「F」と一致するもの

Theater 1 (D.J.Fulltono & CRZKNY) - ele-king

 D.J.FulltonoとCRZKNYは日本のジューク/フットワーク・シーンを牽引するプロデューサーである。このふたりはTheater 1という名義で、昨年夏より月一のペースでコンセプチュアルなリリースを展開してきたが、このたびそれらのスプリット・シングルが2枚組CDとしてまとめられることになった(デジタル盤は12枚のシングル形式)。
 気になるタイトルは『fin』で、10月16日(日)に〈melting bot〉よりワールドワイドにリリースされる。なお本作は、D.J.Fulltonoにとっては初めてのCD作品でもある。
 これまでのジューク/フットワークの概念をテクノやミニマル・ミュージックとして大幅に拡張した本作は、ジューク/フットワーク第2世代のJlinや食品まつり a.k.a foodmanなどと同様、発祥の地であるシカゴ以外の場所でもジューク/フットワークがどんどん成熟していっていることの証左であり、日本の音楽シーンから世界へと向けられた挑戦状でもある。となれば、これはチェックしておかないとマズいでしょう!

 なお、D.J.Fulltonoは下記日程にてヨーロッパ・ツアーをおこなうことも決定している。こちらもあわせてチェック!

D.J.Fulltono EU Tour 2016
20th Oct Krakow - Unsound w/ Traxman, 食品まつり a.k.a foodman
21st Oct Paris - Booty Call Presents Global Footwork
22nd Oct Berlin - TBA

"フットワーク以降アンビエント未満、観賞する白銀のミニマル・テクノ"

世界へと切り込むD.J.FulltonoとCRZKNYによるコンセプチュアルなシリーズ・プロジェクト“Theater 1”がアルバムとなってワールドワイドでCDリリース! フットワークをフレームワークとした無機質で催眠的な新感覚のミニマリズム、〈Kompakt〉を共同主宰する独電子界の巨匠Wolfgang Voigt(aka Mike Ink, Gas)のミニマル革新作『Studio 1』(1997)のオマージュでありながら、テクノとしてのフットワークを拡張する逸脱の実験音響作。

『Pitchfork』、『Fact』、『Fader』、『RA』にも取り上げられ、『VICE』での特集や『Rolling Stone』の年間ベストのランクイン、そしてUnsound出演を含めるEUやUSツアーなど、先鋭アクトとして世界的な注目を集める日本フットワークの両雄が前人未到へ踏む込むテクノ最先端!

2015年の夏から1年間に渡って毎月2曲のスプリット・シングルをリリース、後のクリック/ミニマルの源流となった90年代テクノの革新的レーベル〈Basic Channel〉と並ぶ、〈Kompakt〉の共同オーナーでもある鬼才Wolfgang Voigt(aka Mike Ink, Gas)のコンセプチュアルなシリーズ作『Studio 1』を参照とした、日本からジューク/フットワークを牽引するD.J.FulltonoとCRZKNYのシリーズ・プロジェクト“Theater 1”の全リリースをまとめた全24曲のコンピレーション・アルバム。フットワークをフレームワークとしながら、160BPMの中で繰り広げられるループから変拍子、4つ打ち、ポリリズムを抽出し、デトロイト、クリック、ミニマル、ベース、ジャングル、ガムラン、ドローン、アンビエントなどのレイヤーを織り交ぜ、多種多様なグルーヴを展開。ミニマリズムにおけるテクノとしてのフットワークを前面に打ち出した、未だかつてない逸脱の実験音響作品集。

CAT No : MBIP-5569
Artist : Theater 1 (D.J.Fulltono & CRZKNY)
Title : fin
Label : melting bot
Format : 2CD (Album) / Digital (12 Singles)
Price : ¥2,400 + tax / ¥300 per Single at ITMS
Release date : 2016/10/16
Genre : Techno / Minimal / Footwork
Territory : Worldwide
Barcode : 4532813635699

【CD限定特典】CD exclusive bonus track *Download Code

Theater 1 CD exclusive DJ mix by D.J.Fulltono

- CD (Album) Tracklist -

DISC I (CRZKNY album edit)

01. Remi
02. Nanami
03. Annie
04. Jerusha
05. Peter
06. Jo
07. Katri
08. Annette
09. Thomas
10. Anne
11. Marco
12. Heidi

DISC II (D.J.Fulltono album edit)

01. John
02. Romeo
03. Jackie
04. Maria
05. Cedric
06. Pollyanna
07. Sara
08. Lucy
09. Flone
10. Perrine
11. Sterling
12. Nero

CD Artwork & Design by hakke https://twitter.com/mt_hakke

- Digital (12 Singles) Tracklist -

01. Remi
02. John

01. Romeo
02. Nanami

01. Annie
02. Jackie

01. Maria
02. Jerusha

01. Peter
02. Cedric

01. Jo
02. Pollyanna

01. Sara
02. Katri

01. Annette
02. Lucy

01. Flone
02. Thomas

01. Anne
02. Perrine

01. Sterling
02. Marco

01. Nero
02. Heidi

Digital Artwork & Design by Theater 1
https://meltingbot.net/release/theater-1-fin
https://soundcloud.com/meltingbot/sets/theater-1-fin

▼ シアター・ワン・バイオグラフィー


D.J.Fulltono [Booty Tune] https://soundcloud.com/dj-fulltono

DJ/トラック・メイカー。レーベル〈Booty Tune〉を運営。大阪にてパーティー「SOMETHINN」を主催。ジューク/フットワークを軸に ゲットーテック/エレクトロ/シカゴ・ハウスなどをスピン。〈Planet Mu〉、〈Hyperdub〉のジューク関連作品の日本盤特典ミックスCDを担当。スペインのConcept Radioにて発表したDJ MIXでは、ジュークの中にテック・スタイルを取り入れながら新たな可能性を模索する。2015年に6作目のEP「My Mind Beats Vol.02」をリリース。また、「Vol.01」はUSの音楽メディア『Rolling Stone』の“20 Best EDM and Electronic Albums of 2015”に選出され、世界の音楽ファンからも評価を得た。タワーレコード音楽レヴュー・サイト『Mikiki』にて「D.J.FulltonoのCrazy Tunes」連載中。



CRZKNY [HIROSHIMA SHITLIFE] https://soundcloud.com/crzkny

日本ジューク/フットワーク・シーンの代表的トラック・メイカーの一人。ハイペースな楽曲制作、そして過剰低音かつアグレッシヴなLIVEでファンを魅了し続けている。2012年から現時点までのリリース総数は、142タイトル、430曲以上を発表。国内盤CDアルバム『ABSOLUTE SHITLIFE』(2013)、『DIRTYING』(2014)を〈DUBLIMINAL BOUNCE〉よりリリース。またアメリカ、メキシコ、ポーランド、アルゼンチンなどの海外レーベルからも多数リリース。日本のトラック・メイカーとして初のシカゴ・フットワーカーMVも制作された。日本初のジューク/フットワーク・コンピレーション『Japanese Juke & Footworks』シリーズを食品まつりと共同で企画。近日、自身3枚目のCDアルバムを発表予定。並行してE.L.E.C.T.R.Oの制作も行っており、初期Electro作品「RESIST」はアナログ盤にて海外レーベルよりリリース、表題曲リミキサーとしてドレクシアのメンバーDJ Stingrayも参加している。国内においては〈Tokyo Electro Beat Park〉から2枚のフルアルバム『NUCLEAR / ATOMIC』、『ANGER』を発表。Keith Tenniswoodなど海外トップアーティスト達に絶賛される。また2012年より原爆・核・戦争・歴史についてのコンピレーション『Atomic Bomb Compilation』シリーズをGnyonpixと企画、多くの国内外アーティストが参加。今までに『The Japan Times』、『Red Bull Music Academy』、『Pitchfork』などで特集、インタヴューなどが掲載されている。国内グライム・シーンにおいても、2013年に開催されたWarDub.JPにおいて100名超の中から見事トップ10入りを果たし、翌2014年に開催された140BPM WARでも決勝進出を果たした。現在ノイズ・エクスペリメンタルDJとしてYung Hamster名義でも活動中。
https://meltingbot.net
https://twitter.com/meltingbot
https://www.facebook.com/meltingbot

interview with Machinedrum (Travis Stewart) - ele-king


Machinedrum
Human Energy

NINJA TUNE/ビート

Electronic PopIDMBass MusicR & BExperimental

Amazon

 マシーンドラムが変わった。どこかダークな『ヴェイパー・シティ』から一転し、新作『ヒューマン・エナジー』では、煌びやかでカラフルな色彩が溢れるエレクトロニック・ポップ・ミュージックへと変貌を遂げたのだ。ドラムンベースからベース・ミュージック、エレクトロからIDMまで、エレクトロニカからEDMまで、さまざまな音楽的要素をスムースに昇華しながら、いまのマシーンドラムにしか出せない新しいエレクトロニック・ポップ・ミュージックを生み出している。
この「変化」は、マシーンドラムことトラヴィス・スチュアートがカリフォルニアに移住した環境の変化も大きいらしいが、たしかに降り注ぐ陽光のような音楽だ。アンダーグラウンド・サウンド・プロデューサーとして評価を獲得していたが彼が、その志を一貫したまま、米国「ポップ・ミュージック」のプロデューサーとしての第一歩を踏み出したとでもいうべきか。00年代に、あのIDMレーベル〈メルク〉からアルバムをリリースしていた彼が、ここまで成長したのかと思うとなかなかに感慨深い。

 じじつ、この新作には昨年海外メディアの年間ベストを席巻したR&BシンガーD∆WNこととドーン・リチャードをはじめ、ブルックリンのラッパー/プロデューサーのメロー・X、リアーナ(!)のコラボレーターとしても知られるケヴィン・フセイン、ネオ・ソウル系シンガーのジェシー・ボイキンス三世、ロシェル・ジョーダン、アニマルズ・アズ・リーダーズのトシン・アバシなど、なかなかのメンツが集結しているのだ。これは勝負にでたのかもしれない。そう確信できるだけのアルバムといえる。

 では、いまの状況を、彼はどう考えているのか、どう思っているのか。来日したばかりのトラヴィス・スチュアートに話を聞いてみた。しかしてその返答・回答は極めてリラックスしたものであった。なるほど、「ポップであること」を決意したとき、人は、こうもリラクシンな状態になるものなのだろうか。新作『ヒューマン・エナジー』を聴きながら(もしくは聴きたいと思いながら)、彼の言葉を読んでほしい。奇才マシーンドラム=トラヴィス・スチュアートの「いま」の気分が伝わってくるはずだ。



現在は、どこに住んでいるのですか?

MD:ロサンゼルスさ。

前回日本に来たのは3年前ですね。今年、来日して何か変わったなと思うことはありましたか?

MD:そんなにはないね。来たばかりであまり街を見ていないから、とくに違いは感じてないよ。大阪で人と話したときに、みんな街がどんなに変わったかを話していたから、もちろん変化はしているのだろうけどね。

これまでもさんざん聞かれているとは思いますが、マシーンドラムの名前の由来について教えてください。

MD:高校の時に思いついたくだらない名前さ(笑)。90年代からずっとこの名前を使っているんだ。当時の俺の友人たちや有名なエレクトロニックのミュージシャンたちがドラムマシンを使っていたから、そのドラムとマシンを入れ替えてマシーンドラムにしたってだけ(笑)。誰も使ってないし、いいかなって(笑)。

あなたはエレクトロニック・ミュージックから、どのようなインパクトを受けてきましたか?

