![]() TOWA TEI 94-14 ワーナーミュージック・ジャパン |
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![]() Various Artists 94-14 REMIX ワーナーミュージック・ジャパン |
テイ・トウワがニューヨークに渡った時代は、クラブ・カルチャーにとって、細分化をまだ知らなかったという意味では幸福な時代だった。ヒップホップはハウスと手を組んでいたし、どちらか片方だけを追求するオーディエンスもまだいなかった。UKジャングルなんていうのも、実を言えばヒップホップとハウスを両方聴いていた耳が作り出したもので、ヒップホップ(ブレイクビート)を45回転のプラス8でかけたら面白かったというわけだ。
なんにせよこの原稿で重要なのは、テイ・トウワとは、そんな無邪気な時代の空気を思い切り吸って吐いていたひとりである、ということだ。
1987年、ニューヨークに渡ってDJ活動をはじめると、彼はスーパー・ポップ・ハウス・グループのディー・ライトに参加している。1990年の「グルーヴ・イン・ザ・ハート」は、ナイトクラブでも街中でも、そしてお茶のでも流れた大ヒット曲だが(全米4位/全英2位)、このブレイクビート・ポップ・ハウスではブーツィー・コリンズがベースを弾いてQティップがラップをしている。メイシオ・パーカーはサックスを吹いている。ディー・ライトは、華やかで、デイジーな時代を象徴するポップ・アイコンだった。そして当時のテイ・トウワは、どこか別の惑星で売られているコミックの世界からやって来たかのような、ピカピカの青年だった。彼は輝いていた……いま輝いてないわけではないが、1990年の時点では最高に眩しいポップの住人のひとりだったのだ。
今年2014年は、1994年に彼が最初のソロ・アルバム『フューチャー・リスニング!』を出してから20周年にあたる。ディー・ライトを脱退してからもテイ・トウワは順調にリリースを重ね、ソロ活動を展開している……と言っていいだろう、端から見ている分にはそう見える(人知れない葛藤や苦難があったと思うが、それを前面に出さないのがテイ・トウワでもある)。
去る7月末には、彼の曲のベスト・リミックス・アルバム『94-14 REMIX』(いろんな人たちにリミックスされた楽曲のベスト盤)をリリース、9月には五木田智央のアートワークによるベスト・カヴァー集『94-14 COVERS』、そして同時にベスト・アルバム『94-14』をリリース。また、20周年を記念した対談集『HATACHI』も刊行した。
筆者の10歳ほど年下の友人には、「グルーヴ・イン・ザ・ハート」のお陰で人生をクラブ・ミュージックに捧げてしまった人が少なくない。また、打ち込みをしている日本の人に話を聞くと、好きなプロデューサーでよく名前が挙がるひとりはテイ・トウワだ。ポップとアンダーグラウンドを股にかけるとはよく言われることだが、それを長年実践するのは容易なことではない。
今回は、YMOチルドレンのひとりだった10代からNY時代、帰国後の東京から軽井沢への移住など、これまでの経歴をざっと回想してもらった。ダブル・ディー&ステンスキーの「レッスン1,2,3」の話など若い世代にはピンと来ないかもしれないが、他人曲を盗んで(カットアップして)新しいモノを創作するという、サンプリング・ミュージックの最初期のクラシックであり、いま聴いても名作なので、ぜひチェックして欲しい。
ひとつ言えることは、ネガティヴがあってのポジティヴだと思うし、つらいことがあってのハッピーだと思うんです。人生がハッピーだけの人っていないと思うんだよね。絶対に陰影というか、光があるところには影がある。
■初めてテイさんと取材で会ったのが、『サウンド・ミュージアム』(1997年)のときでしたね。ゲストがすごくて、ビズ・マーキーとかモス・デフとか、カイリー・ミノーグとか参加してて、リミキサーにはQティップもいて。この頃は、テイさんがドラムンベースを取り入れた時期でしたよね。
テイ・トウワ(以下、TT):“エヴリシング・ウィ・ドゥ・イズ・ミュージック”の1曲だけそうですね。
■よく覚えているのが、ドラムンベースはハウス以来の衝撃だったと答えていたことです。
TT:そうです。それ以降は2ステップもちょっとハマりましたけど、ドラムンベースほどでもなかったです。自分のなかで2ステップはドラムンベースのテンポが違うものという認識でしたね。
■実はテイさんって、2000年ぐらいの早い段階で、2ステップやUKガラージをやっているんですよね。
TT:早かったと思います。リファレンスがなかったので。
■MJコールをリミキサーにしたりとかね。
TT:野田さんほどではないかもしれないですけど、そのときはクラブ・ミュージックのトレンドを先取りするアンテナが自分に生えていたんです。興味がなくなっちゃうのはそのあとですね。
■そうですよね。
TT:「そうですよね」って言われてしんみりしちゃう人が多いと思うんですけど、全然僕はそんなことなくて(笑)。もっと積極的に……。
■積極的に、20年間もコンスタントに作品を出されているじゃないですか(笑)。
TT:結果的にそう言われますね。
■それはすごいことだと思いますよ。エイフェックス・ツインの新作も13年ぶりだったし……。テイさんは自分のなかでマンネリ化したり、煮詰まったりはしなかったんですか?
