Home > Columns > ピンクの三角形とこの痛みを胸に- ──ジョン・グラント“グレイシャー”とジョン・アーヴィング『ひとりの体で』によせて
「自分の人生を生きたいだけ 知る限りのいちばんいいやり方で/だけどあいつらは言い続けるんだ お前にそれは許されていないと」
僕は本当に迂闊な人間なので、そんな言葉で始まるジョン・グラントのピアノ・バラッド──昨年の素晴らしいアルバムのクロージングを飾る美しい一曲──が、ゲイたちの人生に向けて歌われていることに、年が明けて発表されたこのヴィデオを観るまで気がつかなかった。そこでは、おそらく1930年代辺りから現代に至るまでのLGBT(※)の愛と闘いの歴史が、膨大な映像や写真をコラージュ的に詰め込むことで8分に凝縮されていたのだ。そのヴィデオを観たのはグラントが自身のHPで素っ気無く紹介していたからだが、僕はPCの画面の前で完全に打ちのめされてしまった。
はじめのヴァースでは第二次大戦前後における同性愛のアイデンティティの目覚めと迫害の歴史が映し出される(恋愛関係にあったのかもしれない兵士たち、病だと「科学的」に喧伝される同性愛、『オズの魔法使い』)。現代から見るとそこで映し出される「彼ら」が同性愛者なのかはわかりにくいし、年代も判然としないものが多いのだが、ナチスのイメージがどうしてここで引用されるかはわかる。同性愛者たちはホロコーストで強制収容されていた事実があるのだ(小学生のときに習った覚えはないが)。”But this pain,”……その映像を背景にして、コーラスでグラントの声が響く。
だけどこの痛みは、
きみに向かっていく氷河
貴重なミネラルや他のものを蓄えながら
深い谷を彫り刻み 壮大な風景を創りあげていく
だから恐怖を麻痺させてみたらどうだろう、
状況がとりわけつらく思えるときには
ひとつはっきりと言えるのは、このヴィデオがたんに歴史的事件を機械的に羅列しただけのものではないということだ。ヴェトナム時代を迎えてカラーの映像が多くなったあと2度目のコーラスで”this pain”とグラントが歌う瞬間、その日付ははっきりとわかる。1969年6月28日、ストーンウォールの反乱だ! そして西海岸ではハーヴェイ・ミルクが登場し、同性愛者たちの権利運動(と、警察との闘い)は過熱していく……が、3度目の”this pain”では1978年11月、銃殺されたミルクの通夜を、そこに集まった数千人の人びとの悲しみを映し出す。穏やかだが熱のこもったメロディと寄り添うように掲げられる無数のキャンドルたち……。ひどくエモーショナルで、センチメンタルですらあるその映像の続きでしかし、わたしたちはまだまだひとが死ぬことを知っている。80年代がやってくるからだ。正確に言えばあの忌々しいロナルド・レーガン時代、エイズの炎が燃え盛った季節の到来だ……。
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ジョン アーヴィング (小竹 由美子 訳) ひとりの体で |
偶然にも、このヴィデオとまったく同じことを書いた小説をまったく同じ時期に僕は読んでいた。ジョン・アーヴィングの新刊『ひとりの体で』(小竹由美子訳、新潮社)である。だけど、大きく、奇妙で、可笑しく、そして間違いなく魅力的なこの作品をどこから説明すればいいのだろう? ……迷ったときは1ページ目を開いてみよう。そこにはこんな文章が書いてある。「私が作家になったのは十五歳という成長期にチャールズ・ディケンズのとある小説を読んだからだと誰にでも話しているのだが、」……。アーヴィングといえば(ジョイスなどの)ポストモダン文学をこき下ろし、ディケンズに由来するような物語の復権を訴えた作家として有名だが、それとてずいぶん昔の話だ。つまり、じゅうぶんに文学者としての地位を築き上げた大家が、いま紡ぎ上げたかった「物語」こそが本作だ。
『ひとりの体で』では、70を目前とした老作家が10代の頃からの自分の人生を振り返る文章が綴られるのだが、一人称の主であるウィリアム・アボット──愛称でビリー、ビル──はバイセクシュアルであることで、性の揺らぎに翻弄される人生を歩んでいく。一見、半自伝的な体裁を取っているようで(物語の背景や舞台はアーヴィングの個人史と合致する部分も多い)そうではなく、著者いわく「もし十代の私が幼少期の衝動に従って行動していたらどうなっていたか、という想像」(本作帯より抜粋)であるという。そして本作では、そのでっちあげの歴史が、性のはぐれ者たちの見落とされた歴史と接続される。
アーヴィングの生まれ年によるところもあるが、年代設定が巧みだ。回想の形を取っているので時系列も空間も行ったり来たりするのだが、上巻ではおもに10代のビリー青年がみずからの性の確固たるアイデンティティを獲得するまでが描かれる。それが1960年まで。下巻では、彼が故郷を離れて世界のさまざまなところで経験するさまざまな人間との性の探求がスピーディに展開するが、そこには当然、現代に至るまでの激動のセクシャル・マイノリティの歴史が詰め込まれており(すなわち、60年代からエイズ禍へと至る壮絶な年月も)、個人史は同時にすべての同性愛者たちの人生を浮かび上がらせていく。アーヴィングは本作をはっきりと「政治的」だと説明している(ちなみにアーヴィングの末の息子はゲイだと公言している)。
