「Noton」と一致するもの

Washed Out - ele-king

 ジョージア州のペリーという小さな町の彼のベッドルームの夢想はリキッドルームをターンオンさせることができるのだろうか......。サンプリングとスクリューによるフラットしたまどろみは、モラトリウムのけだるいサウンドトラックは、本人が望んだこと以上の騒がれた方をしてしまったがゆえに矢面に立ち、そしていち部の大人たちから非難を浴びていることは読者のみなさんもご存じのはずである。
 開演直前に到着、カウンターでビールをもらって、ドアを開けると照明が落ちて、12インチ・シングル「余暇の人生」に収録された"ホールド・アウト"がはじまる。中央には黒いドレスを着たブレアがシンセの前に立っている。彼女こそ「余暇の人生」のアートワークで黄昏色の海に浮いている女性で、アーネスト・グリーンの奥さんだ。その左にはグランジ・バンドでもやっていそうなベーシストが立ち、右側にはアーネスト・グリーン、そして後方にはドラマーがいる。心配されていたことだが、アーネストの手元にはiPadがあった。それがわかった瞬間、「やばっ」と思った人は少なくなかったろうが、演奏は思ったよりもしっかりしていた。バンドとしての体をなしていたし、黒い髪を振り乱しながら歌うブレアはステージ映えしていた(ビーチ・ハウスのヴィクトリアを意識しているようにも思えた)。

 チルウェイヴに限らず、打ち込み音楽(エレクトロニック・ミュージック)においてライヴPAは20年前からのテーマである。バンドと違って地道な鍛えられ方をしていないし、それ以前の問題として作り手の多くはステージング(芸人根性)というものを知らない。プログラミングされたループを垂れ流し、ミキサーをいじるだけなら生演奏とは呼べないし、ライヴをやる意味がない。が、それでも大受けすることはままある。
 僕が昨年行った打ち込み音楽のライヴに関して言えば、ベストは迷わずANBBで、次点でハーバートURだ。ANBBに関しては、照明美術からブリクサのパフォーマンス、そして周波数の魔術師たるカールステン・ニコライの驚くべき"演奏"にいたるまで見事というほかなかった。残念だった点があるとしたら客があまりに少なかったことぐらいだ。ハーバートは彼の政治的主張のユーモラスな見せ方において、URはジャズ・ファンクの迫力ある演奏において、ライヴとしての醍醐味が十二分にあった。

 ウォッシュト・アウトは、とくにはしゃぐ様子もなく、慎重に演奏しながらそのけだるさを快楽へと変換した。ダンス・ミュージックの影響下にあるゆったりとしたグルーヴのなかには、チルウェイヴ特有の甘いメランコリーがある。ほとんどレコードに忠実に演奏されていたが、彼らの催眠ループで眠たくなることはなかった。おおよそ他の音でかき消されていたとはいえ、アーネストのヴォーカリゼーションとブレアのバック・コーラスも感じの良いものだった。ウォッシュト・アウトがオーディエンスを完璧に現実逃避させるにはもう少し時間がかかるかもしれないが、バンドには美しい調和があったし、気持ちのこもったショーだった。ヨーロッパ・ツアーやATPへの出演など、けっこう場数を踏んできた痕跡がある。
 なにせ過去2回の来日ライヴを見ている人間からは芳しい感想を聞いた試しがなかった。2回とも見ている友人によれば「いままでいちばん良かった」そうで、ウォッシュト・アウトにとって不幸だったのは、内気で密室的なこの音楽が、まだライヴ慣れしていないのに関わらず野外フェスに2回も呼ばれてしまったことかもしれない。今回が初来日だったら、もっと良い反応を得られたはずだ。ちょっと可哀想に思える。
 最後の"ユール・シー・イットで何人かのオーディエンスは両手を広げて踊っている。アンコールの2曲は"デディケーション"と"アイズ・ビー・クローズド"だった。わりとあっけなく終わったが、まあ、全13曲、ほとんどのオーディエンスを惹きつけていたように思う。風評というのは本当に恐ろしいモノで、ジェームズ・ブレイクを神々しく見えてしまう人もいれば、ウォッシュト・アウトをスルーしてしまう人もいる。おかげさまで快適な状態でこの音楽に浸ることができたわけだが。

Ela Orleans - ele-king

 〈ウッジスト〉や〈キャプチャード・トラックス〉はじめ、〈メキシカン・サマー〉や〈ノット・ノット・ファン〉にいたるレーベル群が2010年前後のインディ・ミュージック・シーンに提示したイメージは、「スロー・ライフ」や「スロー・フード」等の「スロー」の思想と親和性が高い。彼らが体現するローファイ、あるいは中音域を強調したプロダクションは、大量生産的でファストな音への批評もしくは違和の表明であるとも言えようし、アナログ・メディアにこだわったリリース形態や、地元志向で小ロットかつ小規模な「顔の見える」レーベル運営も、グローバルにひらかれることで損なわれてしまう利益や、画一化されてしまう音楽的キャラクターを、自力で保護せんとする取り組みであるようにもみえる。そうした意図を明言しているわけではもちろんないが、彼らが時代のムードとしてそのような趨勢を反映し象徴していると考えることにそう異論はないものと思う。「いつの頃からかつるつるとした音がいやでたまらなくなった」そしてさまざまなノイズの中に安らぎを見出すようになったというエラ・オーリンズもまた、彼女自身の方法でもって自給的な音の空間を設計するアーティストである。余談ではあるが、地産地消ならぬ自産自消的なベッドルーム・ポップが鋭く生き生きとしたリアリティを備え、それがはからずもグローバルな伝達経路にのって大きな支持と注目を集めたというのがチルウェイヴの顛末であったことを考えてみれば、なるほどチルウェイヴという俺得音楽にはスロー・ミュージックとしての役割を担い得る特性があったのだろう。先に挙げたレーベル群の志向性はもちろんのこと、エラの仕事がいまのタイミングで評価されることもまた、こうした動きともつれあうようにして生まれてきた状況である。

