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interview with Hiroshi Watanabe

interview with Hiroshi Watanabe

音楽のエネルギー

──ヒロシ・ワタナベ、インタヴュー

取材:野田努    Apr 14,2016 UP

Hiroshi Watanabe
MULTIVERSE

Transmat/UMAA Inc.

TechnoHouse

Amazon

 人生には何が待っているかわからない。当人にとっての自然な流れも、はたからは意外な展開に見えることがある。ヒロシ・ワタナベといえばKaito、KaitoといえばKompakt。Kompaktといえばドイツのミニマル・ハウス、ポップ・アンビエント、水玉模様……ヒロシ・ワタナベといえばKaito、Kaitoといえば子どもの写真、美しい風景、クリーンな空気……。
 しかしヒロシ・ワタナベのキャリアは──90年代半ばのNY、DJピエールのワイルド・ピッチ・スタイル全盛のNY、エロティックでダーティーなNY、それは世界一ハードなクラバーのいるNY──そこからはじまっている。
 そして2016年、彼はデリック・メイのレーベル、──デトロイトの名門中の名門とでも言っておきましょうか──、〈Transmat〉から作品をリリースする。アルバムは『MULTIVERSE(マルチヴァース)』というタイトルで、12インチEPはすでに出ている。EPのほうは〈Transmat〉からの初の日本人作品という話題性もあって、あっという間に売れたし、好評だった。アブドゥール・ハックによるアートワークも良かった。
 それで『MULTIVERSE』だが、これはヒロシ・ワタナベらしい繊細さをもちながら、じつにパワフルで……というか寛容さと力強さを兼ね備えていて、些細な瞬間に大きな喜びを見いだすことさえ可能な、前向きな心によって生まれた作品であることは間違いない。人生に挫折した男も女もふと空を見上げ、ひょっとしたらこの苦境を乗り越えられるかもしれない、そう思うだろう。
 これを〈Transmat〉サウンドと呼ばずして何と言おうか。初期ヒロシ・ワタナベが荒々しいダンスの渦中で生まれた音楽なら、Kaitoはダンスフロアに草原の清々しさを吹き込む音楽、そして『MULTIVERSE』は……こうも言えるだろう、デリック・メイとの二人三脚で生まれた音楽であると。
 このインタヴューではヒロシ・ワタナベの20年以上のキャリアを振りながら、彼のダンス・ミュージック/電子音楽への考え方を紹介している。長い話だが、初めて聞けることばかり。デリック・メイとの熱い(!)やり取りのところまで、どうぞお付き合い下さい。


2016年正月の神戸公演にて。

理論上のことだったり、テクニカルな部分は、自分がやりたい音楽にはほぼほぼ当てはまらない感覚がずっとあったんですね。だからこそダンス・ミュージックを聴いたときに、「もう自分にはこれしかないじゃん」という気持ちに駆られましたね。

今回の新作、表面的には「〈コンパクト〉から〈トランスマット〉へ」──という風に見えると思うんですよ。やっぱりカイト名義の〈コンパクト〉からの作品は、ある時代(2000年代の最初)を象徴するものでもあったし、その印象がまだ強いんじゃないでしょうかね。

ヒロシ・ワタナベ(以下、HW):たしかに、長い期間やってきましたからね。

〈トランスマット〉から日本人が出るらしい、それがヒロシ・ワタナベって知ってびっくりする人は少なくなかったと思いますよ。

HW:でしょうね。

ただ、ちょうど2000年代に入ったばかりの頃、ぼくがデトロイトに行ったとき、車のラジオから〈コンパクト〉が流れてきたことがあったんですよね。ラジオのDJが「コンパクトからの新譜で〜」みたいな紹介の喋りがあって、あのミニマル・ハウスがかかるみたいな。

HW:意外というか、オープン・マインドというか。

そういう意味でいうと、今回のヒロシ・ワタナベの〈トランスマット〉リリースも、ヨーロッパ経由なわけでデトロイトと繋がらなくはないんですよね。だって彼らはヨーロッパ大嫌いで大好きじゃん。

