「Noton」と一致するもの

R.I.P. Bill Withers - ele-king

 3月30日にビル・ウィザースが心臓の合併症で亡くなった。享年81歳。彼の死は翌31日に遺族によって「私たちは最愛の、献身的だった夫と父を亡くし、打ちのめされています。詩と音楽で世界とつながろうと突き動かされる心を持つ孤独な男だった彼は、人々に率直に語りかけ、お互いに結びつけてきました」という声明と共に伝えられた。ソウル・シンガーではアレサ・フランクリンが2018年8月に亡くなったとき以来、日本でもかなり大きな扱いでニュースとなり、まさにソウル界のレジェンドだった。実際、ソウル界にとってカーティス・メイフィールド、マーヴィン・ゲイらに並ぶような存在だったと思う。ビル・ウィザースの影響力はソウル界はもちろん、幅広い分野に及んでいて、SNS上にはレニー・クラヴィッツ、ブライアン・ウィルソン、サミー・ヘイガー、レッチリのフリーらの追悼メッセージが寄せられた。オバマ前大統領は「ビル・ウィザースは真のアメリカン・マスターだった。働く人々の日々の喜びや悲しみに根差した彼の音楽はソウルフルで、賢明で、人生を肯定していた。厳しい時代に効く完璧な強壮剤だ」とコメントしている。アメリカ人にとって、いちシンガーを超える存在だったのかもしれない。折しも新型コロナ・ウィルスのパンデミックに脅かされるいま、ビルの代表曲である “リーン・オン・ミー” は人類の希望と連帯を繋ぐ一曲として、カナダのカントリー歌手のテニル・タウンズが仲間たちと一緒にカヴァーしている。この曲はクラブ・ヌーヴォーはじめいろいろなアーティストがカヴァーし、人種・国籍・性別・ジャンル・時代などを超越し、さまざまな人たちに愛されてきた。いまのこの困難な状況におけるアンセムたりえる曲なのだ。

 1938年7月4日、ウェスト・ヴァージニア州スラブ・フォークのアフリカ系黒人の一般家庭で生まれたビル・ウィザースは、高校卒業後に海軍へ入隊し、除隊後はカリフォルニアに移って牛乳配達人を始めたのを皮切りに、ロサンゼルスのダグラス航空機の部品工場やフォード・モーターで働いていた。子供の頃は吃音症に悩んで長年に渡って矯正に務めていたというエピソードがあり、音楽とはさほど関りのある生活はしてこなかった。スティーヴィー・ワンダーやマイケル・ジャクソンのように、幼少期から才能を開花させたミュージシャンとは真逆の人物である。そんなある日、ナイトクラブでルー・ロウルズが歌っているのを見て、一晩で自分の給料の何ヵ月分も稼げるシンガーの生活に憧れ、ギターを買って弾き語りを始めた。独学で音楽を学んで、工場の仕事の合間に歌を作っては書き貯め、自主レーベルからシングルを出すもパッとせず。そんな仕事をしながら歌う日々が続くなか、デモテープが〈サセックス〉の重役の目に留まる。そして〈スタックス〉でザ・MG’sを率いて一時代を築いたブッカー・T・ジョーンズをプロデューサーに迎え、1971年にファースト・アルバムの『ジャスト・アズ・アイ・アム』を録音する。赤レンガの倉庫で工具箱を持ったビルの写真をジャケットに使ったこのアルバムからは、“エイント・ノー・サンシャイン” “グランマズ・ハンズ” という代表曲が生まれる。失恋を歌った前者、亡き祖母をしのんだ後者と、どちらも市井の普通の人たちの生活に寄り添うものだった。かつてザ・ルーツのクエストラヴは、ビル・ウィザースについて「マイケル・ジャクソンやマイケル・ジューダンのようなスーパースターではなく、最後のアフリカ系の普通の人」「黒人にとってのブルース・スプリングスティーンのような存在」と述べたことがある。最初からショー・ビジネスの華やかなスポットを浴びて登場したのではなく、ついちょっと前まで工場で働いていたシンガー・ソングライター。そしてアメリカのごくごくありふれた日常風景、一般的な労働者の視線、それを歌にするのがビル・ウィザースだった。