 エラ・オーリンズは冷戦期のポーランドに生まれ、社会主義体制下の東欧諸国が経験した貧困と悲惨を目のあたりにして育った。そうした境遇がどのくらい彼女の音楽に影響を与えたのか、わかりやすい形で確認できるわけではないが、東西に分かれるよほど前のヨーロッパの香りをとどめていることはたしかである。エラ自身が大きく影響を受けた自国のアーティストとしてはカロル・シマノフスキやクシシュトフ・ペンデレツキ、ヴォイチェフ・キラールなどが挙げられており、現代音楽や映画音楽への造詣をしのばせる。古い映画音楽からのサンプリングだろうか、いずれの曲にもはげしくディレイのかかったギターやヴァイオリンの即興(あるいはループ)に、手間ひまかけて録り編集したというサンプル音源が絡んで、いわくいいがたい、甘美なノスタルジーを生み出している。ノイズとノスタルジー。これがエラ・オーリンズのコアだ。懐古され恋われているのは、おそらくは「昨日の世界」(シュテファン・ツヴァイク)......第一次世界大戦前の、光りかがやき、栄光にみちた、失われしヨーロッパ文明ではないだろうか。
 その懐古の手つきは非常に理知的なもので、同じく知的な女性アーティストの中でもアマンダ・ブラウンやグルーパー、ラモナ・ゴンザレスらとはまた別種の、男性的とさえ言ってよい雰囲気がある。不鮮明な音像には情念が渦巻くかにみえて実際のところ冷たい計算を隠した構築性が感じられる。詞には飛翔や着地のイメージが多用されるが、これはほかならぬ彼方の栄光への飛翔と、現在という場所への着地とを暗示するのだろうと筆者の想像は広がる。それは(栄光の)終わりのつづきとしての現在への、苦い着地である。精神は過去の偉大な時間へと向かう、しかし、肉体はこの終わってしまった時間につながれている。そのことへの詮なき嘆息である。
 こうした想像・解釈には、少なくとも筆者にとって彼女の音や詞やたたずまいをリニアにつなぐような整合性がある。そして高い教養や精神性の宿ったエラの音楽へ、筆者なりに寄せたリスペクトでもある。まわるレコードはこの飛翔と着地の堂々めぐりを視覚的に描き出す。普段はアナログ・メディアを愛好しない筆者であるが、この作品ばかりはCDで聴くことが正解であるとどうしても思えない。七尾旅人とやけのはらの"ローリン・ローリン"においては、ターンテーブルの上で可視的に消費される「いま」という時間は、あくまで愛しいものとして、ロマンチックに、そして肯定的にとらえられていた。エラの音楽はその裏側を幽霊のように徘徊する。「わたしたちは夜になる/するとわたしはすばらしい/あなたはすばらしい/わたしたちはすばらしい/だが彼らはちがう」"ワンダフル・アス"
 そこは夜だ。そしてそこにいるかぎりわたしたちはすばらしい存在だ。だが「彼ら」とはだれか。パンダ・ベアを思わせる、浴場のような音響に溶かし込まれたオールディーズ風の終曲では、あかるく典雅なメロディにのせて何度も「ゼイ・アー・ノット」と歌われ、それがいつまでも耳に残る。

 最後にノートとして。エラはヴァイオリンやピアノを幼少から学んでいたが、どちらかといえば映画やファイン・アートへの憧れの方が強く、アート・スクールを出てグラスゴーに渡り、その後に音楽に出会い直したというような紆余曲折があるようだ。彼女のウェブ・サイトには「耳の映画」と銘打たれていて、彼女自身の来歴と音楽へのスタンスをはっきりと表明するものになっている。ソロになる前はハッスル・ハウンドというバンドで活動し、アルバムも制作されている。ソロとしては2009年のアルバム・リリース(本人はあまり評価していないようだが)の後、昨年のダーティ・ビーチズとのスプリットで静かな注目を集めた。だが聴くべきはやはり本作だろう。シーンのムードとしても本人のキャリアとしても、本当にいま充実の時期を迎えていると感じる。

#13:午前3時の過ごし方 - ele-king

 年が明けてしばらくすると、年下の友人Xからこんなメールをもらった。
 「『ガーディアン』のこの記事(https://www.guardian.co.uk/music/musicblog/...)が面白かったっすよ。この記事には、なぜチルウェイヴやウィークエンドなどに大いなる魅力を感じながらも距離をおかざるをえないのか――という自分と同じ問題意識がかなり的確に書かれています!」
 それでは以下、その記事、「音楽の作り手はなぜインターネットを切って、ベッドルームから出る必要があるのか。何気に憂鬱な新しい波、孤独な連中のためのウェブ・フレンドリーなその音楽には陽光とヴィタミンCが必要である」をざっくり紹介しよう。