HW:ヨーロッパのひとたちも、アメリカのシーンに絶対に興味を持っているけど、アメリカという国に対してはめちゃめちゃアンチだったりする。
 ぼくが結果的にデトロイトの〈トランスマット〉からのリリースにたどり着いた経路にも、不思議で面白いところがあるんです。ぼくは、もともとはボストンで大学に通いながらダンス・ミュージックを作りはじめたんですね。メインストリームも消化しつつ、自分なりの音を探っていたんですが、それがのちのちクァドラ(Quadra)というプロジェクトになっていきます。で、卒業後にボストンからニューヨークに行って、当時もっとも衝撃だったDJピエールやジュニア・ヴァスケス 、ジョニー・ヴィシャスなどのハード・ハウスのスタイルに影響を受けました。ゲイ・カルチャーに根ざしながら、ゲイ・シーンだけではないものを一生懸命に聴いていましたね。

90年代のニューヨークにとってハウスは本当に大きかった。ヒップホップも大きかったけど、ハウスもすごかった。ジャネット・ジャクソンのようなポップ・スターも、みんなハウスをやっていたよね。

HW:あのマンハッタンと狭いその近隣のエリアにガッツリ組み込まれていたハウス・シーンに、ぼくもドップリ入っていたわけです。

どのような経緯で?

HW:1990年にボストンに渡って音楽の学校(バークリー音楽大学)へ通って、1994年に卒業したあとにニューヨークで曲を作りはじめました。学校でかぶってはいないんですけど、DJゴミ(DJ GOMI)さんがぼくの先輩なんです。ゴミさんがバークリーに遊びに来ていたので、ちょっとお会いして挨拶したりとか、ニューヨークのシーンについて伺ってみたりしました。卒業する間近にゴミさんの家に泊まらせてもらって、ニューヨークをいろいろ案内してもらったり、いろいろお世話になったんです。「じゃあ、これからがんばってね」と言われて、ぼくはニューヨークへ渡るんですけど。

なんでハウス・ミュージックにそこまでのめり込んだんですか?

HW:ボストンで楽曲を作りはじめたときは、基本的にテクノなサウンドの方が好みだったんです。中学のときはYMOも聴いていたし、レコードもほとんど持ってました。とにかく、シンセサイザーを使って打ち込みが盛り込まれている音楽が、ひと通り好きだったんです。でもクラフトワークはあんまり聴いてないんですよね。アンダーグラウンドの音楽に対する自分の着目点は、王道のクラフトワークまで遡らずに、当時流行っていたブレイクビーツ系のテクノや〈XL〉のものでしたね。ドイツの〈EYE Q〉なんかもも聴いていました。学校には、打ち込みをやっている仲間がいっぱいいたんです。

お父さんが作曲家で、お母さんがジャズのピアニストなんですよね。

HW:そうです。

ご両親に対する反発心からテクノへ行ったんじゃないかと(笑)。

HW:ははは(笑)! 反発心からじゃないんですよね。

テクノって、音楽をちゃんと学んだひとからするととんでもない音楽でしょう?

HW:ぼくはとんでもないスタイルで作られた音楽に完全に魅了されたんです。高校は東京音楽大学の付属へ通ってクラシックも勉強したし、バークリーではジャズや音楽理論も多少なりとも勉強しました。でも自分が音楽を作って放出するときに、そういうアカデミックなものとはどうも違う。オーケストラでのコントラバスの経験ももちろん肥やしになっていますけど、理論上のことだったり、テクニカルな部分は、自分がやりたい音楽にはほぼほぼ当てはまらない感覚がずっとあったんですね。だからこそダンス・ミュージックを聴いたときに、「もう自分にはこれしかないじゃん」という気持ちに駆られましたね。

テクノって、多くが感覚で作られているし、単純じゃないですか? クラシックを学んでいると、その辺が逆に新鮮だったりするの?