TT:まだ何もやってはいないんですけど、小山田くんと砂原くんと一緒にOSTっていうプロジェクトを作ったんですよ。名前を決めてから2年くらい経っちゃったんですけど。
その話が出たころ、砂原くんは何度作っても制作が終らないっていう時期でしたね。で、YMOの打ち上げで3人が一緒になることが多くて、「そういえば小山田くんも出してないよね」、「ていうか、このなかでテイさんが一番出してるよね」みたいな話になったんです。僕は彼らの音楽を聴きたかったから、では、どうしたらいいんだろうって考えたとき、3人でやればいいと、で、3曲くらい持ち寄ればEPにはなると。アルバムだったら何曲だろうって訊いたら、「6曲じゃないですか」って言うんですね(笑)。
■少ない(笑)。
TT:それは初期のクラフトワークとかの話だろって(笑)! 「それこそコンピ気分で3人が3曲ずつ持ち寄れば立派なアルバムじゃん」という話をみんなでして。そのときには、3人でアルバムを作るということが心の支えになりましたね。
■誰かの取材のときにその話聞きました。
TT:で、まりんはめでたく10年ぶりに『リミナル』(2011年)を出して、それ以降は活動が活発になりましたよね。ライヴもしているし、DJもやっている。この前、僕のパーティでやけにアゲアゲのDJがいるなって思ったら、まりんでした(笑)。
いまはそんなに新作が聴きたい人っていないんですよ。エイフェックスにも興味はあったけど、13年もリリースがないと、どうしたのかなって不安に思いますよね。でも、この13年のあいだにエイフェックス・ツインのことを思い出したのは2回くらいしかなかったんじゃないかな(笑)。でも、こうやってみんな世代交代していくんですよ。それでいいと僕は思うんです。結論を言えば、誰かのために作っているわけじゃないし、自分が聴きたいから作っているのだから。
その頃は、レッド・アラートが週末ラジオやっているのを知っていたので、毎週エアチェックをしていました。朝から晩までPファンクを聴いたり。学校にも行かずにレコード屋でダンクラとかPファンクを買って、ブレイクビーツものだとか、「レッスン 1-3」に入っているようなネタを全部集めたりとかね。
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■テイさんの場合はもともと……。
TT:もともとは電通にいきたかったから(笑)。
■はははは、最初はグラフィック・デザイナーになりたかったんですよね。10代の頃のヴィジョンとしては、音楽で生活するのは無理だろうからグラフィック・デザインをがんばろうっていう。でも、結果、音楽を頑張っちゃったっていう感じなんですよね。
TT:最近不定期でやっているMETAFIVEという僕とまりんと小山田くんとかがメンバーのバンドは、高橋幸宏さんがリーダーなんです。幸宏さんは僕より一回り上ですが、僕らよりも飯を食うし、酒を飲むし、スケジュールも埋まっているし。そういう特殊な人の影響で、僕やまりんは音楽に興味を持ってしまったから、幸宏さんはいつまでも追い越せない先輩だと思っていますね。
■でもトーフ・ビーツみたいな若い世代からしてみれば、テイさんだってそういう存在だと思いますよ。まあ、今日は20周年記念取材なので昔のお話も訊いてみたいと思います。YMOで人生が変わったという話は有名ですけど、YMOからDJカルチャーへアプローチしたのはどういう流れなんですか?
