「Noton」と一致するもの

Helm - ele-king

 UKエクスペリメンタル界の貴公子、ルーク・ヤンガーによる何気に通算6枚めのフル・アルバムは、ふたたび古巣の〈パン〉から。キナ臭い政権下に迫りくるオリンピックの不協和音にバッチリ符号してしまうアルバム・タイトルの偶然も重なり、現在の日本全体を覆う不穏なサウンドトラックとしても聴いてしまえるのは恐ろしい。

 『オリンピック・メス』は、ヘルムのトレード・マークである多種多様なフィールド・レコーディングとアコースティック・サウンドをソースとするサンプリング・ループ、モジュラー・シンセによって丁寧に構築された作品で、その奇妙なサウンドの質感が渾然一体となって浮かび上がる不穏な世界を、これまでになく音楽的ダイナミズムに富んだかたちで仕上げられている。〈エッセティック・ハウス(Ascetic House)〉からカセット音源としてリリースされた前作は恥ずかしながら未聴なのでたしかなことは言えぬが、これまでの〈PAN〉や〈KYE〉からのアルバムを鑑みれば、その12インチで聴ける具象性と抽象性の絶妙なバランス、そして見事なまでにギリギリ非音楽にならない──それゆえに広がる世界には、4次元空間的感覚とでも呼ぶべきものがあった。まるで人間が存在しない、個としての意思が定点から主観で捉える世界ではない、意思が境界を越えて拡散してゆくような……。そこには、ヘルムのレコードのデザインをいくつか手掛けてもいるグラハム・ランキン(元シャドウ・リング)の音楽にどこか通じる感覚があったわけだが、本作には完全にルーク・ヤンガーの意思や感情、それを通してこの世界を捉える聴者の個と呼ぶべき感覚が存在する。まぁ自分で何を言ってるんだかわけがわからないけども、要はこのアルバムはヘルム史上もっともポップでエモーショナルであるわけだ。

 某メディアでは〈コンパクト〉のポップ・アンビエント・シリーズやルー・リードの『メタル・マシン・ミュージック』すら引き合いに出されているがわからなくもない。ルークいわく、近年のアイス・エイジ(Ice Age)とのツアーや彼を取り囲む人々の交流に感化され、ループ・ベースであった自身の音楽によりリズムを意識したとのこと。劇的な変化、という表現は的確でないにしても、音だけ聴かされたらヘルムって思わないかも。

 蛇足だが、ヒートシック(Heatsick)ことスティーヴン・ワーウィックとルークがかつて組んでいた恐ろしいアヴァン・ハーシュノイズ・ユニット、バーズ・オブ・ディレイ(Birds of Delay)はどうやら未完らしく、今後どういったかたちになるかわからないがケリをつけたいとのこと。こちらも楽しみだ。


思いきって行った北欧、
思いきり買った雑貨たち、
思いがけずつくったお店。
北欧雑貨の店“ Fika”をオープンした著者がおくる
買いつけの旅のすすめ。

愛しい「ひとつ」を見つけるために──
“買い物”を“買いつけ”に変える
具体的なアドバイスがたっぷり!

好きなことならいまからはじめましょう。
会社に勤めながらショップを建ててしまった
著者だからこその
愉快な失敗&体験談!

北欧雑貨“買い付け”旅行のススメ!素人でも、
英語が話せなくても、なんとかなる!
北欧旅行も買い付けもほとんど初心者、英会話も得意じゃない。
でも北欧雑貨を集めたい、お店を開いてみたい─。
これは会社勤めの普通の女子が、あるとき思い立って出かけてみた“北欧買付旅行”の道中記。
持ち物や服装から情報集めまで、著者自身のたくさんの失敗から書き起こす、あなたのための買い付けデビュー・ガイドです。

□ 北欧雑貨が好き
□ 北欧旅行をしてみたい
□ お店が開けたらいいなあ?

2 つチェックがつけば、あなたも“買い付け人”の素質じゅうぶん!
「店主になりたい」という漠然とした夢が、はじめて同然の北欧買い付け旅行に結びつき、会社勤めをしながらも気づけば自宅兼店舗まで建築、
ついには北欧雑貨の店“Fika”をオープンするにいたった著者による、“初心者さん限定”買い付け旅行指南。

*北欧との出会い *素人の素人による「買い付け」準備記録 *調べられる範囲での情報収集
  *「買い付け」の必需品 *買い付けファッションABC ! * 1 度めの北欧渡航“失敗”記録
*北欧の基本情報、代表的なメーカー紹介

詳細な記録と失敗談に学べ!
蚤の市、アンティークショップ、フリマ。まずは首都にしぼることを推奨/地図のつくりかた/ダンボール1 枚だけはトランクに入れておいて!
/服より緩衝剤/ホテル選びの失敗/店員さんの計算はあてにならない!/割れ物は割れます/交通機関のつかいかた

吉田ヨウヘイgroup - ele-king

「向こうからやってくる
あいつとは知り合いだっけ?
ああれ、分からない?
薄いブルーのシャツきてるよ」 “話を聞いたんだ”

