アメリカ映画を観ているとメジャー/インディ問わずしょっちゅうザ・ナショナルが流れている。なかでもギャビン・オコナーの『ウォーリアー』では劇中のいちばんいいところで主題歌的に使われているのだが、総合格闘技のガチンコバトルを描いたその映画でトム・ハーディは恐ろしく盛り上がった肩の筋肉を持ちながら、同時に捨てられた子犬のような目を見せてくれる。あの弱さを隠そうともしない目を持っているからこそ、彼はいまのアメリカにおけるアクション映画の主役を張れるのだろう。映画側からすれば「男と男が拳で分かり合う」マッチョな物語にある種の叙情性と知性を与えたかったからだろうけれど、逆側から見れば、そうした古めかしいタフな男の色気みたいなものをアメリカのロック・リスナーはいまマット・バーニンガーのバリトン・ヴォイスに見出しているということである。ゼロ年代後半にザ・ナショナルが浮上したのは当時のアメリカの斜陽とマットが歌詞に綴った疲労感が重なったからだが、ザ・ナショナルの功績はそれをハードボイルドな官能として表現したことである。『ラブ&ピース』、『日々ロック』、『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』辺りを観ると日本ではいまもロック音楽は童貞性との親和性を誇っているようだが、どうもアメリカではくたびれた中年のペーソスのほうが合いそうだ。どちらがいい悪いの話ではなくて、求められているものが違うということなのだと思う。
エル・ヴァイはマット・バーニンガーと元メノメナ/ラモナ・フォールズのブレント・ノップフとのふたりユニットだが、言ってしまえばマットの声と言葉が持つ疲れた男のセクシーさを増幅させるための音楽である。ブラック・ミュージックを意識したゆるいファンクやソウルをロックにブレンドしたサウンドにはザ・ナショナルのような緻密さや重厚さの代わりに脱力感と音の隙間があるため、描かれる悲哀や孤独、閉塞感や厭世感といったモチーフにどこか諦念にも似たリラックス感が漂っている。卑猥な言葉を散りばめる“アイム・ザ・マン・トゥ・ビー”ではどうしようもないエロ中年を演じながら退廃的なファンクで腰を前後させるし、パブ・ロック調の“ニード・ア・フレンド”では錯乱そのものを妖艶な魅力に置き換えている。セルジュ・ゲンズブールのいくつかの作品やブライアン・フェリーを想起させつつ、音楽性以上に彼らが纏っていたイメージを衣装としてここでマットは羽織っているわけだ。セルフ・パロディだとする評もわからなくはないが、それにしても知的で気が効いている。「ハスカー・ドゥやザ・スミスが聞こえていた」時代を思い出す“ポール・イズ・アライヴ”において、オルガンをバックにしつつ低い音域をかすれ気味で歌うマットのヴォーカルの魅力が存分に発揮されているのは、年を取ることへの無条件降伏のように聞こえる。それが諦念なのかある種の肯定なのかは、実感として僕にはまだわからないが……。
ザ・ナショナルを聴きながらマットの低い声とそれが紡いでいく退廃的な情景に惹かれていると、結局それは自分の趣味以上のものではないのではないかと思えてくることが僕にはある。中年の哀愁なんてものが恐ろしく受けないこの国にいるとなおさらだ。が、若くはないこと自体を上質な生地のガウンに仕立てようとするエル・ヴァイを聴いていると、それは老いていくロック音楽を味わうための叡智のようにも感じられてくる。迸るリビドーや青さをとっくに失ってしまった地点での悪あがきに、どうにも身体を揺さぶられてしまう。
「Nothingã€ã¨ä¸€è‡´ã™ã‚‹ã‚‚ã®
遠くから眺めると光ばかりの美しい夜の都市は、寄ればそれがさまざまな要素の過密な集合であることを露呈する。同じように、大雑把な環境で聴けば抒情的なエレクトロニカだと思われるagraphの音楽は、微視的に検分すれば、音響的な配慮をきわめてコンセプチュアルに凝らされた、細密な情報の塊であることが見えてくる。
寄っても寄っても細部がある。それは世界の構造を模写するようでもあり、あるいは音のオープンワールドともたとえられるかもしれない。その意味で、agraphは彼自身がそう述べるように「表現者」ではない。つくる人、だ。
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だから、彼が彼自身を「作曲家」と呼ぶのはとてもしっくりくるように思う。エゴを発信するのではなく、世界の構造をつくることを自らの仕事だとする認識。さらには、これはagraphの憧れと矜持とをともに表す肩書きでもあるだろう。作曲家とは、スティーヴ・ライヒなりリュック・フェラーリなり、彼が思いを寄せる先人たちに付せられた呼び方でもあるから。
しかし、そうした偉大な名前や以下語られる愛すべき小難しさにもかかわらず、agraphの音楽は本当に開かれていてポピュラリティがある。この『the shader』は、たとえばフィリップ・グラスの『フォトグラファー』が多くのひとに聴かれたというように、ジャンル意識や予備知識にわずらわされない地点で、ミニマル・ミュージックを更新する。
ポップなものが偉いと言うわけではない。しかし、たとえば“inversion/91”が、そうした彼の中の両極端な嗜好や音楽性をとても高い水準で結びあわせていることに感動せざるをえない。わかりやすいのではなく、普遍性がある。自由でありながら、聴かれるということを考えぬいている。自分の神に正直でありながら、ひとが見えている。「ミュ~コミ+プラス」とインディ・ミュージック誌とにまたがって新譜を語る。そんな若いひと、じっさい他にいるだろうか。
オーディオセットの前で腕組みをして聴けばそれに応えてくれ、雑踏や車中に聴けば、何気なく置かれたバケツさえ、本作の持つ「構造」の上に配置されたものであるかのように感じられる。これを書き終えたら田舎の母親に商品リンクをメールしてあげようと思っている。彼女はきっと「なんやわからんけど、いいわ~」と言ってくれるにちがいない。「なんやわからんけど」が時代を進め、「いいわ~」が時代をなぐさめるだろう。それはオーヴァーグラウンドでもアンダーグラウンドでも変わらない。筆者にとっても本作は2016年のベストだ。
agraph / アグラフ
牛尾憲輔によるソロ・ユニット。2003年、石野卓球との出会いから、電気グルーヴ、石野卓球、DISCO TWINS(DJ TASAKA+KAGAMI)などの制作、ライブでのサポートでキャリアを積む。ソロアーティストとして、2007年に石野卓球のレーベル〈PLATIK〉よりリリースしたコンビレーション・アルバム『GATHERING TRAXX VOL.1』にkensuke ushio名義で参加。
2008年にソロユニット「agraph」としてデビュー・アルバム『a day, phases』をリリース。WIREのサードエリアステージに07年から10年まで4年連続でライヴ出演を果たした他、2010年10月にはアンダーワールドのフロントアクトを務めた。2010年にはセカンド・アルバム『equal』をリリース。2016年2月、サード・アルバム『the shader』が発表される。
■agraphさんのインタヴューってけっこうたくさんネットで読めるんです。なので、基本的なバイオの部分をざっとまとめさせてくださいね。
まず、石野卓球さんにご自身のデモ──イタロ・ディスコを聴いてもらうところからはじまるんですよね。そこでかなり辛い反応をもらって、もっと自分に素直に音をつくらなければと反省・奮起なさる。そしていまの音楽性というか、agraphの始点ともなる“Colours”(コンピ盤『GATHERING TRAXX VOL.1』にkensuke ushio名義で収録)が生まれる。
agraph:はい。
■そして、その「素直」につくった音楽がやがてファースト『a day, phases』(2008年)になり、そこからダンス要素なんかも引いていって、さらに正直に自分の音を追求していく先に、セカンド『equal』(2010年)が形を結んでいく、と。
agraph:はい。
■その追求の過程にはレイ・ハラカミさんであったり、カールステン・ニコライだったり、あるいはエイフェックス・ツインであったり、そういったアーティストへの素朴な憧憬も溶け込んでいるでしょうし、ジョン・ケージからスティーヴ・ライヒ、あるいはマルセル・デュシャンといった人たちの思考なり実験なりの跡が、まさに「graph」として示されている……。
agraph:いやあ、「はい」しか言えないですね。
■すみません、強引に物語みたいにしちゃって。そこまではいろんな記事に共通する部分なんですよね。なので、「はい」と言っていただければひとまず次に進めます(笑)。
agraph:はい。すべて私がやりました(笑)。
僕がこれまで影響を受けてきた要素を俯瞰的に配置することが、今回の作品をつくっていておもしろかったことです。
■ありがとうございます(笑)。では今作はというところですが、すごく部分的な印象かもしれないですけど、冒頭の“reference frame”の声のパートだったり、ラストの“inversion/91”のマレットを使う感じとかライヒっぽいんですけど──
agraph:ああ、マレットを使おうとすると、どうしてもああいうフレーズが出てきてしまうというか。ライヒの印象が骨身に沁みているんですよね。他の曲でも使っている「フェイジング」っていう技法なんかもそうで。
■なるほど、でも今回念頭にあったのはリュック・フェラーリなんだそうですね。
agraph:リュック・フェラーリのほうが大きいですね。ケージであったりライヒであったり、僕がこれまで影響を受けてきた要素を俯瞰的に配置することが、今回の作品をつくっていておもしろかったことです。その配置の仕方とか俯瞰的に見るという行為自体がフェラーリの影響ということになるかもしれない。
■“プレスク・リヤン”だと。
agraph:そうですね。ひとつひとつのメロディとか、あるいは細かいアレンジを追っていくと、それぞれライヒだったりいろいろな影響があると思うんですけど、それはもう一要素に過ぎないというか。
■たしかに、そういう部分もあるというだけですよね。なるほど、ご自身の影響源を意識的に編集してるわけですね。
agraph:そうですね。それからサーストン・ムーアがやった“4分33秒”。あれは音が鳴っている“4分33秒”なんですね。演奏を4分33秒分切り取っているというだけ。つまり、4分33秒っていう枠の中で何かが起きていればいいっていうところまで音楽を俯瞰的に見ているんですよ。そういうことにすごく共感したということもあります。ミュージック・コンクレートみたいなものって、とても現代音楽的なアプローチなんだけど、その構造自体がおもしろいというか。3曲め(“greyscale”)なんて、ラジオ・エディットをつくったりするようなキャッチーなフレーズの出てくる曲ではあるんだけど、それもじつは、そんなフレーズなりメロディがあって、後ろには不穏なテクスチャーが鳴っていて……というパースペクティヴがおもしろいのであって。
そうやって構造をつくると、世界観が立ち上がると思うんですね。……世界観というか、雰囲気というくらいの曖昧なものですけれども、そのかたちをつくりたかったんです。
■なんというか、前作の『equal』について、「イコール」っていうのはバランスなんだというようなことをおっしゃっていましたよね。世界を構成している情報量はものすごいわけだから、人間にはその全部は処理しきれないと。全部受け取ったらパンクしちゃう。でも、どうやったらパンクしないで適度に世界を感知できるのかっていう、その適度さを探るための調節弁がイコールなんだ──強引にまとめると、そういうようなことを説明されていたと思います。
agraph:そうですね。
■で、そうやって世界の情報量を適度に調節することが『equal』の取り組みだったとすれば、いまのお話をうかがう限り、今作はその構造自体を……
agraph:うん、構造自体を把握すること。『equal』について思っていたことはその通りなんだけど、いま言われたような言葉で考えたことがなかったので、なるほどなあって感じですね。今回のアルバムはすごく長い時間をかけた結果、ものすごく細かいことをやれていて、『equal』に比べてずっと情報量も多いと思うんです。メロディを追いきれないし、リズムのパターンに乗りきれないし、コードのプログレッションを把握しきれないと思う。で、そこまで突き放すと、音楽を俯瞰的に見れるんですよね。主観的に歌おうとか踊ろうとか思わないから。そして、そんなふうに前のめりに聴けなくなったときに、構造が見えてくる。そこに世界観が立ち昇る。……と、思うんですよね。今回の制作にあたっては、本当によくリュック・フェラーリを聴いていた時期があったんです。そのときは、意識があるんだかないんだか、寝てるんだか起きてるんだかが曖昧で、ぼやっと視界を把握していたような、すごく説明しづらいリリカルな状況が生まれてきたりしましたね。

inversion/91”……あの曲ができたときに、このアルバムのことがわかった。
agraph:それからもう一点。“inversion/91”っていう曲は、アントニー・ゴームリーっていう彫刻家のつくった「インマーション(IMMERSION)」っていう作品をオマージュしてるんです。日本語では「浸礼」ってタイトルで呼ばれてたりします。コンクリートの塊なんですけど、中に人型の空洞があるんですよ。それで、「浸礼」っていうのはキリスト教の儀式のひとつなので宗教的な意味がある作品なんだとは思うんですが、僕がその作品を見たときに感じたのはもっとちがうことなんですね。その……彫刻って、彫り上げたり作り上げたりするものじゃないですか。たとえば人型であるならば木から削り出したり粘土で練り上げたりする。でもこの作品は、空間をコンクリートで埋めることで空間を削りとる作品なんだなと思ったんですよ。ということは、これは彫り上げ作り上げるという意味での彫刻の概念に、マイナス1を掛けたものだなって。反転してるんですよね。
■あ、「反転(inversion)」ってそういうことですか! うまい。