MD:エレクトロニック・ミュージックはタイムレスだし、定義が難しいよね。ポップ・ミュージックだってエレクトロだし、ヒップホップもそうだし、さまざまなモダン・ミュージックの制作にはエレクトロと同じソフトウェアや機材が使われている。俺自身が思うエレクトロニック・ミュージックは、人びとが限界、制限を超えて自分たちを表現することができる音楽かな。たとえばロックだと、ギター、ベース、ドラム、ヴォーカルといった制限があるけれど、エレクトロでは、キーボートやほかのものを使っていたり、そこからまた広がったりして、さまざまなもの作れるからね。

では、アーティスト、レーベル、作品、何でも良いので、あなたがいままでで一番影響を受けたと思うものは?

MD:俺は常にエイフェックス・ツインに影響を受けている。あと、〈ワープ〉の初期作品だね。エイフェックス・ツインの、「誰が何をいおうと気にしない」っていうあの姿勢が好きなんだ。自分がやりたいことを常にやって、境界線を押し広げている。だからこそ誰にも予想できないものが生まれるし、常に人びとを驚かせることができる。あの自由さは多くのミュージシャンのなかでもレアなものだと思う。人の期待や流行の波の罠に気を取られてしまうことは簡単だし、作った特定の音がいちど大きく受け入れられると、それを作り続けて人気を保ち続けることだってできるのに、彼はそれをやらない。いまの時代って、インターネットやSNSがあるから、ファンの声がダイレクトに伝わってくるぶん、彼らが好むサウンドを作らなければいけないというプレッシャーも大きいと思うんだ。でも彼や〈ワープ〉や〈ニンジャ・チューン〉に所属するアーティストたちは、その期待を超えた作品を作っているアーティストたちが多いと思う。自分の道を進んでいるよね。

あなたの作るサウンドもすごく複雑ですね。IDM的といいますか。

MD:IDMって呼ばれているアーティストで、自分が作っている音楽がIDMと思っている人ってあまりいないと思う。そもそもIDMって、とってつけたような名前だよね(笑)。でも、俺の最近の2、3枚のアルバムは、実際IDMっぽかったとは思うよ。

たしかにIDMっぽくもありながら、同時に、とても聴き心地が良いです。音作りにおいて一番大切にしていることは?

MD:自分を笑顔にして、興奮させてくれる音楽を作ること。その音楽が、他の人に音楽を作りたいと思わせることができたらなお良いし、嫌な1日を良い1日に変えて、リスナーの気分を良くすることができたら嬉しいね。そういった意味で癒しの要素を持った作品を作りたいとも思う。実際に、自分の人生を変えてくれたとか、暗い時期にいたけど明るい気分にさせてくれたとか、そういう声をリスナーから聞いたりもするんだ。自分のために自分を興奮させる音楽を作ること、ほかの人たちがインスパイアされるような音楽を作ること。そのふたつのバランスを意識しているね。

子供のときにピアノとギターを習っていたそうですが、エレクトロニック・ミュージックの場合、楽器をプレイすることができないミュージシャンも多いですよね。楽器を演奏できるということは、あなたの音楽にどう影響していると思いますか?

MD:マーチング・バンドやジャズ・バンドにいたり、アフリカン・アンサンブル、パーカッション・アンサンブルを演奏してきたりして、そういった音楽のセオリーを理解していることは、自分が作るエレクトロニック・ミュージックに大きく影響していると思う。そもそも、エレクトロニック・ミュージックを作り始めた理由が、俺は小さい街に住んでいて、そういった音楽(バンドやアンサンブル)をひとりでは作れなかったからなんだ。だから機材の使い方を学んで、ひとりで音楽を作ってレコーディングできるようになるしかなかったんだよね。

楽器を弾けることで、ほかにはないエレクトロニック・サウンドが生まれていると思いますか?

MD:ピアノが弾けるからメロディの作り方は理解している。コードの使い方とか、どの音符同士が綺麗に聴こえる、とか。マイナーとメジャーの使い分なんもそう。それは、メロディを書く上で影響していると思う。でも、そういう知識がないほうがより面白い作品が生まれる場合もあると思うけどね。何も知らない方がクリエイティヴになれたりもするしさ。自分がそういった知識をもっていることが音楽にどう影響しているか明確に説明はできないけど、もしピアノやギターが弾けなかったら、俺の音楽はまったく違うものになっていたというのは確実だと思う。

あなたのビートのプログラミングは非常にユニークですが、ビート作りにおいて意識していることはありますか?

MD:あまり意識していることはないね。ただただ自分が良いと感じるものを作っているだけ。メロディを始めとするほかの要素も同じ。すべてはフィーリングさ。良いものが生まれれば、それが良いと感じるんだ。それを作るためのマニュアルはないし、作っているうちにしっくりとくる瞬間が来る。それに従うことだね。

〈プラネット・ミュー〉からリリースされた『ルームス』(2011)の後から、あなたの音楽が大きく変化したと思うのですが、この変化はどのようにして起こったのでしょうか?

MD:『ルームス』ではビートから音作りをはじめるかわりに、そのときに「起こっていること」や「瞬間」を捉えるという姿勢で音作りに取り組んだんだ。『ルームス』ではそのやり方を発見できたし、その「瞬間」をとらえ音にするというのが、どんなに大切かがわかった。自分が作りたいと思う音を考えに考え抜いて作ることもできるけど、スケルトンの状態からその瞬間に生まれるものを取り込んでいくことも大切なんだ。それを発見してから、そのメソッドで音を作るようになったし、いまだにそのやり方を採用しているね。

『ヴェイパー・シティ』と比べて、新作はベース・ミュージックでありながらもカラフルですね。このような変化は、どうして起きたのでしょう?

MD:LAに引っ越してから、自分の人生の新しいチャプターがはじまった。気候や環境も違うし、それは影響していると思うね。でも同時に、これまでも俺は常に新しいことにチャレンジするのが好きだったし、緊張感がありながらもポジティヴな、メジャー・キーを使ったサウンドに挑戦してみたかったというのもある。前の作品ではコード・サンプルを使ったり、小さなキーボードでリードラインを書いたりしていたけど、今回は昔やっていたようにピアノでメロディを書いたりもしたんだ。だからこのアルバムでは、多くの曲がリズミックというよりもメロディックなんだよね。それは大きな変化だと思う。やっぱり88鍵盤を使うと違うね。ベースラインとメロディを一緒にプレイすることができるから、音と音の間により繋がりが生まれるんだよ。

新作『ヒューマン・エナジー』のリード・トラック“エンジェル・スピーク”にはメロー・Xを起用しています。彼とのコラボレーションはどのようにして実現したのですか?

MD:前からいろいろとレコーディングはしていたんだけど、曲に採用することがなかったんだよね。でも今回は、前にとったヴォーカルをビートに乗せて使ってみることにしたんだ。

ケヴィン・フセインはいかがでしょう?“ドス・プルエタス”では彼の声が前面に出ていて驚きましたが、何か意図はありましたか?

MD:自分では何も(笑)。俺が作るほとんどのトラックにゴールはない。ただクールなものを作りたいと思っているだけさ。

では、“ドス・プルエタス” 目指したサウンドはどのようなものですか?

MD:とくにはないけど、トラップやEDMといったモダン・ミュージックに対するリアクションのような曲だろうな。あと、『ヴェイパー・シティ』と新作のブリッジとなる作品でもあるんだ。早いドラムンベースのテンポを使いながらも、曲が進むにすれて音がどんどん発展していく。アルバムに収録されているほかのトラックと比べて、この曲はマイナー・コードだし、音的には『ヴェイパー・シティ』と繋がっているんだ。

なるほど! それにしてもかなり斬新な新作ですね。リスナーの反応はいかがですか?

MD:大好きな人と大嫌いな人にわかれるね。本当に気に入ってくれたというコメントももらったし、がっかりしたという意見も聞いた。でも、『ヴェイパー・シティ』のときもそうだったんだ。全員をハッピーにすることなんて不可能だよ。結局のところ、自分自身が楽しめているかがもっとも大切なんだ。

リード・トラックの2曲は、すごくポップで東京っぽいなと思いました。

MD:アルバム全体にその要素はあるかもね。ハイパーで、メロディックで、メジャー・コード。それってJ-popやK-popの特徴でもある。ほかの人からも似たような意見をもらったよ。

ちなみに日本の音楽や日本のアーティストに影響を受けたことはありますか?

MD:竹村延和。以前、彼の音楽にハマっていたんだ。彼のアプローチはすごくユニークなんだよ。ボアダムスもよく聴いていた。日本の音楽って、掘り下げるとすごくエクスペリメンタルなものが色々あるよね。

今回のアルバムのレコーディングで、何か変化はありましたか? 使用した機材や環境など。

MD:新しい街に引っ越したし、新しい家にも引っ越した。新しいコンピュータも買ったし、新しいエイブルトンのテンポレートも作ったんだ。今回はすべての曲において同じソニック・パレットを使ったから、統一感があると思うよ。

では参照した音楽はありますか?

MD:いや、それはない。アルバム制作期間の3ヶ月は、敢えて音楽を聴かないようにしたんだ。でも、何かの影響が自然に出ているということはもちろんあると思うけどね。

『ヴェイパー・シティ』シリーズについで今回も〈ニンジャ・チューン〉からのリリースですね。〈ニンジャ・チューン〉に関してはどう思いますか?

MD:レーベルがスタートしてから革新的音楽をリリースし続けているし、ほかとは違うレーベルだと思う。彼らと一緒に仕事ができて、本当に光栄だよ。

今年、リリースされたセパルキュア名義のセカンド・アルバム『フォールディング・タイム』も素晴らしいですね。このアルバムは、どのくらいで作り上げたのですか?

MD:1枚目のアルバムは2週間しかからなかったのに、セカンドは3、4年かけて作ったんだ。タイトルの由来もそこから来ていて、3年前のセッションをレコーディングしたものをはじめ、長い期間の間で作られた色々なマテリアルの点を繋げながら完成させたのがセカンド・アルバムなんだよ。すごく長いプロセスだったね。

その作品はR&B色が前より強くなっていると思いました。作品でのあなたの役割とはどのようなものだったのでしょう?

MD:何て答えたらいいのかわからないな(笑)。ただ普通にコラボしただけ(笑)。

“フライト・フォー・アス”でカナダの女性シンガー、ロシェル・ジョーダンを起用していましたね。どのようにして実現したのですか?

MD:知り合いが彼女を紹介してくれて、レーベルも、いくつかシングルを作ってみたらどうかと乗り気だったんだ。俺自身もいくつかの曲に彼女の声が自然にフィットすると思ったしね。

あなたの音楽にとって、ヴォーカルとはどのようなものですか?

MD:俺にとって、ヴォーカルは楽器のひとつ。ドラムなんかと同じで、大切な音の要素のひとつだね。そして同時に、やはり人間から生まれるサウンドだし、みんなが一番親しみのある音だから、どの楽器よりも人が繋がりを感じることができるものだと思う。上手い下手は関係なく誰でも歌は歌えるし、脳って、すぐヴォーカルに反応すると思うんだ。ポップ・ミュージックが親しみやすいのもそこだよね。音楽の知識がなくても、歌詞やヴォーカルを聴くことで、それをエンジョイすることができる。そういう意味ではヴォーカルってすごく重要なんだけど、俺はヴォーカルをメインにするのではなく、ほかの音とバランスをとらせたいんだ。

シンガーがあなたの音楽に何をもたらすものは、どのようなものですか?

MD:俺と一緒にコラボしているシンガーたちのほとんどが友だちだし、長いあいだ知り合いだから、その近さや心地よさが音楽に自然と反映されていると思う。

そこもあなたの音楽の聴きやすさの理由のひとつかもしれませんね。

MD:そうだね。高いお金を払って、大物ヴォーカルを起用しているわけじゃないから。お互い心を許せているから、良いエナジーが生まれるんだ。

ところで、ここ5年のエレクトロニック・ミュージック・シーンはジャンルに関してはどう思いますか?