 休みの日近所をブラつくと、特性のない男が向こうからやってくる。私はこのへんは休日ともなると人通りが多くてわずらわしいけれども、それも昼をまわってからで、いまはそうでもない。左手に区立の幼稚園と福祉施設がいっしょになった建物があり、反対側に古着屋が軒を並べるあいだの二車線ほどの道はゆるくカーブを描くが、歩道はふたりのひとがようやくすれちがえるほどしかない。私とその男はゆきかこうとしたとき、男はあっと声をあげた。
「先日はどうもありがとうございました! こんなところにもいらっしゃるんですね! やっぱり編集の仕事には日々のフィールドワークが大切なんですね!」
「いや、近所なんです」
 私はすわ、原理主義的な宗教かと警戒したが、勧誘でもひとちがいでもなさそうのは彼が私の仕事をごぞんじなのでわかる。そのとき私はとある雑誌の編集部につとめていて、ひとに会う機会がことのほか多く、もうしわけないが印象のうすい方はおぼえないこともある。私たちは数分のあいだ、穏当な話題を選び安全運転の会話をつづけ、やがて彼は「買い物にきたんですけど、ちょっとはやかったみたいです」といくらかふてくされ、ついで「もうちょっとこのへんをみてまわりますんでっ!」といって立ち去ったが、最後まで私はその男がだれなのか思い出せなかった。

 数日後、先日おこなった中途採用の面接の資料を総務担当者に返却としようと整理していたとき、履歴書のひとつに貼付した写真のなかで先日の彼が微笑んでいた。私は呆然とし、ついで「おまえなんて知らなーい」とザ・スターリン“虫”のフレーズを、ミチロウとデュオで心中で絶叫したのである。

 ことほどさように、吉田ヨウヘイの書く歌詞は記憶をよびさます。日常のひとこまをきりとったことばはなんの変哲もないが、凪いだ風情の光景は一点のゆらぎをもち、そこに共振する聴き手のうちにさざ波を立てる。もちろん歌唱も関係している。ブックレットをひっぱりだし歌詞だけつらつら眺めてもダメなんだな。独特のメロディラインに沿ったことばは促音を影のようにしたがえ、ときに急迫させる。たとえば“ユー・エフ・オー”、歌い出しの「そこで見たのは(中略)空を二つ」の文頭の「そ」が「そっ」に聞こえる音の乗せ方は譜面に記せない休符となり、歌は一瞬宙吊りになる。この曲はreddamのメイン・ヴォーカルの曲だが、男女混声の対比も『paradise lost, it begins』は見事である。若干のメンバーチェンジをへた本作では、TAMTAMのKuroがトランペットとコーラスで客演しており、コーラスは厚く彩りゆたかに前作よりその比重を増し、かけあうことでモノローグを対話劇に組みかえるが、シアトリカルといい演劇的と訳す、音楽に付される形容詞のほとんどが舞台の上の付帯的なで要素を指すようには吉田ヨウヘイgroupのそれは機能しない。ためらいと反問をふくむことばが歌になるとき、話者が分裂する、そのようになりたつ関係性を私は演劇的とさっきもうしあげたのである。

 関係の深まりは音にもあらわれている。ジョン・フルシアンテやエイドリアン・ブリューの亡霊(どっちも死んでないが)を背負った西田修大のギターはファンキーな刻みからブルージーなタメまで自在で、ついソロに耳をそばだててしまうが、西田修大の旨味はバッキングにあり、それは吉田ヨウヘイのもう一本のギターとのからみ、リズムとのからみ、管とのからみ、ようはアンサンブルのなかできわだってくる。というか、おそらくライヴと曲づくりとときの経過がバンドを成熟させたのだろう、管楽器やコーラスの入れ方など、バンド合奏ではお客さんになりがちなパートがこのアルバムでは前作以上にしっかり有機的に働いている。バスーンがなくなるとヘンリー・カウっぽさがなくなるのではと危惧したのだが、思えば彼らはさほどヘンリー・カウっぽくもなかった。それならば、ダーティ・プロジェクターズだが、それももうひきあいに出すこともないだろう。彼らは彼らそのものの声をもち、もちつづけるだろう。変わらないということではない。『Smart Citizen』と『paradise lost, it begins』をひきくらべて、あるいはそう思われる方もいるかもしれない。作品の視座と構成にはたしかに共通するものはあるにはちがいないが、延長線上にあることは退行を意味しない。それは私たちの日々が死ぬまで途切れないように途切れない。

My Morning Jacket - ele-king

 ブッシュ・シュニアの弟が出るとか出ないとか、アメリカが来年のことでソワソワしはじめているなと思っていたら、もはやアメリカを代表するロック・バンドのひとつと言っていいだろうマイ・モーニング・ジャケットが新作のシングルで「デカい決断はきみ自身でしないと」と主張していて、ついにやってくるオバマ時代の終わりにちょっとこじつけそうになってしまった。もちろんバンドにそんなつもりはないだろう。が、ともかくその曲、“ビッグ・ディシジョンズ”のブリッジにはMMJの最良の部分が抽出されていて、その10小節を聴くためだけに何度もリピートしてしまう。「やれ! やるんだ! きみが本当にほんとに、本気ならな! 後悔したくなかったら、我慢なんてするな!」……高らかに鳴らされるギターとともに上空へとよく伸びるジム・ジェームスの歌。このバンドはつまるところいつだって、人生は素晴らしいし、きみには何だってできると聴き手を励ましつづけてきた。そう書くと能天気に聞こえるだろうか? だが、バンドはそのことを少しも恥じていないとばかりに、相変わらず力を振り絞って演奏している。