TT:自然な流れだったんですよね。『HATACHI』のなかの五木田(智央)くんとの対談にもけっこう出ている話だと思いますが、ニューヨークに行った理由も美大だったんです。それまで短大に2年行ったけど、いろいろあって編入できなくて、ブラブラしていました。YMO周辺の〈MIDI〉の人たちからレコードを出さないかとオファーがあったけど、それも断ったり。ヴィジョンが描けなかったんです。
そんなとき、親も「男が4年制を出てなくてどうすんだ?」って、お金を出してくれると言ってくれて、じゃあ海外行ってみるかと。最初なんとなくロンドンかニューヨークがいいんじゃないかと思いました。ロンドンにはホックニーがいるけど、ニューヨークに決めたのは、バスキア、ウォーホール、ラウシェンバーグとか好きな人が多かったからです。美大だったらそっちの方がいいのかなという軽いノリで決めました。
■それが87年でしたっけ?
TT:そうですね。87年の2月に行きました。当時僕は少しヒップホップにかぶれていましたね。日本で、高木完ちゃんとか近田春夫さんがインクスティックとかで着ていたアディダスがカッコよくて、自分も持ってましたから。さらにコム・デ・ギャルソン着てみたいな(笑)。で、現地でエリックB&ラキムとかEPMDのライヴに行くと、日本人はぼくたち3人しかいない(笑)。
その頃は、レッド・アラートが週末ラジオやっているのを知っていたので、毎週エアチェックをしていました。朝から晩までPファンクを聴いたり。学校にも行かずにレコード屋でダンクラとかPファンクを買って、ブレイクビーツものだとか、「レッスン 1-3」に入っているようなネタを全部集めたりとかね。
ハウスにハマったのは、フランキー・ナックルズを見てからですね。あるときマントロニクスを見に行ったんだけど、フランキーもDJやっていて。まだ彼のことは知らなかったんですけど、すごい気になる曲があったからブースまで行って話しかけたんです。向こうからしたらかわいい東洋人だったろうし、フランキーはゲイだったから、「おいで〜」って呼ばれて、レコードをいろいろ見せてくれたんですね。それを一生懸命ナプキンにメモって帰りました(笑)。
■ハウスとヒップホップが一緒だった時代、ハウスとヒップホップとのあいだに今みたいな溝がなかった時代ですよね。そこを往復していたという意味で、テイさんはすごく幸運だったと思いますよ。
TT:それぞれの頂点にいる人たちが、お互い毛嫌いしてやっているわけではなく、たとえばレッド・アラートが0時00分くらいで終ったら、トニー・ハンフリーズやフランキーとかに「お疲れ〜よろしくね〜」ってバトンタッチする。こういう感じのシーンを目の当たりにしてましたから。
■いろいろあるなかで、とくに好きだったのは何ですか?
TT:最初はネタとか、ブレイクビーツにすごく興味を持ったんですよ。ダブル・ディー&スタンスキーの「Lesson 1-3」とか、グランドマスター・フラッシュの「ジ・アドヴェンチャー・オブ・グランドマスター・フラッシュ・オン・ザ・ウィールズ・オブ・スティール」(1981年)のネタをひとつずつ調べていったりとか。ちょっとオタク的なところがあったんです。コレクターとは違うんですけどね。コレクターって、イギリス盤とアメリカ盤があって、ちょっと番号が違うとか書体が違うだけで買ったりするけど、そういう感覚は僕にはない。聴ければいいんですよ。
■ネタを知ったときの喜びってありますよね(笑)。
TT:DJして、汗をかくときって、曲を作っているときと違って速弾き感がないというか、筋肉の動きが見えないというか。ちょっと逸れちゃうかもしれないんですけど、ハウスにいたってはレーベルの色や書体だったり幾何学模様だったりで覚えていたけど。デトロイト・テクノも金色のレーベルとかで覚えてたり。そこにヴィジュアルがついたのがディー・ライトだったんじゃないですかね。
■はっきり言って、ディー・ライトで人生を間違えた友だちは多いですよ(笑)。
TT:そうですか(笑)。
■それまでポップスしか聴いてなかったのに、あれを聴いたおかげでハウスが好きになっちゃったっていう。
TT:そのころ自分たちはハウスのなかにどっぷり浸かっていたものの、ディー・ライトの3人のなかで僕だけがヒップホップのネイティヴ・タンのところを出入りしていたりとか。ブーツィーとやれたらいいよねって思っていたしね。実現出来てラッキーだったし、それがいい時代だったとか言うと「死ね」とか言われそうだけど(笑)。でも本当にそう思うんですよ。
■はははは。テイさんはディー・ライトで大成功して、ポップのスターダムというと嫌かもしれないけれど、そういう高い場所までいってしまいましたからね(笑)。
TT:嫌じゃないですよ! それをやろうと思ってエグザイルの格好で踊っている人たちがいっぱいいるわけじゃないですか。そう思ってもないのに経験できたわけですから(笑)。
■でも、結果、活動に疲弊して日本に帰ってきたということは、アメリカの音楽業界の派手な部分と同時に、業界の嫌な部分も全部見たわけですよね?
