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僕と水越真紀は乃木坂の駅を出てから西麻布の路地裏をしばらく迷い、同じ区画を一周し、途方に暮れ、問い合わせ先の番号に電話をかけたその瞬間、目の前に〈新世界〉があった。よくある話である。入口には長谷川賢司がいた。この新しいライヴ・スペースには〈ギャラリー〉を主宰するベテランDJが関わっていると知って嬉しく思った。そのこけらおとしとして、二夜連続でこだま和文のワンマンライヴとくれば、日常的には関わりのない西麻布というエリアの初めて入る会場にも親近感が湧いてくるというものだ。
〈新世界〉はざっと50人も入ればそれなりにいっぱいの、思ったよりもずいぶんと狭い会場だが、テーブルと席があることで落ち着いた雰囲気を醸し出し、より親密な空間を作っているように感じる。この手の会場は、昔よくロンドンで経験した。実験色の強いエレクトロニック系のアーティストのライヴをメインにやっていて、客は学生が多く、集中して聴くことができた。じっくりと音と向き合えるという意味では、最適な空間だとも言える。いままでの東京にありそうでなかったタイプのヴェニューで、今後の展開が楽しみである。
そんな感じの良い空間の、最初のライヴが4年ぶりのこだま和文のワンマンだというのは、実に贅沢な話だ。先頃このアーティストは、著書『空をあおいで』を上梓している。生活を生きるということを、とても温かく描いているその本に僕はずいぶんと勇気づけられた。彼は、何億光年も彼方の惑星から覗いた地球という星における人の営みのピーマンやミシンについての話を、宇宙よりも大きく描くことができる。疑いの目を一瞬たりとも忘れずに、たったいま生きていることの実感を控えめに滑稽に、しかし力強く描く彼のエッセイは、彼の音楽と同質の悲しみと喜びを有している。
photo: Maki Mizukoshi |
〈新世界〉の通りを渋谷方向にずっと歩いていくと、ポスト・パンク時代にその名を馳せたレッドシューズがある。ミュート・ビートはその頃のレッドシューズに出演していた最高にスタイリッシュなバンドのひとつだった。僕の世代にとっては憧れである。われわれはあの時代、細身のスラックスを穿いて、ハットを被った。襟のついたシャツを着て、踊った。それから20年以上の月日が流れ、こだま和文は燕尾服を着て、頭には白いタオルを巻いた上からハットを被って、スタージに登場する。だぶだぶのスラックスのサイドには、彼自身がミシンで縫いつけたストライプが光っている。
1曲目は"サタ"だった。アビシニアンズの、崇高的なまでに美しいコーラスで有名なこの曲をこだま和文は演奏する。続いて2パックの"ドント・ユー・トラスト・ミー"のカヴァー......。「お前は俺を信用しないのか?」、夭折したギャングスタ・ラッパーへの思いが込められたトランペットの音色は、狭い場内を埋め尽くしたオーディエンスの感情を宙づりにする。YABBYのコンソールから来る重たいベースとレゲエのリズムは身体にリズムを取らせるが、こだま和文の静かなメランコリーが心の置きどころを簡単には与えない。彼は途中のMCでいよいよハイボールを注文すると、こだま和文らしい言葉がゆっくりと出てくる。今年の猛暑のなか、幸せそうな人たちの顔を見るとそれに落ち込む自分がいるのであります......私の曲はダークで悲しいと言われますが、どうかみなさんが少しでも嬉しくなれればと思って演奏するのであります......場内からは少しずつ笑い声も聞こえるようになる。
"ロシアより愛を込めて"のカヴァーに続いて、彼は、縁日の屋台で売っているような、子供が遊ぶプラスティック製の水笛を吹きながら曲を演奏する。水は溢れ、彼のステージ衣装を濡らす。曲が終わるとこだま和文は、それは1986年に起きたチェルノブイリの原子力発電所事故のときに書いた"キエフの空"という曲だと説明する。ああ、これが『空をあおいで』に書いてあるそれか、と思った方も少なくないはずだ。チェルノブイリからそう離れていないキエフの空に、いまでも鳥が鳴いていることを願って水笛を吹きました......とこだま和文は続ける。そして『スターズ』に収録された"アース"を演奏して、第一部が終了した。
photo: Maki Mizukoshi |
波の音に混じって、シド・ヴィシャスの歌う"マイ・ウェイ"が流れると第二部がはじまった。スカにアレンジされた"マイ・ウェイ"を演奏すると、そのままロックステディ調の曲が続く。それから"黒く塗れ"のカヴァー......それはいままで聴いたなかでもっとも本気で「黒く塗れ」という思いが込められているであろうカヴァーだったように思う。
それから、こだま和文はマイクを手に取り、横田めぐみさんとナポリタンの話をする。横田めぐみさんについても、ナポリタンについても『空をあおいで』に収録されている。そして、自分が料理し、食するナポリタンの大切さについて説く。しかし......何よりも大切なのは、私のナポリタンなのであります......場内から笑い......ゆっくりと上昇する場内の温度とハイボールのお陰で、こだま和文はすっかり饒舌になっている。インターネットを通じて顔の見えない相手とコミュニケーションしていると思えるほど自分は浅はかではありません、コミュニケーションとはこういう場のことを言うのです......などといったような内容の話をユーモアを交えながら話し終えると、Kodama & Gotaの"ウェイ・トゥ・フリーダム"を演奏する。
もうその頃には、〈新世界〉の会場はその親密な空間に相応しい雰囲気を作っていた。不自然なほどの礼儀正しい言葉遣いで話しながら、トランペットと交互に水笛を吹いているこだま和文は、滑稽で悲しいわれわれの日々のなかの、ほんのささやかな喜びを、ゆっくりと手で揉みほぐしながら抽出しているようだった。そしてコンサートも佳境を迎えた頃に再度2パックの"ドント・ユー・トラスト・ミー"のカヴァーを演奏すると、メドレーでザ・ビートルズの"サムシング"を吹くのである。その予期せぬ急な展開と秋の風のように優しい調べによって感情は強く揺さぶられ、何かとても大切な経験をしたような気持ちになった。小さな喜びの、大きな手応えというささやかな経験だ。
アンコールは2回あった。1回目では、こだま和文はマイクを握って歌を歌った。2回目で"スティル・エコー"を演奏した。場内からは心のこもった拍手がいつまでも鳴り響いた。
こうして小さな会場の、大きなコンサートは終わった。音楽を生で聴いて、心が満ち足りたのは久しぶりのことだ。僕はその場に居られたことを幸せに思い、こだま和文の音楽がこの世にあることに感謝した。
インターネットの普及も、ゼロ年代後半にはそのコミュニティのサークルの断片化が加速し、充足化を経たことで、薄っぺらい共感を我先に求める傾向が強まっている。何時、何処でも、さまざまな情報にコネクトできるがゆえ、目先の自由に翻弄されることも多くなり、人はその現実と理想とのギャップを何とか埋めようとする。その所業に一喜一憂しながら、以前には感じることがなかったであろう疲弊を覚えている。神聖かまってちゃんはそうした「空しい現代」の申し子のように登場した。