が、もちろん、これは「物語」だ。それは“グレイシャー”と同じように、時折ひどくエモーショナルで、センチメンタルですらある。たくさんの面倒くさくて愛おしい人間たちが登場し、そしてたまらなく印象的で叙情的な場面が次々に訪れる(お気に入りの場面はたくさんあるが、僕はビリーが老いたレスリング・コーチにある「技」を教えられる、どこか滑稽でとても切ないくだりを挙げたい)。
レーガン時代に戻ろう。小説が70年代も終わりに近づく頃、もうすぐたくさんひとが死ぬだろう予感が漂い始める。しかし気づいたときにはすでに遅し、物語の前半で登場したたくさんの人間たち──同級生や友人、かつての恋人たち──がバタバタとエイズでこの世から消えていく。メル・シェレンの自伝の下巻においてエイズ時代到来以降に友人たちや恋人たちが次々と死んでいくのをしくしく泣きながら僕は読んだものだが、『ひとりの体で』の下巻におけるエイズ時代を僕はやっぱりしくしく泣きながら読むしかなかった。だがそこはアーヴィングだ、それでも不意にこぼれるユーモアに、僕は同時に笑ってさえいた!(そしてそれは、ジョン・グラントがもっともヘヴィなテーマの楽曲にかぎって皮肉に満ちたユーモアを用いることを僕に思い起こさせた。)
ソダーバーグの『恋するリベラーチェ』にしても、もうすぐ公開されるジャン・マルク=ヴァレ監督『ダラス・バイヤーズクラブ』にしてもそうだが、いまさかんにエイズ禍が回顧されているのは偶然ではない。ゲイ・ライツ運動が沸く現在という時間の前にどんな地獄があったか、どんな闘いがあったのか、どんな愛が、どんな痛みがあったのか……「わたしたち」の前史を思い起こすためだ。数え切れない死者を出しつつ、あるいは、あの時代を生き残ってしまった者たちは消えない罪悪感を抱えつつ、しかし『ひとりの体で』のビリーも“グレイシャー”で映されるゲイたちも力強く現代へと向かっていく。
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“グレイシャー”のヴィデオは、ピアノとストリングスが華麗に壮大に歌い上げるアウトロで90年代から現在へと猛烈な勢いで進んでいくが、そこではおもに同性愛を描いた映像作品と社会運動がピックアップされる。『マイ・プライベート・アイダホ』、ヘイト・クライムの被害者たちと加害者たち、『ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ』、提案8号、『トランスアメリカ』、『エンジェルス・イン・アメリカ』、「神はオカマを嫌ってる」のプラカード、『ブロークバック・マウンテン』、『モンスター』、もちろん『ミルク』、ブッシュ政権からオバマ政権へ、同性結婚デモとゲイの結婚式、数々のゲイ・プライド、プッシー・ライオット、『アデル、ブルーは熱い色』、そしてフランク・オーシャン。嵐のように吹き荒れる大量の映像に圧倒されるがしかし、ディス・イズ・ハプニング、身体と脳が反射して、これはまさに「いま」起こっていることなんだと意識に入り込んでくる。
ヴィデオは暗闇に煌く無数のピンクの三角形を映して終わるが、レインボー・カラーよりもピンク・トライアングルを選ぶところがジョン・グラントらしい。ラベンダー・ピンクの三角形は先述のホロコーストで同性愛者を識別するために彼らの胸につけられたものであり、そして現在はLGBTの権利運動のシンボルとなっている。いま愛と権利を訴えることは同時に、迫害の歴史を、たくさんの友人たちと恋人たちの死を思い起こすことだと三角形はわたしたちに訴える。ジョン・グラントは同性結婚をして都会的な暮らしをして、養子を迎えるようなゲイの幸福を体現することはなかったが、むしろそこから離れたところで──HIVポジティヴを公言し、自らの惨めさを隠さず、徹底して孤独であることを歌うことで、僕たちゲイの希望の星となった。なぜならば彼は誰よりも独りだが、彼は「この痛み」が自分だけのものでないと知っているからだ。
「この国は遅れている」などと、ブツクサ文句を言うのはもうやめにしたほうがいいのだろう。だって、これは、たったいま起こっているんだから! わたしたちは、彼らと彼女らと彼でも彼女でもない、たくさんの性の逸脱者たちとともにいる。それに、たくさんの幽霊たちもついている。この痛みが壮大な風景を創りあげるまで、わたしたちは何度だって、その愛おしいひとたちのことを思い出すことができる。
※LGBT……レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの総称。本稿ではゲイであるジョン・グラントを中心としているのでゲイという表記が多くなっていますが、とくに男性同性愛者に限定する意ではありません。また、『ひとりの体で』の作中にもありますが、最近ではLGBTQ(Qはクィアもしくはクエスチョニング(未確定))、など様々なヴァリエーション