TT:そうですね。当時全米ナンバーワンのポルノ女優の……
■はて?
TT:名前が出てこない……宇川君だったら即答するような……
■誰でしょう?
TT:トレイシー・ローズ!
■ああ!
TT:そうだ、トレイシー・ローズ。彼女が家に来ましたからね。マネージャーと一緒にデモテープを持って。そのときは何て答えればいいのかわからなかったですが(笑)。
■何歳のときだったんですか?
TT:ディー・ライトのときに26歳だったので、27歳とかですかね。そのときはもう、他のメンバーはツアーに出かけて、僕は「やーめた」ってなって。メンバーやマネージャーに「トウワはひとりでプロダクションをどんどんやりなさい」って言われても、できなかった時期です。トレイシーさんにも会ったけど、デモテープを貰っただけで何もやらなかったですし。他にも夢のようなオファーはあったんですけど、ひとつもやらなかった。
そのころ、立花ハジメさんとちょっと知り合いだったんですけど、立花さんからある日、ロスでディーヴォと会ってきたって連絡があって、その流れでニューヨークで会うことになったんです。それまでそんなに仲良くなかったんですけど(笑)。で、そのときに“バンビ”っていう曲を作ったんですけど、契約上僕は曲を出せなかったんですね。ソロはワーナー・エレクトラとの契約だったので。結局、クレジットは、「プロデュースド・バイ・ハジメ&トウワでいいです」ってなったんですけど。
ソロになって最初に仕事をしたのは、坂本龍一さんと立花さんなんです。教授に手伝ってと言われたときは「僕にそんなことできるかよ」って思ったけれど、教授にしても、立花さんにしても、ふたりを通してぼくはシーンを知ったようなものだから、がんばって仕事を引き受けようと思いました。でも、ディスコグラフィーを見るとわかるんですが、そのころは全然作品を作ってないんですよ。いま思うと、当時は元気じゃなかったかも。
■帰国直前ですよね?
TT:そうですね。『フューチャー・リスニング!』(1994年)の前ですね。このアルバムを作ることによってだいぶ治ったというか。『フューチャー・リスニング!』は全部ニューヨークで作りました。日本盤は94年に出たのかな。帰国したのは95年ですね。
[[SplitPage]]その引っ越しのときにいろいろ捨てたものもあったんですよ。10時にこれから飲み会やるよって言われても行けないわけですから。子供が生まれた95年くらいから朝方になったり。とにかく、軽井沢はやっぱり大きいです。
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■『フューチャー・リスニング!』は、その年の海外メディアの年間ベストに選ばれていましたね。それにしても、日本で活動している人からしたら海外に出たいっていう声も多いんだと思うんですけど、テイさんに場合はそこが逆ですよね。最初に海外で成功してしまって、それでむしろ……
TT:たとえばNOKKOちゃんは日本ではスーパー・アイドルだったけど、ニューヨークではまだデビュー前で、彼女が作品を出すときとか僕が手伝ったりしててね。そうこうしてるうちに、ゲイシャガールズの話もきたり。だんだん日本からオファーが来るようになって。で、しかも日本からのオファーはわりと好きにやらせてもらえたんです。それで面白くなってきたときに、奥さんが妊娠して日本に帰るっていうから、僕も帰ることにしました。息子が4月に日本で生まれる直前のことですね
■気が付いたら音楽家になっていた感じですか?