MD:より多くの人びとに受け入れられるようになっていると思う。いまは若い世代もエレクトロを聴いているしね。俺が聴きはじめた頃は、エレクトロがどんな音楽なのかを説明するのも難しかったし、まわりの友だちにエレクトロニック・ミュージックを好きになって聴いてもらうのは簡単ではなかった。エレクトロのミュージシャンは真のミュージシャンじゃないという考え方もあったしね。でもいまは、それが完全に変わったと思う。誰もがエレクトロニック・ミュージシャンになれる時代にもなったし、ビートを作ってサウンドクラウドにアップするのだって、ティーンにとっては当たり前のことだしね。それは素晴らしい変化だと思う。エレクトロニック・ミュージックのプロデューサーたちとって、よりエキサイティングな環境が築き上げられていると思うよ。

EDMに関してはどうお考えですか?

MD:音楽のすべてのジャンルに良い部分があるし、面白いと思える部分がある。もちろん、最悪なドラムンベース、最悪なフットワーク、最悪なジャングルも存在するけどね。でも、そのジャンルのなかでクオリティの良いものは、すべて面白いと思う。EDMってちょっとふざけた面もあるけど、そのユーモアやトリックを楽しんだりもしているよ。

DJラシャドのトリビュート・アルバムに参加していますね。彼の音楽の魅力について教えてください。

MD:彼の魅力は、音楽を超えていると思う。いままで沢山のDJやミュージシャンたちに会って来たけど、彼はそのなかでも本当にユニークで、ほかのミュージシャンたちから何かを学ぼうと常にオープンな姿勢でいた。すべてに耳を傾けて、気を配っていた。プロデューサー、DJ、そして一人の人間として彼を心からリスペクトしているし、一緒にいると常にインスピレーションを受ける存在だったね。

あなたも常に音楽を作り続けていますね。それは何故でしょう?

MD:ほかに何をしていいのかわからないからさ(笑)。何で息をしているのかと訊かれるのと同じ(笑)。生活の一部なんだ。音楽を作ることで生きていられるし、音楽なしではどうしたらいいのかわからない。自分からクリエイティヴィティがなくなったらどうなるかなんて想像できないよ。

最後にミュージシャンとして、もっとも大切にしていることを教えてください。

MD:さっき話した通り、自分が満足できる音楽を作る、そして人にインスピレーションを与える音楽を作るというふたつのバランスをとること。それだね。

AJ Tracey - ele-king

 ロンドンのストリートで生まれたラップ・ミュージック「グライム」が話題になっている。特に自主レーベルから発表されたスケプタの『コンニチワ』が、イギリスで最も優れたアルバムに対して送られるマーキュリー賞を受賞したのは、世界のインディペンデント・シーンに勇気を与えただろう。

 そんなシーンでフローとリリックで頭角を現してきた若干22才の新星MC、エージェー・トレーシーが来日し、日本初ツアーをおこなう。
 彼はこれまで4枚のEPをフリー・ダウンロードでリリース。今月もニューヨークのエイサップ・ロッキーとのコラボレーションから、Mumdanceとのモジュラー・シンセのセッションまで、ジャンル・国を超えて活動中だ。その勢いを証明するかのように、昨年ストームジーが受賞したモボ・アウォードで早くも「ベスト・グライム・アクト」にノミネートされ、今夏のフェスティヴァルでも引っ張りだこである。

 ツアー初日の大阪は10月15日(土)、大阪COMPUFUNK RECORDSにて行松陽介やグライムMC 140 + Sakanaなどが共演。東京は10月16日(日)夕方からSkyfish × DOGMA、DEKISHI + Soakubeatsらが迎え撃つ。
 彼の初ツアーは勢いづく「今」のグライムとローカルのストリート・ミュージックが共鳴するイベントになりそうだ。(米澤慎太朗)


10月16日 (日) 18:00 -
MO’FIRE @ CIRCUS TOKYO

https://circus-tokyo.jp/
¥2000 (ADV) / ¥3000 (DOOR) + 1d
前売り : https://jp.residentadvisor.net/event.aspx?881144

AJ Tracey
Skyfish × DOGMA
DEKISHI + soakubeats
Double Clapperz
Carpainter
Underwater Squad
Host : Onjuicy

10月15日 (土) 23:00 -
PCCP @ COMPUFUNK RECORDS

¥2500 (ADV) / ¥3000 (DOOR) + 1d

AJ Tracey
YOSUKE YUKIMATSU
YOUNG ANIMAL
140 + SAKANA
SOUJ
SATINKO
ECIV_TAKIZUMI


AJ Tracey プロフィール

ウェスト・ロンドン出身のAJ Traceyはおそらくここ一年のUKアンダーグラウンドのグライム・シーンの盛り上がりから生まれた最も才能あるMCである。万華鏡のような言葉選びとはっきりと聞き取れるフローはそのシーンにおいて誰にも比較できない独自さを持っている。AJ Traceyはその美声とフローで荒々しいクラブ・アンセムからスイート・ジャムまで器用に乗りこなす。

The Quietus – 彼はマイクでクリアにラップして、常に魅了出来る本当のリリシストだ。

昨年夏の「The Front」でデビューし、秋には“Spirit Bomb”、“Naila”がストリート・アンセムとなった。“Naila”はYouTubeで異例の50万回再生され、Rinse FM、Beats 1 Radio、BBC Radioでヘヴィプレイされた。2016年に入り、Tim Westwood Crib Sessionへの参加、Last Japanとの共作「Ascend」のリリースや2stepレジェンドとして知られるMJ Coleとのコラボレーション“The Rumble”を公開するなど、常に話題のMCだ。

東京 アンダーグラウンド 誰も知らない世界で戦う
Morning and Night 遊びつつまた Hustle, Deal Yen
S.L.A.C.K.“In The Day”『この島の上で』

 HIPHOPはGroundの音楽だ。Groundとはいま踏みしめている「地面」、生まれ育った「土地」、わたしが生きている「根拠」、そこから生まれる明確な「立場」、いま抱えている「問題」だ。しかし、同時にHIPHOPはGroundを内破する。HIPHOPはGroundから生まれ、踏みしめ、拠って立ち、その生まれによって固有の苦悩を抱える人間のGroundを内側から掘り崩し、再構築する。その担い手は、自らのGroundをDigることでGroundを愛し、ゆえに破壊し、再創造するのだ。そこにどんな楽しみがあるかは、やったことがねえやつにはわかんねえな。そこには俺たちだけの、かけがえのない夜があり、踊りがあり、分けもたれた孤独があるんだ。

* * *

  さて、前回の続きだ。S.L.A.C.K.のキーワードである「適当」は、日常的に使う悪い意味での「いいかげん」ではない。この「適当」は前回書いたように、クソみたいだけど、手放したくない、いずれ終わりのくる日常の中で、その限界を意識しつつ、緩く、タフに生き延びようとする思想から出た言葉だ。だからそれは、まず「良い加減」であり、「ちょうどいい」ことを意味している。しかし、それだけではないのではないか? この問いは、表記が5lackになってから、また震災の後、さらに強くなった。
 実際、5lackは震災以後初めてのロング・インタヴューで以下のように答えている。少し長くなるが引用する。

■うん。「適当」っていう言葉は当初は日本のラップ・シーンに対する牽制球みたいな脱力の言葉だったと思うんですね。もう少し気を抜いてリラックスしてやろうよ、みたいな。

スラック:はいはいはい。

■それが、より広くに訴えかける言葉になってたな、と思って。

スラック:漢字で書く「適当」の、いちばん適して当たるっていう意味に当てはまっていったというか。要するに、良い塩梅ということです。だから、いいかげんっていう意味の適当じゃなくて、ほんとの適当になった。まあ、でも、最初からそういう意味だったと思うんですけど、時代に合わせるといまみたいな意味になっちゃうんですかね。ちょっと前だったら、もうちょっとゆるくて良いんじゃんみたいな意味だったと思う。

■自分でも言葉のニュアンスが変わった実感はあるんですか?

スラック:オレがラップする「適当」を、気を抜いてとか楽天的にとか、ポジティブに受けとられれば良いですけど、責任のない投げやりな意味として受けとるのは勘違いかなって。

 ここにダブルミーニングが生じる。S.L.A.C.K.から5lackへ、震災後へ。恐らく5lack自身、また、この島に住む多くの人々が、あの揺れと、波と、何よりも底の抜けた圧力容器からの線によって、変容させられた。正体不明の不安を覆い隠すように、偽物の多幸感の影を追いながら、社会の問題に他人事でいられた冷笑家すら、いまや当事者となった。もはや、「いいかげん」だけではすまない。良くも悪くも、いや、最悪なことに、この「いいかげん」と「無責任」によってあの災厄はもたらされたのだから。「大人」たちのほとんどはこの責任を取ろうとしなかったし、責任を想像すらできなかったが、この時代が生んだ子どもたちは、3.11以後の想像力は、未来からの呼びかけに応答しようとしている。子どものように責任を回避し、駄々を捏ねる大人の代わりに、取れる限りの責任を取ろうとしている。歴史に残るほどの大きな出来事は、言葉の意味すら変容させるらしい。震災以後の日本人の切実さは、「適当」に新たな内実を与えた。それは無責任な「いいかげん」ではなく、「良い加減」だけでもなく、自分のやっていることを自覚し、責任を持つ、ある種の真面目さ、真剣さ、「適切」に近い、本来の語義を取り戻した。

 では、この責任を自覚した「適当」は、何に対して適当なのか? 適して当てはまるのは、何に対して当てはまるのか? 「良い塩梅」とはどのくらいのことを言うのか? その答えは、どこにあるのだろうか? 少し遠回りになるが、5lackに寄って考えていく。5lackは切迫した調子で問う。

モニターに足かけ 調子どうだ?と客に話しかけ 渦巻く種仕掛け 人生につきその耳に問いかける Yeah 分からないことだらけ 見えないが感じる今だけ このステージ上がお前のLife 本番さどうにも止まらない  5lack“気がつけばステージの上”『情』

 ニーチェが「神の死」を宣告してから100年が経つが、近代人はいまだに「私はなぜ生きているのか?」という問いに対する絶対的な答えを喪失し、病んでいる。ある人は、その喪失の中で自死を選択し、ある人は安易な答えを掴む、そして多くはそもそも問うこと自体をやめてしまう。しかし、5lackは真摯に問い、全うにも「分からない」、「見えない」と答える。この答えは答えになってはいないが、その代わりに、ある事実を伝える。感じろ、何にせよお前は生き、お前の人生という舞台に立っている。これは本番だ。「どうにも止まらない」。そして開き直る。

Kick Push 人生 賭けて Believe it あっちよりこっちが絶対いいなんて信じてもなあ そうでもないかもしれねえし いまから決め付けないでさ
 人生 正解などないと思っていいぜ ひでえ目にあったりする それもまあいいぜ Weekend (×5) We Can (×5) I Love My Life  5lack“Weekend”『Weekend』)

 最後のフックまでは、フックの最後、“I Love My”の後にため息や嘆きに似た声が入っているが、最後のフックでは“I Love My Life”と明確にラップしている。いや、歌詞カードがないのだからここでも明確ではないかもしれない。しかし、最後に、確かにそう聴きとれるのだ。人は必ず死ぬ。そして人生に答えはない。「ひでえ目にあったり」もする。だけど、自分の人生をそのまま愛し、肯定できればいい。困難かもしれないが、俺たちにはできる。何度でも言う。“We Can”“I Love My Life”。この開き直りこそ、前回書いた「緩いタフネス」の本質だ。そしてこの回答によって、5lackの哲学の核心に近づくことができる。それは初期からの5lackのスタイル、変化そのものの肯定だ。根本のところで自分を愛し、もはや自分を恥じることがなくなるとき、人間は本物の自由を手にする。自由は、なにものにも寄らず、変化し続けること、創造すること、そのプロセスそのものを可能にし、また肯定する。そういえば、シングル『Weekend』のB面、あるいはもう一つのA面でこう言っている。