agraph:そうです。でも同時に、これは彫刻の概念そのものだとも思った。彫刻って何? と問われたときの答え。辞書にこのまま載っていいものだって感じたんです。背理法で考えると、これの反対が彫刻になるっていうことだから。
■なるほど、それで「マイナス1を掛ける」っておっしゃったわけですか。
agarph:そう、絶対値は一緒なんだけど反対側に行っている。だから、逆に、向こうに彫り上げているものが鮮明に見える──というのはただの僕の解釈なので、そんなこと作者はもとより、誰も思ってはいないかもしれないですけども。
で、今回は、音楽に含まれる構造を意識させるっていうことに、最後の曲で行きつけたので、そういうアルバムなのかなと思いました。
■おお、ラストの曲で「反転」ってタイトルを見ちゃうと、つい短絡的に「これまでやってきたことをひっくり返す」みたいな意味かなって想像するんですけど、ひっくり返すんじゃなくて反対側に出っ張るみたいなニュアンスなんですね。
agraph:そう、反対側に出ることで、いままでやってきたことがよく見えるってことです。なんか、狙ったというよりは行きついたという感じで。アルバムのタイトル『the shader』のベースには文学的なコンセプトがあるんですけど、それは同心円状に影響が広がっていくというようなものなんですね。で、その円のエッジの部分に“inversion/91”があったんです。そこまで行きついた……だからあの曲ができたときに、このアルバムのことがわかった。
僕は「表現する」っていう言葉がすごく嫌いで。インタヴューとかで思わず「表現する」って言っちゃって、「つくる」って言い直すんですけど(笑)。
■「同心円状に広がる」というのは、さっきおっしゃっていた、(世界の)構造部分を築くことによって上に表れてくる影響、みたいなことですか。
agraph:そうです。構造っていうのは、いちばんマスな話なのでもちろん大事なんですが、『the shader』っていうタイトルについて、いちばん最初にその言葉の器に入れる水としてあったものは、もうちょっと感覚的なんです。散歩しているときのことだったんですが、ちょうど陽が昇ってきて、そのとき、木についてる葉っぱの、葉脈が透けて見えたんですよ。で、葉が光を隠すことによって、光がそこにあることを理解できるなって思った。「影なすもの」によって光は感知される。それで「影なすもの=the shader」というタイトルにしたんです。同心円状に広がっていく上に、影を成すなにかがあって、それによって構造がわかるという、そういうコンセプトで。まあ、それは文学的な意味においてのことなので、わざわざ言うものでもないんですけど。
■なんか、コウモリって目が見えなくて、超音波をぶつけて、その反響というか跳ね返りでモノがそこにあることを感知するっていいますけれども、agraphさんが物事を理解するやり方自体が、ちょっとそういう独特の傾向をもっておられるみたいに感じますね。今作のコンセプト云々にかかわらず。
agraph:単純に、僕には物理趣味があって。詳しくはないんですけど、そういう本を読むのが好きなんです。統一場理論とか相対性理論とか。そうした世界のありかたみたいなものを読んでいると、ちょっと神秘主義すぎるかもしれないけれど、翻って音楽の場合はどうなのかなって、観測者の立場みたいなものに立って考えてしまう。そうすると、いまソナーに喩えてくださいましたけど、自分は少し引いて、俯瞰したところから物事をつくっていきたいんだろうなって思います。
■agraphさんの音楽は、表面的な音の上ではベッドルーム・ポップに近接するものとして考えることができると思うんですけど、でもベッドルームって、ある意味では自意識の延長みたいな場所じゃないですか。あるいはロックのような音楽も自分の内側からじかにつかみにいくものだったりしますよね。agraphさんはそういうエゴというか、直接的に世界をつかみにいくみたいなことはぜんぜんないわけですか。
agraph:僕は「表現する」っていう言葉がすごく嫌いで。それ、あんまりよくわかんないんですよ。なぜ嫌いかっていうこともよくわかんないんですけど。だから、よくインタヴューとかでも思わず「表現する」って言っちゃって、「つくる」って言い直すんですけど(笑)。
■ああ、なるほど!
agraph:自意識みたいなものを自分で言ったり、「俺はこうなんだ」っていう意識をすることがすごくイヤで。それは思い返せば自分のアート趣味に根ざしていると思うんですけどね。個人的にはまずデュシャンがあって、ジョセフ・コスースがあって、90年代のターナー賞作家たちがある。つまり僕はネオ・コンセプチュアリズムのアーティストが好きなんです。たとえば日本なら2011年以降に顕著だと思うんだけど、リレーション・アートみたいなものが主流にあるじゃないですか。アートにはサジェストがあるべきものだし、90年代以降は、そのサジェストの方向が人間だったり社会だったりに行くものが多く目について。僕、そういうものにまったく興味がないんですよ。コスースとかって、ひとつひとつの物体に対して、その先にあるアイコンを目指していくっていうか、イデアを目指していくじゃないですか。そういうふうに概念自体を語り上げることに興味がある。人間には惹かれないんです。
■ははは! たしかに「表現する」っていうと木から像を彫り上げていくみたいな方向のニュアンスですよね。

サンプリングとコンクレートって、誤用があるんですけど、まったくちがうものなんですよね。絵画と写真くらいちがう。
■ところで、agraphさんはあまりサンプリング・ミュージックというか、ヒップホップ的な方法にはならないですよね? “プレスク・リヤン”というお話も出ましたが、テープ・ミュージックのようなものがイメージされていて。
agraph:意識しているわけじゃないんですが、そんなにサンプリングはやらないんですよ。サンプリングっていう手法を取りはじめたこと自体が最近で。
■前作の中の“a ray”とかはビル・エヴァンスをサンプリングされてますけども、なんというか、ヒップホップのサンプリングとはちょっと発想がちがうような感じがするというか。
agraph:サンプリングとコンクレートって、誤用があるんですけど、まったくちがうものなんですよね。絵画と写真くらいちがう。それで僕の場合、コンクレートでありたいという気持ちが少しあるんです。いわゆるカットアップの手法とかは自分の中にあまりない。……職業柄、たとえば電気グルーヴの仕事をするときに、サンプリングをしたりということはあるので、技術としては知っているんですけど、僕のルーツになくて。
■あはは。
agraph:日本でコンクレートをちゃんとやったり、論じていらっしゃる方として、大友良英さんとか鈴木治行さんがいらっしゃいますよね。僕の通っていた大学には鈴木さんがいらっしゃったんですよ。僕は指導を担当いただいたわけではないんですけど、尊敬も影響もあって、コンクレートについては調べたりもしたんですね。そんなこともあって、音を録る、録音して使うっていうっていうほうに意識が向かなかったんです。
■そうなんですね。加えて、ビートへの意識なんかもそれほど強くはないというか。どちらかというと音響に関心が向かれるという感じなんでしょうか。
agraph:そうですね。ビートっぽいもの、「ステップ」のつくもの、あるいはグライムだったりとか……そういうものはまったく通ってないんですよね。マネージャーさんによく「お前は黒さが足りない」って言われるんですけど(笑)。
■黒さ信仰はありますよね。コンプレックスというか。でもagraphさんは自由でいらっしゃる(笑)。
agraph:いやいや、僕はコンプレックスだらけですよ。だからこうやって難しげなことを言って虚勢を張ってるんですよ(笑)!
いつかもっと何も気にしなくなったときに、きっと「ピー」とか「ガー」とかやっちゃうんだとも思うんです。それをやるために必要な経験はものすごく大きいはず。
■でも、「難しげ」とはいいつつ、agraphさんが目指されているのは一種の快楽性でもあると。他のインタヴューでも読んだんですけどね。それはやっぱり、ミュージシャンとしての目標というか。
agraph:そうですね、ミュージシャンというか、ポピュラー作曲家としての矜持なのかなあと。
■「ポピュラー作曲家」という意識がおありになる?
agraph:あるんですよね。象牙の塔にいるわけじゃないですし。音大閥どころか、ちゃんとした音楽教育を受けているわけでもなくて、憧れているだけなんですよ。いま普通のひとが小難しい現代音楽といって思い浮かべるのは、滅茶苦茶やってるようにみえる曲だと思いますけど、そういうものも書けないし、数学を使ったようなもの、みたいなものも書けないし。自分のできることの範囲でそういうものへの憧れを取り入れて、つくりあげていくというだけなんです。
■よりポピュラリティのあるものを積極的に目指されたいということではなく? 「ポピュラー作曲家」みたいなかたちを意識されるのはなぜなんですかね?
agraph:なぜなんでしょうね。僕はこの5年間、agraphとして音楽をつくっていたので、agraph以外ほとんど何もやっていなかったんですよ。つまりポピュラリティのあることをやらせていただいてたというか。電気グルーヴでもやらせていただいたり、アニメの劇伴だったり、LAMA(中村弘二、フルカワミキ、田渕ひさ子とのバンド)だったりとか。だから、その揺り戻しでもっとマニアックなことをやっていてもおかしくないはずなんですけどね。
■なんでしょう、原体験みたいなものと関係があるとか?
agraph:ああ、TMNETWORKとか。それもそうかもしれないですけどね。
■だって、憧れているものと、目指されているものが、すごいちがってるじゃないですか(笑)。ある面では。
agraph:いやあ、でも、僕が「ピー」とか「ガー」とかってノイズだけ出していたら、こんなふうに取材に来てくれないじゃないですか(笑)。それに、「ピー」「ガー」っていうのは、自分だけでできることなんですよ。だけど、それを一人でやるには自分にはまだ深みがないというか。いまは、より難しい音楽を追求するのと、もっとポピュラリティを持ったものの間にいて、遊んでいたいという感じなんです。僕が今回のアルバムでやったようなことって、一生はやれないと思うんですよ。
でも、いつかもっと何も気にしなくなったときに、きっと「ピー」とか「ガー」とかやっちゃうんだとも思うんです。それをやるために必要な経験はものすごく大きいはず。表面的には、やろうと思えばすぐにやれちゃうことなんですね、それって。でもちがいを出すのはとても難しいんです。そのためにいまは人のできないことをやったりしたい。
■いまは、ポップ・ミュージックという形態を通して他者に出会う、みたいなことでしょうか。しかして、ひとりでやれる「ピー」「ガー」に向かう……。
agraph:そうかもしれないですね。そういう音は、いまは昔よりずっとつくりやすくなっているはずなんですけどね。でも最初からそうしていたら……もしagraphをやっていなかったら、僕は電気グルーヴの裏方ではあったかもしれないけど、ステージでやることはなかったかもしれない。バンドも組まなかったかもしれないし、mitoさんとやることもなかったかもしれないし、劇伴やプロデュース、楽曲提供だってそうです。そういうところの経験は、誰もかれもが持っているものでもないから、おもしろいものにつながるんじゃないかなという期待もあるんです。先の見通しはぜんぜんないので、どうなるかはわからないですけどね(笑)。
agraph - greyscale (video edit)
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普通のポップ・アルバムとして聴ける要素を残したいし、(抒情的なピアノが用いられていることは)ポピュラリティのある作曲家としての矜持なのかもしれないです。
■さて、ではアルバムの話に戻りまして。冒頭の曲のタイトルなんですが、“reference frame”っていうのは何の「基準」なんですか?
agraph:「こういうアルバムですよ」っていう。
■ははは! すごい。
agraph:これからいろんなことを言いますけど、こういうグラフになってますよ、という。x軸とy軸がこう引かれてますよ、基準点はこれですよと。
■なるほど。では、その基準点にピアノが鳴っていることの意味を考えたりとかしていくのは、ちょっとちがいますか?
agraph:なるほど、そこは、配置のひとつというか。今回はひとつひとつの楽器自体にそれほど意味はないんですよね。
■冒頭でピアノが出てきて旋律が奏でられると、つい叙情的なアルバムの幕開けと考えてしまうというか。
agraph:いえいえ、それもそうだと思うし、さっきの快楽性の話もそうですけど、普通のポップ・アルバムとして聴ける要素を残したいし、ポピュラリティのある作曲家としての矜持なのかもしれないです。もちろんどう取っていただいてもかまわないんですけどね。僕自身としては、よくピアノのことを指摘されはするんですが、そんなに意識していないんです。というか、あんまりピアノを弾いていたときの意識自体が残ってないかも。今回、構造のことを考えた記憶はあるんだけど、ひとつひとつの音のことを覚えていないんですよね。
僕はこの5年間のうちに、一度アルバムを放棄しているんですけど──『equal』のつづきになるからやめよう、って思って捨てちゃったものがあるんです。で、今回はそれをコンクレートでいうテープみたいなものとして使ってつくっているんですけど、そうすると5年前の自分のことなんて覚えていないから、本当に再配置という感じだったんですよね。演奏しているときの細かい意識のことは覚えていない。
■ピアノ弾きみたいな意識はないんですね。なるほど。
agraph:いろんなひとに出会う中で、僕よりピアノに思い入れのある人はいっぱいいるなあって思って。じゃあ僕はいっか! と。音に対するフェティシズムはあるので、使っている音はいっぱいあるんですけどね。
同心円状に広がる時間はきっとあると思うんですよね。そうだ、「時間」は今回の裏テーマだったと思います。
■“asymptote”という曲ですけれども、「漸近線」というとこれは「基準」たる“reference frame”に対して漸近していくという?