HW:それで間違いないと思いますよ。理論やテクニックの部分を取っ払ったとこでどこまで勝負できるかという点において、テクノってすごく素敵な音楽なんです。ただ、もっと幼少期にさかのぼると、うちの父親が当時アナログ・シンセサイザーを多用して、マルチ・レコーディングやフィールド・レコーディングをした音を組み合わせて、夜な夜な楽曲を作っていたのを見ていた体験があるんです。

お父さんの影響が大きんだ。

HW:大きいです。かつ、当時はニューエイジ・ミュージックと呼ばれていた、いまでいうアンビエント・ミュージック、それこそアンビエントの原点というか。

UKのある有名なテクノのアーティストが、なんでテクノを好きになったのかという話をして、それは5歳の頃、オーディオ好きの父親に、部屋を真っ暗にして冨田勲を聴かされたことがきっかけだったと。そのとき、自分が本当に別世界へ行ってしまった感覚を覚えてしまったと言っていたんだけど、そんな感じですよね?

HW:それにほぼ近いですね。当時小学生のころ住んでいたのは平屋の木造民家だったんですけど、父親がバンドの練習をするためにひと部屋を手作りでかなり強力な防音室にしたんですよ。その防音室にぼくは忍び込んで当時全盛だった『スター・ウォーズ』の2枚組LPを真っ暗にして大音量で聴いていたんですよね。するともう、そこは宇宙になわけですよ。右も左もわからない状態で音だけに浸るって、その体験とまったく同じなんですよ。

しかしヒロシ・ワタナベをその気にさせた音楽って、〈XL〉であり、レイヴ・カルチャーであり、ダンス・ミュージックなわけですよね。

HW:サンプラーとブレイクビーツに興味があったんですよね(※レイヴ・ミュージックは基本、ブレイクビーツだった)。
 当時はアカイのサンプラーが一世を風靡していたんですけど、ヒップホップのスタイルはかっこいいけど自分が作る音楽ではないなとずっと思っていたんです。ヒップホップのスタイルは自分が経験してきた文化と違うし、最初はサンプリング・ミュージックを作ることには前向きにはなれなかったんです。でも、〈XL〉やオルタン8などブレイクビーツのサンプルは、ヒップホップとはまったく別のやり方でしたね。ヒップホップは無理だけど、こっちは全然いけるじゃんって思った(笑)。

その手のダンス・ミュージックは、どうやって知ったんですか?

HW:最初は、学校のシンセサイザー科の友人から教えてもらいましたね。彼はテクノを聴いて、自分でも作っていたんですけど、そこからテクノの仲間がどんどん増えていきます。学校外にも仲間がたくさんいることがわかって、いろんな人たちと出会うんですけど、そのうちのひとりがいま大阪にいるエニトクワ(Enitokwa)で、彼は同じ時期にボストンにいました。

レイヴに行って踊ってました?

HW:最初は聴いてるばかりでした。音楽と出会ってしまい、音楽を聴きまくる感じでした。クラブにも行ってないですし。

じゃあベッドルーム・プロデューサーとしてスタートしたわけですね?

HW:最初はそうです。ただ、そのあとボストンに808ステイトやエイフェックス・ツインなどがボストンに来ているので、見に行ったんです。そこでクラブ・サウンドの凄さを体感して、「DJをしないと、ダンス・ミュージックは作れないんじゃないの?」くらいに思いはじめました。
 作品もリリースしていないときに、何曲も作って自分で聴くんですけど、やっぱ何か足りないわけですよ。こんだけ頑張って作って、音もいいし質感もよくなってきている。しかし、何が足りないんだろうと考えてみたら、「これは俺が踊ってないからだ!」って思ったんです(笑)。
 それで、踊るんだったら躍らせる側に回った方が早いじゃないかと。それで中古の機材を集めてDJをはじめたんですが、そのころに知り合ったDJの友人がニューヨーク・ハウスのレコードを持っていたんです。それを自由に使っていいと言ってくれたので、わけもわからないままレコードを漁って、いいなと思ったものを友人のところでかけていたんですよ。そこでDJピエールのワイルド・ピッチ・スタイルを聴いちゃって、「これ何!?」みたいになって(笑)。

DJピエールで4つ打ちの良さに目覚める。

HW:ブレイクビーツを聴いていると、シンプルな4つ打ちがスカスカに思えてしまうんですね。だけどDJピエールは、普通の4つ打ちなのに、なんでこんなにかっこいいんだろうと。そこからハウス・ミュージックに興味を持つんです。ニューヨークへ行ったきっかけもDJピエールでしたね。