 最近の年末のリストを見ていると、名前こそ変われど、どうにも既視感を抱いてしまう。ベテランで聖域にいるような人たち、形骸化したクロスオーヴァー、多くの白人の男の子のギター・バンド。相変わらずヒップな音とデュ・ジュール(オススメ)もあるが、最新モードのほとんどは、ありふれたジャンル名を否定する行商人に押しつけられた、批評家でさえ手に負えないタグ――チルウェイヴ、ポスト・ダブステップ、ウィッチ・ハウスだ。いずれにせよ批評家たちは、午前3時の孤独なベッドルームでラップトップ・スクリーンをじっと見つめているような、何気に悲しい音楽を支持している。ヒップホップ・プロデューサー(クラムス・カジノ、アラーブミュージック)からR&Bシンガー(ジ・ウィークエンド、フランク・オーシャン)、電子の似非ディレクター(ジェームズ・ブレイク、バラーム・アカブ)からラッパー(A$AP・ポッキー、ドレイク)......おおよそこれらの音が、賞賛までの重要なルートとなっている。
 それらを聴こうものなら、気の抜けた歌と作曲へのアプローチや気のないテンポを耳にするだろう。ぐったりしたシンセ、リヴァーブの残響音、もしくは擁護者が言うところの「電子のすすり泣き」そして「モノクロの地下道のヴィジョン」――それは我々の時代の美学だ。
 クリエイティヴな仕事に従事しているほとんどの人は、とんでもない時間に他人の膝の上にいて、眼前のスクリーンで何かがはじまるのを期待しているというような感覚を知っているだろう。その感覚は、社会生活に適合して、緊張をほぐすための道具一式でありオフィスであり、とくに真夜中に起こるものだ。その感覚にともなう精神状態もまた認識できるものである。それは、孤独ではあるが、妙に安らいだ精神状態である。目が痛み、皮膚はわずかに麻痺するだろう。ときには、疲労感から意識を失いそうになり、幻覚を見ることもある(控えめなたとえだが、スペース・キーを見下ろすときに感じるちょっとしためまいと似ている)。自分の考えから注意をそらすものが何もない状態。すなわち、暗くあるいは憂鬱な袋小路にさまよい込み、自分の考えが非常に深いものだと信じ込み易い状態である。だから、心休まるサウンドトラックが必要なのは不思議ではない。ぼんやりした異様さに影響を与えて脳にある奇妙なパターンを映し出すほどであるが、びっくりさせるようなことはしないと信頼できる音楽である。本質的には、食べるとホッとする料理と言える。
 スクリーンを見つめることは日課である。が、そこからは決して健康な感じは得られない(我々みんながそうした長く暗い魂の夜に傾いている。それが切ないノスタルジアとして、ベスト・コースト、フレンズ、ウォッシュト・アウトといったテレビ広告に利用されている音楽の感性を生んでいる)。ぐったりとした、なまぬるいこの現実逃避が音楽の将来であるならば、人類は巻き戻しをしたほうがいい。手遅れにならないうちにインターネットから出なさい......。

 まるで教育委員会が書いたようなこの記事を読んで僕がまず思ったのは――、おいおい、チルウェイヴやポスト・ダブステップやウィッチ・ハウスの作り手は、本来ならあんたら左翼新聞が擁護すべき無力な民衆なんだぜ(ウィークエンドやドレイクに関してはわからんがね)――ということである。こうした音楽を好んでいるのは、午前3時にラップトップに向かって朦朧としている人間ばかりではない。僕はこの時間寝ている。基本的に目的がなければラップトップは見ない。それはともかくこの記事がいただけないのは、ウェブ・フレンドリーな音楽なるものをねつ造している点、ネット依存と音楽との因果関係を都合良くまとめている点だ。ジャズやロックのリスナーだろうが、テクノやヒップホップのリスナーだろうが、あったり前の話、午前3時のラップトップに向かっているヤツは向かっている。スティーヴ・ジョブスが嫌いでiTunesでは音楽を聴かないヤツだっている。

 この手の言いがかり的な批判は、1970年代のディスコ批判と似ている。当初はディスコも、何の主張もない、政治的な意見もない、なまぬるい現実逃避ないしは自堕落な音楽とされた。そしていま、同じように現実逃避音楽でありながら、ミニマル・テクノではなく、なぜチルウェイヴ/ポスト・ダブステップ/ウィッチ・ハウスを目の敵にするのかと言えば、それだけ脅威に感じているからだろう(ちなみにこの記事の最後には、この手のぐったり系のシンセ・ポップでもっとも商業的な成功をしているウィークエンドについて書かれている)。さもなければこのライターが、毎晩のように午前3時にラップトップに向かって、そして朦朧としながら誰かの書き込みを読んで読んで読んで、たまに自分でも書き込んで、なかば中毒的にネットとウィークエンドに浸っているのかもしれない。だとしても、それでその人が癒されるのであれば、睡眠不足と視力低下(そしてある程度の自己嫌悪)は免れないだろうけれど、目くじらを立てることもあるまい。
 良くも悪くも......というか当然ながら、必ずしもレディオヘッドを聴いているリスナーが多国籍企業の商品の不買運動をしているわけではないし、ブライト・アイズのリスナーが反戦運動に参加しているわけではない。PJハーヴェイの新作に感動したリスナーが日本の近代史を勉強するわけでもなければ、オアシスのリスナーみんなが反権威主義というわけではないし、忌野清志郎のリスナーみんなが反原発を訴えているわけでもない。メッセージは重要だが、その絶対主義は抑圧にも変換されうる(アナーコ・パンクは1980年代にそれでいちど失敗している)。
 つまり、チルウェイヴ/ポスト・ダブステップ/ウィッチ・ハウスを聴いているリスナーのみんなが社会に無関心なわけでもなければ、陽光が嫌いなわけでもないし、夏の海に集まっている連中みんなが健康的なわけでもない。ボン・イヴェールに耽溺しているリスナーだって立派に現実逃避している。

 むしろ注目すべきはこれだけの不景気のなかで、それも音楽レジャー産業は経済的に衰えているというのにかかわらず、とくに9.11以降の合衆国の若者たちが迎合主義を顧みずユニークな音楽をDIYによって矢継ぎ早に量産しているという事実だ。まとまりはないが好き勝手にやっている。品質的にすべてが保証できるものではないが、ものすごい数のインディ・レーベルが生まれ、活動している。レディ・ガガのような表向きな派手さはないし、大それたことを言っているわけではないが、アンダーグラウンドは明らかに活気づいて見える。こんなこと過去にはなかった。ひと昔前のアメリカのインディ・ミュージックと言えば、汗くさくてやかましいハードコアと相場は決まっていた。USインディを研究している方に僕が教えて欲しいのはこのことである。いったい、いつから、どうして合衆国は、〈ノット・ノット・ファン〉やサン・アローやグルーパーやOPNやマーク・マッガイアやジェームズ・フェラーロやコラのような、失敗することへの恐れを感じさせない、因習打破的な音楽をかくも大量に生むようになったのだろう。