今年の春に放送されたNHKの音楽番組で、神聖かまってちゃんの生演奏を観た。"ロックンロールは鳴り止まないっ"は、ドラマーであるみさこの「ワン! ツー! スリー! フォー!」という威勢のいいカウントではじまる。スティックを叩くときの彼女の笑顔は、実に晴れやかだった。の子が「ロックンロールは鳴り止まねえんだよっ」と吐き捨てる姿も、美しく思えた。の子は、最後に「俺はいまこそ輝いているのであって、俺の時代なのである。いまこそが!」「イッツ・マイ・ジェネレーション!」と吐き捨てた。大人たちからは病的に捉えられがちな彼らの音楽だが、ちゃんと聴けば彼らのそこには、この時代の歪んだコミュニケーション文化を自覚しながらも、そのなかを逞しく生きようとするポジティヴなパワーがみなぎっていることがわかる。
photo : Tetsuro Sato |
三連休の真っ直中、9月19日の日曜日、〈渋谷AX〉。アニメ・ソングのようなおかしなSEが流れはじめると、大歓声のなか、メンバーがステージに現れる。と同時に、ステージ後方には巨大ヴィジョンがゆっくり降りて来る。そこには〈ニコニコ動画〉のライヴ・ストリーミングを使用した公式生放送〈ニコニコ生放送〉の中継映像がそのまま映し出される。閲覧者たちによる「キターーーーーー!!!!!!」「始まったwwwwww」といった挨拶代わりのコメントから、「みさこ結婚してくれ」「あご(メンバーのmonoは顎が出ているから)」といったふざけたコメントまで、〈にちゃんねる〉的な煽りで埋め尽くされている。現場と電脳空間を巻き込んだ大規模な演出や、閲覧者のコメントに触発される形で、現場のオーディエンスはさらに歓声を大きくする。そう、この日のライヴは、現場の空気を共にするアーティストとオーディエンスの関係性だけによって成立するのではなく、PCの前に腰を下ろした〈ニコニコ生放送〉閲覧者も加わって、初めて成立するのだ。
開演した時点で、すでにヴューワーの総数は8,000人近くまで上り(「8,000キタ!!」などのコメントが表示されるので、会場に居てもすぐにわかる)、現場にいる2,000人近くのオーディエンスを加えると、武道館クラスのキャパシティでこのライヴを共有していることになる。これには興奮せざるを得ない。しかしメンバーたちは、自分たちの姿とコメントが映ったヴィジョンを眺めながら、何だか他人事のように、グダグダと喋りながら戯けて楽しんでいる。この相変わらずともいえる人を食った態度は、〈にちゃんねる〉や〈ニコニコ生放送〉に慣れ親しんだ彼らの自然体なのだろう。
そうした興奮に包まれたまま1曲目"夕方のピアノ"がはじまる。この曲は、の子が学生時代に受けた虐めが元ネタになっているとか、真相は定かではないが、「死ねよ佐藤/お前の為に/死ね/死ね」の叫びは、音源で聴くよりもよりいっそう痛々しい。しかもそのコーラスを、大勢のオーディエンスが力一杯に拳を掲げて「死ねー! 死ねー!」とシンガロングする。ヴィジョンには、「死ね」といった悪質なコメントの投稿は禁止されているので、代わりに「タヒね(「死ね」を崩したインターネット・スラング)、「SINE」といったコメントが嵐のように過ぎ去っていく。いったいどうして「死ね」と叫ばずにはいられなかったのか。どうしてこんなコミュニケーションが成り立ってしまうのか。いったい誰がここまで追いやったのか。自分もゼロ年代に翻弄されたユースのひとりである。自分は、の子とは同い歳だ。ネット社会のエクストリームな縮図ともいえるその空間に身を置いた自分は、その光景を観て涙をこらえ切れなかった。
photo : Tetsuro Sato |
その後も、"ベイビーレイニーデイリー""天使じゃ地上じゃ窒息死"といった目を覆いたくなるタイトルの曲が連発された。ライヴはすぐに中盤を迎え(曲間の喋りが長い)、いつの間にか〈ニコニコ生放送〉のヴューワー総数は15,000人に達している。の子は「こうやってロック史が刷新されていくのだと思います」といったようなMCをして、急に思い出したように「ディス・イズ・ヒストリー!」と叫ぶ。90年代を代表するワーキング・クラス・ヒーロー、オアシスの言葉をオマージュとして使うあたり、この状況に対して、やはりどこまでも自覚的なバンドだ。
そしてその「ディス・イズ・ヒストリー!」のコール・アンド・レスポンスとともに、"ロックンロールは鳴り止まないっ"のイントロのピアノ・フレーズが聴こえる。このときは思わず鳥肌が立った。オーディエンスもこの日いちばんの雄叫びを上げ、ヴィジョンは「ネ申曲(神様級の曲という意味)」などといったコメントでいっぱいになる。この曲は、ビートルズもセックス・ピストルズもわからなかった少年が、ある日突然、音楽に胸を打たれる瞬間、そう、あの迸る初期衝動をただただピュアに表現した曲でもある。ディストーション・ノイズと目いっぱいに散らしながらギターをかき鳴らすの子の姿には、初めてギターを抱え、アンプのつまみをマックスまで捻り、憂鬱を振り払おうと轟音を鳴らそうとした少年時代の自分の姿がダブって見える。「遠くにいる君めがけて/吐き出すんだ」「遠くで/近くで/すぐ傍で叫んでやる」と、の子は叫ぶ。mixiやtwitterを弄ぶこの時代において、何ともリアルな叫びだ。
その後は"学校に行きたくない"などを挟み、本編ラストには、サイケデリックなノイズ・ポップ"いかれたNeet"という、実に自虐的なタイトルの曲を披露した。穏やかな狂気じみたその曲調も相まって、ヴィジョンに映る「働いたら負けだと思っている」「今日も自宅警備が忙しい(働かないでずっと家に居ることの皮肉)」といったコメントに胸を締め付けられる。彼らはこうして今日の生き辛さを生々しく告白しているのである。
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演奏終了後、興奮したの子は、自前のWEBカメラ付きノートPC(USTREAMもしていたらしい)を抱えたまま、客席にダイヴした。オーディエンスたちが、自分たちの心情を代弁してくれたの子に感激の意を込めて、フロアで手厚くもみくちゃにしていたのは、美しい光景だった。ただ、セキュリティの手によってステージに引き上げられたときに、いつも着ている割烹着のような衣装がめくれてしまい、勢いで自ら下半身局部を露出してしまったことで、〈ニコニコ生放送〉の中継がやむを得ず中断してしまったのは、「ディス・イズ・ヒストリー!」の終幕としてはあまり美ししいとは言えなかったが......。
先日、クラクソンズは『サーフィン・ザ・ヴォイド(虚空をサーフしろ)』という素晴らしいタイトルを冠した新作をリリースした。そのタイトルが示す通り、空しい現状の自覚と、それを何とか打破しようとする彼らの力強い表現には勇気をもらった。そんな自分は、この日本で現代の空しさと真っ向に対峙し、フラストレーションをまき散らしつつ、戯けたようにサーフし続ける神聖かまってちゃんを追いかけずにはいられない。