 7枚めとなる『ザ・ウォーターフォール』でMMJは、あれこれやり過ぎてやや散漫な印象を残した前々作『イーヴル・アージス』、実験的でダークだった前作『サーキタル』から引き返し、ボナルー・フェスティヴァルで堂々たるライヴ・バンドとして君臨する彼ららしい音とともに再始動している。オープニング、“ビリーヴ(ノーバディ・ノウズ)”でエレキ・ギターがドライヴすれば、ジムが「その日は来た! 僕の心は開かれている! マイ、オー、マイ! 信じろ、信じろ、信じろ、信じろおおおおおお!!」と吠える。それが生きていることだと証明せんとばかりにドラムは叩きつけられ、ジャムは渦を巻く。
 とはいえ、もはや彼らがただの豪快なジャム・バンドでないことはファンはよく知っていることだ。つづく“コンパウンド・フラクチャー”では洒脱なシンセ・ファンクが聴けるし、その次の“ライク・ア・リヴァー”はアシッド・フォークだ。『Z』以降顕著なエレクトロニカやヒップホップへのジェームスの興味はここでも隠し味になっている。ハード・ロック魂はやや抑えられ、そのぶんサイケ度はグッと上がる。ジャケットの赤い滝を見ればいい。サイケデリックであるということは、その幻の向こうに何か理想を見ることではないかと、そのことを探索することではないか……という気分になってくる。少なくとも、ピンク・フロイドとレッド・ツェッペリンがケンタッキー州の熊に襲われたような、このバンドのパワフルなロック・チューンを聴いているあいだは。

 先のソロにもよく表れていたが、ジム・ジェームスのシンガーとしての幅もグッと増した。オルタナ・カントリー的な小品“ゲット・ザ・ポイント”の穏やかな歌もいいが、白眉はねじれたギターのメロディが悩ましい“シン・ライン”。陶酔的なコーラスとともにファルセットのジムの声は少しかすれ、弱さをふとこぼしてみせる。「これは愛することと時間を無駄にすること、その間の薄いラインなんだ」……それはフライングVをかき鳴らした無敵状態の彼の口からは出ない愛の言葉だ。それでもである、「誰もきみを愛していないよ……僕以外は」なんていう包容力を、このひとは捨て去ることはない。ただただレイドバックしていく終曲“オンリー・メモリーズ・リメイン”では彼のソウル・シンガーとしての一面も見せながら、甘い歌でこう告げる。「僕たちのこの世の身体は朽ちていくけれど、僕たちが分け合う愛は生き続けるんだ」。僕は、それがたとえ幻覚だとしてもその歌に溶けていく欲求に抗えない。

 もう一度、例のブリッジを聴きたいがために“ビッグ・ディシジョンズ”を再生する。コーラスはこうだ――「きみは優しくて誠実だけど、恐怖に縛られているんだ」。僕には、それが遠いアメリカに住むひとたちだけに向けた歌だとは、どうしても思えないのである。

CARRE - ele-king

 NAGとMTRというイカしたネーミングのふたりによる日本屈指のインダストリアル・ミュージック・デュオCARRE(ケアル)が、画家である近藤さくらに「絵を描くとき用にミックスを作ってほしい」と依頼されたことからはじまったという〈GREY SCALE〉なる試み。結果、ミックスではなくケアルの新曲が用意されることになったこの試み──いや、「試み」と呼ぶには両作家の表現にはあまりにも秘めたる共通点が多く、近藤のモノクロームの平面作品からゆるやかに見えてくる/聞こえてくる光沢のある陰り、冷たく熱狂する軋みは、まさにケアルの音楽そのものである。
なので、ここに摩擦と衝突のくり返しを期待するのは野暮な話であって、あるのは音の肌ざわり、そして、線と形の膚ざわりにこだわり抜いたケアルと近藤の意識の落ち合い。それが解体するのではなく伸び縮みしながらブレンドされ、目的を追い越してずるずるズレながら行ったり来たりする屈曲の連続にスリリングな醍醐味があるのだ。

 4月に恵比寿のKATAで開催されたエキシヴィジョン〈GREY SCALE〉展オープニング(なんと6時間にも及ぶライヴ+ペインティングを決行!)でのあれこれは倉本諒氏のライヴレヴューに詳しいので割愛させていただくが、いよいよケアル待望の新作であり、この展示の音楽をまとめた作品『GREY SCALE』がリリースされた。もちろんアートワークは近藤さくらによるものである。

 1曲め“Tin Reverb”から堂々たる金属的エレクトロニクスが打ち鳴らされ、ぬーっと目の前に灰色の光景が広がる。つづく“LFTM #1”ではうねるベースマシンの上を不穏なシンセが木霊しながらゆらり行き交い、まるでスロッビング・グリッスルの“20 ジャズ・ファンク・グレイツ”なんかを彷彿とさせる。そして3曲めの“Open”では、モジュラーシンセによるコズミックな音の粒が弾けてポコポコと転がり回り、その艶っぽいユーモアにこちらの耳も悦びの手をたたくではないか。

 ケアルと近藤さくらによる音と絵画の共同作業は、往復書簡という形でやりとりが行われ、3年もの時間を費やして完成されたというが、ここにある線の痕跡と騒音の記録にはその長き時間によって磨き抜かれた美しさと硬度がある。そして、そのインテンシティはアルバムの後半からますます顕著になる。リズムボックスとマシンの空っぽなビートによる立体的な折り重なりに膝をカックンとされる“Tepid Liquid”、カルトでカオティックな音響が妖しくプリミティヴな生命エネルギーを感じさせる密教音楽のごとき“Vertigo”、そして、本作のハイライトである“LFTM #2”では、低周波エレクトロニクスの快感に耳を揉みほぐされてとろとろになるところを、ピントを合わせるようにいぶし銀な旋律が立ち現れ、エッジーなミニマル運動が駆動する。ああ、機械になりたい……。

 ここには、まるで彼らが敬愛するドーム(ワイヤーのブルース・ギルバートとグレアム・ルイスによって創設されたポストパンク〜音響〜インダストリアル・デュオ)を偲ばせる辺境最先端の音楽を奏でつつも、古きよきインダストリアル・ミュージックの焼き直しに終わらない新しさがある。誤解を恐れずに言うと、音の質感こそ金属に付着した赤錆のようにざらついて不適でストレンジだけれど、組み立てられた音楽はまるで流麗なシティ・ポップを聴いているかのようにパーンと抜けがよいのだ。