agraph:“reference frame”でxとyを引いて、ああ漸近していくんだなあという。
■交わらないという。その交わらなさって何のことなんですかね?
agraph:あれは、終わらない曲なんですよ。もちろん時間で切ってますけれどね。そういうふうに極限にいたる、というか。同心円状に広がっていくっていうイメージのお話もしましたけれど、この曲は、その先がどこまでもどこまでも、極限まで行くんだろうなって思ったんですよね。有限ではあるんだけど果てがない……そんな意識をつくっていこうとした曲ですね。
■終わらない時間というのは、なにか、リニアなものとしてのびていくイメージでいいんですか?
agraph:同心円状に広がる時間はきっとあると思うんですよね。そうだ、「時間」は今回の裏テーマだったと思います。音楽って時間芸術であって、時間以外に音楽を特徴づけるものはないというか、時間しか持っていないということが音楽の唯一の特徴だと──僕はそう考えるので。“inversion/91”では時間の使い方に発展や発見があったけど、“asymptote”も「終わらない、極限にいたる」というところで、時間に対する意識が強かったですね。逆に1分くらいの曲もつくってみたいと思ったけど(笑)。
■そういえば終わらないわりに短く切られている。
agraph:「終わらない」と「始まらない」は同じかなと。
抒情的でロマンティックな部分というのはやっぱり要素なんですよね。自分がピアノを弾いているときの気持ちは封入されているんだけど、それはすべてもう息をしていない。
■「すべての要素をドライに配置しただけ」というふうにおっしゃいますが、その語りの中にもしかしたらトリックがあるのかもしれないですけど、でも一方で、もっと普通にドラマチックな、エモーションの幅を感じるようなところもあるんですが。
agraph:それはね、いま思い返すとなんですけど、アンドレアス・グルスキーの、ジャクソン・ポロックの絵を撮った作品があるんですけど、僕はその写真がすごく好きで。ポロックのああいうアクション・ペインティングみたいなものって、すごく熱量をもって描かれるものじゃないですか。関連して、「絵の中にいるときに絵なんか意識しない(=自分が何をしているかなんて意識しない)」っていうような言葉もあったと思うんですけど、そんなふうにつくられるものの、その写真を撮るっていうのはすごい残酷なことだなと思ったんですよね。ポロックの無意識とか、絵の中にいるというすごくエモーショナルな状態をパッケージしてしまう。封をしてしまう。真空にしてしまう。その行為ってすごく力のあることだなと思って。それで、僕の音楽をエモーショナルに聴けるというのは、さっきの話のように、ひとつひとつの要素としてピアノを弾いているし、盛り上げるためにエフェクトを使っているし、叙情的な部分も含んでいるからなんだけど、それを一歩引いてパッケージするということでもあったかもしれない。だから、抒情的でロマンティックな部分というのはやっぱり要素なんですよね。自分がピアノを弾いているときの気持ちは封入されているんだけど、それはすべてもう息をしていない。
■撮られて配置されている。なるほど……こんなふうに作者に解題を求めるのって、はしたないことなのかもしれないですけど、やっぱり聞いておもしろいこともあると思うんですよね。
agraph:いや、僕もなるべく言いたくないんですけどね。文章家じゃないし、伝わり方だっていっぱいあるし。でも音楽雑誌とか批評で自分の評価が辛いと、わー、伝わってなーいって思いますね(笑)。
■あはは!
agraph:傷ついて帰って、枕を濡らすんですよ。
■そんな抒情的なシーンがあったとは(笑)。

すごく悔しいんですけど、OPNには耳を更新されたという気持ちがあって。
■一方で、部分や要素で聴くと“reference frame”のマレットというか、マリンバみたいな音が出てくる部分は、一瞬OPNみたいになったりもするじゃないですか。
agraph:ギャグですけども(笑)。
■「ニヤッ」て言うとちょっとやな感じですけど、すごい同時代のものが聴こえてうれしいというか。
agraph:すごく悔しいんですけど、OPNには耳を更新されたという気持ちがあって。今回リュック・フェラーリを聴いていた時期とOPNやヴェイパーウェイヴを聴いていた時期があるんですけど、後者については誰もべつにメロディもコードもリズムも聴いていないと思うんですよね。僕自身はそうで。そこに立ちのぼっている湯気のような世界観だけを聴いている。リュック・フェラーリもそうなんです。それから、とくに理由もないままリュック・フェラーリとベーシック・チャンネルを聴いたりもしていたんだけど、ベーシック・チャンネルもそうだしアンディ・ストットもそうだと思って。テクノとかハウスとかも、それからカールステン・ニコライにしても、僕はテクスチャーと世界観を眺めているというか、それが好きだと思って聴いていたんですよね。僕の聴取体験の中では、歌える部分や踊れる部分に惹かれて聴いていたこともあったけど、いまはそういうことがないなと思いました。そういう気づきのきっかけにはなりましたね。
■OPNを似たようなアーティストと分けているのはコンセプチュアルなところかなと思いますね。アルカとかはその点、一時の若さで成立しているものでしかなくて、それが美しくもあるけど圧倒的に弱いというか。
agraph:彼もまた構造的なんだと思うんですよね。一つ一つの要素には、どうしても読み取らなきゃいけないような意味はない。そこには勝手に共感を覚えるんです。アラン・ソーカル事件はご存知ですか? アラン・ソーカルというひとが、ある哲学論文を評論誌に送るんですけど、それは文学とか哲学にすごく難解な数学とか物理とかを結びつけて書かれた、まったくでたらめな意味のないものだったんです。当時はそういうものを結びつけるのが流行っていたので、彼はわざとそういうことをして、そのでたらめさが見破られるかどうか試したわけなんですよ。でも、評論誌には「そういうものを結びつけるのはよくない」という意見に反論する論文としてそれが掲載されてしまったので、ほらやっぱり意味がないじゃないかということになった。……という時代に、まさにフランスの現代思想を数学と結びつけていた急先鋒である女性哲学者がいるんですが、OPNが彼女のことをフェイヴァリットに挙げているのをたまたま見て。僕は彼とも話したんだけど、彼はこの事件のことを知らないと言いはっていた。でも、たぶん嘘じゃないかって(笑)。
■ははは! ええ、だって……
agraph:そう、だって、あんたがやっていることがアラン・ソーカルじゃないか、と。
■いや、お話の途中でオチが見えましたよ。たしかに。
agraph:僕はそこに勝手に共感するんですよね。いや、本当に知らないんだと思うんですが(笑)
■agraphさんご自身がたとえ時代やシーンを意識していなかったとしても、OPNがいたりagraphさんがいたり、それぞれの点が結びたくなってしまうように存在しているんですよ。その意味で時代性のあるアーティストさんなんだと思うんですが。
agraph:いやー、早く見つけてほしいですよ。
ヴェイパーウェイヴは、90年代の文化、っていう具体的な形をテープにしてるんだと思うな。あれは写真に近いんじゃないかな。すごく偽悪的な。
■しかし意外だったのがヴェイパーウェイヴをちゃんと聴いていらっしゃるというところで。いったい、牛尾さんにヴェイパーウェイヴなんて必要なんですか?
agraph:ヴェイパーウェイヴは単純に質感がよかったです。流行った頃は好きでした。もうけっこう経ちますよね。
■でも、あれこそはサンプリング・ミュージックの──
agraph:いや、僕はあれコンクレートだと思う。
■なるほど。とすると、インターネットという環境からの?
agraph:うーん、90年代の文化、っていう具体的な形をテープにしてるんだと思うな。あれは写真に近いんじゃないかな。すごく偽悪的な。
■へえ! 表面的な行為としては、「ネット空間からゴミをたくさん拾ってきてどんどん奇怪なものをつくりました」ってだけのイタズラか遊びみたいなもので、でもそのこと自体が時代の中で批評的な意味を帯びて見えたわけですよね。ただ、ご指摘のように、引っぱってこられるネタがなぜかしら特定の年代や国に固執しているのはたしかで。それで盛り上がったんだという部分も否定できない。
agraph:そうそう。おもしろいんですよ。それに、もっと僕の個人的な趣味嗜好の部分で言うなら、シンセサイザーの音色について発見があったということですね。90年代の前半の音がわりと使われているじゃないですか? 僕は83年生まれなので、ちょうどそのころは意識が芽生えはじめた時期なんです。だから、そういう音がいちばんカッコ悪く感じられる。絶対にさわっちゃいけない音色だったし、シンセサイザーだったんだけど、それを忘れていたところに放たれたカウンター・パンチだったんですよね、ヴェイパーウェイヴは。あの時期「~ウェイヴ」はいっぱいあったけど、僕はそのなかでいちばんおもしろかったかな。在り方が。
■結局ジェイムス・フェラーロとかは現代美術館にまで入りこみましたからね(東京アートミーティングⅥ “TOKYO”──見えない都市を見せる https://www.mot-art-museum.jp/exhibition/TAM6-tokyo.html)。
agraph:そうですよね。それもわかるんですよ。ただ──さっき触れたように、彼らの求めるテープの先が90年代なのだとすれば、きっと、社会だったり文化だったり人類だったり、「ひとの営み」に視座があるじゃないですか。僕の趣味からすれば、そこには興味がないんですよね。
■なるほど、構造と、あとは音だったと。
agraph:リュック・フェラーリは2007年に亡くなっているんですけど、作品はいまも出ているんですよ。それは彼が遺した作品の中に、このテープを使って何かやれっていうようなものがあるようで。たとえばそれで、奥さんであるブリュンヒルド=マイヤー・フェラーリさんが作品をつくられたりしている。その構造と同じかなと思うんです。僕は奥さんも音楽家としてとても好きなんですけどね。
僕は詩に対する理解がまったくないんです。
■ところで、「言葉」っていうレベルにはとくに探求しようという欲求はないんですか? 言葉というか……ライヒとかには、たとえば“テヒリーム”みたいなものがあるわけじゃないですか。ルーツにつながるヘブライ語の中に降りていくというか。今回の作品の中にも声とか言葉を持った部分がありますけど、今後そういうテーマなんかは?
agraph:あれはすごく迷いました。人間を描くのがいやなので、発声をどうしようかなと思って……音楽を規定するときに詩が入ってくるのがすごくいやなんですね。僕は詩に対する理解がまったくないんです。大学ではケージの『サイレンス』の詩を扱ってもいるんですけど、でもやっぱり自分でつくるというのは難しかったですね。セカンドで円城塔さんに文章をお願いしたのは、あの方だったら意味にとらわれない複素数平面を音楽と言葉でつくれるんじゃないかと思ったからで……。なかなか難しいですね。
■そうか、前作には円城さんが添えておられますよね。でも、「詩」というと複雑になりますけど、「言葉」というともうちょっと算数や科学で扱えそうな対象になりませんか。
agraph:それはまだ僕の能力不足ですね。群論的な──言葉が指し示すことができる領域とそうでない領域があるという、そういう複雑系の話から使えるものは出てくるかもしれないですけど、理解も足りないし。
■いやいや、五・七・五・七・七って、もう千何百年も残ってきた韻律ですけど、あれとかをagraphさんが微分積分してくださいよ。
agraph:あれはおもしろいですよね。「タタタタタ・タタタタタタタ・タタタタタ」……。僕は子どものころからああいう韻律をぜんぶ変数にして、たとえば「タタタタタータ」っていうリズムがあったとして、そこに何を入れるのがおもしろいかっていうのを考えていたんですよね。「ハシモトユーホ」とか、入りますね(笑)。韻律っていうものにはすごく興味があるんだけど、でも自分の中ではなかなか解決のつかない要素が多いから、いつかは。
■agraphさんがやってくれないと。楽しみにしていますね!