〈カリヨン〉や〈セクーエ(Secouer)〉といった新興レーベルが活発な動きを見せ、にわかに勢いを増すイタロ・モダン・ハウスのシーン。コスミック・ディスコの起源とも言われ、北欧ニュー・ディスコ・シーンにも影響を与えたイタリアの伝説的クラブ〈Cosmic〉のサウンドが再評価されている機運も関係しているのか、サイケデリックなサウンドのなかにオーガニックでほんのり土の匂いがするようなサウンドのテック・ハウスが多いようだ。そんなシーンにおいて、数ある新興レーベルのなかでも最近とくに元気があるレーベル〈セクーエ〉から届けられたのは、チェーザレ・デッランナとグイド・ネモラという畑違いの奇才たちによるコラボレート・シングルだ。
チェレーザ・デッランナはイタリア南部の都市、プーリア州レッチェを拠点に活動するトランペッター。ジャズやトラッド・ミュージックをルーツに持つ彼は、地元で自身のレーベル〈11/8〉を運営しており、多国籍ブラス・バンド"オパ・クパ"や、アルジェリア音楽を取り入れたユニット"ジーナ"としての活動も知られている。また、地元のDJやサウンドシステムとの交流にも積極的で、ローカルなダンスミュージックアーティストとのプロジェクト"タランタ・ヴィールス"としても活動している。このプロジェクトには、今回のパートナーであるグイド・ネモラも参加している。まぁ、言うならば、地元の顔役ってやつなのだろう。
グイド・ネモラもグイド・ネモラで、アクが強く雑食性を感じるトラックをリリースすることで知られるアーティストだ。先日〈Joyful Noise〉からリリースされた「アマリ(AMARI)」は、ブルーグラス調なカントリー・サウンドをフィーチャーしたハウス・トラックだった。そんな、畑は違えど通ずる雑食なマインドを持つふたりがローカル・コミュニティで繋がったことは、幸福な出会いと言わずになんと言おうか。
A1に収録されているオリジナル・ヴァージョンは、フェンダーローズとウッドベース、そしてスウィングするアコースティック・ドラムを基調としたトラックの上でチェーザレが吹きまくる煙たいジャズ・ハウスだ。エレピもウッドベースもスウィング・ドラムも、演奏は控えめでクールな空気感を作っている。その上を駆け回るように演奏するチェーザレのトランペットに施された控えめなダブ処理も良い湯加減だ。
サイドBには、〈Apparel Music〉を中心に、上質なジャジー・テック・ハウスを数多くリリースしてきたキスク(KISK)によるリミックスも収録されている。こちらはスウィングするドラムを生かしつつも、イーブンキックを強調したフロアライクなミックスだ。深度を増した空間処理と、新たに追加された重たいサブベースがダンス強度を増しながらもよりドス黒く煙たい空気を作っている。ローカル・コミュニティから生まれた1枚ながら、すでにフランソワ・Kにも注目されている今作。ここにきて、イタリア南部のシーンに要注目である。

ルーカス・スーラス(Locussolus)は、もうほとんど生きる伝説と化しているDJハーヴィによる変名プロジェクトだ。盛況を極めた今春のDJツアーも記憶に新しいところだろう。ハーヴィの音楽キャリアは、彼が10代前半の頃にニューウェイヴ・バンドのドラマーとしてスタートしている。80年代の初頭にパンク/ニューウェイヴの文化圏に居るということは必然的にヒップホップの洗礼を受けることになる。旅行先のNYでヒップホップと出会い、レコードを使ってオーディエンスを操るDJという存在を知ったハーヴィも、例に漏れずその世界に飛び込んでいった。そしてセカンド・サマー・オブ・ラヴの到来により、いよいよハーヴィのプレイはフリーフォームになっていく。そして90年代には自身のパーティ〈Moist〉に敬愛するラリー・レヴァンを招聘するなど、精力的な活動によりシーンへの影響を強めていった。それ以降の、つまりバレアリックやディスコ・ダブ、あるいは北欧コズミック・ディスコ・シーンにまで影響力を持ったカリスマとしてのハーヴィについてはみなさんのご存知の通り。ちなみに、この〈Moist〉には、当時イギリスに留学中だったサイコジェム(Psychogem)ことDJ
HIROAKIも通っており、多大な影響を受けたそうな。
さて、何故わざわざハーヴィのキャリアを再確認したかというと、このEPのサウンドこそが、それこそハーヴィのキャリアを総ざらいするような内容だからだ。A1に収録されている"タン・セダン"は、80'sニューウェイヴ感バリバリのシンセリフが印象的な、熱量の大きいディスコ・ハウスだ。イーブンキックをキープするリズム・マシンと、アコースティックなドラムの絡みも絶妙だ。オーガニックなグルーヴとマシン・ビートのハイブリットという手法はまったく珍しいものではないが、今作ではハーヴィのエディットによって巧妙にその比率が刻々と変化し、ときにディスコ・ダブ的に、ときにシカゴ・ハウス的にと、ビートの印象が玉虫色に変化する。ドラッギーな空間処理が施された電子音が、それらの要素の間を埋めるように飛び交い、そして熱く男っぽいヴォーカルがリフレインする。各サウンドのフレーズは総じてどこかぶっきらぼうだが、確実にこちらのダンス衝動を鼓舞してくれる。
B1収録の"スロー・ダウン"は、ハーヴィ自身がヴォーカルをとる、メランコリックなギターのアルペジオを基調としたダウンテンポなバレアリック・チューンだ。こちらではサイドAとは対照的に、あくまでフォーキーなサウンドで攻めている。チルアウトしているつもりが、いつの間にか深いサイケデリアの沼にハマってしまうような、そんなトラックだ。B2には、ベースとビートを強調して、全体をよりいっそう煙たくダブワイズしたヴァージョンも収録されている。
先日、エレキングに掲載されたインタヴューも話題を読んだ17歳の新星、マッドメイドの新作EPが〈マルチネ・レコーズ〉からリリースされた。前作の『Who Killed Rave at Yoyogi Park EP』に続き、今作も大胆なフレーズサンプリングを用いたベースライン・ハウスを展開しているが......、一言で言うならば「やり過ぎ」である(良い意味で)。
M1の"telstar"は、シャイFXのジャングル・クラシックス"Original Nuttah"のMCを引用したハードコアなベースライン・ハウスだ。ベースライン・ハウスは、スピードガラージの流れを組むUKのベース・ミュージックのひとつで、グライムやダブステップとも影響しあっている。両者ともLFOによって大きくうねるウォブリーなベース・サウンドがキモになっているが、マッドメイドのそれはもはや一言でウォブル・ベースと呼んで良いのか不安になるほど、うねりは過剰になり、そして高速になっている。シンセサイザーの音作りに明るい人ならピンとくるだろうが、音色を高速で揺さぶると元の音色には無かった高次倍音が発生する。マッドメイドの今作は、そうして音色そのものが変化するギリギリまで攻め込んだ音作りがなされている。前作では、あくまでサンプリングしたネタを中心に置いたプロダクションだったが、今作ではサンプリングは自らのアイデンティティを表明するためのエッセンスに留まっている。聴かせたいのはなによりベースだという気持ちが伝わってくる。このEPの凄いところは、ウォブル・ベースのヴァリエーションがまるでおもちゃ箱をひっくり返したように入れ替わり立ち代わり、目まぐるしく登場するところだ。決してワンアイディアになることなく、ポスト・ダブステップのベース・ミュージックを楽しみながら作っているのをひしひしと感じる。
