自由はどこにある? ついこの間もどこかの馬鹿な政治家が「ホモにHIVの啓蒙なんてしなくていい」と抜かしたそうだが、思いっきり脱力するとともにそのことに驚きも怒りもしない自分に心底がっかりした。この国のおっさんの平均的な認識を確認したまでだ。同性愛が犯罪として取り締まられ、マイノリティが殺されてしまうような国よりはまだ「マシ」なんだろうか? だけど、この国で同性愛者であることはつねに世のなかからヤジを飛ばされて生きているようなもので、そんな環境で暮らしていればひとは卑屈になるしシニカルにもなる。自由はどこにある? ……その問いは、むなしく消えていくばかりだ。
アンディ・バトラーは……ハーキュリーズ・アンド・ラヴ・アフェアの首謀者は、それは四半世紀前のハウス・パーティにあったと迷わずに宣言するばかりか、その刹那的な快楽を現代に蘇らせることを企んでいる。彼は自分がフランキー・ナックルズの子どもたちのひとりであることを宣誓し、かつてのゲイ・アンダーグラウンド・パーティで鳴っていた音の再生を昨今のハウス・リヴァイヴァルよりも早くはじめた……2008年、あの素晴らしいシングル、ゲイの孤独とそれゆえに切望される愛をアントニー・ハガティがディスコ・ビートの上で歌った“ブラインド”とともに。ハーキュリーズがゲイ・アンダーグラウンド・シーンのもっとも重要なアーティストのひとりになるのは自然な流れだった。
だからバトラーはこの2014年、ダンスフロアにハウス・ビートが鳴らされ、ゲイ・ライツ運動が沸く現在、あらtめて「自由」と題した曲をアルバムに2曲も収める。1曲めは“5:43・トゥ・フリーダム”といって、朝5時を回ったにしては激しいキックと跳ねるシンセ・サウンドともに踊り疲れた足をまだまだアップリフトする。繰り返し歌われる「Be Myself/Be Yourself」という挑発は同時にそこに集った性のはぐれ者たちへの魂をこめた励ましでもあるだろう。「お前自身であれ」……確固としたアイデンティティを持って生きることが「フリーダム」であるならば、もうひとつの自由、“リバティ”ではいくぶんダーティな風合いのシンセ・ハウスの上でジョン・グラントが半音階を多用するメロディと低音のヴォーカルで自分の人生を選択する権利について歌う。「お前は望むことをなんだってできる、お前は完全に自由だ」……ゲイ解放運動の歴史をヴィデオにしていたグラントがそう歌うことで、これはマイノリティたちが自分の人生を生きることを力強く歌ったトラックだと確信する。が、そこは自身の作品で孤独を痛切に綴るグラントを招聘しているので一筋縄にはいかない。続きで「お前はどこにだって行ける、だけど俺なしで」と彼が絶唱することで別れの歌でもあると明らかになるのだ。つまり二重の意味でゲイの人生と愛について表現されていて、うまいとしか言いようがない!
重要なのは、これがファーストよりもセカンドよりも徹底してダンス・レコードになっていることだ。6年前にハーキュリーズが纏っていたようなミステリアスさはもうない。だが代わりに、傷ついたマイノリティたちをベッドルームに引きこもって寝かせない、立ち上がって踊らせるんだと意志がある。“ドゥ・ユー・フィール・ザ・セイム?”と題されたリード・シングルでは、「あなたもそう思うでしょ?」とセクシーなダンス、その快楽に誘おうとする。アルバム・タイトルが意味するところは「傷ついて壊れた心のごちそう」、そういうことだ。
そして“ブラインド”に匹敵する傑作シングルを新たにものしたことも大きい。もう1曲ジョン・グラントをヴォーカルに迎えた“アイ・トライ・トゥ・トーク・トゥ・ユー”、そこではどこまでもハウシーなピアノ・リフとキック、エレガントなストリングスとともにグラントがHIVポジティヴであることがわかったときの心境が歌われているという。「理解できない、助けてくれ、すべてわかるように話してくれ」……そうそれは、20年前にエイズでこの世から消えていった亡霊たちの叫びでもあるだろう。あのダンスフロアで踊った、ただ愛を求めた同性愛者たちの。「どうか助けれてくれ、俺のところに来てくれないか」……。簡単なことだ。僕たちはそこに行けばいい。傷ついた魂たちとともに、ただすべてを忘れて踊り明かせばいい。
ちなみに、“アイ・トライ・トゥ・トーク・トゥ・ユー”のゲイ・アンダーグラウンド・アート感満載のヴィデオも傑作だ。
「Not Wavingã€ã¨ä¸€è‡´ã™ã‚‹ã‚‚ã®
「ルール/不気味なルール/見えないルール/無慈悲だルールは」と、オウガ・ユー・アスホールは新曲「見えないルール」で歌っている。全盛期のラ・デュッセルドルフを彷彿させるリズム、興奮から冷めていくような興奮がはじまる。ベテランDJのALTZが、この、避けようのない不安のなかを淡々と疾駆するごとき曲をクラブ仕様にリミックスする──どうか、クラブでプレイして欲しい。
6月30日、夜10時の京王線に乗った。車中には、集団的自衛権に反対するデモ参加者たちが乗っている。安部首相は破壊的なまでに日本を変えようとしている。レコードは回って、音を立てる。本人たちの真意がどこにあるかわからないが、「見えないルール」は、聴けば聴くほど、いまの日本を歌っているように思えてしまう……のは僕だけだろうか……。「あなたの周りを/気づけば占領/あそこのあたりを/踏み越えれば終了」
オウガ・ユー・アスホール「見えないルール EP feat. ALTZ」、不気味なルールががうごめいている7月2日、いよいよ発売。
OGRE YOU ASSHOLE - 見えないルール EP feat. ALTZ [12inch Analog]
Pヴァイン
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この頃から俺、一人で飲みにいけるようになったんですよ。一人でウロウロするようになって。そしたら自分と同じように一人でウロウロしている人が、世の中にはいっぱいいるってことに気づいたんですよ。
【前編はこちらから】
──今回インタヴューさせていただくにあたって、eastern youthのアルバムをあらためて活動順に全部聴き直してみたんです。そしたら『Don quijote』がすごく印象的で。歌っていることの本質はいまと変わらないのですが、歌詞から連想される世界観が荒涼としているというか。この頃の吉野さんはどんな心境だったんでしょうか?
![]() eastern youth DON QUIJOTE キングレコード |
吉野:どんな感じだったんでしょうね……。「ドン・キホーテだなあ」って思ったんですよね。
──ご自分が……?
吉野:そう……ですねぇ……。この頃からCDのセールスが落ちてきて、レコード会社から首の皮一枚だみたいなことを言われて、さんざん脅されてたんですよ。さすがにもう(工事)現場の仕事とかには戻りたくなかったし、なにより自分との戦いに負けたくなかった。でもその戦っている相手が己の主観でしかない、幻のようなもののような気がしていたというか。「いったい何と戦ってるんだろう、俺は?」みたいな。ただ戦わなきゃ敗れるということだけはハッキリしてるんだけど、同時に勝つということもない戦い。
──どういうことですか?
吉野:負けたくないってことをあえて具体的に言うなら、生き延びたいってこと。だからこの戦いにおいて勝つということはないんです。前からそう思って生きてきたんですけど、恐らくこの当時はそれをより強く感じていたんじゃないですかね。……『Don quijote』って、どんな曲が入ってましたっけ?