変わり続けるのが俺らしい 変わらないものなんてまやかし  5lack“夏の終わりに”『Weekend』

 変化とは、破壊と創造のプロセス、ただいい音楽を作り、それを続けること。そこには、自由ゆえの不安と、孤独の夜が常に付きまとう。だけど、その一回限りの踊りの繰り返しには楽しみもあるだろう。そしてこの踊りによって5lackは、シーンだけでなく、5lackの音楽を聴くリスナーたちに、「強くあれよ」と自覚(コンシャスネス)を呼びかける。別に純粋に政治的なことを言うことだけがコンシャスラップではない。彼がやっているのは間違いなくコンシャスラップだ。それもズールー・ネーションから続いている、HIPHOP的に正統な。
 今回はここまで。詳しくはまた次回にしよう。次回以降も、5lackの踊りと哲学についてもう少し掘り下げ、では誰に対する「責任」を果たそうとしているのか、考えていきたい。

※歌詞は全て筆者が書き起こしたものなので、間違っていたらごめんなさい。

Zomby - ele-king

エスキーなストリート・ミュージックが再び鳴り始める米澤慎太朗

 2008年に〈Hyperdub〉からデビューしたZombyが、再び同レーベルからグライム、「エスキー・ビーツ」の影響を強く感じさせる最新アルバム『Ultra』をリリースした。彼はこれまで、常に新しいモードにチャレンジしてきた。ジャングルや90年代レイヴ・ミュージックを強く感じさせる『Where Were U In '92?』〈Werk Discs〉に始まり、〈4AD〉と〈Ramp Recordings〉から4枚のアルバムをリリースしてきた。その後もTwitter上での熱いツイートで話題を常に絶やさなかった彼だが、ビートレスのトラックをWileyのヴォーカルが引っ張る昨年のシングル「Step 2001」〈Big Dada〉が本作『Ultra』を方向づけたように思う。

 収録曲の中でソロで制作されたものは、Wileyが作った(*1)エスキー・ビーツのアイディアを借用し、サウンドを発展させている。例えば、“Burst”の最初の小節に挟まれる一音はWileyの“Ice Rink”に使われていたエスキー・クリックと呼ばれる音である。また、アルバムのオープニング3曲は「Devil Mix」または「Bass Mix」とWileyが名付けたドラムのないインストゥルメンタル・トラックである。しかし、ただエスキー・ビーツをなぞるだけでなく、ハイファイな音作りで現在にアップデートさせた音像を提示している。
 無機質なベース音と、繰り返すビデオ・ゲームの効果音のような音の隙間には、グライムMCの熱のこもったラップが聴こえてきそうだ。DJがセットに時折混ぜるデヴィル・ミックスの淡々としたトラックは、ドラムなしのビートにマイクを握り続けるMCと、「早くマイクをよこせ」と待っているMCの間に生じる緊張感をさらに高めていく。“Burst”からは、そんなロンドンのラジオ局の様子が想像できた。しかし、ZombyはMCと共作する代わりに、ヴォーカルをチョップすることで、ほんの少しだけ緊張感を和らげているようだ。

 なぜ、今エスキー・ビーツなのか? この2~3年の間で、2000年代前半のエスキー・ビーツの再解釈がイギリスのシーンのトレンドになっていることがあるだろう。その背景には、アメリカの「トラップ」と全く異なり、2000年代初期の「エスキー・ビーツ」(*2)のスタイルにイギリス・グライムのオリジナリティを感じ、インスピレーションを求めようとする新世代のプロデューサーがいる。例えば、LogosやRabit、Visionistなどはエスキー・ビーツの影響を受けているし、今年は、2003年リリースのワイリーの曲“Igloo”を下敷きにしたトラックに、人気MC Stormzyが乗っかった“One Take”がクラブ・ヒットした。それに呼応するかのように、〈Local Action〉や〈DVS Recordings〉など名の知れたものからアンダーグラウンドまで、さまざまなレーベルが、2000年代前半シーンの勃興期にDJの間のみで流通していたプロモ盤を再リリース。2000年代前半のローな音への「原点回帰」がトレンドになりつつある。Zomby自身は年齢非公表のため想像にすぎないが、Zombyはおそらくリアルタイムで2000年代初頭のグライムを経験し、このタイミングでグライムの原点の一つであるエスキー・ビーツを自分なりにもう一度消化してアルバムとして提示したのではないか。

 ソロで制作された粗い質感のトラックはアルバムの方向性を決定づけているが、Burial、Rezzett、Darkstar、Bansheeとコラボレーションしたトラックではフロア向けのトラックとは別のベクトルに音楽性を発展させようと挑戦している。特に、Darkstarとのコラボレーションはどのパートをそれぞれが担当したかわかりやすいという意味でも面白い曲。どのコラボレーションもZombyのサービスとして、また息の詰まりそうなエスキー・ビーツの間の休みとして楽しめる。アルバム通してハイファイながら粗いローな感覚に浸れる一枚だ。

(*1)TR.1“Reflection”、TR.2“Burst”、TR.3“Fly 2”、TR.10“Freeze”、TR.11“Yeti”。
(*2)矩形波のベース音やKORGのTritonのプリセット音を使うスタイル。

米澤慎太朗

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 デリック・メイかと思った。9曲目の“Quandary”のことだ。なぜそう感じたのかはわからない。何度か繰り返し聴いているうちに、別にデリック・メイではないよなと考えを改めるようになった。けれどその後もときどきデリック・メイのように聴こえることがある。なぜなのか、よくわからない。

 日常的に交わされる雑談の紋切り型のひとつに、「誰が誰に似ているか」という話題がある。「鈴木さんって、山田さんに似ているよね」という、あれだ。誰かの顔が別の誰かの顔に似ているなんていうのは実際よくあることで、特に驚くことでもなんでもない。けれど、改めて考えるととても奇妙な事態でもある。なぜぼくたちは、誰かの顔と他の誰かの顔とが似ていると思ってしまうのだろうか。
 じつはぼくはこの類の会話が嫌いじゃない。といってもそれは、本当に鈴木さんが山田さんと似ているかどうかが気になるからではない。そんなことはどうでもいい。そうではなく、そういう話題を通して、発話者が観測対象をどのようにデフォルメしているかが明らかになるのが面白いのだ。発話者は、顔のどの部分を拡大しあるいは逆にどの部分を切り捨てて、対象を眺めているのか。それは、発話者が顔というものを通してどのように世界を見ているかということでもある。だから特に、意見が分かれるときほど面白い。
 たとえば高橋さんは、鈴木さんが山田さんに似ていると思っている。けれど斉藤さんは、鈴木さんが山田さんに似ているとは思っておらず、むしろ佐藤さんに似ていると思っている。このとき、高橋さんの眼差しと斉藤さんの眼差しが、あるひとつの顔の表象をかけてぶつかり合う。その瞬間ほどわくわくするものはない。ひとつの世界ともうひとつの世界が、戦闘を開始するのだ。「誰が誰に似ているか」という雑談は、あるひとりの人間が世界をどのように眺め、どのように切り取っているかをあらわにするのである。
 同じことは、音楽の聴き方についても言える。

 盟友ブリアルと同じように匿名性を堅守し続けてきたゾンビーは、本人は隠しているつもりはないと言っているようだけれども、現代における顔の見えないアーティストの代表格である。顔を隠すという行為は一見、彼に向けられる多様な眼差しを拒絶するということのようにも思われる。だがそれは、ゾンビーという対象に対し固定的なたったひとつの見方をしてくれという要求では全くない。他の分野がそうであるように、音楽の分野も多かれ少なかれ視覚的なイメージによって支配されているが、彼が顔を隠すのは、見た目ではなくあくまでサウンドでその音楽を判断してほしいからだろう。ゾンビーというアーティストは、どこまでもそのサウンドをもって、唯一無二の世界の切り取り方を提示する。
 通算4作目、およそ3年ぶりとなるゾンビーのニュー・アルバムは、ダブステップのその後のさらにその後の地平を切り拓く。まず、冒頭の1曲目“Reflection”から2曲目“Burst”の流れが素晴らしい。もうこの出だしだけで本作が何か特別なものに憑依されていることがわかる。ベルのような上モノが美しい“I”や“Glass”といった中盤のトラックもただただ最高だとしか言いようがない。他のアーティストとコラボしたトラック群も面白い。バンシーとの共作“Fly 2”は吐息に幻惑されながらぶっ壊れたR&Bを鳴らし、10インチとして先行リリースされたブリアルとの共作“Sweetz”はゲットー・サウンドを取り入れつつエクスペリメンタリズムの荒野を走り抜け、ぼくがデリック・メイだと「誤聴」したダークスターとの共作“Quandary”は暗く薄汚れたダンスホールでバレアリックなステップを誘発し、ウィル・バンクヘッドが主宰する〈The Trilogy Tapes〉からのリリースで知られるリゼットとの共作“S.D.Y.F”はジャングルへの愛慕と呪詛を同時に響かせる。1曲1曲に発見があり、戦闘がある。
 ロンドンのワーキング・クラス出身の顔を持たぬアーティストが、サウンドによって切り取ってみせる世界──それはジャングル、グライム、ダブステップ、あるいはアンビエント、そのどれにも似ているようで、そのどれとも似ていない。間に合わなかったレイヴ・カルチャーへの憧憬もあっただろう。ダブステップに対するアンビヴァレントな思いもあっただろう。未だ鳴らされたことのないサウンドへの渇望もあっただろう。このアルバムでは、これまでのゾンビー、いまのゾンビー、そしてこれからのゾンビーが同時に「顔」を覗かせている。そしてもちろん、ゾンビーとは屍体のことだ。

https://youtu.be/YMi8pXOaR9M

 ぼくはこのアルバムを幽霊に似ていると思った。幽霊だから当然、一度は死んでいる。その幽霊の「顔」は、ブレグジットを経たいまのUKの「顔」とよく似ている。グライムからダーク・アンビエントまでを消化=昇華したこの亡霊のようなベースとシンセの狂騒は、奈落へと沈みゆくUKの姿そのものなんじゃないか。あるいはタイトルの『Ultra』が指し示しているのは、いまのUKのあまりに「極度な」状況なんじゃないか。このアルバムは、どこにも逃げ場のない世界で、それでもなんとか生き抜こうともがいている、どこにも属すことのできない者たちに、ひとつの「顔」を与えようとする。このアルバムは、2016年という時代のロンドン・アンダーグラウンド・シーンの意地だ。
 最初にデリック・メイのサウンドを連想したとき、もしかしたらぼくは、もともと顔を見せなかったデトロイトのシーンのことを考えていたのかもしれない。ご存じのように、いまのかれらにはしっかりとした顔がある。対してゾンビーは、いまだに顔を見せようとしない。それはたぶん彼が、顔がない方が「顔」を見せることができるということをよく知っているからだ。
 ぼくはこのアルバムを幽霊に似ていると思った。きみはこのアルバムを誰に似ていると思う?