先日マッドメイドのインタヴューをおこなった際に、ルーツのひとつとして、『ビートマニア』などの所謂"音ゲー"と呼ばれるヴィデオ・ゲームに収録されていたレイヴ・サウンドの影響を語ってくれた。ここでのレイヴ・サウンドというのは90年代初頭にエイベックス・トラックスが主導して"ハイパー・テクノ"などと言う呼び名で打ち出していた、日本的に解釈されたハードコア・テクノのことだ。これらのサウンドは、当時のコアなテクノ・リスナーには好意的に受け入れられず、むしろ物笑いの種にすらされていた。しかし、マッドメイドの持ち味である無邪気で行き過ぎた感じは、そういったサウンドの「ハイパー感」も大きく影響しているのだろう。それはある意味で、日本の土壌だからこそなしえた、良性の転移とも言うべきものなのかもしれない。

セオ・パリッシュやムーディマン、そして10代の注目株であるカイル・ホールなど、今年はデトロイト・ハウスの良質なリリースが続いている。そこで忘れてはならないのが、いぶし銀ともいうべきリック・ウェイドの存在だろう。ムーディマンのむせ返るようなエロディシズムやセオ・パリッシュの埃っぽい黒さとはまた異なる黒さがリック・ウェイドの音にはある。
幼少期から、シカゴのラジオ〈WBMX〉を聴いて育ち、若くしてデトロイトの名レコード・ショップ〈レコード・タイム〉でバイヤーも勤めていたリック・ウェードは、その広いライブラリーを駆使した絶妙なサンプル使いに定評がある。丁寧に磨き上げられたサンプルを用いて、ワンループを基調に構築されるそのトラックは、DJプレミアやピー・トロックにも通じるクールな黒さがある。そしてなにより、リック・ウェイドのサウンドでは、ささくれ立ったトゲっぽさや不良性のアイコンとしての煙たさは巧妙に隠されており、一聴すると極めてエレガントな印象を受ける。が、エレガントな上物のベールに覆い隠されているのは、サウンドシステムで再生してはじめて牙を剥く、どすの利いた強烈なボトムの音作りだ。老獪な"ワル"の音作りがそこにはある。ムーヴDもリリースする、モスクワの〈Shanti〉からリリースされた今作も、例によって、クールでエレガントで、そしてワルい。
A1の"need you back"は、ギリギリまで装飾を排して、エレピ、シンセベース、ビートのシンプルなループで引っ張っていくディープ・ハウス・トラックだ。メインのシンセ・ベースにはアタックを遅らせたサブベースが重なっており、一小節のなかで一箇所だけ裏拍でサブベースのみが鳴る箇所が作られているのが絶妙なアクセントになっている。ときおり現れるシンセ・ストリングスの音色も美しい。
A2の"Big Score"はさらにミニマルな構成になっており、さらにワン・ループの抜き差しだけでグルーヴを作るコンセプトが推し進められている。派手な空間処理はないが、異なる質感のサンプルをレイヤーすることで、独自の音空間を作るテクニックは流石というべきだろう。この巧みなグルーヴ・コントロールのテクニックは、彼のDJプレイにも反映されている。10月末にはハック・アブドゥルとともに来日し、渋谷の〈amate-raxi〉にてプレイするということで個人的にも非常に楽しみにしている。
ファルティDLもリリースするオランダの名門レーベル〈ラッシュアワー〉。ここで、このところ勢いがあるのがアリステア・ギブス(Alistair Gibbs)のプロジェクトであるネブラスカだ。DJスニーク周りのビート感と、デトロイト・ビートダウンのファンクネスをいい所取りしたようなサウンドながら、ネブラスカのサウンドの根底から滲み出てくるのは、言うなれば"クリスタル感"とでも言うべきだろうか? 80'sサウンドにも散見されるような独特なアーバン・テイストだ。
A1の"This Is The Way"、フィルタリングされたディスコ・ループが心地よいジャッキン・ハウスだが、注目するべきはタイトルの由来にもなっている「This Is The Way~♪」と歌い上げるヴォイス・サンプルだ。このサンプル、良く聴くと阿川泰子の"Skindo-le-le"をサンプリングしているではないか! なんというか、まさかのオシャレ30・30。アーバンもここに極まれりといったところか。
A2の"Bar Story"は、キラキラしたエレピの二小節ループを中心に展開する小洒落たトラックだが、こちらも一筋縄な展開ではない。中盤以降トラックの主導権を握るのは、降り注ぐようにフィルタリングされたホワイト・ノイズや細かくカットされ、リヴァーブとディレイで飛ばされたシンセ・リード、そして図太く粗野なムーグ系のシンセ・ベースだ。小洒落たディープ・ハウスが、いつの間にかデトロイト・フレーバーのするテック・トラックに姿を変える。
B2の"Ras El Hanout"は、よりテッキーな路線を突き進め、ファンキーなベースラインでぐいぐいと引っ張っていく。デリック・メイの初期作にも見られたような、ピッチ・ベンドで捻じ曲げられた粘っこいシンセ・リードと、空間を分かつように疾走するストリングスの絡みには、デトロイト・テクノ好きは否応無しにもアゲられてしまうだろう。しかし、ここまでの多様な音楽的アイディアを、良くぞ一貫してウェルメイド感のある作品に纏め上げたものだ。正直感心して唸ってしまった1枚。
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![]() 菊地成孔00年代未完全集『闘争のエチカ』(上下巻) イーストワークス |
「瓢箪から駒」というか「バタフライ効果」というか、3年前に活動休止したデート・コース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデン(以下デート・コース)の突然の復活劇に私の提案が一役買っていたのは、眩暈のする気分だった。70年代のマイルス・バンドのベーシスト、マイケル・ヘンダーソンが往時のマイルス・バンドを再結成し日本に来たがっているという話をあるひとから聞いて高見氏の耳にいれたのは私だったからだ。もう2~3年前の話だから、すっかり忘れてしまって、まあ立ち消えたのだろうと思っていた私は、ゼロ年代全集『闘争のエチカ』を出し、10月9日に日比谷野外音楽堂でのライヴを控えた菊地成孔の口からその話を聞くにおよび、不思議な感慨をおぼえた。