 1972年にはセカンド・アルバム『スティル・ビル』を発表し、ここからは前述の “リーン・オン・ミー” はじめ、“ユーズ・ミー” “フー・イズ・ヒー(アンド・ワット・イズ・ヒー・トゥ・ユー)?” “キッシング・マイ・ラヴ” が生まれる。彼の最高傑作と言っていいアルバムだ。彼のスタイルはリズム・アンド・ブルースにフォークやファンクを混ぜたもので、演奏はギターの弾き語りにベース、ドラムス、ピアノがつく程度のとても簡素なもの。だからこそ、ストレートに心の内を綴った歌詞や、飾り気のない真摯な歌声が多くの人たちの共感を呼ぶ。「心や体が弱っているときは僕に寄りかかっていいよ。友達だから助けてあげるよ。僕が弱って誰かの助けが必要なときまではね」と歌う “リーン・オン・ミー” のように。〈サセックス〉倒産後は〈コロムビア〉に移籍し、1977年にはヒット曲の “ラヴリー・デイ” を含む『メナジェリー』を発表。日常を生きる喜びを綴った “ラヴリー・デイ” にも、偉大な音楽家とかセレブなアーティストではないビル・ウィザース、平凡ないち市民であるビル・ウィザースの姿がある。1981年にはジャズ・サックス奏者のグローヴァー・ワシントン・ジュニアの “ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス” (アルバム『ワインライト』に収録)にシンガーとしてフィーチャーされ、グラミーのベスト・R&B・ソング賞を獲得するなど大ヒット。現在でいうところのスムース・ジャズの草分け的な曲で、当時は日本でもメジャー・ヒットしたのだが、この曲のイメージからビル・ウィザースのことをバブリーでお洒落なシンガーというイメージを持つ人も少なくない。しかしビル自身はそれとは正反対で、普通の生活を普通に歌うことを信条とする。むしろ虚飾に満ちたショー・ビジネスの生活が肌には合わず、また黒人差別がはびこるレコード会社の姿勢などにもいや気が差してしまい、1985年のアルバム『ワッチング・ユー・ワッチング・ミー』を最後に、音楽界から引退してしまう。実働期間は長くはなかったが、ビル・ウィザースの音楽、そして音楽に対する姿勢は後進のアーティストにも多大な影響を与え、ジョン・レジェンド、アロー・ブラック、ウィル・アイ・アムからグレゴリー・ポーターに至るまで、その痕跡を見出すことができる。“エイント・ノー・サンシャイン” “グランマズ・ハンズ” “リーン・オン・ミー” “ユーズ・ミー”と、ビルの書いたさまざまな曲がカヴァーされ続けている。

 引退後はビル・ウィザースが公の場に現れることはほとんどなかったが、そうした中で2015年にスティーヴィー・ワンダーの推薦でロックンロールの殿堂入りを果たし、表彰席に出席してスティーヴィーやジョン・レジェンドと一緒に “リーン・オン・ミー” を歌っている。そのときのビルのコメントでこの追悼文を締めくくりたい。「私は短い音楽キャリアの中でいくつか曲を書いたけど、いろいろなジャンルのいろいろな人たちがそれらを歌ってくれた。私は決して名音楽家ではないけれど、人が共感するような曲を書いてくることができた。ウェスト・ヴァージニアのスラブ・フォーク出身者から見て、これは故郷にとって悪いことじゃないよね」

vol.125 NYシャットダウン#3 - ele-king

 QUARANTINED=毎日やることもなく、家に閉じこもっていなくてはならない。朝起きて、まずニュースに目を通し、今日もコロナヴィラスの話題だらけだなと思いながら朝ごはんを食べる。ニューヨーカーの40〜80%は感染するや、この状況は夏まで続くやら、何人が死んで何人感染したか、など明るいニュースはないので、やれやれ、といった感じだ。


もののみごとに人影もないブッシュウィックの風景。

 シャットダウンしてからオースティンやアップステイト、プロヴィデンスなどに避難し、NYにいなかったので、戻ってきたいま、どうしてよいかわからない。普段は仕事をして、ショーに行って、イヴェントを企画して……それがすべてなくなってしまった。
 さて、他のミュージシャンはどうしているのだろう、と気にかかった。プレスの人に訊くとリリースは延期もあれば、そのままリリースもある。リリース・パーティなどはできないが、この時期みんな時間だけはあるので、聞いてもらう良いチャンスかもしれない。ショーはできるときにしようということだが、いつになるやら。
 音楽会場のオーナーやオーガナイザーは従業員を救おうとファンドレーザーを立ち上げたりしている。従業員に仕事がなくなったので、寄付してくれということなのだが、仕事がなくなったのは、彼らだけではなくみんななので、逆に寄付してほしいくらいと思っている人がほとんどだろう。
 レストランやバーはテイクアウトとデリバリーをはじめた。レストランはわかるが、さすがにアルコールのテイクアウトは難しい。バーに行くのはそこで飲みたいからで、家で飲むなら、その辺のボデガで買っても同じだからだ、そしてそちらの方が断然安い。誰が家で凝ったカクテルなどを飲みたいか。ただ、ボトルのミードや酒などはわかる。なかなかボデガでは買えないからだ。という感じで、スモール・ビジネスは奮闘しながらも営業を続けている。購入するときもカードのみで、ピックアップは外に置いてあり、勝手に取るシステムがほとんど。買いに来ても誰とも顔を合わせないのだ。

 人に会えないので、オンライン飲み会がまわりで流行っている。何人かでFaceTimeで顔を見ながら飲み会するというやつだ。うちらバンドも週に2回くらいはヴィデオチャットで近況(と言ってもそんなに変わりはないが)報告する。インスタライヴなどでオンラインショーなどを企画したり、ライヴのオルタナティヴ。ヴァージョンをレコーディングしようとしているが、なんだかなー、という感じである。

