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interview with Hiroshi Watanabe

interview with Hiroshi Watanabe

音楽のエネルギー

──ヒロシ・ワタナベ、インタヴュー

取材:野田努    Apr 14,2016 UP

アーティスト・ビザを取っていたので、半永久的にいれたんです。だけど、ぼくは目的があってニューヨークにいたわけで、ただアメリカ生活がしたかったわけじゃないんですよね。音楽に魅了されてニューヨークまでやってきたので、自分の音で勝負しないと何の意味もないと思っていました。


Hiroshi Watanabe
MULTIVERSE

Transmat/UMAA Inc.

TechnoHouse

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話を戻すと、ジュニアがヒロシ君の曲をかけて?

HW:嬉しかったと同時に、目標を果たしてしまったというか。自分の気持ちがそこで変わっていくんです。 当時はお金がなかったから、マンハッタンからクイーンズへ引っ越して、住んでいたアパートは屋根に上がれたんですけど、そこに寝そべって星空を見ていたときに、ふっと「俺、日本帰ろう」と思ったんです。奥さんにもその気持ちを伝えて、日本に帰る決断ができて、帰国を決めて段取りを整えているときに、奥さんのおなかに赤ちゃんがいることがわかったんです。このタイミングにはある意味運命を感じた。それがカイトなんですけど。日本に帰ってきて1月後に生まれるのかな。
 だから、子供が生まれるから帰ってきたのねってみんなに言われてたんだけど、全然そうじゃなかったんです。ある意味アメリカでのミッションをクリアし、高校を出てから日本の社会にも触れてなかったから。頭も高校生のまま! で、音楽を作ってきて、ちょっと社会的にまずいんじゃないかとも思ったんです。日本を知らなさ過ぎていたし、日本で社会人の経験がないのがまずいんじゃないのかと。それで戻ったんです。

ニューヨークでは、DJやって、EPを出しているぐらいでは、食っていけない?

HW:ギリギリです。1タイトルを売ると、当時多くて2000ドルくらい。少ないと1300ドルくらい。

それを毎月出すわけでもないしね。

HW:それをコンスタントに繋げて、あちこちでDJをしながら小さなお金をかき集めるって感じでしたね。それでギリギリです。結果的に自分の修業の場になってやれてよかったですけど。
 イースト・ヴィレッジのアヴェニュー・A沿いに、ものすごくハイプなアヴェニュー・A・スシ・バーというのがあったんですよ。やばくって、内装もいっちゃってるんですけど、ニューヨーク中のクラバーが日本食を食べに来るヒップな場所なんですね。入ってすぐに席とDJブースがあって、その奥にまた席があって、さらに奥に寿司を握る場所があるんです。そこに毎日入れ替わりでDJが入っていて、そこに勤めていた友人がやめちゃうんですけど、「ヒロシくん、よかったらやる?」と話をくれて毎週木曜日に回すことになったんです。そこのお客さんは耳が肥えているから、スシ・バーなんだけど本気でDJをしてないといけない。しかも時間も長くてロングセットなんです。そこでいいDJをすると、お客さんが帰るときに名前やスケジュールを聞いてくれるんですね。「ここでご飯を食べている連中を踊らせてやるぞ」くらいな感じで、毎週そこでDJをやってました(笑)。

当時のニューヨークって、いまのベルリンじゃないけどさ、クラブ・カルチャーの中心地だったものね。

HW:その通りですね。そこにテイ(・トウワ)さんとかもいたんですよね。

90年代末は、でも、ちょうどひとつの時代の終わりでもあったよね。それを肌で感じたということもあるんですか?

HW:あります。

ワイルド・ピッチ系のニューヨークのハード・ハウスの流れも、そのころにはピークに達していたもんね。

HW:成熟しきっちゃっていて。言ってみれば、それ以上先はルーティン・ワークになって飽きちゃうギリギリのところで、ぼくはニューヨークから引き上げたんです。ぼくが帰国した2年後にテロがありますよね。それでニューヨークは一気に変わってしまう……。

当時は、日本の状況を何も知らないわけでしょう?