 ポスト・パンクを生きた我々の世代においては、実験的で精鋭的な音楽といえばUKをはじめとするヨーロッパのもので、インディ・ミュージックの本場と言えばUKだった。経済的な見返りよりも自分たちが好きなことをやってゆるく生きられればいいやという感覚は、それこそイギリスにありがちな愛すべ怠惰だ。ところがどうだ。いまではその立場が入れ替わってしまったかのようにさえ思えてくる。『ガーディアン』が提言するところの「巻き戻し」に関しても、USアンダーグラウンドはアナログ盤中心のリリース形態によって先陣を切って実践している。ライヴもやっているようだし、ラップトップに依存している印象は受けない。
 つい先日もこうしたUSアンダーグラウンドの盛り上がりに関して、三田格、そして〈ノット・ノット・ファン〉やサン・アローらとも交流を持つ、日本でもっともラジカルなカセットテープ・レーベル〈crooked tapes〉(https://crooked-tapes.com/)の主宰者、倉本諒くんと話したばかりだ。ゴッドスピード・ユー・ブラック・エンペラーの影響が(ハードコアからドローンへという展開においては)大きいのでは......というところまでは話が落ち着いた。まあ、あとはアニマル・コレクティヴだが、あんなバンドが影響力を発揮するような温床はどのようにして生まれたのだろう。

 ああ、そうだ。ひとつだけ『ガーディアン』の記事に共感した箇所がある。『ガーディアン』から見たら、チルウェイヴを批判している三田格が好きなウィッチ・ハウスやベスト・コーストも、田中宗一郎が好きなウィークエンドやドレイクも、そして当然ながらジェームズ・ブレイクも、要するにウォッシュト・アウトも、十把ひとからげ、大同小異、同じように聴こえているということである。近親憎悪とは自覚なしに抱くものなのである(笑)。
 サンキュー、X。君のおかげで原稿が一本書けた。

フリー・ライヴ、秘宝感LIVE! - ele-king

 昼ピ? 昼ピとはなんだろう。朝シャンならぬ昼ピとは。
 昼ビなら「昼間からビール」かなとも思うけれど、昼ピとは、つまり、「昼間からピット・インでジャズを聴く」の略でした。わかるか、そんなもん!
 とはいえ、そのようにして昼ピで売り出してきた秘宝感というフリー・ジャズのユニットを聴きに行ったのです。

 昼ピ、昼ピと、口ずさみながら、新宿ピット・インに辿り着くと、あー、ホントに昼間からジャズを聴く人たちがけっこういるじゃありませんか。
 そして、ほどなくして秘宝感のライヴが始まり、僕は彼らの演奏にどんどん引き込まれた。
 纐纈雅代という凄まじい名前とは対照的に可憐な出で立ちの女性がサックスを吹き、ベースに佐藤えりか、ドラムスに斉藤良、そしてピアノがスガダイロー。これに熱海宝子ことトースティーがヴォーカルで加わり、彼女が得意とする演劇的なセンスも交えながら基本的にはダイナミックな演奏が続く。この日はラッキーなことにじゃがたら"タンゴ"のカヴァーも聴くことができた。見事なジャズ・アレンジで、なんというか、いつまでも聴いていたかった。後で聞いたところによると、そういつも演奏するわけでないとのこと。僕が座っていた場所からはスガダイローの鍵盤さばきがよく見えたので、激しい動きと繊細な音の対比が視覚的にも楽しめた。面白いのはトースティーが何もせずに立っているだけで不思議と演奏に奇妙なニュアンスをもたらすことで、この感じをうまく言葉にすることはできないなー......と思い、久しぶりにライヴを企画しました! フリー・ライヴです!
 1月23日(月)、場所は国分寺の東京経済大学 6号館 地下スタジオ。そうです、2年前にマルティネ・レコーズのショーケース・ライヴをやった、あのスペースです! 当日なぜか国分寺にいるという方は「昼ピ」を浴びに来てね。午後2時40分からのスタートです。(三田格)

https://hihokansound.com/

King Krule - ele-king

 日本でクリスマスが普及し、定着したのは、ホワイ・シープが主張するような博愛主義が受け入れられたからではなく、ひとつには、日本人の"区切り"の感覚にフィットしからだという説がある。"聴きおさめ""歌いおさめ"という表現があるように、新たな年を迎えるにあたって1年のうちの最後の季節の終わりを感じなければいけないときに、クリスマスという外からやってきた文化は"第九"とももにうまくハマったのである。長年養われたある種の自然感覚が、季節の"区切り"を強調したがるのだ。そういう意味では、2011年から2012年にかけては"区切り"が得意な日本人にとっても後味の悪さを覚えざるをえないと言えよう。前代未聞の暴動を経験したUKにおいても同様だ。キング・クルエル(クルル?)はその後味の悪さから登場したシンガー・ソングライターである。

 僕を責めた/日々を奪った/信頼はなく/囲まれ、そして僕が地獄に堕ちるのを彼らは見た/地面を打たないで/僕は死んでいる/身体はわかっている/僕の魂は溺れ/コンクリートのなかで窒息している
"The Noose Of Jah City"

 ケン・ローチの映画から出てきたような風貌の17歳のガリガリ君、アーチー・マーシャルは、訛りの強い地元(東ロンドン)の英語で、今日的なロンドンの音――すなわちダブステップ/グライムが街のなかを駆けめぐってからの音をもって歌う。「この叙情的な音楽は必ずしも政治的ではないが、この夏宙ぶらりんになった不満、そして緊張と冷酷な感覚がある」と評したのは『ピッチフォーク』だが、実際のところアーチー・マーシャルは、彼のズー・キッド名義によるデビューにおいてビリー・ブラッグの擁護を受けている。こんな時期に......いや、こんな時期だからこそ、かつてポール・ウェラーと同盟を結び、80年代末には都内の反核デモにも参加した過去を持つ左翼活動家兼フォーク歌手の名前を聞くというのも興味深い。
 本作はアーチー・マーシャルの、キング・クルエル名義による5曲入りのデビューEPである。ダークウェイヴとロックンロールとの出会いなどとも形容されているが、実際はスタイルの新しさ以上の大きな予感を感じる作品だ。"Bleak Bake"は、リズムマシンのスネアの音を活かしたダビーな質感の、いわばポスト・ダブステップ的なアプローチを持っているが、その歌はまるで声変わりしたばかりの少年のような声で歌われている。音域は広くはないが表情は豊かで、初期のレナード・コーエンのようでもある。彼はそしてどうやら強烈な言葉を発している。「僕の心臓が僕の頭をつかんで、その縫い目を引き裂く」、さりげないメロディラインと凍えるような声は残酷な言葉を歌う。「ベッドのうえで僕は血にまみれている/それはお馴染みの光景」
 深いリヴァーブの反響するギターを鳴らしながら歌う......というとアトラス・サウンドを思い出す方も多いだろうが、この音楽はルー・リードというよりもジョー・ストラマーで、つまり文学というよりも社会を感じる。未解決で宙ぶらりんな後味の悪さを、うまく焦点を合わせることができないその苛立ちを率直に表しているという点におてはパンクとも言えよう。そしてこの暗い感覚こそ、ここ10年のあいだUKのロックが失っていたものではないだろうか。いよいよ出てきたか......2012年はキング・クルエル、そして近いうちに紹介しようと思っている24歳のロンドンの青年、トム・ザ・ライオンからはじまる。