 私のまわりのニューヨーカーは故郷に帰った人もいるが、だいたいは残っている。逆に故郷に帰って年老いた両親に迷惑かけたくない、ということもあるようだ。まったく症状が出ない人もいるわけだから、みんな動きたくても動けない。例えばロードアイランド州に行くと、ニューヨークナンバーはチェックされるし、バスもほとんど止まってしまった。ニューヨークにいるしかないのである。この状況でどこまでいけるか、もう何も通常ではないので怖いものもないと思える自分がいる。


いまトレンドなハードセルツァー、そしてコロナブランド。

AJATE - ele-king

 いま、日本国内で一番「アツい」バンドと言ったら? と聞かれたら僕は迷いなく AJATE と答えるだろう。埼玉県の東秩父村を震源地にジャンルはお囃子からアフロビートまでもまたぐ、まさに「奇想天外」な彼らを紹介したい。
 僕が AJATE の存在を知ったのは2017年リリースの『Abrada (アブラダ)』が Bandcamp でフィーチャーされていたときだ。聴けば聴く程陶酔感が増していくリズムと音から伝わる熱量にやられてしまったのをいまでも覚えている。そんな AJATE が今年のお正月にめでたく3枚目のアルバム『ALO (アロ)』をリリース。3月にはフランスの〈180G〉からアナログも発売されたばかり。金色のバックがなんとも印象的なアートワークと共に、新しいメンバーを加え本拠地である東秩父村での制作合宿を経て完成した今作も、他のアーティストやバンドとは比較のできない圧倒的な「アジャテ感」がギッシリと詰まっている。

 「ピーチク」と呼ばれる竹で作られたギターをかき鳴らし歌うリーダーのジョンいまえだ氏が、西アフリカを訪れた際に見た村のお祭りに影響を受け始動したプロジェクトだけあって、ただの「和モノ」とは違う圧倒的な「グルーヴ」が全面に出ている。(日本っぽいと言ってしまうと語弊があるかもしれないが)何かとメロディーやソングライティングを軸に曲が展開することが多い日本の楽曲よりも、和太鼓やドラムといったリズムが軸にトラックが構成されているし、ベースやギターも「奏でる」というよりは「鳴らす/打つ」といった表現が正しいのかもしれない。そのひとつひとつの音が幾層にも重なり合い繰り返されるループがやがてグルーヴへと昇華していく。

 それぞれの楽曲で歌われている歌詞に注目すると、度々大地や山草、海や空と言ったように自然をテーマにした表現が並んでいる(気になる人は是非歌詞カードの付いているCDを手に取って欲しい!!)。例えば T2. の “GALAR (ガラール)” は大地を耕す農家の歌であったり。「皮を剥ぎ、骨を砕き割る~」と山の猟師をテーマにした T3. “SOWAH (ソワー)” といったように、大自然の中で暮らす人達のストーリーを歌っている。竹で作られたオリジナルのギターや太鼓、木琴のような打楽器をこれでもか! というくらいふんだんに取り入れ、それぞれが自由に独特なスタイルで演奏しているのも圧倒的な AJATE のオリジナリティーを後押ししている。

 このレヴューを見て少しでも気になった方は是非彼らの音楽を一度聴いてほしい。おそらく彼らの名前を全国各地、いや世界各国で見かけることもそう遠い先の話ではないと思う。すごく端的かもしれないが、彼らの楽曲を聴くと単純にとても元気になる。アナログ、CD、デジタル。どんなフォーマットでも、是非。

※ 2020年1月19日の TSUBAKI FM で AJATE の特集をしています。(AJATE の登場は30分頃から)
https://www.mixcloud.com/tsubakifm/weekly-show-19th-january/

AJATE HP: https://ajate.info

吉田アミ - ele-king

 長らく廃盤となっていたヴォイス・パフォーマーの吉田アミによる代表作のひとつ『虎鶫(とらつぐみ)』が、2003年のリリースから17年の時を経て、このたび FTARRI のソロ専門レーベル〈Hitorri〉からリイシュー盤として再発されることとなった。自身の名義による作品であるものの実質的にはベーシストの tamaru とのデュオ作であった『Spiritual Voice』(1997)を除くと、本盤は吉田の最初のソロ・アルバムであり、また、ヴォイスを用いたフリー・ミュージックの歴史に革新をもたらした画期的作品でもある。

 あらためて振り返るなら、吉田アミによるハウリング・ヴォイスと呼ばれるそのサウンドは、ほとんど即物的に響く物音と化すことによって、声から意味や記号、人間的な内面性などを徹底的に剥ぎ取ることを成し遂げた。肉声という言葉に見られるように、人間によるあらゆる発音行為のなかでも声はもっとも深く身体に根差した表現である。ある声が発されるとき、その声はまずもって「誰かの声」という属人性とともに認識される。こうした属人性は声から身体を手繰り寄せ、音響以外のさまざまな意味/記号を聴き手に想起させることとなる。そしてこのことは、通常の音楽における歌声に限らず、声を器楽的に使用するパフォーマンスの歴史においても逃れ難く纏わりついてきた。たとえばキャシー・バーベリアンやファティマ・ミランダ、シェリー・ハーシュ、デヴィッド・モス、巻上公一らに見られるように、声による表現手法を開発/拡張し、それらの素材を自在に使いこなすことによって、いわゆる超絶技巧的なスペクタクルを聴かせるヴォイスからは、圧倒的な個性とともに声の持ち主の具体的な姿を思い浮かべることができる。しかし吉田の声はこうした意味性から離れ、あたかも電子音響のように、あるいは環境から聴こえるノイズのように即物的に響く。そこにはもはや「誰かの声」という属人的な個性はなく、ただ耳に聴こえるものとしての音響があるのみである──ただし、むろんこうしたハウリング・ヴォイスを使用するという点では、他の誰とも異なる吉田アミという作家性が刻印されているものの。