TT:はっきり覚えていますけど、87年の秋からDJで食っていました。その年の2月にニューヨークへ行って、10月か11月にレギュラーDJになったんです。その時期は密度が濃かったかもな。最初は英語の学校に行ってて、その次に美大に行くんですけど。とにかく、DJになりたくて……。
で、作ったミックステープを渡したのが、DJのディミトリとアマンダって人で、そうしたらディミトリが会おうって連絡をくれました。こういうバンド(ディー・ライト)やっているから手伝って欲しいと。そして、クラブをやっているから来いよって言ってくれたり。
面白いのが、ディミトリがそのクラブでプレイ中、トイレに行くからって、僕がDJを代わったんですよ。そうしたら、彼がなかなか帰ってこなかったんです。でも、僕は「楽しいな〜」って、そう思いながら、時間を忘れてDJを続けていた。そうしたら、「来週から来てくれるかな?」ってなったんです。「いいとも」って答えました(笑)。
その後、ディミトリは〈レッド・ゾーン〉という新しいクラブへ行くことになって、僕は〈40ワース〉というところでDJをはじめました。そのあとよく通っていた、〈ネルス〉というクラブでも金曜と土曜にDJをするようになった。88年の1年はずっとDJです。たまにおいしい話がきて、「ビッグ・オーディオ・ダイナマイトが前座のDJ探しているからやれやれ」って言われて(笑)。まぁ、声がかかる程度の町の人気DJにはなっていたんでしょうね。日本でいうとダイシ・ダンスくらいには(笑)。
■はははは。テイさんって挫折ないでしょ? どん底を味わったこととか。
TT:いっぱいありますよ。言わないだけで、挫折の毎日です。そこは自分のポリティクスだと思ってますね。それは、ディー・ライトで培ったことかもしれない。
■テイさんの音楽にはダブステップのような暗いものがないですよね?
TT:暗いものも好きなんですけど、作るとなるとそれを何回も聴かなきゃいけないでしょう。ディー・ライトをやる前は暗い曲が多かったと思いますよ。手癖でやるとマイナー調の暗い曲が増えちゃうんですけど、ディー・ライトは少なくとも、意識的にネガティヴな要素を排除して、楽しいことを増やしていたわけですから。
■90年ぐらいですか、ディー・ライトやデ・ラ・ソウルは、サマー・オブ・ラヴのヴィジュアル・アイコンにもなりましたよね。
TT:それは戦略的だったのではなくて、時代の空気だったし、ネガティヴあってのポジティヴだと思っていたので。デ・ラにはプリンス・ポールがいたし、僕ら3人には、苦労とか嫌なことがあったなかで学んだ「ポジティヴなことにもっとフォーカスしていけば、ポジティヴが広がるんじゃないか」的なポリティクスというか、哲学がありました。そのあとずいぶんとネガティヴなことを連中に言われましたけどね(笑)。
■内側ではいろいろあったんでしょうね(笑)。
TT:はっきり言って、有名にはあまりなりたくないんですよ。
■それはどういうような意味ですか?
TT:いつ何ときもフルチンで露天風呂に入っていたいですからね。幸宏さんとか別に入らないからね(笑)。
■はははは。
TT:タイコ・クラブのときは入ってましたよ。「テイくん、お風呂どうだった?」って尋ねてきた、「悪くないですよ! でも幸宏さんが入る感じじゃ……」って答えたんです。そうしたら、あとから小声でボソッと「いいお湯だった」っておっしゃってました(笑)。
僕は美大でマーシャル・マクルーハンの『メディア・イズ・マッサージ』も勉強していたんですが、「露出」することがいいわけでもないんです。ブームは終っちゃうと思うし、情報過多になったら飽きられちゃう。人気が緩やかに右肩上がりでも、世のなかに普通に露出してたら、「人気ないね、最近」となっちゃう。そういう緩急というか、プライベートをお金に換金するひともいると思うけど。
■消費のされ方ですよね。テイさんはそこもコントロールしようとしているんですか?
TT:コントロールというか、サヴァイヴ術ですよね。ジャングルのなかで明日の飲み水どうしよう。なくなる前に葉っぱに水滴貯めとこうとか。
■やはり恐怖を感じます?
TT:それはディー・ライトでさんざん味わったから。恐ろしかったですよ(笑)。
■それは、自分たちが違うものになっていく感じですか?
TT:オフの日に買い物にいったら、ジープに乗ったヒップホップな奴らがディー・ライトを歌いながら近づいてきたりして、路地裏に逃げたこともありました。ヘア・メイクの人にロン毛のカツラを貸してもらったりとか。いつ軟禁されるかわからなかったというか、ノイローゼだったと思います。エグザイルみたいにダンス教室に通っていたわけじゃないから、ああいうふうになりたいっていうヴィジョンがなかったんです(笑)。ただ手伝うよって言ったのが、いきなり有名になっちゃったわけだから、やっぱり戻れないし。ただ、自分の音楽がもっと有名になってほしいし、もっとなってもいいとは思います。
■たとえば、2000年に出た「マーズ」を聴くと、ほとんどが2ステップ・ガラージなんです。でも、UKのシーンはそこからよりダークな方向へいきます。だからテイさんは、そこから離れたのかなと思いました。2005年の『フラッシュ』を聴くと、「マーズ」のころとはまったく違う方向性の作品になっているじゃないですか?