Zola Jesus - ele-king

 ゾラ・ジーザスをビョークと比較するのは、そのアーティスティックなたたずまいからすればじゅうぶんに理由があるともいえるし、商業的な戦略としても有効だと思われるが、ビョークが体現する不屈の自由ともいうべき強靭な精神性に比べると、ゾラにはむしろトラウマティックな翳りがあり、それを意志の力によって懸命に克服しようとするような、切ない不自由さを感じずにはいられない。それが痛切に表れているのは、まずなにより彼女の歌声、そしていくばくかのバイオグラフィックなエピソードである。幼少よりオペラを学んだとして必ず指摘される彼女の歌唱力は、海外のメディアなどはケイト・ブッシュやファイストらに比較するが、ビョークも加えた彼女らののびやかなヴォーカル・スタイルとはまるで異なるものだ。むしろ抑圧的で、テクニカルな点からみても喉元で余分な力をかけて不自然に声を固めてしまっている。ひと言で言って、近くではうるさく遠くでは聴こえないという、先生にみっちりしごかれてしまうタイプの歌い方なのだ。だがもちろんそんなことは音楽やロックにとって本質的なことではない(シューベルトを歌う、というようなことになれば別だが)。
 彼女はおそらく自分が天性の歌い手でないことを知っている。声楽のレッスンは彼女が強く望んだものでありながら、繊細な彼女を苛むものでもあったのだろう。「完璧主義者だ」と自ら告白するゾラは、精神的な問題でしばしば歌えなくなったという。彼女の求める「完璧」というヴィジョンと現実とのギャップがそのかぼそい心の糸を軋ませた。......ある人間の心のストーリーがここまで図式的な脚本を持っているものかどうかはともかく、彼女の音楽はそうしたひとつの限界性の中で格闘するリアルな魂の物語として我々の耳に訴えるものをもっている。
 とはいえ、ゾラ・ジーザスをこのようにとらえるのは邪道とも言えるかもしれない。ウィスコンシンの深い森で、猟師の父が獲ってきた動物を食料とし(そうした生き物の前肢だとか鹿の首だとかがふつうに木の枝にぶらさがっていたという)、過酷な自然条件に耐えて育ったという特異な境遇。そうしたなかでオペラを習得したり、学問においても飛び級で進学を果たしたという才気。大学では哲学を修め(プラトンやあるいはデネットというのではなくニーチェだというのがいい)、スロッビング・グリッスルやデッド・カン・ダンス、コクトー・ツインズを愛し、またその影響を自らの音にくっきりと滲出させる知的な佇まい。ゴシック再評価の機運を追い風として、インディ・ミュージック・シーンに颯爽と現れた新たな才能、というのが一般的な受け取られ方ではあるだろう。それに加えてハイブローなウィッチ、しかも森で育った本物のウィッチとして、インパクトも存在感も申し分ない。〈ノット・ノット・ファン〉のアマンダ・ブラウンとのスプリットなども発表し、EPやデビュー・アルバムも『ピッチフォーク』などのメディアによって高い評価を受けていることであるから、ポスト2000年代をエッジイに彩るアーティストの重要作として本作を手に入れるのも悪くないだろう。しかし長い年月を経たのちには、このアルバムは時代を代表する1枚というよりは、もう少しパーソナルなものとして無名的な尊さを備えるにいたるのではないかと思う。

 インダストリアルな雰囲気のノイズと、無機質なビートとが格子をなすダーク・ウェイヴ。暗いながらも浮遊感のあるシンセのレイヤーに、険のあるゾラのアルトが屋をかす。サウンドを組み立てる手つきには、チルウェイヴに顕著な、簡素でラフでときには拙くさえある、あの感じはない。つめたく硬質なポスト・パンクが、現代風に磨かれたような姿をしている。全編をとおして大きな変化はないが、前半のハイライトは"アヴァランチ"、"ヴェッセル"、そして切ない旋律を持った"ヒキコモリ"、"イクソデス"だ。
 "ヒキコモリ"は日本語の「引きこもり」だろうが、曲を聴くかぎり我々のそれとは随分異なる位相を持った言葉のようだ。「引きこもり」がこんなにドラマチックで深刻なニュアンスを含んでいたのは、日本ではよほど以前のことである。後半には少し前向きな調子の曲も現れる。"イン・ユア・ネイチャー"、"リック・ザ・パルム・オブ・ザ・バーニング・ハンドシェイク"、"シヴァーズ"。これらには力強さとともに、ヒット・チャートの紹介番組で幾多のメジャー作品とも張り合えるようなポップさやスケール感が備わっている。彼女自身に力みがあるために、こちらも肩に力を入れないと聴けないアルバムだが、そのような力みがよりポップなフィールドでも聴かれるようになれば、豊かなことである。