5年間で、過去3日だけ霧がかかった日に巡り会えて、いまのところその3日は逃さず写真を撮りに行っているんですよ。
■最後に、今作のジャケットについてうかがってもいいでしょうか。アートワークとして用いられているのは、ずばり渋谷です?
agraph:あれは●●●●です。内緒です。
■内緒ですか(笑)。
agraph:特定できるものを何も残したくないんですよね。インタヴューでこんなに話しておいて言うことでもないですが(笑)。「何だろう?」って思ってほしくって。アルバムをつくるときに杖の代わりになるような写真を撮ることがあって、その中の一枚です。
■「何だろう?」って思いましたよ。ご自身で撮られた写真なんですね。
agraph:そうです。
■最近は、アー写ひとつとっても、ミュージシャンがどこの街で写ってたら画になるんだろうというのがわからなくて。渋谷下北ではないし、どこで写ってたとしても「たまたま」というだけで。そもそも地理が何も語らないというか。
agraph:ないですよね。
■あのジャケは、だからといって「どこでもなさ」を表している感じでもなくて。
agraph:この5年間で、過去3日だけ霧がかかった日に巡り会えて、いまのところその3日は逃さず写真を撮りに行っているんですよ。それでたまたま撮れたものなんですが。
■構造の上に霧のように立ち上がる世界っていうイメージにもつながりますね。
agraph:もやっとしたもの。それに、器に注ぐ水が「shader」(=影なすもの)であるという、作品のコンセプトも出せればなと思いました。
■では記事の中でもぜひ数枚ご紹介させてくださいね。本日はありがとうございました。
agraph - the shader(ティザー)
ぼくが初めて買ったスウィンドルのレコードは、〈ディープ・メディ〉から出た2012年の“ドゥ・ザ・ジャズ”なので、彼の音楽を最初からリアルタイムで聴いてきたわけではない。彼がロンドンの〈バターズ〉からシングルをリリースしていたことも、2009年にすでに自分のレーベルからアルバム『カリキュラム・ヴィータイ(履歴書)』を出していたことも、あの赤いスリーヴが店頭に並んだときは知らなかった。でもあのベースラインとハンドクラップを聴いて、一瞬でぼくは彼の虜になってしまった。当時のダブステップ界隈ではテクノへの接近がひとつの流れになっていて、DJのピンチが言うように、それはある意味「コールド」な感覚を有するものだ。そこにスウィンドルがあのジャジーでファンキーな熱い曲を持ってきたのだから目立たないわけにはいかなかった。
2013年、スウィンドルが〈ディープ・メディ〉からアルバム『ロング・リヴ・ザ・ジャズ』をリリースし、それにともなうライヴをUKで行うと発表したとき、ぼくは迷うことなくロンドン行きのチケットを買った。そのときにピンチのコールドなセットも、アコードのひとりシンクロの透き通ったベース・ミュージック・セットも、ジェイムズ・ブレイクのクラシック・ネタ満載のDJも見たけれど、それらと比べ物にならないほどスウィンドルのライヴはポジティヴに感じられた。このインタヴューで彼が言うように、自身のルーツにも目を向けたその音楽は、流動的なシーンのなかでも強いのである。
![]() Swindle Peace, Love&Music Butterz / Pヴァイン |
初来日の2013年にはじまり、これまでにスウィンドルは4回も来日しており、世界中をツアーでまわってきた。2015年に先述の〈バターズ〉から発表した『ピース, ラヴ&ミュージック』は、ツアー先で出会ったミュージシャンとの共作を多く収録し、JMEとフロウダンというグライムの重鎮MCも参加した快作だ。
2016年、スウィンドルは〈バターズ〉のレーベル・メイト、フレイヴァDと来日ツアーを行った。東京公演にはレーベル・オーナーであるイライジャとスキリアムも急遽参加し、その夜が大いに盛り上がったことは言うまでもない。この取材はそのバックステージで行われた。投げかける質問に対して、そのことばの意味を噛みしめるようにして、スウィンドルはじっくりと答える。彼の音楽が情熱的なように、彼自身もまた素晴らしい男だ。そのことが少しでも伝わればと思う。
スウィンドル / Swindle
スウィンドルはロンドン出身のマルチ奏者、プロデュサー、DJとして活動している。2006年より自主制作で自分の音楽をリリース、多くのプロジェクトに関わってきた。2013年にはベース・ミュージックの人気アーティストマーラの〈ディープ・メディ〉レーベルより『ロング・リヴ・ザ・ジャズ』をリリースし、DJ、ライヴ・アクトとして世界規模のツアーを行ってきた。
ジャイルス・ピーターソンのワールドワイド・アワードにて披露したパフォーマンスと、ボイラールームでのジャズの伝説的キーボーディスト、ロニー・リストン・スミスとのギグが大きな話題を呼び、現代における最も将来有望なエレクトロニック音楽の若手として今後の活動が期待されている。
俺は何かオファーをされたら、その依頼の内容には完全には従わないタチだ(笑)。音楽以外でもそう。もし「黄色い外観、赤い屋根、窓はふたつ、芝生つきの家を作れ」って言われても、絶対にその通りには作らないと思う。俺は自分の住みたい家しか作らないだろうな(笑)。
■『ele-king』に本人が登場するのは初めてなので、最初の質問は「スウィンドルって誰?」にしましょう。
スウィンドル(Swindle、以下S):オーケー! スウィンドルは平和と愛と音楽の使者。ファンク、ジャズ、ベース・ミュージックに根付いた新しいサウンドの開拓に、その人生の大半を捧げている。1987年生まれ、ロンドンのクロイドン出身。料理が好き。スポーツはやらないしテレビも見ない。
■では音楽をはじめたのはいつですか?
S:小さいときから何かしら音で遊んでいて、12歳ぐらいのときにキーボードをはじめたね。プレイステーションと同じように楽器もオモチャみたいなものだった。それで14歳のときにトラック・メイクにハマって、DJをするようになったのもちょうどその頃だ。絵に描いたような音楽好きな家族からの影響がデカいね。
■たしかお父さんはギターを弾いていますよね?
S:そうそう! 実は親父は『ピース, ラヴ&ミュージック』のジャケットに写っているんだよ。俺とマーラといっしょにいるのがおやじ。2013年にロンドンのファブリックでライヴをやったんだけど、そのときにいっしょに撮った(笑)。
■そうなんですか! ぼく、あの日ファブリックへあなたのライヴを見に行ったんですよ。DJ EZからロスカ、ジョーカー、ピンチまで出ていて豪華な夜でしたよね。あなたはグライムやダブステップのプロデューサーとして知られていますが、最初はどんなジャンルが好きだったんですか?
S:ドラムンベースだね。あとGファンク。そのふたつといっしょに育ったようなもんだよ。
■ダンスミュージックからR&Bのようなトラックまで手掛けるあなたのスタイルからプリンスを連想したりもしました。あなたはいろんな楽器ができますから、プロデューサーとしてだけではなく、マルチ・プレイヤーという点でも共通しています。
S:なるほどね。でもオレはプリンスのレコードをそこまで持ってないんだ。もちろん聴いてはいるけれど、それはオレの音楽を聴いたひとが「お前はもっとプリンスを聴いたほうがいいよ」ってオススメしてくれたから。でも彼がアーティストのプリンスとして完成するまで、多くのファンク・ミュージシャンと共演してるだろ? ブーツィ・コリンズやジョージ・クリントンとかとね。俺も彼らから多大な影響を受けているから、その意味ではプリンスと音楽的に共通点があってもおかしくないよ。
■ではあなたが理想とするミュージシャンは誰ですか?
S:クインシー・ジョーンズだね。間違いない。彼は究極のプロデューサーだと思っているよ。
■UKアンダーグラウンドでは?
S:ロニ・サイズやデリンジャー。数え切れないくらいいる。
■ドラムンベースのプロデューサーですね。あなたはダブステップ・プロデューサーのシルキーとも共作を残しています。あなたのスタイルは彼にも通じるところがありますよね。ダブステップのシーンで、シルキーはフュージョンやファンクをいち早く参照していました。
S:たしかに。シルキーに初めて会ったきっかけも、知り合いに彼をチェックした方がいいってアドバイスされたからなんだけどね。それで実際に会っていっしょにやることになった。ブリストルのジョーカーともそんな感じだったな。俺たちにはサウンド面で共通点があるけど、お互いの音からインスパイアされているわけではない。似たような音楽経歴を持っていたから共感できたんだと思う。俺が17歳くらいのときあいつとはネットで知り合った。それから曲を交換して意見を出し合っていたけど、実際に会ったのはその数年後だったね。
■インターネット世代らしいですね。ちなみに〈バターズ〉のイライジャとはどうやって知り合ったんですか?
S:それもネットだね。あれは2009年だったかな。テラー・デインジャが俺たちを繋げてくれたんだ。MSNってサイトでみんな連絡を取っていた。当時はフェイスブックとかはなかったんだけど、そういったソーシャル・メディアとMSNの違いは相手の顔がわからなくて、曲だけが公開されているってこと。だから余計な情報なしに、音だけで相手を判断できたってわけだね。「うお!こいつの曲ヤベえじゃん!」と思ったらすぐに連絡、みたいな感じだった。
■アルバムのライナーにはあなたがイライジャの「グライムを作ってみれば?」というオファーを断ったエピソードが載っています。詳しく教えていただけますか?
S:そのときにはもう普通なことはやりたくなかったんだ。それは自分のスタイルじゃないってわかっていたからね。一生グライムのトラックを作ることはできるよ。でも俺は何かオファーをされたら、その依頼の内容には完全には従わないタチだ(笑)。音楽以外でもそう。もし「黄色い外観、赤い屋根、窓はふたつ、芝生つきの家を作れ」って言われても、絶対にその通りには作らないと思う。俺は自分の住みたい家しか作らないだろうな(笑)。
■なるほど。でもあなたの曲はジャズやファンクの要素が強いけれども、グライムのフォーマットを完全に捨て去ったこともありませんよね。グライムの何があなたを魅了するのでしょうか?
S:グライムは常に「新しいアイディア」でできているってとこだ。グライムの主役は若者で、17とか18、ひょっとしたらそれよりも若いやつらが音楽を作っている。その世代の多くには養う家族も恋人も子供もやるべき仕事もないだろ? だから全ての想像力が音楽に向かう。その結果、ルールに縛られない興味深い音楽が生まれてくるわけだ。ロックやファンクが好きなのも同じ理由だよ。ジェームズ・ブラウンがオーディエンスを驚かせたとき、彼には従来のルールなんか通用しなかった。シカゴのフットワークだってそう。ルールがない場所からヤバい音楽はやってくる。
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人生でベストDJができたと語る2015年3月21日DBSの様子
世界をツアーして、旅先の音楽を自分の音楽に取り入れるってことの重要性もマーラから学んだ。いまって世界中をツアーで回るDJはたくさんいるけど、彼らがその経験を自分たちの曲に反映させることって、あんまりなくない? それってすごくつまんないことだ。未知なる場所での新しい出会いから得られるものってすごく大きいし、その影響は絶対に音楽にもいい形で現れるって俺は思うんだけどね。
■ちなみにMCをやったことはないんですか?
S:実は昔、ドラムンベースのMCをやっていたよ(笑)。マジメにやっていたわけじゃなかったけどね。MCでは自分を表現できないってわかったから、そっちの方向には進まなかったな。
■あなたがファンクやドラムンベースに熱中しているとき、周りのひとたちもそういった音楽を聴いていたんですか?
S:親父がジャズ、友だちはガラージやドラムンベースって感じだったね。だから俺のなかで音楽のバランスが取れているんだと思う。グライムやファンキー・ハウスを聴くようになっても、いろんなジャンルを並行して聴いていたよ。
■当時のあなたはオーバーグラウンドのチャート・ミュージックをどのように捉えていましたか?
S:あんまりチェックはしてなかったね。自分がフォローすべき音楽があまりないように思えたんだ。チャートのなかには金儲けにために作られているようにしか思えない曲もあったしね。そういった類のモノに昔から興味が持てなくてね。いまでもメジャーのラジオ番組は全然聴かない。
■ラジオということばが出ましたが、『ピース, ラヴ&ミュージック』ではラジオのような編集がされている箇所もあります。10代の頃、あなたは海賊ラジオを聴いて育ったとも聞いています。
S:その通り。毎日聴いてたよ。俺にとってラジオとは海賊ラジオだっていうくらいにね。10代? もっと若かったよ(笑)。初めて海賊ラジオを聴いたのって、たぶん6歳のときだ。うちに古いコンピューターがあって、それを使ってカセットにラジオを録音してたのを覚えているな。海賊ラジオの電波を探すのって本当に巡り合わせが重要だったんだよ。特定の日、サウス・ロンドンの特定の場所、特定の時間。この条件が揃わないと電波を受信することすらできなかったし、かっこいい曲がかかった途端に電波が途切れて、同じ曲には二度と出会えないってことなんてしょっちゅうだったよ。ネットのポッドキャストやCDじゃ絶対に味わえない体験だった。
■エリック・ドルフィーみたいですね。「音楽を聴き、終わった後、それは空中に消えてしまい、二度と捕まえることはできない」。
S:それそれ(笑)! ホント、音を捕まえるためにカセットがあってよかった(笑)。そういった具合に、本当のラジオが何なのかを知る前に海賊ラジオに出会ったわけ。
■6歳だったわけですもんね(笑)。このアルバムでは、グラスゴーのマンゴズ・ハイファイとの“グローバル・ダンス”の前に、ラジオ中継のようにマンゴズの会話が入ってきます。
S:それは彼らがやっている本物のラジオ番組からの抜粋なんだよね。曲を作った日にそのラジオの放送があったんだけど、そこに俺も出演したんだよ。音楽に対して正直になることはオレのテーマなんだけど、ラジオは人生の重要な一部でそのテーマともつながってもいる。
■そうでしたか。あなたはその曲でコラボしているグライムMCのフロウダンとグラスゴーでプレイしています。スコットランドってグライムがそんなに人気がないようにも見えるんですが、あなたはどう思いますか? またスコットランドとイングランドとオーディエンスの反応に違いはありますか?