ともあれ話は動き出しており、それはあの10年とはちがうこの10年に波風を立たせないはずはなく、私は3年ぶりの活動再開は休止というにはスパンが短いとも当初思っていたが、いまは考えをかえた。非常にたのしみになった。私は菊地成孔とちがい、運命論はほとんど信じない。決定論から逸れるのがおもしろいと思っている。決定論へのすききらいは別にして、全集に--これはあくまで全集の「構え」をしたものと断ったうえで--闘争のエチカ(倫理)とつけた菊地成孔にはゼロ年代からつづく運命とも公理とも正義とも道徳ともいえるものへの諧謔がありいささかも衰えていない。
「マイケル・ヘンダーソンがあのときのエレクトリック・マイルスのメンバーを招集してライヴして、そのフロント・アクトでデート・コースもリユニオンして一回だけ演りませんか?」と高見くんに訊ねられ、「だったら演る」と答えたのね。
■デート・コースが復活したいきさつを教えてください。
菊地成孔:(プロデューサーの)高見(一樹)くんにだまされたというのが本当のところです(笑)。
■そんなこと書けませんよ。
菊地:いいよ書いて。2年くらい前、アメリカでマイケル・ヘンダーソンがエレクトリック・マイルスのリユニオン・バンドを作った。ついては日本公演がしたいと第一報があったのね。そのとき僕は『オン・ザ・コーナー』のバンドでのリユニオンだともうちょっと細かい話を聞いていたんだけど、「マイケル・ヘンダーソンがあのときのエレクトリック・マイルスのメンバーを招集してライヴして、そのフロント・アクトでデート・コースもリユニオンして一回だけ演りませんか?」と高見くんに訊ねられ、「だったら演る」と答えたのね。リユニオンといっても一度だけだし、旧メンバー集めて演奏して「よかったね」で終わると思って一年くらい交渉を待っていたの。だけど、待てど暮らせど......というか、よくある話なんだけど二転三転して、最終的にその話自体がなくなったはいいが、途中経過で野音を押さえてしまっていた、と。
マイケル・ヘンダーソンの話は黒人にありがちなブラフで、結局エレクトリック・マイルス・バンドの来日公演というこっちがワクワクするようなものじゃなくドサまわりだとわかってきたんだけど、ギリギリまで粘ったんですよ。じゃないと、デート・コースが単体で活動再開ってことになりかねないから。僕はそれはイヤだといったわけ。というのは、野音がデート・コースが活動を再開するからっていっぱいになるわけないと思っていたから(笑)。もう誰も憶えてないよって。
■「誰も憶えていない」は極論だと思いますが。
菊地:だとしても野音は規模がちがう。マイケル・ヘンダーソンに興味をもったひとが「そういえば昔デート・コースってバンドがあったな」って、久しぶりに見るのも悪くないというかね。だから高見くんには、一所懸命頼んで、最終的には「マイケル・ヘンダーソンひとりでもいいから旅費払って呼べ」っていったの(笑)。「デート・コースにマイケル・ヘンダーソンが入るのでもいいから、単独で活動再開っていうのはやめてくんない」って(笑)。だけど彼はそんなこと聞くひとじゃないから、僕の望みなんかたいがい叶わない。で、自分たちだけで野音やるはめになった(笑)。「だったら」ってこっちも降りる目もあったんだけど、そのころには再開に向けてマイケルの話とは別に気持ちが高まっていったところもあったから、彼の来日がなくなったのはたまらないものはあったけど、「でもまあ、やるか」って感じにはなってきていた。どうせ活動再開を謳うなら、懐かしいメンバー中心ではなく、僕以外は若いメンバーで--マイルスのスタイルですが--再構築しようと考えたんです。アルバムのリリースやライヴの頻度は別にして、まずは野音とボロ・フェスタで(新生)デート・コースをたちあげるのに、全体の計画がシフトしてきたわけ。シンシアにいうと、なにもない状態から「デート・コースをもう一回やるべきだ」というモチベーションが生まれてきたわけではない。
[[SplitPage]]若手にはデート・コースのチルドレンみたいなヤツがいるんだよね。僕の教えている生徒にはティポグラフィカのライヴにはとうとう行けなかったけど、音源を全部もっていて、「楽譜みせてください」とか「自分で採りました」って子がいっぱいいるわけ。
![]() 菊地成孔00年代未完全集『闘争のエチカ』(上下巻) イーストワークス |
■活動休止から3年の期間をどう見るかですね。しかしそれは瓢箪から駒かもしれないですね。
菊地:そうであってほしいけれども。ただエレクトリック・バンド、デート・コースと名乗るかどうかは別として、ここのところフル・アコースティックのバンド活動に傾いていたから、そろそろファンキーなもの、5~6人のスモール・コンボでポリリズムを主題にしたエレクトリック・バンドはやろうとずっと思ってはいたの。
■メンバーは事後的に考えたわけですね。
菊地:そう。旧メンバーで「こいつだけはどうしても」っていうひとには残ってもらって。
■それはどなたですか?
菊地:坪口(昌恭)と大儀見(元)と(津上)研太。それと僕を加えた4人が残る。あとは全員変える。
■新デート・コースのパーソネルを可能な範囲で教えてください。
菊地:千住(宗臣)くんとJ・A・Mとかソイル&ピンプ・セッションズのピアノの丈青くんはわかるだろうけど、ほかは生徒とかアマチュアからハントしたひととか、名前を知られていないひとたち。厳密にいうとニコニコ動画のテクニック系動画マニアの間では有名とか(笑)、そういう名声あるけど、一般的には無名ですね。
■リハーサルはもうはじったんですか?
菊地:明日(取材日は2010年9月15日)が初日。
■期待と不安半々ですね。
菊地:僕にとっては千住くんや丈青くんの方がむしろ未知数ですよ。彼らの場合いろんなツテを頼ったけど、ほかのメンバーは自分で選んだからポテンシャルがだいたいわかる。若手にはデート・コースのチルドレンみたいなヤツがいるんだよね。僕の教えている生徒にはティポグラフィカのライヴにはとうとう行けなかったけど、音源を全部もっていて、「楽譜みせてください」とか「自分で(音を)採りました」って子がいっぱいいるわけ。彼らはそこからデート・コースに進んで......なんというかな、種はまいたというかね。いま20代でデート・コースのライヴにギリギリ間に合ったくらいのプレイヤーがでてきた。そういったひとたちからもらったデモ・テープを聴くと、彼らは最初からデート・コースを聴いて育っているから血肉化されているんですよ。ロックンロールのパイオニアに対する第二世代というか、下の世代が育っていることに気づいたんですよ。
■デート・コース的な言語でしゃべるネイティヴですね。
菊地:そうそう。彼らは若いし、前のデート・コースの最大のネックだったスケジュールや活動資金の問題もクリアできる。さらに彼らはリズムに対するリテラシーが高い。メンバーがあらかじめ曲を全部知っていれば、マイルス・スタイルを採用しても対応可能であり、現にそういったひとたちが複数名いたというのが活動再開の契機でもありましたね。
■ミュージシャンに技術があってもコンセプトを飲みこめないと演奏できないでしょうからね。
菊地:上手いということは結局万能ではないからね。
■菊地さんは教鞭をとられてもいるわけですが、この10年の菊地さんの活動によって、若いリスナー一般のリズムのリテラシーが高まったということですか?