──“暁のサンタマリア”とか“大東京牧場”とか。
吉野:あー、はいはいはい。この頃から俺、一人で飲みにいけるようになったんですよ。それまでは友だちを誘ってたりしてたんだけど、いよいよ誰もいなくなってきて、一人でウロウロするようになって。そしたら自分と同じように一人でウロウロしている人が、世の中にはいっぱいいるってことに気づいたんですよ。それを見てたら、結局(自分の人生は)一人で戦わなきゃダメなんだっていうことがわかったんです。「俺たちには仲間がいるからな」とかいうんじゃなくて。
──それって吉野さんが何歳くらいのときですか?
吉野:35~6ですよ、たしか。
──じつは僕いま37歳なんですが、まさに同じような心境なんですよ(笑)。
吉野:あははは(笑)。でもね、それは子どもの頃からずっと続いてて、いまも続いてる感覚なんです。結局一人なんだっちゅーか。眼鏡の内側には一人しかいなくて、一人の窓からみんなを見ている。結局一人に帰ってくるというか。そういうのがずっと心の軸になっている感覚なんで。このアルバムではそれがとくに強調されていたのかもしれませんね。この頃の俺は荒んでたんですかね……。いまも十分荒んでるんですけど(笑)。バリバリ。ヤバい(笑)。
俺は人間の形をした虚無袋みたいなもんです。それでその虚無みたいなもんにぶっ殺されそうになるんですよね。なるというか、つねになってるんですよ。だけど、それが当たり前の状況なんだと思うんです。
吉野:虚無ですね。俺は人間の形をした虚無袋みたいなもんです。どこを切っても虚無しか出てこないし、逆さに振っても虚無しか出てこない。もう砂漠っていうか、「空洞です」っていうか。それでその虚無みたいなもんにぶっ殺されそうになるんですよね。なるというか、つねになってるんですよ。油断してると、膝から崩れ落ちそうになる。「なんだこりゃあ、ダメだ」って。だけど、それが当たり前の状況なんだと思うんです。自分の荷物は自分で背負うしかない。虚無を打ち負かしてやるとか、うっちゃるとか、誤魔化すとかじゃなくて、それごと生きていこうっていうか。
──それが吉野さんの戦いであり、eastern youthが歌っていることであるわけですね。
吉野:言いたいことはただひとつ。虚無を背負って、それでも生きていくんだっていうこと。もやもやっとしているものなんで、グッと形にするのはエネルギーが必要な作業なんですけど。
──虚無を背負って生きていく、と思えるようになったのはいつ頃ですか?
吉野:心筋梗塞で半殺しになったときから(https://natalie.mu/music/news/21916)。最初倒れたとき、「死ぬ」と思ったんですね。「あーあ、これまでか。こりゃ死んだな」って。でも、生き残ったわけですよ。集中治療室で寝転がってて「やったー! 死ななかった」と思ったけど、「たぶんこれはいままでみたいにバンドはできんだろう。何もかもパーだな」って感じたんです。そのときは先のことなんてわかりませんから。
──でも、パーじゃなかった。
吉野:そう。パーじゃなかったんですよね。結局生きているうちは生きていくしかないんですよ。泣こうが喚こうが生きていくしかないっていうか。虚無だろうが、絶望だろうが、生きていくしかねえわけです。そう思えたら清々したんですよ。それまでは「俺はいつまで生きるんだ?」とか「いつ死ぬんだ?」って思ってたから。もちろん死んで終わらせてしまいたいと思うことはいまでもあるけど、焦んなくても死ぬよっていうのがわかってしまったんですよ。
──なるほど。
もちろん死んで終わらせてしまいたいと思うことはいまでもあるけど、焦んなくても死ぬよっていうのがわかってしまったんですよ。
吉野:人はそれぞれ持ち時間というものを与えられていて、それが終われば死にたくねえって言ったって死ぬ。虚無だろうが絶望だろうが、「いま生きてる時間を生きるしかないんだな」っていう覚悟ができたっていうか、腹が決まったっていうか。そんな気がしましたね。そんときがくりゃ、焦んなくてもいずれ死ぬなら、もうなるようになれと思って。そしたら清々したっていうか、さっぱりしたっていうか。シンプルになりました。迷わなくなりましたね。
──死に対する考え方が変わったということですか?
吉野:どうなんでしょうね。ただ死に対する恐怖は倒れる前よりも、確実に強くなっていますね。夜中に突然目が覚めて「このまま死ぬんじゃないか?」って眠れなくなったり、お風呂入っていてちょっと目眩がすると「もうダメか」って思ったり。俺の身体はもう「死ぬ」という感覚を知っているから、その恐怖とつねに隣り合わせで生きている感じです。昔は死ぬのなんて大して怖くなった。「死ぬときゃ死ぬんだ。どうにでもなりやがれ」と思ってたんですけど、いざ一回本気で死にかけると死の山は想像以上に高いというか。「死ぬって並大抵のことじゃねえぞ」って思うようになっちゃったんですよね。
──よりリアリティを持って死を意識するようになったと。
吉野:死ぬのは前より怖くなりましたけど、だからなおさらいましかねえんだっていうか。いましかねえから「ちゃんとやれ」っていうか。世の中の大人として「ちゃんとやれ」っていう意味じゃなくて、自分の生きたいように生きてくれっていうか、生きろっていうか、やれっていうか。焦燥感や虚無感はあるけど、それを克服しようがしまいが死ぬときゃ死ぬっていうね。だったらそれごと行くしかねえ。俺はそう思ってますね。
[[SplitPage]]誰かのせいで自分はいまこんなふうになってる、こんな目にあっているっていうふうにすり替えようとしてる。その誰かを踏みにじることで俺は救われるんだ、みたいな考え方はすごく情けないことだと思います。
![]() eastern youth 叙景ゼロ番地 バップ |
──震災以降、日本は死を意識するようになったと思うんですよ。でもそこから生まれた焦燥感や虚無感から、悪い意味で「自分の生きたいように生きていく」とか「人よりも自分」とか、まるでタガが外れてしまったような気がします。自分勝手になったというか。では、吉野さんはいまの日本をどのように見ていますか?
吉野:難しいですね。……一言で言うならムカつく。「何言ってんだお前ら、正気かよ」って思うようなことが普通になっていると思います。なんて言えばいいのか……。パンドラの箱が開いちゃいました、みたいな。身も蓋もないような感じになっているなとは思いますよね。
──それはどういった部分に感じるのですか?
吉野:インターネットとかで匿名の発言が表に出ることが増えましたよね。そういうところで、たとえば拝外主義みたいなものを正当化しようとしてるように思うのですよ。「みんな、そう思ってるだろ?」って。それでそこに居場所を見出そうとしている。そんな人が多いように感じます。だから安倍晋三が総理大臣なわけだし。嫌な国だな、腐っとるなと思うわけです。やっぱりみんな余裕がなくなっているんじゃないですか? 俺だって余裕ないけど(笑)。
──ヘイトスピーチなどをする人や、ネトウヨと呼ばれる人たちのことですね。
吉野:江戸時代の身分制度のようなもんですよ。彼らは自分よりも下のものを無理矢理作り出して、自分の人生がうまくいかないことに対する不満、実社会でどうにもならない自分の鬱憤を、自分よりの下みたいなものを踏みにじることで解消しようとしている。自分を認めさせようとしている。そんなふうに思うのです。承認要求みたいな。でも本当は自分自身のうまくいかなさなんてのは、自分で背負っていかなければならんのです。己の人生とがっぷり四つで戦っていかなきゃ打開なんてぜんぜんされないのに、誰かのせいにすることによってそれをごまかしているような気がする。いや逃げようとしている。そんなことして自分の行動や論理が合理化されるとでも思ってるんですかね? 情けない。
──なぜ彼らはそうなってしまったと思いますか?