HW:そうです。ニューヨークにいたとき、3ヶ所くらいツアーで日本を回らせてもらったことがありましたけどね。マニアック・ラヴと沖縄のヴァンプと福岡のO/D。マニアック・ラヴやイエローが盛り上がっていたのは知っていました。
 それに、アメリカに10年いようが、日本人は日本人じゃないですか。だから日本で起きているテクノ・シーンのことを、ぼくはすんなりと受け入れられたんですよね。「こんな面白いことをやっているのか!」って見れたんです。日本のシーンがうごめくすごさに関しては、とてつもないものがありましたからね。


Kompaktの昔のレコ屋さん内でDJ中のヒロシ。

しかし当時は多くの日本人はニューヨークに学ぼうとしていたわけですよ。

HW:ただ、ぼくはニューヨークでドラッグ・カルチャーもモロに見てしまったんです。ぼくは正直一切ドラッグはやらなかったので、葛藤はありましたよ。ぼくは音楽でぶっ飛んで欲しいと思っていましたからね。

そこはデリック・メイと同じスタンスですね。

HW:おこがましい話だけど、ぼくはデリックに強いシンパシーを感じるんですよね。ぼくは自分が持っている感覚をフルに使って「さらにぶっ飛ばせる音楽を作ってやろうじゃん」と決意をあたらにしたんです。

帰国して、それからカイトをやるわけですが、その経緯を教えて下さい。

HW:日本に戻って子供が生まれて、家庭を持つことになり、日本の社会に揉まれるんですよね。最初は日本についていくのが大変でした。
 そういう時期、EMMAくんが〈NITELIST MUSIC〉を立ち上げたばっかりで、曲を集めていたんです。ぼくの作った曲の半分はニューヨークくさいもの、半分は日本に戻ってきてもう一度構築しようと実験していたものでした。〈NITELIST MUSIC〉からは、ヒロシ・ワタナベとナイト・システム名義で作品を出してもらうんですけど、ニューヨークでやってきたことを踏まえながら、新しいことをやりたいなとも思っていたんです。ちょうどその頃に、のちにいっしょにトレッドというユニットを組んでアルバムを出すことになる、グラフィック・デザイナーのタケヒコ・キタハラくんに会うんです。彼はヨーロッパの音を当時僕より断然追っていて、とくに〈コンパクト〉レーベルという存在を意識していましたね。彼から「ヒロシくん、〈コンパクト〉にデモを送った方がいいよ」と言われたんです。で、曲を送ったら、1週間後くらいにウルフガング・ヴォイトからメールで連絡が来たんですよ。
 ミヒャエル・マイヤーが言うには、送ったタイミングもすごくよかったみたいです。〈コンパクト〉は、1998年にレーベルがはじまってから、ひと通り出し切っちゃった感があったみたいで、自分たちがどこに向かうべきか話し合っていたときらしく。そこにぼくのデモテープが送られてきた。オフィスでかけてみたら、みんなが反応したそうです。メールには、「ちょうど新しいものを探していたんだよ。お前の音はバッチリだから出そう!」と書かれていましたね。

デザインもよかったですよね。〈セックス・マニア〉の猥雑さとは真逆でしょ。いかにもドイツ的なデザインで。なぜカイト名義にしたんですか?

HW:自分の本名でもよかったんですけど、ヒロシ・ワタナベだと印象がニューヨークすぎるんじゃないかと。でも彼らは日本語名がいいと言っていたんです。日本語名って難しいじゃないですか。日本人にとって日本語名プロジェクトがダサく感じることもあると説明していたんですよ。なかなか良い案が出なかったんですけど、「ちょうど生まれて間もない息子のカイトの名前はこういう漢字で、こういう意味(宇宙の謎を解く)があるんだよ」って伝えたら、「もうそれしかねぇよ!」と決まったんです(笑)。そうやってカイトのプロジェクトが生まれたわけです。だから最初に曲を作っていたときに、息子をイメージしていたわけではないです。

親バカからきたわけじゃないんですね(笑)。

HW:全然違います(笑)! ゼロからはじめて、日本で暮らしながら生まれる音楽ってなんだろうという模索の中から作ったのがカイトです。で、セカンド・シングルの「Everlasting」にジャケをつけることになって、子供の写真を送ったらあのジャケになってたんです。



あれがカイトのひとつのイメージを作ったもんね。

HW:自分が意図的にそのイメージを作り上げたわけじゃないけど、一度出した以上はそれでプロジェクトは走っていく。あの当時はダンス・ミュージックにあんな子供がドーンと露骨に出ちゃうって、なかった。だから自分でも面白いかなと思ったんですね。

当時売れたでしょう?

HW:かなり売れましたね。

だって、2000年代からは、ヒロシ・ワタナベといえばカイトですよ。

HW:自然とそうなっちゃいましたよね。

Kaito Live at Studio 672 in 2002

取材:野田努(2016年4月14日)

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