 かつて、消費社会から産まれた都市の生理のいびつさを象徴した(とかなんとか書くとたちまち文章が大げさになりますよね)インダストリアル・ミュージック。日々アップデートを重ね(都合良く利用され?)、アンチテーゼであったはずの言葉そのものが大量消費されてしまい、いまやその実態を細かく把握することは至難の技である。でも、ケアルの音楽を耳にすると使い古された「インダストリアル」という言葉に、深くて重みのある灰色の光輝が甦るのを見とることができる。そして、どくどく胎動する即物的な機能美と筋の通った電気美学(彼らのステージ中央には、ルイジ・ルッソロのイントナルモーリよろしくメガフォン型の巨大スピーカーがそびえている!)──その粋な風情を漂わせるちゃきちゃきのインダストリアル気質に、退廃的ロマンティシズムの明るい未来を感じとることができるはずだ。

R.I.P. Ornette Coleman - ele-king

 私は朝起きるとコーヒーを淹れて、ベランダでタバコをふかしたのち、四十の声を聞き、だいぶガタがきた身体をほぐすために運動するときめているが、そのときかけるBGM選びは慎重を要するうえに困難をきわめる。なんとなれば、その日一日の気分を左右するからであるが、一日の気分なぞ起き抜けの頭にきめられてはたまったものではない。いきおいレコード棚とCD棚の前をうすのろのようにうろうろするハメになる。5分、10分はザラで半時間とはいかないまでもそれくらいかかることもあり、しぶしぶきめた音楽のせいで午前中がムダになることもしばしば、世の勤めびとにくらべるとおかなりお気楽な部類にはいるのである。

 今朝はたまたま、CD棚の南向きの面の右端上から3段目に目がいった。水谷さん、灰野さん、ボアダムス、ザッパとかクレイオラ、アイラーやベイリーやマイルスのジャズ関係にまじって、ケージやサティやフルクサス系がごっちゃになった私の音楽体験の原点にあたるひとたちのコーナーである。私はそこからなんの気なしに『ソングX』を抜いた。パット・メセニーとオーネット・コールマンとの双頭作で、リリースから20年経ったのを記念した2005年のこのデラックス・エディションには未発表曲を数曲おさめている、しかも冒頭に。これがカリプソを思わせる千鳥足の軽快なナンバーで、萎びた身体でする運動にはもってこいだったのである。オーネット、チャーリー・ヘイデンとメセニー、ディジョネットの相性もわるくない。デナードはいらない気がするが、それは本作にかぎったことではない。ところがオーネットとデナードの関係を、湯浅さんは『音楽談義』で、『The Empty Foxhole』から親子の会話として読み解かれ、目から鱗が落ちた。坂田明さんは『ジム・オルーク完全読本』で、ニューヨークでオーネットに会ったときの逸話とともに「どんなことも3年やれば世の中に認めてもらえる場合がある」下積み時代、オーネットのこのことばに賭けた、とことばあらたに語った。『ソングX』の未発表テイクはこのアルバムがメセニー主導であり、オーネットすぎたのではぶいたのだろう。そこにはフォルムはあるものの外郭は軟体化しているが、恣意性によるものではなく、内在するものが、自生するように増殖し、かたちを変える。私は運動を終えたてつづけに聴いた『Dancing In Your Head』『Body Meta』『Virgin Beauty』でもその印象は変わらなかった。おそらく『ジャズ、来るべきもの』からジャズの十月革命の季節をはさみ、ブルーノートのゴールデン・サークルのライヴ盤をいま聴き直しても変わらないだろう。フリー・ジャズといいながらデタラメでもきまりきった型でもない。おそらくオーネットしか出せない音列とニュアンスがあり、彼はそれをハーモロディックと呼び、作曲と即興の体系におとしこもうとしたが、むしろそれは両者の中間領域の階調のようなものであり、この複雑なグラデーションは理論化にそぐわない、オーネット・コールマンの身体そのものであり、彼と彼の身体の重力の圏域にとらわれた共演者たちのもたらすものであり、根源的にジャズだった。その身体は喪われた。

 ムシのしらせなどというものがあるなら、これがそうだったのだろう。深夜、仕事のためにキング・クリムゾンのライヴ音源を聴きかえしながら、即興ならオーネットのほうが、いやベイリーは――とむつむつ考えていたら、ケータイが光った。着信を告げる点滅で、開くと「24通の未読メール」とある。すわ迷惑メールか、いかがわしいサイトをみた憶えもないのに、と焦って確認したら、保坂さんと湯浅さんとのやりとりが同報されていた。そこでオーネット・コールマンが死んだのを知った。私信なので引用しないが、ひとつだけ。「死ぬことと遠すぎる」と湯浅さんは書いた。そのとおりです。

 6月11日、オーネット・コールマンはニューヨークでこの世を去った。「85歳。テキサス州出身のアルトサックス奏者。伝統的な音楽技法にとらわれず、より自由な表現形式を可能にした「フリー・ジャズ」をリードした」とAFP時事は報じている。くりかえす。その身体は喪われた。しかし自由は死せず、と私は板垣退助みたいことをいいたいのではない。というか、ほんとうに音楽の自由は死んでいないのか? 目がさめたらもう一度考えてみようか、音楽そのものとなり、ついに死ぬことと遠くなったオーネット・コールマンの音楽を聴きながら。

2015年6月12日払暁

M.E.S.H. - ele-king

 漂白のポスト・インダストリアル・テクノ。2014年に、ベルリンのメッシュが同国の実験電子音楽レーベル〈パン〉からリリースしたEP『セスィアンズ』を聴いて、私はそのような印象を持った。光の炸裂/漂白された光/記憶/フラッシュバックする光/光の中心/空虚。

