも優しや寛容さと取るかは読み手次第かもしれないが、たとえばブルース・スプリングスティーンについての文章には、いかにも木津毅らしいヒューマニズムが描かれていると言えるだろう。スプリングスティーンの“ザ・リバー”をロック史上に残る名曲だと断言する彼は、同曲を器用には生きられない悲哀に満ちた人間ドラマとして評価する。アメリカンドリームの影であり、白人低賃金労働者の物語としての社会的な重みにフォーカスするのではなく、ひとりの男の人生における夢の叶わなさという普遍的な話として彼は受け止め、そして次のように自分の考えを加える。「ひとは器用に生きられないし、簡単にあたらしくなることなんてできない。それはどこかで、「男性性」の更新の難しさと重なっているように思える」。そうした「男性性」の更新の難しさを描くスプリングスティーンが、ではなぜアメリカのフェミニストからも評価されているのかという展開がこのエッセーの読みどころになっている。
 ポリティカル・コレクトネスは、歴史的な多くの物事にあらためて白黒はっきりさせている。それで良かったことはもちろん多々ある。また、同時にジェンダー平等の意識もじょじょに広がっているのだろうけれど、他方では、「正しさ」をもってひとを必要以上に叩き、多様性を主張しつつも逸脱を否定し、監視やパブリックシェイミングを促しているリベラル的なるものの暴走も見受けられるようになった。もっとも炎上しがちなやっかいな話題でもあり、要するに繊細なテーマなのだ。『ニュー・ダッド』の特徴のひとつは、こうした時代のなかで変化する意識(の本質)を基本的には肯定的に受け入れながら、過度なキャンセル・カルチャーには戸惑いを露わにしつつ、思いのうちに人道主義的なアプローチをためらいもなく導入している点にある。人間愛という、ともすれば古くさいと思われているであろう考えをいまの「あたらしさ」にぶつけているところが、木津君らしいというか、本書における政治性と言えるのかもしれない。これに近い感覚は、彼のお気に入りの監督であるケン・ローチやアキ・カウリスマキの映画にも見受けられるだろう。
 『クッキングパパ』を論じるところには、男性性を更新させていくにはまずはシャドウ・ワークを男がどれだけできるかだと思っているぼくには大いに共感できる。シャドウ・ワークとは家父長制が女性に強制してきたものなのだから、まあ、ひとを雇えるほどの収入でもない限りは、ぼく自身もふくめてこれは克服しなければならない課題だろう。『20センチュリー・ウーマン』は、彼からレインコーツの話が出てくると教えられて見た映画だったが、これもとらえ方によっては、女性の話を聞くということができない男性社会への批判にもなっている。ちなみに著者の気持ちが、強く述べられているのはここだ。いわく「男がフェミニズムを学ぶということは、立場の違いから完全に理解しえない(だろう)問題を、それでも理解し続けることだ」
 
 本書のなかでほかにぼくが好きなのは、木津君の愛情がたっぷりと注がれたボン・イヴェールについての原稿だ。話は逸れるけれど、『ヴァイナルの時代』というレコードについての本を9月に刊行することになった。同書はじつに示唆に富んだ内容の本で、レコード・リスニングをめぐっての哲学や社会学にまで考察が及んでいるのだが、その本のなかで、ひとつの型にはまった(悪しき)男女関係として、「ヘテロな恋愛関係は男性が女性を教育することを中心に回っている、という70年代のウッディ・アレンばりのアイディア」という一節が出てくる。この手の恋愛関係のあり方もそうだが、だいたい男性というものは硬直した人間関係から抜け出せないでいる。また、ぼく自身もそうだが、自分の感情を露わにすることをどこかで抑制しているようなきらいがいまでもあるものなのだ。そういうなかで、社会との関連性や理想とするヴィジョンもないのに、無闇やたら理屈っぽい文章を書いてしまうのも男性特有のマッチョさと言えるのだろうね。そこへいくと木津君の文章は、マッチョな文章からは振り向きもされない言葉で埋め尽くされているというのは言い過ぎだが、そんな風合いがある。
 
 まあ、気楽に読んでくれよと、そうことなのだ。そもそもポップ・カルチャーを語る言葉は、昔グリール・マーカスが高校の放課後における友人たちとの会話を喩えにしたように、好きだからこそ語られる言葉にはじまっている。そして、やがてなぜ自分はそれがこんなにも好きなんだろうということを追求していったときに、より深い言葉へと向かっていくものだったりもする。木津毅は、このプロセスにおける「好き」の力がかなり強いライターだ。それに、これは昔DOMMUNEでもいったことの繰り返しになってしまうが、ポップ・カルチャー、ことに大衆音楽を語ることの愉楽には、自分の人生と重ね合わせながらそれを語ることができるという点にもある。いわゆる自分語りだ。『ニュー・ダッド』において木津君の自分語りはほぼ全編に渡っているのだが、本書のもうひとつの軸は5つの書き下ろし原稿によるじつにエモーショナルな彼の自叙伝的な話にある。ここでは男性の好みをはじめ、性の目覚め、自我の葛藤、カミングアウトと家族のこと、現在の恋人のことなど彼の半生が赤裸々に綴られている。ユーモアを忘れずに書いてはいるが、著者の人生に対する真摯な向き合い方と優しさがにじみ出ているこれらの文章には素直に感動させられてしまった。とくに彼が初めて家族にカミングアウトしたときの話は、きっと多くのひとが心を揺さぶられるに違いない。 

 髭面の太った中年男性(つまり、外見的には典型的なマッチョな男性ですな)が彼の好みだという話は、これまで本人の口から耳にたこができるくらい聞かされている。彼の「好き」にも付き合いきれないところはあるし、序文を読みながら「またその話かよ」と思ってしまったのは、彼を知る人間の感想としてはまあ普通だろう(笑)。また、ひとをyoungとoldで分ける発想はぼくにはない。若者は将来のおっさんであり、おっさんはかつての若者だ。というか、そもそもぼくは中高年を「おっさん」とは呼ばない。商店街の顔見知りには「親父さん」と声をかけている。それにぼくは、見るからに強そうな男ではなく、見るからに弱々しい男にこそ期待している……とか、そんな風に細部においては同調しかねる箇所もあるにはあるのだが、基本的に『ニュー・ダッド』は心温まる本だ。とかく殺伐としたこの時代に必要とされているものが本書には詰まっているように思う。木津君には、人生とは楽しめるものなのだという確信がどこかにあって、そのオプティミズムは本書にも通底している。最後に収録されたバーベキュー・パーティの文章がそれをうまく物語っている。これは良いエンディングだった。

野田努