 『虎鶫』はそうした吉田のヴォイス・パターンを99トラックに収めた、本人の言を借りるならば「いま自分が出せる音を素材別に整理した図鑑のようなもの」とでも言うべき作品となっている。喉を振り絞り、あるいは口腔と口唇を駆使することによって生み出されるサウンドは、一聴しただけではとても人間の声とは思えないような驚きに満ち溢れている。多くの楽曲は10秒前後または1分以内に終わる短い作品であり、音楽的な構成よりも音色パターンの提示に主眼が置かれていると言えるものの、なかには録音後に編集を施すことで同一の声が左右のステレオ・スピーカーからパンニングする楽曲や、短いフレーズを何度も繰り返し反復することでサウンドの即物性をより増していくもの、あるいはハーシュなノイズののちにほとんど何も聴こえない時間が非周期的に反復されるものなどもあり、楽曲ごとにユニークな趣向が凝らされている。さらにこれまでの説明に反するかもしれないものの、明らかに人間の声だとわかるサウンドや、不意に声帯がそのまま震えてしまったことで聴こえる身体的/官能的なサウンドも収録されている。いずれにしても本盤の「図鑑」的性格は、単にヴォイス・パターンだけではなく、その音響を録音作品として提示する際のプロダクションとしての側面も含まれていると言ってよいだろう。そのことを裏付けるように最終トラックとなる99曲めでは、あたかもフィールド・レコーディングのように、秒針が淡々と時を刻む響きと学校のチャイムのような鐘の音、そして子供の遊び声のようなざわめきが聞こえてくる。ここに至ってわたしたちは、声がもたらす記号的な意味にありありと遭遇することとなるのである。

 本盤のリイシューは、作品にあらためてアクセスできるようになったということに加えて、音響系/音響的即興がすでに復刻の対象となる歴史に組み入れられているという事実を示してもいる。20年近い時間が経過するなかで、吉田アミ自身も、朗読をテーマに据えた「吉田アミ、か、大谷能生」や、立川貴一とともに舞台空間の演出を手がけるユニット「ミニスキュル・シングス」など、時を追うごとにあらたな試みへと踏み出してきた。それは単に活動が変遷したということではなく、音響系/音響的即興の成果をどのように継承し、あるいは発展させることができるのかということの実験の軌跡でもあるように思う──たとえば現在の彼女はハウリング・ヴォイスを即物的な音響の提示ではなく、舞台上のパフォーマンスにおけるひとつの手段として使用している側面がある。それは意味/記号を剥ぎ取った声になおもつきまとう作家性を、特定の舞台空間との関係性からあらためて更新しようとする試みであるようにも見える。いずれにしてもこのことは彼女のみならず、音響系/音響的即興以降の地平に立つあらゆる作り手と受け手に関わる問題であり、その意味でも本盤は、これからも繰り返し参照されるべきヴォイスの特異点としてアクチュアルな価値を帯びていると言えるだろう。

Яejoicer - ele-king

 近年はオーストラリアや南アフリカなど、アメリカやヨーロッパではない国や地域から面白い音楽が発信されるケースが増えている。イスラエルもそうした国のひとつで、以前紹介したセフィ・ジスリング(https://www.ele-king.net/review/album/007371/)などのジャズから、J・ラモッタ・スズメのようなネオ・ソウル~R&B系などが生まれている。そうしたイスラエルの新しい音楽シーンのキー・パーソンがリジョイサーことユヴァル・ハヴキンである。
 キーボード奏者及びマルチ・ミュージシャン/プロデューサー/ビートメイカーである彼の名前が最初に知られるようになったのは、ベーシストのベノ・ヘンドラー、サックス奏者/ヴォーカリストのケレン・ダンと組んだバターリング・トリオというバンドでの活動だろう。ジャズと民族音楽、ソウルとビート・ミュージック、フォークとエレクトロニカを融合した音楽性を持ったこのグループは、例えるならハイエイタス・カイヨーテ、ムーンチャイルド、フライング・ロータスが一緒にやったかのような不思議な個性を放っていて、2017年にリリースした3枚目のアルバム『スリーサム』は高い評価を得て、その後に日本ツアーも行っている。