S:いまはそんなことないんだよ。スコットランドに限らず、UKのメインストリームでもグライムはすごく大きな存在感を持っている。反応の違い? 酒だよ(笑)。「こいつらどれだけ飲むんだ!?」っていうくらいスコティッシュはウィスキーが好きだよね。ケルトの血はクレイジーだ(笑)。ロンドンは雰囲気的にちょっと閉じているところもあるけど、スコットランドはオープンだからやりやすかった。
■2013年にあなたはソロと『マーラ・イン・キューバ』のキーボーディストとして2回来日していますよね。マーラからバンドへの参加のオファーがあったそうですね。
S:マーラとはいっしょに作業をする機会があったんだけど、ちょうどそのときに彼は『マーラ・イン・キューバ』をライヴでやることを計画していてね。「キーボード弾けるんだからセッションに参加しないか?」って誘われて、すぐに了解の返事をしたよ。
あの作品、それから一連のセッションからはものすごくインスパイアされた。音楽を表現するのに必ずしもDJである必要はないんだって気づけたから、自分のバンドを持とうと思ったし、それを実行する上でマーラ・バンドへの参加は大きな自信にもなった。
世界をツアーして、旅先の音楽を自分の音楽に取り入れるってことの重要性もマーラから学んだ。いまって世界中をツアーで回るDJはたくさんいるけど、彼らがその経験を自分たちの曲に反映させることって、あんまりなくない? それってすごくつまんないことだ。未知なる場所での新しい出会いから得られるものってすごく大きいし、その影響は絶対に音楽にもいい形で現れるって俺は思うんだけどね。
■おっしゃるように、あなた自身も自分のバンドを率いて演奏を行いますが、それは文字通りライヴです。いまって、クラブにラップトップを持ち込んでエイブルトンのコントローラーをいじっているだけでもライヴって呼ばれる時代ですよね。そういう状況についてどう思いますか?
S:すごい音楽をやるプレイヤーもいるから、そのスタイルを決して否定はしないよ。でもなかにはステージに立ってタバコ吸ってプレイ・ボタンを押して金を貰っているヤツもいる。ふざけんなって話だよな。そんなのオーディエンスにとっては、家でユーチューブを見ているのと変わらない。ちなみに俺もよく「ツアーでエイブルトンを使ってライヴをやれば?」って言われるんだけど、これからもそれは絶対にやらないと思う。やっぱり俺が考えるライヴはバンドがいてこそ成り立つものなんだよね。それにDJするのも大好きだから、ひとりでツアーをするときはDJで十分だよ。もし現場にキーボードがあったら曲に合わせて弾きたいけどね。
■マーラのレーベル、〈ディープ・メディ・ミュージック〉から出した“ドゥ・ザ・ジャズ”であなたを知ったリスナーは多いと思います。あの曲はどうやって生まれたのか教えてくれますか?
S:オーケー。本当のことを話そう。あの曲が生まれたのは、母親の家の地下室で夜も遅かったな。それで俺はめちゃくちゃクサを吸っててさ……(笑)。で、気づいたら朝になっていて曲が完成してたんだよ。作っている間のことはまったく覚えてない。あのベースラインが先にできたのか、ハンドクラップが先だったのかも記憶にないね(笑)。
Swindle - Do The Jazz (DEEP MEDi Musik) 2012
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どれだけ「愛と平和」を叫んでも、「愛と平和」がこの世界に満ち足りたことってないだろ? だったらそれを打ち出す必要があると俺は思う。それがダサいって言われようとも、自分のことを「平和と愛と音楽の使者」って呼ぶことに何の躊躇もしないよ。それに、なんで「愛と平和」はダメで、「ギャングスタ」や「悪」のイメージはいいんだ? 売れるから? そんなのおかしいと思うね。だったら俺は言いたいことを言うよ。
![]() Swindle Peace, Love&Music Butterz / Pヴァイン |
■では『ピース, ラヴ&ミュージック』についてお訊きします。作品が発表された2015年はグライムのアニヴァーサリー・イヤーとも言える年で、ボーイ・ベター・ノウの結成、それからロール・ディープのファースト『イン・アット・ザ・ディープ・エンド』のリリースからちょうど10年という節目でした。そしてあなたは今回のアルバムでボーイ・ベター・ノウのJME、ロール・ディープの主要メンバーだったフロウダンと共演しているわけです。ノヴェリストやストームジーといった若手も注目されていますが、なぜこのふたりを選んだのでしょうか?
S:そうか、気づかなかったけどたしかに10年だね。当時からふたりの大ファンだったよ。俺は曲を作るときに、「この曲には絶対にあのアーティストが必要だ!」って制限を設けるようなことはしないし、いまの流行りとか、売れ線とかが共作者を選ぶ基準にはなることもない。だって音楽じゃん? 自分の意図が伝わる相手といっしょにやらなきゃ、結局は自分に嘘をつくことになる。今回も音楽を優先した結果、相手がフロウダンとJMEになっただけだよ。「音楽がビジネスを決めるのであって、ビジネスが音楽を決めるのではない」。これに尽きるね。
■あなたから見たふたりの違いとはなんでしょうか? 音楽的、人間的、どんな側面でもかまいません。
S:うーん、違いは多いね(笑)。だから共通点について言わせてもらうよ。ふたりともどんな状況でも自分自身になることができるよね。そこがふたりの魅力だよ。だからこそスタイルの違いが出てくるんだと思う。
ちなみにさっき若手MCの名前が出たけど、俺は彼らのスキルがベテランたちに劣っているとはこれっぽっちも思わない。というかそれは個性の問題であって、優劣の問題ではないよね。いつの時代も比較の上での良し悪しをつけるのは簡単だし、その基準は個人によっても変わる。だから音楽を楽しむ上では個性の違いを尊重するべきだと思うんだよ。
■ネット上の動画などであなたのスタジオを見ることができますが、今作はあそこで作られたんですか?
S:このアルバムは世界のいたるところで作ったよ。ちなみにこのアルバムを作っている間、俺は3回引っ越しててさ(笑)。ちょうどそのときロンドンでいい物件が見つからなくてね。いまロンドンでは昔から住んでいるひとたちが、街を出ていかざるを得ない深刻な状況になっているんだよ。ロンドンの外からやってくる人口の増加や家賃の高騰が影響している。だから俺もロンドンを離れるしか術がなかったんだ。いまでもロンドンが大好きだし、自分のことをロンドナーだと思っているけど、音楽のためにはロンドンを出るしか選択肢はなかった。やっぱり都会だと隣人との間隔が狭くて満足に音を出せないからね。いまはロンドンから1時間くらいはなれた田舎に住んでいる。住民の誰も俺のことをしらないような街だよ。だからゆっくりできるし、音楽にも没頭できている。ツアーで刺激的な場所に行くことができるから、いまの街に何もないことは大して問題にならないね。
■世界のいたるところで曲を作ったとおっしゃいましたが、例えば一曲目のアッシュ・ライザーとのコラボ曲“ロンドン・トゥ・LA”はロサンゼルスで作ったということですか?
S:その通り! いつもスタジオを持ち歩いていたからね。俺はロスのロウ・エンド・セオリーでプレイしたんだけど、この曲はそのショーの前にだいたい完成していたよ。
■スタジオを持ち歩いていた……?
S:つまり、バッグにサウンド・カード、スモール・マイクとか必要なものを詰め込んでツアーに出かけた(笑)。ロサンゼルスはエコパークが最高だったね。それで現地でレコーディングしたものをイングランドに持ち帰って編集をした。あとから外国の知り合いに音を送ってもらったりもしたね。アルバムの日本語の部分はパーツースタイルのニシピーにお願いしたよ。
■あなたはよくシンガーと共演していますが、どのように歌が生まれるのでしょうか?
S:理想としては音楽と歌詞が同時にできることが望ましいよね。“ロンドン・トゥ・LA”では俺がどういう歌詞にしたいかシンガーに要望を伝えた。曲を作ったとき、俺は文字通りロスにいるロンドン・ボーイで、気分は2パックの“トゥ・リヴ・アンド・ダイ・イン・LA”や“カルフォルニア・ラヴ”みたいだった。そのときの俺の気持ちを知ってほしくて、あの歌詞ができたってわけ。
Swindle - London To LA Ft. Ash Riser
■世界各地に思い入れがあると思いますが、日本はあなたにとってどんな場所ですか?
S:たくさんの場所に行ったけど、日本は世界で一番音楽をプレイするのが楽しい場所だよ。けっしてお世辞じゃない。オーディエンスの反応、人間性、どれも最高だ。前回ロスカと出たDBSは、俺の人生で一番楽しいDJだった。いつか日本で自分のバンドのライヴをやりたい!
■今回のアルバム収録曲の多くにはあなたのツアー先での様子が動画で収められていますが、それを試みた理由とはなんでしょうか?
S:そのアイディアを思いついたのは『ロング・リヴ・ザ・ジャズ』のあとだね。俺は日本に来るのがこれで4回目なんだけど、音楽をやっていなかったらフィリピンにも南アフリカにもロサンゼルスにもグラスゴーにも行けなかったと思う。あんまり恵まれていない境遇だったからね。そんな俺に音楽が世界に出る機会をくれたんだ。だから自分は音楽に感謝する必要があると思ったし、それを自分の作品に還元する必要性を感じた。自分のツアー先での様子をドキュメンタリー的に動画に残すことはその方法のひとつだね。
それと別にあることを伝えたかった。俺は世界中を回って、人種、文化、言語といったあらゆる差異を目の当たりにしてきたけど、ひとつだけ共通点を発見したんだ。クラブで俺がプレイ・ボタンを押したあとのフロアの反応は、世界のどこに行ったって変わらなかった。そのことをどうしても記録してみんなに見せたかったね。それから、素晴らしいパーティには、必ず素晴らしいひとびとが関わっていることも伝えたかった。
■個人的には“マシンボ”のPVで、フィリピンのコミュニティへあなたが出向いて、現地のミュージシャンたちとセッションする様子にびっくりしました。
S:あれはすごい体験だったなぁ。フィリピン土着の竹でできた楽器を“マラシンボ”ではメインで使っている。共作者のヒラリアス・ドーガのスタジオで録音したんだけど、その小屋も竹でできてんだよ(笑)! 自分が住んでいる地域の山に生えてる竹を自分で採ってきて作ったらしくて、その山の名前がマラシンボって言うんだよね。もちろんフルートからパーカッションにいたる彼の楽器は自作で竹でできている。いままでそんな人間に会ったことがなかったから衝撃だったよ。彼はすごくスピリチュアルなひとで、霊のために音楽を作っているらしい。
こんな出来事があった。俺はヒラリアスとレコーディングをするために彼の
場所へ行ったんだけど、そこは電話も通じないようなところでさ。フェスに俺は出る予定だったから、他の出演者を含めて5人でヒラリアスに会いでかけた。その場所に着くとヒラリアスがいて、彼の楽器も置いてあるわけ。で、連れのひとりがその楽器のなかからフルートを手に取って吹こうとしたとき、ヒラリアスが「やめとけ! そのフルートには霊が入っているから危険だぞ!」って言うんだ。でも彼はそのフルートを吹いちゃってさ。それでしばらくして振り返って彼を見たら意識を失っていた……。「だからやめとけって言ったんだよ。霊が彼に憑依したんだな」ってヒラリアスは言うんだ。40分くらいで彼は目覚めたんだけど、彼は自分が寝ていることさえ覚えていなかった。言っとくけど本当の話の話だからね。だから“マラシンボ”を聴くとその出来事を思い出すよ。
Swindle - Malasimbo Ft. Hilarius Dauag (Philippines)
■アルバムのタイトルに「平和と愛と音楽」を掲げた理由を教えてください。
S:その3つが世界的にどんな人間にも共通している事柄だからだね。それに、たとえ音楽をやらないひとでも平和と愛を必要とする。それに音楽を聴いたときって、好き嫌いを問わずに何かしらの感情を抱くだろ? そういった意味でも音楽は全人類に共通していると思ったから選んだんだ。
■なるほど。でもポピュラー音楽の歴史を振り返ってみると、「愛と平和」は散々歌われてきたテーマで、現在はシニカルな態度をとって、それを口にするミュージシャンを馬鹿にするひとも少なくありません。そういう状況で「愛と平和」を打ち出すことに躊躇しませんでしたか?
S:まったくしなかったよ。だってどれだけ「愛と平和」を叫んでも、「愛と平和」がこの世界に満ち足りたことってないだろ? だったらそれを打ち出す必要があると俺は思う。それがダサいって言われようとも、自分のことを「平和と愛と音楽の使者」って呼ぶことに何の躊躇もしないよ。それに、なんで「愛と平和」はダメで、「ギャングスタ」や「悪」のイメージはいいんだ? 売れるから? そんなのおかしいと思うね。だったら俺は言いたいことを言うよ。
■そういう覚悟がある上でやっているからこそ、あなたの音楽は多くの人に届いているのかもしれません。あなたのライヴをロンドンで見たとき、最初は「白人がやっぱり多いんだな」と思っていたんですけど、いざライヴがはじまって周りを見回したら、ブラック、アジア系もたくさんいてびっくりしました。あなたの音楽はフロアの人種をミックスしていたんです。
S:それは俺が音楽をやる上で超重要なテーマだ。俺が作っているのは特定のジャンルの音楽っていうよりもミクスチャー・ミュージックだと思う。俺の母親はホワイト、父親がジャマイカ人で、ジャマイカ、イングランド、イタリアの血が俺には流れている。でも見た目がブラックだから俺と兄弟は幼い頃につらい差別を受けたこともあった。だから人種や文化をミックスすることは、俺の人生においてとても重要なことだと意識するようになったね。個人的には音楽においてその壁を越えることは、差別するよりも簡単だと思うんだ。俺はブラックやアジアン、どんな音楽も好きだけど、ただ好きになりさえすれば壁は越えられる。音楽にもう「色」は関係ないね。
俺がベース・ミュージックをやる理由のひとつには、そのルーツがレゲエにあることも関係しているよ。レゲエはジャマイカ人の苦しみから生まれたけど、いまはジャマイカにルーツがあるかどうかなんて関係なく世界中でポピュラーになっているだろ? それはまさに俺が音楽でやりたいことだ。どんどん人種や文化の壁を壊していきたいね。
■これからの活躍に期待していますね。では最後に日本のリスナーにメッセージをお願いします。
S:これで4回目の来日だけど、毎回日本に来るたびに素晴らしいオーディエンスの期待に応えようと思えるよ。ツアー中、2年前に撮った俺との写真を見せてくれるひとや、今夜来るのが初めてだってひとにも会えて最高だった。また絶対に戻ってくるよ! 素晴らしいイベントを企画してくれたDBS、グッドウェザー、それから日本で俺の作品の流通に関わっている方々にも感謝したい。みんな本当にありがとう!