 メッシュは、ベルリンを拠点としつつ活動を繰り広げているDJ/プロデューサーである。彼はベルリン・アンダーグラウド・シーンで知られるジャニスのメンバーであり、これまでもさまざまなミックス(音源)や、〈ディッセンブラー(Dyssembler)〉などからソロEPをリリースしている。昨年、〈パン〉からリリースされた『セスィアンズ』は、レーベルの人気・魅力とあいまって彼の名声を一気に高める作品になった。
 じじつ、『セスィアンズ』のトラックにうごめいているノイズや具体音の接続、非反復的なビート、やわらかい電子音は、まるで白い光のような独自の質感を獲得していた。これはいったい何か? このようなエクスペリメンタル・テクノは稀だ。いわばポスト・インダストリアル・テクノ?
 音から生まれる驚愕の波動はいまなお続き、この2015年、日本の〈メルティング・ボット〉からリミックスと未発表曲を加えた『セスィアンズ』日本限定CD特別盤がリリースされた。〈パン〉関連のアーティストとしては昨年のリー・ギャンブル『コッチ』国内盤も記憶に新しい。

 さて、この『セスィアンズ』を、ひとことでたとえるなら「歴史の終局地点で鳴るポストモダンの光景のサウンド・トラック」といったところか。その音は、先に書いたようにダークというより漂白。いわば白昼夢の光。陽光などではなく「爆心地の白い光」のような印象だ。2010年代、アンダーグラウンドな空間で鳴らされたダークな音たちは、いつのまにか歴史の極限地点で、グランド・ゼロのように白く、巨大に発光している。
 このアルバムは2014年にリリースされたルーシーのセカンド・アルバム『チャーチズ・スクールズ・アンド・ガンズ』(リリースは〈ストロボスコピック・アーティファクツ〉から)に近い感触がある。音楽的にまったく似てはいないが、聴いたとき印象が近いのだ。いまにして思えば、『チャーチズ・スクールズ・アンド・ガンズ』は、ポストモダンの荒野に広がる光景を白昼夢のように描き出したポスト・インダストリアル・テクノの先駆的なアルバムであった。まるでガス・ヴァン・サントの『ジェリー』(2002)のように歴史の停滞地点を私たちの聴覚に提示したのだ。そもそもアルバム名からして同監督の『エレファント』(2003)を想起してしまう。

 あらゆるものが出そろい、あらゆる歴史が終局し、あらゆるものが飽和し、あらゆるものが停滞し、あらゆるものが無意味になったインターネット環境以降の世界において、ポスト・インダストリアル・テクノは、歴史の停滞、世界の暗さを電子音楽の中に炸裂させ、光のように飽和させる。その音響とビートのむこうに輝く爆心地のような明るさは、どこか世界の終わり(のムード)を反映している。ポスト・インダストリアル・テクノは歴史の最終地点であり、終局であり、空白地点のムードを醸し出す。
 そして、だからこそ、ポスト・インダストリアル/テクノはサウンドの実験空間=アート・スペースとして機能しているともいえる。たとえば〈パン〉や〈ストロボスコピック・アーティファクツ〉〈アントラクト〉などは、それぞれ電子音楽をベースにしつつも、テクノと現代音楽とアートのマリアージュをめざす(側面がある)。その結果、彼らの生み出すトラックは、アンダーグラウンドなスペースを最先端のアート空間に生成変化させてしまう力がある。〈パン〉からリリースされたジェイムス・ホフの『ブラスター』や、〈ストロボスコピック・アーティファクツ〉のエクスペ/アート系サウンド・サブ・レーベル〈モナド〉の作品たちを聴いてみれば即座にわかるはずだ。また、〈アントラクト〉の諸作品、たとえばニコラ・ベルニエの『フリークエンシーズ(シンセティック・バージョン)」』なども重要な作品といえる。彼ら(の音)の特徴は、「アート」であることにまったく躊躇がない点だ。「アート」とは、世界の境界線と輪郭の明確にする重要な行為なのだ。

 むろん現代音楽とテクノの交錯は、今日にはじまったことではないが(90年代におけるピエール・アンリ『現代のためのミサ』=“サイケロック”の再発見)、それをサンプリング・ネタ(シュトック、ハウゼン&ウォークマン 的。「モンド・ミュージック」の時代としての90年代)としてではなく、世相を捉えたアート=音楽/音響的構造として再生成する試みが非常に現代的なのだ。
 また、ビートを安易に反復させず、鳴っていないビートも含めた律動をリズムとしてトラック内に圧縮させていく手法は、情報過多の時代を生きる今の若い世代の耳(と体)も満足させるはず。
 つまり、メッシュのトラックは、そんな2015年の現在を象徴しているのだ。アルカやOPN以降ともいえるポスト・インターネットなミュージック・コンクレーティズム・トラックは、インダストリアル/テクノ勢の中でも群を抜いているといっていいし、同時に非常に実験的でありながらテクノ機能性(というより機能性の拡張)を実現している点も注目に値する。たぶん、DJとしての彼のスキルが生かされているのだろうとも想像できる。