TT:そのころは正直、ダブステップのシーンのことはよくわかっていなかったですね。ただ、僕の方向転換の理由のひとつを言うと、2000年の引っ越しですよ。初めて田舎に住んでみて……。それは絶対に大きいと思います。
[[SplitPage]]3.11っていうのはみんなに降り掛かった悲劇だし、試練だと思っています……。毎日国会の前でデモをするっていうスタンスもあると思うし、急にいままで以上に政治に興味や不信感を持った人もいると思うんですよ。僕もそうです。けれど、結局は、自分がいまやれることをやるしかないだろうというところに帰結するんです。
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■軽井沢ですよね。いろいろ田舎があるなかで、なぜ軽井沢に住もうと思ったんですか?
TT:温泉がいつくかある。車で40分いけば、日本最高峰の万座と草津がある。あと、自然。家の窓からほとんど緑しか見えないです。たまに来る人の別荘の明かりとかが少し見えたりするくらい。南側はいまのところ建物はないですね。そういうところで音楽がやりたくて引っ越したんですが、「こんな天気がいい日に打ち込みをするやつはバカだ!」って思うようになりました(笑)。
けど、その引っ越しのときにいろいろ捨てたものもあったんですよ。10時にこれから飲み会やるよって言われても行けないわけですから。子供が生まれた95年くらいから朝方になったり。とにかく、軽井沢はやっぱり大きいです。東京にいるときも、しょっちゅうサウナにも行ってましたし、たぶん僕は水が好きなんです(笑)。水派です。サウナとか、温泉とか、プールとか。五木田くんから昨日メールがあって、「テイさんと僕の共通項はYMO、胃潰瘍、温泉だということがよくわかりました」と言ってました(笑)。
トレンドのダンス・ミュージックのフォームは、もはや自分が熱くなれるものではなかったんです。それまでは、ハウス、ヒップホップがあって、ドラムンベースがあって2ステップがあって。で、エレクトロニカもあった。マウス・オン・マーズとか惹かれたんですよ。惹かれたものの、フランキーやレッド・アラートのDJほど熱くなることはその後なかったんですね。エレクトロニカは僕にとっては内省的過ぎたし、メディアがすごいって言う理由もそこまでわからなかった。「ただ複雑なだけじゃん」っていう、違和感もありました。で、自分なりにエレクトロニカのテクスチャーを吸収して、それをポップスに解釈したいと思ったのがスウィート・ロボットだったんじゃないですかね。
実は、マウス・オン・マーズのところまで行って、教えてもらったりしたこともあったんです。プログラムの使い方も教えてもらったんですけど、すごくバギーだし、肩が凝る。で、軽井沢に引っ越して、ミックスをやろうとしたら「あれ、違うな?」と思ったんです。02年に完成するまですごく時間がかかった。できた瞬間に、もうやめようと思って、プログラムのリアクターとか、それを動かすために使っていた黒いマックブックとか全部捨てました。そこからアナログ楽器を出してきて、ノブをいじったりして、音楽の作り方を昔に戻したんです。別にノスタルジックになったわけではないですけど。答えになってましたか(笑)?
■半分以上になってました(笑)。なんにせよ、DJってナイトライフ文化だから、軽井沢行くとなると決心がいりますよね。
TT:日本に帰ってきたときのほうが大きな決断だったんですけどね。ほとんどのクラブに顔パスで入れるし、ニューヨークにいたときのほうが、クラブという意味ではセレブだったかもしれない(笑)。いや、日本でセレブっていうと槇原敬之くんとかをいうのかな(笑)?
■はははは。ニューヨーク時代があったからこそ成し遂げられたことを教えてください。
TT:一番大きかったことのひとつは、クラブです。クラブの黎明期にはディスコがあったけれど、もっと、音楽で体がビリビリ揺れるものとして、ヒップホップもハウスもあったんです。ヒップホップには言葉遊びという違う次元もあるけれど、広い意味での音響系というか、クラブ・ミュージックにどっぷりでしたね。YMOもポップスという形を借りながら、音響系をやっていた先駆者だったと思うんですけど、あまりにも好きすぎて、そのころは、いったんYMOから離れているんです。
■テイさんがYMO以外に衝撃を受けたものはなんですか?