小林拓音

Zamzam Sounds - ele-king

 ワールド・ミュージックの名作を再発する〈ミシシッピ・レコーズ〉や、アフリカ音楽の名門〈サヘル・サウンズ〉といったレーベルが拠点とするアメリカ北西部の都市ポートランド。多様で豊かな音楽的土壌を備えた同市で2012年から運営されている〈ザムザム・サウンズ〉は、ひとつのスタイルに捕らわれることなくダブの可能性を拡張してきた。その運営を手掛けるのはレーベルの前身〈BSIレコーズ〉の創立メンバーだったふたり、エズラ・エレクソンと彼の公私にわたるパートナーであるトレイシー・ハリソンだ。
 発足以来、〈ザムザム・サウンズ〉は7インチに特化したリリースを展開している。世界中から届けられるデモの中から、その製作者だけにしか成しえない個性を持ったものだけが選りすぐられ、ルーツ・レゲエ、ステッパーズ、ダブテクノ、ダブステップなどの少し斜め上に位置づけられるような異質で新鮮なサウンドが世に送り出されている。
 今回は、これまでに発表された40を超えるタイトルの中から、レーベルがカヴァーする領域の広さを感じ取れる5枚を選んだ。その多様な音楽スタイルもさることながら、ファインアートの学位を取得しているハリソンが手作業でシルクスクリーン・プリントを施すジャケット・デザインも同様に味わい深い。


RSD - World Hungry / Dub Pride (ZamZam Sounds)

開放感のあるステッパーズ“ワールド・ハングリー”と、エコーとリバーブによってさらなるうねりがグルーヴに加わる“ダブ・プライド”を収録。ロブ・スミス節炸裂のベースラインとブレイクビーツによるトラックは、まさに彼だけにしか成しえない個性に満ちている。

Deadbeat feat. Gregory Isaacs - Claudette (ZamZam Sounds)

以前からダンスホールとテクノを融合させたトラックを制作しているデッドビート。テクスチャーを豊かに加工したスネアや明瞭なミックス処理によって、これまでにない印象を生むダンスホールが実現している。このようなトラックをリリースするあたりにザムザム・サウンズらしさを感じる。

Beat Pharmacy - Beach Dub / Bowling Dub (ZamZam Sounds)

ダウンビートに乗せてダビーなエフェクトがセッションしているかのように絡み合う“ボーリング・ダブ”が面白い。近年のビート・ファーマシーは以前に増して特異なダブ・サウンドを探求するようになっている。

Compa - Shaka's Truth / Atha Dub (ZamZam Sounds)

ダブステップの総本山〈ディープ・メディ〉からもリリースしているコンパが超強力デジタル・ステッパーズをドロップ。ズシリと打ち込まれるキックと、擦り付けたように少し歪ませたハットによって堅牢なビートが構築され、フロアを熱く盛り上げる。

Hieronymus - Silk Road / Pound of Pepper (ZamZam Sounds)

ミニマルダブを制作していたころのキット・クレイトやポールがもっとルーツに接近していたら、こんなトラックになっていたのでは? と思わせられる多様な要素を含んだスローステッパーズ2曲を収録。エレクソンとハリソンの懐の深さがうかがえる1枚だ。

Kan Sano - ele-king

 カン・サノ×七尾旅人といえば、「サーカスナイト」のリミックス・ヴァージョンが思い起こされるが、あのアーバン・メロウなトラックにやられちゃった方々に朗報である。カン・サノが七尾旅人をフィーチャーした久々の新曲、『C’est la vie feat. 七尾旅人』を10月30日にリリースすることが決定した。しかもアナログ7インチで、だ。

 ソロ名義でのフジ・ロック・フェスティバル2016出演やセイホー・バンドセットへの参加、そして藤原さくらのライヴ・サポート等、近年活動の幅を広げているカン・サノであるが、今回リリースされる『C’est la vie feat. 七尾旅人』では自身のキーボード・スキルを駆使した、昨今のR&Bシーンに呼応するようなエレクトロなアーバン・ソウルを聴かせてくれる。この7インチには浮遊感のあるエレクトリック・ピアノと七尾旅人の詞が印象的な「C’est la vie」と、カン・サノ自身がヴォーカルをとった「Magic!」の2曲収録されており、どちらの曲においても、更新し続ける彼のエレクトロ・サウンドを堪能出来るだろう。初回生産分のみの限定盤とのことなので、気になる方はお早めに。

 ちなみにカン・サノは、明日22日にWWW Xにて開催されるD.A.N.によるレギュラー・パーティー、「Timeless」にセイホー・バンドセットのメンバーとして出演する。チケットはソールド・アウトで、当日券の販売は未定のようだが、このステージではソロ名義のカン・サノとは違う一面を見せてくれるだろう。これからも、カン・サノから目が離せないようだ。

Kan Sano / C’est la vie feat.七尾旅人
発売日 : 2016年10月30日(日)
発売元 : origami PRODUCTIONS
価格 :¥1,389+税
試聴音源:https://soundcloud.com/kan-sano/cest-la-vie_magic


■Kan Sano

キーボーディスト/トラックメイカー/プロデューサー。
バークリー音楽大学ピアノ専攻ジャズ作曲科卒業。在学中には自らのバンドでMonterey Jazz Festivalなどに出演。
キーボーディスト、プロデューサーとしてChara、UA、大橋トリオ、RHYMESTER、佐藤竹善、Madlib、Shing02、いであやか、青葉市子、Seiho、韻シスト、Nao Yoshioka、Ovall、mabanua、須永辰緒、七尾旅人、Monday Michiru、羊毛とおはな、片平里菜、Hanah Spring、COMA-CHI、Twigy、アンミカ、Monica、ゲントウキ、Eric Lauなどのライブやレコーディングに参加。
また新世代のビートメイカー、プロデューサーとして国内外のコンピレーションに多数参加する他、LION、カルピス、CASIO、NTT、ジョンソン、日本管理センターのCMやJ-WAVEのジングル、AnyTokyo 2015の会場音楽など各所に楽曲を提供。
さらにSoundCloud上でコンスタントに発表しているリミックス作品やオリジナル楽曲がネット上で大きな話題を生み、累計40万再生を記録。
また、トラックメイカーとしてビートミュージックシーンを牽引する存在である一方、ピアノ一本での即興演奏でもジャズとクラシックを融合したような独自のスタイルで全国のホールやクラブ、ライブハウスで活動中。
“Kan Sano” の名は、様々なシーンに破竹の勢いで浸透中!
https://kansano.com/

Brian Eno × Dentsu Lab Tokyo - ele-king

何もかもが俗悪きわまる再版であり、無益な繰り返しなのである。過去の世界の見本がそのまま、未来の世界の見本となるだろう。ただ一つ枝分かれの章だけが、希望に向かって開かれている。この地上で我々がなりえたであろうすべてのことは、どこか他の場所で我々がそうなっていることである、ということを忘れまい。 オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』浜本正文訳

 ブライアン・イーノ? ああ、なんか有名なじいさんね。アンビエントだっけ?──若いリスナーたちにとってイーノとは、もしかしたらその程度の存在なのかもしれない。しかし、実際の彼はそんなのんきなご隠居さんのイメージから最も遠いところにいる。2016年のブライアン・イーノは、たとえばアルカやOPNと同じように切実に、「いま」という時代のアクチュアリティを切り取ってみせようと奮闘しているアーティストのひとりである。いま彼が試みていることは、あるいはフランク・オーシャンが実践するような複合的な展開、あるいはビヨンセが体現するようなポリティカルなあり方、あるいはボウイの死のようなインパクト、そのどれにも引けを取らない強度を有している。
 4月末にリリースされたイーノの最新作『The Ship』は、歌とアンビエントを同居させるというかつてない音楽的実験を試みる一方で、そこに大胆に物語性をも導入するという、これまでの彼のどのアルバムにも似ていない野心的な作品であった。そしてそれはまた、タイタニック号の沈没および第一次世界大戦という出来事を「いま」という時代に接続しようとする、非常にポリティカルな作品でもあった。そのような複合性を具えた同作は、『クワイータス』誌が選ぶ2016年上半期のトップ100アルバムのなかで5位にランクインするなど、各所で高い評価を得ている。

 去る9月15日、『The Ship』のタイトル・トラックである "The Ship" の新たなミュージック・ヴィデオ「The Ship - A Generative Film」が公開された。
 とにかくまずはデスクトップのブラウザから、この特設サイトにアクセスしてみてほしい

トレーラー映像

 このヴィデオでは、イーノとDentsu Lab Tokyoとのコラボレイションによって開発された「機械知能(Machine Intelligence)」が、"The Ship" にあわせて自動的かつリアルタイムに、一度限りの映像を生成していく。あらかじめ20世紀の様々な歴史的出来事を学習させられた「機械知能」が、刻々と更新されていく世界中のトップ・ニュースを解釈し、それに類似した過去の出来事をピックアップして新たな映像を生み出していく、というのが本ヴィデオ作品の大まかな仕組みである。サイトへアクセスした瞬間に新しい映像が自動的に生成されるため、われわれはその時々でまったく異なる映像を視聴することになる。
 画面の左側では、ロイターやBBCの最新の記事がリアルタイムで更新されていく。画面の上部では、その記事の写真から「機械知能」が連想した過去の様々な写真が召喚され、ランダムに配置されていく。更新されるニュース写真とそれに基づいて召喚される過去の写真は、互いに何らかの関連性を有したものであるはずだが、必ずしも同じような出来事を記録したものであるとは限らない。要するに、「機械知能」が最新の写真を見て、それをあらかじめ記録された膨大なデータ=「記憶」と照合し、何か他のイメージを連想していくのである。したがって、そのプロセスには「誤認」の発生する余地がある。
 たとえば人は月を見たとき、そこに単に地球という惑星の衛星としての天体を認識するのではない。ある者はそこにウサギの影をみとめ、またある者はそこにカニの影をみとめる。それは、観測者が自らの所属する文化の体制に縛られて無意識的におこなってしまう、創造的な「誤認」である。では、はたして「機械知能」にもそのような「誤認」をおこなうことが可能なのか──それが本ヴィデオ作品のメイン・コンセプトである。

 このアイデアの一部は、すでに『The Ship』でも試みられていたものだ。表題曲 "The Ship" の二つ目のパートである "The Hour Is Thin" は、マルコフ連鎖ジェネレイターがタイタニック号の沈没や第一次世界大戦に関連する膨大な文書を素材にして自動的に生成したテクストを、俳優のピーター・セラフィノウィッツが読み上げていくというトラックであった。今回のヴィデオ作品はいわばその映像ヴァージョンであり、"The Hour Is Thin" で試みられていた偶然性の実験をさらに推し進めたものだと言えるだろう。
 イーノはこれまでも『77 Million Paintings』といった映像作品や、『Bloom』、『Trope』といったスマホ用アプリなどで、決して(あるいは、可能な限り)繰り返しの発生しない映像表現や音楽表現の探究を続けてきた。それは「ジェネレイティヴ(生成する)」と呼ばれる着想であるが、本ヴィデオ作品もそのような試行錯誤の径路に連なるものである。それは、ある何らかの制約のもとで能う限り偶然性や一回性を追求しようとする手法であり、あるいは、ある何らかの秩序のなかでいかにその秩序から逸脱するかを思考しようとする手法である。そのように「ジェネレイティヴ」な探究の最新の成果として公開された本フィルムは、何よりもまずブライアン・イーノという作家によって提出されたアート作品なのである。

 だが、このヴィデオ作品のポテンシャルはそこにとどまらない。本ヴィデオ作品が興味深いのは、「ジェネレイティヴ」という技術的な手法が、世界の報道記事とリアルタイムで関連付けられているというところである。つまりこのヴィデオは、極めて政治的な作品でもあるのだ。たったいま発生した出来事も実はすでに過去に起こったことの繰り返しなのではないか、いや、完全に同じ出来事が生起することなどありえないのだから、仮に繰り返しのように思われる出来事が起こったのだとしたらそれはあくまで「誤認」によって恣意的に過去の出来事が捏造されたにすぎない、いや、しかし「誤認」が発生するということは少なくとも過去の出来事と現在の出来事との間に何らかの類似点が存在するということではないか、いや、……。
 これは、まさに『The Ship』というアルバムが喚起しようとしていたことである。本ヴィデオでは「機械知能」による「誤認」を通して、たったいま人間がおこなっていることとかつて人間がおこなったこととの間に、強制的に回路が繋がれる。そのサンプルのひとつが、『The Ship』ではタイタニック号の沈没と第一次世界大戦であったわけだ。それに加え、一度として同じ画面が立ち上がることはなく、常に異なる映像が紡ぎ出されていくという趣向も、『The Ship』がかけがえのない「個性」の亡骸を拾い集めようとしていたことと呼応している。
 本ヴィデオ作品は、一度CDやヴァイナルという形に固定されてしまった『The Ship』を、再び偶然性や一回性の荒波のなかへと解放する作品なのである。

 さらにこのフィルムが興味深いのは、そのように「ジェネレイティヴ」な映像が、われわれを音楽へと立ち返らせる契機をも与えてくれる点だろう。次々と生成されてゆく映像に目を奪われていたわれわれは、しばらく時間が経った後に、ふとそこで音楽が鳴っていたことに気がつく。われわれが映像を見続け、「これは何の写真だろう?」、「これは最新のニュースとは何も関係がないのではないか?」などと思考している間、その背後ではずっと "The Ship" が鳴り続けていたのである。積極的に聴かれることを目的とせず、周囲の環境(この場合は、デスクトップの画面)への注意を促す──これは、まさにアンビエントの機能そのものではないか。

 このフィルムにはあまりにも多くのテーマが組み込まれている。テクノロジーの問題、アートの問題、音楽の問題、政治や社会、歴史の問題。このヴィデオ作品を通してわれわれは、それらの問題について「いま」という時間のなかで考えざるをえない。
 正直、『The Ship』という作品をここまで発展させてくるとは思っていなかった。イーノの探究は衰えるどころか、ますますその先端を尖らせている。今年われわれはボウイというスターを失ったが、まだわれわれはイーノという知性を失っていない。われわれはそのことに感謝しなればならない。(小林拓音)

BRIAN ENO

Dentsu Lab Tokyoとのコラボレーションが生んだ
「機械知能」が生成するミュージックビデオ
「The Ship - A Generative Film」を公開!
制作の裏側を紐解いたインタビュー記事も公開!