菊地:全体はなにも変わってない。むしろ退化している。というのはいいすぎにしても、ほとんど変わってないですよ。いまいったひとたちは好事家であって、アメリカのどの州にも何人かはザッパが死ぬほど好きなマニアがいる、というような意味です。
■テープを擦り切れるほど聴いてコピーして、ザッパ・バンドに入りたいひとたちですね。
菊地:オーディション待っているひとたちね。じっさいザッパ・バンドってそうやって長い時間かけてまわっているわけでしょ。いまはザッパの時代とちがうから、YouTubeがあって音源も共有ソフトでとれるし、はいりこむ回路はいくらでもある。新生デート・コースのメンバーは東京にいて、デモ・テープをもらった数人の直接コンタクトできる子たちから選んだけど、時間があればオーディションしたかったですよ。
■菊地さんの活動に啓蒙されてリズムのリテラシーが変わったひとは少数であったとしてもいた、ということですね。
菊地:僕がこの10年やってきたことは、ゼロからはじめることだったんです。リテラシーがゼロなのを、友人である優れたミュージシャンたちにやらせてきたのをファースト・インパクトだとすると、それを聴いて育ってひとがでてきて刈りとるセカンド・インパクトが当然うまれるわけ。あらゆる音楽史にとってそれは必然です。僕のゼロ年代にやったことは全部同じで、頭のなかでコンセプトを作り、それをすでにキャリアがある友だちたちにやらせて、結果的にうまくいった、その繰り返し。だから第二世代がでてきたこと自体がすごく新鮮なんですよ。ロックンロールや、レゲエやヒップホップみたいなジャンルではもっと短いスパンでそういった現象が起こるわけで、うちらにもそういったタームに入ったか、と驚いたところもある。それがマイケル・ヘンダーソン不在にも関わらずモチベーションがあがった大きな要因ですよね。
リテラシーを高くとることで賞味期限を伸ばそうという戦略があったわけではないけど、結果としていまの日本人全体にはポリリズムとか複合リズムはリテラシーは高いものになってしまっている。だからいつまで経っても消費されない感じがある。
■『闘争のエチカ』はベスト盤......というか総括とも全集ともいえるものですが、菊地さんのいうゼロ年代は『闘争のエチカ』に集約されたと考えていいですか?
![]() 菊地成孔00年代未完全集『闘争のエチカ』(上下巻) イーストワークス |
菊地:『闘争のエチカ』は最初、〈イーストワークス〉のワークスをCDボックスで出そうというありきたりな話で進んでいたんですよ。〈イーストワークス〉の仕事というのは、ゼロ年代というディケイドを前半と後半にわけると、後半なの。00年から05年はスパンク・ハッピー、デート・コース、『スペインの宇宙食』で、後半は歌舞伎町でジャズ。2005年に『情熱大陸』に出演しているから、ちょうどカードの裏表みたいにバチッとわかれる。ディケイドは半分に割れるものだから。その考えで、〈イーストワークス〉ワークスを出すとなるとカードの裏面、後ろ側の5年の全集が出ることになる。それで高見くんにムリは承知で「デート・コースとスパンクスも入れた、この10年の前半も入れた全集が出せたらいいね」っていったんですよ。そうしたら高見くんはもちまえの行動力でそれを実現したわけ。「全部いけますよ」となったときに「じゃあ徹底的にいこう」と。「CDの何枚組っていうのはやめて、4ギガのUSBメモリに全部入れる」となった。僕はご存じの通り、ハードは全然知らないから、「おもしろいね、これ」といっただけなんだけど、いずれにせよ、商品形態としては一個人の10年間の活動を動画と静止画とテキストをあわせて4ギガバイトのメモリに収録して1万円というのは世界初だからね。値段の設定もよくわからなかった(笑)。「安すぎ」だっていう声もあるし、「高くて買えない」っていう若い子もいるという。その意味ではすごく現代的で、昔みたいに鶴の一声で価格をいえば国民のコンセンサスが得られる時代じゃないから値段つけるところから楽しくやったわけだけど、仕事の総括ということとニュー・メディア、新しいプロダクトを出す喜びが重なってきた。デート・コースの活動再開とは時期がダブったのは偶然(笑)。デート・コースは映像がでかくて、夏目(現)くんが撮影した映像が膨大に残っているんだけど、初心者はもちろん、マニアでも見たことのない〈みるく〉でのライヴ映像なんかを入れたらちょっとしたプロモーションにはなるかな、と大急ぎでこれが野音前夜に向けて制作されたという事の次第です(笑)。
■〈みるく〉ももうないですからね。菊地さんはコンテンツを確認されたんですか?
菊地:もちろん。高見くんとふたりで全部確認して写真も全部選んで、ライヴ音源も山ほどあるもののこの部分を使おうと指示して、相当な難事業でした。最初は新録がいらないから楽だと思っていたんだけど(いままでで)一番キツかった(笑)。2004年の仙台でやったライヴとか、「ひょっとしたらいいテイクがあるかもしれない」って見るんだけど、全部"ヘイ・ジョー"とか"キャッチ22"なの(笑)。
■気が狂いそうですね(笑)。
菊地:狂うよ(笑)。それを乗り越えて、厳選に厳選を重ねました。
■キツかったのは過去の自分に対峙するのがキツかったわけではなくて?
菊地:いや、過去の自分の対峙するのは誰でもそうであるように僕だってキツかったですよ。10年前の映像を見るのなんてイヤなものじゃない。でもそのキツさは最初だけで、自分史を補強したというか、精神的なつらさはそれほどでもなくなった。
■そのうえで自己分析するとどうなります?
菊地:「多岐にわたる活動」といわれてきたけど、僕のこの10年やってきたのは構造レベルに還元すればひとつだなと思った。全部ポリリズムとポリグルーヴだよね。そういうことも頭では理解していたけど、目のあたりにすると「なるほどな」と思いました。
■「なるほど」というのは過去あるいは表現への所有感ですか?
菊地:音楽の衝動っていうのは個人から出ているとはいえ、もっと共有的なものだと思うよね。だから所有感というより、ともすれば忘れてしまうちょっと前のことだとか、「いろんなことをやっている」といわれるうちに自分でも「いろんなことをやっている」と思いがちだけど、つまるところストーンズみたいな金太郎飴状態ではなくても同根感はあるということです。YMOとかソロとか、坂本龍一さんの音楽はいろんな要素を孕んでいそうだけど、結局のところ、ドビュッシー風の和音がポップスに乗っかってくるというそれだけをつづけている側面があるのと同じで、結局僕はブラック・ミュージック発のダンス・ミュージックの新しい形を模索し、ジャズをどうレコンキスタさせるかを模索しているだけです。
■それはこの10年のテーマですか? それとも通史的な?
