ele-king Powerd by DOMMUNE

Home >  Reviews >  Album Reviews > 5lack- 情

5lack

Self-Released

竹内正太郎   Aug 23,2012 UP
このエントリーをはてなブックマークに追加

 「よろしければどうぞ」と、告知らしい告知もなくリリースされた5lackの『情』は、非営利目的でMediaFireにアップされたzipファイルである。いま現在、ヒップホップにおける最新音源が、フリーのミックステープとしてタイムライン上を無限に流れていくものだとしても、本作を思いつきの企画ものとして聞き流すことは、少なくとも私にはできそうにない。『情』(譲)は、まぎれもなく『我時想う愛』(2011)以降のメランコリアの延長に立つ作品である。いや、もっと露骨に言おう。大ネタ使いのサービス感が吹っ飛ぶくらいの想いを、彼はこのミックステープに込めている。これはすでに削除されているので内容への言及は避けるが、7月12日ごろ、恐らくは本作のリリースと関係していたのであろう心の内側を、彼はブログで苛立つように綴っている。

 思えば、とくに震災以降、You Tubeの突発的な利用やDommuneへの出演などを通じて、彼は聴き手に要求する金銭的な対価を下げていった。『この島の上で』(2011)には値段こそ付いたものの、リリースは異様なほど突然で、ほぼノン・プロモーション。「ヒップホップで自立する方法」以前にあるべき志のようなものを、彼はまず自分自身に対して強く必要としたのかもしれない。それは、あるいは理想主義者のロマンか虚勢だったのだろう。だが、私はその変化をいまでは違和感なく受け止めている。結局のところ、人生は一度きりであり、不可逆であり、その一回性の上に刻印されたあの圧倒的な破壊の余韻は、日々が隠し持つ偶然性(自分は今日、たまたま生きているのだという雑感)を顕在化させるには、十分すぎやしなかったか。その時、彼にとって、いったいどれだけの物事が不要に思えたのだろう? 例えばtofubeatsら平成以降の新世代が、無料配信の文化圏からiTunesチャートをおそるおそる(だが鮮やかに)駆け上がっていったのと逆行するように、彼はむしろ、トーナメントの階段を静かに降りて行った。

 全体的な雰囲気で言えば、『情』は、『我時想う愛』にさらけ出した「不安や罪の意識」の延長線上に、私たちが共通の記憶として持つ久石譲のピアノ、そして重厚なオーケストレーションを大胆に引用した作品である。それだけでレジュメできると言えばできるだろうし、当然、スタジオジブリ作品群の断片が、記憶のそこかしこをかすめていく。さまざまな冒険や旅、恋の記憶がよみがえる。最初の数回を聴いているうちは、そうした大ネタのサービス感にこちらも調子づくが、次の数回では、そのトラックがしかし、これまでの作品となかなか矛盾しない質感だと気付き、その後の数回ではむしろ、元ネタの持つ属人的・属作品的なブランド感が、トラックの後景へと少しずつ退いていくのを感じることになる。それくらい、『情』のビート・プロダクションは彼のディスコグラフィーと整合している(例えば、メロディアスなピアノ・ループが夜遊び後の空虚さを優しく染め上げる"朝の4時帰宅"は、"東京23時"のアフター・ストーリーのようで、フィンガースナップが幻想的なアンビエンスの上に響き渡る"想い出す"は、初期のクラシック"I Know About Shit"を文字通り、想い出す)。

 だが、いやだからこそ気になるのは、やはりその主題である。「何か良いことを言わなければならない、何か気の利いたことを言わなければならない」(野田努)というオブセッション、それをドメスティック・ラップの領域で仮に<パンチライン症候群>と呼ぶなら、その風潮のなかであえて「俺はテキトーである」ということを表明しなくてはいけなかったS.L.A.C.K.の辛さは、いま思えば彼の真面目さのコインの表裏としてあったのだろう。そんな彼が、震災後の言語表現におけるプレッシャーをむしろ進んで受け入れたのは、それゆえに飛躍ではなかったと思っている。あえて断じて言うなら、『この島の上で』は、リスナーを選び直し、シーンから選ばれ直そうとするような、ごくヘヴィな試みだった。そして本作『情』においても、彼はこの国を、あるいは強固に続いている(ということにされている)日々の風景を、ごく低温度で見つめている("朝の4時帰宅")。そこには、自戒と挑発が蠢く。そう、"テキトー"から出発したS.L.A.C.K.が、やがて5lack、そして"娯楽"へと当て字されていくに伴って、彼の眼差しはむしろその深刻さを強めている。

 だが、震災以後という文脈に対して、頭からがんじがらめになっているわけではない。もちろん、一定の確率で今日も生きていられる人間として、彼がある種の重荷を背負ったのは間違いないだろう。だがここには、そこからもう一度パーティ(=あくびが出るほどの退屈さ)へと出かけていくための、模索の手振りが垣間見える("これがなければ")。ある程度、正常に引き継がれている日々の、表面的にはごく平和な断片を不可避なものとして受け止め、今度はその先に言葉を置いている。そして、割れるような喝采のライヴ・サンプルが飾られた"気がつけばステージの上"は、ステージという遊び場であり、また処刑台でもある場所へともう一度向かう徒労感、義務感、そしてそれでも沸き起こる、果てるような高揚感を丹念に描く。が、そんな自分さえをも外から見てしまう再帰性が、この作品に翳りを与えていることも指摘しておきたい。どれほどテキトーを気取っても、もう以前のようには笑えない。ならば、重い足取りで泥のなかを進むまでだ。

 もちろん、自然主義の位相における現実描写・内省吐露という、純文学めいた詩作表現が、必ずしもポップ・ミュージックにおいて特別な効力を発揮するわけではない。あえて皮肉めいた言い方をすれば、いまもっとも安易な方向性であることもまた事実だ。だが、このセンチメンタリズムを内破したとき、彼はまた美しく、気怠そうに笑うだろう。彼の真摯な遠回りを私は楽しんでいる。いまはまだ、決して華麗ではない、撤退するようなネクスト・ステップを踏んだ(「何も怖くねえ/俺は進むyeah」"想い出す")。だが現時点でのそれは、この国のポップ・ミュージックに対する切実な疑問符でもある。ウォーク・オン・ザ・ダーク・サイド、暗闇を行け。

竹内正太郎