取材協力:DBS
Swindle All Time Best
Quincy Jones – Body Heat – A &M Records – 1974
Herbie Hancock – Just Around The Corner – CBS – 1980
George Benson – White Rabbit – CTI Records – 1971
Ed Rush & Optical – The Creeps(Incredible And Deadly!) – Virus Records – 2000
Bad Company – Inside The Machine – BC Recordings – 2000
Dr. Dre – 2001 – Aftermath Entertainment – 1999
Zapp &Roger – So Ruff, So Tuff – 1981
Parliamentの全ての作品
DJだから喋るのは音楽ですとか、自分は音楽やってるだけだから社会については話さないとか、そういうのって、デリック・メイにはぜんぜん通用しない。というか、インストの音楽をやっていても、言葉はぜんぜんあります!
国際的なDJは、世界中の都市(地方都市)のナイトライフを通してその街々の地政学を読む。彼らは経済破綻前のアテネを知っているし、北京もロンドンも知っている。オリンピックはワールドカップとは別モノなんだ。それはいろんな悪いモノを呼び込んで街を破壊していく。気をつけろ──これが最近ele-king編集部が入手した、テクノの歴史のターニング・ポイントとなったDJからの警告だ。
もうふたつ入手したニュースがある。すでにご存じの方も少なくないだろう、デトロイトの〈Transmat〉が今年でレーベル設立30周年を迎える。1986年、最初はホアン・アトキンスの〈Metroplex〉のサブレーベルとしてはじまった同レーベルは、1987年から1990年の4年間、おおよそすべてのリリースにおいて強烈なインパクトを与えている。リズム・イズ・リズム(デリック・メイ)の全作品をはじめ、サバーバン・ナイトやオクタヴ・ワン、カール・クレイグ、近年とくにリヴァイヴァル・ヒットしているジョイ・ベルトラムの「エナジー・フラッシュ」点。
しかしながら、デリック・メイのプロデューサー稼業の休止にともなって、レーベルとしてはほとんど機能していないというのが、〈Transmat〉に対する一般的な認識だろう。
ところが、あらためてDiscogsを見てみると、サブレーベルの〈Fragile〉からのリリースも合わせれば、意外なほどコツコツとリリースしていることが確認できる。さらにまた2000年代に入っても、カナダのGreg GowだとかフランスのKarim Sahraouiだとか、リリースを絶やさず、レーベルとして動いていることがわかるだろう。送られてくるデモテープにはつねにチェックしているし、有名無名、前評判、国籍、年齢などは問わず、自分が気に入ったものは出すという姿勢はまったく変わっていない。
それで30周年を迎える2016年には、4枚の新作のリリースが控えているそうで、そのなかの1枚に、なんと日本人プロデューサーのヒロシ・ワタナベの作品が含まれることがわかった。
ヒロシ・ワタナベといえば、かつてはKaito名義で、ドイツの〈Kompact〉からの作品で広く知られるが、たしかに彼の曲は以前からデリック・メイのDJセットに組まれている。なんにせよ、デリック・メイは、セールスであるとか、流行とか、仲の良さなどでリリースを決める男ではない。ダンスフロアでの経験=つまりどれだけ受けたかにも決定されないと言っている。ゆえに、ヒロシ・ワタナベの作品のリリースは本当に楽しみだ。
さて、最後に3つ目のニュースだ。昨年末のAIRのクロージング・パーティに出演したデリック・メイだが、なんでもプレイ中にミキサーのフェーダーのツマミをへし折ってしまったそうだ。そんなことやるなんて、どこのレスラーだと思われるかもしれないけれど、あの人のスタイルは、フロアのダンサー以上に汗をかいて身体を激しく動かすものなので、いたしかたあるまい。
今年53歳。やってること、なんも変わってねーじゃねーかという意見もあるが、これこそファンキーってものだろう。いま日本に足りないのはデリック・メイなのだ! そして、ヒロシ・ワタナベにも注目なのだ!

HIROSHI WATANABE
MULTIVERSE EP
2月12日発売予定
(アルバム『MULTIVERSE』は4月20日発売予定)
牛田悦正、通称UCDと会った瞬間、こいつはただ者ではないなと思った。そう、この男には、なんでだかわからないのだが、人の気持ちをアップリフティングさせるものがある。少年のようなあの瞳がそうさせるのか……それとも多少ずっこけてる感じがそうさせるのか……飾らない感じとか(いや、飾っているつもりだろうが飾っていることになっていない感じとか)、とにかくUCDはおもしろい男だ。
SEALDsのメンバーとして広く知られるようになったUCDだが、彼はひとりのラッパーであり、音楽活動家でもある。初めて会ったときも、目をキラキラさせながら、自分はスラックとロバート・グラスパーが好きなんだと言われたことは忘れられない。
Tha Bullshitはラッパー、UCDを擁する5人組のヒップホップ・バンド。そのデビュー作が『FIRST SHIT』(全7曲入り)というシンプルなタイトルをもってリリースされた。ジャジーでファンキー、メロウなムードの生演奏をバックにしながら、UCDらしい思い切りの良い言葉が連射される。おそらくは、誰もがこの音楽に昨年のデモの熱気をリンクさせようとするのだろうが、演奏はストイックで、いたずらに騒いだりはしない。初期のブルー・ハーブを彷彿させるような、内省的な曲はとくは魅力がある。が、しかし、もちろんUCDの言葉はデモとリンクしている。いやいや、デモでは言えないもっとパーソナルなことも(ときにはダーティに)言いたいように言っている。もうひとつ重要なことは、UCDが彼ら世代の内なる言葉を伝達しようとしていることだろう。そして、さらに重要なことは、Tha Bullshitが(繰り返すようだが)バンドであること。ぜひ、自分の耳でたしかめて欲しい。

Tha Bullshit - FIRST SHIT
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音楽とアートとの関係は、生活のただなかに生まれる「意識」とともにある。意識は変化と同義であり、生活とは、当然、生と同義である。変化と生。つまりはアート・オブ・ライフというわけだ。アートは高尚な芸術というだけではない。それは生きていることにまつわる表現=生産行為であり、もしくはその隙間に潜む過剰さでもある。だからこそ人が、それぞれさまざまな生き方をするように、アートもまた「違う方法」を考え、生み出されていかねばならない(同時に、それはただのスキャンダラスを意味しない。あのウォーホルも、何より別の手法と新しいコンセプトを生みだすことで世界を一新したのだから。スキャンダラスなだけの行動は、そのほとんどが凡庸である)。
当然、音楽というアートも同様だ。音を鳴らすこと。それはある意味、何かを叩けばいい。ではそこに表現としての自律性や浸透性や持続性を、どう付与すればいいのか。その方法を「考えること」が「アート」であり、それは人生において誰にも平等に与えられた「権利」にすら思える。生産=芸術にまつわる権利と言い換えてもいい。
その意味で、デュッセルドルフ在住のミキ・ユイの作り出す音たちは、アートそのものである。00年代初頭にマイクロ・スコピック時代の〈ライン〉からアルバムを2作リリースしていた彼女だが、最新作『オシラ』は、さらに高次の次元に移行している。1曲め“チャノ(Cyano)”がはじまった瞬間にそう確信をした。まるで、架空の生物たちが生まれ、舞い、蠢くさまが、幽玄で柔らかい音の連なりとして生成しているのだから。じつに見事な音響・音楽作品であり、しなやかな佇まいのアート作品といえよう。
その「しなやかさ」の理由は、持続音や環境録音、ビートなどが、けっして固定されることなく、先行するいくつもの音楽とは「違う方法」でコンポジションされているからではないかと思う。そう、この作品は単なるアンビエントではない。音のフィギュールは、まるで透明な空間の中で分解され、宙に舞うように「違う方法」で再構成されていくのである(たとえば、3曲め“ボーデンフェルド(Bodenfeld)”から4曲め“オシラ(Osicilla)”へと連なる環境音とサウンドの交錯!)。その結果、アンビエントであっても安易な癒しではなく、ビートであってもありきたりな律動から離れ、ノイズであっても「しなやか」に再生成されていくのである。
私は、そのような音響交錯=工作の手つきを、サウンド・アートならぬミュージック/アートと名づけたい衝動にかられる。柔らかいのに、たしかな存在感のあるその音たち。その生成。聴き込むほどに、耳に、体に浸透していく不思議な音の魅力。それはミキ・ユイの「人/生」から生まれた「方法=アート」によって鳴っているように思える。だから自然なのだ。
そして本作は、5曲め“アニマトスコープ(Animatoscope)”など、ときにクラウトロック的なビートも聴かせてくれる。当然、そこに彼女とクラウス・ディンガー(ノイ!)の関係をつい読み取ってしまいたくもなるが(クラウス・ディンガーのパートナーでもあった彼女は、晩年のプロジェクトで遺作にもなった『ジャパンドーフ』に参加しており、没後、クラウス・ディンガーの作品集を編集・出版している)、やはり大切なことはクラウトロックと日本、音響実験とロックを「違う方法」で越境している点にある。なんという水の中でフローティングするようなモータリック・ビートなのだろうか。そのうえ、“アニマトスコープ”は途中でビートが(あたかも幽霊のように?)ミュートするのである。
そう、何より大切なのは、その音たちが、とても自由な優雅な(個人としての)実験性を称えている点である。そもそもクラウトロックと呼ばれたドイツで生まれた実験性を伴ったロック・ミュージックは、そんなアート・オブ・ライフを象徴するような「自由さ」の象徴ではないか。だから「歴史」を背負っていても重くないのだ。
商業音楽が巻き起こす猛威から抜け出し、真夜中に行う、もうひとつの、音の遊戯。実験とは何か、などと難しく考える必要はない。別の方法で/の音を楽しむこと。かのシュトックハウゼンだってワクワクしながら電子音を混成させていたはずだ。そこに大文字の芸術の歴史には回収されない実験/遊戯の系譜としてのミュージック/アート・オブ・ライフが生まれる。本作には、そんな見事な音のゆらめきがある。生活の中で、ひっそりと、そして、いつまでも鳴らしていたい音楽だ。
最後に、本作のマスタリングを手がけたのは、ラシャド・ベッカーであることも記しておく。
いま上海のベース・ミュージックが熱い。そのシーンを牽引するのが、多くの世界的なDJたちがプレイしてきたクラブ、シェルターのオーナーが運営するレーベル〈SVBKVLT(サブカルチャー)〉で、レーベルは日本のPart2Styleとも交流している。今回、レーベルの期待のホープ、SWIMFULが新作『PM 2.5』のリリース・パーティを東京で行う。オリエンタルな旋律を持ったグライムはサイノ・グライムと呼ばれ、それがSWIMFULの得意とするスタイルだ。イギリス出身で上海在住という彼の作品からは、外部から見た東洋のイメージが、現在どのように描写されうるのかを知ることができ興味深い(なにせPM2.5である)。来日公演は2月7日、渋谷の虎子食堂で開催される。
SWIMFUL“PM2.5 ”Release Party
日程:
2016年2月7日日曜日
会場:
渋谷 虎子食堂
(東京都渋谷区宇田川町10−1 パークビル2F)
時間:
Open 18:00
Close 00:00
料金:
1000円
DJ:
Swimful(SVBKVLT) from Shanghai
Zodiak
TUM(VOID)
Tenmusu
Sakana
NODA
MC:
Dekishi
SWIMFUL

イギリス出身のジェイミー・チャールトンによるプロジェクト。現在、チャールトンは上海に在住。2010年、ロンドンでサウンド・アートをデヴィッド・トゥープらのもとで学ぶ傍ら、SWIMFUL名義で活動を開始する。彼のグライムや現行のクラブ・ミュージックに根ざした作品は、スラック、マーロ、スクラッチャDVA、そしてJキャッシュらによってプレイされてきた。2016年2月、上海のレーベル〈SVBKVLT〉から満を持してアルバム『PM 2.5』をリリース。
Swimful: https://soundcloud.com/swimful
SVBKVLT: https://svbkvlt.bandcamp.com
January 10 Tracks.