Francis Bebey - ele-king

 年末ギリギリのリリース......というやつです。そういえば2011年は誰も別れ際に「よいお年を」と言いませんねー。空々しい感じがするんでしょうかねー。

 こんな人がいたとは全然知りませんでしたが、マヌ・ディバンゴの次世代にあたり、カメルーンからヨーロッパに渡ったアフリカ系ギタリストのコンピレイション盤。75年から88年にかけて20枚のアルバムを残し(2000年にも1枚プラス)、前半期にあたる82年までの音源から14曲が選ばれている(ジャケットはセカンド・アルバム『ラ・コンディシオン・マスクリーヌ』と同じ)。タイトル通り、エレクトロニクスが強調されている曲は前半とエンディングに近い数曲で、中盤はいわゆるアフリカン・ポップスとして耳に馴染みのあるパターンも少なくない。そのアレンジに関しても、いわゆるニューウェイヴがワールド・ミュージックを取り入れたパターンを想起させ、タイミング的にはファン・ボーイ・スリーやトーキング・ヘッズよりも早い時期に録音されていたことがわかる。ライナーによるとフランス語圏ではかなりのヒット・メイカーだったらしく、ある日、彼が学校から帰ると居間にオルガンが置かれていたことから、一直線に音楽人生を歩み始めたという。初めて聴いたオルガンの音をベベイは「ビザーレ」に感じたと語り、多重録音をメインに、「サヴァンナ・ジョージア」などでは、なるほどアメリカにモーグ・シンセサイザーの音がもたらされた時とほとんど同じ気分が表現されている。

「時間を超えた」というチープなキャッチそのままのコンピレイションは、彼のアルバムのなかでももっとも高値をつけている『ニュー・トラック』(82)のタイトル・トラックにはじまり、カリンバやシンセサイザーの区別もつかないまま、ドラム・マシーンにストリングスを被せた"ラ・コンディシオン・マスクリーヌ"やセニョール・ココナツのデモ・テープに聴こえてしまう"ウーマ・テ"など4曲続けて76年の曲を配置する。"フルアー・トロピカーレ"ではリズム・ボックスとアフリカン・チャントの組み合わせが完全に時間の感覚を狂わせる。79年以降のエントリーは機材の扱いに慣れてきたようで、「ビザーレ」感もかなり薄まり、同時期のZEレコーズと同質のキッチュなムードが醸し出されていく(この時期のものが中古市場では最も安い)。アーサー・ベイカーやトッド・テリーを思わせる"キャッチング・アップ"からファースト・アルバムへと曲は回帰し、後半はなんとも言いがたいモンド風の曲構成へと変わっていく。どれもプリ-ハウス的というか、マルカム・マクラーレンが『ダック・ロック」で取り入れていたムバカンガにも通じるところがあり、シカゴじゃなくてもハウス・ミュージックは(フォーマット的には)生まれる可能性はあったんだなーと思う反面、アメリカという国には新しい音楽をカタチにするパワーがあるんだろうなーということにも思い当たる。

 この時期の音楽をジャンルレスに浴びるほど聴いている人でなければ面白さは半減かもしれない。そうとは言い切れないけれど、そのような条件が満たされているリスナーにはスルメのような体験になることは請け合いのアルバムです。リミックス・アルバムがつくられることも期待したい感じ。

 アフリカと西洋音楽の出会いといえば、この数年、〈クラムド・ディスク〉がコノノNo.1やスタッフ・ベンダ・ビリリといったところを発掘し続けるコンゴにデーモン・アルバーンがダブステップのプロデューサーを大挙して引きつれていったDRCミュージック(エレキングVol.4参照)が話題性でも音楽性の高さでも2011年の筆頭といえる。が、しかし、同じダブステップ周辺でも、それより2年も前からベルリンのプロデューサーたちが同じようにしてケニアを訪れ、ナイロビのクラブ系ミュージシャンたちとつくりあげたBLNRB(ベルリンナイロビ)のことは広く知られていないし、僕もライナーノーツに記された交流の記録以外は何もわかっていない。まずはタイヒマン兄弟がナイロビにDJとして呼ばれ、これにロボット・コッチの母体であるジャクージとモードセレクターが加わってナイロビでレコーディングが続けられ、ある程度、完成を見たところで、今度はナイロビのミュージシャンたちがベルリンに訪れてコンサートを行ったという経過があっさりと書かれているのみである。できあがったものを比較すると、ダブステップの本家であるDRCミュージックにはオリジナリティの点ではやはり突出しているものがあると思うものの、BLNRBは同じ現地のミュージシャンでもクラブ系のミュージシャンたちとコラボレイトしているために、ポイントがもっとはっきりしているともいえる。モードセレクターのレーベルからシングル・カットされた"モンキーフリップ"のキャッチーさや、ドイツならではの重いリズムにナイロビのフローが拮抗しようとする"ンソト・ミリオンズ"などクラブ・ミュージックとしてのオリジナリティには事欠かないし、ネセサリー・ノイズ(必要な雑音)という女性ふたりのラップ・ユニットがジャクージやモードセレクターなど組む相手を変える度に違う味を出している辺りもお見事といえる。ちなみにネセサリー・ノイズはしばらく解散状態にあったものが、このプロジェクトを通してデュオとして復活し、同じくモードセレクターも(国内盤のライナーノーツでは何も触れられていないけれど)長い停滞から脱出するきっかけを掴んだことは想像に難くない。個人的にはジャクージがプロデュースした7曲のほうが好みではあるけれど(/ele-king/review/album/002085/)。

 ケニアといえば、現在はフラッシュ・ロブとして定着を見ているロンドン型の暴動が早くも2008年に起きた国でもある。当時の報道ではルワンダと同じく部族対立で片付けられていたけれど、実際には急速な経済成長のなかで分配機能が無視され、格差社会に抗議する若者たちが年長者に襲い掛かり、かなりな死傷者を出したことがいまとなっては知られている。ベルリン勢がナイロビを訪れたのはその翌年にあたるというのは、驚くべきタイミングである。

Gerald Mitchell - ele-king

 中年期を迎え、結婚などして朝型の生活を何年も送っていると、12時を過ぎたら自然と眠くなる。ナイトライフを日常的には楽しめなくなってくる。遊べるうちにさんざん遊んでおいて良かった。我がナイトライフに後悔はない。