吉野:俺も彼らがなんでそんなこと言うのか、ハッキリとした理由はわかりません。だけど自分の人生や孤独というものに耐えきれない根性なしであるというのは間違いないですよね。ちゃんと自分の人生を戦ってないというか、(自分の問題を)誰かのせいにして「自分は悪くない」と思っているってことじゃないですか。誰かのせいで自分はいまこんなふうになってる、こんな目にあっているっていうふうにすり替えようとしてる。その誰かを踏みにじることで俺は救われるんだ、みたいな考え方はすごく情けないことだと思います。自分の問題は自分で打ち壊さないと。それができないやつらが多くて、そいつらが差別したりするんでしょうね。だから余計に腹が立つ。
人間は誰しもが一人なんです。最終的には一人なんですよ。
──吉野さんはヘイトスピーチに反対するデモにも参加されているらしいですね。
吉野:みんなそれぞれ事情があるよ。街なんてそれぞれがいろんな事情を背負って、隣り合わせて、小競り合いをしながら関わり合っているんですよ。人間なんて最終的には一人ですからね。その人が死んだら全世界はなくなるのと同義なんですよ。だから一人の人間っていうのは全宇宙と言ってもいいわけですよね。だからこそちがっていて当たり前だし、だからこそおもしろいし、そうやって街はあるべきだと思うんです。人間とはそういうものでしょう。なのに、彼らはひとつの型みたいなものを作り上げて、「自分はそこのメンバーだ」「それが自分のアイデンティティの核だ」と思うことで、自分を認めたがっている。しかもそうじゃないやつらを踏みにじる。「俺はそうだけど/お前はそうじゃない/だからお前はクソだ」「俺は持ってる/お前は持ってない/だからお前はクソだ」。でもね、そんなのは幻想ですよ。幻です。幻みたいなものを信じようとしている。その根性のなさに腹がたつ。国家も民族も全部幻ですよ。人間は誰しもが一人なんです。俺っていう人間、君っていう人間。一人ひとり。それがいっぱいいりゃあ、村にもなるだろうし、街にもなるだろうし、国にもなるだろうけど、最終的には一人なんですよ。一人と一人が関わるからいろんなことが起こってくるけど、結局国だの民族だのってのは幻だと思う。人間はそんなもので割り切れん。人間をなんだと思ってるんだって。舐めやがって、っていう気持ちですよね。
──では最後の質問です。吉野さんにとってレベル・ミュージックとはどんなものですか?
吉野:俺ねえ、考えたことないんですよ(笑)。「レベル・ミュージックって何?」っていうか。レベルっていうのは闘争のことですよね。闘争って人それぞれちがうと思うけど、俺にとっては生き残ることなんですよ。「冗談じゃねえぞ、殺されてたまるか」ってことです。それだけです。
──ということはeastern youthで歌っていることこそが、吉野さんにとってのレベル・ミュージックであると。
吉野:レベル・ミュージックかどうかはおいといても、闘争の歌であるということは間違いないです。あくまで俺っていう人間がどうにかこうにか生きていくんだっていう。俺は歌を政治闘争とか社会に訴えかけるような「手段」にはしたくないんですよ。そういうことじゃなくて、一人の人間がどうにかこうにか生きていくことがすでに闘争なんだと思うんです。戦わないと生きていけないです。だから、何に向かって戦っているのかわからないけど、わからないけど殺されそうになってるわけです。
俺は歌を政治闘争とか社会に訴えかけるような「手段」にはしたくないんですよ。そういうことじゃなくて、一人の人間がどうにかこうにか生きていくことがすでに闘争なんだと思うんです。
俺はどうして生きてっていいか、どう歩いてっていいかわからないけど、それを掴もうとするのもひとつの戦いですよね。いわゆる社会に対してもの申すみたいな歌が自分の中から自然と出てきて、それが必要だと思ったら歌うかもしれないですけど、基本的に俺にとって曲を作って歌うということはそういうことじゃないんです。「こうやったら世の中よくなるよ」とかを歌にしたくない。「これを買ったら、あなたの人生はもっとよくなりますよ」っていうのと同じでしょ(笑)。
──仮に僕がそういった曲を聴いて鵜呑みにしてしまえば、それは思考停止ということですしね。
吉野:うーん、なんていうか、答えみたいなものは自分でたどり着かないとダメだと思うんですよ。人に答えを提示してもらったって、それは答えにならないんです。だから、自分にとっての答えを探すしかなくて。ただそうするだけ。ただ探し続けていくことだけが大事なんです。たどり着くことが大事かっていうのは俺の問題じゃない。ただ探すだけ。それが目的であって、到達点ではない。というか、到達点はないんです。
──最初から言っていたことと変わらないわけですね。
吉野:そう、シンプルです。でも年々ヴォキャブラリーが崩壊していっている(笑)。口も頭もぜんぜん回らない。信じていた語彙みたいなものも信じられなくなってしまって、バラバラになっているんですよね。昔は「信念」とか「真実」とかってものをもうちょっとは形のある状態で信じていたと思うんですけど、いまはまったく信じてなくて。信念も真実もそんなもんはねえっちゅーんだ、っていうか。本当はあるんだけど、「それは何か?」と言われると「これです」って言えるもんじゃないっていうか。たしかなものは何もないっていうか。歳とったらたしかなものが増えていくのかなって思ってたんだけど、逆で、どんどんどんどん剥がれ落ちていって、なんにもたしかなものがなくなってきたんです。ただ命が一個あるだけで。でもそれが大事なことなんじゃねえかなって。
歳とったらたしかなものが増えていくのかなって思ってたんだけど、逆で、どんどんどんどん剥がれ落ちていって、なんにもたしかなものがなくなってきたんです。ただ命が一個あるだけで。
正しさとかよくわからない。ただ、自分が生きてるように他のやつも生きてるんだっていうのは真実です。それは尊重されるべきだと思う。尊重されるべき人間とされなくていい人間っていうのはいないわけだから。自分が人間として生きていたいのであれば、他の人も人間として生きてることを受け入れないと。そうじゃないと、自分が人間ではなくなってしまう。それはたしかだと思います。そんぐらいしかわかんないです。で、どうしたらいいんだっていうことは、いろんな人がいろんなこと言いますし、自分のバカな頭でなんとか理解しようとしていますけど、やっぱり明確な答えなんてわからんのです。どんどんわからんくなってきてます。でもどうにかこうにか生きたいとは思っています。
■ライヴ情報
極東最前線巡業 ~Oi Oi 地球ストンプ!~
2014年8月30日(土) 渋谷クラブクアトロ
open 17:00 / start 18:00 ¥3,500(前売り/ドリンク代別)
出演:Oi-SKALL MATES / eastern youth
ticket
ぴあ(P:230-946)
ローソン(L:77597)
e+(QUATTRO web :5/17-19・pre-order:5/24-26)
岩盤
CLUB QUATTRO
(問い合わせ)
SMASH : 03-3444-6751
https://smash-jpn.com
https://smash-mobile.com

みなさまご無沙汰しております、NaBaBaです。久しぶりの更新ですが、今回は最近遊んだインディーズ・ゲームをご紹介したいと思います。その名も『Transistor』です。
『Transistor』は今年の5月にリリースされた〈Super Giant Games〉開発のアクションRPG。2011年に処女作『Bastion』をリリースして以来の2作目という、新興のインディーズ・スタジオですが、作品の完成度の高さからすでに今世代の代表的なスタジオの一つと目されていると言えるでしょう。