![]() 1 |
Onjuicy - Good wave sufer - Self Release |
|---|---|
![]() 2 |
Rocks FOE - Crushed - Black Acre |
![]() 3 |
Hi5ghost - Nook Shot (Commodo Remix) - Sector 7 |
![]() 4 |
Wen - Play Your Corner ft.Riko (Walton Remix) - Keysound |
![]() 5 |
G.Rina - Utsusemi (Double Clapperz Remix) - Unreleased |
![]() 6 |
Prettybwoy - hansei - Unreleased |
![]() 7 |
Caspa - Tales of unexpected (Edgem Remix) - Dub Police |
![]() 8 |
LEVELZ - Drug Dealer - LEVELZ |
![]() 9 |
ALTER ECHO & E3 - Warning Dub (Ishan Sound Special) - Zam Zam Sounds |
![]() 10 |
Dubkasm - Victory(Mala Remix) -Dubkasm Records |
【プロフィール】
Double Clapperz
UKDとsintaからなるプロデューサーユニット。
2012年から東京を拠点にリミックス、トラックメイク、またラジオDJとして精力的に活動している。
https://soundcloud.com/doubleclapperz
https://www.mixcloud.com/nousfm/
【出演情報】
2.5 BS0DK2 with Dubkasm and RSD at Star Lounge
https://bs0.club
2.10 世紀末 at Lounge Neo
https://iflyer.tv/ja/event/253852/artists
友達は毎日のようにしてる犯罪
薬物の売人とか色んな人たちがいる
あの子の父親 あの子の母親 いまごろ刑務所の中
俺たちも馬鹿 笑っていたいけどいつかはお墓に入る
天国にも地獄にも持っていけない財布
俺たちは一人で生きるこの人生
でかいと思ってたものも近くで見ると実はちいせえ
たくさんいるひとりの人間
ひとりで死んで みんなで生きてる
“一人”
ああ、もうこんなところまで来てしまったのか、というのが最初の感情で、その感覚はリリースから3ヶ月たったいまでも、ずっとつきまとっている。たぶんこれからもしばらくは薄れることはない。もうこんなものができてしまったのか。ほんとに、あっというまだ。
音と言葉。それらは本来、同じものだ。なにかがひらめき、息を吸って、喉をふるわせ、舌をうごかし、唇をひらく。あるいはその逆。無意識に口をついてでた音が、ある意味をつくりだして、それに驚いたり、なにか理解したりする。叫びやつぶやきは、それ自体が言葉であり音楽だ。
シンセサイザーとドラムマシン。人間が作り出した機械は、とっくの昔に人間の模倣をやめた。生身の肉体にはけして演奏することのできない音色とリズム。プログラムとインターフェイスが、人間そのものをつくりかえる。感情をデジタライズし、マシンをからだの一部にする。人間に制御できない未知のテクノロジーが、自然界には存在しないミュータントを生み出すように。
『DIRT』と名づけられた、マシンのビートと人間の肉声による13曲。しなやかだ。そして鋭利だ。ユーモアも忘れてない。ドロドロしてる。渇いている。熱っぽくて、でも醒めている。法律的な意味で悪くて、それでいてとても倫理的だ。薬物。嘘。欲望。裏切り。暴力。それはどこにでもある。慈愛。幸福。赦し。感謝。これもありふれたことだ。騙すのも盗むのも悪いことだと知りながら、それでもみんな騙したり盗んだりする。世界がゆがんでいるのはそんな自分たちの仕業だ。神様を信じていない人間も原罪の感覚を抱く。犯罪。懲罰。奪うこと。わけあうこと。モラルの意味を考える。わかんなくなる。ぞっとする。声をあげて笑う。
ラップはラップというよりは、ヴォーカリゼーションの極限を探求している。死の瞬間のような絶叫。耳をくすぐるつぶやき。電気を帯びたような歌声。一音一音まで研ぎすまされたトラックが精密なマシンのように駆動している。凶暴なベースの蛇がうねる。ハイハットの針が鼓膜を刺す。感情のないグリッチノイズ。無感覚なアンビエントの音色。機械の冷たく完璧な音のうえで、不完全な人間の声が踊り、交差し、破裂する。打楽器のビートにあわせて人間が喋る/歌う、たったそれだけの普遍的なアートを、わざわざラップだなんて呼んでいるのが、ばかばかしくなる。
生と死。そう言葉にするのはかんたんだ。だけど、ほんとは誰もそれを知らない。物音。光。匂い。感触。味。五感が伝えるものは確かなのに、つかまえようとすれば逃げていく。音である言葉。言葉である音。言葉でできているのに、それは言葉じゃない。音でできているのに、それは音じゃない。大切なのはイメージだ。想像するって言葉の意味を想像しろ(Imagine the meaning of Imagine)。
*
「すべての美は傷から生まれる」
パリ生まれのそいつは泥棒で、少年院でホモ・セクシャルに目覚めて、18才で軍隊に入って脱走し、投獄と放浪を繰り返して終身刑を宣告され、それでもデッチあげの日記で有名になって大統領の恩赦をうけ釈放されて、晩年はブラックパンサーとパレスチナの蜂起に身を捧げた。根性焼きの痕。包丁の傷。肌に安全ピンと墨汁で彫った落書き。それを隠すために、マシンの針でインクを流しこむ。皮膚に刻まれた美しいアートは、呼吸にあわせてうごめく。いちばん最初の傷は消えるわけじゃない。生き物みたいな自傷の絵画の下に、ずっと残っている。けして癒えることない傷口。それは女の性器に似ている。
「たったひとりの女の子のことを書こうと思っている。いつも。たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子の落ち方というものを」
河原の白骨死体を囲む子供たち。暴力、薬物、幼いセックス。おたがいに傷つけあって、だけどその痛みには気づかない。20年前、東京生まれの女がそんな物語を書いた。郊外の団地。たなびく工場の煙。排水で濁った河。時代は変わっても、場所は残る。リバーズ・エッジ。さっきまでそこにいたのはひとりの少年だ。ただしいまは、落ちていくところじゃなくて、たくましく成長して、どんどん上に昇っていくところ。
「飢えた子がいなくて芸術は可能なのか」
昔むかしアフリカの飢餓をみて、飢えた子どもを前に文学は可能か、といったマヌケな哲学者がいた。どうやらそいつは、圧倒的な現実の前では、文化や芸術は無力だ、と言いたかったらしい。とんでもないバカだ。その衰弱した問いは、正しく逆転させられなきゃならない。圧倒的な現実なしに、はたして価値ある芸術は生まれるのか、と。カップラーメンと、醤油をかけた白い飯。父親がいない。母親がいない。空腹にたえかねて犯罪をする。シンナーとマリファナの匂いを嗅ぐと保育園のときを思い出して、子どもの頃に見ていた白い粉の正体を物心ついてすぐ理解する。つくりものの言葉や文化がすべて意味を失う。そんな現実からこそ生まれる芸術がある。
*
じゃあ戻ろう。I-DeAプロデュースの“BE ME”。アルバムで最初で最後の強烈な叙情。ざらつくギターに誘われて、モーリス・アルバートの“FEELINGS”がセンチメンタルに鳴りひびく。「わたしは愛の感情を忘れようとしている」。この寂しさは決意の伴侶だ。ストリングスの哀愁を、キックとスネアが余裕をもって追いかけていく。エフェクトのかけられてない生の声。ヴォーカルの音量が大きい。吐き出される言葉に躊躇はない。素朴さと、刻々と変化していく確信に満ちている。これだけでもう、じゅうぶんだ。
以降のサウンドはすべて最新のトラップ。“DIRT BOYS”は香港の言葉では「汚垢男孩」。オリエンタルで金属的なループに、硬質で隙間のある空間的なビート。阿片戦争でイギリスに征服されて繁栄し、いまは中国共産党から弾圧される都市のゲットーで、旧大日本帝国の末裔のチェイン・ギャングたちが歌っている。中華料理店の厨房にぶらさがる生首のラップは、最近のUSシーンの軽薄なエキゾティシズムの搾取への、痛烈なカウンターだ。USのトレンドを手当り次第に奪いまくっているうちに、ついに驚異的に異形なパスティーシュをつくりだしてしまった。こんなもの、アメリカ人にはつくれっこない。
きっと誰もがびっくりする、“一人”や“社交”の電気を帯びたような歌声も、盗品だ。もともとの持ち主は、アトランタのYOUNG THUG。だけど奪ってきたものは、もう誰のものでもない。まるで子どもが泣きながら歌っているような声だ。言語能力が未発達な子どもは、泣き声だけで自分の感情を伝えようとする。だから泣き声というのは、もっとも切実なコミュニケーションだ。電気がほとばしるように、声が感情を放電し、びりびりと鼓膜を感電させる。語族不明の孤児言語である日本語による、いままで誰も聴いたことのない歌。
USシーンへのカウンターというなら、最高に盗人猛々しいのは“LIVING LEGEND”。咆哮フロウのオリジネイター、OG MACOと同じDEEDOTWILLのビート。耳を引き裂くディストーション。みぞおちをえぐるベース。これは完全にラップによるパンクだ。シンプルな韻律に従って、直情的に言葉が放り出される。合衆国の文化的な植民地である極東の島国のラッパーが、本土アメリカのアーティストを笑いながら脅かしている。ふつう「LIVING LEGEND」といえば「LEGEND」のほうが強調されるものだけど、KOHHは「LIVING」ばかり何度も繰り返している。
死んだら意味ない。生きてるのがいい。その生の感覚は、死の輪郭をなぞって確かめられる。2PACの言葉を引き継ぐ“IF I DIE TONGHIT”。金のために悪いことをする/いや、悪いことをしなくても。ガムテープで手足を縛られ、車のトランクに詰められる。最後はピストルかナイフか鉄パイプ。あるいは車が突っ込んで。そうじゃなくたって生の結論はいつも死だ。みんないつか死ぬ。それは今夜かもしれない。だとしても/だからこそ、ラップは楽しげだ。アウトロのホラーコアじみたコーラスは圧巻。3人のマイクリレーなのに、ひどく孤独。
ハイライトは、生と死のテーマがもっともストレートに吐き出される“NOW”、そして“死にやしない”。オーヴァードーズで死んだシド・ヴィシャス。猟銃をくわえて頭を吹き飛ばしたカート・コベイン。剃刀で耳を切り取ったヴァン・ゴッホ。異常者に撃ち殺されたジョン・レノン。たいていみんな銃か薬物に殺される。ドラッグはコカインやヘロイン、日本ならやっぱりスピード。そんなことばかりやってたらすぐに死んじゃうから、LSDを舌で溶かして音をつくり、絵を描く。金を稼いで新しい女と出会う。いつかピカソのように死ぬまで。誰かを憎むのは、いつまでも同じ場所にいる奴だけだ。なにをするのもすべて不自由で自由。愛するのも殺すのも。
明日なんていらない、とKOHHが歌うとき、それは文字通りの意味だ。明日という概念自体が存在しない。明日も明後日も、その後もずっと、死ぬまでの未来のすべてが、現在だ。死の瞬間まで永遠に続く現在を生きるならば、肉体後の不滅さえ信じられるだろう。これは、明日をも知れないから今日を楽しむ、という古きよきハードコア・ヒップホップのニヒリズムとは決定的に違う。未来を否定して現在を肯定するのではない。現在への圧倒的な肯定によって、むしろ未来の概念そのものを書き換える。トラップ以降のシンプルな日本語だけで、Nasのあの有名なパンチライン「人生なんてくだらない(LIFE IS A BITCH)」を更新してしまっている。
*
『DIRT』はまぎれもなく、21世紀の日本で誕生したばかりのゲットー・リアリズムだ。KOHHはしかし、日本的な情緒にうったえて叙情の涙を誘うのではなく、最新のフロウを駆使してプリミティヴな感情をえぐりだす。そもそも彼はトラップ・ラッパーだ。トラッシュな言葉を並べたて、ナンセンスなジョークを平然と口にし、誰もが嫌悪する下世話なリアリティを歌う。ドラッグにハイファッション、女たちと犯罪。それは使い古された既存のストーリーへのアンチテーゼだ。無意味による意味への襲撃だ。真顔で口にされた言葉が、次の瞬間にはひっくり返される。彼のリアリズムはけして、おざなりの感動の物語をなぞることはない。
犯罪と貧困。売人や中毒患者。刑務所にいる誰かの父親、誰かの母親。そんな光景を描く“一人”は、もっとも音楽的な実験性に溢れる曲でもある。まずもって驚くのは、その斬新なフロウの複数性。涙声のような歌の叙情は、地声のラップの乾いた笑いによって切り裂かれる。それに、キックもスネアもかき消してしまう強烈なベース。その奇妙な浮遊感に煽られて、いっさいの物語から解放された不定形な感情の塊が、目には見えないオブジェのように宙を舞っている。これはリアリズムのナイフで彫刻された、音と言葉によるアブストラクト・アートだ。圧倒的で、繊細なものが浮き彫りにされているけれど、それにありきたりの名前を与えることはできない。