人類というのは慢心と偏執的な恐怖心(パラノイア)との間を行きつ戻りつするものらしい:我々の増加し続けるパワーから生じるうぬぼれと、我々は常に、そしてますます脅威にさらされているというパラノイアとは対照的だ。得意の絶頂にありながら、我々は再びそこから立ち戻らなければならないと悟らされるわけだ…自分たちに値する以上の、あるいは擁護しきれないほど多大な力を手にしていることは我々も承知しているし、だからこそ不安になってしまう。どこかの誰か、そして何かが我々の手からすべてを奪い去ろうとしている:裕福な人々の抱く恐怖とはそういうものだ。パラノイアは防御姿勢に繫がるものだし、そうやって我々はみんな、遂にはタコツボにおのおの立てこもりながら泥地越しにお互いと向き合い対抗し合うことになる。
- ブライアン・イーノ

アンビエントの巨匠、ブライアン・イーノが、最新アルバム『The Ship』のコンセプトでもあるこのステートメントを出発点に、テクノロジー起点の新しい表現開発に取り組む制作チーム「Dentsu Lab Tokyo」(電通ラボ東京)とともに、人工知能(AI)の可能性を追求する先鋭的なプロジェクトとして発足。最新楽曲「The Ship」に合わせて、映像が自動的かつリアルタイムに生成されるミュージックビデオを本プロジェクトの特設サイト上に公開された。

BRIAN ENO’S THE SHIP - A GENERATIVE FILM
https://theship.ai/

*特設サイトの視聴環境
携帯端末向けには最適化されておりませんので、ご覧いただくためには、下記パソコン環境でのブラウザーを推奨します。
Windows >>> Google Chrome(最新版)、Mozilla Firefox(最新版)
Macintosh >>> Safari 5.0以降、Google Chrome(最新版)、Mozilla Firefox(最新版)

トレーラー映像はこちら↓
https://www.youtube.com/watch?v=9yOFIStVuRI

本プロジェクトは、AIを「人間の知能」と対比し、その違いを際立たせるために「機械知能」(Machine Intelligence:MI)と名付け、機械が人間のようなクリエーティビティーを発揮できるかを模索するものとして発足。人類共有の外部記憶ともいえるインターネットから、20世紀以降のエポックメーキングな出来事を記憶として大量に学習させた機械知能を構築し、世界的な報道機関が運営するニュースサイトのトップニュースを見て、記憶と照らし合わせながら類似する事象を解釈し、どのような映像を生み出すのかを追求したプロジェクトである。

特設サイトにおいては、アクセスした瞬間に映像が生成されるため、来訪者ごとに視聴できるミュージックビデオが異なり、訪れる度に唯一無二の作品として、楽曲が持つ世界観とともに人々の感性を刺激し続ける。

またWIRED.jpにて制作の裏側を紐解いたインタビュー記事が公開中。
https://wired.jp/special/2016/the-ship/

The Shipについて
もともとは3Dレコーディング技術を使った実験から創案され、相互に連結したふたつのパートから成り立つブライアン・イーノ最新アルバム。美しい歌、ミニマリズム、フィジカルなエレクトロニクス、すべてを知り尽くした書き手が綴る物語、そして技術面での新機軸といった数々の要素を、イーノはひとつの映画的な組曲へと見事に纏め上げ、キャリア史上最もポリティカルな作品にして、過去の偉大な名盤たちのどれとも似つかない傑作である。ボーナストラック「Away」が追加収録される国内盤CDは、高音質SHM-CDを採用し、ブライアン・イーノによるアートプリント4枚が封入された特殊パッケージ仕様の初回生産限定コレクターズ・エディションと、紙ジャケット仕様の通常盤の2フォーマットとなり、いずれもブックレットと解説書が封入される。

Dentsu Lab Tokyoについて
新しいクリエーションとソリューションの場であると同時に、研究・企画・開発が一体となった“創りながら考えるチーム”でもあるDentsu Lab Tokyoは、2015年10月1日に始動。これまでの広告会社のアプローチとは全く違う、テクノロジー起点の新しい表現開発に取り組んでいる。
キーワードはオープンイノベーション。電通社内のみならず、社外の提携アーティストやテクノロジストとも協働しながら、広告領域にはとどまらない分野のクリエーションとソリューションを手掛ける。

https://www.beatink.com/Labels/Warp-Records/Brian-Eno/BRC-505/


作り手と受け手の関係性を宙づりにすること - ele-king

 フランスの哲学者ジャック・ランシエールと『関係性の美学』の著者としても知られるキュレーターのニコラ・ブリオーとの間に交わされた論争について、美学者・星野太によって明快に論点整理がなされた「ブリオー×ランシエール論争を読む」という論考がある。それによると、ブリオーが称揚するリレーショナル・アートをはじめとした社会的諸関係を無媒介的に産出することを「作品」として提示する近年の芸術は、どれも多かれ少なかれ「芸術の再政治化」を目論むものであるとして、ランシエールは次のように批判する。すなわち、「芸術と政治の関係はそもそも二項対立ではなく、両者は『感性的なものの分有』を再配置するための二つの形式」なのであって、「〈芸術=虚構〉と〈政治=現実〉という等号を安易に措定し、前者から後者へと移行することを訴えるような態度」は、政治的なものの手前にあって「われわれの生を構成する感性的な基盤」を見えなくさせてしまう。それは「革新的であるどころか極めて凡庸で退行的」な芸術である、と。

 それに対してブリオーは、ランシエールのリレーショナル・アートの理解の仕方がそもそも不適切であり、それらの作品の本質を社会的諸関係の無媒介的な創出という側面に還元して捉えていることに問題があるとして反論している。詳細は省くが、さしあたりここではランシエールの芸術と政治の関係性の捉え方――それにはブリオーも暗に共感を示している――に注目したい。芸術と政治は対立するものではなく、どちらも感性的なものに基づいた虚構の形式なのだという捉え方に。

 そのように考えるとき、今年のフジロック・フェスティバルにおいて学生団体SEALDsの主要メンバーが出演すると知らされた途端に、アレルギー反応のように噴出した「音楽に政治を持ち込むな」という批判の声が、あまりにも表面的で浅薄なものに過ぎないということがみえてくる。ランシエールが述べるように「芸術と政治は、互いに関係づけられるべきかどうかが問題となるような、永続的で分離された二つの現実ではない」のだ。むしろ「芸術と政治は、虚構がまとう二つの形式の姿であり、『現実的なもの』は、それら虚構の効果によって生み出されもすれば、同時に変容させられもする」のである。ここでの「芸術」という言葉の意味は「既存の『感性的なものの分有』に異議を申し立てるための『行為=制作』」として解されたいが、さらに踏み込んで考えてみるならば、いまや日本の音楽フェスティバルの代名詞ともなっているイベントに向けて「音楽(虚構)に政治(現実)を持ち込むな」という批判が飛び交ったという事実からは、音楽フェスティバルというもの一般に対して聴衆がいったい何を求めてそこに足を運ぼうとしているのかを透かし見てみることもできるだろう。

 それを手短にいうならば、作り手・作品・受け手の関係の強固な安定性を虚構のうちに求め、政治的なるものをあくまで現実として虚構の安定性を揺るがすものであるとしてその場からできる限り排除しようとする聴衆の欲望ということになる。再度ランシエールの考えを引くならば、「作者の意図、作品の形式、受容者の視線という『あらかじめ規定された諸関係』を『宙吊り』にすること」、つまり「既存の支配関係の『中性化』」によってこそ、芸術から感性的なものを基盤としたもうひとつの虚構(=政治的なるもの)の潜勢力を見出すことができるのにもかかわらず。ようするに聴衆はフェスにおける音楽体験にふだんの生活や日常的な思考が揺さぶられてしまうような経験を求めていないし、ましてやそこで自身がもつ政治的意見に変更が迫られることなどもってのほかなのである。たとえ「政治的な音楽家」が出演するのだとしても、それは政治(現実)に対立するものとしての音楽(虚構)としての範疇にとどまる体裁をなしていなければならない。それは休日を「安全に」過ごすためのレジャーでなければならないのだ。

 以上のようにして見出されたように聴衆が音楽フェスを単なるレジャーとしてしか考えていない限り、たとえフジロック・フェスティバルが本来的に政治的な主張を掲げたものであったとしても、そのことをもって「音楽に政治を持ち込むな」という批判を批判することは虚しい作業とならざるを得ない。むしろそのように二項対立的に(「フジロックはそもそも政治(=現実)を持ち込んだ音楽(=虚構)なのだ」)しか捉えていないがゆえにこそ、そこでは現実と虚構の対立関係が求められるしかなく、そして聴衆にとってのその関係性の振り子が虚構としての「音楽」の方位へと振り切れることで、主催する側が考える対立関係のバランスとの間に齟齬をきたしたのだとさえいえるのではないか。いずれにせよここでは音楽=政治=虚構の基盤となるべき「感性的なものの分有」の「再配置」が全く省みられなくなっていると言っていい。それは音楽フェスティバルを、ひいては音楽文化全体を根源的に貧しくすることにはならないか。

 そしてこのような情況を鑑みたうえでこそ、昨年十一月に六本木スーパー・デラックスで二日間にわたって開催されたフタリ・フェスティバルのような音楽祭が、少なからぬ関心を集め静かならぬ興奮とともに終えたことは評価されなければならない。わたしはこのフェスティバルを紹介するにあたって、そこで「特殊音楽」なる言葉を用いたわけだが、その意味をアルノルト・シェーンベルクの音楽から「生を労働と余暇に分ける二分法」に対する批判を嗅ぎ取ったテオドール・ヴィーゼングルント・アドルノが、さらにシェーンベルクの音楽が「音楽を社会のただ中における幼児的行動様式の自然保護区として徴発する画一主義に絶縁を宣告する」ものとして聴衆につきつけた次のような要求を見て取ったことを想起しつつ考えるとき、それはランシエールが述べる「芸術」の潜勢力へと限りなく近づいてゆくことだろう。