 ともあれ1曲め“セスィアンズ”を聴いてほしい。この非連続的・非反復的なサウンドと接続とリズムの素晴らしさ。続いて、より不穏・性急なキックが鼓動を煽る2曲め“インターディクター”、ミニマルなビート/フレーズとアンビエントな持続音とミュージックコンクレート的なサウンドがイマジネティヴな3曲め“キャプティヴェイテッド”、ダウンビートでミニマルなフレーズが幻想的な4曲“グラッセル・フィニッシャー”、ガサゴソとした具体音や淡い持続の交錯から静かに幕を開けるノンビート・トラック5曲め“インペリアル・スーアーズ”など、「新しい」電子音楽ならではの刺激がここにはある。個人的には不穏なアンビエンスが生成するこの“インペリアル・スーアーズ”に、“セスィアンズ”とともにとても惹かれた。
 6曲め以降は、日本盤のスペシャル・トラックだ。リミックスには、グルーヴストリート、盟友ロティック(ジャニス)、ロゴス、DJヒートらが参加し、“セスィアンズ”を独自の色に料理している。どのトラックもインダストリアルとクライムなどのベース・ミュージック、いわばアートとストリートとの関連性を示唆する見事なものだ。そしてラストはメッシュによる未発表トラック“トレンド・ピース”。
 この日本盤をまとめて聴くと、オリジナル・トラックとリミックス・トラックの交錯によって、電子音楽の現代的境界線が浮き彫りになってくるように思えた。ポスト・インダストリアルとストリート、さらにインターネットとアート。それぞれの境界線は、メッシュとその周辺のアーティストたちにおいては初めから融解しているのだろう(メッシュはアーティスト、アレクサンドラ・ドマノヴィックとのコラボレーションを行っている)

 メッシュの音は、そのようなポスト・インターネット的な交通を経由し、閃光のような漂白的空間、まるで「爆心地」の光のような白い空間を聴かせてくれるのだ。まるで大友克洋『アキラ』の東京崩壊シーンのように。それはベルリンから東京にもたらされるグランド・ゼロの閃光。そんないささか物騒なものいいも、〈パン〉というレーベルが持っている超現実的な世界観ならば許容してくれるのではないかと思う。そもそも『アキラ』の世界では東京崩壊以降も、健康優良不良少年たちはたくましくも駆け抜けたではないか。「廃墟」以降の世界に広がる(アート)ストリート。重要な点はそこだ。
 「世界」が壊滅しても、そう簡単に世界は終わらない(終われない)。昨年から今年にかけて〈パン〉などの電子音楽レーベルからリリースされる作品からは、そんな「以降」の世界を強く意識させてくれるものが多かった。そう、現代の「新しさ」とは、壊滅的状況の向こうにあるものなのかもしれない。

 「ブラインド・ジョー・デス」とは2001年に他界したギタリスト、ジョン・フェイヒー(と映画ではこの表記を使っているので、ここではこう記す)の異名であり、彼はこの名を彼の好きなブラインド・ウィリー・ジョンスン、ブラインド・ボーイ・フォー、ブラインド・ジョージ・ハガートといった戦前の盲目のブルースマンたちに借り受けた、と作中、そのコメントを引用している。

 とはいえ、フェイヒーがブルースに関心をもったのは後年で、日本が敗戦を迎えたいまから70年前に、メリーランド州タコマパークに移り住んだ彼が音楽にめざめたきかっけはカントリーやブルーグラスだった。カントリーウェスタンを演奏する子がたくさんいたからね。それがやがて南部に傾倒したのは、ギターという楽器の欲望にしたがったのか、指が求めたのか、いずれにせよ、フェイヒーの遍歴に筋道はなく、彼が設立し、インディペンデント・レーベルの嚆矢とみなされることも多い〈タコマ・レーベル〉にせよ、すくなくともビジネス的な展望によるものではないことは、別エレ『ジム・オルーク完全読本』に再録したジムとフェイヒーの対談でもあきらかである。というより、なまなかな理路に沿わないことがジョン・フェイヒーの存在をナゾめいたものにした一因であり、『ブラインド・ジョー・デスを探して』では、ピート・タウンゼント、ステファン・グロスマン、キャレキシコのジョーイ・バーンズ、ノー・ネック・ブルース・バンドのキース・コノリーら、世代も音楽性も異にするミュージシャンやジャーナリスト、レーベル関係者がフェイヒーとの逸話や魅力を語るのだが、語るほどに実体をベールがつつむように感じさせるのは、カントリー、ブルース、バルトーク・ベラやチャールズ・アイヴズやハリー・パーチなどの現代音楽からノイズにいたる音楽史を横たえた、生き馬の目を抜く都会と生き馬くらいしかいない田舎からなるアメリカのフォークロアを、フェイヒーは体現するからなのかもしれない。

 望むと望まざるとにかかわらず、ナゾは奥深く、いまだ解けない。私はジョン・フェイヒーは彼が自身をなぞらえた旧約聖書中の亀よりもそれはゼノンのいうアキレスと亀にちかいと思う。ひとつのパラドックスであり、聴く者にパララックスを求める。このたびの『ブラインド・ジョー・デスを探して』上映+ライヴはその掟の門の前に私たちを運んでくれることでしょう。(松村正人)

■ブラインド・ジョー・デスを探して ジョン・フェイヒーの物語

会場:渋谷UPLINK

6月13日(土) 15:30開場 / 15:45開演(17:45頃終演予定)
トーク+上映(出演:ジェイムス・カリンガム監督+湯浅学+樋口泰人)
予約¥1,800 / 当日¥2,300(共に1ドリンク¥500別)

6月14日(日) 16:00開場 / 16:30開演(18:30頃終演予定)
LIVE+上映(出演:ダスティン・ウォング)
予約¥2,500 / 当日¥3,000(共に1ドリンク¥500別)

6月14日(日) 19:30開場/20:00開演(22:15頃終演予定)
LIVE+上映(出演:武末亮、牧野琢磨)
予約¥2,500 / 当日¥3,000(共に1ドリンク¥500別)