TT:だから、ニューヨークで聴いた音楽全部ですよ。
■クラフトワークにはいかなかったんですか?
TT:クラフトワークもYMOと同じくらい好きでしたよ。
■でもYMOなんですよね?
TT:YMOのが先、でしたね。これは自慢話なんですけど、YMOがクラフトワークと飲みいくときに、小山田くんと僕を誘ってくれたんです。僕はラルフの隣に座って、で、話しているうちに、誰かが僕を元ディー・ライトだって紹介したら、「おー!」っていう声が上がって。そしたらメンバーのひとりが「俺はディー・ライトのプロモーターやってた」って言ってきました(笑)。
■(笑)
TT:それで思い出したんです。ドイツの高いタワーでディー・ライトがライヴをやったときにすごく揺れて、一回演奏を止めてお客さんに踊らないでくれって言ったのは俺だって(笑)。地震みたいで怖かったので、僕もそのライヴのことをよく覚えていました。そのときの彼はインディペンデントのプロモーターだったから、「ディー・ライトを売ったのは俺だ!」くらいな勢いでしたよ。で、その話をしたら、ラルフもディー・ライトのライヴを見ていてくれたことがわかったんです。
その飲み会で嬉しかったのが「ジャパニーズ・ファイネスト・アーティストのTOWA TEIとコーネリアスだ」って、教授が紹介してくれたことです。教授に褒めてもらったことは、デモテープ以来かもしれないな。
■テイさんは、『フラッシュ』以降、「ラッキー」、「サニー」みたいな明るい単語をタイトルに持ってきています。そこは意識しているんですか?
TT:意識していないと言葉もメロディも出てこないんじゃないんですか?
■やっぱりそこは、軽井沢に引っ越してからの活動を説明する上では、的確な言葉なんですね?
TT:ひとつ言えることは、ネガティヴがあってのポジティヴだと思うし、つらいことがあってのハッピーだと思うんです。人生がハッピーだけの人っていないと思うんだよね。絶対に陰影というか、光があるところには影がある。影があるから光にフォーカスしたいというか。そういう意味で3.11っていうのはみんなに降り掛かった悲劇だし、試練だと思っています……。毎日国会の前でデモをするっていうスタンスもあると思うし、急に今まで以上に政治に興味や不信感を持った人もいると思うんですよ。僕もそうです。けれど、結局は、自分がいまやれることをやるしかないだろうというところに帰結するんです。そうなると、言霊としてキャッチーな「サニー」とか「ハッピー」とか「ラッキー」とか、そういう言葉よりも強い言葉が見当たらないというか。昔はいろいろひねっていたけど、いまはそうはせず、出てきたものを使っているっていう感じです。
■それは、円熟に向かっているから言える言葉じゃないですか?
TT:いやいや、老成(笑)? 26歳ではじめたときに、ゴールド・ディスクを取って、グリーン・カードを取れて、税金をたくさん払ったアメリカで取りあえずやっとこうと思いました。30歳とか40歳のときは何もヴィジョンがなかったんですよね。子供ができたらできたで帰ってきたし。帰ってもどうにかなるかと思っていたら、どうにかなった。だから表現として、日々あった嫌なことや怒りをツイートしたりとかっていうタイプではないということですかね。
■ツィッターの世界も、相手を叩き潰そうとヤッキになっている感じが見えたり、変な人も多いし。
TT:「テイ・トウワのアルバム、ぼちぼちだったな」でもなんでもいいですよ、好きに言えば。僕は作り続けるだけで、ネガティヴは無視(笑)ポジティヴ返しだなと思う。人の悪口を匿名でパブリックに書いたりしても、それを発信しているのは自分なんだから、それ全部本人に返ってきますよ。宇宙の法則です。
■90年代という10年間はテイさんにとってどんな10年間でしたか?