 ユヴァル・ハヴキンはロンドン生まれのテル・アヴィヴ育ちで、テルマ・イェリン芸術学校を出ているが、ここで後に一緒に活動するいろいろなミュージシャンと出会い、そうした仲間を世に出すべく〈ロウ・テープス〉というレーベルを立ち上げた。バターリング・トリオも〈ロウ・テープス〉から出たバンドで、先述のセフィ・ジスリングや彼も参加するリキッド・サルーン、ピアニストのニタイ・ハーシュコヴィッツ、ドラマーのソル・モンクことアヴィ・コーエンのアルバムなどもリリースしている。ユヴァル自身はバターリング・トリオのほかにも、ニタイ・ハーシュコヴィッツ、ソル・モンクらと組んだタイム・グローヴというグループや、〈ロウ・テープス〉周辺のジャズ・ミュージシャンやヒップホップ・プロデューサーらが集まったL.B.Tなどでもアルバムをリリースするなど、多面的な活動を行なってきた。
 そうしたなかでリジョイサーは彼の個人的なプロジェクトと言えるもので、2010年頃からビート・アルバムやミックス・テープなどを作りはじめ、2018年にUSの〈ストーンズ・スロー〉から『エナジー・ドリームズ』というアルバムを発表している。このアルバムにはニタイ・ハーシュコヴィッツ、ソル・モンク、セフィ・ジスリング、ノアム・ハヴキン、アミール・ブレスラーらイスラエル勢に加え、ロサンゼルスのMndsgn(マインド・デザイン)も参加するなどワールドワイドな活動も視野に入れたものとなっていた。その後もイスラエルとロサンゼスルを結んだ活動を続け、2019年のEP『ヘヴィー・スモーク』を挟んでニュー・アルバムの『スピリチュアル・スリーズ』が完成した。

 『スピリチュアル・スリーズ』はこれまでのユヴァルが関わった作品同様に、ニタイ・ハーシュコヴィッツ、ノモック、ケレン・ダン、ヨナタン・アルバラック、ジェニー・ペンキン、イオギ(ヨゲヴ・グラスマン)など彼の周辺のイスラエルのミュージシャンから、ロサンゼルス勢ではルイス・コールらと仕事をするサム・ウィルカーズなどまで参加している。ユヴァルが全てのサウンド・プロデュースを行う一方、ニタイがほとんどの楽曲でシンセなどを演奏し、本作における彼の働きも大きい。
 全体的にユヴァルの作るビートやキーボードなどを軸に、ニタイのシンセなどで味付けをフォローし、そこにケレン・ダンやジェニー・ペンキンらのヴォーカルがフィーチャーされるという構成になっている。また“ムーン・ハイク”や“ハート・ウェイ(シャポー)”のように、ヴァイオリンを用いてクラシカルなムードを演出している曲がある。ヴァイオリンを演奏するのはイオギのほか、BBC・スコティッシュ・シンフォニー、ボストン・シンフォニー、ニューヨーク・フィル、アイスランド・シンフォニーなどの指揮者も務めたイラン・ヴォルコフで、ユヴァルのコネクションの幅広さが伺える。

 “イーグル・イン・ザ・ロッジ”に見られるように、ニタイのシンセはハープシコードのようなレトロなムードを醸し出し、“ゼア・イズ・タイム”のシンセもメロトロンのようなどこかレトロな響きである。こうした鍵盤使いがアルバム全体に幻想的でアンビエントな雰囲気をもたらしており、ジャズにしろ、ヒップホップにしろ、R&Bにしろ、他の音楽とは異なる独特の空気感を生み出している。方向性としてはジェイムスズーあたりの作品に近いテイストだが、小鳥のさえずりのような音像を交えた“プレ・メモリー・サークル”、ウーリッツァー・ピアノの暖かみのある音色を交えた“ノー・ベルズ・ラング・ザット・デイ”などに見られるように、全体的にオーガニックなテイストの強いアルバムと言えるだろう。ヴォーカル曲にもミステリアスな雰囲気が溢れており、ケレン・ダンをフィーチャーした“ソング・フォー・スピリット・フライト”や“マイ・ビーンズ”は、どちらも浮世離れしたフェアリーな歌声が魅力である。ジェニー・ペンキンが歌う“レモンズ”や“アース・トーク”、イオギの歌とベース、ヴァイオリンをフィーチャーした“アップ・イン・フレームズ”も、ネオ・ソウルやR&Bをベースとした楽曲ながら、スペイシーでサイケデリックな独特のムードを醸し出している。まさにコズミック・ジャズ、コズミック・ソウルという言葉がふさわしい楽曲だ。

Pandemic Diary (1) - ele-king

R.I.P. McCoy Tyner - ele-king

 先の3月6日、ジャズの教科書や辞典にも大きく載るような巨星が逝った。ピアニストのマッコイ・タイナーである。ニュージャージーの自宅で亡くなったことを親族が知らせたのだが、死因などは明らかにはされていない。1938年にフィラデルフィアで生まれ、享年81才だった。1960年から1965年のジョン・コルトレーンの全盛期を支えた黄金カルテットのひとりとして知られる彼だが、これでコルトレーン(1967年没)、エルヴィン・ジョーンズ(2004年没)、ジミー・ギャリソン(1976年没)と、4人とも全て他界してしまった。中でもマッコイは一番長生きをし、晩年まで元気に活動していたので、音楽家としての人生を全うしたと言えるかもしれない。私が彼のコンサートを最後に見たのは2010年のコットン・クラブでの公演で、そのときはホセ・ジェイムズやエリック・アレキサンダーも一緒にステージに上がっていた。優しくも威厳のある姿でピアノを演奏し、親子ほども年齢の離れたホセが、実際の父親に接するかのように親しみを込めてサポートしていたことを思い出す。