6月15日(月) 19:00開場/19:30開演(22:00頃終演予定)
LIVE(出演:ジム・オルーク)+上映+トーク(出演:ジェイムス・カリンガム監督)
予約¥2,500 / 当日¥3,000(共に1ドリンク¥500別)

※ご予約はUPLINKのHP(https://www.uplink.co.jp/)よりお願いします

泉まくら - ele-king

 誰でもできる、というのが音楽のいいところである。うまいとかへたとかは二の次で、とにかくやってみればいい。マイク1本あれば、いや、公園や路上でおこなわれるサイファーのように、マイクなどなくとも成立してしまうラップは、そんな「誰でもできる」の最たる例である。マミー・Dが言うように、「猫踏んじゃったすら弾けないが、韻踏んじゃったらおまえもライマー」(ライムスター“ザ・グレート・アマチュアリズム”)なのだ。
 「普通の女の子」を標榜する泉まくらの登場は、ラップにおける「誰でもできる」性のひとつの成果だと考えるべきだ。男性中心かつ黒人中心という印象が──たとえそれが実体と乖離したものであったとしても──長らくあったヒップホップの世界において、「普通の女の子」による日本語のラップがリアリティをもちえていることは、やはり特筆すべきことである。いや、じつを言うと、「普通の女の子」というコピーの流通のしかたにはあまり感心していない。むしろ、「普通」という、あまりにも雑なカテゴライズを相対化ないしは無化するのが、ラップという営みではないのか。泉まくらが真に問いかけるのは、「普通の女の子」などどこにもいないのだ、という当然ながらも忘れがちな事実ではないのか。「普通」という雑なカテゴライズのなかには、いくとおりの特異性が存在するのだ、と。

 したがって、泉まくらのラップは共感を阻む。いや、リリックの内容に対して部分的に共感することはあるかもしれないが、それをラップする身体の唯一無二性が、最終的に共感を阻む。『愛ならば知っている』を聴いて、泉まくらのラップがそれまでの作品以上に多彩でゆたかになっていると感じた。端的に言うと、格段にスキルアップしたと感じた。とくに、“Circus”における変幻自在のフロウが鮮烈だった。Olive Oilのソウルフルかつ少し変則的なビートとしっかり響き合っていて、素晴らしい曲である。本作のハイライトだ。スキルフルなラップとトラックが、安易な共感の輪に閉じ込められることを拒む。

 〈術ノ穴〉というレーベルも一筋縄にはいかないレーベルだ。とくにトラックのリズム狂的なこだわりは、レーベル自体の特色になっていると。これまで泉まくらは、キャラクターとしての強度でそのようなトラックに対抗していたと思っていたが、本作を聴いて、考えを少し修正した。とくに本作において、ラップと歌を行き来するような泉まくらのフロウは、それだけで、一筋縄ではいかないトラック群と拮抗する。キャラクターに頼らない。もちろん、キャラクターに頼ることが悪いことではないし、ヒップホップにはおうおうにしてキャラクターの魅力がついてまわる。泉まくらのキャラクターとしての魅力は、まったく損なわれない。しかし、もし、泉まくらのラップが、女性アイドルのラップと並列的に聴かれるような現状があったとしたら、両者が少なからず異質なものだ、ということは指摘しておきたいのだ。萌え的な魅力とは、まったくちがう。

 だとすれば『愛ならば知っている』は、なにより、多彩なトラックメイカーたちとの交歓の場として捉えるべきである。Mitsu The Beatsのボサノヴァ調のトラック、YAVのドラマティックなトラック、食品まつりの変態的だがアーバンなトラック、nagacoのポップで抒情的なトラック、いかにもLIBRO的な優しいヒップホップのトラック。このような多彩なトラックに、泉まくらがどのような歌/ラップを乗せるかということこそが、本作のいちばんの聴きどころである。個人的には、Olive Oilによる2曲(“Love”“Circus”)がとても良い。トラックとラップが、相互に魅力を引き出し合っているようで、幸福な2曲である。そして、そのような交歓のさなかに表題曲で披露される、堂々たるポエトリー・リーディング。本作は、泉まくらという歌い手/ラッパーの特異性が、いかんなく発揮された作品である。

 「普通の女の子」というキャッチコピーを、単なる共感の材料に使ってはいけない。歌詞のみに目を奪われて、歌い手/ラッパーの特異性を捨象してはいけない。安易に共感の輪に閉じ込めてはいけない。とくに、本作以降は。本作において泉まくらが示すのは、その共感の輪を突き破って表出する特異性のほうである。泉まくらは、ラップすることによって、「普通」ではいられなくなっている。本作において、「普通の女の子」によるラップは、そういう事態として捉えなくてはならない。スキルフルな『愛ならば知っている』は、「普通」からの決別を高らかに謳っているのだ。「他人の目ってくだらない/人知れず傷つき/心奮い立ち 向かう先に幸信じ/走って 走って遠くへ もっと!」(“Circus”)と。

Nils Frahm - ele-king

 バンドキャンプなどでモダン・クラシカル(ポスト・クラシカル)な曲や音楽家を探索していると、明らかに「ニルス・フラーム以降」とでもいうべき音楽家に遭遇し、彼の影響の大きさを痛感することになる。
たとえば、フランス・ボルドーのジュリアン・マーシャルや、ニュージーランドのリーヴァイ・パテルらの楽曲を聴いてみよう。彼らの音楽からは、間違いなく「ニルス・フラーム以降」の刻印を聴きとることができるはずだ(彼らの創る音楽は十分に美しい)。
 もちろん、「ポストクラシカル」という言葉じたいは広く知れ渡っているし、すでにひとつのシーンも出来上がっているのだから、その立役者ともいうべきニルス・フラームから影響を受けた音楽家がいても、まったく不思議ではい。
しかし何より重要なのは、それら音楽家たちがニルスの曲調のみならず、彼独特のサウンドに影響を受けていると思える点である。音楽性のみならず、録音・音響にも影響を受けていること/影響を与えていること。そこにニルス・フラームという音楽家と、その影響力の新しさがある。