すなわち、同時的進行の多重性に対するもっとも鋭い注意、次に何が来るかいつもすでにわかっている聴き方というありきたりの補助物の断念、一回的な、特殊なものを捉える張りつめた知覚、そしてしばしばごく僅かの間に入れ換わるさまざまな性格と二度と繰り返されないそれらの歴史を正確につかむ能力などを、それは要求する。(……)この音楽は聴き手がその音楽の内的運動を自発的に共同構築することを求める。そして単なる観照ではなく、いわば実践を聴き手に期待する。(『プリズメン』渡辺祐邦・三原弟平訳、筑摩書房)

 「ありきたりの補助物」を「断念」し「特殊なものを捉える」ということ、そしてそのことを要請するような音楽行為に立ち会うということ。「特殊音楽」に接することは出来事の追認ではなく出来事が生成する場それ自体への関与であり、「現実的なもの」に変容をもたらす虚構の不安定性に向かう聴衆が、「内的運動を自発的に共同構築する」必要に迫られるような音楽の余白に身を晒すことである。「特殊音楽」はジャンルではない。むしろそこにおける音楽行為はあらゆる囲い込み運動から逸脱し多方向的に逃走していくのであって、そして名づけようもないなにものかを目指すということにおいてそれは出来事の一回性を獲得することへと方向づけられてもいるのである。「特殊音楽」とはそうした逸脱と逃走と獲得のプロセスのことに他ならない。それはもしかしたらどこまでも受け身で臨む聴衆にとっては耐え難いほどの退屈でしかないのかもしれないし、どこまでも「安全」であることを望む聴衆にとっては許し難いほどの「危険」に満ちた音楽であるのかもしれない。しかし裏を返すならば、作り手・作品・受け手の関係性の「宙吊り」に能動的に参与する限りにおいて、これほど魅力的で他に代えがたい音の愉しみもないのだといえるだろう。以下ではそうした「特殊音楽」を体現する行為の一端を、フタリ・フェスティバルに見られた幾つかの試みを辿り直しながら、より具体的な様相のもとに探っていく。


鈴木昭男×ジョン・ブッチャー

 二日間のフェスティバルに続けて出演した鈴木昭男は、いまだ「サウンド・アート」なる概念あるいはジャンルが確立する遥か以前から、音楽としても美術としても捉えきれない特異な試みを続けてきた稀有な存在である。彼が提唱する「点音(おとだて)」は、なかでもその表現に対する姿勢が色濃く反映された実践だ。野外において耳を澄ませるための特定の場所を探る試みであり、場に潜在する響きとの出会いに捧げられたある種の儀式的な行為ともいえる「点音」は、フェスティバルでみられた彼のライヴ・パフォーマンスとも繋げて考えることができるだろう。ライヴでは主に細い棒状のものを手にしながら、金属や木製の板、段ボールのようなものなどの物体を叩いたり擦ったりして微弱な音を出し続けるという演奏が行われていた。日常的によく目にする物体やよく耳にする響きでも、このような機会でもなければその音を音楽として聴いてみることはほとんどないだろう。だがこれを身近な物体に潜む響きの豊かさとして片付けてしまってはならない。むしろそれらすべてを逃さぬように聴き取る共演相手が、恐ろしいほどの速度で反応をし続けることの触発材料を、次々と投擲する行為としても捉えられるからだ。それは彼が「点音」で場に潜在する響きを探り出していったのと同様の試みを、対人間の実践として行っていくかのようだ。すなわち、共演者の音の在り方にじっと耳を傾けて、それを触知するやいなやあの手この手で手繰り寄せていくのである。

 より直接的に場に潜在する響きを探り出す試みは、「非楽器・非即興・非アンサンブル」を掲げるスティルライフの「演奏」から見て取ることができる。向かい合って座りながらのパフォーマンスを行った彼らの行為は、それをより正確に言うならば、演奏するというよりもその場で聴取の共同作業を行うことから、結果的に立ち上がる音の場を音楽として提示していくものである。手元に用意された音具は聴かれるべき音の図を描くのではなく、そうした音の場を整調する役割を果たしていく。そしてそれは会場の環境に大きく左右されることにもなる。フェスティバルの日もスーパー・デラックスに特有の響きを聴き取っていった彼らは、しかし「演奏」の半ばあたりで客席から音の場を切り裂くような大きな音が聴こえたことが、彼らの演奏=聴取に不可逆的な特異点を設けてしまうこととなった。場所によって出来上がる音楽が大きく変わってしまう彼らのようなグループにとって、フェスティバルというひとつの場所になかば無理やりに様々な音楽と観衆を並べてしまう空間は不得手とするものなのだろう。あるいは「聴取」を掲げることはその場でしか起きない特殊な響きを捉えることでもあるが、その反面どのような不意の事故的な響きが闖入してこようとも、それをあるがままに受け入れるしかないことの「危うさ」がみられたというべきか。しかしたとえ受け手が直接的には何も介入しなかったのだとしても、場所そのものが音楽の体験を種々様々に導くようなものもある。


杉本拓『Septet』

 異なる楽器を用いた七人の演奏家によって奏でられていく杉本拓の作曲作品『Septet』は、昨年三月にベルリンで初演され、日本ではフタリ・フェスティバルで行われた演奏が初めての試みとなった。クラリネットとフルートの二菅楽器を中心にしながら、奏者はそれぞれ音程のほとんど変わらないひとつの音を出し続けていく。演奏者が入れ替わり立ち替わりすることで、引き延ばされた響きは楽器ごとの微妙な相違をみせていき、さらにモジュレートする共鳴のし合いを聴かせてくれる。劇的な変化は訪れることなく、それがそのまま四十分近く続く。あるいはそのように持続することが、聴き手の耳を集中と散漫の両極に引き裂き、微細な音響の変化を劇的に彩っていくといったほうがいいだろうか。『Septet』はフェスティバルの一週間後に、ベルリンでの初演を収録したアルバムがリリースされているものの、それをフェスで行われたパフォーマンスが追体験できるものとして捉えることはできないだろう。長時間にわたって演奏される微弱な「ひとつの音」は聴かれるべき図を描くとともに、地となって聴き手の知覚を他の領域へと差し向けもするのだ。注意深く聴取し続けることが集中から散漫へと反転した瞬間、その演奏の場における風景や匂い、あるいは温度のような皮膚感覚的な肌触りなど、「音楽」の外にあったものがするりと聴き手の体験のなかに滑り込んでくる。『Septet』を聴くことは場を知覚することでもあり、ライヴと録音物では大きく異なる体験になるのである。

 同じように録音物との距離を見定めてみることから、場の特異性をどのように引き出していくのかが捉えられるものとして、The International Nothingの演奏を挙げることができる。結成十六年めを迎えたこのグループは、ミヒャエル・ティーケとカイ・ファガシンスキーのふたりから成り、あくまで作曲作品を通してクラリネットの可能性を探求する活動を行ってきた。意外にもこのユニットとしてはこれが初めての来日となる彼らは、フェスティバルの前年にリリースされた三枚目のアルバムに収録されている楽曲を、二曲目から最後まで計五曲演奏してくれた。とてもふたりだけで演奏しているとは思えないような響きの数々を伴いながら、ふたつのクラリネットが対位法的に絡み合っていき、あるいは持続音同士がモジュレーションを生み出していく。そこにみられる音程の変化は旋律を生み出すためのものではなく、むしろ響きのヴァリアントとして提示されてゆくものだ。どこか物憂げなメロディが聴こえてきたかと思えば、それはメロディとして完成される前に響きの中へと溶解していく。そうした展開の不気味なほどの美しさ。ここでアルバムと同じ楽曲を演奏することは同一性の再現にとどまらず、眺める角度によってイメージを変えていく立体彫刻のように、音響の襞をどの角度から切り取るのかということが、むしろ彼らの演奏が行われる場所とそれを聴取するわたしたちの位置の特異性を引き立たせてくれるのである。


ユタカワサキ×ju sei×大蔵雅彦×ミヒャエル・ティーケ

 楽曲の演奏でありながらも、まったく異質なパフォーマンスをみせてくれたのがju seiである。あくまで「うた」を中心に活動を行うこのデュオ・グループは、これまでにも楽曲の構造を闊達自在に変化させていくことで、ライヴごとにまったく異なる演奏を見せてきた。今回のフェスティバルでもju seiの楽曲が演奏されていたものの、それは共演者たちが参加すべきただひとつの枠組みとしてではなく、音楽の場を更地から共有しようとする田中淳一郎とseiにとって、端的にそれがそこで可能な行為としてあったのだということなのだろう。彼ら/彼女らとともにアルバムを制作してもいるユタカワサキのアナログ・シンセサイザーは、まるでソロ・パフォーマンスを行っているかのごとく淡々と、だがしかし確実に合奏に影響を及ぼすかたちで奏されていく。同様に、大蔵雅彦とミヒャエル・ティーケによる二つの管楽器も、抑制されたフレーズを淡々と響かせながら、共演者の「次の一手」になんらかの作用を与える。それらはju seiの「うた」を装飾するのではなく、より深部にある楽曲の構造的な領域において伸縮作用をもたらしていくといえばいいだろうか。そこでの楽曲は演奏の同一性を担保するものではなく、むしろ非同一的な差異の産出を促す契機としてあるのだ。

 楽曲よりも強固に「同じもの」を再現することができる複製技術を取り上げたパフォーマンスも、フタリ・フェスティバルでは行われていた。スティーヴン・コーンフォードによる映像作品『Digital Audio Film』がそれである。中心で線香花火のような赤く丸いレーザー光が非常な速度感を伴って明滅する映像が壁面に投射され、しばらくすると両脇にカメラのような外観をしたモノクロの具象物が現れはじめる。よくよく目を凝らして見ると、それはカメラではなくCDプレイヤーのピックアップ・レンズのようだ。世界をどこまでも物質的に捉えて記録するカメラのレンズに対して、ピックアップのそれはむしろ記録された信号を読み取るための解釈装置としてある。レーザー光とレンズの対比からは、CDという音響メディアに潜む「読む行為」と「読む主体」との関係性が浮かび上がってくる。さらに映像の作者であるコーンフォード自身に加え、パトリック・ファーマーと河野円による会場の空間を自在に飛び交うサウンド・プロダクションが、CDプレイヤーそのものを用いた響きであるということを考え合わせれば、ここでのパフォーマンス全体が音響メディアの潜在性の顕在化へと向けられていたのだといえるだろう。それはいつ・どこでも「同じもの」を再現することができるはずのCDプレイヤーが、音響を再生産するためにはそのつど「読むこと」という一回的なプロセスを通過しなければならないという視覚イメージのなかで、さらにその技術それ自体から滲み出る非再現的な響きを明らかにしてくれるのである。


パトリック・ファーマー『Border』

 視覚に訴えかけるような試みは、要注目のイギリスの新しい世代の音楽家のひとり、パトリック・ファーマーの作曲作品『Border』から見て取ることもできる。石川高、田中悠美子、ロードリ・デイヴィス、村山政二朗の四人によって披露されたこの作品は、『家族ゲーム』式に並列になった彼ら/彼女らが、ファーマーのコンダクションを受けながら演奏を進めていくという内容で、それぞれの演奏者のふだんのライヴではなかなか見られないようなパフォーマンスも見受けられた。手元の物体を擦り続ける石川、三味線の調整を行う田中、エレクトリック・ハープに乾燥パスタのようなものを散らすデイヴィス(彼はこういったパフォーマンスを以前にも行っている)、うがいする村山……「慣れ親しんだ動作を」といった指示が書かれていたのかどうかは定かではないが、四者四様の行為がステージに奇っ怪なイメージを作り上げていく。極めつけは煎餅菓子を食べ始めた田中悠美子が、そのまま立ち上がって自身のスマートフォンで共演者の写真を取り始めた場面だろうか。固唾を呑んで耳を澄ませているだけでは見えてこない音楽世界が、あくまで音を介した不確定的なアクションを伴いながら演劇的に試みられた作品だった。さらに視覚に訴えかけるものとして、見たこともないような自作楽器の使用を複数の出演者が試みていたことも興味深い。