今回ご紹介する『Transistor』と、スタジオの前作『bastion』のトレイラー。
古くからのゲーマーなら、ゲーム・デザインやアート・スタイルから『聖剣伝説』等ピクセルドット時代の日本の名作RPGを想起されるかと思います。そうした日本の作品からの影響については彼ら自身認めるところでありますが、実際のところ彼らの作品はドットの代わりにデジタルペイントで画面を構築しており、より繊細且つ高解像度になっています。そこからは、オリジナリティと同時に日本の黄金期のゲームへのリスペクト、そして日本の感性に追いつき、追い越してしまいそうなものを感じます。

〈Super Giant Games〉の作品のアートワークは美しく繊細で、どこか懐かしい。とくにわれわれ日本人にとっては。
往年の日本へのリスペクトは多くのインディーズ・デベロッパーが持っていて、とりわけ2Dプラットフォーマーへの影響は計り知れないものがあるでしょう。たとえば2010年の傑作アクション・ゲーム『Super Meat Boy』は、作中のショート・ムービーにさまざまな日本作品へのオマージュを入れることで、その敬意を明らかにしていましたし、最近発売された『Broforce』は見るからに『魂斗羅』シリーズの影響を感じさせるなど、明示・非明示を問わず、彼らの作品のなかにはいまなお日本の過去のゲームの面影がしのばれます。
初っ端から『ストリートファイターII』へのオマージュたっぷりな『Super Meat Boy』。いろいろなBroが登場する『Broforce』は、往年のハリウッド映画とともに、『魂斗羅 』シリーズの影響も強く感じさせる。
しかし一方で、両者の間にはなかなか埋められない溝もありました。それは日本のアニメチックな表現スタイルで、この点について肉薄するようなものは欧米からは長らく出てきていませんでした。しかし近年のインディーズ作品からはわずかながらその境界を超えるものが出てきはじめており、その一つが先の『Bastion』であり、またはアメリカの〈カートゥーン〉と日本の『ヴァンパイア』シリーズのキャラクター・デザインを組み合わせたかのようなアートワークの『Skullgirls』、そして今回ご紹介する『Transistor』です。
Skullgirlsからは、『ヴァンパイア』シリーズをはじめ、〈カプコン〉黄金時代のキャラクター・デザインのエッセンスを感じる。
■Jen Zee氏によるアートワークは圧巻の一言
『Transistor』の魅力は先ほども述べたように世界観、とくに日本的感性をも感じさせるアートワークにあります。ゲームの舞台はCloudBankと呼ばれる近未来都市で、歌手をしていた主人公のRedが陰謀に巻き込まれつつ、その過程で手に入れた謎の剣Transistorを使って戦っていくというのが大まかなストーリー。
前作『Bastion』は優れているとはいえ、穿った見方をすれば日本の『聖剣伝説』等の作品の延長線上にある世界観だと言えなくもなかったのですが、本作はサイバーパンクにアール・ヌーヴォー様式を交えた、よりオリジナリティの高い世界観になっています。

時おりイベント・シーンで挿入されるイラストも美しく、オリジナリティがある。
『Bastion』と『Transistor』のアート・ディレクションは、いずれもJen Zeeという方がほぼひとりで手掛けており、彼女のアジア系アメリカ人という出自は、欧米産のゲームでありながらも日本的感性に通ずる、繊細でアニメチックなデザインのアートワークにつながっていると断言できるように思います。
彼女のイラストは〈Deviant Art〉の氏のページ(https://jenzee.deviantart.com/)でも見ることができます。しかし、同じくイラストを生業としている僕の身から憚りなく言わせていただくと、このページで見られる彼女のイラスト一枚一枚はそれだけでは圧倒的というほどではない。もっと優れたイラストの描き手はまだまだいるというのが実状でしょう。
しかしゲームのアート・ディレクションという観点で彼女の業績を見た場合、およそ匹敵し得る仕事を成した人などほとんどいないのではないでしょうか。前述したように『Bastion』にせよ『Transistor』にせよ、キャラクター・デザイン、背景デザイン、個々のゲーム用のアセット作成、各種イラストに一挙に携わっているのは驚異的です。
そんな、一人の絵描きによる完全に統一された世界観の強さが、『Transisotr』にはあるのです。
■RPGではお馴染みのシステムに一捻り加えたゲーム性
〈Super Giant Games〉はアートだけのスタジオではありません。肝心のゲーム・デザインの方でもその完成度はたしかなもの。ジャンルとしてはアクションRPGの部類に入りますが、前作『Bastion』がオーソドックスなアクションRPG的なシステムだったのに対し、今回の『Transistor』はそこにも工夫を加え、さらなる進化、オリジナリティを獲得しています。
本作の戦闘はアクションRPGの呼び名どおり、基本的にはリアルタイムで進行し、プレイヤーはその中で攻撃したり回避したりといったことをするわけですが、「Turn()」と呼ばれる作中のシステムを使うとそれが一変するのです。
Turn()を発動すると時間が静止したような状態になり、プレイヤーはその状態から次の行動を予約する事ができます。1回のTurn()でできることの上限は各行動のコストにより制限され、予約した行動は基本的に間髪を入れず一方的に実行できる。
要するにRPGのターンシステムとほとんど同じなのですが、任意のタイミングで発動させることが可能で、また、一度用いると使ったコストの分だけクールダウンが必要となります。そのため、アクションRPG的な面とターン性RPG的な面をそのときどきの事情を見ながら使い分けていく戦略性、またTurn()を使ったときの一方的に敵を蹂躙できる爽快感が本作のおもしろさの一つとなっているのです。
Turn()の仕様は動画で確認するのが一番わかりやすい。
もう一つおもしろいのが「Functions」という独自の成長要素。基本的にはレベルアップ時に手に入るFunctions、これはいわばいろいろな効果を持ったカードのようなもので、それを武器であるTransistorに直接組み込むか、組み込んだFunctionsへのさらなるアップグレードとして使うか、自分自身に組み込むかによって効果がまったく異なってきます。
正直なところ、このシステムはかなり複雑。僕も理解するのに暫く時間がかかり、完全に使いこなせたのは2周め以降でした。そこが1つの欠点でもあるのですが、逆に、理解できればこれほど自由度が高くて奥深いものもない。それぞれFncutionsの差別化がうまくいっており、組み合わせの実験ができる機会もあるので、毎回異なるカスタマイズにするもよし、一つの方向性を洗練させるもよしで、人によって千差万別のプレイスタイルが生みだせるでしょう。

Functionsの種類は16種×それぞれ3つの特性を考えると組み合わせ方は膨大だ
1周8時間前後のプレイ時間で、登場する敵の種類もそう多いものではありません。しかし敵ごとの差別化がこれまたしっかりできていることと、このFunctionsの組み合わせの自由度、Turn()の戦略性のおかげで、中弛みもなく一貫して楽しく遊ぶことができました。むしろ前述する複雑さもあって、ゲームとしての本番は2周めからとも言え、2周めは同じFunctionsの2枚めが手に入るので、同一Functionsの掛け合わせによるさらなる自由度と深みが待っています。