 かつて私は『ジャズ・ネクスト・スタンダード』の一環で『スピリチュアル・ジャズ』(2006年、リットー・ミュージック社刊)を監修したが、その中でスピリチュアル・ジャズのマスター的なミュージシャン25名を取り上げ、ジョン&アリス・コルトレーン、ファラオ・サンダース、アーチー・シェップ、ギル・スコット・ヘロンらと並んでマッコイ・タイナーもフィーチャーした。そこでは音楽性の相違から来る1965年のコルトレーン・カルテット脱退後のソロ作を取り上げているが、コルトレーン・カルテット時代に比べてマッコイのソロ活動はどうも過小評価されているのではないかと感じていて、日本のジャズ評論などでは駄作扱いされてきた1970年代の作品もいろいろと載せている(日本のジャズ評論はどうもコルトレーンとセットでマッコイを取り上げがちだった)。もちろんコルトレーン・カルテット時代が素晴らしいことに変わりはないが、ソロ活動ではマッコイの音楽性や志向がより明確に表現されるようになり、そこにはコルトレーン・カルテット時代のほかの3人とは異なる個性も見られる。

 コルトレーン・カルテット在籍中も『リーチング・フォース』(1962年)、『ナイツ・オブ・バラーズ&ブルース』(1963年)、『トゥデイ・アンド・トゥモロー』(1964年)などを録音するマッコイだが、これらはカルテットの方向性と同じモード・ジャズに沿うものだった。一方、独立後では『ザ・リアル・マッコイ』(1967年)、『テンダー・モーメンツ』(1968年)、『タイム・フォー・タイナー』(1969年)と、晩年のコルトレーンが傾倒したフリー・ジャズとは異なる方向性のアルバムを発表する。これらは当時のハービー・ハンコック、ウェイン・ショーター、フレディ・ハバードら、ポスト・コルトレーン世代が牽引する新主流派ジャズと同調する作品である。しかしながら『テンダー・モーメンツ』では “モード・フォー・ジョン” と夭逝したコルトレーンを追悼する曲もやっていて、根底ではコルトレーンの心の同志であったことも示している。このアルバムは “ユートピア” など重厚なブラス・サウンドも特徴で、マッコイが単なるピアニストではなく、作曲家・編曲家として飛躍した姿も見せてくれる。後に彼の代表曲となる “マン・フロム・タンガニーカ” など中南米やアフリカ音楽への積極的なアプローチも見せる点で、マッコイのディスコグラフィーの中でも重要なポイントとなるアルバムだ。『タイム・フォー・タイナー』の “アフリカン・ヴィレッジ” や “リトル・マディンバ” からもアフリカ~中南米志向が伺える。一方、『ザ・リアル・マッコイ』には “サーチング・フォー・ピース” や “コンテンプレーション” など、1970年代のスピリチュアル・ジャズへと繋がるような楽曲が収められている。

 そして1970年代前半はスピリチュアル・ジャズ路線とアフリカ志向が前面に出る。グラミー賞にもノミネートされた『サハラ』(1972年)はじめ、『エクステンションズ』(1972年)、『アサンテ』(1974年)、『サマ・ラユカ』(1974年)と、実験的でアフリカ回帰色が強い作品が並ぶ。アフリカン・リズムとその延長にあるファンク・ビートの大胆な導入、マリンバや各種パーカッションなど土着的で呪術性を高める楽器を多く取り入れ、『サハラ』では自身でもピアノ以外にフルートから琴まで演奏するなど、トータルな音楽家としての方向性が表われた作品群だ。そうしたトータル・プロデューサー的な資質でいくと、大がかりなストリングスを交えたオーケストラの導入による『ソング・オブ・ザ・ニュー・ワールド』(1973年)、さらにその発展形と言える『フライ・ウィズ・ザ・ウィンド』(1976年)が、彼にとってひとつの到達点と言える。ジャズ・ミュージシャンにとってビッグ・バンドを率いることは夢のひとつであるが、カウント・ベイシーやデューク・エリントンなどのビッグ・バンド・マスターたちのスタイルを、マッコイは1970年代という時代に更新させたと言える。『フライ・ウィズ・ザ・ウィンド』はいわゆるクロスオーヴァーやフュージョンにカテゴライズされるアルバムだろうが、ジャズという枠を超えたポピュラー・ミュージックであり、ジャズ・マニアではない多くの人々の心に響くものを持っているがゆえ、表題曲は現在もマッコイの代表曲のひとつに数えられる。

