Home > Reviews > Album Reviews > 泉まくら- 愛ならば知っている
誰でもできる、というのが音楽のいいところである。うまいとかへたとかは二の次で、とにかくやってみればいい。マイク1本あれば、いや、公園や路上でおこなわれるサイファーのように、マイクなどなくとも成立してしまうラップは、そんな「誰でもできる」の最たる例である。マミー・Dが言うように、「猫踏んじゃったすら弾けないが、韻踏んじゃったらおまえもライマー」(ライムスター“ザ・グレート・アマチュアリズム”)なのだ。
「普通の女の子」を標榜する泉まくらの登場は、ラップにおける「誰でもできる」性のひとつの成果だと考えるべきだ。男性中心かつ黒人中心という印象が──たとえそれが実体と乖離したものであったとしても──長らくあったヒップホップの世界において、「普通の女の子」による日本語のラップがリアリティをもちえていることは、やはり特筆すべきことである。いや、じつを言うと、「普通の女の子」というコピーの流通のしかたにはあまり感心していない。むしろ、「普通」という、あまりにも雑なカテゴライズを相対化ないしは無化するのが、ラップという営みではないのか。泉まくらが真に問いかけるのは、「普通の女の子」などどこにもいないのだ、という当然ながらも忘れがちな事実ではないのか。「普通」という雑なカテゴライズのなかには、いくとおりの特異性が存在するのだ、と。
したがって、泉まくらのラップは共感を阻む。いや、リリックの内容に対して部分的に共感することはあるかもしれないが、それをラップする身体の唯一無二性が、最終的に共感を阻む。『愛ならば知っている』を聴いて、泉まくらのラップがそれまでの作品以上に多彩でゆたかになっていると感じた。端的に言うと、格段にスキルアップしたと感じた。とくに、“Circus”における変幻自在のフロウが鮮烈だった。Olive Oilのソウルフルかつ少し変則的なビートとしっかり響き合っていて、素晴らしい曲である。本作のハイライトだ。スキルフルなラップとトラックが、安易な共感の輪に閉じ込められることを拒む。
〈術ノ穴〉というレーベルも一筋縄にはいかないレーベルだ。とくにトラックのリズム狂的なこだわりは、レーベル自体の特色になっていると。これまで泉まくらは、キャラクターとしての強度でそのようなトラックに対抗していたと思っていたが、本作を聴いて、考えを少し修正した。とくに本作において、ラップと歌を行き来するような泉まくらのフロウは、それだけで、一筋縄ではいかないトラック群と拮抗する。キャラクターに頼らない。もちろん、キャラクターに頼ることが悪いことではないし、ヒップホップにはおうおうにしてキャラクターの魅力がついてまわる。泉まくらのキャラクターとしての魅力は、まったく損なわれない。しかし、もし、泉まくらのラップが、女性アイドルのラップと並列的に聴かれるような現状があったとしたら、両者が少なからず異質なものだ、ということは指摘しておきたいのだ。萌え的な魅力とは、まったくちがう。
だとすれば『愛ならば知っている』は、なにより、多彩なトラックメイカーたちとの交歓の場として捉えるべきである。Mitsu The Beatsのボサノヴァ調のトラック、YAVのドラマティックなトラック、食品まつりの変態的だがアーバンなトラック、nagacoのポップで抒情的なトラック、いかにもLIBRO的な優しいヒップホップのトラック。このような多彩なトラックに、泉まくらがどのような歌/ラップを乗せるかということこそが、本作のいちばんの聴きどころである。個人的には、Olive Oilによる2曲(“Love”“Circus”)がとても良い。トラックとラップが、相互に魅力を引き出し合っているようで、幸福な2曲である。そして、そのような交歓のさなかに表題曲で披露される、堂々たるポエトリー・リーディング。本作は、泉まくらという歌い手/ラッパーの特異性が、いかんなく発揮された作品である。
「普通の女の子」というキャッチコピーを、単なる共感の材料に使ってはいけない。歌詞のみに目を奪われて、歌い手/ラッパーの特異性を捨象してはいけない。安易に共感の輪に閉じ込めてはいけない。とくに、本作以降は。本作において泉まくらが示すのは、その共感の輪を突き破って表出する特異性のほうである。泉まくらは、ラップすることによって、「普通」ではいられなくなっている。本作において、「普通の女の子」によるラップは、そういう事態として捉えなくてはならない。スキルフルな『愛ならば知っている』は、「普通」からの決別を高らかに謳っているのだ。「他人の目ってくだらない/人知れず傷つき/心奮い立ち 向かう先に幸信じ/走って 走って遠くへ もっと!」(“Circus”)と。
矢野利裕