■『Transistor』の音楽
海外の大作ゲームにおいて、音楽がどんどん映画音楽と同じ方向性を突き詰めつつあるのに比べ、インディーズの方はもっと扱う曲の幅が広く、また、同じくインディの音楽アーティストと組むことも多いと言えます。
『Transisntor』もその例に忠実で、ブルックリンのインディ・バンドControl Groupのメンバー、Darren Korb 氏が手がけたサウンドトラックがなかなか魅力的な出来です。主人公Redの職業が歌手ということもあり、たびたびヴォーカル入りの曲が挿入されたり、Turn()発動中は曲にハミングが挿入されたりといった作りこみも繊細でいい。
またヴォイスアクトも、登場キャラクターは少ないですが、どれも良質で楽曲と同じく繊細さを感じさせるのが気に入っています。
なお、サウンドトラックは単体で販売されている他、Youtubeでも公式で無料配信されているので、興味のある方は聴いてみるとよいでしょう。
■まとめ
インディーズの勢いは止まる気配がありません。それはまさに破竹の勢いで、数はもちろん質的にも素晴らしいものが増えてきています。従来のコンシューマ・ゲームが大作化と少数化の一途をたどっているのとは対照的で、業界全体の勢力図はつねに変動していますが、多様性という点ではいまがもっとも熱い時期と言えるのではないでしょうか。
この『Transistor』も間違いなく本年を代表するインディーズ・ゲームの1本として数えられましょう。これがわずか12人のスタッフによって作られたというのだから驚きだし、また記事中何度も触れたように、そのできあがった作品が日本的センスに肉薄しているのも驚きであります。
pixivやDeviant Art、いまはなきCG Hub等のイラストSNSを見ていると、外人でありながら日本的感性を感じさせる、または日本らしさと欧米らしさの良いとこ取りのようなスタイルのアーティストをよく見かけます。そんな彼らのほとんどがJen Zee氏と同じく中国系、あるいは韓国系の出自であるというのは特筆すべき点であり、きっと今後も彼らのそうしたセンスを掛け合わせたインディーズ・ゲームが登場してくることでしょう。
こうした世界の動きに対して、日本のゲーム・デベロッパー、またはイラストレーターが従来のコンシューマ、インディーズともに出遅れているのは残念なことではありますが、それはおき、ひとまずは海外ゲーム市場のこの盛り上がりを素直に喜びたいと思います。
この日ユニットに集まった人びとは、ピンチが2台のターンテーブルの前に立っていた150分間に一体何を期待していたのだろう。やはり、彼がシーンの立役者として関わったダブステップか? それとも、彼の新しいレーベル〈コールド・レコーディング〉で鳴らされる、テクノやUKガラージがベース・ミュージックと混ざり合った音だったのだろうか? ピンチがフットワークを流したら面白いな、なんて想像力を働かせていた人もいたのかもしれない。
実際に会場で流された音楽は、それら全てだった。
ジャー・ライト、エナに続いたピンチのステージは、テクノの轟音とともにはじまった。そこに重低音が混ざるわけでもなく、リズム・パターンが激しく変化するわけでもなく、ストイックな四つ打が会場を包み込んでいく。
ピンチがロンドンでダブステップの重低音を体感し、それをブリストルへ持ち帰り自身のパーティを始めるまで、彼はミニマルやダブ・テクノのDJだったのだ。ここ1年でのピンチのセットのメインにはテクノがあるわけだが、自分自身のルーツに何があるかを理解しないうちは、新しいことなんぞ何もできない、と彼は証明しているようにも見える。
〈コールド・レコーディングス〉から出たばかりの彼の新曲“ダウン”はまさにテクノと重低音、つまりピンチ過去と現在が混ざり合った曲だ。
先日発売された同レーベルの初となるコンピレーション『CO.LD [Compilation 1] 』は、去年の4月からレコードでのみのリリースをまとめたものになっており、参加しているエルモノ、バツ、イプマン、エイカーという新進気鋭のプロデューサーたちは、自分たちを形作っているジャンルの音を現在のイギリスのシーンに置ける文脈のなかで鳴らしている。
例えば、イプマンはダブステップの名門レーベル〈テンパ〉や〈ブラック・ボックス〉からのリリースで知られていたが、〈コールド・レコーディング〉から出た彼の曲“ヴェントリクル”では、テクノの要素が前面に押し出されており、意外な一面を知ったリスナーたちを大きく驚かせることになった(イプマンがレーベルのために作ったミックスではベン・クロックが流れていた)。
「アシッド・ハウス、ハードコア、ジャングル、UKガラージ、ダブステップ以降へと長年続く伝統からインスピレーションを受けた、進化し続ける英国のハードコア連続体の新たなムーヴメントのための出口」が〈コールド〉のコンセプトだが、ピンチ自身と彼が選んだプロデューサーたちは、伝統から学ぶスペシャリストである。このコンピを聴くことによって、それぞれのプロデューサーたちの影響源だけではなく、彼らの目線を通してイギリスのクラブ・ミュージックの歴史までわかってしまうのだ。
Ipman Cold Mix
開始から30分ほどして、流れに最初の変化が訪れる。ピンチは若手のグライムのプロデューサーであるウェンによるディジー・ラスカルのリミックス“ストリングス・ホウ”をフロアに流し込んできた(彼のミックスの技術はずば抜けて高く、色の違う水が徐々に混じっていくようなイメージが浮かぶ。手元にはピッチを合わせてくれたり、曲の波形を可視化してくれるデジタル機器は一切無く、レコードのみだ)。今年に入りアコードをはじめ、多くのDJにサポートされてきたアンセムはオーディエンスたちにリワインドを要求させたが、「まだ早いよ!」といわんばかりにピンチは4つ打へと戻っていく。
Dizzee Rascal-Strings Hoe-Keysound Recordings ちなみに、この日流れていたテクノも面白いチョイスだった。「うおー! これDJリチャードの〈ホワイト・マテリアル〉から出たやつだ!」という情報に富んだ叫び声が聞えてきたのだが、DJリチャードはジョーイ・アンダーソンやレヴォン・ヴィンセントと並ぶ、アメリカ東海岸のアンダーグラウンド・シーンにおけるスターだ。彼らが作る曲はときに過剰なまでのダブ処理が施され、リズムにもヴァリエーションがあるため、ベース・ミュージックのシーンでもたびたび耳にすることがある(ペヴァラリストのセットにはしばらくレヴォン・ヴィンセントの“レヴス/コスト”があった)。
おそらく、アメリカで育った彼らも、スコットランド生まれブリストル育ちのピンチと同じようにベーシック・チャンネルのうつろに響くミニマル・テクノを聴いてきたのだろう。国境を越え、似たルーツを持ち違った土壌で生きるプレイヤーたちが重なり合う現場には驚きと喜びがつきものだが、この夜はまさにそんな瞬間の連続だった。
とうとう、この日最初のリワインドがやってくる。ピンチがマムダンスとともに〈テクトニック〉からリリースした“ターボ・ミッツィ”が流れるとフロアが大きく揺れ、DJはレコードを勢いよく、そして丁寧に巻き戻す。だが、直ぐに頭から曲は始まらない。ピンチは拳で自分の胸を叩いて、フロアに敬意を示す。するとイントロのシンセサイザーがじわじわとフロアに流れ始めた。気がつくと、フロアはオーディエンスではなくパーティの熱気を作り上げるDJの「共犯者」で埋め尽くされていたのだった。