 ポップ・ミュージックが放課後のためだけのものでなくなって久しい。R&Bやロックなどは、僕よりもさらに年上の50代や60代の人間も聴いているジャンルである。R&Bやロックは、実際のところ音楽の主題もずいぶんと幅が広い。ラヴ・ソングひとつとっても結婚生活や離婚ないしは再婚を歌っているものもあれば、親との死別、社会や哲学的な主題までと、壮年期から中年期、そして高齢期の人間にとっても聴き応えのある作品が多い。これらのジャンルには年齢相応の音楽の愛し方というものが確立されている。
 テクノやハウスといったジャンルは、いままさに中年期に差し掛かっている。人間は誰でも平等に老化する。あなたも橋元も生きていればいずれは老いる。老化とは生の証であるからクラブ・ミュージックの作り手が老化に対してどのように前向きになれるのか見たいという好奇心が僕にはある。こと享楽的な文化から生まれたこのジャンルにおいて、それがどのような展開を見せるのか、実に興味深い。行く末を自分なりに見届けたいし、このジャンルにおいても年齢相応の音楽の愛し方があることを実践したいのだ。

 デトロイトのジェラルド・ミッチェル(URの"ナイト・オブ・ジャガー"の作者として広く知られる)にとって最初のソロ・アルバムとなる『ファミリー・プロパティ(家族の遺産)』は、家族を主題にしている点において、ある程度の年齢に達さなければ生まれない作品である。もっとも、クラブ・ミュージックという、比較的歴史の浅いジャンルにおいて、家族や地域コミュニティという主題にもっとも早く着目していたのは同じくデトロイトのケニー・ディクソン・ジュニア(ムーディーマン)だ。彼には最初からその嗅覚があった。いまや失われつつある昔ながらのコミュニティがデトロイトにはまだかろうじて残っていることのありがた味をケニー・ディクソン・ジュニアはわかっていた。その感覚を彼は、そしてハウス・ミュージックに注入した。『ファミリー・プロパティ』の根幹にあるものもアフリカ系アメリカ人の地域コミュニティの文化にほかならない。ゴスペルと呼ばれる音楽とのつながりである。ソウル・ミュージックとは、ゴスペルと呼ばれる黒人教会音楽の世俗化を意味するが、そういう意味でもこのアルバムはソウルフルとも言える(基本、クラブだから)。が、同時これはゴスペル濃度の高い作品である。いなたいというか、ケニー・ディクソン・ジュニア以上にそれをストレートに強く打ち出している。2曲目を聴いてくれればわかる。その曲が実際に地元の教会で鍵盤を弾いているジェラルド・ミッチェルの『ファミリー・プロパティ』というアルバムを象徴している。

 労働者階級のアフリカ系アメリカ人コミュニティに足を踏み入れると、彼らがおそろしく金を使わないことがわかる。ウォール街デモにアフリカ系が少ないのも、「あんたらミドルクラスがさんざんいままで良い思いしてきて、いまさら格差を主張するなんてちゃんちゃらおかしいぜ」ということだろう。そして、もう最初から政府には期待できないし......といった人たちが拠り所にするのは、よりミニマムなコミュニティ、すなわち家族となる。
 アメリカのように、日本以上に過酷な生存競争を強いられている国では、実のところコミュニティというのはあまり意味をなさない(躊躇なくブルックリンを離れたパンダ・ベアからもそれは伺い知れる)。とくに労働者階級のエリアでは、そもそも友だちというものができづらくなってくる。貧困であることが寛容さをうばい、他人や他人のサクセス・ストーリーを受け入れるということを阻むようになる。離婚率は高まり、しかし同時に家族愛への切望も高まる。家族という単位が壊れやすく不安定で、ただそれだけでは社会的に決して安心できるものではないからこそ、その大切さもこみ上げてくるのだろう。

 旧来の黒人社会にも女は男につくすべきだという家父長的なところがある。アフリカ系アメリカ人コミュニティには、ピンプと呼ばれるヒモが大勢いた。が、そうした男に愛想をつかした女たちは、前向きに自立した。あるいは、その他方では、アフリカ系アメリカ人コミュニティは、職業を持たない若年層の未婚女性の妊娠といった社会問題にも早くから直面している。家族とはあって当たり前のものではない。日本もいまそうなりつつある。
 経済的なエリートでもない限り、助け合ったほうが良いし、家族愛は失わないほうが良い。それがセーフティ・ネットになるかどうかはまた別の話かもしれないが、より身近な愛せる人たちと向き合ったほうが良いに決まっている。
『ファミリー・プロパティ』は、ハーバートのような知的な成熟ではないが、より大人びた心情的な深さを持っている。ふだん抑圧され、濁りかけている感情を解放するという点では、クラブ・ミュージックがなしうる最良のことを『ファミリー・プロパティ』は週末の12時になると眠くなる人に対しても果たしている。

kplr - ele-king

 カリフォルニアはバークレーからデクスター・ブライトマンによる新種の試み。ダンス・ミュージックとして構想された音楽ではないと思うものの、いわゆるアシッド・ハウスを古典的なミニマル・ミュージックへと落とし込んだような発想が8パターンに渡って展開されている。現在のUSアンダーグラウンドはダンス・カルチャーから身体的な面で影響を受けざるを得ない場所になっているということは何度も指摘してきたつもりだけれど、ここまでその影響下に組み入れられてしまった例は稀有ではないだろうか。人によっては出来の悪いシカゴ・アシッドだと勘違いしかねないほど、その種のものに聴こえてしまう。

 前半がまずはエイフェックス・ツイン"ディジェリドゥー"をシカゴ・アシッドの文脈で再現したかのような軽さと催眠効果。もしかすると本当に"ディジェリドゥー"からヒントを得てつくっているのかもしれない(アンスタム『ディスペル・ダンシィーズ』でも上手く誤魔化してはいたけれど"ザイレム・チューブ"がサンプリングされていたし、それこそ野田編集長が言うようにテクノが一周した時期なのかもしれない)。続いてシンプルに繰り返されるパルス音も大筋はプラスティックマンへと通じているようで、どこかで決定的に違うものがあり、いわゆるダンス・ビートではないにもかかわらず、フィジカルな部分を刺激して止まない側面があるためか、どの曲も長々と聴いていると、いつしかブレイク・ダンスを踊りたくなってくる。そんなミニマル・ミュージックはさすがに存在しなかっただろう。