川口貴大×徳永将豪×ユエン・チーワイ

 自作楽器を用いることそれ自体はなにも今に始まったことではなく、むしろあらゆる楽器は原初的には自作でしかあり得ないとさえ言えることだろう。それは音具としての身体の拡張であり、人間が様々な音色を獲得していく過程でもある。しかしフタリ・フェスティバルで見られた自作楽器の使用は、単に響きの新奇さを獲得するためというよりも、既成の楽器を用いる際にまとわりつく演奏行為――それは音を予測させる「補助物」ともいえる――から、どのように自由でありながら音を介した表現をなし得るか、ということに焦点が当てられていたように思われる。スティーヴン・コーンフォードと大城真はライヴ会場を散策しながら手のひらサイズの自作楽器をそこかしこに設置していき、得体の知れぬ生き物のように楽器たちが騒めき「合奏」する特異な空間を現出する。ベテラン・サックス奏者としても知られる広瀬淳二は、なんとも手作り感満載な自作楽器から、まるで菜園にホースで水を遣るかのような気楽な仕草をみせながら、しかし強烈な電子的ノイズを響き渡らせていく。見た目のインパクトが最も印象深かったのは川口貴大のサウンド・オブジェクトだ。ステージ中央でムクムクと盛り上がる剥き出しの臓器のようなビニール袋、妖しく光る投げ置かれたスマートフォン、耳を劈く破裂音を発する幾つものラッパ群。それらは拡張された身体というよりも、複数の別の身体が無目的的にごろりと横たわっているかのようであり、もはや楽器と呼ぶことがあまり意味をなさないほどに異様な物体となっている。

 既成の楽器は他方では、音楽の成立を条件づける楽音を、洗練された予期し得る響きとして生成する役目も果たしてきた。制御不能なノイズを音楽の素材として用いることは、まずはこうしたイデオロギーに対する否定性の提示であり、さらには音楽が成立する条件をより柔軟にしていくための方途でもある。だが人間によって制御しきれない響きを素材として扱うには、制御不能な音の外側でサウンドをコントロールしていく必要が出てくるだろう。グラインド・コアにも似た轟音を聴かせるNAKASANYEの三人は、制御不能なノイズのコントロールをアンサンブルの編み目のなかに聴かせてくれる。あくまでアコースティックな響きを用いるヨエル・グリップのベースとアントナン・ジェルバルのドラムスが、ひたすら機械的な反復フレーズを出し続けることによって、同じように反復する吉川大地の機械でしかないフィードバック・ノイズに生きた揺らぎをもたらしていくのである。二日間のフェスティバルを通してもっとも大きな爆発的ノイズの海を聴かせてくれたのは、中村としまると秋山徹次、それにリュウ・ハンキルの三人によるセッションだった。だがそれは音圧レベルにおいて単に大きかったというだけではない。演奏の始まりにリラックスしたムードを漂わせていただけに、その振幅の深さが音の大きさというものをより強調していくような、サウンドの流れを巧みに構築していく手腕がみられたのである。それは制御不能な音をその外側からコントロールしていく一方で、どこまでも音のコントロールを手放すことなく予期し得ぬ響きへと賭けられた即興演奏でもあるのだといえるだろう。


ロードリ・デイヴィス×ジョン・ブッチャー

 即興演奏がその原理に従って非同一性の極北へと突き進むことが、必ずしも意想外であることの獲得を結論しないということの隘路から、そうした原理を抽出し、即興演奏であることに拘ることなく探求を推し進める試みを眺めてみることが、「特殊音楽」という言葉を持ち出した発端なのであった。だから「純粋な」即興音楽はその原理に最も近しいようでありながら、同時に解消し難い矛盾を孕んだ試みでもある。今回のフタリ・フェスティバルではどの出演者も他者との共同作業を行うことがパフォーマンスの起点になっていたが、それを即興演奏に当て嵌めてみるならば、編成の妙味によってそうした矛盾を切り抜けようとしていたのだと捉えることもできるだろう。

 島田英明を取り囲むようにして両脇でヤン・ジュンと康勝栄が演奏するという配置は、それぞれ独自のセッティングが施されたヤンと康によるノイジーなエレクトロニクス演奏を縦横無尽に駆け巡る、島田の電子変調されたヴァイオリンを用いた個性的なサウンドを際立たせ、弓で弦を様々なニュアンスで叩いたり擦ったりすることの自在さを聴かせてくれる。広瀬淳二のホワイト・ノイズが合奏の下地をなしていくところでは、カイ・ファガシンスキーの抑制されたクラリネット演奏がクラシカルかつモノクロームな響きを重ね、他方で生粋の即興演奏家・高岡大祐が様々な特殊奏法を駆使して彩り豊かな響きをチューバから紡ぎ出してゆくといったふうにして、対比的なサウンド・イメージが醸成されていた。あるいは川口貴大の鳴動する物体を音の風景に、それを縫って進むようにしてアルト・サックスの徳永将豪が音響的な即興演奏を試み、ユエン・チーワイはときおり何かを咥えながらのエレクトロニクス操作を試みていくというセッションからは、別の対比が浮かび上がってくる。会場全体を埋め尽くすような響きを轟かせていた川口のサウンド・オブジェクトがふと静まり返る瞬間に、生音と電子音という異質なふたりの演奏が前面に躍り出てくる面白さを聴かせてくれるのだ。

 こうした側面から見るならば、ジョン・ブッチャーとロードリ・デイヴィスによるデュオという、これまでに幾度となく共演してきている組み合わせは、編成の面白味を欠いているように映るかもしれない。だが別の角度から眺めてみると、この編成でなければなし得ない演奏の面白さが見えてくる。デュオ・ライヴにおいてエレクトリック・ハープに徹していたデイヴィスは、テーブルに寝かせたこの楽器から、複数の道具を駆使してサウンドの地となるような響きを生成していく。そこに降り立ったブッチャーは、独自に習得/開発してきたあらゆる特殊奏法や、さらにはマイクを用いたフィードバックをも駆使してサックスを自在に操っていく。共演を重ねることで徐々に形成されてきただろうこのようなサウンドの役割分担が、こうも見事に演奏されている様を目にすると、出会うべくして出会った最良の関係性がそこにあるかのようにも思えてくる。そこで賭けられているものは異質な個と個が出会うことの驚きだけでなく、ソロ・インプロヴィゼーションが自らの音楽語法を開拓するプロセスであるように、彼らの関係性それ自体を基盤とした語法の開拓へと向けられてもいるのだ。その語法は物質として捉え返された楽器の潜在性を、演奏のたびごとに異なる音楽として顕在化することになるだろう。


Far East Network

 即興演奏であっても、また別の見方ができるものもある。最後に紹介しておきたいのは、国籍がバラバラの東アジアの即興音楽家たちによる、継続的なグループ活動として突出した存在であるFENのパフォーマンスだ。フェスティバルでは大友良英が彼に特有のギター・フィードバック・ノイズを出し、徐々に音量を増大させていくというところがサウンドの底流をなしながら、リュウ・ハンキルとヤン・ジュン、それにユエン・チーワイがそれぞれ応答していき、爆音状態へと突入していく演奏を聴かせてくれた。アンサンブルズ・アジアのひとつの雛形ともいうべきFENを、単に「大友良英のバンド」として見ることは正しくないが、それでも結成のきっかけとなった彼が、この日のライヴのように、グループが演奏する音楽の流れにとりわけ重要な役割を果たしてきたことは否定できない。それはしかし国籍のみならず演奏方法も様々な四人をひとつにまとめあげる方途というよりも、そうした多様性をそのままに共に音楽を奏でることの可能性の契機として模索されたものなのだろう。四人が等しく共有するのはひとつの楽曲でもひとりのメンバーが主導する音でもなく、そこに流れる物理的時間ただそれだけしかないのであって、ここで即興演奏は音の場のみならず生きる場所をも分かち持つための、一回的な音楽的時間を紡ぎ出す手段としてあるのだ。演奏の強度もさることながら、そうした可能性を投げかけることが音楽の未来へと繋がるようなFENの実践は、露骨な政治性を掲げてアジアをひとつにまとめあげようとすることよりも、より根源的な共同の在り方を指し示してくれるのである。

 ここに取り上げてきた実践はフェスティバルのほんの一断面に過ぎないが、少なくともそこにおいて見られたのは作り手・作品・受け手の関係性が強固に規定され、それをただひたすら「安全に」受け入れるという出来事の追認ではなかった。「次に何が起こるかを正確に知っていることほどつまらなく、退屈なことはない」とはベン・ワトソンによるデレク・ベイリーの評伝の邦訳で強調されていた一節だが、まさに聴衆の一人ひとりが出演者の音楽行為に能動的に参与することによって、それぞれに異なる体験の愉しみを発見していくようなその関係性の流動的な在り方があったのだ。そこで聴衆が身を晒したのは「既存の『感性的なものの分有』に異議を申し立てるための『行為=制作』」であり、「『あらかじめ規定された諸関係』を『宙吊り』」にする音楽行為の数々にほかならない。それは一見すると政治と無関係に思えるかもしれないが、まさに政治的なるものの手前にある感性的な基盤に揺さぶりをかけるという意味において、どんな政治的音楽よりも「政治的」たり得ていたと言っていい。もちろん、どこまでも「安全な」フェスティバルというものがあり、それに余暇を費やすことそのものは別に否定されるべきことでもなんでもないだろう。そうではなく、あらゆる音楽フェスティバルがそこにのみ集約されてしまうことの貧しさに対する批判として、フタリ・フェスティバルがここでは称揚されているのである。現場報告を兼ねながら述べてきた実践の数々は、だから知覚するわたしたちがどのような「宙吊り」現象と立ち会うことになったのかについてのひとつの記録であり、さらにはレジャー化することで忘れ去られつつある音楽フェスティバルの潜勢力をいま一度思い起こすための糸口として提出するものでもある。

TOYOMU - ele-king

 驚きはいつも突然やってくる。カニエ・ウエストの新作が出たばかりの頃、おそらく世界の多くの人間がgoogleにそのスペルを入力し、検索エンジンをかけたのだろう。すると、そこには、ほとんど無名の日本人青年がでっち上げた『The Life of Pablo』が出たのだった。あるいは誰かがそれを発見して、ツイッターで瞬く間に広がったのかもしれない。
 『印象III : なんとなく、パブロ (Imagining "The Life of Pablo")』と題されたそれについて「悪ふざけの極みだった」とTOYOMUは述懐しているが、しかしその作品自体が(ジョークを含めて)魅力的作品だったことは、翌日即アップされた海外メディア(FACT、ピッチフォーク、BBCほか)の反応からも伺える。TOYOMUは、たったひとりでインターネットとサンプリングを利用するという最高にヒップなやり方で、一夜にして世界の耳を自分の音楽に傾けさせたのだった。
 こんな知能犯を放っておく手はない。〈サブ・ポップ〉や〈ミュート〉のライセンスで知られる〈トラフィック〉が、TOYOMUと契約を交わし、いよいよデビューEPをリリースすることになった。タイトルは『ZEKKEI』(絶景)。
 TOYOMUはトーフビーツと同じ世代で、彼と同じようにヒップホップを聴いてトラックメイキングをはじめている。つまり、彼のバックボーンはヒップホップなのだが、TOYOMUの音楽からはレイ・ハラカミ的な叙情性やコーネリアス的な遊び心とファンタジーが聴こえる。あるいはまた、彼の音楽は、OPN、ARCA、あるいはアッシュ・クーシャやハクサン・クロークともリンクしている(そう、いまの時代の響きを有しているってこと)。

 『ZEKKEI』は11月23日にリリース。この大いなる一歩、心地よく、喜びをもたらす作品集を逃すな!


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