「Yes, I’m」という声ネタとハンド・クラップが鳴り始めた瞬間、フロアの熱気はさらに上がる。それは、ブリストルのニュー・スクールの優等生であるカーン&ニークの“パーシー”を、ふたりが成長する土壌を作り上げたピンチが流すという、感動的な場面でもあった。世代から世代へと時代は嫌でも変わっていくものだが、この日34歳の誕生日だったピンチはその変化を楽しんでいるようだった。
ラストのダブステップからジャングル、フットワークという流れにいたるまで、フロアをDJはロックし続けた。曲が鳴り止むとピンチはフロアへ合掌し、オーディエンスとゴス・トラッドに拍手の中で150分間のロング・セットは幕を閉じた。
かれこれ十年以上も前になるだろうか、前職である一部上場企業をさっさと辞め、雑誌編集のヤクザな世界(大手出版社はもちろんそうじゃないと思いますよ)に足を踏み入れて数年経ったある日編集部へ私宛に男性から電話があって、相手の会社名がよく聞きとれなかったのでインディ系のレーベルの方だと思い、会ってみたら先物取引の勧誘であった。これからは大豆がいいという。私は〈ベアーズ〉あたりで頭角をあらわしはじめた大豆なるバンドのことかと思い耳を傾けたが、どうやらモノホンの大豆である。ひとめ見たときからおかしいとは思ってはいた。彼はピンストライプが入った濃紺のスーツを着ているではないか。かくいう私はむくつけき長髪である。会話は終始かみあわず、「どうでしょう、60万お預けいただければ損はさせません」といわれ、ない袖は振れやしないので断るしかなったが、結論にいたるまでの私たちのぎこちなさはキャプテン・ビーフハートと彼のマジック・バンドを彷彿させないこともなく、金さえあれば大豆に賭けてみようという気に――なりはしなかっただろうが、不意に襲う逃げ場のない違和、異化、断絶は自他の境界線を引き他者を際だたせる。個人情報がどこかで錯綜し彼はきっとまだ私が上場企業の社員だと思っていた。うすうす途中からは勘づいただろうが、みなさんも経験されたこともあるかもしれませんが、だからといって突然打ち切るわけにもいかないので軟着陸を試みるしかない。ありふれた日本的な日常のひとこまといわれればそれまでだがしかしその大気のなかでくすぶったものはなにか。
パニック・スマイルは1992年の結成から、吉田肇、保田憲一、石橋英子とジェイソン・シャルトンの第4期の布陣が散会するまで、影に日向に日本のオルタナティヴ・ロック界をひっぱってきた。活動休止した2010年3月の〈we say foggy! vol.7〉は、私はバンドで対バンさせていただいたので袖から彼らのライヴを観た。吉田肇のギター・リフで幕を開け、互いに明後日の方向を向きながら一歩も引かぬ演奏は3作目『MINIATURES』以降の完成形に近づき円熟にいたるかに見えたが円熟の境地に安住しない/できないのもまたきわめて彼ららしい。
お休みのあいだ、バンドは吉田+保田の双頭体制になり、保田をベースからギターへコンバートし、新たにスッパバンドのDJミステイクをベースに、ドラムに松石ゲルを迎え、パニック・スマイルは4年ぶりの8作め『Informed Consent』を発表する。冒頭“Western Development2”の4小節のギター前奏につづき切りこんでくる変拍子アンサンブルはこれまでの延長線上にありながらプレイヤーの記名性に寄りかからないシンプルな構造に終始し、まことに若々しいのは技法や語法をぎりぎりまで削ぎ落とし空間が露わになったせいだろう。福岡で産声をあげたときから22年の年月をかけて原点に回帰したといい条、その軌道は螺旋を描くから現在位置は原点の上にある。ビーフハート的でありながらフォールを思わせペル・ユビュのように物体的なオルタナティヴ。それらをひとつも知らなくてもまったく問題ないノーウェイヴ。そのような音楽がこんな日本の大気のなかでも生まれうる、というか、そことの軋轢が推進力となる熱を生んだのか、吉田肇は“Devil’s Money Flow”で「とっておきの マネーフロー(中略)こっちに選ぶ権利がない こっちに選ぶ権利がぜんぜんない」(“Devil’s Money Flow”)と歌う。先物取引ばかりかあらゆる投機、蓄財、利殖、詐欺のたぐい、政治的決定、食べるものから着るものはいうにおよばず読む、聴く、観る、さらに飲む、打つ、買うにもシステムは還流し、参加する気も実感もないのに知らぬまに搦めとられ細部まで完璧にコンロトールされる、まさに「悪魔のマネーフロー」。“Informed Consent”“Antenna Team”“Nuclear Power Day”アルバムの歌詞はそこらへんに転がっている欺瞞を暴くが、ことさら告発調というより素朴かつ長閑であり、空転しながら孤高の違和を発しつづける。坂本慎太郎が『ナマで踊ろう』で刷毛で二の腕の裏をふれるように描いた現実をパニック・スマイルは隣家のベランダから怒鳴るように音にする。怒りと笑いに痙攣するグルーヴがおよそ半時間の『Informed Consent』を貫くが、終曲“Cider Girl”がシュワシュワとこの世の大気のなかに消えぬ間に再生ボタンを押してしまうのは盟友AxSxEのプロデュースもふくめ、あるべき場所にあるべきものがあるからである。
吉田さんのヴォーカルもすげーいいですね。おかえりなさい。
別件で来日直前取材中のスカル・カタログ(元ソーン・レザー、来日ツアーがもう目前だ)いわく、最近の電子音楽なんてコンテイナー(Container)以外聴かねぇ! とのこと。なんだか妙に腑に落ちる。
一口にインダストリアル・リヴァイヴァルと言っても、その曖昧な言葉だけではもはや昨今のサウンド相関図を描くことなど到底できやしない。たとえばここ10年のドローン/パワー・アンビエントに感化されたハード・テクノやミニマル・テクノ、ニューウェイヴやミニマル・ウェイヴからEBMまでのネオ・ゴスへの流れ、ウルフ・アイズ的なUSノイズ・ロックのビートへの邂逅……などなど、すべてが互いに影響を受けながら、しかしそれぞれに異なるシーンの中から育まれているのだ。
コンタイナーのレン・スコフィールドはロケンローな魂を極端なかたちで解放する生粋のUSノイズ・ロック・デュードであった。コンタイナー名義で彼が熱心に探求するロウ・ボディ・ミュージック、ハード・ミニマル・シンセ・パンクとも呼べるサウンドは、制作にストイックに向き合う姿勢、硬質な音を追求するミニマルなシンセ/ドラムマシン使い、いろんな意味で硬派だ。昨年のアイタルとのUSツアーは、異なるフィールドとはいえ、USアンダーグラウンドからダンスフロアを揺らしまくった意義のあるものであったにちがいない。
そしてもうひとつ、エム・エクス・ノイ・マックもまた生粋のUSノイズ・ロック・デュードだ。
けっこう昔の曲なんですが、最近突然ヴィデオがアップされたので頭のおかしい人のために貼り付けておきます。3ピース・バンド形態となり、ジャムではなくソングをプレイしている新生ウルフ・アイズが最近何かのインタヴューで「俺らはノイズだったことなんかねぇ! トリップ・メタルなんだ!」と吐き捨てていたことがどうにも印象的で、USノイズというカテゴリーに収められていた連中の多くは、そう、単純にロケンローな魂を極端なかたちで解放してきたに過ぎない。くどいようだけども。
エム・エクス・ノイ・マックことロバート・フランコも明らかに全身全霊でロックしてる危ない男であり、その洗練された鉄槌感には毎度恍惚とさせられる。かつてのバンド、エンジェル・ダスト(Angeldust)での相方であったネイト・デイヴィス、エアー・コンディショニング(Air Conditioning)のマット・フランコのとんでもない極悪メンツで結成されながら最高の癒しサウンドを奏でるフランシスコ・フランコを聴けば彼のポテンシャルの大きさがいかに大きなものなのかを知る一助にもなるだろう。