いきなりニューヨークという、その行動力はすごいです。

HW:若いエネルギーがすごいなと思うのはそこですよね。若さゆえに何にも考えずに、どんどん入っていけちゃうじゃないですか。これはもういても立ってもいられないから、ニューヨークへ行くしかないと。それ以前の歴史やアンダーグラウンド・シーンの流れをあまりわかっていないまま、いまその街で起こっていることに夢中になって追っかけていくんですね。
 それでぼくはサウンドを追い求めてニューヨークへ行くんですけど、実際はこんなにゲイ・カルチャーなんだと。

カルチャー・ショックでしたか?

HW:ぼくはけっこうすんなり受け入れましたね。彼らが巻き起こしているシーンがこれなんだって、サウンド・ファクトリーへ行ったとき、そう思いました。あまりにも強烈なサウンドシステムと、すさまじい盛り上がり方。そこではジュニア・ヴァスケスが延々とプレイしている……セットのなかで、ドープな時間だったり歌物の時間だったりハッピーだったりと展開していくわけだけど、そのシーンに触れたときに、「このために音楽が生まれているんだな」というのも思い切り体感して。ここでかかるような音楽を作って勝負したいと思いましたね。

ニューヨークではどんな生活だったんですか?

HW:最初はゴミさんの紹介で、〈Dr.Sound〉というところに勤めていたんです。クロサワ楽器系列で、経営は日本人だったんですね。その楽器屋さんには、DJデューク(※90年代のNYハード・ハウスの中心人物のひとり)が遊びに来たりとか、いろんなDJが来たので、用意していた自分の新作デモカセットをすかさずデカい音でかけていました(笑)。「これ誰の曲だ? お前のか?」とか、そう言われるのを待って(笑)、それで知り合いになってオフィスに呼んでもらって、デモ・テープを渡しまくりました。もちろんデュークのところ(※〈セックス・マニア)レーベル〉からも出したかったんだけど、ぼくはあそこまでダーティ・ハウスじゃなかったから(笑)。


働いていた楽器店の入口にて。

ヒロシ・ワタナベがDJデュークや〈セックス・マニア〉といっているのが面白いんですけど、カイトのイメージとは真逆だよね(笑)。

HW:カイトのサウンドは、小中学校のときに触れたニューエイジ・ミュージックにまで遡れる。あるいは映画音楽だったりとか。音でイメージが空想できるようなスタイルというか。クアドラの音楽はそのイメージに自分が解釈したテクノを融合させたイメージだったんです。クアドラ名義では1995年に〈フロッグマン〉から1枚目を出しました。その前にはコンピレーションにも参加していたんですよね。あの曲は、ボストンで学生だったときに作った曲です。ああいう、クアドラのイメージはとっておきながら、それとは別にニューヨークで自分が勝負したいと思うものを探求していくと、ハード・ハウスのスタイルだったんですね。

なるほど。面白いね。

HW:ぼくはニューヨークにいたけど、ガラージみたいなものにはいかなかったんですよ。さっきのヒップホップといっしょで、ガラージは日本人が勝負をかけても無理だろうと思っていたんですよね。あのグルーヴ感は、真似て作るものではないと。自分が勝負できるのはハード・ハウスだと。とにかく、ピエールの、じわじわ構築していくようなワイルド・ピッチ・スタイルが大好きでした。当時、ヒサさんのレーベル(〈キング・ストリート〉)からも、あの手法を取り入れた作品がリリースされていました。

しかし、DJデュークなんか、ポルノみたいなハウスじゃないですか(笑)。

HW:ラベルとかもひどいし(笑)。



ヒロシ・ワタナベのイメージとは著しく異なっている(笑)。

HW:現場でぼくが追い求めていたハードで熱いシーンと、ぼくがオリジナルで作品を出し続けた自分のイメージはけっこうズレているんです。

90年代半ばは人気がすごかったもんね。

HW:そうなんです。音はすごく良いんです! 

取材:野田努(2016年4月14日)

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