菊地:10年間を総括して、掛け値なしでよかったと思ったのは消費されきってないということなんですよ。リテラシーを高くとることで賞味期限を伸ばそうという戦略があったわけではないけど、結果としていまの日本人全体にはポリリズムとか複合リズムはリテラシーは高いものになってしまっている。だからいつまで経っても消費されない感じがある。スパンク・ハッピーみたいに例外はありますけどね。あれはポップスだったから、即消費され即分析され、ネットで書かれたり二次制作にまわされたけど、ほかのものにはミスティフィケーションが生きているんですよ。
[[SplitPage]]いま感じているのは社会単位といっても個人単位といってもいいけど、またリテラシーが下がっているということ。90年代は音楽に対するリテラシーが極限までいって、ちょっとした大学生もレア盤に詳しかったじゃない(笑)。いまのちょっとした大学生はレア盤にくわしくない(笑)。
![]() 菊地成孔00年代未完全集『闘争のエチカ』(上下巻) イーストワークス |
■リテラシーという言葉には難解なものを理解するという意味をこめてます?
菊地:難解さの定義は明快さの定義と表と裏で、フランス語に対して日本語が難解かという図式であって、難易度ではないよ。よくイタリア語にRの発音がないから日本人にやさしいとかアフリカの言葉には複雑な拗音や促音があるから日本人にはむずかしいとはいうけど、それは極大値の話であって、平均値をとったら、なにが難解かという話ではなくてただの文化的な差異でしょ。
10年間やったことでもうひとつわかったことがあるんだよ。大友(良英)なんかと比べるとよくわかるんだけど、海外にもっていって外国人がどう反応するかというテストは僕はしなかったのね。大友は作品を作って、外国に売りにいく。そうすると、エキゾチシズムを含めて外国に市場があることがわかって、それは彼の90年代の経験がそうさせていると思う。これからやっていこうと思っているもののひとつはそれで、じっさい、キップ(・ハンラハン)とかマルタン・メソニエだとかそういったひとには、日本人の音楽評論家や音楽家よりもはるかにストレートに通じて大喜びするわけよ。ドメスティックでやっていくのを自分に課していたわけではないけど、この10年ドメスティックでいたよね。デート・コースをアメリカにもっていこうとか、ダブ・セクステットでどこかにいこうとか、そういった話はあったけど、神の見えざる手でことごとく潰れていくわけ。そういう意味では僕の音楽にとって難解さは程度でしかなく、文化的な差異、つまりリテラシーといういい方がいちばん正しく、日本人にとってはリテラシーの高い音楽になってしまったけど、コスモポリタンにとってはどうかなという思いはありますよね。このあいだ、(エルメート・)パスコアールがきたとき、〈ジャズ・ドミューン〉でティポグラフィカとぺぺ(・トルメント・アスカラール)を聴かせたら、「メチャメチャいい」とかいっているわけ、普通に。
■大友さんはエキゾチシズムを輸出した側面があったとしたら、菊地さんのおっしゃっているのは翻訳可能性というか、普遍言語としてのリズムで向こうのフィールドに割っていく感じですよね?
菊地:そうそう。だからある種のイグザイルというか、国内においては一種の不適合ではあるよね。
■ディアスポラともいえる?
菊地:それは重要かもしれないし、海外でいざやってみると意外と簡単に消費されるかもしれないからね。不適応を抱えたひとがずっと東京の新宿にいることのほうがおもしろいかもしれないわけだから。
■2010年代にそこにあえて乗りだしていこうという気が芽生えつつある?
菊地:うーん。ゼロ年代の総括として、複合的なファクターでそれをやらなかったことはたしかで、ゼロ年代の積み残しとして2010年代にそれをやってみようかなと思う部分もあるということだよね。ゼロ年代もトライはしていたんだけど、僕は極端な運命論で、ダメなときはどんなにがんばってもダメで、うまくいくときは放っておいてもうまくいくと思っているから(笑)。今回のデート・コースの野音のフロント・アクトもリッチー・フローレスとペドロ・マルチネスの〈アメリカン・クラーヴェ〉の連中だしさ。(デート・コースの)解散コンサートにキップいたんだよね。キップはデート・コースを大好きだし、僕の旧譜もだいたい聴いて大好きだと。それはヒップホップでいうシンジケートみたいなもので、外国とのネットワークは模索しつつある。
■菊地さんはゼロ年代と10年代の空気のちがいをどこに感じます、現時点で?
菊地:歴史は線的に発展しつづけるんだという、いわゆる20世紀的な近代史観というものがあるよね。音楽でもそこに寄与したひとはマイルスをふくめていっぱいいるけど、20世紀のなかば過ぎにそういった考えはダメだ、もしくはまちがいだと主張するひとたちが出てきた。そういう解釈の柔構造として出てきたのがビーガンとかロハスで、彼らは近代を止めろといっているわけだよね。僕はそういったひとたちを批判はしないけど、考えは足りないとは思う。このままいったら破滅するから破滅しないために近代化を止めようといっても止まらないわけで、彼のいっていることは志は高いけどムダな抵抗だと思うわけ。そんなことしなくても、人類史には波みたいなね、行き過ぎたあとの空白みたいな部分がかならずあって、ゼロからやりなおすポイントがある。「マヤ文明は科学が発達したのに一夜にして消えました」とかね(笑)。
■ずいぶん遡りましたね(笑)。
菊地:そういうのも喧しくいわれてきたし、レヴィ=ストロースに代表される「インディオの時間は円環している」というような反近代的な時間感覚とか反近代的な文明史も唱えられていたけど、僕はどれもピンとこなかった。というのは、iPadにしろiPhoneにしろ、じっさいにモノは発達しつづけているわけで、たった20年前にはケータイもないわけじゃない。一方でこんなに発達しているものを抱えつつ発達を止めろといってもムリだという気持ちを抱きながらゼロ年代はずっとやってきんだけど、いま感じているのは社会単位といっても個人単位といってもいいけど、またリテラシーが下がっているということ。90年代は音楽に対するリテラシーが極限までいって、ちょっとした大学生もレア盤に詳しかったじゃない(笑)。いまのちょっとした大学生はレア盤にくわしくない(笑)。90年代は音盤的知識がユースに行き渡って、ゼロ年代には構造分析が主流になって、ユースのポピュラー・ミュージックへの解像度がどんどんあがっていくんだと、すくなくとも20世紀的な見地ではいいたかったわけだよね。でもまったく上がってない、どころか下がっている気が、いましています。それが白紙に戻って、10年代はもう1回トライするイメージがありますよね。
■そこで必要なのが倫理(エチカ)だと?