先日、通勤バスの中で新聞を広げていると祖国の話題が出ていた。東京都議会で女性議員に対して性差別的なヤジが飛び、国内で大きな話題になっているという。『ガーディアン』紙のその記事は、日本が男女平等指数ランキングで常に下位にランクされている国であることを指摘し、ジェンダー問題の後進国だと書いていた。まあ、ありがちな「東洋は遅れてる」目線の批判的な内容である。
こういう記事が出ると、「女性が強い英国では絶対にあり得ない」「アンビリーバブル」みたいなことを英国在住日本人の皆さんがまた盛んに言い出すんだろうな。と思った。わたしも10年前ならそう思っていた。
が、今はそうは思わない。
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BBC3で『Murdered By My Boyfriend』というドラマが放送されてちょっとした話題になった。「恋人に殺された」というタイトルの当該ドラマは、パートナーの青年にDVを受け続けて最後には亡くなってしまった若い女の子の実話をドラマ化したものだ。
17歳で同年代の青年に出会い、すぐに妊娠して子供を産んだ少女が、嫉妬深くて幼稚なパートナーから家庭内で暴行され続け、4年後には殴り殺されていた。というストーリーは、英国のある階級では「あり得ない」話ではない。英国内務省が2011年に発表した資料によれば、英国でもっともドメスティック・ヴァイオレンスの被害に遭っているのは16歳から24歳までの女性だそうだ。このドラマのモデルになった事件では、恋人を殺した青年は、生活保護受給者でありながら血統犬のブリーダーをやって不法に収入を得ていた貧民街の男だった。
例えば、ブライトンの病院やチルドレンズセンター(地方自治体運営の子供と親のためのサポートセンター)などのトイレに入ると、個室の内側にA4サイズのナショナルDVヘルプラインのポスターが貼られている。
「あなたはドメスティック・ヴァイオレンスの被害者ですか?虐待されている女性を知っていますか?」
というスローガンと共に、幼児の手を引く若い女性の後ろ姿の写真が印刷されている。まさに『Murdered By My Boyfriend』のストーリーみたいなポスターだが、そうしたイメージが使われているということは、やはりDVの被害者には子持ちの若い女の子が多いということだろう。
英国における若きシングルマザーの数の多さはこれまでブログ(&拙著)で何度も書いてきた。日本では、「出来たら始末しちゃえ」というのがティーン女子の一般的対処法だったと記憶しているが、英国の場合は、何故か産む。といっても、わたしはミドルクラスから上の人の生活様式は知らないので、労働者階級だけの話かもしれない。が、わたしの知っている世界では、十代の女の子たちは堕胎より出産を選ぶ。
それは先の労働党政権がシングルマザーに優しい福祉制度を確立したせいもある。ぶっちゃけ、無職者に子供がいれば、すぐ役所から家をあてがわれ、生活保護も貰えるという時代が長く続いたので、下層社会の女子には、就職や進学しない代わりに子を産んで生活保護受給者になるというライフスタイルのチョイスが存在したのである。
キャリアを持つ女性たちが子供を産まなくなった代わりに、十代で妊娠したシングルマザーたちが生活保護を受けながら続々と子を産み続けて行く様は、この国では階級による女たちの分業がはっきりと出来上がっているようにも見えた。ミドルクラスの女たちは外で働き、下層の女たちは生活保護を貰いながら子供を産み増やす。実際、シングルマザーへの優遇は人口の老齢化に歯止めをかけるための国家戦略だったのではないかとさえ思えてくる。UKでは2011年に1972年以来最高の新生児出生数が記録され、過去40年間で最高のベビーブーム到来と騒がれたが、ヨーロッパでそんな報道があったのはこの国ぐらいのものだろう。
英国の女は強い。というイメージが、マーガレット・サッチャーに代表される上層の働く女から来ているのは間違いない。確かにあの階級の女たちは、時代錯誤なセクシスト発言でも受けようもんなら言った男を完膚なきまでに叩き潰すだろうし、彼女たちが肩パッドで武装して戦って来た歴史があるからこそ、英国の上層の男たちは滅多なことは言えないのだ。
が、同じ英国でも、下層の世界はまるで違う。
下層社会には、家庭で「ビッチ」、「雌牛」、「淫乱女」と呼ばれて殴ったり蹴ったりされている女たちもいる。底辺託児所に勤めていた頃、顔の傷のあるアンダークラスの女たちを何人も見た。裏庭で恋人に蹴りを入れられている女性も見たことがある。彼女たちの子供は、そんな母親の姿を見ながら育つ。子供のために良くないとわかっていながら、早くこんな生活は清算しなければと思いながらも、彼女たちはいつも顔に傷を負っていた。そして彼女らの子供たちは成長し、母親を殴った男たちと同じことを自分の女にするようになる。その、乾いた現実の反復。
いったいぜんたい、ここはほんとうに女が強い国なのだろうか。
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以前、職場で顔に青痣をつくって出勤してきた若い保育士がいた。目の下のあたりが広域に青くなっている。寝ぼけて階段から落ちて手すりに顔をぶつけたと言っていた。彼女は20歳のシングルマザーで、同世代の恋人と同棲している。
一見してぎょっとするような青痣だったので、彼女はオフィスに呼ばれた。保護者たちの反応を心配して、マネージャーが当惑しているようだった。
10分ほどして、彼女は憤然としてオフィスから戻って来た。
「しばらく自宅待機しないかって言われた。痣がひどくて子供たちが怖がるかもしれないから、もう帰れって」
「・・・・それって、有給の自宅待機だよね、もちろん」
「ノー。自分の有給休暇を使って休めって言われた」
「違法でしょ、それ」
「うん。だから帰らない。働く」
彼女はそう言ってプレイルームに玩具を並べ始めた。
その日、子供を預けに来たミドルクラスの母親たちが彼女の痣を見た時の表情は忘れられない。明らかに誰もがDVによるものだと思っている様子で、ハッと驚いてから憐れみを示す表情になる人もいたが、「こんな人間に子供を預けて大丈夫だろうか」という不安を顔に出す人、あからさまに嫌悪感を示す人もいた。
医師やプレップ・スクールの教師といった高学歴の働く女たちの「顔に青痣のある女はうちの子には触らないでほしい」的なリアクションは、ある意味、日本の都議会で飛んだヤジぐらいあからさまで野卑だった。
女という性をすべて一まとめにして「シスターズ」と叫ぶフェミニズムはいったいどれほど現実的なのだろう。少なくともUKでは、たいへんに嘘くさい。
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ジョン・レノンが「一番嫌いなビートルズの曲」と言った歌がある。
「他の男と一緒にいられるぐらいなら
死んでくれたほうがまし
用心したほうがいい
俺は分別がなくなるから」
『Run For Your Life』は、英国では今でもDVを連想させる曲として語られる。レノンは、この曲の歌詞ははプレスリーの『Baby Let's Play House』にインスパイアされたとものだと言った。
が、晩年には「書いたことをもっとも後悔している曲」とも発言している。
亡くなる数年前、彼は最初の妻を殴っていたことを暗に認めるような発言をした。『プレイボーイ』誌のインタヴューでこう言ったのである。
「僕は自分の女に対して残酷だったことがある。肉体的な意味で、どんな女性に対しても。僕は殴る人間だった。自分を表現することができないと殴った。男とは喧嘩し、女は殴った」