制作方法でいえば、このアルバムのいくつかの曲は、一度も文字になってない。KOHHはリリックをいっさい書き留めずに、いくつかのフレーズだけをその場で暗記して何度か復唱し、あとは直感のままにレコーディングしている。最近のUSのラッパーたちがよく使う手法だ。フリースタイルでライヴ感を出そうというのではなく、創作上の方法論として無意識のインスピレーションをすくいとろうとしている点で、むしろシュルレアリスムの自動筆記に近い。あるひとりの人間の脳裏にひらめいた言葉が、ノートにも、iPhoneの画面にもつかまらずに、そのままステレオを振動させ、音になって鼓膜までとどく。かつてアンドレ・ブルトンに毛嫌いされてシュルレアリスム運動から排除された音楽は、いま日米のゲットー・カルチャーのまっただ中で、そのオートマティスムを現代的に蘇生させつつある。自意識の鎖から解き放たれた視線は、生々しい傷を至近距離で見つめながら、物語の涙に溺れることを拒否して、瞬間ごとに生成する感情をリアルに写しとっている。見事だ。ああ、もうこんなものができてしまったのか。
*
ヒップホップ映画のクラシック『ワイルド・スタイル』が日本で上映されたのは、もう30年以上も前のことだ。当時、世界一の経済的安定を謳歌していた日本は、バブルの狂騒と崩壊を経験し、その後のながいながい経済停滞は、社会全体の地盤沈下をともないつつ、「失われた10年」から「失われた20年」へとその呼び名を変えた。だから、もうこんなところまで来てしまったのか、というのは、ひとりのアーティストの成長への驚きというだけじゃなくて、この社会の変化に対する嘆息でもある。いつのまにか、こんなところまで来てしまった。ほんとに、あっというまだ。
はっきりと言っておく。ヒップホップ創成期1982年のグランドマスター・フラッシュ&フューリアス・ファイヴの“THE MESSAGE”以来、ラップ・ミュージックは、ゲットー・ミュージックだ。1950年代のリズム&ブルースがそうであったように。1970年代のファンクがそうであったように。この音楽は社会の傷口から生まれた。すくなくとも、その始まりにおいて。ラップはゲットーに鳴りひびく銃声に負けないように、ヴォーカルの声を破裂させた。傷口を癒すハーモニーを捨て、痛みを吹き飛ばすほどの快楽を求めた。始まりの傷を忘れてしまえば、音楽は子どもを楽しませるだけの玩具になる。逆に傷に支配されてしまうなら、それは老人の感傷を慰めるだけの標本になる。どちらにせよ、ただのグッド・ミュージックだ。ゲットー・ミュージックは、けして傷を忘れず、かといって傷の奴隷にもならない。ラップはいまだゲットー・ミュージックだ。すくなくとも、その現在地点において。
『DIRT』はひとことも社会についてなど歌っていない。表現されているのは、むきだしの感情と、世界中を移動する半径5メートルほどのリアリティだけだ。それでも、そこに見え隠れするアンダークラスの現実は、一億総中流の神話によって隠蔽されてきたこの社会の傷口を、否応なく炙りだしてしまう。それも、爆発的な解放感とともに。社会問題を告発しようとするあらゆるジャーナリズムや政治的な芸術が、どこまでも退屈な凡庸さから逃れられないのは、同情と差別の視線にさらされるその傷が、すべての力の源泉であることを知らないからだ。この音楽は、社会の傷にぎりぎりまで肉迫しながら、同時に、その傷からもっとも自由なところにいる。傷を忘れてはいないが、けして傷の奴隷にもなっていない。
日本列島の10年代は、2011年の震災で始まり、2020年の東京オリンピックで終わる。そのディケイドもすでに半ばを過ぎ、いまだミドルクラス幻想のノスタルジーにまどろむ日本にとって、この音楽は、強烈な異物だ。「クール・ジャパン」のかけ声のもと、傷ひとつない顔で微笑んでみせるアイドルがチャートを占領し、ただでさえカラオケ文化に支配されて久しいこの島国では、いつのまにか微温的な共感だけがポップ・ミュージックの定義となっている。おびただしいタトゥーや黒社会の影、クランベリージュースで割ったコデイン、マリファナの匂いを隠すファブリーズ、着ている服も隣にいる女もすぐに変わって、周りではまた誰かが捕まり、また誰かが帰ってくる。そんな日常は誰にとっても共感可能なものじゃない。だが、芸術とはそもそも越境のことだ。この世界に引かれたあらゆる境界線を侵犯し、異物=他者に出会い、精神と肉体を爆発的に変化させることだ。
KOHHがそのダーティであけすけなラップによって切りひらきつつあるのは、日本の新たなポップ・スターのあり方そのものだ。USシーンとの共振のもと、アンダーグラウンドで生まれたこの音楽の射程は、けして地下だけにとどまってはいない。仲間内で媚びを売り買いするクラブの社交会には背中を向け、むしろグローバルなポップ・フィールドをみすえている。このずば抜けたクオリティのアルバムは、突き抜けるようにラフなエンディングで終わっているけれど、才能あるアーティストが最高峰のプロダクション・チームを味方につければ、このくらいの作品は楽しみながらつくれてしまう、ということだろう。メジャー・シーンがますます内向きに自閉していくのに反比例するように、アンダーグラウンド・シーンはいよいよグローバルな進化を遂げつつある。まるでギャング映画を楽しむように音楽を聴く? 冗談じゃない。この最高にクールでポップなゲットー・ミュージックは、いまこの瞬間、この日本で鳴らされている。列島の住人たちは、みずからのリアリティと地続きの、そのよろこばしい戦慄を、まずはぞんぶんに味わうべきだ。
*
すべての仕事は売春である、とジャン・リュック・ゴダールは言って、岡崎京子はそこに、そしてすべての仕事は愛でもあります、とつけ足した。誰もが交換可能な商品であること。誰もが唯一無二のアートであること。平坦な戦場(Flat Field)とは、「終わりなき日常」といった時代の気分のことじゃない。それは、終わらないはずの日常が終わっても残る、あるトポスのことだ。大人になれない大人たち。子どものままではいられない子どもたち。男と女。そのどちらでもない誰か。すれ違って傷つけあう。結ばれて慰めあう。つかのまの永遠。惨劇と祝福。銃声と産声。窓の外を見ろ。すべてのことが起きうるのを。
かつて岡崎京子が世界に冠たる巨大で空虚な消費空間として描き出したメトロポリス東京は、マルセル・デュシャンやジョアン・ミロをこよなく愛する北区王子出身の不良の手によって、こんなにも危なっかしく、楽しげな場所に描きなおされた。永遠に続くかに思えた栄華と閉塞のほころびは、20年前の女の直感どおり、東京郊外の河べり、リバーズ・エッジで生まれた。明暗のコントラストを激しくした大都市は何度もその名を呼ばれ、いま目覚めの時刻を告げられる。TOKYO、TOKYO、TOKYO、TOKYO….
すべて聴き終えて、喜ぶべきなのか、悲しむべきなのかわからない。ひとつの社会から、これほどまでに傷だらけで、美しい音楽が誕生することは、もしかすると手ばなしに賞賛されるべきじゃないのかもしれない。まず初めに傷があった。このとてもいびつで、爆発的な自由の感覚を宿した音楽は、傷がなければ生まれなかった。皮膚の傷にインクが染みこみ、タトゥーという生きたアートになるように、ラップ・ミュージックは社会の傷に流れこみ、この歓喜と痛みの声をひびかせる。いちばん最初の傷。与え/与えられる始まりの傷。その傷口にそっくりの女の器官から、すべての命は生まれる。その傷口にそっくりの唇から、すべての言葉は生まれる。血と、音にまみれて。
信じてもいない神様を憎み、感謝する。
すべては、傷から生まれたんだ。
Inspirations from;
ジャン・ジュネ「アルベルト・ジャコメッティのアトリエ」
岡崎京子「ノート(ある日の)」
中上健次「飢えた子がいなくて文学は可能か?」
ゴーゴー・ペンギンという名前を聞いて、普通それがジャズのピアノ・トリオだとは誰も思わないだろう。そんなネーミング・センスからして、従来のジャズの文脈から切り離されたところにいるのがマンチェスター出身のこの若き3人組だ。クリス・アイリングワース(ピアノ)、ロブ・ターナー(ドラムス)、グラント・ラッセル(ダブル・ベース)がゴーゴー・ペンギンをスタートしたのは2009年のこと。そして、2012年に地元の〈ゴンドワナ・レコーズ〉から『ファンファーレ』でアルバム・デビュー。〈ゴンドワナ〉はマシュー・ハルソールやナット・バーチャルらのリリースで知られるインディ・ジャズ・レーベルだ。その後2013年にベースがニック・ブラッカへ交代し、その顔ぶれで2014年に発表した『v2.0』は「マーキュリー・プライズ」にノミネートされ、一気にブレイクしたのである。ライヴでも着々と評価を高めていった彼らは〈ブルーノート〉の社長のドン・ウォズの目にもとまり、このたび〈ブルーノート〉と契約して3枚めのアルバム『マン・メイド・オブジェクト』をリリースする。
すでに『ファンファーレ』のときから、ゴーゴー・ペンギンのスタイルは高い地点で確立していたと言える。耽美的でメランコリックなメロディを奏でるピアノ、細かく刻まれた縦ノリのビートを叩くドラム、クールで重厚な空気を伝えるベースは、アメリカで生まれた黒人音楽のジャズとは異なる匂いを放っていた。米国ジャズに付きもののブルースやゴスペルとの関連性はなく、エモーショナルでブルージーな香りはしない。そのかわりにクラシック的なピアノ(クリスはクラシックを学び、ラフマニノフ、ドビュッシー、ショパンの影響を受けたそうだ)、ロック的なドラムというように、イギリスというかヨーロッパらしいジャズというのがその印象だった。きっちりとした学理に則って緻密に構築された楽曲は、フリー・ジャズやアヴァンギャルドのイディオムともまた違ったものだ。同じ若手のジャズ・ピアノ・トリオで比較するなら、カナダ出身のバッドバッドノットグッドはパンクとヒップホップの影響がうかがえるのに対し、ゴーゴー・ペンギンからはUKジャズ・ロック~プログレ、ポスト・ロック~シカゴ音響派などの影がチラついた。当時のUKのメディアが彼らについて、「エイフェックス・ツインからスクエアプッシャー、そしてマッシヴ・アタックにブライアン・イーノの影響を受けたアコースティック・エレクトロニカ・サウンド」と評していたのだが、たしかにドリルンベースのように細断された不定形のビート(こうした傾向は『v2.0』においてさらに強まっていく)、暗鬱としてダークなメロディ、アンビエントで現代音楽やクラシックに通じるスコアにはそうした論評を裏づけるところがあった。録音時のミックスや編集を含めたポスト・プロダクション面では、IDMやエレクトロニカ以降のアーティスト(バンド編成はあくまでアコースティックなピアノ・トリオだが)ということを感じさせたし、そこにポスト・ロック~シカゴ音響派と近似するものを見たのかもしれない。いわゆる横ノリのグルーヴではないので、ソウルやファンクと結び付いたUKのダンス・ジャズ~クラブ・ジャズの文脈とも異なるものだし、ヒップホップやR&Bなどと対峙するUSの新しいジャズの流れとも違う。『v2.0』を聴いたときは、むしろこれはオルタナ・ロックなどと同列で聴くのがピッタリくるのでは、と思ったものだ。
『マン・メイド・オブジェクト』は〈ブルーノート〉からのリリースとはいえ、過去2作の延長線上にあるものだ。彼らの演奏スタイル自体も、表面上での大きな変化はない。ただ、いままで以上にいろいろ多彩なリズムに取り組んでいる印象がある。それが、作曲面に新しい試みを与えているようだ。ドラマーのロブは、「アルバムの多くの作品はロジックやエイブルトンなどのソフトウェアを使って作曲し、そこから演奏を膨らませていった」と述べているが、そうしたエレクトロニックなアプローチを人力の生ドラムへと変換したのが“オール・レス”であり、“アンスピーカブル・ワールド”だろう。これらのリズムは、エレクトロニック・ミュージック的なプリ・プロダクションがないと生まれ得ない発想によるものだ。“ウィアード・キャット”や“グリーン・リット”は彼ら特有のドリルンベースの発展的なジャズ・ロックだが、一方“ブランチーズ・ブレイク”ではいままで見られなかったような4つ打ち的なビートを取り入れ、一種のアンビエント・テクノ的な場面も見せている。疾走感に富む“スマーラ”や“フェイディング:フェイニング”からは、かつてテクノなどと結びついて生まれた「フューチャー・ジャズ」という言葉を思い起こした。そうしたクラブ・ミュージック的な視点で見ると、いままでの彼らはあまりループ感のあるビートは用いてこなかったのだが、たとえば“クワイエット・マインド”のビートはクラブ・ミュージック特有のループ、サンプリング感を抽出したようなものと言える。“イニシエイト”のビートには、いままで希薄だったヒップホップ的なテイストも感じられるし、“プロテスト”にはヒップホップからロックまでを取り込むような力強いビートがある。
こうしたリズム面での進化を見せる『マン・メイド・オブジェクト』だが、エレクトロニック・ミュージック的なアプローチを曲作りに導入したことは、彼らのライヴや今後の制作の方向性にも関わってくる可能性がある。4月に初来日公演も予定されているので、そのライヴでは彼らがどのように楽曲をステージで再現するのか(それとも、アルバムとはまた違った形で表現するのか)、そこに注目が集まることだろう。