TT:音楽として印象に残っているのは、ミュージシャン同士がコラボレーションしたり、ファッション・ブランドとミュージシャンが一緒にやったりする文化というか。リミックスみたいに「ゼロからやらずに、あるものの上に乗っかていく発想が大事だぜ」みたいな。
■なるほど。さっき言っていたサンプリングみたいな話ですね。
TT:サンプリングにしてみても、どうサンプリングして最後にどうやってフィルターをかけるかとか、どうチョップするかでセンスが出ますからね。そこで僕が一貫しているのは、自分なりのモラルでやって、必要なところでシンセを使うっていうことを繰り返しているんです。自分は作る側なので、作った本人も気付かないだろうなっていうサンプリングに自信があります。だから、サンプリングされていることに気が付いてもそんな使われ方ならば俺だったら喜ぶな、みたいな勝手な解釈があります。
90年にデビューして95年に日本に帰ってきているので、10年が真っ二つに分かれているんですけど。20代にしてみても、22歳から30歳までニューヨークにいたので、いずれにしてもだいぶ昔のことですね。元気で体力もあるときにニューヨークに行けてラッキーだったと思います。いま行けって言われても行けないですからね。
それにニューヨークに美味しい漬け物なんてないですよ。これだけ美味しい和食が世界のどこでも食べられるようになったらいいですね。漬け物は真っ黄色なきゅうりだったり、たくわんだったりするので、日本は住みやすいなと思います。





アルカ(ARCA)ことアレハンドロ・ゲルシ(Alejandro Ghersi)はベネズエラ出身の24歳。現在はロンドン在住。2012年にNYのレーベルUNOよりリリースされた『Baron Libre』、『Stretch 1』と『Stretch 2』のEP三部作、2013年に自主リリースされたミックステープ『&&&&&』は、世界中で話題となる。2013年、カニエ・ウェストの『イールズ』に5曲参加(プロデュース:4曲 / プログラミング:1曲)。またアルカのヴィジュアル面は全てヴィジュアル・コラボレーターのジェシー・カンダによるもので、2013年、MoMA現代美術館でのアルカの『&&&&&』を映像化した作品上映は大きな話題を呼んだ。FKAツイッグスのプロデューサーとしても名高く、『EP2』(2013年)、デビュー・アルバム『LP1』(2014年)をプロデュース、またそのヴィジュアルをジェシー・カンダが担当した。2014年、契約争奪戦の上MUTEと契約し、10月デビュー・アルバム『ゼン』 (“Xen”)をリリース。
スティールパンの光の音! 太陽の様なサウンド! 夏を呼び込むダブ・パラダイス!
永積 崇(1974年11月27日、東京生まれ)。
1957年、北海道・札幌市生まれ。80年代から90年代初頭に掛けて”TOMATOS”のリーダーとして活躍。メンバーには、じゃがたらのNABE CHANG(Bass)、EBBY(Guitar)やミュート・ビートの松永孝義(Bass)、今井秀行(Drums)らが在籍。TOMATOSは、80年代にじゃがたら、ミュート・ビート、S-KENと共にTokyo Soy Souceというライブ・イベントを企画、シリーズ化して、それまでの日本のロックとはまた違った新たな音楽シーンを作った。彼らの活動がベースにあった上で、後にリトル・テンポやフィッシュマンズが生まれたといっても過言ではない。又88年には、スカの創始者ローランド・アルフォンの初来日公演 "Roland Alphonso meets Mute Beat"でサポート・ギタリストとして参加、後世に語り継がれる感動のライブとなった。その後、ローランド・アルフォンとは2枚のアルバム『ROLAND ALPHONSO meets GOOD BAITES with ピアニカ前田 at WACKIES NEW JERSEY』、『Summer Place』を一緒に作り、リリースした。
1990年代から関西で音楽のキャリアをスタート。京都のFUNKバンド"UNIT-4"、大阪のオーセンティックSKAバンド "DETERMINATIONS"のトランペッター、DUBバンド"BUSH OF GHOSTS"のリーダーを経てソロ活動を開始。また、キーボード奏者YOSSYとのYOSSY LITTLE NOISE WEAVERも始動。RICO RODRIGUEZ、EDDIE TANTAN HORNTON、Cool Wise Man、U-ROY 、STRANGER COLE、LITTLE TEMPO、PRINCE BUSTER、DENNIS BOVEL、mama!milk、ハナレグミ、CARAVANなど多くの音楽家と共演、サポート。
レゲエのフィールドを中心に数多くのライブ、レコーディング・セッションに参加しているサキソフォン&フルート奏者。2012年リリースのファースト・アルバム「西内徹バンド」につづき、今年はそのダブ盤、「西内徹DUB」をリリース。合言葉は「やまんです!」