 ニルス・フラームのピアノ・サウンドといえば、ピアノの内部にむけてマイクを極端に近づけて録音したような音がまず思い浮かぶ。ピアノの打鍵と連動して、細やかに動くハンマーの音。それはピアノが鳴っているという気配の音だ。ピアノの内部でピアノの音を浴びるような顕微鏡的な音の横溢と、すぐそばで彼がピアノを演奏しているような気配。
この二つが、ニルスの瞑想的なピアノのインプロヴィゼーションと交錯するとき、ニルス・フラームの音楽は私たちの心に深い感情を生み出すことになる。ポストクラシカルの世界を超えて、彼の音楽/録音が聴き手にも音楽家にも強い影響を与えているのは、サウンドが引き起こすイマジネーションの強さゆえだろう。

 本作『ソロ』は、2015年のニルス・フラームの新作である。このアルバムは、まず彼が定めた「ピアノ・デイ」に特別サイトから配信され、その後にLPとCDがリリースされた。ちなみにピアノの鍵盤が88鍵であることから毎年88番目の日を「ピアノ・デイ」としたという(今年は3月29日)。そしてアルバムの曲も「8」にちなんで「8個」のモチーフを元に即興で演奏した曲が収録されている。
 しかし、本作を聴いた人は、何よりその音の質感や雰囲気に驚くのではないか。この音は本当にピアノの音なのか。それとも何か別の弦楽器の音なのか。いや、しかしこの響きの芯は、まさにピアノの音だ……というように。聴いたことがあるようでない音。ピアノが弦楽器であることを、チェンバロではなく、モダンピアノで改めて確認するかのような独自の聴取体験がここにある。

 種明かし(?)をすると、この作品の楽曲は「世界最大のピアノ」とよばれる「クラヴィンス M370」で演奏されているのだ。巨大な理由は、普通のピアノより低音弦を長くしたから。横に設置するのではなく、パイプオルガンのように壁に面して作られている。この構造・形状は、低域も含めて、ピアノが本来持っている音を実現するためのものという。本作特有のサウンドは、「クラヴィンス M370」によるところが大きい(むろん、ニルスの録音の力もあるはずだが)
 そして、このピアノを作った人が、知る人ぞ知るピアノ製作者デヴィッド・クラヴィンスである。彼はニルスと友人であり、このアルバムの収益はデヴィッドが制作している究極のピアノ「クラヴィンス M450」の制作に当てられるという。つまり「夢のピアノ」実現のためのプロジェクトであり、音楽の夢を共有する音楽家とピアノ製作者との友情の証のような計画でもあるのだ。
しかし、これは単にプロジェクトやコンセプトだけの問題だけではない。この友人への深い敬意と親密さは、ニルスの音楽の重要なコアに思えてならないのだ。そもそも彼の出世作『ザ・ベルズ』(2009)も、友人ピーター・ブロデリックとともに作られ、アートワークにはニルスの父によって撮影されたニルスの写真(満面の笑み!)が使われてはいなかったか。
 ニルス・フラームの音楽・演奏には、どんな場所(教会であろうとスタジオであろうとコンサート会場であろうと……)でも自宅の居間でくつろぎながら、家族や友人たちをもてなすような深い親密さがある。じじつ、この巨大なピアノで演奏される音楽・音響もまたとても優しげで、親密ではないか。私は、まずその点に感動する。

 1曲め“オード”の冒頭、わずかな沈黙の後、深い祈りのように弾かれる和声。そのコード・モチーフは繰り返しながら聴き手の心にゆったりと浸透していく。ピアノ、弦の響きに耳も潤う。2曲め“サム”以降も、モチーフを繰り返しながら、そこに微かなインプロヴィゼーションが加味され、リスナーの感情の襞に浸透するように、ときにドラマチックに、ときにミニマルに音楽は展開する。感情と静寂の往復でもいうべき楽曲たち。ニルスは旋律と和声という言葉を用いることで聴き手の心に語りかけてくる。その音楽を包み込む空間と音響の素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。
そして6曲め“ウォール”で音楽は大きく変わる。力強いミニマル・ミュージックが展開するのだ。光が点滅するような演奏・音楽・音響には、彼のエレクトロニクス・ミュージック作品的な側面ものぞかせる。つづく7曲め“イマース!”は強烈な全曲を受けて、彼にしては珍しいジャジーな演奏を展開。これがゆっくりと熱を覚ますような曲でじつに良い。
ラスト8曲め“フォー・ハンズ”の華麗な花びらのようなミニマリズム! この曲/演奏は、まるでピアノと音響の別領域とでもいうべき素晴らしさ。軽やかな羽毛のような、春の日差しのような、夢の中のような、柔らかい祈りのような音楽。ドラマチックでいて静寂であり、エモーショナルであり、同時にスタティックでもある。

 そう、ニルス・フラームの音楽は、家族や友人たち、そして私たち聴き手たちとの「奇跡のような遭遇」に向けられている。本作も同様だ。なんという安らぎ。なんという親密さ。彼の音楽/音響が、音楽家にも観客も強い魅力を放つのは美しい演奏も、録音も、その音楽すべてが、聴き手への深い信頼に捧げられているからではないか。だからこそ私たちリスナーは彼の音楽を愛し、親しい友人から送られてくる手紙のように、その新作を待ちわびているのだろう。

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