 マッコイは優れたリズム感覚を持つピアニストで、その鍵盤さばきはときにパーカッションのようでもある。そんな彼の魅力が凝縮されたのが『アトランティス』(1975年)で、ブラジル出身のパーカッション奏者のギレルモ・フランコと相対した “ラヴ・サンバ” はトランシーでさえある。そうした意味でラテン調の作品はマッコイの見せ場と言え、『ダブル・トリオズ』(1986年)の “ラティーノ・スイート” はじめ数々の名演を残している。『インナー・ヴォイシズ』(1977年)の “フェスティヴァル・イン・バイーア” もラテン~ブラジリアン色に彩られているが、このアルバムでは男女混成コーラスやホーン・アンサンブルを交え、空間性に富む音作りをしている点も特徴だ。“フォー・トゥモロー” での神聖なコーラスはゴスペル的で、ハーモニックな音空間は後のアーティストにも大きな影響を与えている。カマシ・ワシントンが登場したとき、真っ先に思い浮かべたのがこのアルバムだった。マッコイの残した財産はこれからも様々な形で受け継がれていくだろう。

 渡邊琢磨が立ち上げた自主レーベル〈Ecto Ltd.〉が染谷将太監督/菊地凛子脚本作品『まだここにいる』のサウンドトラックを期間限定のフリーダウンロードにてリリースする。
 本人いわく「家でのんびり聴ける感じに」再構築したそうで、とても安らげる美しい音楽です。お薦めです。今週末ダウンロードしましょう。→https://www.ecto.info/extra/

R.I.P. Manu Dibango - ele-king

 新型コロナ・ウイルスの感染者・陽性反応者に世界の著名人の名前が上がり、連日のように報道されているが、音楽界ではマヌ・ディバンゴが感染し、パリの病院で亡くなったというニュースが3月24日に発表された。ヨーロッパの中でもイタリア、スペインに続いて感染死者数が1000人を超えたフランスでは、ロックダウンが敷かれて外出や集会の禁止令が出るなど、まるで戦時下のような緊迫した状態が続いていると聞く。そうした中、マヌ・ディバンゴがどのような経路でコロナに感染したのか明らかではないが、1933年生まれの享年86才と高齢だったので、感染による死亡のリスクが高かったのだろう。アフリカのカメルーン出身のサックス奏者で、アフリカ音楽を世界に広めた第一人者として知られる彼の死にショックを受けた人は少なくなく、SNSではジャイルス・ピーターソンやアンジェリーク・キジョーなどが追悼のコメントを寄せている。

 ここからはマヌ・ディバンゴの音楽を振り返りたいが、私はレア・グルーヴ的な方面からマヌの音楽を知るようになり、彼の作品の全てを聴いてきたわけではないので、クラブ・サウンドやダンス・サウンドとの接点からマヌの音楽を紹介したい。これまでアフリカ音楽がワールド・ミュージックの一部として注目を集める波がいくつかあり、大きな波では1980年代初頭にキング・サニー・アデ、ユッスー・ンドゥール、モリ・カンテなどが出てきて、欧米でもデヴィッド・バーンやピーター・ゲイブリエルなどがアフリカ音楽に傾倒するようになった時期がある。それ以前に遡るとフェラ・クティがいて、元クリームのジンジャー・ベイカーやロイ・エアーズなどがそのサウンドに魅了されて共演してきた。フェラ・クティ、トニー・アレン、ジンジャー・ベイカーが共演したライヴ盤は1971年のリリースだが、この頃のロンドンにはアサガイ、オシビサ、マタタなど多くのアフリカ人バンドがあり、ほかのヨーロッパ諸国でもアフリカや中南米からの移住者がいろいろと活動していた。中でもフランスはアフリカ系移民が多く、そのひとりであるマヌ・ディバンゴはカメルーンからの移住者だった。当時はアフリカ音楽にジャズ、ロック、ファンクなどを結び付けるのがトレンドで、フランスだとラファイエット・アフロ・ロック・バンド(アイス)やケイン・アンド・アベルなどが代表的なバンドだが、マヌ・ディバンゴもそうした中から頭角を現した。そして1972年リリースの『ソウル・マコッサ』によって彼の名前は世界中に広まるが、マコッサとはカメルーンの言葉でダンス・ミュージックを指す。

 マコッサはマヌ・ディバンゴの音楽をそのまま示すものだ。彼が最初にフランスで出したレコードは1964年のEPで、その中ではルンバやチャチャチャなど当時の流行のダンス音楽をやっていて、1969年のファースト・アルバムはその名も『サクシー・パーティー』と、一貫してダンス・サウンドやパーティー・ミュージックを指向している。アフリカ音楽が持つ生命力や開放感をダンス・サウンドとして表現していたのがマヌだった。『ソウル・マコッサ』はアメリカはじめ世界のさまざまな国で発売され(『オ・ボソ』とタイトルを変えてリリースもされている)、タイトル曲の “ソウル・マコッサ” が大ヒットした。当時、日本でもトヨタ車「カローラ」のCMに用いられたほどだ。ラファイエット・アフロ・ロック・バンドやアフリークなどいろいろなカヴァーが生まれ、アルマンド・トロヴァヨーリの “セッソ・マット” などそのフレーズを用いた曲も多い。プレ・ディスコとも言える曲で、ヴァン・マッコイの “ハッスル” などは明らかにその支流となっている。ヒップホップのサンプリング・ソースにも多数使われており、要するに一度聴けば耳に残って離れない単純明快さがある。ジャズ・ピアニストのジョルジュ・アルヴァニタスが参加するなど実は演奏的にはしっかりしたものであるが、ポピュラー音楽としては誰もが口ずさめる単純明快さが決め手で、それがおよそ半世紀に渡ってダンス・クラシックとして存在してきた理由だろう。