英国には「強い女とジェントルメン」の構図とは全く別の世界が存在している。
その世界は上のほうが先に進めば進むほど後方に取り残されて行く。格差が広がれば広がるほど、進んだ世界と遅れた世界のギャップは大きくなる。
警察の発表によると、2013年第4四半期でDVの件数は15.5%増えたそうだ。
ジュリアン・コープの真似をすると、「僕はかつてクラウトロッカーだった」。英米のポップ・ミュージックのクリシェに飽きたとき、クラウトロックは、穴に落ちたアリスのように、何か特別な世界に迷い込んだかのようにワクワクしたものだ。60年代末から70年代前半にかけてのジャーマン・アンダーグラウンドが繰り広げた音の実験は、淫らなほどサイケデリックで、信じがたいほどのフリーク・アウト・ミュージックで、あり得ないほどの単調さと最高のギミックで、聴いている人の想像力をどこまでも拡大する。そして、ただそのジャケットを手にしただけでも興奮する。こうして人はクラウトロッカーへの道を歩みはじめるのだ……
もともとクラウトロッックとは、1960年代末から70年代前半にかけてのウェスト・ジャーマン・アンダーグラウンドへのアイロニカルな表現として、イギリスのメディアが使った言葉だ。カエルを食べるフランス人をフロッギー(カエル野郎)と呼ぶように、キャベツの酢漬けを食べるドイツ人のロックをクラウト・ロックと呼んだのだ。
いまではにわかに信じられないだろうが、1970年代は、アングロ・アメリカンこそがロックだった。ピンク・フロイドを擁するUKは、ヨーロッパにおいてコネクトしていた国だったが、しかし、ジミヘンもスライもVUもザッパもマイルスもアメリカだ。そんな情勢において、ドイツのロックがすぐさま発見され、そしてすぐさま正当な評価を得ることはなかった。
が、1974年にクラフトワークの「アウトバーン」がヒットしたこと、カンやタンジェリン・ドリームがドイツ国外で成功したこと、UKのグラム・ロッカーがドイツに目を向けたこと等々、さまざなな要因が重なり、道は開けていった。それはパンク・ロックによって再評価され、やがてハウス・ミュージックやテクノにおいても再々評価された。クラウトロッカーは増え続け、いつの間にかドイツ以外の国の音楽でも、マシナリーなドラミングのミニマルなロックをクラウトロックと形容するようになった。
著者の小柳カヲルは、クラウトロックの書き出しを、モンクスからはじめている。アングロ・アメリカ圏からやって来たガレージ・バンドこそが、クラウトロックにおけるミッシング・リンクだと言ったのはジュリアン・コープだが、ドイツ在住の米兵による、酩酊した、デタラメなこのガレージ・バンドは、こんな歌詞をわめいている。「俺たちは兵隊が好きじゃない。何故、ベトナムの子供たちは殺されなければいけないのか? ジェイムス・ボンド? 誰だそれは? 止めてくれ」
また、モンクスとは別の局面では、ご存じのようにカールハインツ・シュトックハウゼンがいた。この電子音楽の父は、ザ・ビートルズの1967年の『サージェント・ペパーズ〜」のジャケにも登場しているように、その影響はポップ・カルチャーの世界にも及んでいた。また、1968年にフランク・ザッパがおこなったドイツ・ツアー、同年にリリースされたVUのセカンドなどもオリジナル・クラウトロッカーに影響を与えてた。1968年には、ベルリンではタンジェリン・ドリームが、ミュンヘンのコミューンではアモン・デュールが、ケルンではカンが始動している。1969年にはクラフトワークの前身のオルガニザッツィオーンが最初のアルバムを出している。
『クラウトロック大全』は、パンク〜ポストパンク〜(テクノ)を通過した今日からの視点によって編集されている。よって、オリジナル・クラウトロッカーが最初のピークを終えたあとの、80年代のノイエ・ドイッチェ・ヴェレ(ジャーマン・ニューウェイヴ)の時代までを範疇としている。とくにコニー・プランクとホルガー・シューカイのふたりは、この時期までたくさんの良い仕事をしているのと、クラウトロック以降/ダンス・カルチャー以前の西ドイツのアンダーグラウンドのアーカイヴが日本ではまだされていなかったこともあり、思い切って、この機会に取りあげてみた。
また、ドイチュラントという国が、近世までは、バイエルンだとか、ブランデンブルクだとか、地方分権だった時代が長かったため、それぞれの地方への帰属のほうが強い側面がある。よって、本書ではクラウトロックを分類する際に、年代順でもアルファベット順でもなく、都市ごとに分類している。
ひと昔前は、クラウトロックを聴くには、マメにその手のレコード店を歩き回り、そして、見つけたら、ときには思い切って大枚をはたく必要があったが、いまでは掲載している作品の多くが入手しやすい。これを機会に、ひとりも多くのクラウトロッカーが生まれることを期待している。
なお、ディスクユニオンで買うと先着でクラトロック・ポスター+ポストカードがもらえて、タワーレコードとHMVで買うとノイ!のポストカードがもらえる。ちなみに、本の表紙はクラウス・ノミではなく、コンラッド・シュニッツラーです。(野田)
※著者の小柳カヲル氏が主催する〈SUEZAN STUDIO〉からは、先日、ノイエ・ドイチェ・ヴェレの名門〈Ata Tak〉に残された数々のシングル・レコードを1枚のCDと3枚の7インチ・アナログ・レコードに収録したボックス・セットをリリースしたばかり。デア・プランの7インチの、モーリッツ・RRRによる素晴らしいアートワークが復刻したのです。
目下、海外では「YouTubeからインディ・ミュージックがいなくなる?」という議論が起きている。
YouTubeがサブスクリプション(定額制)サービスをはじめるという話は、ご存じの方も多いだろう。サービス開始にあたって、YouTubeは、メジャーよりも悪い条件での契約( The Worldwide Independent Network (WIN)によれば『フェアは言えない条件』)をインディ・レーベルに強いているというのだ。そして、新しい契約に合意しないインディ・レーベルは、コンテンツを取り下げられてしまう状況にあるという。
このところ、ほとんどの海外(音楽)メディア──『ガーディアン』から『ピッチフォーク』がそのことを話題にしている。有料化自体を反対する『GIZMODO』のようなメディアもある。
こうした動きに対して、XLをはじめとするインディ・レーベルは反対の動きを見せ、アメリカのインディ・レーベル連合A2IMは米連邦取引委員会に抗議、契約の不当性を問うているという。また、レディオヘッドのエド・オブライエンは、今回の衝突のもっとも危惧すべきこととして、『ビルボード』に以下のようなコメントを寄せている。「インディ・アーティストとレーベルは、音楽の未来の最先端にいる。彼らを規制することは、インターネットをスーパースターとビッグ・ビジネスのために構築するという危険を孕んでいる」
たとえば、日本では洋楽が売れなくなった……などとこの10年よく言われる。たしかに旧来の産業構造においては売れなくなったのだろうが、これはインターネットの普及によって消費のされ方が大ヒット依存型から脱却したに過ぎないのではないか、ということを本サイトをやっていると感じる。たとえば、アジカンを好きなマサやんがアルカを聴く──前者はともかく後者のような実験的な音楽は、ネット普及前の世界では、それなりにマニアックな店に行かなければ聴けなかったが、いまでは簡単にアクセスすることができる。ひと昔前なら「売れないから」という理由で店から閉め出された多様性は、この10年、より身近なところに来ている……はずだった。
何にせよ、インディ・ミュージックのファンにとって、今後の動向が気になるところだろう。(野田)