菊地:そういうこと。エチケット、エチカがないからどこまでずるずると動物化したわけで、それによって身体性をかなり喪ったと思うんだよね。音楽はどうしても身体的なものだから、それに引きずられるようにして、音楽の身体的なリテラシーが下がってしまった。〈ジャズ・ドミューン〉のあとに〈クラブ・ドミューン〉になるじゃない。Twitterで〈ジャズ・ドミューン〉の間のリプライを全部読むじゃない。読んでいるうちにDJが登場して、TLは「このDJヤバい」ってコメントで埋まるんだよね。それをみていると、ある意味ものすごいリテラシーが高いんだけど、音楽そのものの構造に対するリテラシーはなきに等しいというかね。それは悪い意味ではなくて、そういう状況なんだな、ということですよね。しかもそういったひとたちも数すくないストリーミングでクラブ・ミュージックを聴きたい一部の帰属層っていうかさ、ユース全体ではなくて、アッパー・ユースというか、かつてよくクラブにいったひとたちかもしれない。だからまあ、自分と同じ年配や上のひとたちがどう思っているかは、自分も中年になったからわかってきたけど、いつでも若いひとに刺激を与えるにはどうしたらいいかつねに考えています。50になったら、「いやー、もう若いひとの考えはわからないしねー」って精神的な「引退」をしてもいいわけだけど(笑)、まだそれは考えてますよね。昔のひとはまだ、頭でっかちだといわれながらわざわざクラブに行って「あのDJがヤバい」とかいっていたわけじゃない。いまはそんなことしなくても音楽を聴ける状況ができあがってしまった。音楽の意義がだんだん変わってきていて、レイヴに行くひとなんかはユース全体っていう括りじゃなくて、「レイヴに行くひと」っていう括りに変わっていきつつあるなかで、ユース全体に刺激があると思わせる感覚をもっと研ぎ澄ましてやっていきたい。ゼロ年代もそれはやってきたことだけど、2010年代の展望があるとするとそれですよね。
(2010年9月15日、新宿で)
出演:DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN
Opening Act: Richie Flores & Yosvany Terry Cabrera
2010年10月9日(土) 開場16:00 開演17:00
会場:日比谷野外大音楽堂
入場料:¥6,500(税込み)
お問い合わせ:0570-00-3337(サンライズプロモーション東京)
10月30日上下巻同時発売
"ewe special products store" https://eastworks.shop-pro.jp/
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『セヴン・イディオッツ』はワールズ・エンド・ガールフレンド(WEG)にとって6枚目のオリジナル・アルバムで、Wonderland Falling Yesterday名義の作品やMONOとのコラボレーション・アルバム、映画のサウンドトラックなどを加えると通算9枚目のアルバムとなる。2000年に自主制作による『エンディング・ストーリー』でデビューしたWEGは、当初から"終わり"というオブセッションを抱えながら、そしてまた、ゴッドスピード・ユー・ブラック・エンペラー!(GYBE!)に刺激を受けながら、際だった美しさと神経質で分裂症的なエネルギーと、あるいはダイナミックな混乱と深いエモーションを同時に研ぎ澄ませながら、世界中に多くのファンを持つに至っている。2002年のバルセロナのソナー・フェスティヴァルではバカ受けして、その3年後には2度目の出演を果たしている。2008年にはオール・トゥモローズ・パーティにも出演している。海外のアーティストと話しているときに、この10年で何度かWEGの話を耳にしている。
『セヴン・イディオッツ』は、とくに評判の良かった2007年の『ハートブレイク・ワンダーランド』以来のオリジナル・アルバムで、WEGが設立したインディ・レーベル〈ヴァージン・バビロン〉の第一弾となる。そして『セヴン・イディオッツ』は、おそらくこれまでのWEGのなかでもっとも挑発的な作品だと思われる。
WEGの音楽はGYBE!のように物語性があり、そしてGYBE!の作品と同じようにそれを聴くことは決して楽とは思えない。リスナーの心を叩きつけることさえ厭わない激しさが、つねにある。それを踏まえたうでも、『セヴン・イディオッツ』はとびきり狂おしい作品となった。
前半は素直に楽しめる。諧謔的で、ところどころチャイルディッシュで、早い話、親しみやすい。ロック・ギターとドリルンベースの"Les Enfants Du Paradis"、メタリックなギターとテクノ・ダンスとの混合"Teen Age Ziggy"、美と激しさがぶつかり合うドリルンベースの"Ulysses Gazer"......言うなればマーズ・ヴィルタとエイフェックス・ツインがいっしょにスタジオに入ったような曲が続いている。とくに"Ulysses Gazer"の分裂症的な展開とその疾走感には素晴らしいものがあり、僕の鼓膜はいっきに引きつけられる。WEG流のジャズ・ファンク"Helter Skelter Cha-Cha-Cha"も魅力たっぷりの曲だ。これはIDMスタイルによるザ・ポップ・グループのようで、しかも"Ulysses Gazer"同様に細かい仕掛けがいっぱい待っている迷路のようだ。
"Helter Skelter Cha-Cha-Cha"に続いて突然はじまる"Galaxy Kid 666"はスラップスティック調の曲だが、ときおり入る悲しみの旋律がこのあと展開される壮絶な地獄を予感させる。まあ、それでも"Bohemian Purgatory pt1(自由人煉獄)"は彼が得意とするリズミックで執拗なまでのエディットが素晴らしい曲で、終末を祝福するかのような"pt 2"にしたってそのジャジーな展開に陶酔できる。そう、問題は"Bohemian Purgatory pt3"から"Der Spiegel Im Spiegel Im Spiegel(鏡のなかの鏡のなかの鏡)"、"The Offering Inferno(献上される地獄)"へと展開される容赦ない狂乱状態の3曲だ。こんな世界などさっさと終わらせてしまったほうがいいだろうとでも言いたげな"The Offering Inferno"はその頂点で、狂った天才と言われる前田勝彦は冷酷な眼差しで悪夢を描こうとする。"Unfinished Finale Shed(未完成のフィナーレは落ちる)"はクローサーにぴったりの美しい曲だが、聴き惚れると言うよりも気持ちとしては安堵のほうが強い。WEGのディストピアからようやく戻って来れたのだ。
海外での評価を読んでいて面白いのが、WEGとはある種の気の触れたファイナル・ファンタジーだという解釈である。日本という"型"にはめたいという欲望があるのだろうし、あるいは『エンディング・ストーリー』から一貫している前田勝彦の細かいエディットやどこか子供じみた展開がそう思わせるのかもしれない。と、同時に彼らはこの音楽がそう簡単に分析できるものではないことも感じているようだ。いったいこの異様なエネルギーはどこから来るのだろう、そう思っているフシがある。WEGと同じ国に住んでいる僕には、ぼんやりとだがその気持ちを共有できる気がする。が、それにしても......だいたい、もし"Bohemian Purgatory pt3"と"The Offering Inferno"が入ってなければ、もっと気楽にこのアルバムを楽しめただろう。けれども、この2曲を入れてしまうところがWEGであり、そしてその妥協のない態度からは〈ヴァージン・バビロン〉の第一弾としての強い意気込みを感じる。