 『ソウル・マコッサ』には “ニューベル” という曲も収録していて、こちらはより土着的なアフロ・ファンク色の濃い渋めのナンバーだ。デヴィッド・マンキューソのロフト(アメリカでは彼が『ソウル・マコッサ』を初めてプレイした)、ラリー・レヴァンのパラダイス・ガレージなどのアンダーグラウンド・クラブではむしろこちらの方が好まれ、後にマスターズ・アット・ワークもリミックスしている。1973年の『マコッサ・マン』は “ソウル・マコッサ” の続編的な “ウェヤ” や “センガ” はじめ、さらにダンサンブルなアルバムだ。“ペペ・スープ” はアフロ・ディスコ~コズミックの源流に位置付けられる楽曲で、フランスでもセローンのコンガスやマルタン・サーカスの “ディスコ・サーカス” はじめ、ディスコ・サウンドにアフロの要素が入り込むようになったのはここからと言える。『アフロヴィジョン』(1976年)ではよりディスコに接近した “ビッグ・ブロウ” のヒットを放っていて、当時の日本でも故中村とうよう氏によって、フェラ・クティと共にマヌが本格的に紹介されるようになった。この近辺の1970年代のリリースでは、もともとライブラリーとして制作され、サイケデリックな電子音を交えたよりトライバルなサウンドの『アフリカデリック』(1972年)、同じくライブラリーでブラック・プロイテーション的なジャズ・ファンク色の強い『アフリカン・ヴードゥー』(1972年)、超カルトなサントラ盤の『カウントダウン・アット・クニシ』(1975年)などが後にレア・グルーヴとして発掘された。

 1980年代に入ると、スライ&ロビーと組んでジョスリン・ブラウンやグエン・ガスリーらをフィーチャーし、レゲエなどにも挑戦した『ゴーン・クリアー』(1980年)、ビル・ラズウェルのプロデュースでハービー・ハンコック、ウォーリー・バダルー、バーニー・ウォーレル、モリ・カンテらをフィーチャーし、エレクトリック色の強くなった『エレクトリック・アフリカ』(1985年)と、時代に即したサウンドもやっている。1987年にはマテリアル、ビル・ラズウェル、ハービー・ハンコック、ブーツィー・コリンズ、グランドミキサー・D.ST.、スライ&ロビーらと一緒に “マコッサ・’87(ビッグ・ブロウ)” として “ソウル・マコッサ” をリヴァイバルさせているが、この頃より始まったレア・グルーヴの波によってマヌの音楽が再評価されるようになった。私も最初はこの “マコッサ・’87(ビッグ・ブロウ)” からマヌ・ディバンゴの世界に入った口であるが、マヌの作品と出会わなければ、アフリカ音楽というものに興味を抱くようになったかどうかは怪しい。フェラ・クティと共に、アフリカ音楽におけるターニング・ポイントとなった偉大なミュージシャンである。

 冒頭に戻るが、マヌ・ディバンゴはアンジェリーク・キジョーにとって偉大なアフリカ音楽の先人で、2ヶ月ほど前にパリで一緒にリハーサルをしたそうだが、そのときのヴィデオではマヌの代表曲である “ソウル・マコッサ” を楽しそうに演奏していた。演奏風景ではまだまだ健在という様子だったので、彼の死が非常に残念であるとともに、新型コロナ・ウイルスの恐ろしさが改めて知らされる。

 4月1日~3日のスクエアプッシャーの「JAPAN TOUR 2020」3公演、4月17日~18日のボノボ(+ジョン・ホプキンス)の2公演、4月21日~23日のサンダーキャットの「JAPAN TOUR 2020」3公演が開催延期となった。新型コロナウイルスによる海外渡航中止/制限を受けてのこと。楽しみにしていたファンも多かったし、編集部も残念でならないが、こればかりは仕方がない。ただし、主催者によれば振替公演を開催すべく現在調整中のことで、チケット購入者はそのまま同チケットが使える。また、払い戻しも可能で、その対応に関しても現在調整中とのこと。いずれにしてもチケットはそのまま保管するように。
 周知のように、ほかにもこの手の来日中止は相次いでいるし、国内のミュージシャン/DJの多くがギグのキャンセルをしている。そしてオリンピックの延期がほぼ決まった昨日、手のひら替えしで小池都知事は感染予防の対策を強化する考えを示した。場合によっては都市封鎖の可能性もあるという。安部首相のオリンピック対応もそうだが、残念なことに海外から言われなければ動けない日本が相変わらずいまもある。
 破壊的な被害で窮地に面しているイタリアでは人々が歌を歌っているように、音楽はこんなときの救いだ。音楽は家で聴くことができる。お金の余裕のある人はCDやレコードを買って、スクエアプッシャーと来月発売のサンダーキャットの素晴らしい新作を聴こう。
 あらたな開催日程は決まり次第、BEATINKのホームページで発表される。たいへんだろうが(みんなたいへんだ)、ガンバって欲しい。

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