 後半がまた意表をつく。音の選び方からその配置まで、みっちりと「諧謔的」なのである。それこそレジデンツ+プラスティックマン。紙エレキングVol.4(P73)で、2011年は実験音楽が不作だったと嘆いてしまいましたが、全文撤回したくなるほど独創的であまりにもファニー。可愛らしいスクラッチ・ノイズが絶え間なく頭上を飛び回るコミカル・ミニマルから......とにかくヘンな音のループまで、こんなこと、いままで誰がやろうとしただろう(ちょっと近いのはスウィート・イクソシスト"テストーン"か)。クロージング・トラックは、そして、一転して、重々しくベースをくねらせ、それはまるでDAFをミニマル化させたような快楽の抽象化。頭のネジをゆるめるだけゆるめておいて、最後にグッと締めす感じでしょうか。

 もう1枚、春先にリリースされたものだけど、ミニマル・ミュージックの変り種としてアン-ジェイムズ・シャトンも並べて紹介しておきたい。アルヴァ・ノトの諸作にポエトリーとして参加してきたフランス人によるソロ1作目で、70年代末から延々と活動しているオランダのアナーコ・パンク・バンド、ジ・エックスと関係を持つ人物らしい。

 内容は簡単。新聞の記事や領収書に記載された文章などトラッシュめいた言葉の断片をループさせるだけ。"バラック・オバマ"とか"ピナ・バウシュ"など意味のわかるものはまだいい。ほとんどは何が何だかわからない(フランス語だし)。"ポップ・イズ・デッド"だけが英語で、これはマイケル・ジャクスンの死を報道した新聞の見出しだという。ユーチューブやサウンドクラウドで1縲怩Q曲聴く限りでは、それって面白いのかな縲怩ニ、僕自身もかなり躊躇してしまったのだけれど、これがどういうわけか止められない。非常に癖になる。リリースの機会を与えたアルヴァ・ノトがとくに手を貸したわけでもなく、サウンドも本人の手によるもので、ミニマル・ポエトリーともいえる新たなスタイルがここに誕生した。ポップ・アート健在である。

Seahawks - ele-king

 ポスト・チルウェイヴにひとつ顕著なのは、たとえばハイプ・ウィリアムスがその良い例だが、肥大な電子の、あわよくば非言語的な海へとまっしぐらであること。その海はこの20年、電子機材の一般化やインターネットの普及に比例するように、絶えず膨張している。サン・ラーのコズミック・ヴィジョンからクラウトロック、ザ・KLFの『チルアウト』、キング・タビーのスタジオ、他方ではアフリカの大地などなど音楽のあらゆる場面へと、なかば気まぐれにリンクし合っている。

 僕はあまりにも長い年月を、夢想状態を支持する音楽とともに生きている。この世界には、前向きな停滞----めっちゃやたら変化しないこと、するとしても時間をかけてゆっくりとする変化----があるということをミニマル・ミュージックやアンビエント・ミュージックを通じて知った。セカンド・サマー・オブ・ラヴの酩酊を通して、根拠のない前向きさの素晴らしさというものも知った。シカゴのハウス・ミュージックが欧州に渡って、あっち行ったりこっち行ったりと流動的かつ多様な展開を見せてからのエレクトロニック・ミュージックのこの20年は、デヴィッド・トゥープの"海の音(ocean of sound)"というたとえが合っている。ふたりの英国人によるシーホークス(ウミタカ)もその海からの使者かもしれない。

 レーベル名からして〈オーシャン・ムーン〉。アルバム・タイトルは『目に見えない陽光』。とにかく海にちなんだ曲名をふくむ言葉の選び方からすると、彼らの夢想のイメージは、実にわかりやすく、素直なものだと言えよう。この2年、彼らの作品は精力的に発表され、じょじょにだがリスナーも増やしていると聞く。およそ1年前にリリースされたファースト・アルバム『オーシャン・トリッピン』や限定盤のピクチャー・レコードが意外なほど早く売り切れたのは、彼らの音楽にはチルウェイヴ/ヒプナゴジック・ポップのネクストがあるからだろう。
 オープニング・トラックこそバレアリックなブレイクビートが展開されるが、シーホークスの根底にひとつあるのは、サイケデリック・ロックだ。多くの曲には8ビートのリズムがあり、またスペース・ロックめいたトリッキーな上物がある。全曲ダウンテンポで、クラブ・ミュージックからの影響もあるにはあるのだろうが、決して強くはない。
 というよりも......面白いのは彼らのミックスCDの選曲リストだ。ドナルド・フェイゲンやダリル・ホールといったAOR、ないしはネッド・ドヒニーのようなソフト・ロックばかりが挙がっている。『オーシャン・トリッピン』は、ことビートに関しては、80年代AORからの影響が今作より強く出ている。こうしたアプローチは(トロ・イ・モワのセカンドと共通する感覚を有すると同時に)シーホークスのアンビエントやサイケデリックといったジャンルへのシニカルな眼差しをほのめかしている。そもそもスティーリー・ダンがどうして菫色と紅色の混じった空に結びつこうか。『イヴィジブル・サンシャイン』はチルアウト/アンビエント・アルバムでありながら、〈アポロ〉よりは〈クルーエル〉に近く、ジャズのテイストも入っているがサン・ラーではなく『ザ・ナイトフライ』なのだ。
 素直に見えるこの夢想の背後には、彼らなりの遊び心があるわけだ。が、そのドリーミーな志向がぶれることはない。少々80年代的で、ずいぶんとスタイリッシュな海からの使者である。そういう意味でこれはザ・KLFの『チルアウト』とは別物だけれど(そういうコピーが製品には書かれている)、くらくらするような浜辺、なま温かい夢を誘発する音楽であるのは事実。僕もいまから音の旅を楽しもう。それではみなさん、良いお年を!

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